木張り床を踏みしめる無数の轟音と、鋭い風切り音が道場の中を支配していた。それに追従するが如く、硬いもの同士がぶつかり合っているような硬質的な音が幾つも鳴り響く。「はぁああああアアアアッ!!」自分の耳朶を相手の咆哮が強く打った。相手の猛攻を躱し、往なし、自己の命を繋ぐ。それでも避け切れないときは、手にした木刀と手甲で防いだ。衝撃に腕が麻痺しそうになる。「おっ! ッぐうっ!?」防ぎ切れなかった肘を右肩に喰らった。喰らいつつ、逃げるように転がって距離を取る。しかしこちらが右手と両の足で体勢を立て直したときには、既にあちらは至近まで追って来ていた。目の前で袈裟掛けに振り下ろされる刃。それを支えの一つである右手の力をわざと抜くことで上半身を床スレスレにまで落として躱す。目の前にあるのは、床を踏みしめている相手の左脚。それを脚だと認識するより前に、既に僕の左手は握った小太刀を一閃していた。地を這う軌道で繰り出されたそれを、それでも相手は跳躍一つで回避してみせた。立ち上がり、仕切り直すように畳三枚分ほどの距離で向かい合う。「フッ……フッ……フッ……」「……………………」自分の吐く息が荒く、それに合わせて肩が上下する。頬から顎へと伝う汗が不快の極みだ。然して息を乱さずに、せいぜい額から汗を流す程度で済んでいる相手を見て、内心で舌打ちする。せめて気迫で負けぬようにと睨みつける眼に力を込めた。同時に駆け出す。持った小太刀を薙いだ。再び響く轟音。あとはそれの繰り返し。しかしそれでも、二十や三十、もしくはこれまでの何万何億の剣戟の中で見えてくる相手の太刀筋のようなものがある。癖、と言っても良いかもしれない。───あるいは、“隙”とも。「シャッ!!」見えた隙間へと木刀を通す。放たれた斬り下げが、相手の肩口へと吸い込まれて───あっさりと躱された。(───囮ッ!?)そう悟った瞬間右手の甲に衝撃が走る。小太刀が己の手を離れ、軽い音と共に床に在った。刀を握っていた拳を、強かに打ち据えられたのだ。落ちた武器を拾っている暇は無かった。こちらの米神を狙った蹴りを右腕を指し込んで防ぎ、それでも防ぎ切れなかった衝撃が頭部を突き抜ける。僅かに脳が揺れたが、ふっ飛ばされたことで距離は開いた。立ち上がって、相手を探す。───いつの間にか、目前にまで迫って来ていた。こちらの懐に潜り込んでからの、追撃の斬り上げ。咄嗟に十字に構えた両腕で受け───、「……ここまでだな」「……ですね。参りました」───受けること叶わず、顎下に突きつけられた切っ先。恭也さんからの降参勧告に、両腕をホールドアップして素直に同意する。ということで今日の手合わせもまた、僕の敗北ということで幕を閉じたわけだ。「あーばー……痛ってぇえええー」呻きながら道場の隅にぶっ倒れるようにして横たわる。何と言うかもう、全身に力が入らない。春先のひんやりとした床から頬を伝わる感触が非常に心地いい。そんな僕の横には、現在この道場にいる最後の1人である恭也さんがいつの間にかやって来ていた。今日は美由希さんは遠地の剣術道場へと遠征、士郎さんは翠屋へ出勤しているので、ここに居るのは僕と恭也さんだけなのだ。彼は傍らにある道場の壁を背にして立つと、呆れたように溜め息を一つ吐いて、「お前は攻撃の仕方がいちいち変則的すぎるんだ。真正面から行くことが怖いのは分かるが、もう少し子供らしく我武者羅になったらどうなんだ?」「あー……いや、自分でもそういう姑息な手が多すぎるってことは自覚してるんですけどね。どうにもこういうやり方……考え方、かな? が癖になってるみたいで。なまじ“眼”が良いせいで、相手の攻撃が目で追えてしまうのもそれに拍車を掛けてるんでしょうねぇ。見えてるってことは、それだけ手段を考える暇があるってことですから」僕自身が根っこの部分では自分のことを強いとは思っていないことも、その考え方の増長に一役買っているのだろう。何よりもまず、どうせ自分が真正面から正々堂々と戦って勝てる訳がないという思考が先に立ってしまうのだ。そりゃあ卑怯な手段も身に着くというものである。「そこまで自覚しているのなら、もう少しは治しようもあるだろうに」「たはは……」「まあ確かに、お前の場合はこちらの攻撃のほとんどを確認してから回避しているからな。反射神経と咄嗟の体捌きさえ気を払えば、初めて試合したときのような展開も頷けるか。……普通は、もう少し直感だとか勘だとかに頼ったりするものなんだが」そう言って、恭也さんは弱ったように頭を掻いた。「ぶっちゃけ、恭也さん達レベルで速い相手じゃない限りそれで何とかなってきましたし、実際に何とかなりますから。普通の相手なら察知して反応したほうが速いんですよ、僕の場合だと」「どちらにしても何を矯正するにしても、その眼ばかりは才能だよ。大切にした方が良い」「うっす」そんな彼に今度はこちらから尋ねてみた。