さんさんと降り注ぐ明るい日差しとは対照的に、室内は冷たい沈黙に包まれていた。冷房は常夏の楽園を過ごしやすい温度にする程度の設定であるはずなのに、どうしてかここが真空の宇宙のように思えてならない。重苦しく、暗い。ユウナはふかふかのソファに身を沈めながら、熱い緑茶をすすった。茶菓子の饅頭をひょいと口に運び、咀嚼する。
ユウナの隣にはエレンとトダカが座っていた。対面にはウズミとウナトが座し、アビーとヴィンス爺が壁に背を向けて直立している。それなりに広い部屋であるはずなのに、何故か狭苦しい印象を覚えるのは、きっと周囲の連中の顔色が優れないからだろう。
生粋のオーブ軍人であるトダカは、自国の国家元首にして軍最高司令官と同席していると言う現実から目をそむけるように、深く深く瞑想に沈んでいた。エレンはどう対応していいかわからず、おろおろとウサギのように周囲へ視線を散らしている。ウズミなどは余裕の表情で出された紅茶をすすっていたが、それとはま逆にウナトは色濃い疲労にさいなまれているようだ。アビーとヴィンスは相も変わらぬ無表情である。
まあ、無理もなかろうさ。ユウナは他人ごとのように口の中で言葉を転がした。事情を知ってでもいなければ、トダカ夫婦――予定――を国家元首と同席させるなど、非常識以外の何物でもない。いかな私的な場とは言え、格式だのなんだのとは無縁でいられない以上、下手を打てば家名に傷をつけかねない対応であろう。
だが、ことこの一件に関しては必要な事だ。それを理解しているのは、自分とウズミ、ウナトくらいのものだろうが。
「さて」
何時までもこうしているわけにもいかないので、頃合いを見計らってユウナは口を開いた。視線が未だせいちょーきの身体に突き刺さる。
「とりあえずこっちの要件を先に済まそうか。トダカ『三佐』、エレンさん」
びくりと両名の肩が跳ね上がった。それに気付かぬふりをして、努めて朗らかに彼らを呼び出した理由を告げる。
「今日貴方たちを呼んだのは他でもない。これからの貴方たちの将来について、ちょいとお話があるからさ」
「将来、ですか?」
ちらちらとウズミを気にしつつも、トダカは現実に帰還したようだ。困惑に首をかしげてユウナを視界に収めている。
「そ。本当なら若い二人のことに、年寄りが無暗やたらと口出しするもんじゃないのはわかってんだけどね。そうも言ってられんのよ。何せトダカ三佐、エレンさんを妻にめとると言うことは、貴方はカナードの父親になるということになるんだもの。口出ししないわけには行くまいよ」
「ちょ、ちょっと待ってください。確かにそのことは一度しっかり話し合いたいとは思っていましたが…その前に、一つお尋ねしてもよろしいですか?」
どうぞ、と促すと、トダカはそれはそれは嫌そうにその顔を歪めた。その有様は、この会話の意味に気付きつつも、ちがったらいいなーという細い藁に縋りついているように見える。
「…私はまだ一尉なのですが」
「うん、そうだね。でも明日から三佐だから。辞令もすぐに出るよ、やったね!」
今度はものすごく頭が痛そうにこめかみを押さえられた。気持ちは非常に理解できるが諦めて欲しい。
「色々と言いたいことはありますが、そこはぐっと飲み込みます。ですが一つだけお聞かせいただきたい。何故なのです?」
「貴方を昇進させる理由を聞いているのなら、二つほどお答えしよう。公的な立場からは、自派でかつ有能な軍人である貴方を上層部に食い込ませたいから。ま、言ってみれば軍内部の権力調整の結果だあね。知ってるだろうけど、国防軍でのうちの影響力って、アスハ家やサハク家と比べるとちょーっと見劣りしちゃう部分があるでしょう? だからだよ」
別に軍部におけるセイラン家の影響力が小さいわけではない。何と言っても五大氏族であるのだからかなりの力は有している。が、筆頭たるアスハ家や軍事関係に謀略の根を張るサハク家には、一歩遅れているのもまた事実であった。
もともとセイラン家は政治的な陰謀と術策を得意とした家であり、その力は主に省官庁に比重を置いていたからである。故に軍の、制服組へのパイプはいささか心もとないというのが本音だった。
「…私は派閥に入った覚えはありませんが」
「やっだあ、もう、トダカ三佐たらん。
…それが本気で通じるなんて、思ってないでしょう? 僕の護衛としてそれなりの年月を共にし、かつセイランに縁の深い才女を娶る。これだけの条件で、セイラン派と見なされないわけがないでしょうや」
うわあ、苦い顔。しかしそれ以上、彼が反論することはなかった。
大体である。いくら未だ家督を継いでいない身だからとて、士官学校を出てウン年のぴよさんを護衛に、それもSPまがいの真似をさせる役によこすわけがないではないか。そもそも要人警護なんぞ、警察の分野である。何らかの意思が働かない限り、軍人――それもぴよさんが派遣されてくることなどありえまい。そう、例えば警備強化に乗じた、将兵の青田買い、とかでもないかぎり。
制服組はともかく、背広組への影響力は捨てたもんじゃないよ!
