彼は、気がついたら此処に居た。朝はいつも通り、母親に起こされて母親の作った朝ごはんを食べ、お気に入りの戦隊モノのアニメのビデオを見た後に、姉とおままごとで遊んでいた。昼もいつも通り、母親が作ったオムライスを姉と一緒に食べて、一緒にお昼寝をした。昼寝から目が覚めると、それからがいつもと違っていた。母親が買い物と言うので、彼は自分が1人で行くと申し出た。この間、姉が1人でお使いをしているのを見て、ちょっと羨ましかったのだ。母親も初めはまだ1人では危ないと言って渋っていたが、駄々をこねると認めてくれた。出かけるときに買い物メモと小銭入れの入ったポーチを渡され、しつこく車に気を付けることと言われたことをよく覚えている。───な道を歩くときは道路の端っこを歩いて。───カ…な横断歩道はちゃんと手を上げて渡って。───オカ…イな歩道橋を歩いて。───オカシイな───なんでボク、□んじゃったんだろう?彼は気がついたら、───此処に、居た。それからのことはよく覚えていなかった。誰に話しかけても気付いて貰えなかった。どんなに泣いても、どんなに叫んでも、気付いて貰えなかった。そのうち彼は話しかけることを諦めた。次は此処にじっと座って、自分に気付いてくれる人をずっと待っていた。それでも誰も話しかけてくれなかった。そのうち彼は気付いて貰うことを諦めた。だんだん身体が重くなってきた。目の前の光景もよく見えなくなってきた。考えることも出来なくなってきた。それでも周りが暗くなってきて、夜になったことは解かった。周りには、誰もいない。───誰か気付いて自分が世界で独りぼっちになった気がして、心細かった。───ボクに話しかけて暗闇の世界が、怖かった。───ボクを見つけてその時だった。誰も居ない、居るはずがない彼の暗闇の世界に、話し声が聞こえてきた。まだ声変わりもしていない、高い声だった。誰も居ない、居るはずがない暗闇の世界で、誰かの姿が見えた。自分よりもちょっと年上の、姉と同い年くらいの男の子だった。『……お兄ちゃん、…だれ?』こんな時間こんな場所に居るはずがない者を見て、気がついたら反射的に話しかけていた。彼はすぐに後悔した。気付いてくれる訳がないのに。話しかけてくれるはずないのに。どうせまた無視されるだけなのに。たくさんの後悔や悲しみ、そして何よりも怒りが押し寄せ、自分の中で何かが弾けそうになって───「おう、そっちこそ。こんなとこでどうした?」急速にしぼんでしまった。『───え……?』話しかけてくれた?誰に?───ダメこの人は今、誰に話しかけたの?───期待しちゃダメ周りには誰も居ないのに。───また後悔しちゃう。そんなのイヤだ「ん?聞こえなかったか?こんなとこでどうした?」またも聞こえた声。目の前の子は、確かに自分を見ながら、そう言った。そして自分を誤魔化すのは、そこで限界だった。『…う……うぁ……あ…』口から漏れ出る嗚咽を自分の意志で止めることができない。目から涙が裁断なくあふれ出る。今までの悲しみに新たな嬉しさや安心感。いろんな感情が入り乱れ、けれど幼い彼にその濁流のような感情の波を制御できるはずもなく、『あぁっ…うぁぁあああああああああああッ!!!』気がついたら、目の前の少年に抱きついて泣きじゃくっていた。少年は一瞬だけ戸惑うように腕を迷わしていたが、すぐに泣いている彼の頭に腕を添えると、ひどく優しい声で言葉を紡いだ。「……遅れてゴメンな、怖かったよな」その声がどうしようもなく嬉しくて、何度も何度もその細い首を振りながら、また涙が流れ出た。「それで、気がついたらず~っと此処に居たってわけか」『…………うん』時間が流れるのも構わず泣き倒し、ようやく落ち着いたのは実に15分以上経ってからだった。その間、少年は「もう良いか?」等と尋ねることすらなくずっと静かに頭を撫で続けてくれて、その優しさにまた涙が出そうになって。