「これにて本日の閣議は終了とする」
ウズミ・ナラ・アスハ代表の声とともに、首長たちが一礼した。首を回し、あるいは同僚と明日の議題に関わることを話しつつ、彼らは三々五々席を離れていく。ウナトもまた大きく背筋を伸ばし、サングラスを外して目をもんだ。くう、といささか出っ張った腹が悲しげな声をあげる。時間は昼を少し回った頃だ。腹の虫もそろそろ我慢の限界を迎えているようである。
さて、行政府の食堂で何を食べようか。昨日は特盛豪華カニ天丼だったので、今日はトリプルハンバーグとチキンソテーのセットが良いかもしれない。いやいや、決めるのは今日の日替わり定食を見てからのほうが。
ぐるぐるとそんなことを考えていたウナトに、声をかけるものがいた。深みの中に張りのある、どこか人を惹きつけるような声音である。
「少しよろしいかな、ウナト殿」
「これはアスハ代表。コトー殿も」
濃紫をまとった厳めしい男を見て取ったウナトは、慌てて立ち上がり会釈した。その隣には好々爺然としたコトー・サハクの姿もある。
「これからアスハ代表と昼食を取りに行くのですが、よろしければウナト殿もご一緒に、と思いましてな。いかがですかな?」
「食事、ですか?」
ウナトは目をしばたたかせて両名を交互に見た。どちらも穏やかな笑みを浮かべていて、一見だけではその目的を察することはできない。
何かあるのだろうか。ウナトは暴れ立てる腹の虫と共に、内心だけで大きなため息をついた。ウズミとコトー、それに自分と、少しばかり濃い目の面子をそろえて、単なる懇親会と思えと言うのは、いささか以上に難しい問題である。代表首長ウズミは言うまでもなく、セイラン・サハクと陰謀術策を得意とする両家をそろえる等、何かろくでもないことの前触れのような気がしてならなかった。
さようなら。日替わり定食。こんにちは、ソースの代わりに瘴気がかかった昼食。ウナトは少しだけ悲しかった。
「良いですな。よろこんでお付き合いします」
「そう言っていただけてよかった。では、少し離れるが良い店があるので、そこで食事としよう」
言うまでもなくウナトはオーブの政治家である。内心を顔に出すなど二流のすることで、寧ろ代表や同じ五大氏族の当主との積極的な繋がりは持っておくにこしたことはない、とうそぶかねばならない立場だった。
故にどれだけ憂鬱であろうと、この機会事態を疎むようなことはしないし、それは相手側も同じだろう。ひょっとすると三人が三人とも、こいつらと仲良く飯なんぞ食いたくない、と思っているのかもしれない。
行政府の入口で待っていたリムジンに乗り込むと、政治家らしく本日の閣議内容に話題が及んだ。その主題は、国防軍から上がってきた新規軍事ドクトリンとそれに付随する予算に関するものである。
「理屈としては理解するし、いずれは必要になるだろう。昨今の世界情勢を鑑みるに、確実にな」
「かといって、あれだけの予算を認めるのは現状からいって不可能でしょうなあ。国内の就業補助にワムラビ、アメノミハシラ等の公共事業、経済条約機構発足による担当部署の再編と、これ以上回せる金もありますまいて」
「ですがコーディネイター移民を受けた軍の増員は行わなければならないでしょう。彼らにとっても、我々にとっても、それは大きな意味を持ちます。そちらの予算は別枠として考えた方がいいのでは?」
環太平洋経済条約機構は先月の十七日に正式に発足した。加盟国はオーブ連合首長国、大洋州連合、赤道連合、汎ムスリム会議の四国で、本部は地理的に加盟諸国の中心にあり、海上貿易の要衝たる赤道連合の大都市シンガポールに置かれている。
その主たる目的は地域的な経済協力圏の創出で、段階的な関税の引き下げ、総合的な地域経済の開発といったことに主軸が置かれている。またこれに伴って、大西洋連邦、ユーラシア連邦、東アジア共和国との包括的経済連携協定の協議も開始しており、双方合意に達すれば順次批准、発行する予定だった。
今、オーブを含めた条約機構加盟国はその対応と順応に追われててんやわんやである。官民を問わず睡眠時間と平均寿命を犠牲にして、この変化に沿うよう体制の見直しを行っていた。勉強会や委員会、シンクタンク等がもにゃもにゃと毎日様々な案件を持ち寄っては胃壁破砕機に作り変えて首長会に持ち込んでくるのである。正直「ヒャッハー、デスマーチだあ!」「寝かせてお願い!」と関係部署で悲鳴の上がらぬ日がないくらいなのだが、生憎と世間はウナト達に冷たかった。
