もうじき冬休みにもなろうという、ある休日の昼前。町そのものが海に近い海鳴では冬の冷え込みは相当なものがあるのだが、ここ数日の快晴と、現在も頭上から降り注ぐ陽気のおかげで珍しく過ごしやすい日が続いていた。カサカサと乾いた音を立てながら木枯らしに舞う枯れ葉たちと、降り注ぐ柔らかな陽光に彩られた冬の善き日。「いけません春海様。わたくしは一介のメイド。あなた様とわたくしでは住むべき世界が違うのです」「立場が何だって言うんですか。ノエルさんっ、貴女を手に入れるためなら僕は僕に持てる全てのものを捨てたって構わない!」───そんな幻想的な情景を一発で粉砕する生々しいやり取りが、ここ月村家邸宅の一室にて繰り広げられていた。陽の光が差し込む部屋の中では月村家のメイドであるノエル・K・エーアリヒカイトと、そんな彼女の両手を強く握りしめて自らの思いの丈をぶつける少年───和泉春海の姿があった。彼女は確かな情熱を宿した春海の双眸から逃れるように視線を逸らし、そっと眼を伏せ。「……いけません」「ノエルさんっ」再びの拒絶の言葉に、彼は必死に呼びかける。そこにあるのは、ただ相手を振り向かせようとする強い意志。しかし、彼女は頑として頷こうとはしなかった。「……あなた様は和泉財閥の御曹司です。そう簡単に捨てられる立場では」「それが貴女と共に歩むための対価であるのなら、僕は喜んでその肩書きを捨てます。それだけの覚悟が、今の僕には───」「それにっ!」ノエルが、初めて声を荒げた。それはまるで望まない未来を受け入れるために無理矢理絞り出したような、彼女の心の軋みを物語っていた。「……それにあなたには、すずかお嬢様という許嫁がいらっしゃいます」「ッ……で、でも!それだって親同士が勝手に決めた婚約だ!僕もすずかも、2人とも別に心から愛し合っている訳じゃっ」一瞬言葉に詰まるものの即座に言い返す。しかしそんな彼の声に含まれた動揺を、月村家のメイドは見逃していなかった。彼女が、初めて春海の眼を見た。「……それでも、あなたはお嬢様のことも愛してしまった」「ッ!?」今度は眼に見えて現れた動揺。「すずかお嬢様は、とても可愛らしいお方です。春海様が好きになられるのも当たり前の───」「そんなことはない!僕は今でもノエルさんだけをっ」何かを振り払うような少年の言葉を、ノエルはゆっくりと首を横に振ることで遮った。彼の眼には、その仕草は、まるで自分への絶対の拒絶のように映っていた。───だからだろう。「なんで……」───こんな、縋るように問い掛けてしまったのは。「……なんで、ノエルさんにそんな事がわかるんですか」「わかりますよ」しかし、答えはすぐに帰ってきた。その瞳のなかに、多くの悲しみと、微かな親愛の情を覗かせながら。「───わたくしも、ずっとあなたのことを見ていたのですから」消え入るような小さな声でそれだけを告げると、彼女は春海の手を振り払うようにして踵を返し、走り去った。後に残されたのは、彼女が出て行った扉に向かって未練がましく手を伸ばして、それでも言葉一つかけられない、情けない一人の少年。やがて彼は行き場を失くした手を降ろし、表情を歪ませながらそっと眼を伏せた。「……ふられてしまいましたよ。お義姉さん」「いや誰がお義姉さんよ誰が」そこでようやく今まで傍でずっと見物していた忍から声が掛かった。表情は完全に呆れたものになっていたが。「……なに?今の寸劇」「えっと、暇だったのでノエルさんと一緒になにかしようって話になりまして。それでちょっとしたリアルおままごとを」子どもの遊びに付き合ってあげたお姉さんの図である。「それが何であんな生々しい内容になってるの……」と。何かを堪えるように自身の額に右手を添えて嘆息した忍に、春海は傍に備え付けてあったテーブルの上に置かれた一冊の本を手に取った。「題材は『家政婦は見た! 恋する男、仕える主人、2人の愛と1人の嫉妬』。ここ(すずかの部屋)にあった、とある財閥御曹司と深窓の令嬢、そしてメイドの三角関係を描いたドロッドロの昼ドラ小説です」「あとで月村家姉妹会議よ……!」「ちなみに最終的には令嬢の姉も入れて四角関係にまで発展するそうです」「すずかー!ちょっとお姉ちゃんとお話しましょーっ!?」