かしゅん、という音とともに、巨大な鉄塊が蒼い光の中に溶け込んでいった。それと同時に、身体が後ろに引っ張られるような感覚がユウナを支配する。緩やかな加速、それと同時にぽん、と軽やかな音が機内に鳴り響くと、天井に設置されていたシートベルトランプが消灯され、数えるほどしかいない乗客たちが思い思いの姿勢を取り始めた。
「うーみーは、広いなー、大きいなー…とと」
シートの束縛から解放された途端、身体が宙へと投げ出され、ユウナは慌ててバランスを取るべく手足をばたつかせた。と、すぐさま肩に手をかけられ、そのまま壁面に向かって顔面から飛び込んだ。ふごお、と悲痛な叫びが耳奥を抜けて脳まで到達する。
「調子はずれな歌を歌わないでください。耳が化膿します」
「生々しい言い方って結構傷つくよね」
ぐいぐいと壁窓に押し付けられながらも、何とかユウナはそう絞り出した。強化ガラス一枚を挟んだ眼前には闇よりも濃い漆黒と、それを切り裂くように輝きを持って鎮座する青い球体が存在している。大気圏に落とし込まれたシャトルのブースターを見送りながら、ユウナはシートの端を掴んで先とは別種の束縛から逃れんともがいた。光の軌跡と灼熱の衣をまとった推進機は、やがてその存在を塵芥へと変えて宇宙に帰る。
オーブロイヤルエアラインが誇る高級旅客シャトル、その中でもファーストクラスに位置する場所だけあって、非常に見応えのある光景だった。だがどうせなら、不安になるくらいふかふかのシートに腰掛けて、宇宙用コーヒーボトルでもすすりながら眺めていたかった。こういう冷たく暗いのは勘弁である。
「あの、そのくらいにしておいたほうがよいのではないですかな? 少ないとはいえ、他の乗客もいることだし」
顔全体で宇宙と世間の冷たさを味わい、その無情さに涙をこぼしていたユウナにとって、その声と言葉は天上の甘露のごとく暖かだった。先とは違う意味でぼろぼろと涙をこぼし、熱く抱擁中の強化ガラスをぬめりで満たす。
「ああ、優しい言葉って身にしみる…。もっと言ってやってジャン博士」
「こうでもしないと、ユウナ様があらぬ方向に飛んでいってしまいますから。怪我でもなされたら大変でしょう?」
「現在進行形で暴力振るってる人の言葉じゃないよね、それ」
何か押し付けられる力が増した気がする。しかし同時に、この状況で身体が固定されるということに安堵めいた思いを感じているのもまた事実であった。
「第一、どうしようもないじゃない? 僕、無重力空間なんて慣れてないんだから」
地球、衛星軌道上。現在ユウナが身を置いているそこは、すでに重力の鎖及ばぬ漆黒の空であった。これまで確固たる力学によって守られてきた自分の幼い肉体は、今そのゆりかごから放り出されたかの如く不確かで、精彩を欠いている。一G下に慣れ切ったユウナにとって、この場所は文字通り身の置き場のない世界であった。
「ふふ、加えて僕の乗り物に弱い体質も合わされば、この日のために整備を重ねてきたナイアガラリバース砲が火を吹くぜ」
「…もし本気でそうなったら、きちんとトイレに行ってください。専用の設備がありますから。念のため申し上げますが、宇宙において気管に物を詰まらせて窒息死、というのはありふれた現象です。くれぐれも、甘く見ないようにしてください」
ジャンが呆れたように、しかしどこか真剣な色を含んだ眼差しでユウナをちくりと突き刺した。勿論、わかってると言うと、非常に懐疑的な表情が返ってくる。あれ、何か信用なくね?
