セイラン家の侍女、ユリー・サザナミの主は、はっきり言って理解不能な人物である。
いきなり何を言っているのか分からないとは思うが、事実なのだから仕方がない。ユリーが世話係として付けられている御方は、とてもじゃないが普通の神経というか精神構造じゃないと言うか、筆舌に尽くしがたい人格を有していた。
今年で四歳になられた主、ユウナ・ロマ・セイランの屋敷内での評判は、一言で述べると『我がままなおぼっちゃま』である。それは昨年セイラン家で彼が巻き起こした駄々っ子クライシス以降貼られたレッテルであり、今なお根強く残る彼の代名詞だった。
まあそれは仕方がない。ユリーはそう思った。何せあの騒動は悲惨の一言に尽きたからである。響き渡る大騒音、飛び交う調度品の数々、ズタズタに引き裂かれる布類、ご両親様の怒声とそれをはるかに上回る音声。あれに運悪く立ち会ってしまった家人はその時の騒動とそれに伴う業務増加を未だに忘れ得ることができずにいた。無論、ユリーもその一人である。
子供の癇癪。そう言ってしまうには少々あれはひどすぎた。以来ユウナはユリーや家令のヴィンス・タチバナを除いた使用人たちから忌避されるようになってしまった。そこまで露骨ではないものの、彼女に対する同情めいた言葉がささやかれたのも一度や二度ではない。
しかしながら、ユリーは彼らの認識がおおむね正しく、しかし根本から異なっていることを知っていた。それはもうあの若様に付き合うようになって嫌という程。何せ使用人たちがユウナの側に寄らなくなったことに対して、彼はお気に入りの扇子で口元を隠しながら一言こうつぶやいたのである。
「計画通り…」と。その小悪党じみた表情を見た瞬間、ユリーはろくでもない稲妻に打たれたかのように主の意図を悟った。悟らざるを得なかった。あの駄々っ子クライシスに端を発する一連の行動は、幼少期特有の感情の発露などでは断じてない、冷たい理性と論理によって構築された代物であることを。
ユウナ・ロマは両親、使用人のいる前では徹底的にかぶる子供猫を、ユリーやヴィンスの前でだけはきれいさっぱり脱ぎだすのだ。最初に見たときは、そのあまりの変貌ぶりに「誰ですか?」と突っ込んでしまったものである。主は大爆笑していた。
「だって、四六時中ピュアボーイやってると疲れるでしょ。部屋にいるときくらいのんびりしたいよ、僕だって」笑いの余韻さめやらぬ様でユウナはそう言っていたが、ユリーとしては手放しに受け入れていいものか迷ってしまう。家令はあっさり納得していたようだったが。まあ、あの壮年の男性は常から沈着冷静が服を着て歩いている人物だから動揺するなど考えられないのだが。
そんなわけで、ユリーにとってユウナ・ロマという主はよくわからない人物という位置に落ち着いていた。故にあの駄々っ子クライシスで得た口座で、彼が何だかものすごい資産を稼ぎ出している事に対してもさほど驚きはない。思わずちょっとよこせと言うと彼はまた大爆笑した。
そんな不思議人物のユウナであるが、この日、C.E.五五年六月二十六日はつねと違う表情を浮かべていた。執務机に座る少年は、厳めしい相貌を崩すことなく腕を組んでいる。
「コロニーメンデルにて発生したテロの詳報は以上になります。現在も情報を収集中ですが、現時点で確度の高い続報は入っておりません」
セイラン家令ヴィンス・タチバナが淡々とした声音で報告を続ける。白いものが交り始めた口髭がしゃべるたびに形を変え、ついユリーはそれに見いってしまった。刹那、さっとヴィンスから一瞥され、思い切り背筋を冷やす。あ、これ後で怒られるフラグだ。
「…ヒビキ夫妻はどうか?」
「ユーレン・ヒビキ博士に関しましては未だ行方知れず。ヴィア・ヒビキ夫人の方は…残念ながら」
そうか、と呟いてそれきりユウナは沈黙してしまった。
俯いた彼を壁際に待機しているユリーは痛ましい気持ちで見つめる。普段のちゃらんぽらんというか、飄々とした空気が吹き飛んでいた。主は扇子で口元を隠し、静かにもう一度「そうか」と囁く。