「はっは、必死こいて派閥の会合やら何やらを避けてたみたいだけど、無駄無駄ァ! そういった日に限って僕の――セイランの御曹司の我がままが炸裂していたこと、気づいてなかったなんて言わせないよ」
例えばセイラン派の集まりに誘われたのに、それを華麗にスルーした軍人さんを旅行に引っ張るとか、ピクニックにしょっ引くとか。そんな情報を流すだけで、なんということでしょう。人脈づくりもしていないのに、あっという間に派閥の中心に近い部分に立っているのです。
そう言ったらトダカは頭を抱えて黙り込んでしまった。彼ができる限り政治から距離をとった、努めて実直な軍人たらんとしているのは理解しているが、生憎とこの男ほどの人物をそのまま他家にとられるわけにはいかないのだ。
ちらりとアスハの長を見ると、かすかな苦笑を口元に浮かべていた。それが彼にトダカ争奪戦への参加意思があったこと、そしてそれに対し敗北したことを惜しんでいることを如実に表していた。そっちにゃレドニル・キサカが付くのだから、彼くらいこちらに回してほしいというのに、真に強欲な男である。
「ま、トダカ三佐の無駄な努力のことはさておくとして、話を戻そう。さっきも言ったけど、今日貴方方を呼んだのは、これから先の貴方方の未来についてお話したいことがあるからさ。これが、昇進させる個人的な理由にも該当する」
「私たちの未来……」
トダカを慰めつつ、エレンが小首をかしげて疑問を口にした。それに頷き、続ける。
「いやあ、僕も新婚ほやほやのお二人にこんなこと言うの、気が引けるんだけどねえ。でも、仕方ないと言うか、お仕事っていうか」
ひらひらと口元を扇子で隠す。もったいぶった言い回しに、麗しの才媛もまた、旦那と同じくそれはそれは嫌そうに顔を歪めた。これは絶対ろくな事を言いださない、と確信しているかのような表情である。そしてそれは正解だった。
「詳しいことは人事局から辞令が行くと思うけど、トダカ三佐。貴方は翌六十一年をもってオーブ本土防衛軍特務旅団より解任、月面都市在勤オーブ大使館駐在武官に任命されることになります」
にちゃり、と粘っこい笑みを浮かべて扇子の先を突き付けた。一度こういう無理難題を押し付ける役割というものを演じてみたかったのである。なるほど、確かにこれは少々病み付きになってしまいそうな危うさだった。
「…ちゅ、駐在、武官…?」
「どう考えても新婚早々単身赴任の危機ということです。本当にありがとうございましたって怖っ! エレンさん顔怖っ! ちょ、お待ちになって! そんな殺気振りまきながらにじり寄ってこないで! 訳ならあるから! きっちり説明するから!」
まさに般若。正直気合を入れていなければ股間を濡らしそうなほどの殺意が全身を貫いていた。びっしりと額に脂汗が浮く。お部屋の隅っこでガタガタ震えて命乞いをしたくてたまらない気分だった。美人は怒ると怖いというのは本当である。なまじ顔立ちが整っているために、与えられる圧力が半端ないのだ。
「…では、どういうつもりなのですか?」
ともすれば握力でティーカップを握りつぶしそうな女性にユウナは壊れた人形のようにかくかくと頷いた。どうでもいいが、トダカでさえドン引きしているように見えるのは多分気のせいではあるまい。
「なんだよー。ちょっとした年寄りのお茶目さんじゃんかよー。てへ、とかぺろ、とか舌だしてりゃごまかせる程度の、可愛らしいもんじゃんか」
ものすっごく冷たい目で睨まれた。氷柱で肌をつつかれているようで、非常にぞくぞくする。なんだろう。これ、癖になりそう。
まあ、個人的なお楽しみで日ごろの疲れを癒したいところだが、それだと話が一向に進まないので、そろそろ本音を暴露する。次はもうちょっと時間の取れるときに行いたいと思う。
「別に本気で単身赴任させるつもりはないよ。むしろ、そうされると困るのは僕」
小さくため息をつき、すっとテーブルに一枚のプレート型端末を滑らせた。エレンは訝しげにそれを受け取り、さっと流れる文字のダンスに目を走らせる。ぴくりと眉が動き、瞳の驚愕が徐々に強さと大きさを増していった。最後の一行まで心に収めたのか、彼女はしばし瞑目し、真っすぐにユウナを見据える。
「説明…してくださるのですよね?」
「勿論。僕は何の説明もせず、理解を得ないまま選択肢をつきつけるような、悪趣味な真似は嫌いだからね。きちんと話す。ちなみに今彼女に見せたのは、エレンさんの転勤の辞令と、カナードの幼年学校願書だよ」
