憎しみの連鎖こそが、争いを生む原動力。ジャン・キャリーはこれまでの人生においてその言葉こそが真理であると信じ続けてきた。
第一世代コーディネイターとして生を受け、地上で、ナチュラルの中で過ごしてきたジャンにとって、憎悪と嫉妬は常に隣に座しているものだった。ナチュラルであった両親からの愛情と、しっかりとした教育方針の下育てられた彼には、宇宙の同胞たちと異なりナチュラルを見下すような思想は存在しない。むしろ隣人を愛し、ナチュラルとコーディネイターが共に手をとって歩む未来をこそ望んでいるほどだ。
だがそんな世界を夢見るが故に、あるいは生まれも育ちも地上の、ナチュラルたちの中であったが故に、両者の間に埋めがたいほど深く広い溝があることもまた、知りぬいていた。ジャン自身、重力の井戸の底にあって、かけがえのない友人と、それに倍する忌むべき者たちと縁を結んできたことからも、その空虚な絶望は拭いがたく胸の内に存在している。
ナチュラルたちの嫉妬、コーディネイターたちの驕り、その両方を目の当たりにし、際限なく繰り返される諍いを見聞きしていたからこそ、ジャンは憎しみの連鎖というものに大きな意味を見出していたのだ。
やったら、やりかえされる。自分が不幸になってなお、周りに優しくできる人間はそう多くない。まして、その痛みと苦しみを己に強いたものに対して、憎悪を抱かないわけがなかった。
ナチュラルたちは、自分たちを圧倒する力を持ったコーディネイターたちに恐怖し、またその能力によって様々な場面で打ちのめされてきた。コーディネイターたちは、世界の大半を占めるナチュラルたちの容赦ない迫害にさらされ、遠く宇宙の片隅へと追いやられてしまった。
世界に溢れるのは博愛と平等ではなく、抑圧と暴力。それは人為的、あるいは自然的なあらゆる要素をも燃料にして、暗く冷たい炎を燃え広がらせている。
その中でもジャンは、己の人生を大きく変えたものとして、S2型インフルエンザをあげていた。多くのナチュラルに死と恐怖を振りまき、そしてさらなるコーディネイターへの嫉妬と憎悪を煽り上げたあの忌まわしき災厄。
地上を席巻した彼の病は、ジャンから文字通りありとあらゆるものを奪い去って行った。自分を愛し、またこの世界で愛すべき数少ない宝であった両親。気心の知れ、互いに尊敬し合った友人たち。住み慣れた故郷、今日と同じ明日。目を閉じれば簡単に思い浮かべることのできる未来。
その全ては、もうここにはない。
そして、何もかも失ったジャンを待っていたのは、昨日までの隣人たちからの容赦のない迫害だった。数え切れぬほどのナチュラルの命を吹き消した死の病、しかしそれは自分たちコーディネイターに対しては何らの力も持たない、単なる対岸の火事でしかなかったのである。
自分の息子は死んだのに、どうしてあいつらだけが! もしかしてあの病気は、コーディネイターどもが俺たちを滅ぼすためにばらまいたんじゃないのか? 返せ、夫を、子供を、返せ!