彼が少年に事情を話し終えたときには、二人が出会ってかなりの時が過ぎていた。現在、二人は先程まで居た場所と同じ歩道橋の真ん中で柵にもたれながら並んで腰かけている。『だれも気づいてくれなくて、話きいてくれなくて、……怖くて、……うっ、うぅッ…』話しながら思い出したのか、またも嗚咽を漏らし始めた彼に少年が焦る。「あー、すまんすまん……もういいから。泣くなって、な?」『………うん』ポンポンと撫でられる頭を感じながら、息を整える。しばらくそうしていて彼が落ち着いたのを察すると、少年は静かに話を切り出した。「僕は和泉春海。そっちは?」『え……と、トウヤ。真田トウヤ、です』「じゃ、トウヤだな」「……うん」何気なく呼ばれた自分の名前が、トウヤには無性に嬉しかった。ただ名前を呼ばれる。たったそれだけの筈の行為が、思わず叫びだしそうになるほどに嬉しかった。そんなトウヤの内心に気付いているのかいないのか、春海は何事もなく言葉を続ける。「トウヤは気がついたらココに居たって言ってたけど、ココに来たのはなんでなんだ?何か用でもあったのか?」『……おつかい』「お使い?へぇ、一人でお使いに行ってたのか。すげぇな、まだこーんなちっせぇのに」『おかーさんに言ったんだ。ボクが行きたいって。……なのに、ここからうごけなくって。メモも失くしちゃって。……どうしよぅ、おこられる……』「あー、そりゃ災難だったな。……でもまあ大丈夫だって。おかーさんもそんなことで怒ったりしないって」『……そうかな?』「そうさ」『……うん』よく考えてみれば、彼の母親の会ったことのない春海にそんなことが分かるはずもないのだが、トウヤは春海のそんな言葉に安心していた。そんなトウヤの様子を見た春海は、トウヤからは見えないように口を引き結ぶと、まるでさっきまでの会話の延長と言わんばかりの何気なさで言葉を紡いだ。───残酷なまでの、真実を。「それで、だ」『……なに?』「お前はさっき、この歩道橋を渡っていたら急にここから動けなくなったって言ったよな?」『うん……』「───本当に、そうか?」『……え?』一瞬、唐突すぎて何を訊かれたのかが頭に入ってこない。ボクはいま、一体なにを訊かれたんだろう?この人は、なにを訊いたんだろう?「本当に、いきなりここに居たのか?」『え、…な、なんで…』意味が解からない。───そうだ。「その前に、何か起こらなかったか?」『そ、そんなこと……』思い出せない。───ボク、「しっかり考えてみろ。そこから目を逸らしたらダメだ、酷い話だけどな。……天国逝きてぇんなら、逃げたりしたらダメだ」『だ、だから、ボクはそんなこと知らな……ッ!?』思い出しちゃいけない!!───“死”んじゃったんだ。『ァァア…アァ……ア…ァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!!!』絶叫自分自身で閉じた筈の忌まわしい記憶の蓋がこじ開けられ、悪意的なまでの“死”の記憶が幼子に猛威を振るう。『そ、そそ、そうだ…??!ぁぁあああ、ボ、ボクはあの日、こ、こ、ここを歩いてたら急に目の前が真っ暗になって、…ッ!!?それで、それで、……き、気がついたら周りが逆さまになってて、……それで、それで!!……それでッ!!!』「──────」気がついたときには、先程以上の力で抱きしめられていた。「ごめんな、嫌なこと思い出させて。……よく頑張ったな。えらいぞ」柔らかい腕に。逞しい胸に。優しい言葉に包まれて。彼の脳裏に過ぎるのは自身の家族。父さんの力強さ。母さんの愛おしさ。姉さんの優しさ。似ているようで違うようで。その全てが思い出されて。そして、もう抱きしめて貰えないことが心の底から悲しくて。『うあぁぁぁ…アアッ、ウッ、…うぅぅ、……っ…』さっきで枯れ果てたと思っていた涙が、再び溢れてきた。「泣け泣け。