ぱん、と扇子を閉じると、ユウナは若干覚めてしまった緑茶をすすった。と、空になった湯呑にアビーがお代わりを継いでくれた。アツアツの牛乳である。嫌がらせとしか思えないのは、自分の心が汚れているからだろうか。
「といっても、貴方方に出した辞令はあくまで建前、あの子を月の――コペルニクスに送るための方便に過ぎないのだけどね。本命は、カナードの幼年学校入学ただ一事だけ。まあ、駐在武官というのも出世には必要な経験ではあるし、エレンさんの研究を滞らせるつもりはないから、その辺りは安心してもらっても大丈夫だけれど」
さらに圧力が増した。顔を険しくしたエレン、真意を問うトダカ、そして一言も聞き洩らさぬとしたウズミの姿勢がそれを為している。ユウナは火傷しそうなほど熱された牛乳に四苦八苦しながらも、それらをさらりと横に流した。生憎と気合を入れているのはこちらも同じなのだから。
「さて、僕の真意を話す前に、まず前提としなければならないものがある。トダカ三佐、これから先、父として、家族としてあの子とともに歩む貴方には、知る権利も義務もあると思う。だから最初に、それをお話しよう。これはカナード・シフォース――カナード・パルスと名付けられた一人の子供の出生と、生涯にわたって彼を縛り続ける呪いに関する、最高にくそったれな悲喜劇さ」
「――ユウナ様、それは!?」
驚愕で腰を浮かしたエレンを、鋭さを込めた視線で黙らせる。気圧されたのか、彼女はぐっと息をのんでソファに座りなおした。
「秘密というのは毒と同じ。親しければ親しいほど、同じ時間を過ごせば過ごすほどに、その毒は相手を蝕み、絆と心を壊していくもんよ。どうして教えてくれなかった! そんな言葉で家庭崩壊なんて、したくないでしょう? それに、重ねて言うけど彼はカナードの父親になるんだ。知っておくべきだと、僕は思うけれど?」
エレンの華奢な拳が握りしめられた。うなだれた顔は見えないが、何故かユウナには彼女の相貌が苦痛にゆがんでいる様がまざまざと見て取れた。
大きなため息が漏れた。少しだけ身体が重い。疲れを吐き出して、ユウナはトダカの瞳を見据えた。
先まで狼狽と呆れを宿していたとは思えないほど透き通っていた。あまりの眩しさに、逃げ出したくなる。
こういうときは「良い目だ」とかなんとかお決まりな台詞を吐けば決まるのだろうが、何故かそうする気は起きなかった。あまりの真剣さに、そんな言葉は霧散してしまったようだ。まるで新星のような眩い輝きに、ユウナは自然と目を細める。少しだけ羨ましく思えた。もはや伸び代のない、終わってしまった自分には決して手に入れることのできないものを彼は持っているのだ。ほんの少しだけ苦笑を閃かせた。
ふと頬にちくりとしたものを感じる。ウズミだった。彼は若干厳しさを増した視線で、この部屋の四隅を――影に徹しているヴィンス爺とアビーをさっと撫でた。彼らに――あの侍女姿の小さな娘に聞かせても大丈夫なのかと言う無言の問いであろう。ユウナは頷いた。
ヴィンスはカナードを保護した段階で事情を熟知しているし、アビーもまたこの機に知るべきだと思ったからだ。決して長いとは言えないまでもそれなりの附き合いを経て、彼女が十分信頼に値する人物であることは承知しているし、何よりも自分以外の、カナードに近しい年長者として、アビーにはそれを知っていてもらいたいとも考えている。トダカにも言ったが、秘密というのは強烈な毒物であるのだから。
息を整え、ユウナは静かに語り出した。狂気の科学者ユーレン・ヒビキが産み落とした、大いなる光と影。祝福と言う名の呪いを受けた二人の幼子の話を。
話が進むにつれて、トダカの肌が赤黒く変色していった。音がしそうなほど拳が強く握られ、小刻みに震えている。噛みしめられた唇から洩れでたのは憤怒の情であろうか。
「外道が……!」
吐き捨てられた台詞に、一瞬だけウズミとエレンが痛みをこらえるかのように瞑目した。おそらくは、かつての学友の所業を、それを止められなかった敬愛する先達の苦しみを思ったのだろう。しかしそれを指摘するのは野暮と言えた。
ウナトは前もって話しておいたこともあってか、動揺はまったくない。ただ同じく痛ましげに目元を歪めているだけである。ヴィンスとアビーは、全くの無表情だった。ただ、同じく情報を有していた爺とは異なり、侍女の方は内心の冷たい怒りが滲みでているように、空気が凍りついていた。