軍部のあげてきた新体制案もその流れに沿って推し進められたものだ。有体に言うと、これまでの沿岸海軍的なものから、より外洋踏破性を高めたものへの転換である。
従来のオーブの軍事ドクトリンは、漸減の性格を有した本土防衛に主眼を置いたものだった。領海内で敵の進行を食い止め、航空兵力と本土陸上戦力で敵を撃退する。いわば受動的な軍事思想と言えよう。
しかし環太平洋経済条約機構発足に伴って、それは大きな変革を迫られた。島嶼国家であるオーブはもとよりシーレーン防衛にもかなりの力を入れてきたが、これからは今までとは比べ物にならぬほどその重要度は跳ね上がる。経済発展による流通の活発化は勿論のこと、マスドライバーを用いた中継貿易も盛んになり、ひいては海上貿易の比率も跳ね上がる。つまるところ、今の沿海防衛に特化した軍備では増大した通商路に対して防衛力が不足しているのだ。
そして海上流通路を守れぬ国家の末路は――歴史を紐解けば、その惨状を理解することは容易かろう。
無論、海路の安全を守るのはオーブだけの仕事ではない。しかし軍事的、技術的に最も強いのもまた、オーブなのである。
だからこそ、国防軍はこの機に従来の体質の転換と拡大を提案したのだ。勿論そこには、軍部の権力を増大させ、より多くの予算を獲得するという、いかにも官僚的な思考も存在している。
「言いたいことはわかるのじゃがな。だが下手を打てば、我らはかつての大英帝国が如く、安全な航路を守るために四方へ戦争をしかけねばならなくなるやもしれぬぞ。軍備の拡大、外洋投射力の増加のための空母、新規宇宙戦艦の建造。どこにそんな金があるというのかの」
「我らは世界帝国でもなければ、それだけの身の代もないのですがね。しかし、移民の受け入れ先という点では、軍は最も適している場所でもあります。国家への忠誠、これ以上の提示はありますまい」
「…やはり、容易に手を取り合うことはできぬか」
ウズミが沈痛な面持ちを浮かべ、眉間を揉んだ。自分もまた、少しばかりやるせない表情を浮かべていることだろう。コトーはさもありなん、と静かに頷きを返している。
肌の色、瞳の色、民族の違い。そうした本当に単なる差異――才能や資質の一切に関わらないものでさえ、数千年にわたる殺し合いの理由と化していたのだ。種としての明確な能力差が存在するナチュラル・コーディネイター問題など、泥沼化するに決まっている。
それは大規模移民受け入れを定めた時から――否、オーブと言う国がコーディネイターの居住を許可した時から、分かりきっていた当然の帰結であった。故に嘆きはしても、悩みはしない。それはそう、という認識を持って対応していくだけである。ことにコーディネイター利権を一手に引き受けている、セイラン家当主として問題解決は至上命題と言えた。
「ま、彼らが軍に入ってくれるというのは、色々とありがたい面もあるがなあ。しかし無秩序になられるのは、こちらとしても困りものじゃて」
「我々としては、そちらの領域を侵す心算などないのですがね」
結局のところコトーが最も警戒しているのは、コーディネイターの軍への浸透、即ちセイラン派の影響力増大なのだ。互いに陰謀に長け、似通った性質を持つ家柄だけにその辺りはどれほど気にしてもしすぎると言うことはない。互いが家と派閥の長である以上、避けては通れぬ問題だった。
派閥争い。いかなる国、組織であろうと避け得ぬ宿痾である。
それを察したのだろう。ウズミが呆れたように首を振った。
「この辺にしておこう。これ以上はここで決められる内容ではないし、食欲をなくしそうだ」
「ほほ、それもそうですな」
正直手遅れな気もするが、ウナトも苦笑して同意を示した。やがて車はオロファト官庁街から少し離れた場所にある、落ち着いた料亭街でその足を止めた。扉が開かれると、清潔な白と凝った装飾を纏ったお洒落な建物が目に入る。入口の所でシェフや従業員一同が頭を下げて歓迎の意を表していた。
「ようこそおいでくださいました、皆様」
トリコロールの旗が刺さっているところを見ると、フランス料理の店であろうか。この辺りの料理街は時折訪れるもの、この店に足を踏み入れたのは初めてであった。様子から見てウズミ御用達のようだし、どのような料理が出てくるのか胃と心がぎゅんぎゅん踊る。
