月日は流れる。
常夏の楽園オーブでは、一年を通して強い太陽と向き合わねばならず、それ故季節の変化に少々鈍感になるところがあった。汗の拭き出る猛暑、それに反し徹底して冷やされた室内。かつて在った四季溢れる極東の国から、南国情緒盛りだくさんのこの国に来ると、季節感というものをどこかに置き忘れてしまうような感じが拭えない。
今、ユウナは広大な人工の平地と長大な鉄橋を眼前にして、何とも言えない苦笑を浮かべていた。巨大なガラスで遮られたその先では、あまりの熱気に景色がゆがんで見え、隔絶してもなお響いてくる轟音が鼓膜をふるわせ続けている。
また一つ、箱舟が天かける橋を渡って星の海へと漕ぎ出した。
オーブ連合首長国カグヤ島。オーブ経済の大動脈たるマスドライバー施設を有する宇宙港である。ガラス窓から視線を外すと、これまただだっ広いロビーを行きかう様々な人々が目に映った。熱いのにピシリとしたスーツ姿を崩さぬ男性、楽しそうにはしゃぐ子供を追い掛ける、キャリーバッグを引いた夫婦。
皆、天へと足を延ばすために、あるいは重力の井戸の底へ舞い降りるためにここを訪れたものばかりである。
そんな中に、自分たちの姿もあった。
月日は流れる。
ユウナは放浪していた視界をあるべき場所に戻し、困ったような笑みを浮かべた。
「早いもんだね」
誰に聞かせるでもなく、ただ口の中だけで言葉を転がす。オーブ軍の軍服をぴしりと着込んだトダカ、フォーマルな装いのエレン、そしてカジュアルながらも質のいい子供服を着せられたカナードが、集まったセイランの家人たちとめいめい会話を楽しんでいた。
セイラン当主夫妻、エルスマン夫妻、トダカ・シフォース両家の御両親、三爺、ジャン、エリカ、アビーと、それなりに大所帯になってしまったが、皆常識をわきまえた大人である。周囲の客に迷惑をかけない程度の声量で、思い思い残り少なくなった時間を楽しんでいるようだ。
自分を含め、彼らは皆、新たな旅立ちを見送るべく集まった者たちだった。
そう、今日はトダカ一家が――カナードが、月へと向かう日。
彼らとしばしの別れを噛みしめる場所だった。
「寂しくなるな」
ウナトの発した言葉は、ここにいる誰もが大なり小なり抱いている感想であろう。そのあまりの率直な意見に、幾人かの顔にかすかに苦笑がひらめいた。
本当に、寂しくなる。ユウナは自身が想定していたよりもよほど大きい寂寥感を覚えていることに、驚きと言うよりも深い納得の波紋が心に広がっていくのを感じていた。
あの日。カナードに月の留学の話をした時から、こうなることはわかっていたと言うのに。どれほど覚悟していても、備えていても、人の生の部分は時として健在意識の鎖すら振り切ってしまう。
『わかった』
小さな黒髪の子供が、ユウナから話を伝えられて発した一声がこれだった。アスハやサハクの提案もきちんと説明したが、あの子は迷うことなく、ユウナの提示した選択肢を選びとったのである。
そこに、困惑も反発も何一つ存在しなかった。大人ですら理不尽と感じる、己の運命を保護者とはいえ第三者に勝手に決められるという不愉快な出来事を、あの子は何でもないように受け入れ、納得したのである。
まるで、そうあることが義務であるかのように。
揺れ一つ起きない静かな水面。カナードの肯定を経たその日、ユウナは不覚にも自室で整理しきれない感情を爆発させてしまった。胃の中のもの全てをぶちまけてしまう程の自己嫌悪が心をさいなみ、正直アビーに折檻されていなければ、しばらく立ち直れなかったかもしれない。