今は泣こうが喚こうが僕が許す」『う、ぅぅぅうう、ううううぅぅぅぅぅ……ッ!!』どのくらいそうしていただろうか?1分?10分?1時間?実際には短いかもしれないが、感覚にすれば無限にも思える時間が経過して、トウヤはようやく落ち着いた。未だ瞳からは涙を流し、その口から漏れ出る言葉は震えていたものの、その声にはしっかりとした意思が感じられた。『……おにいちゃん』「……ん、どした?」『ボクって、…………………死んじゃったの?』それは疑問というよりは確認の意味を込めた問い。彼は自分が置かれている状況を幼いながらも察していた。「…………ああ」結果は、肯定。それは残酷なまでの、しかし確かな優しさだった。『なら、おにいちゃんは、…なんでここにいるの?』「あー……お前がいつまで経っても迷子だってんで、お前さんのお父さんやお母さんたちが心配してな。お巡りさんの代わりに迎えに来てやったんだよ」『……そうなんだ』「そうなんだ」春海の言葉がおかしかったのか、トウヤは春海に抱きついたまま、くすくすと笑っていた。そこで彼の身体が光に包まれる。自身の死を受け入れた者に訪れる“お迎え”。常世における遍く霊の最期───成仏だった。しかしトウヤは光り始めた自分の体を気にした風もない。春海はそんなトウヤを抱きしめて髪を優しく撫で梳きながら、言葉をかける。「お父さんたちに、何か伝えておくことはあるか?」『あ、……それじゃあ、おつかいできなくて、ごめんなさいって……あと、』そこでトウヤは言葉を切った。次にその口から出てきた声は、途切れ途切れの涙声。『ヒック……ありがとう……って。うぅ……いままで、いっぱい、いっぱい、い~っぱい……ありがとうって……』その言葉を確かに脳裏に刻みつけた少年は、少しでも彼の未練を無くすために力強く頷いた。「あいわかった。確実に伝えるよ。……まあ、なんと言うか、だから安心して行って来い」『……うん。……ありがとう、おにいちゃん』「別に。僕は何もしてない。お前が強かった、それだけさ」春海の不器用な慰めの言葉に、彼は涙が流れてクシャクシャになった顔を横に振る。『ううん、そんなことない。……ボク、うれしかったんだ。おにいちゃんが来てくれて。ボクに気づいてくれて。……ホントはボク、分かってたんだ。自分が死んじゃったの』「……そっか」『うん。でも1人で居るのが怖くて……。でもココでうつむくことしかできなくて。……だから……だからね、おにいちゃん』「おう」───ありがとうそして、彼の身体は最後に淡い光に包まれながら消えていった。例え涙にぬれていても、決して影のない、花が咲くような笑みを顔に浮かべながら。幼い彼の霊が消えた後、少年───和泉春海は一人、虚空に呼びかける。「葛花」呼びかけに応えるのは、春海が信頼する狐耳の童女。『応』「あの子の家族の家、分かるだろ?」『この周囲はあの童の匂いで塗れておるからの。辿ることくらい造作無いぞ』「上出来。あの子の遺言、頼めるか?報酬は翠屋のシュークリームでどうよ?」『是。お主は如何する』「僕か?そりゃお前───」春海と葛花は弾かれたように跳び退る。───オオオオオオオォォォォォォォォォォンお互いから離れるように跳んだ二人のちょうど中間にズガンッと破砕音を立てながら、“何か”が衝突した。「“コイツ”の相手だ」春海は着地すると、腕に巻いたホルダーから符を一枚取り出しながら告げる。『ふむ。まあ、この程度ならば儂が居らずとも、か。手古摺るでないぞ?』そう言い残して葛花の気配が消えた。“彼”の家族に遺言を伝えに行ったのだろう。葛花ならば幻術を使って『夢枕に立つ』を実演することができる。死者の遺言を伝えることにかけては、この上なく適任だろう。「たりめぇだ」既に居ない葛花に言葉を返すと同時に符に力を込める。即座に発動した障壁が、その“何か”を受け止めた。春海は障壁に追突し続けるモノに目を向ける。其処に居たのは、青白いモヤの塊のような存在。