「そういや恭也さん。最後の“アレ”って一体何なんですか?」「アレ?」「ほら、最後の斬り上げのときですよ。小太刀が僕の防御を“すり抜けた”じゃないですか」訊きながら思い出すのは、先ほどの試合の中で垣間見た奇妙な光景。滑るように僕の懐へと入り込んだ恭也さんが繰り出した、股下から顎先への一直線の振り上げ。確かにあの時、僕の防御は自分の身体と恭也さんの小太刀の間に潜り込んでいた筈だった。それがまるで、僕が行った防御を“すり抜けた”ように、気がつけば僕の顎先に小太刀が突きつけられていた。「見間違いだ」「見間違いって……」そんな真っ向から人の意見をぶった斬らんでも。僕は起き上がって道場に床に胡坐をかくと、ややジットリとした感情を込めて恭也さんを横目で睨みあげる。そんな僕の視線に気付いた彼は苦笑して、「すまん、言葉が足りなかったな。……正確には、『すり抜けたように錯覚してしまう技』だ。───御神流の基本の三『貫』、という」「ぬき……ですか?」「貫、だ」そのあと恭也さんにされた説明によると、『貫』という技は『斬』『徹』に続く御神流基本技の一つで、その特性は相手の防御や回避行為を無効にするというもの。より詳細に言うなら、相手の防御や回避、果ては見切りのパターンまでも身体で覚え込み、更にはそれさえも見切って相手のディフェンスを突破する……らしい。いや、なんか聞いただけで気が遠くなりそうな技だなそれ。恭也さんはそんな僕の考えを察したのか苦笑の色を強めてから、道場の端まで歩いて行って置いてあった水筒で水分を補給し、そのまま水筒をこちらに投げ寄こした。なので僕も片手でそれを受け取り、口を開いて温めのお茶を流し込む。「まあ、お前や美由希のように毎日手合わせをして癖も熟知している相手なら兎も角、初戦の相手にあまり使える技でないことは確かだ」「自分で言っちゃいますか、それ」仮にも自分が習っている流派でしょうに。「もちろん、『俺のレベルでは、』という枕詞はつく。とてもではないが俺の力量では、実戦で相手の動きを身体が覚えきるまで打ち合いを続けるのはまだ難しいからな。結果的に勝つであれ負けるであれ、『貫』を使う前に決着そのものが着いてしまうだろう」「熟練者なら、決着が着く前に相手のパターンを見抜くってことですか」「実際、うちの父親はそうだよ。『基本』と言われているように、あくまで現在の自分の到達点を示すための指標と言えるのかもな」「体得すれば終わり、って訳にもいけませんからねー」「『武道に果て無し。故に「道」である』、だ」「へぇ、誰の言葉ですか?」「知らん」HAHAHA、と野郎2人のやる気のない笑いが閑散とした高町家の道場に響き渡った。───ピリリリリリッ、ピリリリリリッ、と。そんな風に休憩代わりの雑談をしていると、入口の方から無機質な電子音が聞こえてきた。「っと。すまん、俺の携帯だ」「高校生なら着メロの設定くらいしましょうよ……」「そういうのはよく分からないんだよ」僕の言葉に軽く返して自分の荷物の中から携帯電話を探り出す恭也さん。果たしてその『分からない』というのが携帯の設定の仕方を知らないだけなのか、それともまさか着メロ設定に使えそうな曲自体を全く知らないのか。怖いので本人に確かめる気はないが。結局いつも通りの恭也さんに僕が呆れていると、すでに彼は耳に当てた電話に向かって話をしていた。他人の会話に聞き耳を立てるような悪趣味はないつもりだが、もともと今の道場には僕と恭也さんの2人だけ。必然、僕がボーッとしていると聞こえてくる音は恭也さんが携帯に向かって話す声だけになってしまう。「……ああ、俺だ」「問題は、ないか?」「……そうか。何かあれば、いつでも電話してくれて構わないから」「……うん、それじゃあ」それだけ言って、携帯を切った。彼は数秒だけその携帯を黙って見下ろしていたが、それでもすぐに元あった所へと携帯を戻す。こちらまで歩いて戻ってくる彼の表情は、思考の渦に沈んでしまったかのように真面目なものとなっていた。「珍しいですね、恭也さんが鍛錬中まで道場に携帯を持ち込むなんて」「少しばかり、手放す訳にはいかない用事があってな。不作法だったなら謝罪する」「いりませんよ、そんなの。……にしても、用事?」「ああ、友達がちょっと困っていて───」僕の疑問の声に答えていた恭也さんは言葉を切り、何事か考え込むようにして顎先に手を当てていた。不思議に思って僕がそれを眺めていると、恭也さんはやがて結論に達したのか顔を上げ、じっとこちらを見据え、「……お前には、話しておいた方が良さそうだな」落ち着いた空気で、そう言った。「誘拐、ですか」「そうだ」恭也さんから話を聞いた僕は、それだけ言った。正確には、聞いた話を吟味し消化するのに思考の大半を割いており、それだけしか言えなかった、というのが正しい。