「失敗作だから…自分たちの意に染まなかったから……ただそれだけで、子供を…処分だと…!? そんなことが許されてたまるものか!」
「非常に同感だよ、トダカ三佐。僕もそれが恐ろしく気に入らなかった。だから今、あの子はここにいる」
そう言ってユウナは微笑んだ。同時に怒り狂う彼の姿に、安堵じみた喜びを感じている。トダカはキラやカナード、そして数多くの生まれる事叶わなかった命を真剣に悼み、それを行った者たちに強い怒りを感じてくれていた。彼がそう出来る人間であること、そんな彼があの子の父親になってくれることが、今は何よりも嬉しかった。
「とまあ、色々とお話したわけだけど。それを踏まえて本題に戻ろうか。僕が貴方方を月に、コペルニクスに送り込みたい最大の理由」
扇子が閉じて、開く。少しばかり喉が渇いたので、一拍置く意味も込めてようやく飲める温度になった牛乳を口にした。
「そこに、キラ・ヤマト――キラ・ヒビキがいるからさ」
そう言い終えた瞬間、がしゃんと食器の割れる音とともに、驚愕の表情を浮かべたエレンが勢いよく立ちあがった。素早くアビーがこぼれた茶をふき取り、破片を回収するが、それに気づくことなく震える手で口元を覆う。
「キラ…まさか、あのキラが…? ゆ、ユウナ様…!」
「ヤマト姓なのは、ヴィアさんの妹御であるカリダ・ヤマト夫人が養子として引き取ったからだよ。ま、諸々の事情があって、キラだけだけどね。カガリの方は…」
ちらりとウズミを見た。しかしそれ以上何も言わず、ユウナは落ち着きなさいな、とエレンを着席させる。
「コペルニクスでの貴方方の住居は、ヤマト家の御近所、ほぼお隣さんと言っていいところを確保してる。あの子とキラに接点を作ること、これが今回留学を決めた、個人的にして最大の理由さ」
「…何故、そこまでキラ・ヤマトにこだわる?」
未だ驚愕から覚め得ぬエレンらを置いて、横から鋭さを含んだ声が差し挟まれた。ウズミま先まで浮かべていた温和な表情を消し去り、抜き身の刀のごとき瞳をユウナに向けていた。
「必要だと思ったから、です。いずれあの子らが迎えるその時のために」
答えになっていないと分かりつつ、ユウナは言葉を紡いだ。数瞬だけ視線を落とし、真っ向から獅子の咆哮に相対する。
「秘密とは猛毒。そして彼らの持つそれはとびきり強力な、ちょっとでも扱いを間違えればたちまち死に至るほどのものでしょう。ナチュラルでも、コーディネイターでも、真の意味であの子らのことを理解できるものはいやしない」
キラとカナード。スーパーコーディネイターという、数多の命で購われた彼らの運命を背負えるのは、同じゆりかごで生まれたものだけだろう。彼らが自身の影――ラウ・ル・クルーゼやレイ・ザ・バレルを理解できないのと同じように。そうユウナは考えた。だからこそ、あの子たちに互いを知って欲しかった。
「あるいは互いに憎み合う関係になるかもしれない。成功体と失敗作。押された烙印は憎悪を惹きたて、血で血を洗う関係を彼らに強要する可能性だってある。けれど」
史実において、ユーラシアのモルモットとなったカナードは成功体たるキラを憎悪し、その存在になり替わろうとした。今のあの子がそうなるとは限らないが、ならないという保証もない。人には人を真に理解することはできない以上、その可能性を捨て去ることはできなかった。
だが、それでも。
「それでも、『同じ』がいるということがほんの少しでも慰めになるのなら。そうすべきと思ったまでです」
身体の中から毒を吐き出すように、ユウナはため息をついた。ずずっと牛乳を飲み干すと、またすぐにお代わりを継がれてしまった。ウーロン茶だった。本来澄んでいるはずの茶が白で濁っていて、非常に心が圧迫される。
次の瞬間、落雷のごとき衝撃が全身を駆け巡った。しまった、これが狙いか! 唐突にもたらされた結論に、ユウナは戦慄した。茶器を持つ手が自然と震える。緑茶、牛乳、そしてウーロン茶を時間と手間をかけたコンボであった。味はウーロン茶。しかし臭いと見た目が容赦なく心を折らんと差し迫ってくる。ユウナはアビーの謀略に歯がみした。きっとあのすました顔の下で自分のことを嘲笑っているに違いない。アビー…恐ろしい子!