見た目だけならそれだけだ。だが、対峙している春海が感じているのはそれだけではなかった。敵意。悪意。怨恨。ありとあらゆる負の感情を煮詰めたものをダイレクトに感じていた。その中で最も強く感じるのは、動物のそれよりも下等で醜悪な、しかしより純粋な───殺気。「おい、念のため訊いとくぞ。心残りを告げられるくらいの理性は残ってるか?」───オオオオオオオォォォォォォォォォォンモヤは障壁に何度も追突しながらもその範囲を広げ、徐々に障壁の周りを迂回しながら春海に迫る。「ッチ!」それを見た春海は、舌打ち混じりに障壁を解除。そしてバックステップで後退しながら、二枚の符を投擲する。「急急如律令」呪を唱えながら、刀印に結んだ右手を振り下ろす。すると二枚の符から迸る青光が線を結び面を成し、モヤの進攻を阻む壁となった。国土結界春海が修行時に多用している、魔障の出入りを禁じる結界である。もっとも、今は緊急で張った簡易版であるため、効力はいつもの半分ほどであるが。しかしそれでも、この程度のモノを防ぐ力はある。「───疾ッ」モヤの動きが一瞬止まっている間に、春海は残りの二枚を投擲。先に放たれていた二枚と合わせて計四枚の符はキンッと軽い音を立てると、モヤを囲むように四方に壁を構築する。───オオオオオオオォォォォォォォォォォンモヤはなんとか春海に迫ろうと動きを強めるが、結界が揺らぐことはない。しかし、それでもモヤは動きを激しくする一方で決して止まる気配を見せない。まるでそれしか意識にないように。まるでそれしか出来ないように。「無駄だよ。それはアンタのような悪霊の類には相性最悪だぞ」なんせ歴史ある寺の守護にも使われている霊験あらたかな呪符らしいからな、パクリだが、と続けながら春海は考える。悪霊。それがこのモヤの正体だ。常世に未練や後悔、恨みを抱えたまま死んだ者が霊となり、そしてそれが他者への害意・殺意にまで昇華した存在。その存在はこの世の理を曲げて、生きた人間に害を及ぼす。そしてそれを退治することを生業とする存在が、曰く、“退魔師”“祓い師”───“陰陽師”。───オオオオオオオォォォォォォォォォォン(もう声も届かない、ってか?………………くそったれが)春海は結界の中で蠢くモヤを油断なく油断なく見つめたまま、静かに息を吐いて呼吸を整える。確実に勝てる相手だとはいえ、これ程までの殺気に多少は当てられてしまっていた。春海自身も悪霊相手の実戦は両手で数えるほどなのだ。それも已む無しだろう。呼吸を整え終えると、春海は悪霊に対してひとつの言葉を告げる。「久賀野 久光」春海から告げられた名にモヤが一瞬だけ揺らぐも、すぐに何もなかったかのように再び暴れ始めた。その様子を見つめながら、春海は言葉を紡ぎ続ける。「アンタには同情するよ。───ある日突然、飲酒運転の車に撥ねられて生きたまま放置された挙句、そのまま死んじまったんだからな。……そりゃあ、何かを恨みたくもなるよなぁ」それはほんの数日前に起きた一件の交通事故。平穏なここ海鳴市においても、当たり前のことながら事故の一つや二つは起こっている。これはその一つ。数日前の深夜、残業帰りのサラリーマンが帰宅途中に飲酒運転の車に撥ねられるという事件が起きた。そして運転手は人を撥ねてしまった恐怖から逃亡。───まだ息のある被害者を残して。翌日の朝に発見された被害者の周囲には這いずった跡が残されていたことから、撥ねられてもしばらくは意識があったと判断された。その後、犯人である運転手は逮捕されたものの、被害者は死亡。春海が目の前の霊の名を知っているのも何のことは無い、ただ最近に流れた交通事故のニュースを調べ直しただけだ。「アンタの気持ちが解かるとは言わない。……『前』に一度死んだとは言っても、自分の死様を覚えている訳じゃないしな。まあ、想像くらいは出来んでもないけど……」5年前に葛花と出会った日に感じた、圧倒的なまでの感情の激流。