アビーが一見乱雑に、けれど非常に繊細なコントロールを持ってユウナを座席に戻すと、自身は見事な舞でもって宙を駆け、ひらりと隣にある自身の席へと戻って行った。
藍色の着物を着崩すことないその動きは、ほれぼれするほど素晴らしいものである。やはりここら辺でも、ナチュラルとコーディネイターの差は出るらしかった。やれやれと肩をすくめるジャン・キャリーにも、危なっかしい部分はかけらも存在しない。宇宙の果てへ旅立つこと、人類と新たな生命の架け橋となることを望まれた彼ら故、ということなのだろう。
「宇宙こそが故郷、ね。何か納得」
口の中だけでそう呟き、ユウナは小さく苦笑した。しかしほぼ同時に首を振って、先の言葉を訂正しにかかる。彼らの故郷は宇宙ではない。地上の、南洋の島国でもあるのだ、と。
肩をすくめて、ユウナはシートベルトをきちんと閉めて座席に座りこんだ。むやみやたらとふわついているよりも、座っていた方がよほど安全であるからだ。自慢ではないが、、頭脳労働派の自分はこと運動に関してはドン亀である。こんな、運動神経抜群のパイロット様の世界に、ユウナは足を踏み入れる気はさらさらなかった。
ちょっとばかり濡れてしまった舷窓をティッシュで拭うと、青い星の御隣に金色に輝く冷たい弧が見え隠れした。おや、とユウナは身を乗り出してそれを瞳の真ん中に浮かべる。
「おお、お月きさんがこんなに近くに。何て言うか、風流さのかけらもないなあ」
「風流が為されたいのでしたら。いっそ外に出てみてはいかがですか? 放射線下の御団子は、大層美味と愚考しますが」
「まさしく愚行だね。貴様殺す気か」
アビーが投げてよこした緑茶入りドリンクチューブを加えながら、ユウナはじい、と月を、その煌々と煌めく虚空の大地を眺めやった。地上とは違う飲み物の感触に、少しばかり辟易しながらも、ふうと息をついてまた苦笑する。
「あの子は、元気かな」
CE六十三年六月、カナードがオーブを去って三年が過ぎ去ろうとしていた。折々で通信を介してだがトダカ一家との繋がりを持っているとはいえ、最後に見えてから随分と時が経ってしまった。子供の成長は早いから、きっと背も伸びていることだろう。
「前回の通信では、元気そうにしていたではありませんか。新しい御友達も増えたようですし」
新しい友達、つい先日彼らと話した光景を思い出すと、ユウナの頬は自然とほころんで行った。コペルニクスに移住してから最初の通話では、紫紺の瞳を持った少年の話題が上がり、二回目の際に本人と対面した。気性の穏やかな紫紺の少年は、同じくどこか間の抜けたところのある黒の子供と随分仲良くなったようである。
そして、最近その輪に、翡翠の瞳の少年が加わった話を聞いた。理知的で物静かな彼もまた、あの天然二人組と気があったようで、三人一緒の写真を何枚も送ってもらっている。楽しそうに笑う――一名除く――彼らを見ていると、心穏やかになるのと同時に、自分がそこにいない事実が何とも歯がゆく、悔しい気持ちがふつふつと心内から湧き上がってきて、またユウナの苦笑を誘うのだ。
…ま、写真の中に、どうしてだかわからないが赤毛の腕白娘が混じってたり、盲目のなんちゃって坊主が映ってたりするのは、御愛嬌…なのだろうか。畜生あいつら、どこで嗅ぎつけやがった!
「ていうかさ、ずるくね? 僕、こんなにも我慢してんだよ? 本当ならこんな糞仕事ほっぽって、すぐにでもあの子たちのとこに飛んでいきたいんだよ? なのに何、あれ。赤毛の悪魔はともかく、どういうことよあの導師。なしていんの? 馬鹿なの? 死ぬの? ていうかセイランのシークレットセキュリティ突破するとか、おかしくね?」
フレイに関しては、彼女の通う大西洋連邦の幼年学校長期休暇を利用して、トダカ家を訪ねたいということで、一応の報告は受けていた。最近事務次官に出世したことで忙しくなったのか、ジョージ・アルスターの不在が目立つようになったことも、このなんちゃってホームステイを後押しする形になったと、ムルタ・アズラエルとの文通内で聞いていたことでもある。
ま、あの幼女煽ったのこっちだから、計画通りっちゃあ計画通りなんだけどね! カナードなら月に行ったよー、遊びに行くと良いよー、きっと楽しいよー、と様々な手法でもってフレイの好奇心やらなんやらを燃え立たせた会があったと言うものだ。その効果はそろそろ嫌々感から諦観に代わりつつあるムルタの手紙に、余計な仕事増やすんじゃねえ、という御言葉とともにオブラートに包まれつつもしっかりと記載されていた。おそらく、コーディネイターに良い感情を持っていないジョージ・アルスターに「何とかしてくれ!」とでも泣きつかれたのだろう。それでも愛娘の願いを叶えてしまう辺り、親馬鹿と言わざるを得ないが。