「ま、それ以外にも色々と考えはありますが。個人としての理由は今のでほぼ間違いないかと。…御理解いただけたかな?」
最後の言はウズミだけでなく、この場にいる全員に向けたものだった。返答は期待していない。ユウナは牛乳風味のウーロン茶に顔をしかめつつも、我慢してすすることにした。少し口寂しかったのである。
「…個人としての理由は理解した。ならば公人としての理由は?」
「決まっているでしょう? サハク、あるいはグロード。あの子を政治的に利用――いえ、セイランから引き離し、自派に取り込もうとする動きをけん制するためです」
空気が軋みをあげて凍りついた。幼子の両親らは瞠目し、その頤に雫を垂らす。ユウナはウズミ、そしてウナトを静かに見やった。そして言う。とっとと出すもん出しんさい。
疲労で目元がどす黒くなっているウナトが、荷物から一枚のプレート式端末を取り出し、そっとエレンの前に置いた。ここからではその内容を読み取ることはできない。しかし何が書かれているかは大体想像ができた。
「サハク家当主、コトー・サハクからの預かりものだ。カナードのプラント留学に関する書類、と言っていた」
「ぷ、プラント留学…ですか? あの子が?」
「次世代のオーブを担う人材を育成するため、だそうだ。学費、住居から生活に至る一切の費用はサハク家がもつというおまけまでついている。至れり尽くせり、だな」
そう言う割には、ウナトの口ぶりは皮肉のスパイスがふんだんにきかされていた。それが彼自身として、サハクの行動に良い思いを抱いていないことを示している。個人的にも、セイランの長たる公人としても、だ。
「そんな、何故そこまで…。私、サハク家の方々とお会いしたことはないんですけど…」
「だからこそ、でしょう。貴方やカナードと縁が薄いから、貴方達があまりにもセイランに近しいから、彼らもこうした行動を起こしたんだよ」
要領を得なかったのか、エレンはただ小首をかしげるだけだった。ユウナは言葉不足を感じ、端的な物言いで彼らの行動の根幹を告げる。
「セイランと同じく陰謀を得意とする一門。それはつまり、アングラの情報にも精通しているってこと。ま、知ってるんだろうね。あの子の素性を」
「知っているって……まさか!」
「だから、連中はカナードを取り込みたいんでしょう。資質は十分、ついでにプラントに留学させれば、あの子の特質上、諸々のものがくっついてくるだろうし」
完全実力主義のプラントでならば、カナードの能力から言って相当に上層へ食い込むことができるだろう。次代のプラント社会を担う子供らとの人脈、コネを作るのに、これほど適した人材もおるまい。
地球連合――理事国との繋がりはともかく、地球の一国家であり基本的にナチュラルの国であるオーブでは、コーディネイター中心のプラントとのパイプがどうしても築きにくかった。ま、コーディネイターがいる分、他の国よりはましだろうが、それでも薄いことには変わりない。それをあの子を用いることでより色濃いものにすることが可能となるならば、多少の難事があろうともやり遂げる価値は十分にある。
「政治利用…あんな子供を!」
憤懣やるかたなし、というトダカに、ユウナは内心で同意した。同意はしたが、それと同時に自分には連中を否定することができないこともまた認識していた。そのことに自然と苦笑が表ににじみ出る。
「ま、僕もやってることは変わんないんだけどね」
トダカからものすごく恐ろしい目で睨まれた。おお怖い、とわざとらしく身をすくめ、しかし笑みを消すことなく真っ向から彼と向かい合う。ああ、やはりこの若者は良い。
「僕はあの子を月に送ることで、言い方は悪いけどセイランのひも付きにしつつ、キラ・ヤマトというファクターをこちらに取り入れようとしている。サハクはプラントに送ることで、カナードを僕の影響下から外しつつ、プラントでの人脈を作ろうとしている。目的が違うだけで、やってることは同じなんだよね、これ」
「……ユウナ様。本気で仰られているのですか?」低く抑えられたトダカの声に、ユウナは一瞬の迷いもなく頷く。さらに瞳の鋭さが増した。
「本気であるし、正気でもある。そりゃね、僕だって子供を政治の駒になんざしたくないよ? したかないけど、現実がそれを求めるのなら――そうするさ。迷うことなくね。そしてその結果、あの子の未来を拓くことにつながるのならば、僕に否やはないよ。ね、エレンさん。貴方が初めてここに来た時、言ったよね。個人としての僕は、あの子に普通の子供として育ってほしいと思っている。でも同時に、己の意思でその能力を振るい、僕やオーブに貢献してくれることにもまた期待していると」