それくらい、恭也さんが僕に教えてくれた事実は大変なものだった。……それにしても、誘拐。拉致、ね。また穏やかじゃない単語だな。「……ちなみに警察へ連絡は?」「既に行って事情は説明した。が、逆に言えば説明しただけで終わっている。具体的な対処はまだ取れないらしい」まあ、それもそうか。月村家の裏事情を鑑みれば警察の動きが鈍くなっているであろうことも容易に想像がついてしまう。というか、ひょっとしたら忍さん自身が警察に詳しい事情説明をしていないのかもしれない。至近で見ていたという恭也さんでも、説明できるのは状況くらいだけだっただろうし。「さっきの電話は忍さんからで?」「……相変わらず、なのはと同じ小学生にしては気持ち悪いくらい察しが良いな。その通りだよ。あいつの無事を確認するための定時連絡だ」気持ち悪いは余計だっつーの。自覚くらいあるわ。今回だって知り合いがそんな危険なことになってさえなければ有耶無耶に誤魔化してるだろうよ。「俺は月村を守ると決めた。そのために打てる手は出来る限り打っておきたい」「僕に話したのもそれが理由ですか。別にいいですけど。……それで、こっちはどうしましょうか。忍さんに恭也さんが付いている以上、そっちに僕の戦力は必要ないでしょう? それなら美由希さんを誘った方がまだ戦力になりますし」僕の簡潔な疑問に恭也さんは一つ頷くと、「春海には、聖祥でのすずかちゃんのことを頼みたい」「ま、当然そうなりますよね」恭也さんからの提案に、僕は事も無げに同意を示した。今回襲われたのが忍さんだからと言って、それで終始忍さんのみが狙われるとは限らない。危険に巻き込まれる可能性があるのは彼女の周囲も同じことなのだ。そしてその最有力候補とも言えるのが、忍さんの家族。その中でもとりわけ無力な子供である、月村すずかが最も狙われやすいだろう。少なくとも、仮に僕が誘拐犯だとして忍さんの周りから攻めるとすれば、真っ先にすずかから付け狙う。自分で考えてて吐きそうになる発想だが。で、あるならば。もうすぐ春休みとはいえ、まだ少しの間は恭也さんにも学校がある。その間ずっと忍さんとすずかの両方をガードするのは困難、というより、そもそも物理的に不可能だ。彼にも普通の高校生としての生活がある以上、時間全てをボディガードに注ぎ込めるわけがない。それならどちらか片方に全力を注ぐべきだ。そしてその場合、自分のクラスメイトである忍さんの傍に居ることが一番効率的だろう。もちろん、そうしてしまうと今度は小学校に通うすずかの危険度が上がってしまうことになるが、───そこはそれ。彼女と同じ小学校に通い、尚且つ恭也さんから見て必要最低限の実力を有しているであろう『僕』こと、『和泉春海』の出番である。「わかりました。学校では出来るだけすずかと一緒に行動するようにします」「……すまん。頼んだ」「…………」その『すまん』の一言に、果たして一体どれほどの苦悶が含まれているのか、俯いて表情の隠れた恭也さんからはよく分からなかった。どうせまた、本来ならば正式な門下生でも弟子でもない、ただの小学一年生である僕を巻き込んでいることを後悔しているのだろう。事情が事情なので仕方ない部分も多分にある上、これまでの付き合いの中で僕が普通の小学生と比べて異質な存在であることは既に承知しているだろうに(だからこそ、彼も僕に頼んだのだ)。真面目だよねぇー、恭也さんも。もともと、彼に頼まれずとも忍さんがそんな目に遭っていたのだと知りさえすれば、僕は自主的にすずかの護衛に就いていた可能性が高い訳だし。友達を助けるのは当たり前だろと。「……………………」かと言って、ここで慰めの言葉を口にするのも何か違うような気がする。これが可愛い女の子なら口八丁に美辞麗句を並び立てて励ますのだろうけど、生憎と野郎相手に掛ける慈悲の心は1ミクロンも持ち合わせていない。あったとしても、せいぜい落ち込んで寝転がってるソイツの腹を蹴飛ばす程度だ。……え、それは慈悲じゃないだろうって? いやだなぁ、それで這い上がらないならソイツが玉無し野郎なだけだって。───それに、彼も男なのだ。一度自分の意志で選択したからには、それに対して変に慰めを向けられるのは男としてのプライドが許すものではなかろうよ。「ああ、恭也さん」「……なんだ?」僕からの呼びかけに、恭也さんが俯けていた顔を上げる。そこにあったのは、いつもより更に読めない無表情。まあまあ。以上の点を踏まえ、僕が彼にかけるべき慰めの言葉は何も無い。無いから、それでも強いて別のことを言おうとするなら……───「万が一誘拐犯と接触したとして、その時は真っ先にすずか達と一緒に逃けることに全力を注ぎますから。犯人捕縛は期待しないで下さいよ」「……むしろ犯人を捕まえようと息を巻かれるよりも、そっちの方がずっと安心するよ」僕の少しばかり情けない言葉に、恭也さんは気の抜けたように微笑んだ。