世は並べてことも無し、とはいかぬらしい。
C.E.五七年七月十日。なおもくそ熱い日差しに辟易しつつ、ユウナは空調の利いた自室でだらだらと抹茶をすすっていた。ニュースでは相変わらず大西洋連邦、ユーラシア連邦、おまけの東アジア共和国宇宙軍のプラント宙域駐留に関して賑わいを見せている。これを受けて新たにプラント最高評議会議員に選出されたシーゲル・クライン、パトリック・ザラ両名が三国を激しく非難し即時撤退を要求していた。
もう見事なまでに不穏な空気が満載である。ちょっと息しただけでむせかえりそうで、思わず扇子を開いてぱたぱた仰いだ。やめようよー、戦争なんて儲からないだけでつまんないよー。思わずロゴス辺りにそう嘆願したくなった。
空になった茶碗にお世話係のユリー・サザナミ改めユリー・エルスマンがお代わりを注いでくれた。礼を言って、ついでに茶菓子の追加も要求する。返答は可憐な微笑であった。ガッデム。
つい先日入籍して新婚ほやほやのご婦人は、もう一人この部屋にいる人物にも茶を勧めて厨房へと去っていった。きっと何だかんだでほだされてお茶菓子を持ってきてくれるに違いない。…そんなわけないか。どうせ愛しい旦那様のために料理人から手ほどきを受けているのだろう。彼の舌と命のために、なるべく早い習得を祈った。
しかし思ったよりも早かった。ユウナは熱い抹茶を一口すすりながら落ちた男の顔を思い出す。ユリーの夫ダフト・エルスマンはあまり地上のナチュラルに良い感情を抱いていないと思っていたが、先日久方ぶりに顔を見るとその気配はきれいさっぱり消えているように見受けられた。一体何をすればああなるのか。げっそりとやつれた色男を見て、自分が本来嫉妬に狂うべき喪男であるにも関わらずつい慰めてしまったではないか。
まあ、にこにこと結婚報告をするユリーの目が、幸せいっぱいの新婦というよりも獲物を自慢するハンターのものだったことが大きく影響しているのだろう。その日は四六時中ドナドナの曲が頭から離れなかった。
「女性は怖いねえ。結婚は人生の墓場とはよく言ったもんだよ。そう思わないかな? トダカ三尉」
「…は。私にはわかりかねます」
返答したのは、一人の青年士官だった。年は二十代半ばほどで、しっかりとした体つきと実直そうな顔立ち、まさにこれぞ軍人と言わんばかりの男である。ぴしりと隙なく着込んだ軍服ははっきり言って酷く暑苦しい。部屋のドア付近に直立不動の姿勢をとる彼にユウナは苦笑した。
本来オーブ軍に所属するトダカが何故セイラン家の、もっと言うと自分の側に控えているのかというと。彼はユウナの護衛任務を受けているからであった。
うん、簡単に言うとセイラン家がテロにあったのである。ユウナ自身はその場にいなかったのだが、聞くところによると正門あたりで何だか薬でも決めちゃってるような男が「青き清浄なる世界のためにー!」とか叫びながら爆弾持って突入してきたらしい。おそらくコーディネイターの大量受け入れにプッツンしたブルーコスモス――自称が頭につくと思う――の突発的行動なのだろうが、事態を受けたオーブ政府によってセイラン一族の警護が強化されることとなったのだ。
無論、今最も狙われているのは計画推進者たる父ウナト・エマだろう。正直父上には悪いことしたかなーとか思いつつ、ブルーコスモスがブチ切れるくらい移民効果が上がっていることにほくそ笑んでしまった。実際タケヨリ島の新都市ワムラビの人口は五十万を越え、なおも増加の一途をたどっている。おかげで連日建築会社があちらこちらで住居を建て、その影響で株価もうなぎのぼりだった。
予想されていた移住民の職業問題も、多くがコーディネイターだったせいか彼らの職自体はすぐに解決できた。ただそれによる国民の就職率の低下を避けるための施策や調整などで行政府は地獄を見たようである。あのウナトですら「寝かせてお願い!」と叫ぶくらいだそうだから、その苦労は推して知るべし。ごめんねー!