本当に、悲しいくらい賢い子だった。五歳でありながら、カナードは己と家族の置かれている立場を完全に理解していたのである。自身がセイランの保護下にあり、それが故に総領たるユウナの決定に逆らうことができないことを、反駁すれば両親の地位やら何やらに深刻な影響が出ることを理解していたのだ。
そしてあるいは。
この子は、気づいているのかもしれない。
自分が、普通の子供とはどこか違っていて、そし自身の両親、母が本当の親ではないことも。
あんな子供に、それだけの決定を強い、さらには恐ろしいほどの重圧を押し付けてしまったことは、ユウナの精神を折るのに十分すぎる威力を持っていたのだ。
「何か思い出したら鬱になってきた」
駄目だ駄目だ、一時の別れの場で、そんなしけた顔なんぞできない。もっとこう、楽しいことを考えよう。大体、子供にそんな糞みたいなもの背負わせた張本人が悲劇の主人公気取るとか、もう、ない。色々とない。あまりの厚顔無恥さにおじいちゃんドン引きである。サクッと切り替えなければ、羞恥と自己嫌悪で狂い死んじゃいそう。
ユウナは沈みかけていた気分を浮上させるべく、ここ数カ月で一番楽しかった出来事を脳裏に浮かべた。脳裏に蘇ってくるのは、トダカ家とシフォース家の結婚披露宴である。
にまり、と思わず頬が緩んだ。あれは近年まれにみる、会心の出来だったと自負できるものだった。
まず披露宴席次前列を悉く占めるのは、セイラン当主一家を筆頭にしたセイラン派の軍重鎮のお歴々。何かものすごく重苦しいオーラ満載の最前列に、まず新婦側招待客がドンびいた。次いでどうやって潜りこんだのか分からないが、どこぞの獅子様にクリソツな通りすがりの髭親父と、これまた陰謀大好きな殺伐元下級氏族現五大氏族家の家長によく似たおっさんが仲良く談笑している様に、何故か新郎側招待客が硬直した。そう言えばあの人たちって、どこの誰さんだったんだろう。ふっしぎー!
おまけに大西洋連邦から、代々高級官僚を輩出している名門一族の父娘とか、何か青き清浄なる世界臭のする屈指の財閥御曹司とかが参列していたりした日には、もうびっくりするほどのカオスであった。
そこで繰り広げられる、セイラン家諜報部努力の結晶たる、新郎新婦黒歴史スライド、滑る宴会芸に、色んな意味で神がかったスピーチ。和風な感じで決めた侍女に蹴り飛ばされるどっかのショタ的爺。何気に仲人やってたウナトなど、途中から悟りの境地に達した目になっていたことを鑑みれば、それがどれほどのものだったか想像に難くなかろうて。
しょうじき、すまんかったとおもたのは、ひみつである。
しかしまあ、最初こそ死人のごとく生気を伺わせなかった新郎新婦だが、式が進むに従ってやけくそ気味にせよ笑顔を浮かべていたのだから、これはもう終わりよければすべてよし、と言ってしまって大丈夫ではなかろうか。なかろうか。
その次に楽しかったのは、オロファトの百貨店での買い物だ。安全上の問題から、あまり外出できない自分やカナードにとって、数少ない御出掛けの思い出である。正直こんなん買うのなんて、どんだけセレブなんだよ、と思いつつもウインドウショッピングするのは楽しかったし、途中でどういうわけか鉢合わせした髭のエロい獅子とか、最近特にサハクっちゃってる長とかと茶を飲んだり、これまた偶然出会ったナダガとリンゼイの御曹司に我が家のダメイドがシャイニングウィザード決めちゃったりと、非常にスリリングかつ貴重な体験もすることができた。ちなみに最後のものは、絡んできたのが向こうであることと、あちらさんが仮にも氏族の嫡子がするにしては少々品のない行いをしてきたことから、その場の誰もが見なかったふりをした。世の中誰も口にしなければ、そんな事件はなかったことになるのである。やったね!
シュールだろ…? これ…派閥争いなんだぜ…?