私人として、公人として。そのどちらもがコペルニクス行きを求めるのならば、躊躇する必要などない。例えそれが結果的に政争、権力争いと化してしまっていてもだ。
そしてそれが理解できないほど、この両名は頑迷でも無知でもない。彼らとて、そのことは理解していよう。だが――納得はしていまい。
それでいいのだ。誰もがユウナと同じ見解を持つ必要などないのだから。
「ま…貴方と同じく、それが気に入らない人が、もう一人いるようだけれどね」
おら、とっとと本音出せや。そう催促するように、ユウナはカップを持った獅子を促した。オーブの頂点たる男は、刹那の間苦笑を閃かせた後、懐からさらなる端末プレートを取り出し、他の二枚と同じくトダカ等の前に差し出した。
「オロファト大学付属幼年学校への推薦状だ。学費等も、アスハ家が全額持つと記載してある」
「つまり、あの子を政争に巻き込まない選択肢をとる、と」
「諸外国に比して、オーブは治安も安定しており、教育水準も高い。わざわざ危険を冒してまで留学させるよりも、彼の安全を鑑みれば国内進学が最良と思っただけのことだ。さらに、オーブ領内であれば、あの子を政争から守ることもできよう。無論、個人的にそなたの行動が気に入らなかった、というのは否定しきれんがな」
やはりそうきたか。ユウナは頬が引きつりそうになった。カナードの身の安全、ウズミ個人の意向もさることながら、アスハがこうした手を打ってくることも予想の範疇にはあった。オロファト大学――オーブ随一の偏差値を誇る国立大学付属学校は、氏族、平民問わず優秀な人材の集まる場所であり、純然たる学府である。あそこならば高度な教育をうけることができ、またエスカレーター式で大学まで進学可能なため、毎年かなりの数のお受験が行われているところでもあった。
だが、そこの特色は学問分野だけではない。彼の大学は各有力氏族から毎年多額の献金を受けており、そのため各家の影響力が入り混じりすぎた結果、ある種の中立地帯のような扱いを受けていた。優秀な人材を得んがために氏族の間で起こしていた骨肉の争い、それにしびれを切らした時の五大氏族の長達が定めた不文律である。
「あそこならば、彼が政治の駒にされる心配もあるまい」
「そして同時に、セイランでもない、サハクでもない、完全な中立の人材にしようと? さらりとえげつないですね」
どうせ通い出したら、なんやかんやと理由をつけてユウナとトダカ家を引き離そうとしてくるに決まっている。ウズミはカナードを絶対に政争の具にしないと言った。代表首長として国に害をなさず、かつ利をもたらす結果に繋がるのであれば、オーブの獅子はその全力を持って事に当たるだろう。ウズミ・ナラ・アスハはそういう男だ。厄介な、本当に厄介な。
「無意味な派閥争いのために子供を犠牲にする必要はあるまい。それに、彼がオーブを担う人材になることは間違いないのだからな。…それに」
「それに?」ユウナは湯呑を置いた。半分ほど残った牛乳ウーロン茶に、アビーがきんきんに冷えたサイダーを注ぐ。もう嫌がらせとかいうレベルじゃないよね、これ。
「サハクはともかく、そなたの為そうとしていることは、寝た子を起こしかねん。個人的な事情だが、それは承服しかねる」
「ブルーコスモス、ですか」
然り。獅子の頷きにユウナは頭をかいた。自分とてその点には気をつけるようにしていた。キラ・ヤマト――スーパーコーディネイターの成功体はブルーコスモス最大の標的であり、かつては武装集団を用いてまで抹殺を試みた存在である。今でこそ死んだと思われているため、その襲撃に怯えることはないが、カナード――ひいてはセイラン家の動向によってヤマト家がいらぬ注目を浴びてしまえば、そのささやかな安全が脅かされかねない。ウズミはそれを恐れているのであろう。
「そなたらがブルーコスモス盟主、ブルーノ・アズラエル、また次期盟主と名高いムルタ・アズラエルと友誼を結んでいることは知っている。が、いかな幹部といえど全ての末端にまで目が行き届くわけでもなく、また自称しているだけの者共を完全に抑えきれるものでもない。そなたの行動如何では、彼らの命すら危ぶまれることになる。それは、理解しているのだろうな?」
カップに舌をつけると、非常に形容しがたい味がした。もうこれ飲まなくてもいいんじゃね? と思ったりしたものの、それをするときっと今晩の食事が愉快な事になるのだろう。アビー・ウインザーとはそういう少女である。ガッデム。
