ユー・タッチ・ミー
果たして切っ掛けは何だったのだろうか。
そっと彼女の肌に触れた時の喜びを、どう表現すればいいのか分からない。
ただ失われていく、その温かみをすくい取る事が、今の自分に出来る最善であった。
願わくば――。
◆
涙も出ない。
口腔はただの一言も音を発せず、慟哭は空気を振動させなかった。
綾瀬夕映はただ身を震わせるのみ。いや、震えているのかすら分からない。
月明かりが放課後の教室を照らしていた。
この時間だ、クラスメイトは全員帰寮している。
同年代の少女よりも幼い体躯、背中まで伸びた髪は、先っぽを縛って二つの房にしている。
ブレザーにチェック柄のスカート、麻帆良学園中等部の制服を着たその少女は、何処にでもいる学生の一人に過ぎないはずである。
そんな綾瀬夕映の姿は教室に無かった。厳密には存在しているが、〝見る事が出来ない〟状態である。
通称『幽霊病』、正式名称はエイドス消失症候群と呼ばれる病。
発症すると、その場で肉体が幽霊の様に消えてしまう事から名付けられた病気である。
意識はある。肉体を失いながらも、その場にプカプカと水面に浮かんでいるかの如く、その場に意識が残留するのだ。
放課後、クラスメイトが教室にまばらになった時、夕映はこの病気の発作を起こしてしまった。
夕映は三年程前からこの病気と闘ってきた。しかし、この病は現在根治が不可能であり、発作が起きさえしなければ日常生活に支障はきたさない。
発作とて半年に一、二回という所だ。
それに発作が起これど、対処療法は〝ある〟。
だが、今回ばかりはタイミングが悪かった。誰にも見られず、発作が起きてしまった。
それに、明日明後日は土日で学校も休み。自分の消失に気付かず、〝彼女〟が遠出をしてしまったら――。
夕映に恐怖が過ぎる。
そして、それは容易く心を覆う。
この『幽霊病』の恐ろしい所はそこであった。
体を失い、意識だけの存在になった発病者は、心が剥き出しになる。
発作の間は肉体を失うため、生理現象は必要とされない。食事も、睡眠も、便意も無くなる。
ただずっと、絶え間ない孤独感、絶え間ない恐怖に襲われ続けるだけだ。そして、酷ければそのまま心を壊してしまうのだ。
(――)
声は出ない。心の言葉も纏まらない。ただただ恐ろしく、ただ不安になる。
存在しない心臓が、氷水に沈められた様な感覚。芯が冷えていく。
泣ければスッキリするかもしれないが、あいにく涙も存在しない。
眼球も消えているはずなのに、夕映はなぜか教室が見えたままだ。意識だけの存在になり、空虚な教室をずっと見つめ、不安に心を刈られ続ける。
その時、教室のドアが開いた。
ガラリと音がした後、長身のシルエットが薄暗い教室に入ってくる。
その人間の息は荒い。
腰まで伸びる黒髪に褐色の肌。まるでモデルの様なスタイルは、幼い体躯の夕映とは正反対だ。
教室に入ってきた人物は龍宮真名、夕映のクラスメイトの少女だ。
「――はぁ、はぁ、すまない。遅くなってしまったね」
真名は特に表情も変えず言うが、呼吸は乱れている。月明かりが、肌の上に浮いた汗を光らせた。
ここまで急いできたのが、容易に想像出来た。
「ふぅ、探したよ。まさか教室だったとはね、盲点だった」
真名は夕映の元へ真っ直ぐ歩いていく。
肉眼では見えないはずの夕映へと近づく、まるで確信がある様に。
その時、真名の瞳が光った。
彼女の瞳に魔力が集まり、独自の力場を作り出す。
魔眼。そう呼ばれる特殊能力だ。
真名の持つ魔眼が、本来見えないはずの夕映の姿を克明に写し出す。
「さぁ、帰ろう。皆心配している」
真名はそう言いながら、夕映に〝触れた〟。
そして呼びかける。
「な、『綾瀬』」
夕映の名を呼んだ瞬間、パキンと小さな音がした。
小さな光の粒が周囲に現れ、それが真名の触れた先に集まっていく。
光が一人の少女の輪郭を作り出すと、そこに肉体が生まれ始め、ほんの数秒で夕映の姿が現れた。
帰宅のために鞄を持ち、いつもの制服を着ている。それは発作直前の夕映の姿に他ならない。
――唯一の対処法。