まあそんな悲喜劇を乗り越えた結果あちらの物語――所謂史実というものよりも、オーブのコーディネイター人口は増加したはずである。その余波でプラントが人的資源の面でちょっと苦労するかもしれないが、そこら辺はご勘弁願いたい。パトリック・ザラに知られれば殺されそうなことを内心で呟いたユウナは、ふと遠くからぱたぱたと足音らしきものが聞こえてくることに気がついた。
くすりと笑み、トダカに扉を開けるようお願いする。次の瞬間、小さな影が室内に飛び込んできた。黒い髪にこげ茶色の瞳をした、三歳ほどの幼子だ。
「どうしたの、カナード。何か用事かな?」
少年、カナード・シフォースはそのままユウナの側まで駆けより、無言であるものを差し出した。それは色とりどりの花で編まれた冠である。
「おお、よく出来てるねえ。ひょっとして僕にくれるの?」
「ん」カナードは表情を変えることなく頷いた。ユウナは頬をほころばせ、幼子の小さな手から花冠を受け取って頭に戴く。似合う? と視線だけでトダカに訊ねると、男は苦笑しながらも頷いてくれた。
「ありがとう、カナード。おじいちゃん嬉しいなあ」
抱きよせて頬ずりをした。幼児特有のぷにぷにした頬っぺたが気持ちいい。カナードは無表情ながらも、どこか嬉しそうな雰囲気を発していた。
しばらくの抱擁の後、カナードは標的をトダカに変えたのか、また小走りでそちらの方へ向かっていった。ロックされた側は少しばかり怯え腰になる。どうやらあまり子供の相手は慣れていないらしい。
カナードはもう一つの花束――こちらは首飾りの様だ――をトダカに掲げた。
「む…私にかな?」
こくりと頷く。困ったようにこちらを見てきたので、苦笑しつつ受け取るよう促した。するとトダカは面映ゆそうにしながらもそれを首にかける。
「ありがとう。とても綺麗だね」
やはり無表情だ。赤ん坊の頃はあれほど感情豊かだったのに、最近はめったに泣かないし笑うこともなくなった。別に何も感じていないというわけではない。ただ内心を表に出さなくなっただけである。そうなった理由にこれといった心当たりもないので、おそらくは生来の気質なのだろう。史実ではあれだけ狂戦士していたのに。
トダカに花を渡すと、カナードは再びユウナの側に戻ってきた。その頭を撫でてまた微笑む。弟と言うよりかは、やはり孫を見るような心持になってしまうのは仕方がないだろう。年齢的に考えて。
「カナード、カナード? ここにいるの?」
そんなちょっぴりへこむことを考えていると、開け放たれた扉からエレン・シフォースが顔を出した。服装は仕事服たる白衣ではなく普段着である。彼女はユウナの傍らにカナードを見ると、少しだけ眉をひそめて部屋に入ってきた。
「もう、駄目じゃない。お兄ちゃまの邪魔をしちゃ」
「じゃま、してない」
「してるの。いつも言ってるでしょう? ユウナお兄ちゃまはお仕事で忙しいの。だから我がままで困らせちゃいけませんって」
「まあまあ、エレンさん。そのくらいで。カナードはこれを届けてくれただけだから。ね?」
ここのところ教育ママと化したエレンにユウナは苦笑した。どうでもいいが、怒っている姿がお菓子を取られて頬を膨らませている童女にしか見えない。本当に二十二なのかこのお嬢さんは。
「ユウナ様はカナードに甘すぎです。奥様もおっしゃってましたよね? ちゃんと叱る時は叱らないと、将来苦労するのはこの子だって」
「やー、それはわかるんだけど。でもほら、まだ小さいし…」
「関係ありません。ほらカナード、こっちにいらっしゃい」
しかしカナードはユウナの背に隠れるように下がってしまった。エレンの柳眉がよろしくない角度を描いていく。見かけが童女であろうが美人が起るとものすごく怖いのである。
「そういえばエレンさん! 今日はお休みなんですねえ! 久方ぶりに親子水入らずで遊ぶと言うのもいいんじゃあないですか?」
慌ててごまかしに入った。ちょっとトダカ三尉、そんな所にいないでこっちを手伝って頂戴。そう視線に思いを乗せると思い切りそらされてしまった。畜生ブルータスめ。
ユウナの引きつった笑顔にあきれ果てたのか、やがてエレンは大きなため息を吐いた。
「…そのつもりで来たんですけど、カナードがなかなか捉まらなかったんです。屋敷にいると思ってたのに、まさか庭へ出ていたとは…」
さらに深くカナードが身を縮こまらせた。まああれだけ外に出るなと言いつけられていたにもかかわらず、庭とはいえ屋敷から抜け出したことを咎められると思っているのだろう。そしてそれは正解である。後でエレンがこっぴどく叱る情景がまざまざと思い浮かび、ユウナは苦笑した。