叫びながら走り去っていく忍を見送りつつ、春海はなんで自分がこんな事をしているのかを思い出していた。→回想開始そもそもの始まりは、数日前に春海が学校から帰宅すると、自室の机の上に置きっ放しにしていた音楽プレイヤーを妹2人が分解してしまっていたことだった。当たり前ながら妹二人は母親によって即刻折檻コース行きだったものの、残念ながら肝心の音楽プレイヤーのほうは春海では復元不可能なほどにバラバラにされてしまっていた。しかもご丁寧にネジの一本に至るまでドライバーによって分解された状態で。どうにも彼の妹たちはこういうことには並外れた集中力を発揮した。そう言う訳で彼が仕方なく以前の持ち主である忍へ報告と謝罪のメールを入れたところ(なにせ貰ってから3カ月と経っていないのだ)、なんと忍からは状態によっては直せるかもしれないとの返事が返ってきた。そう言えばすずかが忍は機械に強いと言っていたかと思い出しながらも春海は彼女に修理を依頼。そうして休日である今日、彼はこうして月村邸を一人で訪ねてきているのだ(ちなみに葛花は家に残っておねむである。どうにも、事件当日に春海の部屋で寝ていた所を妹たちが来襲。彼女もモロに被害を受けたらしい)。そのまま月村姉妹とノエルに迎えられた春海だったが、玄関先で少し話すと忍とすずかが受け取った音楽プレイヤーの残骸を手に忍の工房(らしい)に引っ込んでしまい、春海の方は修理のあいだ彼の相手を申しつけられたノエルに案内され、すずかの部屋へと通されていた。←回想終了「いかんいかん、つい演技に熱が入ってしまった。どうにも僕にはコメディアンとして妥協がないな」言いながら納得するようにうんうんと頷くものの、間違ってもコメディとはさっきのようなドロドロな演技をすることではない。「にしてもすずかの奴、ホントなんでこんな本もってんだろ……?」春海はそう言って持っていた本を本棚に収納した。本棚は広いすずかの部屋にあって尚その巨大さを主張するほどのサイズであり、その辺りからも彼女の読書好きが窺える。というか脚立が本棚の傍にある辺り、もはや執念の域である。なんとなく手持ち無沙汰となった彼は、そんな壁とも言えそうな本の山を見分することにした。部屋の主の許可はすでに取ってある。日本文学や洋書は持ち主の歳を考えると不自然なくらいに微妙なラインナップだが、中には小説や少女マンガも混ざっているのを発見して少しホッとする。手に取ったコミックスを数ページだけパラパラと捲ってみた。絵もキレイだし、話もおもしろそうだ。今度貸してもらおうと思い作者の名前を確認すると、『草薙まゆこ』と書かれていた。そういえばクラスの友達が好きなマンガだと言っていた気がする。「……ん?」そうしてコミックスを本棚に戻し、再びどんな本があるのかを確認していると、ふと一冊の本が目に着いた。「ん~……猫の図鑑?」彼が興味をもって取りだしたのは、小学生が持つには少々不釣り合いなほど値が張りそうな一冊の図鑑。表紙には無数のネコ科が描かれ、本自体の厚さはこれだけで人が撲殺できそうだ。ページを捲ってみても、特に変わったことはない。見たことがある猫からテレビでしか見たことのない種類、さらには全く見覚えがないものまで、図鑑の名に恥じないだけの情報量をもっていた。「そういや、すずかは猫が好きなんだっけ」「はい。その本は以前のすずかお嬢様のご入学祝いのプレゼントに、旦那様と奥様がお贈りになられたものです」ポツリと呟いた春海に、扉の開く音と共に返答があった。振り返ると、そこには紅茶セット一式を押し車(彼は正式名称を知らなかった)に乗せて運んでいるノエルの姿があった。演劇の役割として部屋を出て行った際に取って来たらしい。ソツの無いことだと、心のなかで感心する。「春海様。紅茶の用意が出来ましたので、よろしければどうぞ」「それじゃあ、お言葉に甘えて」ノエルの誘いに応じて、さっき運び込んだお茶会用のテーブルセットに腰掛けた。そのまま彼女が紅茶を淹れ終わるのを待つ。やがて目の前に置かれた紅茶を口に運び、一息ついた所でノエルに話しかけた。もしかしたらマナー違反なのかもしれないが、生憎とそんなものを気にする育ちはしていない。