先月末に発生したコロニーメンデルにおけるテロは、大きな波紋を持って世界中に知れ渡っていた。環境保全団体ブルーコスモスによる遺伝子研究所襲撃。それはS2型インフルエンザの蔓延によって発生した、ナチュラルとコーディネイターの対立に大きな影響を及ぼしかねないものである。
現にプラントの秘密結社黄道同盟は本件に怒りの声明を発するとともに事実関係の調査を明言していたし、地上に残るコーディネイターたちの間にも動揺が広がっているようだ。
事実、オーブのマスドライバー宇宙港カグヤにもプラント移住を希望するコーディネイターが大挙して押し寄せていた。大規模宇宙港を有する国家であり、かつ地上で数少ないコーディネイター居住国であるオーブは迫害に怯える彼らにとって数少ない安全な道といえる。――現実はそう甘くはないが、ともかく彼らがカグヤを頼って世界各国から集まってきているのはまごうことなき現実であった。
「そうだ爺。コーディネイターたちの引き留め政策はどうなってる?」まるでユリーの思考に被せるように、ユウナが声をあげた。その顔には未だ落胆の残り火がくすぶっているが、それでも現状を何とかしようとする意思の光が瞬いている。
「政府としては積極的に動くつもりはないようです。来るもの拒まず、去るもの追わずが基本スタンスでありましょうからな」
「それじゃ困るんだけどなあ。…セイラン家独自で積極的誘致は可能かな?」
「手配はしております。なお、それに先立ちましてモルゲンレーテやサハク家がコーディネイターの積極採用を行っているとの情報もございます」
「さすがはコトー・サハク。抜け目ないと言うかいやらしいと言うか。この事、父上には?」
「既に」
「なら、こっちが独断で行動してもさほど問題にもならないね。まったくもう。父上もこんな時に大西洋連邦なんぞに行かなくてもいいのに。しかも僕放置だし」
「御公務なのですから、致し方ありません。それに御父上様が若様をお残しになったのは、それだけ若様を信頼なさっているからでしょう」
「そりゃどうも。どう考えてもお荷物厄介者を抱え込みたくないからだろうけどねえ」
くすくすとユウナは笑んだ。彼の父ウナト・エマ・セイランは外遊中でこの屋敷にはいない。両親に置いていかれ、一人国内に残るのは普通子供的には非常にショックかつストレスのたまることであるはずなのだが、彼女の主はそれを聞いた時「いやっほう!」と飛び上がっていた。つくづく親不孝な幼児であると思う。
「まあいいや。とにかく一人でも多く引きとめて。このまま彼らをプラントに譲り渡すのはあまりにももったいないからね」
「心得ております」
それきりユウナは黙り込み、ついっと窓の外へ視線を飛ばした。一仕事を終えて気が抜けたのか、その表情に先の陰が再び浮かび上がる。疲れたような、諦めたような吐息がやけに大きく室内に広がった。
ユリーは何故彼がこうも落ち込んでいるのかわからなかった。普通に考えればユウナと遺伝子研究所の接点は皆無である。主が秘密裏にコーディネイトされていたのならともかく――実はユリーはひそかにユウナがコーディネイターではないかと疑っていた――ナチュラルの子供であればおよそ文字通り空の彼方の出来事である。
しかしそれを訪ねるのははばかられた。いつもならば気さくな主だが、今の彼はとてもそんな精神状況ではないと素人目から見てもそう思える。
「…喉が乾いちゃったな。ユリーさん、悪いけどお茶を入れてきてくれないかな。ああ、君と爺の分も一緒に」
「かしこまりました、ぼっちゃま」
ユリーは一礼して部屋を辞した。途中何度か同僚たちとすれ違いながら、彼女は調理場までの道をそそと歩く。素早く、しかし優雅さを持って。例え使用人といえども、仮にもセイランの名を背負っているのだ。効率にかまけて体面を失してはならなかった。
そのはずなのだが、にわかに屋敷全体が慌ただしいようにユリーは感じた。眉をひそめ、ぱたぱたと歩きまわる侍女仲間を捕まえて問いただす。
「ねえ、何かあったの?」
「あ、ユリー。丁度よかった!」侍女仲間は明らかに安堵した様子を見せた。「あのね、ちょっと問題が起こって…貴女に来てほしかったのよ」