故に、彼女に関してはなんら問題はない。だが糞坊主、お前は別だ。何だよ、何でトダカ家やヤマト家やザラ家の御近所に、マルキオ教会が建立されてんだよ。おかしくね? オーブの誇る謀略の名門、セイラン家が総力を挙げて隠ぺいしてきたと言うのに、その諜報網に掠ることすらなくそんなものおっ建てるとか、どうなってるの本当に。
こっちから文句を言っても、「これもSEEDの導きです」としか言いやがらないし。とはいえ、その謎めきすぎた力を子供らの安全のために使うことを確約してくれたので、こちらとしては非常に助かるのは本音だ。本音だが、やはり納得はいかなかった。
有体に言おう。ユウナはマルキオに嫉妬しているのだ。ずるい、自分もそこに行きたいのに! といった具合にだ。
「考えることは皆一緒、ということでしょう。私だってできるならコペルニクスに行きたいですから」
「この上君にまで置いていかれたら、寂しすぎて号泣する自信があるよ。止めてよ、本当に。ウサギは寂しいと死んじゃうんだよ?」
「御安心ください。それは迷信です」
なら行けばいいのに、とは言わない。何だかんだいって彼女との付き合いも長くなってくれば、相手がこちらに付き合って一緒にいてくれていることはおぼろげながらも分かってくるものだからだ。
「良いじゃないですか。どうせこの仕事が終わったら、会いに行くのですし」
「うん、それは超楽しみなんだけど。でもねえ…」
ふう、と気分を入れ替えるように、ユウナは大きく息を吐いた。くく、と小さな笑い声が漏れ聞こえ、そちらを一瞥する。ジャンがこらえきれないと言わんばかりに肩を震わせているのが見えた。おのれ、何がおかしいこの野郎。
不満を頬に詰め込んで、ユウナは緑茶をちびちびと喉へ送り込んだ。同時に手元の端末を操作し、目的地までのフライト時間を確認する。
「あと八時間ちょっと。その間何かゲームでもしてようかな…アビー、何かない?」
「こんなこともあろうかと、ウルティマ・モンスターズカードと携帯用対戦端末をご用意しています」
「っしゃばっちこい! 僕の燃えかけ後期高齢者デッキの力、今日こそ思い知らせてくれるわ」
「ハ。ユウナ様ごとき、私のアントワネット・ケーキデッキの敵ではありません」
言いよったなこの小娘! ユウナはカードゲームへの期待と闘争心を視線に乗せてアビーを貫いた。それに即応するかのように、少女が宙へ浮かび、頭上に備え付けられたダッシュボードから持ち回り用の荷物を取り出す。と、慣性が乱れたのか、目当てとは違う荷物が機内に投げ出された。銀のアタッシュケース、ユウナの満ち込んだ荷物である。
シャトル天井にぶち当たったそれは、一瞬不自然な制動をかけて、機体全面へゆらゆらと流れ行こうとした。しかしそれに先んじてアビーがケースの進路上に割り込み、その腹目がけて思い切り蹴りを叩き込む。
「…アビーさん。荷物はもっと丁寧に扱いなさい。中身が壊れたらどうするつもりですか?」
「御心配なく。あれらがそんなやわな作りをしているわけがありません」
あれの中身を知らないジャンは、血相を変えて和服侍女を窘めるが、注意された側は悪びれることなく、しれっとケースを元あった場所へと戻す。ユウナは自分の荷物が蹴り飛ばされたことに苦笑しつつも、中身にとってあれくらいするほうがいいのではないかとも考えたために、何も言わず茶を飲み続けた。
アタッシュケースを他の荷物の群れに叩き込んだ後、いそいそとカードゲームの用意をしだしたアビーを横目に捕えたユウナは、ふと先ほど起動したフライト状況を表す端末を一瞥した。簡易的に地球圏を表した図に、緑の線であらわされた航路が鮮やかに浮かび上がっている。すっと指で航路を撫で、やがてこれから降り立つであろう到達地を爪ではじいた。
「ユウナ様、準備ができました」
「ようし、それじゃ先攻後攻をじゃんけんで――」
「私のターン、ドローです」
「この駄メイド、何をするだァー!」
画面に映し出された目的地、それを表しているのは、砂時計を思わせる独特のシルエットだった。ラグランジュ5に浮かぶ、人口の大地にして袋小路と言う名の楽園。
即ち、プラントである。