直接的な死でもないのに、あれだけのものを感じたのだ。たぶん、到底“死の感覚”なんてものは、人が扱いきれるものじゃない。「それに」春海の目が細く引き絞られる。それでもその顔に表情は無く、春海は目の前で殺意の塊に対して意識して無表情で淡々と、言った。「───僕はアンタが“トウヤを殺した”ことに文句つける気もない」考えてみれば、おかしなことだらけなのだ。ニュースを調べた限り、あの子供は『歩道橋から落ちた』としか報道されていない。今日の昼にもアリサも『男の子は歩道橋から落ちた』としか言っていなかった。通り魔に襲われた訳でなければ、事故に巻き込まれた訳でもない。ならば、何故?何故その男の子は、一人で歩道橋から落ちた?足を踏み外した?それこそあり得ない。春海は自分の横───正確には其処に存在する“歩道橋の柵”に目を向けた。その柵の高さは彼の目線まである。見たところ柵が壊れていた様子もない。とてもではないが、転んだ程度で子供が落ちることはないだろう。子供が自分から跳び下りた?それもない。事件当時、この橋を渡っていたのはその子供だけではなかった。周囲には数人の目撃者もいたそうだ。子供が歩道橋に足を掛けて跳び下りようとしていれば、だれかが止めただろう。其処まで考えたら、結論に至るのはむしろ容易だった。───すなわち、目の前の悪霊に結び付けることは。「僕はトウヤのことは何も知らねぇしな。アンタに文句をつけられるとすれば、それは死んだあの子と、その家族や友達くらいだろうよ」言いながら、春海は腕のホルダーから一枚の符を抜き取った。それは真紅の紙に朱色の墨で『急急如律令』と書かれた、一枚の霊符。「アンタだって、自分の意志で殺したんじゃないってことくらい解かってる。そんなアンタに感情をぶつけるのはお門違いだってこともな」『悪霊』というのは言わば現象だ。『悪霊』という存在そのものが一種の災害のようなものなのだ。もちろん中には生前の悪意を引き摺って悪霊になる者もいるが、反面、強烈なまでの死への恐怖から悪霊に転ずる者もいる。ましてや、今回の被害者である『久賀野 久光』がただのサラリーマンであったことを考えれば、彼がどちらであったなど言うまでもない。「───でもな」言葉を翻しながら、春海は符を挟んだ人差し指と中指の二本の指で力強く五芒星≪セーマン≫を切る。彼の指先が通った跡をなぞるようにして、五芒星が強く光る。「『俺』は人間なんだよ。当たり前だけど、死ぬのは怖い。アンタが自分の家族や友人を襲ったらなんて考えると、足が震える。───『俺』はアンタが怖くて仕方がないんだよ、『久賀野 久光』」けれども、その言葉と違い彼の目に宿るのは恐怖ではなく、決意。春海は自身が描く五芒星越しに、目の前に在る“人だったモノのなれの果て”を睨みつける。「『俺』はアンタに助けてやるなんて言ってやれない。その力も無い。……だから、『俺』がアンタに言えるのは一つだけだ」言葉と共に、春海は五芒星の中央から符を放つ。放たれた霊符が、結界の中でもがくモヤに疾駆する中途でその姿を変える。万物を焼き尽くす灼熱の業火の激流。───いわく、泰山府君炎羅符呪地獄の炎と化した霊符は、あたかも火山の奔流のようにモヤを包み込んだ。───オオオオオオオォォォォォォォォォォン紅蓮が踊る。モヤは炎の中で激しくその身を蠢かせた。苦しむように。痛がるように。───喜ぶように。春海は轟々と燃える炎に背を向けると、一歩を踏み出した。背後の光景など、切り捨てるかのように。「───死ね」最期の一言を、言い置いて。**********「あーあ、せっかくアリサたちが祈ってくれたってぇのになぁー……胸糞わりぃ」大通りでの一件の後。僕は人払い用の呪符を回収すると、夜空に瞬く星々や月を見上げながら家まで続く道を一人で歩く。その間に思い出すのは、昼間に黙祷を捧げていた自身の友達と、笑顔で成仏していったあの男の子。