「ノエルさんは、この家で働いてどのくらいになるんですか?」「もう10年程となります」「へえ、けっこう長いですね。……っていうか、この家ってノエルさん以外の使用人は居るの?」「いえ、使用人はわたくしのみです」「あらら。なら掃除とかも大変じゃないですか?」「流石にすべてをわたくし一人では無理ですので、月に一度、業者の方々をお呼びしています」「あ、やっぱりそうなんだ。さすが金持ち」「はい」「でも、それにしたってノエルさんもすごいですよ。こんなデカい屋敷を一人で切り盛りしてるんですから」「ありがとうございます」椅子に座った春海と、その傍で直立不動しているノエル。お互いに気負った風もない世間話。一見すれば和やかに歓談しているようにも見えるこの光景。───しかしその実、疑問を振っているのは春海のみであり、話を広げようとしているのも彼のみである。春海としては本職のメイドさんと話しているだけで胸が熱くなってくるのだが、それと会話が続くかどうかは全くの別問題。ノエルが自分から話す人でない(彼はこのタイプの人間を『恭也タイプ』と呼んでいる)ことは春海も短い付き合いの中で把握しているため、この幸せタイムを少しでも長く享受せんがために自分から話題を振っているだけだ。───会話を絶やすな。疑問を忘れるな。褒めるところを探せ。しかし、がっついてるとは思わせるなよ。心の中でジゴロの心得を復唱しつつ、しかし表面上ではにこやかにノエルと接する春海。まるですいすいと泳いでいるように見えて水面下では必死にバタ足している水鳥だった。そうして会話のドッジボールがそろそろ三ケタに届くかと思われたとき。自分のことも相手のことも話し終え、そしてノエルに対する話題も大方訊き終えた頃。「ああ、それで……」「はい」「……」……話題が尽きた。会話を続けようとしても普段まったく接点のないノエルと春海のこと。もともと好みなんかが合う訳ではないし、共通の趣味がある訳でもない。おまけにノエルは彼の疑問にも淡々と端的に答えを返してくるため話の広がりようもないのだ。まさか調子に乗って訊いたスリーサイズまで答えてくれるとは思わなかった。ちなみにノエルは着痩せするタイプだった。「……んー」それでもノエルにバレないように周囲に話題がないか視線をスライドさせている辺り、彼も無駄に器用な男である。そうして、やがて見つけた話題のタネ。視界の隅にある本棚の、さっき自分が手に取った一冊の本。「そういえば、さっきすずかが猫を好きって話でしたけど」「はい。すずかお嬢様はよく敷地に迷い込んだノラ猫を撫でたりもしています」「それって、猫を飼ったりはしないんですか? 別に猫の一匹や二匹、平気で養えそうな感じですけど」「それは……」彼の問いに、ノエルはその形の良い眉を僅かに曇らせた。無表情な彼女が浮かべた、少し悲しげな感情。「……お嬢様も飼ってみたいとはお思いになっているようなのですが、どうにも旦那様たちには言い出しづらいようです」「そういえば、仕事で忙しいご両親でしたね」「はい。すずかお嬢様も寂しいご様子なのですが……」春海が思い出すのは、初めてこの家に遊びに来た時のこと。あの時も、月村姉妹の両親は仕事で家を空けがちと言っていたか。すずかが言い出しづらいという事情やノエルが表情を曇らせたところを見るに、もしかしたら子どもの教育に厳しいご両親なのかもれないと当たりを付ける。この話題は避けた方が良いかな、と春海が持ち前の日和見精神を発揮していると、ふとノエルが自前の懐中時計で時間を確認した。「申し訳ありません、春海様。そろそろ昼食の準備がありますので、わたくしはこれで」「ああ、そっか。引き止めてすみません」「いえ。では……」「あ、ノエルさん」「はい?」一礼して踵を返そうとしたノエルを、春海の声が引き止めた。彼は飲んでいた紅茶の残りをグイッと口に流し込むと、座っていた椅子から飛び降りて言う。「待ってるのは暇ですし、僕も何か手伝いますよ」だが、彼女はその言葉に首を横に振り、「お客様にそのようなことをしていただく訳には」「とは言っても、僕が今日ここにいるのは忍さんに頼みごとをしたからで、客として来てる訳じゃないですよ。