───このぐらいじゃない?「んじゃあ、具体的にどう動くかだけ決めておきますか」「ああ、そうだな」互いに、さっきまでのように同じ道場の壁を背にして話し合う。僕は床に胡坐を掻いて恭也さんに借りた飛針を訓練代わりに片手で遊ばせ、恭也さんは立ったまま両腕を組んでいるという違いはあるが。「僕は小学校でのすずかの護衛、及びその周囲の警戒」「俺は高校のほうで忍をマークしておく。何かあれば、お前はすぐに俺の携帯にまで連絡してくれ」「了解しました。あと、今回のことって他に誰が知ってます?」僕の質問に恭也さんは顎に手を当てて中空を見据え、「……当事者である忍と、現場に居合わせた俺。それに、俺が月村のボディガードをするようになったということは、うちの皆には説明してある。月村が誘拐されかけたことも含めてな。ああ、なのはだけには誘拐云々は伝えていないが」「まあ賢明かと。なのはに話しても不安を煽るだけでしょうし。んで、そこにプラス僕、と。……忍さん以外の月村家の人たちはどうなんですか?」重ねるようにして訊いた僕の疑問に、恭也さんは何故か気まずそうにして目を逸す。……あん?「恭也さん?」再度問うた僕に、彼は弱ったように眉間に皺を寄せて重苦しく息を吐きながら。「それが、……月村のヤツ、ご家族には説明していないらしいんだ」「……えっと」…………マ、マジで?「すずかに話さない理由はまだ何となく分かりますけど……」ただの小学1年生の女の子でしかないすずかに大好きな姉が誘拐されそうになったと話しても、それは徒に怖がらせるだけだろう。そういう判断の元、すずかだけ説明しなかったのならまだ理解は出来る。しかし、……「忍さん、ご両親にも話してないんですか……?」恐る恐る確かめた僕の言葉に、恭也さんは目を閉じたまま首を縦に振った。つまり、肯定。それを確認した僕は溜め息を吐いて、次いで脱力したように壁にもたれかかる。知らず前のめりになっていたらしく、勢いよく寄り掛かったせいで後頭部を打ってしまった。軽くない痛みが奔るが、どうでも良かった。「あの人、そこまでご両親のこと苦手なんですか……」「どうにも、警察からの保護者説明の電話もノエルさんが受けたらしい。出張中のご両親には何の連絡も行ってないそうだ」「だからって、自分が誘拐されそうになったときまで意地を張ることないのに……」「そう思って、俺も親に連絡するように伝えたんだけどな。……『どうせ仕事で忙しい』の一点張りなんだ」「…………」恭也さんの言い分に、僕はうーんと唸りながら首を捻る。うーーーん?(さっきから、なーんか忍さんの行動に一貫性が無い気がするんだよなぁ)現時点ではただのクラスメイトでしかない恭也さんが危険なボディガードを引き受けることを認めたと思えば、一番頼りになりそうなご両親の助けを拒む、どころか今の自分の状況すら伝えてないと来た。この深刻な“ズレ”を、一体どうやって説明しよう?恭也さんが気になる異性だから、少しでも長く傍に居たくてわざとボディガードを了承した? と思って恭也さんにそれとなく確かめてみたのだが、どうにも忍さん、一度は「もうわたしと一緒にいない方が良い」と言ってまで恭也さんを遠ざけようとしたらしい。仮に傍に居たいだけなら、そんなことは絶対に言わないだろう。……いやまあ、それが女としての策略だと言われれば其処までなのだが、そんなところまで疑っていたらキリがないので考えるのはここまでとする。というか、そこまで疑い始めたら、そもそもこの誘拐騒動が狂言であるかどうかまで疑わなければならなくなるし。あの忍さんがそんな嫌な女ではないと信じたい、という気持ちも大いにあるけど。ならば、恭也さんや自分への身の危険を天秤にかけて尚、それでも頼りたくないくらいに自分の両親が嫌いなだけなのか?しかし、この疑問にこの場で明確な答えが出る訳もない。僕も恭也さんも忍さん本人じゃないのだ。忍さんが自分の両親をどれほど嫌っているかなど解かる筈もないし、ひょっとしたら僕たちが知らないだけで、本当は縁を切りたいくらいに剣悪な仲なのかもしれない。……が、果たして自分や自分の好きな異性が命の危険のなかに在って、それでも嫌いな相手に頼らないでいられるものなのだろうか? 考えつつ、手慰みに弄んでいた飛針を宙に放る。真上に投げて、落ちてきたのを受け止めてはまた投擲する。(……何にせよ、まだ情報が少なすぎるか)まだまだ判断材料が出揃っていない気がする。情報が、不足している。視点が、欠落している。どうにも忍さんの行動が、彼女のキャラクターに則していない。別視点からのアプローチが必要だ。「……まあ、一先ずそっちの説得は恭也さんに任せます。いきなり僕が話しに行ったとしても、恭也さん以上に効果があるとは思えませんしね」「わかった。俺のほうも、もう一度月村に話してみるか」「お願いします。