プラント。Productive Location Ally on Nexus Technology――結合的テクノロジーによる生産的配列集合体。それはかつてのファーストコーディネイター、ジョージ・グレンによって設計され、大勢のコーディネイターが作り上げた新世代のコロニー郡である。従来のオニール型コロニーとは一線を画す、砂時計を思わせるような天秤型のコロニーは、強度、維持コストの低さ、コリオリ係数の影響が少なく、また緩やかな自転で一G環境を維持できることなどから、新たな宇宙開発の拠点としてL5宙域に百基近くもの数が建造されていた。
今、ユウナの眼前にて整然と並ぶ銀の砂時計の列は、まさに圧巻と言っていい威風を持って、暗く冷たい宇宙の海にその身を沈めている。全長六十キロ、底部百六十平方キロメートルの巨体は、見るもの全てに言い知れぬ誇りと自信を見せつけているかのように感じられた。
「あれが、プラントか」
相対速度を合わせ、センターハブから伸びたドッキングベイに入港しつつあるシャトルの中で、ユウナはほう、と感嘆にも似た吐息を漏らす。空気がないために、距離感覚がつかみにくい宇宙空間でさえ、疑うことのできない巨体が視界を覆う。太陽光を受けて、自己修復ガラスがぎらりと輝いて、自然とユウナは扇子で数度顔を隠した。
「何とも美しい…。コロニーと言うよりも、まるで芸術品のように感じられますね」
自分と同じく、ジャンもまた舷窓にへばりつくかのようにして、プラントの威容を全身に浴びていた。感動に内震えるその表情は、科学者としての喜びと、美しく巨大なものへの純粋な畏敬を映し出しているかのようだ。
「そういえば、ジャン博士もプラントは初めてだったっけ」
「ええ。私はもともと地球育ちの第一世代ですから。仕事も日常生活も全て地上で事足りていましたので、実はこうして宇宙に上がることさえ、殆ど経験がないんですよ」
仕事と日常生活、というところに、何やら異様なアクセントが付けられていた。そういえば、アストレイ研究所所長たる彼って、ワムラビ市どころか研究所敷地内からですら滅多に出ない生活だった気がする。今、超忙しいもんね。てへ!
白皙の顔に、若干血管が浮いているような気もしないでもないが、そこらへん考えると怖いのでユウナは華麗にスル―した。話題をそらすかのように、一人興味なさ気にデッキ構築にいそしんでいるアビーに話を振る。
「ていうか、アビーってプラントの出身だったよね。どう、久方ぶりのプラントは」
「と、言われましても。別に何も。私がここにいたのは五歳まででしたし、周りがコーディネイターばかりというだけで、さして地上と代わりありませんでしたよ。ああ、ですが天気予報は百発百中でしたね」
そりゃ内部気候は完全に調整されてるんだから、外れようがないだろうよ。というか何、この娘滅茶苦茶ドライなんですけど。こちとらの感動やら得も言われぬわくわく感やらを鼻で笑うかのように、和風少女はトレーディングカードを鷹の目で吟味していた。あ、今のウルトラレアの強力な奴。どうやら勝率ドローだったのがよほど気に食わなかったらしい。
「そもそも、私たちは別に観光に来たわけでもないですから。あまり期待しすぎても、回りきれず不完全燃焼するだけでは?」
「いやまあ、そうなんだけどさ。ちょっとくらいなら時間もあるし。見れるとこはみたいと思わない? ほら、エヴィデンス01とか、名所はたくさんあるわけだし」
「ではセクスティリスツーの素粒子研究所初代所長像などはいかがですか? プラント五大がっかり名所として有名ですが」
「何それ、超見たい」
五つもあるの、がっかり名所。逆に興味がわいたユウナは、瞳を輝かせてその話をせがんだ。しかしアビーは無表情の中にどこか呆れの色を混ぜ合わせ、肩をすくめるのみにとどまった。
「…ユウナ様、あまり羽目を外されても困るのですが」
「でもさ、ジャン博士だって興味あるでしょう? プラント観光。それに君たちならともかく、ナチュラルの僕にゃ、どうしても行動に制限がついちゃうし」
「それはナチュラル云々ではなく、ユウナ様のお立場故でしょう? 出国の際にあれだけ揉めたこと、よもやお忘れではありますまい?」
「え、何、聞こえない?」