それは、第三者が患者の存在しないはずの肉体に触れ、名前を呼びかけてあげる事である。患者に自らの存在を示してあげるのだ。
一見何の事でも無い様に思われるが、これが患者に与える影響は大きい。一説には第三者の副交感神経の状態を察知し、自らの交感神経に影響を与えるとも言われていた。
「あ……」
肉体が戻った夕映は安堵し、口から声を漏らす。
そして、表情がクシャリと潰れ、ボロボロと涙を流し始めた。
「う、うあ~~~~~~ん……」
発作を起こしていた時の恐怖や孤独感が、枷が外れた様に溢れ出した。
そんな夕映を、真名は軽く抱きしめてあげる。
身長差のある二人だ。夕映の頭はすっぽりと真名の胸に収まった。
「ふぇ、お、遅いんです! わ、私がどれだけ……」
「すまない。てっきり図書館島に行ったのかと思ってね」
夕映は泣きながら文句を言う。そんな夕映に対し、真名は表情一つ変えずに、背中を擦ってやった。
夕映とて、真名に当たりたいわけでは無い。それでも、今は彼女への甘えが口から溢れ出てしまうのだ。
見れば真名の姿は汚れていた。肌に幾つも小さな生傷があり、服にも埃や土が付着している。
彼女の体から汗の匂いもした。
おそらく必死に探してくれたのだろう。
文句を言い続けるが、それでも夕映の心は落ち着きを取り戻していた。
多くの『幽霊病』患者は、この発作後に押し寄せる感情の波により、自殺に至る者が多いという。
夕映も一時期自殺を考えた。まるで世界中で自分だけが一人ぼっちの様な感覚。
それでも、今は――。
ぐしぐしと、夕映の頭が撫でられた。
「落ち着いたか、綾瀬」
「……ぐす、はい。すいませんでした龍宮さん。ありがとうございます」
体を離す。少し寂しい気もしたが、さっきの〝波〟程では無い。
「気にするな。私は好きでやってる事だ」
いつの間にか涙は収まっていた。
先程の失態に頬を染めながら、夕映は制服の袖で涙を拭う。
「早乙女や宮崎が心配しているぞ。それに病院にも連絡を入れないとな」
そう言いながら真名は夕映を促しながら、背中を見せる。
この背中を見るのは何度目だろうか。
夕映が麻帆良学園に入学してもう二年近くになる。真名は普段は素っ気無いのに、困った時があると世話を焼いてくれる。
特に、夕映が発作を起こすと、毎回彼女が発作を止めてくれた。
夕映は思うのだ。
彼女がいるからこそ、だからこそ自分は生きていられるのでは、と。
それは甘い囁きだったのかもしれない。甘美な誘惑。
だが聞いて、壊れてしまうのが恐い。
それでも、いや、今だからこそ――。
「ん?」
真名は違和感に振り向いた。
自分の服の裾先が、夕映に握られている。
夕映は顔を俯けたまま、真名に問いかけた。
「……その、た、龍宮さんは心配、してくれたですか?」
態度から、その質問には言外の意味がある事が真名にも分かった。
夕映の問いかけに対し、真名は無言。
たた裾を握った夕映の手を解いた。
「あ……」
そのまま真名は背中を向けたまま、教室のドアに向かう。
後悔。
また泣きそうになった。
夕映は再び顔を俯けた。そんな夕映の耳朶に声が届く。
「――心配しないわけないだろ」
そう言いながら真名は教室を出て行く。
「え……」
その言葉に、夕映はポカンとした。
「おい、綾瀬どうした。早く帰るぞ。私は空腹でもあるんだ。さすがに腹に何かを入れたい」
廊下から真名の呼びかけが聞こえる。
夕映は表情を明るくして、真名を追いかけた。
「はい、今いきます!」
◆
木枯らしが吹くと、コートを羽織っていても思わずブルリと体が震えた。
スカートの下の剥き出しの足から、冷気が体を昇って伝わる。
「寒くなりましたね」
「そうだな」
夕映と真名は麻帆良内にある大学病院から出てきた。
月曜の午後、夕映達は早退して病院に来ている。
夕映だけで無く、真名も早退出来たのは、何より事情を知っている担任教師のお陰でもある。むしろ真名がいたからこそ、夕映の早退が許可されたとも言えた。
春先から物騒な昨今、通常ならば集団下校が強制される。特に、一人での帰宅や外出は禁じられていた。