……それと、」と。ここで、ふと気になったことを尋ねてみた。「ノエルさんはどうしてるんですか? 警察の連絡は彼女のほうに行ったんでしょう?」「ああ。でもノエルさんも基本的には忍の意向に従う方針らしい。しばらく忍とすずかちゃんの送り迎えは彼女がやるそうだ」僕の疑問に、恭也さんがこちらを横目で見下ろしながら答える。「……………………」まただ。またしても、違和感。心情的なものはどうであれ、立場的には一介の使用人でしかないはずのノエルさんが、なぜ自分の雇い主である月村の両親を無視できる?確かにノエルさんが月村姉妹のことを非常に大切に思っていることは重々に承知しているが、だからこそ、ここは忍の反対を押し切ってでも彼女の両親に連絡する場面ではないのか?───…………忍さんのご両親は、彼女の雇い主ではない?ノエルさんを使用人として雇っているのは月村両親ではなく、月村忍本人なのか? そうだと仮定すれば、この違和感にも説明が…………いや、ダメだ。仮にそうだとしても、それでは彼女が月村の両親に誘拐の件を話さない直接的な理由にはならない。ただの『雇用主と使用人』の関係以外の何かが、月村忍とノエル・K・エーアリヒカイトの間にあるのだろうか?そしてそうであるのならば、そこにあるのは一体───?「……春海?」「ぁ、ああ。すみません、考え事してました。……それなら、僕の役割は本当にすずかが学校にいる間だけになりそうですね。ま、せいぜいノエルさんにすずかを任せる放課後まではきちんと責任持って守りますよ」「阿呆。自分勝手な独断でお前に任せたのはこの俺だ。いざとなれば俺の責任に決まってるだろう」「その言葉、そっくりそのままお返ししますよ。引き受けるという判断を下したのはこの僕だ。勝手に責任取らないでください」「…………」「…………」「……クソ生意気」「……クソ真面目」その後しばらく、高町家剣道場に木刀を打ち合う音が響き続けたのは、言うまでもないだろう。**********「───というわけで、すずかちゃんのほうは春海が受け持ってくれているから、当面の心配はないと思う」昼休みになったので学校の食堂まで来た恭也は、ここまで一緒に来ていた忍に対して、先日春海と話し合って決まったことを説明していた。「……そっか。うぅ、高町くんもそうだけど、春海くんにも本当に申し訳ないなぁ」「俺もあいつも自分で引き受けたんだ。月村が気にすることはないさ。……どうしても気になるんなら、今度あいつにも礼を言ったらいいしな」「そうだね。……うん、そうする」「ああ」こちらの提案に頷く忍に笑みを返してから、恭也は空いている食堂の席を確保すると、「それじゃあ俺は昼飯を買ってくるよ。月村の分は、……弁当だから今日は必要ないな」「う、うん」「じゃ、行ってくる」「あ、ちょっと待って高町くん!」「ん?」席を立とうとしたところを呼びとめられた恭也。そんな彼に、忍は少し恥ずかしそうに頬を染めると、持参していた弁当の入っている手提げ袋を差し出した。「……じつは今日、高町くんの分のお弁当も用意してあるんだけど、……よかったら、一緒に食べない?」「お、俺の?」「そ。こうして毎日守ってもらってる、そのお礼。……あっ、でも、作ったのはわたしじゃなくてノエルなんだけどね。ほらっ、わたしはお料理できないし?」思わずといった様子で自分を指差し確かめた恭也の言葉を肯定する忍。しなくても良い補足を付け足している辺り、実は彼女も内心では大いにテンパっていたりするのだが。一方、いきなりそんな事を言われた恭也も平常心をかなり乱されていた。彼とて一介の男子高校生。いくら自分の家族から枯れている等と心無い感想を頂こうとも、思春期真っただ中の男であることは変わりないのだ。女子(それも、少し気になり始めている異性である)から弁当を貰って、それで心を揺らさないで居られるほど場馴れしている筈もなし。それが例えボディガードの礼であり、作ったのが他の人間であってもだ。「……そう言うことなら、有り難く頂戴しよう」「ふふっ。はい、どうぞ」見た目だけなら熟年夫婦のように落ち着いたやり取りを交わす2人。が、お互いに心の中ではおそるおそるだったということは…………誰も知りえない真実である。「はぁー……あの御2人、最近なんだかいい雰囲気ですねー」「ですねー」「というか、わたしたちって野次馬ですねー」「……ですねー」「「……はぁ~」」同じ食堂内でその光景を見ていた、高等部1年生の巫女少女と、中等部3年生の文学少女が、静かに溜め息を漏らしたという。**********「どこかで青春を満喫している裏切り者がいるような気がする」「は、春海くん?」「うん? どうしたんだい、体育の柔軟体操の時間に担任教師の『仲の良い人と2人一組になりなさーい』という幼少期トラウマベスト10に入るであろう御言葉の末に僕と一緒に組むことになった月村すずかちゃん?」