他の人を働かせといて自分はボーっと待ってるだけっていうのも失礼な話ですしね」「はあ……」何気に口だけは回る春海の言葉に、彼女は戸惑ったように生返事を返す。メイドとしての立場以外にも、『ある理由』から主の命令を第一に考える彼女ならば断ることが常なのだが、今は春海の言い分も芯が通るように感じていた。実際は“主”である忍が春海を客として扱っている以上ノエルが彼を客として対応するのは当たり前なのだが、残念ながら彼はその辺りの論旨を巧みにすり替えており、尚且つ『ある理由』によって人生経験が若干不足気味である彼女は気付けなかった。「それに」そんなノエルに、更に追撃が掛かる。彼は実に人柄の良い笑みを浮かべながら。「正直、この部屋で一人で待ってるのは暇なんですよ。だから、まあ、助けると思って手伝わせてください」「……かしこまりました。よろしくお願いします」「はい。こちらこそ」無表情に頭を下げるノエルに、春海もまた軽く頭を下げる。まあ。結局のところ、人生経験は偉大であるという話だった。「あー、お腹すいたー。ノエルー、ごはんなにー?」「お姉ちゃん、お行儀がわるいよ」「なによー、元はと言えばすずかを待ってたせいじゃない」「うう、それはそうだけど……久しぶりだから楽しかったんだもん……」時間も13時に近づいた頃。修理のほうに熱が上がっていたのか、ノエルが呼んでいた忍とすずかが食堂へとやって来て。「───んん、来たか。遅かったけど、タイミング的には丁度だな」食堂に入った2人の視界に入ったのは、作られた料理が乗った皿をテーブルに並べている、黒のエプロンを着けた春海の姿だった。テーブルの上にあるのは各種食器に、付け合わせのチキンサラダとコハク色に透き通ったスープと云った洋風メニュー。「あら。春海くん、わざわざ手伝ってくれてたんだ。どうもありがとー」「ありがとう」「まあ、そっちは僕には手伝えそうにないので、このくらいは」答えながら、春海は最後に食卓の真ん中に大皿に乗ったスパゲティを置いた。踏み台を使っているのは御愛嬌。「もうノエルさんも飲み物を運んで来ると思いますから、2人は先に掛けててください」言って、春海は上座にあるイスを引く。この辺りに目端が利くのは『前』における彼の姉貴分たちによる教育の賜物だった。春海自身にとっては有り難くも悲しき負の遺産である。「ありがと」「いえ」微笑む忍に笑みを返し、続けてすずかの席のイスも引く。「ありがとう、春海くん」「どういたしまして」と。「みなさま。大変お待たせしました」そこで、先程と同じように飲み物の乗った車を押すノエルが食堂に入ってきた。「ノエルもご苦労さまー」「はい」主のねぎらいに応えた彼女はすずかの傍らにいる春海にそっと頭を下げると、忍から順にコップに飲み物を注いで回った。その間に春海も自分に割り当てられた席に着く。それが終わるのを見届けてから、忍が口を開いた。「じゃあ、冷める前に食べちゃおっか。いただきます」「「いただきます」」年長の彼女に追従する形で小学生組2人が食事のあいさつを述べ、それでようやく昼食が始まり、3人はそれぞれに中央に置かれた大皿のスパゲティを自分用の皿に取り分けた。実はこのセルフ方式、月村姉妹にはあまり馴染みがなかったものの、中心に置かれた大皿からそれぞれが自分の分を好きなだけ取るという春海の家のローカルルールである。高町家や和泉家といった比較的一般的な家庭では良く見られるこの方式。それでも国内でも名の知られる上流家庭に位置する家柄の忍たちにはあまり縁がなかったのか、2人はしきりに珍しがっていた。ただ、姉が妹のために取り分けたり、楽しそうに談笑しながら食事している光景を見るに、これからも時々はこのスタイルが月村家でも見られることになりそうだ。「そういや忍さん、恭也さんとは学校でどんな感じなんですか。同じクラスだった筈ですけど」「仲良くさせてもらってるよー。食堂じゃ、たまに美由希ちゃんたちとも一緒になるしね。……あ、でも」雑談として春海がふった話題に笑顔で答えていた忍が、微妙に憮然とした顔つきになる。「ちょっと聞いてよ春海くん。高町くんったら、わたしが教室で寝てるときに頭の上に飲み物のパック置いてったりするんだよ。