オーブ国内は比較的安全ながら、世間一般ではコーディネイター排斥論がもうこれでもかと言う程渦巻いている。その上安全と言いつつオーブですら御覧の有様であった。不幸中の幸いはセイランへのテロ以降、続くものが出ていないことなのだが、だからと言って安心するにはあまりにも情勢が悪すぎた。
少し調べればシフォース一家がセイラン別邸に暮らしていることも容易に知れよう。そうなれば彼らもまた標的の一つに数えられる可能性もあった。そうした検討の結果、幼きカナード少年はセイラン邸に軟禁といって差し支えない状況に置かれているわけである。そりゃストレスもたまると言うものだ。
「…おそといきたい」
子供に入らぬ苦労を強いているという負い目があるためか、教育上必要な部分以外ではエレンもユウナも強く出られない。うっと声を詰まらせ、無言で訴えかける幼子に気圧された。
「ユウナにいちゃは、おそとでてるのに」
「だ、だからユウナお兄ちゃまはお仕事だって…」
「じゃあおれもおしごとする」
「そうきたか」
思わず感心してしまった。じろりとエレンの視線が頬に突き刺さる。
「そりゃまあ、仕事の都合上外出することもあるけどさ。今日だって午後からワムラビのモビルスーツ研究所に出向く予定があるし」
ぱっとカナードの雰囲気が輝いた。顔ではなく雰囲気なのがこの子らしい変化である。ユウナはどうしたもんかと、ブルータスことトダカへ視線をやった。彼は見事なまでに渋い表情を浮かべて首を横に振っている。
「でもさすがにこれ以上閉じ込めるのも可哀想だし……何とかなんない? トダカ三尉」
「お気持ちはわかりますが…お奨めは致しかねます」
「そうですよ。ほら、カナード。今日はママと御部屋で遊ぼうね?」
「やだ」
しかし子供にそうした事情はわからない。カナードは表情筋を少しも動かさないながら、しかし不満をありありと表現していた。ここまで来ると負い目があろうと親としての自覚が鎌首をもたげるようだ。ぴくりとエレンのこめかみが引きつる。
「カナード。いい加減にしないと……」
「よし、それじゃこうしましょ」
覆いかぶせるようにユウナはぽんと手を打った。背中に流れるのは冷や汗では断じてない。ユウナのだし汁である。
「カナード、今から言うことをしっかり覚えておくんだよ?」
幼子の目線に合わせるよう腰を折り、未だ哀れな護衛対象を救おうともしない薄情軍人を指差す。カナードは小首を傾げた後こくんと可愛らしく頷いた。
「あれがパパだ」
トダカがそれはそれは変な顔をした。次いでこちらの意図に気付いたのかさっと顔を青ざめさせる。
「そして、ママ」
エレンの場合は改めて宣告する必要はないが、一応付け加える。彼女もトダカの段階でそれに思い至ったのか、げぇ、という感想を隠そうともせず頬をひきつらせていた。
「最後に、僕がお兄ちゃん。わかった?」
「…? うん、わかった」
素直な良い子である。自分とエレンの教育方針が間違っていなかったと思わず涙がちょちょ切れてしまいそうだった。
「お待ちくださいユウナ様! そ、それはいくらなんでも」
「さあパパ。出かけようか。僕、カフェ『下剋上万歳』のフルーツジュースが飲みたいなあ。カナードはどこに行きたい?」
「…おそと、でていいの?」
「勿論。パパとママも一緒だから大丈夫だよ」
「じゃあ、おはながみれること」
「ふんふん、お花か。となると国立オロファト植物館だあね。あそこには美味しい揚げドーナツの屋台があったから、それも追加ですな」
ユウナ様! トダカが鋭い声で反対の意を述べたが、ユウナはそれを苦笑のみで押しとどめた。どうせい午後から出かけるのだから、その前に少しくらい子供の我がままに付きあったとて罰は当たるまい。
「大丈夫、狙われてるのは父上であって僕の警護なんて保険程度なんだから。それは自覚しているでしょう?」
そうでなければ、士官学校を出て幾ばくもしない若造に御鉢が回ってくるはずがないではないか。そう言外の意を悟ったのだろう。トダカの顔に若者らしい赤い感情が宿った。落ち着きなさいな、と彼を手招きする。
「まあまあ。それでもセイランの護衛に回されるってことは、そんだけ期待されてるってことでしょう。そう悲観するものでもありますまいや」
「…失礼しました」
「ともかく、もう決まったことだから。それともこのカナードに今更やっぱ駄目、なんて言えますか? やーいやーい、冷血かーん」
きらきらと喜びの雰囲気をまき散らしているカナードを前面に押し立てると、トダカだけでなくエレンまでもがうっと言葉を詰まらせた。やはり子供の純粋な感情は恐るべき凶器である。今度試してみよう。
「世の中って諦めが肝心だと思うよ!」
何かものすごい目で睨まれたけど華麗に無視した。地位と権力ってすごいね!