ガラス張りで、よく整えられた庭の見える席に案内されると、逸る気持ちを抑えつけて鷹の目のごとき鋭さでメニューに目を通した。頭の中で素早く吟味し、シェフ特別コースを迷わず選択する。メインの牛フィレ肉の赤ワイン煮など非常に食欲をそそった。
「いやいや、中々に良い店ではありませぬか。よく利用されるのですかな?」
「ああ、娘がここを気に入っていてね。メニューには載っていないのだが、お子様ランチが非常に良い出来なのだよ」
いや待て、魚の方は鯛と春野菜の包み焼きではないか。しゃきしゃきのアスパラガスと カブの舌触りが思い起こされ、ウナトは深い混乱と葛藤に陥った。こちらも胃への刺激が恐ろしく強く、じわりと額に脂汗が浮かび上がる。
「それはそれは。では私も、次は子供たちと一緒に参りますかな。最近舌が肥えてきたのか、随分と食べ物を選ぶようになっているのですよ」
「ミナ君とギナ君か。前に会ったのが新年会の時だから、随分大きくなられたのだろうな」
「おかげ様で。そう言えば、ウナト殿のご子息等はお元気なのですかな?」
嗚呼、ウズミとコトーが同席さえしていなければ、禁断の両方を選択できたかもしれないのに。しかし彼らがいなければ、ウナトがこの店を知ることはなかった。ジレンマ、ジレンマである。
「ウナト殿?」
「…は、失礼。少し考え事をしておりました。息子は、ええ、元気ですよ。いささか元気すぎるくらいでして、少々手を焼いております」
「はは、子供は元気が一番ではないか。私の娘も元気盛りでな。しょっちゅう侍女を困らせて、いささか腕白が過ぎるくらいだ」
やれやれ、と首を振りつつも、獅子の顔はとても穏やかで慈愛に満ち溢れていた。手のかかる子ほどかわいい、といった状態だろうか。その辺りはウナトも――色々あった。本当に色々とあったが――同意見だった。
「カガリ姫もユウナ君も、元気そうでなによりですのう。…おお。そう言えば、ウナト殿の所にはもう一人、小さな子がおられたな。その子も息災かの?」
一瞬だけ眉をはね上げそうになったが、どうにか笑顔を維持することができた。ウナトは表面上、何のこともないかのように水を口に含み、努めてにこやかに答えを返す。
「よくご存じで。ええ、あの子も元気にしております。息子も、まるで弟のように可愛がっていましてね。おかげで毎日がとても賑やかです」
「はは、幼子が一人いるだけで、驚くほど明るくなりますからな。特にあの年頃の子供は、とにかく好奇心が旺盛で、油断ができますまいて」
「少し目を離した隙に、どこかにいなくなってしまう。私の娘も同じくらいの年だから、ウナト殿の苦労はわかるつもりだ」
「恐縮です」
何故ここでカナードの話題が出るのだ? 表面で苦笑しながらも、ウナトの頭はその疑問を解くべく高速で回転した。同時に、これが単なる子煩悩パパの世間話でないことを否応なく悟る。両名があの子の情報をかなりの確度で持っていること、そしてそれをこちらに匂わせる理由が棘のように胸に刺さった。
何が目的だ? ウズミがカナードの情報を――それもかなりの深度に属するものを持っていることに疑問はない。あの酔っ払い息子の言を全て信じるとすれば、彼もまた一連の件に大きく食い込む存在であるからだ。ではコトーは? 陰謀と術策の名門にして、アンダーグラウンドを縦横無尽に駆け抜ける家の長ならば、あの子の情報を有している可能性は高いだろう。しかしそのカードを今ここで、こんな形で切ってくる意味が全くわからない。
「御子息といいその子といい、セイラン家は安泰ですなあ。お噂はかねがね、聞き及んでおりますぞ? どのような教育をされているのか、非常に興味深い」
「買いかぶりすぎです、コトー殿。アレらもまだまだ子供で、先が思いやられることばかりですよ」
まあ、ユウナに関しては本当に色々と――例の話が全て真実であると仮定して――ナニだが、カナードは真実小さな子供だ。潜在能力が高いからと言って、五歳児には変わりない。子供でいられる時間を大切に、はウナトの息子が口酸っぱく繰り返している教育理念だった。
「いやいや。子供というものはあっという間に大きくなるものですぞ。つい先日生まれたと思っていたのに、いつの間にか学校に通うまでになっている。時の流れとは、真に偉大なものですからなあ」