おかげで起きたらクラスのみんなに笑われちゃうし」「あー……、恭也さんって、あれで結構ユニークな性格してますから」あれはあれでギャップがすごい、とは彼の同居人たる女性たちの言である。「お姉ちゃんも、学校で寝たりしたらダメだってば」「しょうがないじゃない、最近は遅くまでいろいろやってるから昼はねむいんだもん。うう、でも一年の頃はあんまり話したことがなかったけど、高町くんってけっこういじめっ子かも」「まあ、家でもなのはや美由希さんにはそんな感じっぽいので、それだけ忍さんには気を許してるってことでしょ」なんで僕が恭也さんのフォローしてるんだろ……、と心のなかで首を捻りながらの春海の言葉に、しかし言われた忍はその白い頬をほんの僅かに朱に染めて、「え……そ、そう、かな……?」少し恥ずかしそうに、上目遣いで彼に訊き返していた。「…………」それを見た春海は、食堂にある観音開きの窓のそばまでスタスタと歩いて行って無表情でそれを開け放ち、翠屋があるであろう方角を見据える。と、自分を不思議そうに見つめる彼女たちを尻目に、深く、深く、息を吸い込み。「───恭也さん結局それかよーっ!!」モテない男の悲しき慟哭が海鳴の冬空に木霊した。**********「…………」「おししょ、急にどないしたんですか。冷や汗そんな流して」「いや、……あっちの方角から、とてつもない負の情念を感じてな」「……お師匠はいつからジェダイの騎士になったんですか。いや、なんやアレくらいなら出来そうですけど」「ああ、フォースだったか。春海の勧めで一度見たが、かなり面白かったな。……またビデオ屋で借りてきて、一緒に見るか、レン?」「あ、……はいっ♪」**********危うくフォースの暗黒面(悪役サイド)に堕ちかけた春海が、月村姉妹と愛するメイドの説得で何とかフォースの光明面(主人公サイド)へと戻ってきた頃。彼は自分の前に置かれた食後のお茶を飲みながら、月村姉妹に預けた音楽プレイヤーがどんな具合かを忍から聞かされていた。「磁気ヘッドやメモリーなんかの重要部分は無事だったから、時間をかければどうにかなりそうかな。でも今日中はちょっと難しいかも」「いやいや、ぜんぜん待ちますよ。もうほとんど諦めてましたから、確実に直るのなら僥幸ってものですしね」「難しい日本語知ってるのね。まあ主導で直してるのはすずかだから、お礼ならすずかに言ってちょうだい」「へ? すずかが直してくれてるのか?」忍の言葉に春海が今まで姉に喋るのを任せていたすずかに顔を向けて問うと、彼女は春海の疑問に少しだけはにかんだ。「うん。あのくらいの構造なら、わたしでもちゃんと出来るから」そこですずかは何かに気が付いたのか両手を前に突き出すと、ぱたぱた振りながら弁解するようにして。「も、もちろん壊したりしないからっ。お姉ちゃんにもそばに着いててもらうし、ちゃんとまじめにやるから、心配しないでねっ?」「いや、まあ。そんな心配はしてないし、万が一に木端微塵にしちゃったとしても僕は気にしないから別に良いけどさ」春海のなかでは既に一度は諦めていたものであるため、例え彼女たちが直せなくともダメ元だったという気持ちが強い。そこまでして修理を強要するつもりはなかった。もともと0だったものが0のままになるだけだ。ただ、当のすずかは彼のそんな言葉に僅かにムッとしたようで。そのまましばらく頬をふくらませて不満のこもる目で彼を見ていたものの、やがて座っていたイスから勢いよく立ち上がると、自分の胸元に両手を引きよせて気合いを入れるようにむんっと握りこぶしを作り、「ぜったいに直すから、待っててね!」そう宣言して、すずかはやる気に満ちた表情でトトトッと走り去っていった。あとに残ったのは口元に手を添えてクスクス笑う彼女の姉と、眼を瞑って肩を竦める少年。そして主の傍らに控えるメイドの3人だけ。そのうちの一人───忍は未だ収まらぬ笑いもそのままに、自分の斜め後ろにいるノエルに向かって後ろ手にフリフリ手を振ると。「ノエルー、ここはもう良いから、すずかのほうに行ってあげてー」「かしこまりました。失礼します、春海様」「ええ、また後ほど」春海が一礼するノエルに別れの挨拶を返すと、彼女もすずかが出て行った扉をくぐって去っていった。