「問題? 私を呼ぶ必要があるってことは、ぼっちゃまに関することかしら?」
「うーん、それがわからないというか、わからないから来てほしいと言うか」
今一つ要領の得ない答えに、ユリーは小首を傾げた。しかし侍女仲間は随分と焦っているらしく、とにかく来て! と腕を引っ張り強制連行の構えを見せた。その流れに逆らえぬまま、ユリーは様子を見ていた別の侍女に主の茶を頼むと、自分で歩けるからと言って拘束を解く。
小走りで案内された場所は、セイラン邸の正門だった。ますますよくわからなくなったユリーであるが、その耳に聞きなれぬ女の声が飛び込んでくる。
「お願いします! 少しでいいから、どうかお話を!」
「だから、許可もないのにあんたみたいなのを入れるわけにはいかないんだって!」
次いで鼓膜を打つ男の声、これは記憶にあった。セイラン家の守衛である。
「約束ならあります! ここに来るよう仰ったのも全てご指示通りなんです!」
「その証拠は! そう言うんなら、ちゃんと書類なり手紙なりを持ってるんだろ?」
「そ、それは……」
揉めていたのは、二人――否、三人の男女だった。一人は三十過ぎの男性、均整のとれた体躯に理知的な相貌、屋敷の侍女連中が見たら黄色い悲鳴を上げそうなほどいい男だった。ユリー自身、一瞬だけ心臓が跳ね上がったことは否定しきれない。
もう一人は自分より少し年下と見受けられる若い女性だった。こちらもまた同性なら嫉妬しそうなほど端正な顔立ちだが、どこか子供っぽさが抜けきらない印象を受けた。その腕には三人目、一切ほどの赤ん坊が抱きかかえられ、この騒動にぐずっているのか小さな泣き声が聞こえてくる。
家族だろうか。小さな落胆を抱えつつユリーは思った。男性の方が「もうよそう」と女性の肩に手を置くが、彼女はそれを振り切ってもう一度守衛に食ってかかった。
「お願いです、どうか、どうかユウナ・ロマ・セイラン様に会わせてください! そういう御約束のはずなんです!」
ユウナ・ロマ・セイラン。その名を聞き、ユリーはどうして自分がこの場に呼ばれたか理解した。これまでのやり取りだけで、何があったのかも大体理解する。やれやれと小さく首を振って一歩前に出た。
「ぼっちゃまと御約束があるのですか?」
ユリーの登場に、守衛があからさまにほっとした様子を見せる。女性は突然の闖入者に希望を見たのか、大きく頷いてその意を伝えてきた。
「失礼ながら、貴方様はどちら様でいらっしゃいますか? 御名前をお聞かせ願いたいのですが」
「エレンです、エレン・シフォース。えと、メンデルの研究員をやっていました」
メンデル。その単語にユリーの頬が引きつった。同時に彼女が真実ユウナの客人ではないかという可能性が湧きだす。
「承知いたしました、エレン様。主に取り次いでまいりますので、少々お待ちくださいませ」
エレンという女性の顔がぱっと輝いた。それに反し守衛や周りの使用人たちは一様に渋い表情を浮かべる。
「お、おいエリー嬢ちゃん。いいのかい? そんな素性もわかんねえ連中を若様に会わせて」
「取り次ぐだけです。お会いになるかは、ぼっちゃまがお決めになることですから」
そういいつつも、彼女はユウナが会うだろうということに確信を抱いていた。そしてこの事が、少年の有する負の感情を少しでも和らげることになるよう祈った。
「ぼっちゃま。ただいま正門前に、エレン・シフォース様とおっしゃる方が見えております。何でも、メンデルからいらした研究員と仰せで――」
ユリーの言葉を最後まで聞くことなく、ユウナは駆けだした。擬音があるならどかんっ、とかずばっ、などと表現されそうな勢いで短い手足をばたつかせる。正門までの最短ルートを脳裏に思い浮かべると、疾風のごとく廊下を走り抜けた。しかしどうでもいいが広い、広すぎだよこの屋敷。正門までどんだけかかるのだろうか。
凄まじい勢いで玄関扉を開くと、一斉に視線が集まったのを感じた。ぜはぜは肩で息をしつつ、ユウナは渾身の力を振り絞って視線たちの大本へ歩みを進める。
「わ、若様?」