そして、さっき自分が殺した悪霊のこと。───そう、殺した、だ。『霊を倒す』ということは『そういうこと』だ。その前に天へと還ったあの子の成仏とは根本的に異なる、霊にとっての二度目の『死』。そこにファンタジー小説の中のような闘いへの高尚さは無く、在るのは人殺しという野蛮極まる行為だけ。これから先にどんな未来が訪れても、其処に在るのは、和泉春海が『久賀野 久光』の魂を完膚なきまでに殺し尽くしたという、その事実だけ。そのことに対して、僕は何も言うつもりはない。言う資格もない。そもそも殺した本人が何を言うのだ。今夜の僕の行為に言い訳など、絶対にしてはならない。そして次に思い出すのは、学校からの帰り道に葛花が僕に訊いたこと。───お主は何が為に闘う?「……はん。そんなの自分のために決まってんだろうが」解かってるさ、なんで葛花がことある毎にそんなことを訊いてくるのかくらい。外面の違いは兎も角、霊を退治するということは本質的には人を殺すことと何の違いもない。違いなんてあってはならない。そして『人のため』なんて言っても、それは理由を他人に押し付けると同時に責任まで他人に押し付けることと同じことだ。それも、人殺しの責任を、である。それに仮に他人のためにやっているのだとして、それでその人達になんて言うつもりなのだ。お前たちのために悪い霊を殺してやってるんだから感謝しろ、とでも?それこそそんな情けない人間に成り下がる気は、僕にはない。そんなことをしていたら、いずれそれは人間として破綻してしまう。一切の理由を自分の“内”に求めない。そしてそれはイコールとして、自分に責任を認めないということ。いずれは、そんな欠陥製品になり果ててしまう。もちろん、本心から人助けのために霊を殺すことができる人も、きっと何処かにいるはずだ。他人に責任を押し付けることなく、他人のために戦える。そんな心やさしい人が。それでも、それは僕には不可能だ。僕は究極的に言って、自分と無関係な人間が死のうが生きようが如何でもいい。地球の裏側どころでなく、例え隣町で人が何かの事件で死のうと、自分とその周囲に影響がなければ、関係ないものとして考えてしまう。ただ、僕自身がそのことに対して思うことはあるのかと言われると、特にない。そんなことは、多かれ少なかれ皆が同じように感じているんじゃなかろうか。人は聖人じゃないんだ。たとえニュースで殺人の報道や紛争地帯の映像が流れたところで、感じるのは多大な憐みと僅かな不快感。そんな人がほとんどだろう。「…………………………」それに。あの子───トウヤに対しても、結局僕は一度として「君は悪霊に『殺された』んだよ」とは告げなかった。理由は言うまでもなく、そのほうが“除霊するのが楽だった”から。つまるところ、そういうことだ。“赤の他人”のために戦うことは、僕にはできない。葛花は、そんな僕の性質を、よく解かっているのだろう。開き直るばかりで。無私の愛なんて言葉とは無縁の。決して『正義の味方』にはなれない。───僕の『普通さ加減』が。葛花の問いは戒めだ。“人殺しの咎を他の人間に押し付けるなよ”そう、言っているのだ。それは葛花の厳しさであり、同時にひどく解かり難い優しさでもある。僕が歪んでしまわないように。囚われないように。「…………」とは言え、それと同時に、その前に葛花が言った『惰性で良いように使われることが気に喰わない』というのも、掛け値なしに彼女の本音だろう。そもそも常日頃から色々と僕の世話を焼いてくれていること自体が破格なのだ。葛花からすれば、わざわざ僕のエゴに付き合う理由は無いのだから。恐らく葛花は、僕のサポートまではしてくれる。その程度なら彼女にとっては労力ではなく、あくまで暇潰しにしかならないから。僕と彼女がこの5年間で積み上げてきた信頼関係も自負しているつもりだ。