謂れのない罵詈雑言、瞬く間に広がっていく両者の溝。幾度となく彼らに声を投げかけ、話せばわかると信じ続けたジャンであったが、やがてそれは失意と絶望へと代わる。いくら呼びかけても耳を傾けようとしないナチュラルたちに、コーディネイターたちは怒りのままに反撃の権利を行使したのだ。ジャンを含め冷静だったものはその軽挙をとどめようとしたが、その努力はむなしく、住み慣れた故郷は血と恐怖、怒号と悲鳴に包まれた。
幸いなことに、死者が出る事だけは避けられた。だがそんなことは、ジャンにとって何の慰めにもならない。彼の同胞らが起こしたその一件は、状況の改善どころかそれまで反コーディネイター運動に無関心だった住人をも敵に回すという、無残な結果に終わった。そしてそれまで以上の迫害と暴力の嵐が吹き荒れ、一人、また一人とコーディネイターたちは安住の地を求め故郷を後にした。
ジャンもまた、身の安全のために移住を余儀なくされた。当初は彼もコーディネイターたちの国家であるプラントを目指そうと思っていたが、ひょんなことから途中で立ち寄ったオーブ連合首長国で民間企業からのスカウトにあったのだ。オーブの指導階級の有力者、セイラン家の家令を名乗る初老の男と、次期当主と呼ばれていた幼い少年によるそれは、その後のジャンの運命を大きく――良くも悪くも。睡眠時間がほしい――変えていった。
正直、地上を離れることに忸怩たる思いを抱いていたジャンには渡りに船だったとは言える。故郷を追われてもなお、彼の中にはナチュラルへの恨みはなく、ただ暗闇の中を迷走する世界への危機感があった。ちっぽけな力しかなくとも、安易な逃げを選ぶより少しでもそんな未来を回避するために戦いたいという願いもまた存在した。そしてナチュラルとコーディネイターが共に暮らすオーブは、戦場として申し分ない場所に思えたのである。
オーブはその法と理念を守るものであれば誰でも入国、居住を許可する今の時代希少な国家であった。しかし共に手を携えて暮らす、と言えば聞こえはいいが、実際のところ全てが上手くいっているわけではない。近年の移民拡充計画やワムラビ市計画などで一気にコーディネイター人口の増大したオーブは、潜在的に様々な問題が渦巻いている。
移民コーディネイターは、コーディネイター居住区とも言えるワムラビ市にこもりがちで、本島のナチュラルや少数の現地コーディネイターたちとの交流を欠いており、その軋轢は年を追うごとに深まりつつある。またそんな中でもその数が増え始めているハーフ、クォーターコーディネイターへの無理解、己の出自を隠す潜在コーディネイターの存在と、火種はそこかしこでくすぶっている状態だった。
オーブ政府や各氏族たちも尽力しているが、もとより問題は地球圏全体を騒がせるほどに巨大なものだ。簡単に解決するはずもなく、負債と分かっていても次世代に残さざるを得ないほどにその根は限りなく深い。
だからこそ、自分もまたここで己の理想、信念を試せると思った。今を生きる、そしていずれ生まれてくる子供たちに、少しでも明るい未来を、憎しみのない世界を残すために、自分の持てる全てをかける意味があると考えたのである。
――けれど。
時折、そんな自分の願い、信念が、酷くもろく、そしてあまりにも傲慢ではないかという疑念に襲われることがあった。
それは、自身の上司であり、あらゆる意味でジャンの想像の斜め上を行く少年の言葉による場合がほとんどだ。
オーブの貴種であるものの、一見するとどこにでもいるような子供でしかない。だがジャンや、彼に近しい者たちは既に彼の少年を年相応に見る事が出来なくなっていた。知性、態度、何よりもその在り方が、まるで年老い、人生に疲れ果てた人間のものにしか思えなかったのである。
そして彼の言葉は、態度は、容赦なくジャンの理念を揺さぶってくる。皮肉なのは、彼がジャンの全てを肯定し、後押ししてくれていることだった。自分を認めてくれている者こそが、最も自身の在り方を脅かしているなど、喜劇もいいところではないか。
彼は――ユウナ・ロマはその在り方によって、ジャンの眼前に濃霧のごとく広がっている。そして今も、すぐそばで。ジャンの瞳を閉ざし、奈落の底へと突き落とさんと大きな鉄槌を下さんとしていた。
「これで君の使役獣は全部攻撃を終了。地獄の若者奴隷化効果で君のライフはゼロだ! ふはははは、僕の、勝ちだー!」