最初に困惑の声をあげたのはセイラン家の守衛だった。彼は全身汗びっしょりのユウナを見て目を丸くしている。その横に目を向けると、同じく唖然とした様子の男女と――それに一切関心を示していない赤ん坊の姿が目に入った。
「そ……その子…げほげほ」
せき込んだ。ちょっとは運動しないとなあと殊勝な考えが浮かんだが、それはすぐに怠惰軍によって簡単に駆逐された。弱いぞやる気、強いぞ怠け心。
ユウナはどうにか息を整えると、額に浮かんだ汗をぬぐった。袖がぐっしょりと濡れるが気にしてなどいられない。すっと背筋を伸ばし、なおも反応に困っている男女に向けて一礼した。
「失礼、御客人。無様な姿をさらしてしまったね。僕が当家の総領ユウナ・ロマ・セイランです」
二人組だけでなく、使用人に至るまで表情が凍りついた。え、誰こいつみたいな視線がびしばしとユウナの心臓に突き刺さる。
いやどんだけ驚いてんだよお前ら。そりゃ巷で我がまま御曹司とか呼ばれているのは知っていたが、こうまで激烈な反応が返ってくるとさすがのユウナも少しだけへこんだ。今までどんな目で見られていたのであろうか。
「あ、あの……貴方が、ユウナ様……なのですか?」
「その通りだよ、エレン女史。いや、本当に申し訳ない。よもや貴殿らが御来訪されるとは思ってもおりませんだので。…正直、諦めていた部分もあったから。でもそのことで迷惑をかけちゃったみたいだね。めんごめんご」
「い、いいえ! 私の方こそ事前にご連絡を差し上げもせず、突然押し掛ける形になってしまって…本当にすみませんでした!」
「エレン女史が謝るこったねーですよ。こちらでも…まあ、メンデルでの事は把握してるしね。であれば目立った行動を起こされなかった女史の判断は褒められこそすれ責められるものではない、と僕は思うよ」
メンデルという単語にエレンと男性の表情が曇った。そう言えば彼はどこのどちら様なのだろうか。エレンと一緒にいると言うことは、おそらく男もメンデルの研究員なのだろうが。
その視線に気づいたのだろう。男性は思い出したように一礼した。
「ああ、これは失礼。自己紹介がまだでしたね。私はダフト・エルスマン。彼女と同じ職場で働いていました」
「…エルスマン?」
ユウナの顔が驚きに染まった。まじまじと彼の姿を見つめ、ぱかりと口を開ける。エルスマン。すごく聞きおぼえがあった。具体的に言うとグゥレイト! 辺りの関係で。
「そうですが……私が何か?」
「…ダフト・エルスマン博士、か。もしかして御兄弟とかいたりする? プラントのフェブラリウスとかに」
一目でわかるほどダフト氏の表情がこわばった。図星、ではこの男はディアッカ・エルスマンの親戚にあたるのか。すると自動的に彼もまたコーディネイターと言うことになる。
そういえばディアッカの父であるタッド・エルスマン評議員はフェブラリウス市の代表だった。兄弟そろって生物学を志しているのだろうか。
「なるほどなるほど。ああ、心配無用。僕はメンデルを襲ったテロリスト共のような思想は持ってないから。でなければ…その子を引きとろうなどとは考えないでしょうや」
自身がコーディネイターであると見抜かれたことに気付いたのだろう。目に見えてダフトから警戒心がにじみ出した。それに苦笑し、ユウナは女性研究員に抱かれている黒髪の赤子に近づく。気を利かせてくれたのか、背の低い自分にも見えるようにエレンがかがんでくれた。
黒髪の赤子は未だにふにゃふにゃとぐずり続けている。彼の小さな手を優しく握って、ユウナは安堵の息を吐いた。
「よかった…この子が無事で。本当に……」
メンデル襲撃の報を聞いてからこちら、ヴィアとカナードの事で頭が一杯だったユウナの万感がその呟きに込められていた。しばし幼子の頬をつついてその感触を楽しんだ後、どうすべきか迷っているらしい大人たちに向けて微笑する。
「とりあえず立ち話もなんだしね。どうぞおあがりくださいな。
あ、君たち。悪いけど応接間にお茶と茶菓子を人数分持ってきて。それとおむつやミルクなんかの手配を大至急ね」
てきぱきと使用人たちに指示を出し、ユウナは客人たちの手を引いて邸宅へ戻った。