やれやれ、年をとると耳が遠くなっていけない。ユウナは手のひらを耳に当て、眉をしかめた。まったく、年寄りは耳も記憶力も弱まってしまうのだから、そこらへんは考慮しないとだめだぞ? とジャンに言うと、何故だか重いため息をつかれてしまった。仕方なかろう。年を経るごとにどうしてももの忘れが激しくなってしまうのだ。だから、プラント来訪の際に両親や侍従たちとの喧々諤々の論戦――肉体言語あり――は、ユウナの勘違い、現実にはなかったことである。間違いない。
…仕方がなかったのだ。ユウナが己の目的を達するためには、もはやプラントを小野ずれる以外に選択肢はなかった。だからこそ、どれほど反対されようと、その意見を封殺し、スケジュール満載なジャンの首に縄ひっかけて連れてきたのである。これから四日間のプラント滞在、割とこの先の未来がかかっていると言っても良かった。
「遅延しているモビルスーツの開発。これ以上の短縮は、彼らの技術を頼る以外に道はないんだもの。どうしようもないね」
「…先にも申し上げましたが、開発計画自体は順調と言えますよ。わざわざ危険を冒してまでプラントの技術を求めずとも、独力でモビルスーツを作りだすことは可能です」
「そうだね。時間さえあれば、それでもよかった。でも、その時間そのものが尽きかけてる以上、荒療治でもやるしかないよ」
初号機ハウメアから得られたデータをもとに、二号機、三号機と改良に改良を重ねた機体は、確かに無事ロールアウトして、数々の実験をくぐり抜けてはいた。二号機は一号機のできなかった自立歩行を実現し――OS書き換え前のストライクにすら劣るふらふら女の子歩きだが――三号機はバランスの取れた歩行移動やジャンプといったメタ運動野パラメータの劇的な向上――もの持ったら腕取れたけど――が見られている。このまま推移すれば、いずれ実戦に耐えられる機体を開発できることは間違いなかった。
だが、開発できたとしても、それがヤキン・ドゥーエ戦役に間に合わなければ、無意味、全てが砂のお城なのである。
悲しきかな地力不足。史実の大戦期オーブ、あるいはプラントのようにモビルスーツ開発を国家プロジェクトに位置付け、国力の粋を集めれば早期開発も可能だったのかもしれない。しかしいかな五大氏族が背後にいると言っても、所詮アストレイ研究所は一民間企業にすぎず、資金力にも、開発環境の整備にも限界がある。そう言う意味では、曲がりなりにも形になり始めている現状は、むしろ十分恵まれているとさえ言えるのだ。
「そのために、オーブ国内での利害調整や大西洋連邦の拝金主義者どもへの根回しをしたんだから。ある程度の成果は、あげたいところだね。まったく、どんだけ金使わされたことか」
ユウナはちょっとばかり世間様には言えない、御袖に関わることに費やした金額を思い出し、何度目かの頭痛を抱え込んだ。いや、正直自転車操業的なこっちの懐としては、痛いどころじゃなかった。必要経費として割り切ってはいる。いるのだが、やはり自身の財布の痛みはそう簡単に克服できないようであった。
環太平洋経済条約機構発足に伴って、プラント理事国は極々少量ずつではあるものの、プラントの工業製品の段階的輸出制限の緩和を行い始めていた。輸出入に関われるのは理事国側の指定した特定企業に限っているし、関税もかなりの高水準に定められているものの、これまでの独占状態からすれば大きな一歩であろう。ま、少なすぎと不満の声をあげる国もなくなくはなかったが、あんまりプラント製品が流入しすぎても、オーブ製品と競合して経済的に困ったことになりかねなかったので、こちらとしては現状でも十分であった。理事国みたいに自国の産業構造が壊滅されては困るのである。
いやあ、セイラン傘下の商社をその特定企業にねじ込むのに、どんだけ苦労したことか。ウナトやヴィンス爺やアビーや自分が、それこそ方々を飛び回って死ぬ気で掴んだ立場だった。正直、あの時の苦労は思い出したくない。グロードは足元見てくるし、ムルタはどや顔だし、ウズミには借り作っちゃったし。ああ、嫌だ嫌だ。だからセレブだの社交界だのって嫌いなのだ。
「…そこまで、なのですね」
がくん、と衝撃で身体が揺れた。シャトルが星の海から人口の大地へと乗り上げたらしい。アナウンスが放送されると、周囲の乗客たちがベルトをはずし、自身の荷物を取り出し始めた。
「ん、何が?」
「そこまで、危機的な状況なのですね。この世界は」
ユウナもまた、自身を固定していたベルトを解き放ち、ダッシュボードから手荷物やアタッシュケースを回収する。だが神妙な面持ちとなったジャンは、座り込んだまま、怖いほどに真剣な眼差しでユウナを貫いていた。