しかし、僕が自分から抱えた問題を彼女に丸ごと依存するようなことがあれば、そのとき、彼女はあっさりと僕を見捨てるだろう。其処に、一切の未練は無く。在るのは、唯の無関心に成り果てる。確かに便宜上、僕と彼女の関係は“僕が主、彼女が従”の主従関係であるものの、何もそれは僕の方が格上という訳ではない。そんなものは術理が決めた定義に過ぎず。そんなものは人間が決めた定義に過ぎない。実質的には僕と彼女の関係は対等であり、片方が片方に隷従することも、依存することも、決して無い。これは予感よりも確かな、ひとつの確信なのだが。そのことを僕が忘れてしまった時が、和泉春海と葛花の別れの時───いや。僕と彼女の“死別”の時となる。そしてそれもまた、葛花が気安く自分に頼るな、と言ってくれる理由のひとつだろう。そのことを、僕はこの上なく嬉しく思う。だってそうだろう?彼女が僕との別れを惜しんでくれているのだから。───其処には、確かな『絆』が在るのだから。「……………………」ただ、僕はそのことに対して礼を言ったりするつもりはない。向こうが隠しているのだ。わざわざ言う必要もない。小さな親切には気づかない振り、である。そうして。暗闇の中、パトロール中のお巡りさんをやり過ごしながらつらつらと今日あったことや明日何が起こるかなー、なんて考えていると、不意に背後から音もなく何かの気配が現れる。『帰ったぞ。あの童の家族三人にも、確かに童の遺言を伝えた』振り返ると、自分の腕を僕の首に回しながらフンフンと鼻息荒く「しゅーくりーむ、忘れるでないぞ」なんて続ける、白い髪ときつね耳とふさふさのしっぽ付きの童女が一人。その向こう側で真っ白なモフモフしっぽがプラプラと揺れている。「……………………」まあ。さっきの僕の99%無駄な思考とは一切関係ないんだけど。ここは年上(主に精神年齢的な意味で)の礼儀として。「サンキュー」礼くらい、言っておかないとな。**********「ここ、なんだけど……あ、あれ?また何も感じない。……久遠。あなたはどう?」「……くぅん」(フルフル)「えぇぇ……警察のひとの話では絶対にいるって思ってたのに……」「くーん……」「うん、おかしいね。……でも、きちんと成仏できたのなら、それが良いことだよ、ね……」「くぅん……」(ぺろぺろ)「あはは、ありがと、久遠。……うん。だいじょうぶ、元気出たから」「くぅん」「じゃあ、お祈りをして、もう少し見て回ったら今日は帰ろっか。耕介さんに何かお夜食つくってもらう?」「くぅん♪」(あとがき)はい、ということで第七話「言わぬが花」の2、投稿しました。戦闘描写というか、除霊描写というか、とりあえずこんな感じになりました。まあ主人公的に余裕といえば余裕ですが、当SSの主人公は下準備をきっちりする派ですのでこんなもんです。もっと濃ゆい戦闘描写は原作突入してからですかね?……作者にその力量が有れば、ですが……。今回の話で主人公と葛花の関係が少し説明されました。この一人と一匹の関係性を少しでも読者の皆さまがご理解できれば幸いです。もっとも、二人の関係性を「これで全てです」なんて言うつもりはありません。そのための一人称描写ですから。春海が気づいていないことや、葛花独特の価値観などもこれから先で描写出来ればな、とは思っています。あと、春海がナチュラルに霊に触っているのですが、とらハ世界の霊能力者って霊に触れられましたっけ?某霊剣の姉弟や、うちの葛花は本人の霊力が強いからということで説明できるのですが……(まあ、もし霊能力者でも霊に触れないってことなら、春海の能力や独自の術ってことでこじつけるつもりですけど(笑))。最後に出てきたのは原作プレイした人には分かると思いますが、あの人たちです。魔窟さざなみの人たちもそのうち登場させるつもりですので、お楽しみに。次の話は高町家での日常ですかね。あの中国っ娘が主な相手になる予定です。ではでは。