「…何を勘違いなさっているのですか?」
「ひょ?」
「まだ私のバトルフェイズは終了していませんよ」
「な、何を言うか小娘! 君の使役獣は全部攻撃を終了して」
「即効魔法発動! 『パンかケーキか』! 手札を全て捨て効果発動! このカードは使役獣カード以外のカードが出るまで何枚でもドローし、墓場に捨てるカード。そして、その数だけ攻撃力1500以下のモンスターは追加攻撃できる!」
品のよい調度品に囲まれた、趣を感じさせる室内にそんな声が響き渡る。身を深々と包み込むソファの感触がどこか遠く、まるで自重を思い出させないような、心細い感覚が全身を駆け巡っていた。ジャンはぼんやりと、眼前に座す人物の顔に焦点を置く。同じく黒い革張りのソファに腰をおろしていた壮年の男が、にこやかな商業スマイルの中にかすかな困惑を混ぜ込んでいた。男はガラスの卓に置かれた紅茶を口に含み、どうにか表情の不純物を取り覗こうと試みる。ジャンもそれにならって、同じく茶を舌で転がした。
本当に、ジャンの色々な物を揺さぶるのが得意な人だ。気の抜けた思考がぽつりとそんな言葉を虚無の彼方へ投げかける。先ほどから必死に緊張感あふれるビジネスを演じようとしていた自分が、まるで道化のようだった。
「いやはや、元気のよい方々ですな」
「…恐縮です」
商売相手が無駄に気を使ってくれるのが、また無性に辛かった。いっそ「馬鹿にしているのか」と怒ってくれる方が、よほど精神衛生上健全である。
しかし不幸にして、ジャンも男も、そんな真似などできるはずがないことを知りぬいていた。何せこの空間にカオスをまき散らしているのが、自分たちの中で最も高い地位を有している人物だからである。そう、自分や眼前の男――プラント・マティウス市に本拠を置く大手重工、マティウス・アーセナリー社社長ですら頭を下げ得ざるを得ない人間。
「もうやめて! ユウナさんのライフはゼロよ!」
「ずっとずっと私のターン、です」
言うまでもなく、オーブ五大氏族セイラン家総領ユウナ・ロマと、その侍従たるアビー・ウインザーである。プラントの国際的な立場に配慮して、あくまでアストレイ研究所のトップとしての、いわば私的な来訪という形をとっているものの、本来であれば彼は国賓待遇の扱いを受けても何ら不思議はない人物だ。いかな企業人としてプラント有数の力を有していようと、こんな人間に頭ごなしの説教をする勇気は、残念ながらこの場には存在しなかった。故に、部屋の片隅でカードゲームなどに興じる子供たちは、室内の空気などお構いなしにぎゃあぎゃあと闘いに熱中し続けている。己の立場を宇宙の果てに放りだしたかのような姿に、ジャンは頭痛をこらえきれずこめかみを強くもんだ。
そもそも、これは本来貴方のするべきことだろうに。プラントの各企業を回る前に、ジャンがユウナに向かって吐いた台詞を今一度心内だけで再生する。
「じゃ、プラントでの交渉はジャン博士に一任するから。後よろしく」
は…? と疑問の声を洩らしてしまった自分に、決して責められるべき罪などないと今でも思っている。リニアエレベータから見下ろせる、箱庭のようなプラントの景色に魅了されていたユウナ・ロマは、こちらが己の意志を把握し損ねていると察してもう一度、似た意を言葉として紡ぐ。
「いやだから、ここでの交渉事は、全部貴方にやってもらうよって」
「何をどうしたらそういう結論になるのですか?」
「むしろ僕を矢面に立たそうとすることに驚きを感じるよ」
何を言っているのだろうか、この人は。名実ともにアストレイ研究所の頂点であり、セイラン家の総領である彼が前に立たずして、誰が立つと言うのだ。そんな感情を白皙の顔にありありと浮かべると、いやいや、とユウナ・ロマは苦笑を滲ませて肩をすくませた。
「よろしい、ジャン博士。まずは僕をじっと見つめてみようか。どう見える?」
「どう、と言われましても。ユウナ様としか」
「そう、ちょっぴり小生意気なプリティショタぼーいしかおりませんことよ」
「ユウナ様、言ってて悲しくなったりしませんか?」
「アビーさんや、ちょいと黙っててくれませんかね。…つまり、ぴちぴち十二歳のユウナ御爺さんしかいないよねって話だよ」