にまにまと、精神の再構築を果たしたユウナは、ぱしんと両の手で頬を叩いて顔を引き締める。すかさず背後に回ったアビーがものすごい勢いで追撃してくださったおかげで、気合も十分と言えた。十分すぎて頬がひりひりするのは、御愛嬌である。
ユウナは歩みを進め、トダカ一家の前に出た。相変わらず実直そうに気合を入れている新たなる大黒柱殿の二の腕を数度叩き、一言だけ告げる。
「後は、任せたよ」
「…は」
彼としても、色々と言いたいことはあるのだろう。この日が来るまで、いつも通りトダカを振りまわし続けていたが、それでも彼の中で何かが変わったと言うのは察していた。生憎と読心の術を持たない自分にはそれが何なのかはわからないが、決して悪いものではないことは、日ごろの付き合いで悟っている。
何であれ、トダカは歩み始めたのだ。ならばユウナにできることは、それを見守り、時に手を貸す程度のことしかない。
そんな彼に苦笑をひらめかせ、ユウナはからかうようにエレンに告げる。
「手綱は、しっかりと握っておいた方がいいよ。こういうタイプは、すぐどっか行っちゃうからね」
釘をさすように、そう笑いかけた。彼女は苦笑しながらも、静かにうなずく。
「しっかりと、面倒を見てあげて。貴方が頼りなんだから」
「…はい」
そして、ユウナは最後にカナードの前に立った。黒髪の子供は、相も変わらず色の読めない瞳でじっとこちらを見つめている。
ユウナは膝を折り、カナードの小さな体をぎゅっと抱きしめた。柔らかな頬をその身に感じ、熱いとも言える命の鼓動を全身で受け止める。
「きっとこれから先、辛いことは一杯ある」
愛しい子供。この世界に来て幾つも結んだ縁、生きがいの一つだ。
「大丈夫、だなんて口が裂けても言えない。ひょっとしたら、心折れてしまうことだって、あるかもしれない」
すっと、隣から白く艶やかな手が伸びてきた。アビーだった。彼女はユウナに抱えられているカナードを、さらに包み込むようにぎゅっと抱擁する。その顔は常の鉄面皮からは想像できないほど、穏やかな笑みで染められていた。
「でも、どうか」
その先の言葉を紡ぐことなく、ユウナは彼から身を離した。もう一度、カナードの顔をよく見て、さらさらの黒髪をゆっくりと撫でる。と、フロア全体に響き渡った声が静かに鼓膜を震わせた。
『大変長らくお待たせいたしました。これより、オーブロイヤルエアライン、第二○三四便の搭乗手続きを開始します。御搭乗の御客様は、三番ゲートに御集りの上、係員に搭乗券を御呈示ください』
「…ユウナ様、時間です」
トダカの言に、ユウナはこくりと頷いた。もう一度だけ、子供の命を全身でしっかりと確かめる。アビーはカナードの額にそっと口づけし、おでことおでこをくっつけた。
「いってらっしゃいませ」
カナードはくすぐったそうに目を細めた。そしてユウナを、アビーを、見送りに来た全員をしっかりと見やり、ほんの少しだけ、その唇をほころばせる。
「…いってきます」
いってらっしゃい。
異口から放たれた同音は、全員の偽らざる花向けの言葉だった。
『カタパルト接続を確認。投射質量のデータに変更なし』
一機のシャトルが、鉄のかけ橋に向かってゆっくりと近づいていく。
『カグヤ周辺の気象データは全て許容範囲内。超電導レール異常なし』
管制に従い、青みがかった機体はマスドライバーにしっかりと設置された。宇宙港のメインゲートがせり上がると、途端に目を焼くような日差しを煌めかせた、青々とした海が顔をのぞかせる。発信を知らせるベルが鳴り響き、誘導等が淡く点滅を開始した。
『オールシステムズ、ゴー。シャトル、ファイナルローンチ・シークエンススタート』
そして、最初はゆるやかに、しかし徐々に加速をつけて、シャトルが動き出した。
『貴船の旅路に、ハウメアの守りがあらんことを』
祈りの聖句と共に、シャトルは陽光の元へと飛び出し、やがて尾を引きながら蒼穹の彼方へと旅立っていった。
小さな粒になってもなお、ユウナはシャトルから目を離さずに、ただ吸い込まれそうになる青空を見やっていた。そして、紡げなかった最後の言葉を、胸の内だけで反駁する。
目を閉じた。そしてただ静かに祈る。神にではない。星の巡り、命の律に願いを込めた。