「なんでそんなに説明的なの?」「それは地の文での状況説明が楽だからさ」「わけが解からないよぅ」「女の子がそんなこと言っちゃいけません」というか人類がそんなこと言っちゃいけません。それは宇宙から来た営業マンの台詞だ。というわけで、体育の時間である。クラス全員が体操服に着替えてグラウンドに出ると列を作り、担任の先生の指示に従っていた。今はお互いに背中越しに腕を組んで相手の背筋を伸ばし合うアレの最中。ちなみにこれは余談であり雑談なのだが、実はこの世界の学校では未だ体操服にブルマが現役であるという恐るべき事実があったりする。小学校でもそうなのだが、去年に恭也さんたちの高校の体育祭を見に行ったときは驚いたものだ。女子がみんな赤いブルマ履いてるんだもの。そういうプレイでも何でもなく本物の絶滅種が拝めるとは、恐るべし異世界。僕があの体育祭で全く関係ない女生徒たちの写真を撮りまくっていても、もうこれはしょうがないよね? 当然、那美ちゃんや忍さんなんかはその10倍撮ったけど。閑話休題。「でも珍しいね、春海くんがわたしと組みたいなんて。いつもはクラスの男の子と一緒なのに」「なんだ、嫌だったか?」「ううん、そんなことないよ。とっても嬉しい」「喜んでもらえて何よりだ」「うんっ♪」かわいいなぁ。その笑顔(体勢的に僕からは見えないけど)だけで、今回いつもと違って僕と組めなかった結果、1人ハブられて先生と組むことになってしまった斉藤くん(♂)の泣き笑いした顔なんて吹っ飛んじゃいそうだ。……いや、マジごめん斉藤くん。今日は事情が事情だし、許してね?背中合わせのすずかを背負って思いっきり前屈すると、後ろにいる彼女の背筋が伸びて、「う゛うぅ~っ」という苦しそうな声がした。彼女のうめき声を聞き流しながら、これを好機と僕は世間話を装って話を切り出す。まずは情報収集だ。「……そういえば」「んっ、はぁっ……んぅ?」声、エロいね。いや、そうじゃなくて。「すずか、今日から送り迎えはノエルさんがやってくれるんだって? 本職メイドさんの送迎なんて羨ましい限りだぜ」「うん。なんか、最近は物騒だから春休みまではノエルに送り迎えをしてもらおうって、お姉ちゃんが……。あとノエルも外出するときは私服だよ?」なるほど、すずかにはそうやって説明してるのか。あと私服姿のノエルさんも地味に見たい気がする。会話しながら、今度はすずかが僕を自分の背に乗せる。背筋が限界まで逸らされて、晴れた青空が視界いっぱいに広がった。「この間の猫は、まだ引き取ってないんだっけか?」「それはまだもうちょっと先かなぁ。一昨日も病院まで会いに行って一緒にあそんだんだけど、足のケガが治るのにもう少しかかるんだって」「ふーん。にしても、すずかのパパさん達もよく許してくれたなー。───あ、もしかして忍さんも一緒に頼んだりしたのか?」そんな筈がない、と思いながらも僕は訊いてみた。忍さんがご両親のことを好ましくないと思っているのは既に承知済みだ。だからこそ、この質問は彼女がどのくらいご両親のことを嫌っているのかに対する確認のようなもの。日常的な会話すらしないくらいに剣悪なのか、それとも今回の誘拐の件が特別なだけで電話を介して話せる程度には仲も良いのか。そのための確認作業……のつもりだった、の、だ、けど……「…………ううん」僕からの問いに、すずかは平坦な口調でそれだけ答えた。心なしか、体の横で組んでいる腕からも力が抜けたような気がした。「……すずか?」不審に思って、僕は問い返すように呼びかけた。ピーッという担任教師の吹くホイッスルの合図で、またこちらが下になって彼女を自分の背に担ぐ。「……お姉ちゃん、お父さんたちとあまり仲良くないの。お父さんたちも、家に帰ってもお姉ちゃんとはほとんどお喋りしないし……」上に乗っているすずかが、それほど大きくない声で紡いだ。たぶんそれは一人言のようなもので、こっちに聞かせる意図などなかったのだろう、そんな台詞。「───やっぱり、わたしのせい、なのかな……?」最後に付け加えられた、掠れたように小さな言葉。しかし、それは確かに傍にいる僕の耳にまで届いていた。「……………………」使い古された表現で大変恐縮だが、───ガツンッ、と頭を鈍器で殴られたような気がした。……おい。おい、春海。和泉春海。お前は、年端も行かない小さな女の子に、なに無神経なことを訊いてるんだ?忍さんがご両親と折り合いが悪いことなんて、ほとんど確信の域で解かっていたことだろう?それが何だ。『あ、もしかして忍さんも一緒に頼んだりしたのか』? ははっ、お前、それマジで言ってんのかよ。そんなわけないって、最初から解かってたんだろ? 情報収集のため? そのためなら小さな女の子の傷口を抉っても良いのか?忍さんのため? いつからお前は友達を天秤にかけるような屑に成り下がった?