病院に行くのは、発作があった時のお決まりでもある。行ったところで何か処方がある分けでは無く、発作後の検査に過ぎない。
魔法医療を専門とする医師に体を検査され、ほんの一時間程で診察は終わった。
その帰り道、二人は並んで寮へ向けて歩いている。
夕映が寮への近道である脇道に入ろうとした時、真名に止められた。
「もう一本先の道から行こう」
「居るんですか?」
「あぁ」
問いかける夕映に対し、真名は瞳を薄く光らせながら答える。
「――はぁ。最近多いですね。やっぱりあの事件ですか?」
「それだけとも言えんよ。余り他言して貰っては困るがな、どうやら世界樹が腐り始めているらしい」
「世界樹が?」
夕映は促されるままに、脇道を通るのを止める。チラリと脇道を覗いたが、じっと目をこらすと遠くに薄っすらと奇妙な〝影〟が見えた気がした。
(う、嫌ですね)
あれら〝影〟は、普通の人間だったら気付かず通り過ぎるか、気付いても多少寒気が走る程度だ。
霊や残留思念と呼ぶもの。それが〝影〟の正体であった。
夕映は自らの持病の影響で、それらに敏感になっていた。触れてしまえば、それらの恐怖や孤独、不安といったものが自分に流れてきて、碌なことにはならない。
「春先の麻帆良祭か。あの時期に世界樹に腐敗が見つかったらしい。お陰で麻帆良の上層部や業界のお偉いさんはてんてこ舞いさ。腐敗が酷くてどうにもならないらしい。切り倒すにも、世界樹には色々としがらみがある様だしね」
「そうなんですか」
言われて見れば、去年は一年中青々と繁っていた世界樹の葉だったが、今年の冬には寂しい装いとなっている。
「でもそれとアレは関係があるんですか?」
アレ、と言いながら夕映は先程の影を思い出す。
「元々、麻帆良は魔力が多い土地柄だ。幽霊や怨霊の類が発生しやすいのさ。それを浄化していたのが、あの世界樹って分けだ。霊地と呼ばれる場所には、大なり小なりそういうものがあるんだよ。だが浄化装置が壊れれば必然、淀みが溜まるって分けだ」
真名の言葉に夕映は頷いた。
麻帆良で治療を受けるに当り、夕映は魔法について大まかに知らされていた。何やら世界樹が重要だという事も。
「はぁ、本当に物騒ですね」
「今に始まった事では無い。いつの世も物騒なものさ。ただそれに気付かないだけだ」
「そんなものですか」
どんよりと暗くなりそうな夕映の頭を、真名の大きな手が撫でた。
真名の手はゴツゴツと硬い。どうやら彼女は本物の銃を扱うらしく、その身なりの割りに男らしい手をしている。
「落ち込むな綾瀬。君ぐらい、私が守ってやる。安心して学生生活を送ってくれ」
「……はい」
思わぬ言葉に、夕映は顔が紅潮してしまう。
そんな夕映の表情を見た真名は、薄っすらと笑みを浮かべる。
夕映にはそれが悔しくて、恥ずかしくて、地団駄を踏んだ。
「あ~~、もうッ!」
「おー、恐い恐い」
真名はパっと離れ、クスクスと笑っていた。
◆
どうにも魔法やオカルトという類のものは秘匿しなくていけないらしく、夕映の疾患もそれに類するらしい。
小学校高学年で発病してからは、秘匿義務を強制されつつ特例で多額の保険金が国から支給されていた。明確な治療法が無いので、それは口止め料とも言うべきものであった。
しかし、年に数回という発作ながら、いつ起こるか分からない病気では秘匿もままならない。
それだったら、という分けで夕映が連れられたのは、実家のある市の隣、麻帆良学園都市であった。
ここは魔法使いが運営する都市でもあるらしい。盆地になっているこの場所には、数多くの教育施設が存在しており、その中には大学の付属病院もあった。
表向きは真っ当な病院ではあるが、案内板に無い診療室では魔法診療なるものも行なわれている。
夕映の不思議な病も、この診療室で見てもらっている。
国からの薦めも有り、夕映はこの都市で学園生活を続ける事となった。
麻帆良では夕映の病気に対し、出来る限りの便宜が行なわれている。
便宜の一つには本来親族以外に明かす事が出来なかった病気について、寮のルームメイトへの開示の許可も上げられる。
入学した当初はさすがに気が引けたものの、夕映のルームメイトである二人は気の良い友人であった。