「そりゃ勿論、理解しておりますとも。可能な限りセキュリティには気を使うつもりだし、情報統制も全力を尽くすつもりではあります」
「…その行動自体が誘蛾灯になるやもしれぬ、と言っているのだがな」
「でしょうね。それが何か?」
びりりと、全身の肌が張りつめた。ただでさえ有り余っていたウズミの存在感が、部屋すら圧する勢いで膨れ上がっていく。本来物理現象を伴わないはずのそれが、かたかたと窓ガラスを揺らしかねないほどの力を持って、ユウナの小さな身体にたたきつけられる。
まあ、これくらいで揺れているようじゃ年寄り何ぞできないのだが。
「前提条件が違うんですよ、ウズミ様。僕と、貴方とでは」
「…どういう意味かな?」
「貴方は何もしなければヤマト一家が表舞台に出ることはないと考えている。対して僕はそう思っていない。それだけのことです」
笑みがこぼれる。別に馬鹿にしたわけではない。キラとカナード、あの幼子らに与えられたものの大きさに、ただ笑うしかなかったのである。そこに何らの意味は介在していなかった。
「あの一家を無用の騒乱に巻き込みたくはない。ウズミ様のそのお考えは僕も理解できますし、むしろ同意見と言ってもいいでしょう。けれどね、僕らがこうやって相争おうが、彼らが彼らである限り、その存在は遠からず世界に知らしめられましょう。全ては時間の問題、なのですよ」
ヤマト夫妻ができる限り甥――息子を政治の場から遠ざけようとしていたことは、ウズミと関わるつもりがなかったと言う彼らの決意から読み取ることができる。だが、ユウナはそれこそ無謀な、悲しいほどに儚い願いに思えてしまったのだ。
「ウズミ様、貴方はユーレン・ヒビキという科学者を、少々過小評価しすぎです。彼の残したもの、与えたものは、例え為政者であっても容易に抑え込めるものではない」
あまり言いたくはないが、事実なのでどうしようもない。スーパーコーディネイターとは、一国家勢力程度ではどうしようもない程の力を持った、祝福であり災厄なのである。それは史実においてキラ・ヤマトが打ち立てた数々の伝説を見れば、嫌という程理解できてしまうだろう。
というか、一個人でありながら国家間の軍事バランス一手に握るとかどうなのよ、実際。何せ一隻と一機で正規軍の討伐を逃れるわ、ザフトのヤキン・ドゥーエ防衛線を単騎で突破して歌姫のピンク船掻っ攫うわ、オーブ本土の絶対防衛圏を手ぇ抜いてぶちぬいた揚句、国家元首さらって死傷者なしでトンずらぶっこくわ。正直あり得ない。この、やろうと思えば国家の政治的中枢を爆砕すらできた数々の状況が、ただ一人の手によるものという事実こそ、スーパーコーディネイターの底知れぬ可能性を指し示していると言えた。
「今は良いでしょう。彼らはまだ小さな子供で、その力も萌芽にすぎません。けれど十年後は? 二十年後は? どんな分野に進むにしろ、彼らが己自身で定めた進路を歩むにつれて、その存在が必ず全世界に轟くことは避けられますまい。それだけの力が、彼らにはある。そしてあの子らがその力を全人類の目にさらした時、人々はきっとこう思うでしょうね。もっと高く。もっと上へ。我々は、人類は、さらにより良き世界にたどり着けるのではないか。彼らの力さえあれば、と」
「それは傲慢、妄想と言うものだ」
遮るように、ウズミが静かに言葉を発した。しかしその顔には、わずかな動揺が潜んでいるようにも見える。
「一人の力では人は生きてはいけぬ。それ故、我らは国、社会というシステムを作り、大勢の力で困難に立ち向かってきたのだ。夢のたったひとりに頼るほど、人は弱い生き物ではない」
「『…僕は、僕の秘密を今、明かそう』」
ごもっとも。まことにごもっとも。ユウナはウズミの意見に同意を示した。しかし、この世の全てに絶対はない。ただ一人で全人類を破滅に導かんと志したものを、人類を救済しようとしたものを、ユウナは知っている。近い将来、彼らがあの子らに牙をむかんことを、知識として持っている。
人間という生き物は、とても怖い。
「『僕は、人の自然そのままに、この世界に生まれたものではない』」
ある人物が発した台詞、それを聞いて、ウズミは押し黙った。彼は、否、この場の誰もが、この言葉の意味を、何故ユウナがそれを紡いだのかを理解したのである。
「人類最初のコーディネイター、ジョージ・グレン。彼はその優れた能力で全人類の耳目を集め、その存在とほんのわずかな言葉で、文字通り世界をひっくり返しました。今の人類社会が抱えている問題は、ただ一人から生まれたものと言っても、過言ではありますまい。それがあの子らに出来ぬと、誰が言えましょうや?
