空が非常に高かった。
さんさんと降り注ぐ日差しは肌をじりじりと焼き、じんわりと額に汗粒を浮かばせる。そよぐ風は若干の湿り気を帯びていたものの爽やかといっていい。火照った身体にはひどく心地よく、彼は先ほどまで自らを襲っていた不可解な悩みと重圧から刹那の間だけ解放されていた。
青い空。遠くには紺碧に輝く海が一面に広がり、南洋樹の並木道が自らと同じく風に身を任せ陽気に踊っている。思わず踊り出したくなるような気分に駆られ、彼は再び頭を抱えて地べたに這いつくばった。
そこは自宅のバルコニーであるため、そんな真似をすれば服が悲惨なことになってしまうのだが今の自分にはそこまで気を回す余裕はない。
もしもこんな有様を母か、あるいは使用人たちに見られたらどんなことになるか。わずかに呟きを洩らす理性すら、彼の脳内議場では窓際の極少数派であった。ちなみに先ほどまで側にいたお世話係はとっくの昔に人を呼びに駈け出している。次に出会うときはきっとお医者先生と御一緒であろう。
どうしてこうなった! と叫ぶ段階はとうに過ぎている。現在彼を煩わせているのはもはや単純な混乱であり、切っ掛けや理由などの介在する余地はもはやない。要するに、惰性で悶えているのである。
さらに数分ほどそうしてごろごろしていた彼であったが、やがてぴたりと動きを止め、よろよろと立ちあがった。重心が定まらないせいか恐ろしく立ちにくくはあったが、白い手すりにつかまってどうにか体裁を整える。
紅葉のような、と称すにふさわしい手のひらが視界に入り、憂鬱な気分が泥のようにさらに深く沈んでいく。
わずかに頭の奥に炎が揺らめいた。ずきりと目を刺激するその熱は先と比べて無視できるレベルまでおさまっている。彼はほんの少しだけその頭痛を憎んだ。これがなければもう少しだけでも、自分は何も知らずにいられただろうに。遅かれ早かれ現状は認識したろうが、それでも今しばらくはまどろむことができたはずである。
ばたばたと廊下が騒がしくなった。きっとお世話係が医者と共にやってきたのだろう。彼はよろつきながらも部屋に戻り、彼のために置かれたクッションに身を沈ませた。広い室内は赤く毛先のながい絨毯で覆われており、折々を飾る調度品はどれも気品あふれるもので満たされている。きっとお高いのだろう。彼は思わず値段を想像しようとした。無論現実逃避である。
「先生、こちらです! ぼっちゃま、大丈夫ですか、ぼっちゃま!」
扉を蹴破るかのように飛び込んできたのは、二十歳ほどの女性と白衣を着た壮年の男性であった。女性は目じりに大粒の涙を浮かべながら彼を抱きかかえ、その豊かな胸元にぎゅっと抱きしめる。常ならば狂喜乱舞なのだが、生憎とそうした感情はピクリとも動かない。非常に残念であった。
「ああ、ぼっちゃま! どうか、どうかしっかりなさってください!」
「あー、君、少し落ち着きなさい。それでは若様を診る事が出来ないじゃないか」
医師の言葉にも反応する様子もない。ふうっと大きなため息が彼の耳に入り込んだ。理由は異なるもののその気分には大いに同意したいところである。
「ほら、早く若様をベッドに。さあ!」
先ほどよりも強い口調で促されると、ようやく女性は彼を胸の束縛から解放した。そして、さらなる絶叫をあげたのだった。
「きゃあああああ! ぼっちゃま、どうしてこんなに埃だらけに! ぼっちゃま、ぼっちゃま!」
唐突に発された高周波は何の備えもしていなかった彼の脳を直撃した。くらくらと視界が揺れる中、半ば自棄になって心内だけで呟く。
もう、どうにでもなれ。そして彼――ユウナ・ロマ・セイランと呼ばれる三歳の幼子は振動する世界から闇の中へと退避することとなった。それはある意味、救いであったのかもしれない。
ユウナ・ロマ・セイラン。オーブ連合首長国五大氏族、セイラン家当主ウナトの長子であり、現在三歳の幼子である。