自分の家族の仲が悪くて、それを気にしない子なんて、居るはずがないだろ?(……ああ、くっそ。やっぱ小っちぇ)自分の器も、力も、思慮も、意志も。全てが小さかった。眼先のことばかりで、周りが見えていなかった。───自分が背中に担いでいる女の子が、小さく感じられて仕方なかった。「……ふんっ」「わっ───きゃっ!?」思い切り上体を前に倒すと、その勢いで背中に担がれていたすずかの身体がぐるりと一回転した。お互いに組んだ腕を軸にして、僕の背中を転がるようにて飛び越えた彼女は、それでも綺麗に両足で着地する。顔を上げると、目の前には不思議そうにこちらを見つめるすずかの顔があった。さっきまでの背中合わせと違い、今度はすずかと腕を組んだまま向かい合う。「……ごめん」気がついたら、口が勝手に動いていた。「……春海くん?」「ごめんなさい」こちらの名を呼ぶすずかに構わず、僕は喋り続けた。きちんと相手の目を見て、心を込めて、言う。「無神経で、ごめんなさい。すずかの気持ちも考えずに、余計なことばかり言ってすみませんでした。心から謝ります。本当にごめんなさい」訳の分からないことを言い出している自覚はあった。当たり前だ、こんな自分勝手な言葉。こんなもの、相手が言葉の意味を飲み込む間もなく自分の言いたいことだけを言い募っているだけの、ただの自己満足だ。相手の許しを期待しているわけではない。相手の理解を期待しているわけでもない。ただ自分の意志を通すだけの、一方通行な謝罪。いや、相手の気持ちも考えていないこんな言葉の、どこが謝罪なのだろう。謝意は在っても、これでは謝罪には程遠い。「───だから、」それでも、僕は、僕の口は、動き続けた。『今』の世界で出来た繋がりの一つを、こんな失敗で傷つけたままにしたくなかった。僕からの願いは、たった一つ。「どうかこれからも、僕の友達でいてください」───返答は、彼女の心から嬉しそうな笑顔だった。「やってしまったぁぁぁあああッ!!!」授業が終わり、学校が終わり、すずかも無事にノエルさんへと引き渡し、男友達のサッカーの誘いを断って放課後。携帯電話で恭也さんへ今日の報告をして、バスに揺られて、自宅へ帰って、用意されていたオヤツを飛び掛かってきた妹たちへと投げ渡して、自室に入って、勉強机に鞄を置いて、布団に倒れ込んで。僕は悶えていた。悶絶していた。もう限界。学校では残り時間なんとかポーカーフェイスを保っていたけど、もう限界。「『友達でいてください(キリッ』って、お前は一体だれだぁぁあああッ!?」いや確かに謝ろうとは思ったよ? すずかを傷つけたのは紛れもない事実だ。反省もした。だから本当に真剣に謝った。すっげー急だったけどさ。そこに後悔は微塵も無い。……なのに、何で最後の最後に───『「どうかこれからも、僕の友達でいてください」』「なぁんでだぁぁぁあああああああッ!!??」なに最後に余計なものまで付け加えちゃってんだよ!? 恋人に捨てられたくない乙女か僕は!? 願望見え見えの透け透けじゃねえか!!「ぁあ、もうおしまいだァ……今まで築き上げてきた僕の大人としての威厳とか雰囲気とかその他諸々がおしまいだァ~~~……」『そんなもん最初から無いとは思うがな』「そんな馬鹿な」隣から返ってきた葛花の言葉に僕は真顔で返した。そんな馬鹿な。「あと僕の声で僕の台詞を勝手に復唱するんじゃない」ただでさえ悶絶するくらい恥ずかしいのに、同じ声とかもう拷問だろう。『カカッ、声真似如き、儂にとっては容易いもんじゃよ』「こんなトコで新しい一面を披露してどうするんだよ」『いや、それこそ今のお前様に言われたくないわ』「ですよね」いやホントに。『儂も学び屋の屋根の上から見ておったが、幾らなんでも急過ぎるじゃろアレは』「終わった後に拍手喝采で応えてくれたクラスメイトたちはみんなすごく暖かくて良い子なんだと思いました」『そもそも、何故あのように結果を急(せ)いたのじゃ? おぬしならもうちょっとは上手くやりようもあったじゃろ?』「いや、そりゃあな……確かに最後の台詞は完全に勢いだったけど、さ」僕は今日の学校での一幕を思い出し、再び悶えそうになる必死で堪えながら返した。「……それ以前にあの場ですぐさま謝罪してしまったことに関しては、あいつの一言が僕という人間に対してクリティカル過ぎたんだよなぁ」───やっぱり、わたしのせい、なのかな……?あの一言の所為で、また『前』の世界での“あいつ等”を思い出してしまっていた。孤児院でまだまだガキに過ぎなかった僕や先輩連中に心の傷を抉られ、部屋の隅で膝を抱えて泣いていた、あいつ等。孤児院を飛び出して夜遅くまで行方不明だった、あいつ等。園長先生やシスターちゃんの胸の中で一晩中涙を流しながら夜を明かしていた、あいつ等。あの瞬間。