…お分かりか? あの幼き子供たちに押し付けられた運命は、かように過酷。僕らや、彼らの意思に関わらず、世界はあの子たちを離しはしない」
如何に政治的な影響力を有していようと、ウズミも自分もその力はオーブ連合首長国の国境を越えることはできない。彼らがオーブ国内にいるのであれば、ユウナは自らの持つ全ての力を持って、子供たちを守り通そう。しかし、あの子がどこか別の、遠くにあったのならば。自分にはどうすることもできない。
だからこそ。
「政治の駒、上等。汚れだろうがなんだろうが、かぶってやろうじゃないですか。あの子たちが成長し、自分の身を守れるようになるその時まで。それが大人の、無駄に長生きした老いぼれの義務です」
氷のような沈黙が、場に満ち満ちた。触れればひび割れ、澄んだ音を立てて割れそうなそれは、麗しい楽器もかくやという天上の美声によって粉微塵に砕かれた。
「厨二病、乙」
それは同時にユウナの心の最も柔らかい部分に、極太の杭をねじり込む行為でもあった。ザクゥ、グフゥ、ドムゥ! とこらえきれなかったうめき声がもれ、ぼろぼろと瞳から雫をこぼしながら思い切り胸を抑え込む。
「あるいは、寝言は寝て言え、です」
時が止まった、とはこういうことを言うのだろうか。ユウナやウズミのみならず、トダカらや父までもがぱかりと口を馬鹿みたいに開けて言葉を発した人物、アビー・ウインザーを見つめている。唯一動じていないのは、その隣のヴィンス爺くらいのものだ。
お待ちになって。僕今割と重要な話して、決意表明とかしてなかった? そんな思いとシリアスな雰囲気は、ただ一人の根性悪和風侍女によって綺麗に掃除されてしまった。さしものウズミも唖然と目を見開き、ほんの少しだけ頬を赤く染めている。髭面のおっさんが赤くなっている様などむさいだけなのだが、今は何故かまったく気にならなかった。むしろ心をえぐられた者同士、奇妙な親近感さえ抱けてしまうほどに愛おしい光景である。
と、不意に豪快というには、いささか以上に大きな笑声が響き渡った。ウズミである。彼は自身が直視した痛々しい現実を忘れようとしているかのように、ただただ笑い転げた。
「な、なるほど……! そ、そなたの言うこと、理解はできる…くはは!」
うるせえよ畜生。どういうこと? ちょっと、時間数秒くらい戻しなさいよ。ハードでボイルドな空気台無しじゃないの。
「寝言、寝言か! ははは、まさにその通りだ!」
ひとしきり笑い、ウズミはすっかり醒めきってしまった紅茶――ユウナの者以外はとてもまともなお茶である、ファッキン――をすすり、また噴き出した。
「…本人の意思を無視して、話を進めるなど、まさに寝言だな。はは」
メイドは何も言わず、ただ一礼した。それだけでウズミはにこりと笑みを浮かべた。そして話についていけないユウナは、ただただ困惑した。
「え、何それ。どこからそういう話になったの? こわい」
瞬間移動だとか超スピードだとか、そんなちゃちなものではない。もっと恐ろしい片鱗を味わってしまった。
「しかし、ウナト・エマよ。貴殿は後継者に苦労することはなさそうだな。羨ましい限りだ」
「恐縮です」
ちょっと。だから何人を無視して話進んでんのよ。おかしくね? それともおかしいのは自分の方なの?
「ふふ、やはり百聞は一見に如かず、ということか。――ウナト殿、例の話、真剣に進めさせてもらいたい。どうかな?」
「いえ、ですから、それは……」
「両家にとっても、また我ら個人にとっても、悪い話ではないと思うのだがな。彼とならば、うまくやっていけそうでもある」
くく、と喉を鳴らし、ウズミは腹を抱えた。ウナトはその薄くなった額にびっしりと汗をかいてサングラスを曇らせている。なんだ、なんなのだこの展開は。
ついていけん。
「ちょっとお待ちあそばせ。何この空気でそんな真面目な話してんの? てか何、例の話って。何それ美味しいの?」
「何、気にするほどのことではない。ちょっとした縁談話だ」
さらりと吐かれた言葉に、ユウナの脳みそは一旦停止した。
「ユウナ。そなた、カガリの婿になる気はないか?」
だが、でっていう。