少なくとも彼は自身をそう認識していたし、周囲の人間にもそのことに異論を唱えるものはいなかった。ただユウナ本人が己の意識に対し大いなる疑惑と混乱を有しているだけである。
ぼんやりとベッドで横になるユウナは、われ知らず手を顔の前に掲げて指を動かした。開けては閉め、開けては閉め。にぎにぎと動く手は確かに自分の命令を忠実に実行している。当然だ、何せ自分の体なのだから。
恐ろしいほどの違和感が全身を包み込んだ。ぎゅっと眼を閉じ外界全てを拒絶する。猛烈な吐き気がこみ上げ、しかしそれを必死になって押さえつける。ここで吐いたら、すぐそばにつきっきりになっているであろうあのお世話係の娘が再び大騒ぎするのは目に見えていたからだ。医師に何の異常もないと診断されても、それを全く信用しなかった彼女に、これ以上心配をかけるのも本意ではない。
口にたまった唾を飲み込み、大きく息を吸う。寝返りを打つと、薄水色の髪の毛が顔にかかった。さっとそれをすくってはねのける。
自分はユウナ・ロマである。しかし同時にユウナではない。相反し矛盾に満ち満ちた回答は、しかし一点の曇りない真実であった。
脳裏に刻まれた記憶は、ユウナではない名をもった人間のものだ。ずっとずっと、その名で生き、暮らし、そして永遠にこの世を去ったはずの男のもの。それは間違いなく自分で――自分ではない。
ああ、頭が痛い。何も考えたくない。このまま起き上がることなく眠り続けられたらどんなにかよいだろう。
そういうわけにはいかないことを知りながらもユウナは考え続けた。ここに自分がいる事、ここではないどこかのこと、自分のこと、我が身に降りかかった出来事の原因。これから起こること。今日の晩御飯。さっきの胸の感触もう少し覚えておけばよかった。などなど。
考えて考えて、そして――飽きた。唐突に、ぷっつりと。とてつもない面倒くささが身を蝕み、きれいさっぱり思考を止めた。もういいや、こんだけ悩めば考えなくてもいいよね。そんな言葉が心の奥から洪水のように溢れだす。
現実逃避、まごうことなき現実逃避である。だがそれの何が悪い! ユウナは開き直った。
そう考えると、頭痛すらも恥じて身を隠してしまった。再び瞳を開け、日差しを反射した白い天井を見つめる。
認めよう。ここはあそこではない。自分であり自分ではない男の生きた場所じゃあない。ユウナ・ロマ・セイラン。己の名であり、これ以外のものは存在しないのだ。今は何も考えない。だって疲れるから。
それが精神を保持するための防御策であることは自覚していた。けれど自覚したからといってどうすることもない。むしろ進んで防壁を構築した。考えるの、面倒くさい。故にユウナはこれからの事に思考の大部分を割くことに決めた。
この先に待ち受けていること、より正確を期するなら、今から十九年後に生起する事柄に。
ユウナの、真のユウナ・ロマ・セイランの記憶から察すると、今はC.E.五四年の二月十五日である。C.E、即ちコズミックイラ。ユウナではないユウナはこれに関し非常に言明しがたい感情をその内に抱くこととなった。それを一言で表すと次のようになる。
あ、ありのままに起こったことを今話すぜ。
はっきり言おう、何これであった。催眠術とかそんなちゃちなものではない。もっと恐ろしいものの片鱗を味わったのであった。
うっすらと額に脂汗が浮いた。それをぬぐい、ユウナは自身を落ち着かせるため更に深く息を吸い込む。
ユウナではないユウナは、あちらでその年号を見たことがあった。というか、その年号を用いている物語を見たことがあったのだ。そしてそれなりに好んでもいたことを覚えている。その物語は最終的にC.E.七四年でひとまずの終結を迎えていた。故にユウナは、少なくともこれから起こる出来事の大筋を知ることができているのである。
そう大筋。映像と共にその内容を思い出し――絶叫した。
「ほ、ほああああああああああああ!」
「ぼ、ぼっちゃま!?」