確かに、とウナトは思わず頷きそうになった。ユウナもまた、本人の意向と帝王学を優先したこともあり市井の学舎にこそ通っていないものの、本来であれば幼年学校で色々な事を経験している年頃である。時間が流れるのは本当に長い、と思わず年寄りのようなことを考えてしまった。
「小耳にはさんだ話では、その子ももうじき学校に入る年御とのこと。どちらに進まれるのか、私としても少々興味深くはあります。ウナト殿は如何お考えなのかな? やはりオロファトの幼年学校か…はたまた、海外留学とか、かのう」
刹那、コトーの瞳があやしく輝いた気がした。それを見たウナトは、反射的に話の本題が顔を見せたことを悟る。
「さて。あの子の両親とも相談しなければならないですし。まだ一概にどうとは言えぬ状況ですよ。私としては、しっかりと学べる環境であればそれでいいのですがね」
「ふむ。第一に考えるのは子供に合った環境ということか。良い教育方針をしておられるな、ウナト殿」
「恐縮です。ウズミ様」
にこにこと笑みの大盤振る舞いをしている代表首長に軽く頭を下げる。同じように微笑んでいたコトーもまた、深く頷いていた。
「そうですなあ。可愛い子供には最高の教育を施してやりたいと思うのは、至極当然のこと。そのためには学舎選びもしっかりしなければならんでしょう。私としても、子供らには高い教育水準を誇るプラントに留学させたかったのですが…生憎と昨今の情勢で、跡取りを送るわけにはいかなくなってしまいました。いやはや、真に残念」
「ほう、プラントに」
確かコトーの子息は姉弟そろってコーディネイターだったはずだ。ならば優れた技術を誇るプラントに我が子を送り出したいと思っても不思議ではないが…。
「そう言えば、その少年もコーディネイターで、しかもご母堂はプラントのご出身だとか。となれば、プラント留学も候補の一つに挙がっているのでは?」
ぴくりと、ウナトの眉が跳ね上がった。これまで保ってきたポーカーフェイスに小さな亀裂が入った瞬間だった。
プラントは原則的にコーディネイターの自治領である。当然ナチュラルに対しては門戸を閉ざしているが、コーディネイターであれば入国、居住が容易な場所だった。上流階級の家庭の中には、コーディネイターの子息をプラントに送り込んで、その高い技術を学ぼうとしているところもあると聞く。
それを踏まえればコトーの言はごく一般的な内容にも聞こえるが、それを発した人間との関係、立場を加味した時、発言は全く異なる顔を見せる。
なるほど、『それ』が目的か。
ウナトはコトーの――否、少なくない人数が胸に抱いているであろうその意見を明確に察した。美食を提供するはずのこの場所で、舌先が苦い何かに押しつぶされていくことに言いようのない不快感を覚える。
「もっともなお言葉です。しかし、何度も言いますように決めるのはあの子とご両親ですから。私からは何とも言えませんよ」
そう言ってはぐらかすように肩をすくめた。コトーもそれ以上踏み込む気はないのか、左様ですか、と引き下がる。彼としては、それで十分なのだろう。こちらに彼の、彼らの要求を提示するだけでも、大きな意味があるのだから。
「…ご子息はどう考えているのかな?」
「…は?」
あまりにも唐突なウズミの言葉に、思わず気の抜けた声が漏れた。
「何。ユウナ君は、その子をとても大切にしていると伺ったのでな。さびしがっていないか、とつい考えてしまったのだよ。あるいは、親身になって進路について考えを巡らせているのか、とかな」
一瞬だけ、獅子の咆哮とも言うべき圧力はウナトの全身に降り注いだ。腹の底を掴まれたかのような冷たい感触を身に覚え、思わずこめかみに力を込める。
「息子のことですから、あの子にとって最も良き道を考える事でしょう。今は寂しくとも、将来を考えて。きっと」
なるほど。ウズミは笑みを消して、さっとコトーと瞳を交わらせた。老獪な謀略家は仕方がないと言わんばかりに肩をすくめて、メニューに視線を落とす。そんなやり取りを終えると、彼は一つの爆弾をウナトに向けてキャッチボールのように放り投げた。
「ウナト殿。一つよろしいか」
この場で「アーアー聞こえない」とすることが出来ればどれほど良かっただろう。無論そんな真似するわけにはいかないのだが、甘く熟れたその禁忌は否応もなくウナトを魅了する。
だがそんな夢想を現実は巨大な大砲でもって粉みじんに打ち砕いた。
この爆弾は、セイラン家当主をして素晴らしい料理の数々の味を忘れさせるほどの衝撃を与えることとなる。