そのため、入学してから三ヶ月ぐらい経った頃、親友とも呼べる程仲良くなった二人に対し、夕映は自らの病気を明かし、協力の快諾を得ていた。
「それでどうだったのよ夕映」
ベッドの上からニヤニヤしながら夕映に問いかけるのは、ルームメイトの一人、早乙女ハルナだ。
「どうって、いつもの通り病院に行ってきただけですよ」
「またまたー。龍宮さんとベッタリしてるじゃん、そっちが聞きたいのよ」
「あ、あれは!」
ハルナの言葉に返答しようとするものの、言葉に詰まってしまう。
先週、発作が起きて以来、真名は夕映に張り付くように行動を共にしている。
今までとてそれなりに一緒だったが、土日含めての三日間はまさに『ベッタリ』と形容が付く程であった。
「でも良かったよ。ゆえゆえがすぐ見つかって。てっきり発作じゃなくて……」
「……のどか」
そう言いながら悲しそうな顔を浮かべるのは、ルームメイトの宮崎のどかだ。
風呂上りの少し湿った髪をタオルで拭いながら、お気に入りのパジャマを着ている。
「そうだよ夕映。あんたはチビなんだから気をつけな。まぁ、まだ発作の方で本当に良かったわね」
夕映としては発作の苦しみを考えれば言い返したいものだったが、二人が本気で心配してくれてるのが分かり口をつぐむ。
ハルナがベッドでゴロリと転がりながら、テレビのリモコンを弄る。
丁度、ニュース番組に当たった様だ。
「うわー、噂をすれば、って所かしら」
テレビでは見慣れた風景が映し出されていた。
緑の多い街中、石畳の通り、赤い屋根の家々。報道されているのは間違いなく麻帆良であった。
「早く捕まってくれないかね」
「そうですね」
一ヶ月も経てば報道は下火になるものの、こうやって時々この街はテレビで報道されていた。
文化祭後に起きたあの事件、そして先月の事件。
犯行の手口から同一犯と言われているが――。
「やめやめ。辛気臭いからチャンネル変えるよ~」
ハルナがリモコンを押し、バラエティ番組に切り替えた。
「あ、これって」
のどかが指差したのは、テレビに映ったファミレスの料理だ。
「この前入ったマズイファミレスじゃん」
どうやらファミレスチェーンの料理を格付けする番組らしい。そういえば先日図書館探検部の帰りに入ったファミレスだ。
そこの季節メニューを頼んだハルナは、よほど舌が合わなかったのは、かなりブーブー言ってた気がする。
「うぇ、コイツ何言ってるの。あの料理に八十点とか、信じられないんだけど。そう思わない、のどか」
「う、うーん。私はけっこうあの味、好きかも」
「嘘でしょー」
そんなやり取りを聞きながら、夕映も寝るための準備をする。
「電気消しますよー」
「あいよー」
「うん」
夕映の言葉に、二人からの返事がある。
電灯のスイッチを切った時、自分の机の上にあった携帯の点滅に気付いた。
暗くなった部屋で、折りたたみ式の携帯をパカっと開けて確認すると、どうやらメールの着信の様だった。
相手はもちろん――。
夕映はおやすみのメールを送るため、ポチポチとボタンを押した。
そんな夕映の姿を、ベットの毛布から頭だけ出したハルナがニヤニヤしながら見つめていた。
「おやおや、ゆえっち殿。お盛んだねー」
「なっ――」
ハルナの視線に気付き、夕映は携帯を背中で隠すようにする。
「う、うるさいです、バカハルナ! さっさと寝るです!」
「へいへい。寝ればいいんでしょ。寝れば」
そう言いながらも、ハルナはニタニタと笑っている。夕映はそれが悔しくて、自分のベッドに飛び込み、毛布を頭から被ってしまう。
毛布の隙間からは、テレビの光とハルナとのどかの話し声がまだ聞こえた。
その薄闇の中で夕映は再び携帯を開き、メールの続きを打った。
「――おやすみなさいです」
そう呟き、メールを送信した。
未だ発作の恐怖はある。それでも、友人や大切な人の温かみがあった。
だからこそ夕映は――。
その日、夕映は心地よい眠りに身を委ねた。
◆
そして数日後、夕映は衝撃的な出来事を耳にする。
クラスメイトである長谷川千雨の死がそれであった。
つづく。