そうして残った忍と春海のうち、先に言葉を発したのは春海のほうだった。「ちょっと言葉が悪かったですね。怒らせちゃったかな?」「んーんー、そんなこと無いんじゃない? むしろ春海くんに遠慮して変に気負ってた部分が抜けたから、丁度良いくらいよ」「だと良いんですが」そう言ってカップに口を付けた彼に、忍はすずかの姉としての微笑みを向ける。「あの子ってね、わたしのせいかもしれないんだけど、昔から機械いじりが大好きなのよ」「学校でも工学の本をよく読んでますよ」「わたしの部屋の本もよく読みに来てるわよ」だが、そこで彼女の表情が僅かに曇った。「ま、うちの親はそんなとこが嫌みたいなんだけど」「厳しいご両親みたいですね」「まあ、ね。……あの人たちって、子どもの頃からわたしが機械をいじってるのを見る度に嫌な顔しててね。だから、できるだけすずかにはそんな事させたくないみたいなの」話している相手がまだ子どもだから油断しているのか、長年溜め込んでいたものが少しだけ決壊したかのように、妙な饒舌さで忍は言葉を紡いだ。「わたしは仕事ばっかのあの人たちが苦手だったから叱られても無視してたんだけど、すずかはあの通りの良い子だから。あの子、わたしと違ってお父さんもお母さんも大好きだしね」「で。その大好きなご両親が大好きな機械いじりをダメと言っているから、すずかも困ってる、と」「そういうこと。……まあ、正直、わたしが言うことを全然聞かなかったのも悪いのかもね。そのせいであの人たちも『すずかの教育は間違えないように』って思ってるみたいだから」「…………」忍の話を聞いて春海が思い出すのは、いつかの教室での出来事。確かあの時、すずかはせっかく図書館で借りていた工学の本を学校の机のなかに置いて帰っていた。本人は家で読む本があるからと言っていたが、果たしてどこまでが本当のことなのか。ひょっとしたら万が一にも両親にそんな本を読んでいることがバレるのを防ぐためではないのか。それだけなら、単なる“春海の想像”の一言で片は付くものの。しかし、それならば。今日、すずかの部屋で見た、あの大きな本棚。───果たしてあの本棚の中に、機械工学に関する本はあっただろうか?全てを目を皿にして調べた訳ではないため確信は持てなかったが、彼の記憶する限りでは無かったように思う。あれだけの本棚を埋め尽くすほどの量の本を集めておいて、大好きな機械工学に関する本が一冊たりとも無い。多かれ少なかれ、すずかが自分の両親の意向を気にしているのは明白だった。ただ。(……実の娘に『教育を間違えた』なんて感じさせる親ってのも大概だけどな)春海が気になったのは、すずかだけではなかった。もちろん全ては忍の勘違いで、彼女たちの両親はまっとうに彼女のことを愛している可能性も大いにあるが、この場合、問題なのはそんな風に考えられてると娘に感じさせていることだ。すずかもそうだが、自らの人生を自分の親に半ば否定されている当の忍の気持ちは一体どんなものなのだろう。本人は自身の両親のことを話すときは一貫して冷めた態度を貫いているが、その中にどれ程の寂しさが隠れているのだろうか。あるいは、そんなものを感じることも、もう忘れてしまっているのか。目の前でカップに入った紅茶を飲んでいる忍を見ても、その答えは出なかった。ふと、春海は自分の右手に目を落とす。そこにある右手が、ピクリと反応する。(いかんいかん、今回ばかりは自粛しろ“俺”)どうにも、自分はこういう話に弱い。『前』のときに周りにこんな境遇の人間が多かったからか、条件反射でどうにかしてやりたくなってくる。特に、今の忍のように表面上は平気な“フリ”をしている人間を見ると、ムリヤリ感情を剥き出しにしてやりたいとさえ思ってしまう。(『前』のときも、それで散々叱られただろうが。もう嫌だぞ、───『見掛けMの隠れドS』とか言われるのは)脳裏に過ぎるのはかつての孤児院での日々。二度とあんな不名誉な仇名で呼ばれてなるものか。春海が昔日の屈辱を思い出していると、彼の沈黙を別の意味にとった忍が焦ったように言葉を続けた。「あ、ご、ごめんね、こんな話しちゃって。要するに、今日は来てくれてありがとうって言いたかったのっ。