「…少なくとも、今のままじゃあ、すまんだろうねえ。どこも、かしこも。後何年もつやら」
肩をすくめつつも、ユウナはジャンの鋭い洞察力に尊敬の念を覚えていた。彼はユウナのこれまでの行動、モビルスーツに対する期待感、現在の国際情勢から、セイランの総領が何故ここまで無茶をするほどに焦っているのかを正確に察したのだ。
そう、兵器たるモビルスーツが必要とされる事態、即ち、戦争の時代が遠からず訪れると言う、救いがたい現実を。
「…何故、人はかくも争うのでしょうか。憎しみは新たな憎しみを呼び、戦いは延々と続いていく。大切なものを失ってまで、どうして戦うのか。私には、理解できない」
「人が正義なる代物に固執するからじゃないの?」
無重力空間であるため、荷物の重みがないのが素晴らしい。どうでもいいが、主人に荷物持たせといて、自分は未だデッキ構築中というのは、侍女としてどうなのだろうか。アビーさんや。ていうかもうついたんだよ。降りるんだよ? 何一心不乱にカード繰ってるのだろうか。
「憎しみが戦争を生む、なんて、世の中そんな分かりやすく出来てるわけないじゃない。世間様ってのは、もっとえげつなく、救いがたく、残酷なもんだよ。憎しみだの、絶対悪だの、そんなもので戦いは起きない。だって、そんな誰もが『悪』と認識できるもんに、多くの人間が付いていくわけないじゃんよ。誰だって正義の、正しい側に付きたがるし、大義というのを重視するからね」
ことに近代国家の戦争など、正義の名のもとに為されたものばかりであろう。祖国のために、大義のために。『正しい』とは常に血と命を吸って大きくなる概念なのだ。いやあ、非常に救い難い。
ええい小娘、いい加減にカードから離れなさい。ユウナが抗議の意味を込めて少女の肩に手を置くと、ものすごい視線が返ってきた。人間ってここまで怖い目ができるものなのか、と少しばかり言い知れぬ快感が身を焦がす。
「貴方の志はとても『正しいもの』に思えるよ、ジャン博士。でも、ちょいと歴史を紐解けば――そういう、『誰の目から見ても正しい目的』こそが多くの戦争を引き起こしてきたっていうこともわかると思うんだよね。自国民の幸せのために、故郷を苦渋から救いあげるために、そんな熱い正義こそが、屍山血河を築き上げてきた最たるものだもの。…ジャン博士」
ユウナはアビーを動かすことを早々に諦めた。仕方ないので、凍りついたように顔をこわばらせたジャン・キャリーに満面の笑みを向けて、小首をかしげる。
「貴方のその思い――あるいはそれこそが、次の戦いの火種かもしれない。そのことだけは、しっかりと把握しておいたほうがいいと、僕は思うよ」
だからくれぐれも、地球連合に走らないでね。ていうかお願いします。今貴方に抜けられるとユウナさん超御困りになってしまいますの。いや本当に。優秀な工学博士であり、あの三爺含めた研究所勢をまとめられるのは、彼以外にいないのだ。そんな人材に抜けられでもしたら、遅延どころか最悪開発がストップしかねない。
まあ、彼の高潔な志はとても好ましいものである以上、それを貫き通したいと望むのであれば、ユウナとしても喜んで協力せざるを得ないのだが。ムルタも、トダカも、ジャンも、ベクトルは違えど自分の『欲望』をしっかりと認識して追い求める人間が、自分は大好きだ。
そして、その欲望が誰に何をもたらすのかを知って、それでもなお追い求める人間には、全面服従してしまうくらい尊敬の念を持つ。だから、彼には知っていてほしかった。
憎しみの連鎖を断ち切る、その行動の結果がどういうもので、それによって何が起こるのかを。その高潔な思いこそが、新しい戦争を生み出しかねないということを。
良いも悪いもない。ただただそういうものなのだ。というか、そもそも善だの悪だの罪だの何だの、そんなものを語るほうがよほどナンセンスである。
知って、納得して、それでも掴んでこそ、栄えるというものではないか。
ジャンの身体から隠しようもない苦悩と葛藤が漏れ出し始めた。くふ、と笑みが漏れる。悩みこそ至宝、葛藤こそ未来への扉。戸惑いと惑乱の果てにこそ歩むべきものがある。
ああ、背中をひた走るこの快感がたまらない。人の欲望、希望という名のどす黒い何か。ぞくぞくしちゃう。
「とっても、素敵なことだね」
そう、とてもとても素晴らしい心持ちなのである。だからアビーさんや、そんなやる気満々な眼で再戦の意志を表明しないでいただけませんか。もう降りるって言ってるでしょ