どうか。どうか。
あの子の旅路に、未来に、溢れんばかりの幸があらんことを。
淡い光が、ワルツを踊っているかのように乱舞する。
それは巨大な結晶だった。人間の背の倍に相当する高さを誇った、幾何学的な様相の前衛芸術である。幾つもの立方体が、無造作に重なり合い、その一つ一つにはまるで閉じ込められているかのように、光の粉雪がひらひらと舞い咲いていた。
水晶ではない。宝石でもない。正直、素材そのものが不明な代物であった。
そんな意味不明な物体が三つ、瀬野渡瀬の眼前に鎮座して、少々ネジの外れたような芸術なるものの威容を存分に発揮していた。
「チェックサム、オールグリーン。全システム、正常稼働中、と」
渡瀬を取り囲むようにして浮かんでいた情報ウインドをさっと一撫でする。一応全ての情報に目は通したが、やはり機械音痴の自分にはあまり意味のない代物と言わざるを得ない。ふう、と若干身体にたまった疲労を吐き出し、渡瀬はかりかりと頭をかいた。
「そりゃ、俺の専門分野でもあるんだから、メンテ任されるのはわかるんだけど」
だからといって、こんなバカでかい機械に触らせられる等、怖くてたまらないで
はないか。何か変なところ触って壊したらどうするのだろうか。
渡瀬はふう、と大きな息を吐いた。まあ、機械専門のスタッフも常駐しているわけだし、そうそうそんな恐ろしいことは起きるはずないか、と無理やり自分を納得させて、数度頭を振る。整備員に引き継ぎを済ませると、渡瀬は整備終了の報告をすべく、船長室へ足を向けた。
通路を歩いていると、ふいに窓外の景色が視界に入った。煌めく星の輝きを覆い尽くすような、無骨な石塊の群れ。アステロイドベルト、火星と木星の中間に分布する小惑星帯である。
「…そろそろここともおさらば。さて、木星には何があるのやら」
一昨日見た火星の風景を思い出し、渡瀬は歩みを止めぬまま肩をすくめた。木星探査船しょうりゅうの航海は、彼の星の調査研究を目的としているため、非常に余裕のあるスケジュールが組まれている。それは木星で起こっているであろう何らかの異変を、距離のあるうちに掴んでしまいたいからだった。地球圏では察知すらできなかった兆候も、現地に近付くにつれ詳細なデータも取れるようになる。事実、火星圏を出立した段階で、しょうりゅうの外部センサーは木星軌道上に確かな異常を感知していた。
このまま順調に推移すれば、早ければ標準時間にして三日後の早朝に、この船は木星圏に到達する。といっても、渡瀬をはじめ乗組員はさしたる緊張も情動もなく、平静を保って職務に当たっていた。
「まあ、何とかなるだろう。あの船長もいるし」
渡瀬の呟いた台詞は、しょうりゅう全乗組員の抱いている思いだった。抜け作のように見えて、あれでなかなかやり手かつ実績をたたきだしている船長なのだ。これまでの経験から、彼ならどんな状況に陥っても、豪快に笑いながら道を開いてくれると、無条件の信頼を寄せているのである。
本人に言えば絶対調子に乗るから、絶対に告げることはないが。
船長室の前までやってきた渡瀬は、扉の脇にある端末を操作し、己の来訪を部屋の主に告げた。
「失礼します、船長。一級特務技師、瀬野渡瀬。計画最終行程終了の御報告に上がりました」
しばし直立して中からの返事を待つ。二秒、三秒と経っていき、脳内の仮想時計が重病を数えた辺りで、渡瀬の眉が微妙にゆがんだ。
「船長? どうかされましたか?」
おかしい。この時間、辰五郎は自室にて彼の苦手とする書類の整理を泣きながらやっているはずである。事実、扉の端末は主人の在室を主張しているし、船長がここにいるのはほぼ間違いなかった。
ひょっとして、寝ているのか? 船長、ともう一度呼びかけて、渡瀬は端末を操作した。不用心にもロックはかかっていない。まあ、船内で彼を害するような勇者は存在しないが、世の中予想の斜め上のことが起るのは当たり前。あまりこうした油断は歓迎できる類のものでないことは確かだった。
「失礼します、せんちょ――」
「俺の聞仲が死んじまった!」
扉がスライドした瞬間、悲鳴じみた叫びが渡瀬の鼓膜に到達した。