無意識にとは言え、『今』はもう会えない、僕が大好きだった“あいつ等”に、すずかがダブってしまっていた。「最近になってまで重ねて見てるつもりは、あんま無かったんだけどなぁ……」目を閉じて、大きく大きく溜め息を吐いた。布団の上に胡坐を掻いた状態で、頭から毛布を引っ被る。と、独白のように響いた僕の声を聞いた葛花が、白い童女の姿になってこちらの膝に手を掛けた。ヒト型で獣のように這い寄る彼女は、俯く僕を下から覗き込むように見上げて、『ま、忘れ切れとらん時点で大なり小なり引き摺っておるのは確かじゃろうな』「忘れるかよ。……八年近く生きた『今』でも、忘れたことなんか一度も無ぇ」『なら、それで善かろ?』思わず声を低くして言った僕に、気軽に葛花が言う。こちらを見上げる彼女の血のように真っ赤な眼と、視線が絡んだ。『過去を忘れられず、過去を引き摺り、それでも前に進む。儂はお前様のそういう生き汚さを見込んだ。故に、我が二代目の主人として認めた』「……惰性だぞ? 自分で決めて自分で選んだ訳じゃない」僕は、この上なく情けない事実を告げた。それなのに、目の前に居る狐耳に童女は怯まず、『ならば、何故お前様は未だに生きておる? 何故未だこの世から去らん?』「単に死ぬのが怖いだけだ。『死にたくない』、ただそれだけだよ」『「死にたくない」。それもまた、一つの選択じゃよ。ひどく後ろ向きで、まるで宿敵に背を向けて全力疾走しとるような情けない姿じゃが、───それでも、お前様が自らの意志で選び取った、「生きる」という答えに変わりはない。…………大体、』葛花の透き通った青白い細手が、僕の右頬を滑った。こちらをじっと見つめる彼女の口元が吊り上がり、野生の肉食獣のような獰猛な笑みを形作った。『───お前様もそんな自分が嫌いという訳じゃなかろう?』「当たり前だ」問う葛花に、僕は大真面目に返した。そんなこちらの言葉に満足だという風に何度も頷く葛花の背中に手を回す。冷たく幽かな彼女を抱きしめて、その感触に僕は微笑む。冷たいけど、暖かかった。「……“俺”が忘れたら、想い出さえ亡くしてしまったら、本当に“あいつ等”が無かったことになりそうだしな。 毎日思い返して、引き摺って、省みて、それで涙を流すのが情けないのなら、僕は一生ヘタレのままで構わない。 人は別離を乗り越えてこそ強くなるって言うのなら、僕は死ぬまで弱くて構わない。 誰が乗り越えてやるかよ、そんな恐ろしいハードル。───“僕”は全部持って行くぞ」誓うように、僕は言った。今ばかりは、自分の矮小さに、軟弱さに、感謝した。そのおかげで、忘れずに済む。捨てずに済む。───『乗り越えないこと』に、劣等感を抱かずに済む。敵に背を向けて全力疾走している自分を、誇ることが出来る。『それで善い』そう言うと、葛花はそっと僕の懐から身を離す。見た目だけなら押せば折れてしまいそうな細い両の腕で、僕の顔を包むようにして持ち上げた。視線の先にあった彼女の表情は、まるで母親のように優しげな、僕でさえも今まで見たことのないような慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、まっすぐにこちらを見つめていた。『それでこその、儂のあるじ様じゃ。人間らしく、人の子らしく、傲慢に、強欲に、全てを抱えて生きて往け。お前様がそう在る限り、儂も露払い程度は引き受けてやろう』「嬉しいよ。嬉しいけど、ガキ扱いは止めろ。お前にそういうことされるとイラッとする」『カカッ、そういうことは、その両の眼から流れ出るものを隠せるようになってから言うことじゃな』そう言って、彼女は僕の両頬をぺろりと優しく舐めとった。(あとがき)第十九話、投稿完了しました。タイトルが最近やっつけになってきた、篠 航路です今回は主人公が原作へと関わっていくための布石と、彼の内面の奥底にまで関わる一幕ですね。まあ早い話が、主人公は転生したという過去を何一つ乗り越えていないし、それどころかキッチリ向き合う気すら0というお話でした。そもそも作者がこの「とある陰陽師と白い狐の~~」を書こうと思い立ち、そしてその主人公のことを決める際に一番悩んだのが、この『転生』というファクターの扱い方でした。内面人格は大人な主人公を書きたいが、かと言って『転生』という“前世の死”を体験してしまった彼が何も悩まないのは変だ。そう思って考え出したのが、この『和泉春海』というキャラクターです。過去の一切合財を乗り越えられずに思いっきり引き摺りつつ、それでも尚、惰性であっても全力疾走で『今』を生きて行く。そういう“心の弱さが持つ人間味”もまた、この作品、引いては主人公のテーマの一つなので、それが読者様方に少しでも伝わればと思います。次の更新は、作者が4月からは新生活のリズムに慣れなくてはいけないので少々遅れるかもしれませんが、どうかよろしくお願いしますでは。