オーブ連合首長国首都オロファト。母なる火山ハウメアの腕に抱かれた南太平洋で最も栄えている大都市である。三日月を描く湾部の中心として古くから良港としても知られたオロファトは政治の府のみならず海洋貿易の一大拠点としても有名だった。今も眼前で、エメラルドグリーンの海原を切り裂き、大小様々な船が蒼穹の果てより来訪し続けている。
詩人があれば千の歌を紡ぎ称える程の美しさがここにはあった。
「いやあ、なかなか楽しかったねえ。花だけじゃなくて果物まで成ってたのはちょっと意外だったけど」
オーブ自然公園は天と地の青に色鮮やかな花々を描いていた。ヤシの木が水面に煌めく光の粒を受けてきらきらと輝いている。潮騒と共に響くのはその多くが笑い声だった。
「おはな、いっぱいだった」
それは家族連れであったり、恋人であったり、友人であったりと実に様々な関係の人々である。帽子をかぶった少年がスケボーに乗った少年に笑いかけ、風船を持った小さな娘が父親にソフトクリームをせがんでいる。あるベンチに座るカップルは、つい通りがかりの女性に目が行ってしまった男が平手打ちを食らっていた。ざまあ。
そう言う意味では、自分たちもありふれた家族の一情景に過ぎなかったであろう。ベンチに座った六歳と三歳の男の子がフルーツアイスを食べ、それを両親が苦笑交じりに見守っている。極々当たり前の、それが故に貴重な光景だった。
「揚げドーナツは美味しかったんだけど、あっちのマンゴー饅頭は微妙だったよ。もう甘くて甘くて、ちょっと砂糖入れすぎじゃね?」
「みたことないはな、いっぱい」
「カナードは本当にお花が好きなのね」
母親、もといエレンが微笑みながら幼子の頭を撫でた。その手はすぐにハンカチへとってかわり、べたべたと口の周りを黄色に染めているクリームを拭いとりにかかる。
「それとユウ――君は食べすぎです。ドーナツ、お饅頭、クッキー、果ては試食のバナナまで。どんだけ食べる気ですか」
「植物園で熟れに熟れたバナナ超美味しかったです」
ユウという安直極まりない偽名で呼ばれたユウナは満面の笑みで答える。いや、さすが南国。目茶目茶うまかった。
「お父さんも何とか言ってください」
「は? あ、いや、しかし……」
「パパ、あんまり挙動不審だと目立つよ」
思わず肩を震わせた。どうやら突き抜けて開き直ってしまったらしいエレンは外出以降、一貫してトダカの妻を演じ切っていた。その演技力たるや有名劇団の俳優も真っ青と言うレベルで、パパは困惑しっぱなしである。いわく、女性は生まれながらの女優なのだそうだ。
トダカも一応任務と言うことで割り切っているのだろうが、やはり生来の気質からか心なし引いているように見受けられる。まあそれでも頬を赤く染めている辺り、まんざらでもないと見てはいたが。フラグですね、わかります。
「若いって、いいねえ」
思わず年寄の感想が漏れる。カナードが「わかい、いい」とオウム返しで頷いた。間違いなく意味はわかっていない。
「…ユウ君は本当に六歳なんですか?」
「僕が年寄りだとでも言うのか! 曲がり角とは違うんです!」
ぶん殴られた。
「え、エレンさん! それはいくらなんでもやりすぎでは…」
「母親としての教育的愛の鞭です。だから問題ないです。ええ問題ないですとも。赤道の太陽のせいでどれだけケアが必要なのかも分からない我が子にみっちりと現実を叩き込むのは親の務めでしょう。ね、パパ?」
何か最近エレンに遠慮がなくなってきた気がするのは、果たして自分の錯覚だろうか。気のせいついでに言えばユリーも最近暴力的だった。何これ、集団でいじめられているのであろうか。ユウナは少しだけ泣きたくなった。
「まあ、冗談は置いといて。カナード、楽しかった?」
冗談、そう冗談なのだ。そうに違いない。現実逃避ぎみにそう考え、ユウナはアイス棒を名残惜しそうに握っていたカナードの頭を撫でる。
ぶんぶんと、この子にしては珍しく何度も何度も頷いていた。その様子に自然と頬がほころんでいく。こんなに喜ぶ様子が見れただけでも、来たかいがあったというものだろう。
「それじゃあそろそろ解散して、僕らはワムラビの方へ――」
「近寄んなよ、改造人間!」
こちらのささやかな楽しみを見事に粉砕してくださりやがったのは、そんな子供の声だった。