なるほど。とジャンは少しばかり痛むこめかみを押さえつつ、大きなため息を吐いた。それなりに付き合いも長くなった自分たちは、彼が子供の外見をした糞外道と承知しているが、初見の相手ならば色々と『誤解』してしまっても無理はあるまい。そしてそうした『誤解』の隙をついて、己の望む結果の果実をくすねることを好むユウナだからこそ、自身が交渉という場に出ることの有利不利を常に天秤にかけているのだろう。
「すると、今度のものは御自身が出ない方が得になると判断されたと言うことですかな?」
「手品って種を知られちゃったら面白くなくなるんだよね。何、心配しなくても事前交渉で契約内容はあらかた決まってるから、貴方はにこにこ笑って「よきにはからえー」と言ってりゃいいだけだし」
つーわけで、よろしくね。そんな軽いノリで告げられた台詞に、ジャンは万通りの異議を返したかったが、同時にこれが半ば命令であり、反駁することの無意味さも理解していたため、大きなため息を一つ洩らすのみだった。
「――では、取引は成立、ということでよろしいですかな?」
対して遠くもない過去に沈んでいた意識を引き戻したのは、マティウス・アーセナリー社社長の言葉だった。ジャンははっと視線を眼前の男に戻し、取り繕うような笑みを浮かべて、その右手を差し出した。
「ええ、今後ともどうぞよろしくお願いします」
「こちらこそ、御付き合いの程、何卒お願いしますよ」
互いにビジネス用の笑みをひらめかせ、固い握手を交わす。とりあえず上手くいったみたいで何よりである。胸をなでおろしたくなる衝動を抑えながら、ジャンは今回結ばれた契約内容を、今一度視線でさらりと撫でた。
マティウス・アーセナリー社は鋼材加工に優れた企業である。そのため契約にもこの企業独自の工作機械や複合金属精製、加工技術のライセンス取得が多く盛り込まれていた。以前からコーディネイター系職員の営業やら何やらを使い、水面下でこそこそと取引内容を煮詰めていたためか、価格交渉や商品内容にも大きな齟齬もなく、互いに満足――というか妥協できる範囲に収められている。というか、身も蓋もない話をすれば今行っているジャンとマティウス社社長との契約合意ははっきり言ってポーズというか、セレモニーみたいなものだった。実際の契約はかなり前の段階で、実務担当者によって決められているため、今更ジャンやマティウス社長で条件をさしはさむ要素もない。
正直、ここまで用意周到に事を進めておいて、いざプラントとの取引を理事国側から認められない、等ということになっていたら、どれほどの損害とユウナの絶叫が上がったかわからなかった。ジャンは訪れなかった未来をしばし幻視し、すぐさまそれを頭から追い払った。
ひとまず、無事に終わったことを喜ぼう。この後もまだまだ似たようなことをせねばならない茶番が目白押しなのだから、精神力を消耗するような真似は避けなければならない。
本当に、これでいいのだろうか? 時折首をもたげる疑念が湧き上がるのを抑え、ジャンは最後に、これだけは、とユウナより厳命された仕事をこなすことにした。
「しかし、さすがは世に名高いマティウス・アーセナリー社。見事な技術ばかりですね」
「ははは、恐縮です。これも社員らの努力のたまものと言ったところでしょう」
「羨ましい限りです。我が研究所の職員も日々切磋琢磨しておりますが、玉は多ければ多いほどよいこともまた事実。貴社社員の方々ほどの人材が訪れてくれたなら、どれほど心強いことでしょう」
露骨な引き抜き宣言ともとれる台詞に、社長の瞳がほんの少しだけ細められた。だがすぐさまそんな意図などないことを継げ、締めくくりとしてジャンは、プラントで活躍するある研究者をアストレイ研究所に迎えたいとする旨を彼に伝えた。
「ほう、キャリー博士ほど方がそうまで御認めになる人物とは。どのような方なのですかな?」
「私も直接はお会いしたことはありません。ただ、その方の専門知識が、今の我々には必要だと思えましたので」
「なるほど。…よろしければ、御名前を伺っても?」
興味を引いたのか、社長がやや身を乗り出して顔を近づけてきた。ジャンは努めて澄んだ笑みを浮かべ、ユウナから聞いていた名前を彼の前に差し出す。この名を、彼を含めこれより訪れる各社のトップたちに聞かせる事、それが自分のボスが求めたことだった。
「ジャン・カルロ・マニアーニ。そう耳にしております」