は? と思わず口を馬鹿みたいに広げる。空間が限られている船の中でも、かなりの面積を誇る船長室、その中心に鎮座する机にて、しょうりゅう船長竜園辰五郎が、本らしきものを抱えてわなわなとふるえていた。
「俺の、聞仲が、死んじまったー!」
精悍な顔立ちの、筋肉質な男が号泣する様と云うのは、恐ろしくシュールである。しかも叫んでいる文言は意味不明のもの。渡瀬はどう反応すればいいのかわからず、しばしその場に立ち呆けた。
「…あの、何してるんですか、あんた」
「……おう、渡瀬か。見りゃわかんだろ。読書だよ。その余韻に浸ってんだ。邪魔しねえでくれよ」
吹いた。みっともないが、唾を飛ばす勢いで、思い切り噴き出した。
「どくしょ! せんちょうが、どくしょ!」
「おい何だよその反応!?」
鼻声ながらも抗議の声が飛んでくる。だが渡瀬は彼の心情を慮る余裕もなく、ただただ驚愕の濁流に翻弄されていた。
船長が。あの机について三十秒で夢の彼方へ飛ぶ、脳筋の竜園辰五郎が。
読書。読書と。
いけない。こんなことをしている場合じゃない。荒れ狂う動揺の嵐を、渡瀬は不退転の決意を持って抑え込んだ。そして努めて平静に――ともすれば震えそうな声を押さえて――辰五郎に語りかける。
「船長。すぐに医務室へ行きましょう」
「え、俺そこまで馬鹿だと思われてたの!?」
「あたりまえでしょう。船長資格が取れたことが奇跡のような船長が、わざわざ活字にアプローチするなんて誰が信じますか。きっとお疲れなんです。早く点滴なり何なりを打ってもらいましょう?」
「なあ、これって新手のいじめなのか? そうなのか、おい?」
よし、大分落ち着いてきた。漫才のようなやり取りによって心の天秤を水平に戻した渡瀬は、数度深呼吸した後、とりあえずここを訪れた目的だけは果たそうと先の光景を脳内から追い出した。もっとも完全に吐き出すことはできず、まるでタールの様に頭の片隅にこびりついていたが。
「報告します。航行計画に予定されていたメインコンピュータの最終チェックは無事終了しました。全機とも異常なく、調整の方も問題ありません。目的地到達後の任にも耐えられると判断します」
「無視かよ…。ま、それはともかくご苦労だったな。特にゆーきの奴が作ったもんの整備なんてくそ面倒くさいこと、押し付けてすまんかった」
「いいえ、それが俺の役目ですから。というか、そのためだけに乗せられたとも言えますし」
「ホントに悪ぃ。俺はどうにも、ああいう細かい作業ってのが苦手でな。お前さんばかりに苦労かけちまう」
「俺としては、本郷博士の仕事ぶりを拝見できて、結構楽しめてるんですけどね」
「…うへえ、学者気質ってのはわからねえ」
そう言って辰五郎は痛みをこらえるように頭を抱えた。いかにもうんざりした、という表情は、彼の学問に対するスタンスを如実に表していると言えよう。だから妻子からも脳筋と呆れられるのだ。彼の息子、渡瀬の友人もそれを常々嘆いていた。本郷博士くらいとはいかないけど、せめてヒト並みの知能は持っていてほしかったそうな。
「おい、何か失礼なこと考えてるだろう?」
「船長って脳筋ですよね」
「こいつ、面と向かって言いやがった」
「…本音の暴露はここまでとして。ところで船長、何をそこまで真剣に読んでいたんですか? 正直本当に不気味なんですけど」
「お前本当に容赦ねえな。…見りゃ分かんだろ? 封神演技だよ」
封神演技、と渡瀬はこれまた心底驚いたと、声を震わせた。封神演技と言えば、中国の古典小説であり、易姓革命を題材とした作品である。人界と仙界を二分した大戦を描き、国や宗教を絡めた古代中国の傑作としても名高く、三国演技や水滸伝に次いで有名なものであった。
「うわあ、中国古典読む船長とか。うわあ」
「なあ、泣いてもいいか?」
そんな目の端に涙を浮かべた顔をされたとて、渡瀬の内に湧き上がった筆舌に尽くしがたい感触をぬぐい去ることはできなかった。残念ながら、こればかりはどうしようもない。
「でも、船長にしてはなかなか良い趣味ですよね。俺も読んだことありますけど、結構おもしろかったでしょう?」
「おうよ。特に聞仲が死んじまうとこなんて、感涙もんだろ…。くそ、かっこよすぎだぜ」