かけられたシーツを跳ね飛ばして、ユウナはばねのように起き上がる。目を見開き、頭を抱える自分を見てお世話係は再び「先生、先生ー!」と悲鳴に近い声で遠ざかっていった。しかしユウナにはそれにかまっている余裕はありの触角ほども存在しない。
オーブ連合首長国のユウナ・ロマ。その名に関して真っ先に浮かび上がったのは青色の人型兵器が薄水色の髪の青年目がけて落下する一幕であった。彼の引きつった顔、かすれた悲鳴が質感を持って脳裏をよぎる。
「あかん……あかんで、これ……」思わず方言を交えながら頭をかきむしった。
何故そのことに今の今まで気づかなかったのか。いくら腑抜けていたからといってこれはあんまりだとユウナは自分を罵った。どこをどう考えても死亡シーンです本当にありがとうございましたな展開である。
やばい、思わず言葉が口をつく。
背中がびっしょりと濡れそぼり、寝間着に大きな染みを作っているようだ。ぴたりと肌に張り付く感触が生々しく現実感を有してユウナに襲いかかる。このまま何事もなく推移すれば、ユウナは今より十九年後、C.E.七十三年にはこの世から強制退場になってしまうのだ。
死亡フラグ。まごうことなき死亡フラグ。ユウナは絶叫しながらベッドの上を転がり続けた。三半規管がかき乱されて吐き気がわんさかであるが、それでもなお動きを止めることはない。止まればその瞬間、惑乱が激流のごとく流れ込むのは目に見えていた。
別につい先ほどぽっくり死んだんだし、いまさら死ぬの怖がったって仕方ないんじゃない? そう問いかける声もあるにはあるが、だからといってうんわかったとほざけるほどユウナの精神は壊れちゃいない。理由があるのならばともかくこんな死に方はご免こうむりたかった。
「どうする、どうするどうするどうする」
容易に答えは出てこない。否、回答自体はあるのだがそれを行える自信がない、といった方が正しいか。
変えるのだ、未来を。少なくとも自分が死なずに済むような流れを造り出すのだ。即座にんなことできんのか!? と絶叫したくなるのをぐっとこらえ、ユウナは頭をかきむしった。
「大丈夫、まだ時間はある……まだ、まだあと十九年…いや、ヤキン・ドゥーエ戦役考えると十七年か。ともかく、それだけあれば」
何とかなる。口が裂けても言えない台詞だった。はっきり言って、たかだか一人の人間が動いた程度でどうにかなるくらいなら、あそこまで悲惨かつろくでもない戦争なんぞ起きなかったはずである。絶望的、恐ろしいまでに絶望的であった。
落ち着こう。まずはともかく落ち着こう。そうだ、よく考えるのだ。仮に彼の情景が実現したとしよう。あの時、ユウナはオーブ兵を振り切って逃亡しようとした。その結果、運悪くグフイグナイテッドの落下に巻き込まれて死亡したのだ。ならば大人しく兵士に従ってシェルターに避難すればいいのではないか?
どう考えても国家反逆罪で死刑もしくは重刑です本当にありがとうございました。駄目だ、どうしようもない。ではそもそもジブリールをかばわず、というか大西洋連邦と同盟を組まなければいいではないか。
ウナトもしくはブルーコスモスに排除されるか、はたまた連合による第二次オーブ解放戦争勃発ですね、わかります。ではザフトの味方をして…これもだめだ。そもそもプラントと組んでもあの議長閣下、オーブ滅ぼす気満々だった気がする。というかデュランダルに尻尾振っても大天使とチートな仲間たちにぶち殺されるに決まっていた。
八方ふさがり……! 詰みゲー……! まごうことなき詰みゲー……!
つまるところユウナが生き残るためには、この恐ろしいまでの難関地獄を突き抜けなければならないわけである。
「…………寝よう」
ユウナはシーツにくるまった。考えすぎて知恵熱が出そうだった。ベッドの中央で丸真理、全ての情報を遮断する。今日はもう寝る。何も考えない。明日からがんばる。働いたら負けだと思う。ぐるぐるとそんな言葉が回り、ふっと気が抜け意識が落ちた。
ユウナの安眠は、お世話係と医師が飛び込んで切るまでの二分十七秒間だけ続いた。