すずかも機械いじり楽しめてるし!」「ま、あの程度なら幾らでも力になれそうですけどね」そう言って春海は席を立つと、テーブルの傍らに置かれている押し車から紅茶の入ったポットを手に取った。そのまま忍の空となったカップにおかわりを注ぎ、ついでに自分のカップにも残りを流し込む。それが場の仕切り直しの合図となったのか、すっかり切り替えのできた忍が感心したような声を上げた。「うんうん。メール交換してるときも思ってたけど、ほんとに気がきくわね~。慣れてる感じ?」「知り合いのお姉さんたちに仕込まれたものですよ。相手の行動を常に先読みしてろ、だそうです」「あっはは、おもしろい人たちねぇ」「『花も女の子も、よく世話をしないとすぐに萎むから気をつけなさい』なんて言ってた人もいましたよ」今はもう会えない、『前』における園長先生の有り難いお言葉である。「小学生に教えることじゃないねー」「ホントに」2人してしみじみ語り合いながらカップに口を付ける。「うーん、ちょっとしたお茶菓子もあればいいんだけど、よく考えたらそういうものの場所はノエルしか知らないし……」「昼飯も食ったばかりですし、お茶だけで十分ですよ」「なら良いんだけど」先程の春海と似たような返しをする忍に、彼はふと気になったことを訊いてみた。「そういえばさっきノエルさんに聞いたんですけど、この家って使用人はノエルさんしか居ないんですね。この広い屋敷にメイド1人って相当大変だと思うんですけど」「うん。でも古い一族っていうのもその辺りが大変なのよ。敵を作らないために最小限しか周りに置かない、っていうか」異能のことか、と内心で当たりを付ける春海。勿論、自分がそのことに気づいていることは悟らせない。「使用人もできればもう1人くらい欲しいんだけどねー。ノエルはどっちかと言えばわたしの専属だから、すずかに付く子が居れば良いんだけど」「そもそも使用人が欲しいって感覚が僕にはわかりません」富豪と庶民の悲しき格差である。「うーん、……春海くんがもうちょっと大きかったら、うちで働いてもらっても良かったのに」「ノエルさんと同じ職場なら大歓迎です」「……君ってノエルのことやけに大好きよね」「メイドさいこー」結局、この日だけでは修理は完了せず。しかし数日後には以前と全く同じ形となって春海の手元に戻ってきた。だが。学校ですずかから渡されたときは一見元通りに見えたものの、それでもどこかでミスがあったのか音楽の設定画面がおかしなことになっており。後日すずかに隠れて修理してもらうために、再びこっそりと忍に会いに行く春海の姿が月村邸に見られたとか。こっそり忍の部屋に入り込む春海。妹の手際に苦笑しながら春海を招き入れる忍。「…………」そして柱の影からその一部始終を見つめるノエル。家政婦は見た、妹の友人を連れ込む女主!……ノエルは新たなスキルを獲得したようだった。(あとがき)本当にお待たせしました! 第十六話の4、投稿完了しました。いや、本当にすみません。言い訳するなら1月から2月の中頃過ぎまでリアルがかなり忙しくて執筆の時間が全く取れなかったんです。この話を書き始めたのも3日程前ですし。……急いで書き上げたため妙にクオリティが低いかもですが、そのことに関しては勘弁して下さい(汗)さて謝罪もこの辺りにして。今回の話は予告の通り、月村家での1ページですね。月村家組は原作とらハとの乖離がもっとも大きいところなので(主に両親)、ちゃんと整合性が付けられているのか若干不安だったりします。この話では、原作に居なかったはずの月村両親が姉妹にとってどんな存在であるのかを表しました。十六話のその1ですずかが本を持って帰らなかったシーン、あれって実はさり気に伏線だったするんですよね。ただ、それでも両親が死んでいないことは忍にとってプラスなのか原作ほどドライではないし、すずかが居る影響でノエルも多少は人間的な性格をしていたりもします。この辺りが原作のラストストーリーにどの程度関わってくるのか、お楽しみください(と、ハードルを上げてみる)次の話は最後にリスティとあのロリ女医さんの話を挟み、それでやっと原作突入となると思います。あり得ないまでに亀展開ですが、これからもよろしくお願いします。では。