聞仲と言えば、商の大使にして金鰲列島の道士である。易姓革命の最中、主人公たる姜子牙との戦いによって命を落とすが、きっと彼の言っているのはその場面のことだろう。
しかし同時に渡瀬は首をひねった。確かにあそこは封神演技の見せ場と言えなくもないが、そこまで感涙にむせぶほどのものだろうか? そもそもにして、渡瀬に聞仲というキャラクターにそこまでの思い入れを抱けなかった。武成王造反の際にも、たかが妻妹を殺されたくらいで商を裏切るとは、と古代中国チックな価値観を丸出しにしていた人物である。かっこいいか? と聞かれたら微妙、としか答えられない。
「そんなに泣くほどですか?」
「おま、あれ読んでその感想とか、ないわ! ないわー!」
そう言って辰五郎は顔を真っ赤にして抗議をしだした。どうでもいいが、むさい中年男がそんな動作をしてもうざったいだけである。渡瀬の視線は見る見るうちに温度を下げて、鋭さを増していった。
「ほら、ここだよここ! このシーン!」
はあ、と大きなため息をこらえながら渡瀬は彼の差し出した本を見た。そしてこれまで抱いていた恐ろしいまでの違和感が氷解していくのを感じる。
そこに描かれていたのは、非常にハンサムな男だった。何か甲殻類のような黒い動物に乗って、破壊力のありそうな長い鞭をぶんぶん振りまわしている。
どう見ても、古臭い漫画だった。そして渡瀬の知っている封神演技ではなかった。
「…ああ、やっぱり。所詮船長だもんな……」
「何だよその反応! どっからどう見ても封神演技だろうが!」
確かに封神演技だった。タイトルにもそう書かれている。しかし、違う。どう考えても違う。保存状態はいいが、如何にも古本と言わんばかりのそれを、渡瀬は頭痛をこらえるように見据えた。
「それ、漫画ですよね」
「おうよ、ゆーきから借りたんだ。あいつ、こういうの一杯持ってやがるからな」
ああ、本郷博士か。渡瀬は疲労の濃い納得を己の中に得た。彼は色々と深い趣味を有しているようだから、こうしたものを持っていても不思議はない。そしてそれを友人である辰五郎に貸し出したとしても、何ら問題はないのだ。
問題はないのだが。何だか酷い誤解をしていたように感じ、渡瀬の精神は少しばかり疲弊していた。これ見よがしなため息が漏れる。
「んだよ、見もしないのにそんな反応しやがって。そう言うのは読んでからやれ、読んでから」
「俺、仕事中なんですけど」
「俺が許す! 船長命令だ、読め!」
何だか話がよくわからない方向にシフトしている気がした。意地になっている辰五郎の顔を見て、もう一度息を吐く。
「分かりましたよ。ま、仕事もひと段落しましたし、ちょっとくらいなら付き合います」
仕事中と言ったが、実際に渡瀬に割り振られた仕事はこの船のメインコンピュータの整備しかない。後はせいぜいシステムに関する報告書をまとめるくらいで、あまり考えたくないがしょうりゅう有数の閑職と言えた。
おう、読め読め、という辰五郎の声を流しながら、渡瀬は面倒くさ気に漫画の第一巻を開いた。しばしページを繰る音と、静かな息遣いのみが船長室を支配する。
五時間後、渡瀬は読んでいた本を閉じて、静かに、だが深い激情を込めて言葉を吐き出した。
「俺の清虚道徳真君が、死んでしまった!」
「渋いととこ突いてきたな、おい」
「何言ってるんですか、恰好いいじゃないですか! 先達として、師匠として弟子たちの未来を切り開くために命をかけて、勝てぬ戦いに赴いていく! まさに男の本懐でしょうに!」
「や、わかるよ。わかるんだけどよ…」
本当にわかっているのかこの男は! 認めよう、確かに聞仲は素晴らしいキャラクターだった。あそこまで鉄壁の意志と信念を持ったものを、知らなかったとはいえ音占めてしまったのは自分の痛恨事である。しかし、だからと言って道徳を渋いところ、マイナーなどと、そんなことが許されるだろうか!
「船長、ちょっとお話しましょうか」
「誘った俺が言うのも何だけど、お前どんだけ本気なんだよ」
明日にでも地球の本郷裕貴から、完全版を取り寄せなければならない。というか封神フィールドとか、何それかっこいい。渡瀬はそわそわと辰五郎の頭を右手で掴んだ。
とりあえず、渡瀬と辰五郎の肉弾飛び交うOHANASIは二時間に及んだことを記しておく。