ぞくりと、背筋が震えた。
狂気、狂喜、驚喜。それら全てが背中を流れ脳天を突き破る。全身の血が湧き、肉が踊り狂っていた。眼球の奥がぱちぱちとスパークを引き起こし、目じりにとめどなく雫が溢れてくる。
素晴らしい。なんと素晴らしいことか。
大西洋連邦に無理やり連れてこられたユウナであったが、この出会いによってあらゆる悪感情が押し流されてしまった。生じた濁流は喜びと興奮の渦を巻き起こし、ユウナの脳内を縦横無尽に荒らしまわっている。
これぞ本懐、これぞ馬鹿の誉れ!
生まれいずるであろう子のために自らが産み落とした子を殺す。大いなる矛盾にして生命のあるべき姿、命を賭してまで貫き通す絶対の意思。
「ふふ、ふふふふふふ、嗚呼、今日はとても素晴らしい日だ。忌々しい神々共にさえ感謝のキスをしてもいいくらい、最高の気分だよ。まったくもって想像以上、アズラエル殿、貴方は本当に…」
悪い癖だとは自覚しつつも、ユウナは興奮を抑えきれず頬を紅潮させた。昔からこうした人間の馬鹿さ加減を見るのが大好きなのだ。誇り高き欲望を有する人間、これがユウナの――かつて別の名で呼ばれていた人物の琴線を最も震わせる。
自身を糞の役にも立たない、代替可能な無能人と認識しているユウナにとって、彼のように綺羅星のごとき輝きを持つ人間は何よりも愛しいと感じるものだ。諦観と現状維持に明け暮れる自分にはないものを見るのはたまらない悦楽と言っていいだろう。
「主人公、だね。ふふ」
「…一応僕は真面目な話をしているつもりなんだけどね」
「こちらも至って真面目だよ。事実は小説よりも奇なり、常識の斜め上をいくことなんざ世の中にあふれているんだもの。そりゃ、主人公じみた人間だって探せばいくらでもいるだろうさ」
実際、この世界には幾人もの主人公たちが存在する。今そこで花に夢中になっている子供もその一人だ。そこに多少増えたところでどうということはあるまい。
「これはますます目が離せなくなる」くふふ、と笑みを漏らしてユウナは右の手をそっと差し出した。アズラエルは目を丸くして、まじまじとその様を見詰める。
「握手。それくらいはいいでしょう? へるものじゃないし」
にぱ、と出来る限り明るい笑顔を浮かべる。これは友好だけでなく、彼に対する相応の敬意も含まれていた。それが伝わってくれたのかはわからないが、アズラエルも少しだけ躊躇しつつ握り返してくれる。
「…なかよし?」
いつの間にか戻っていたらしいカナードが、その黒い瞳を丸くして小首をかしげていた。空いている手で彼の頭を撫でてくすりと笑う。
「そう、仲良し」
「おれもなかよし、する」
「はいはい、しなさいな」
「ちょ…ッ!」
狼狽したような金髪の青年が口を開く前に、ユウナはさっとカナードの小さな手のひらを重ねさせて、二、三度ほど手を上下に揺らした。
「仲良し、仲良し、いえー」
「いえー」
「君は…! さっきの話を聞いていなかったのか! 僕は――」
「野暮なことは言いっこなしよ。それに、コーディネイター云々とこの子と仲良くなるのは厳密に言えばわけられることだしね」
アズラエルが口を開く前に、ユウナはさらにたたみかけるように言葉を継ぐ。
「何も皆殺しにするだけが方法じゃあないでしょう? ハーフやクオーターがいることからも分かるだろうけど、ナチュラルとの交配の果ての消失だって目的を叶えることはできるじゃないか。君が憎むのは遺伝子操作であって、彼ら個人個人ではなかろうや」
「し…しかし」
「仲良きことは美しきかな。商売人なら、伝手は大事にするんでなくて?」
それとこれとは話が別だ! 半ばやけくそといった風に叫ぶ青年だったが、ユウナの、ひいてはカナードの手を振りほどこうとはしなかった。それが打算であれ彼個人の考えであれ、そうあってくれるのは自分にとっては喜ぶべきことだ。
ムルタ・アズラエルは幸せだと思う。個人の目的が、公人としての義務に相反しないものであるのだから。
「まあ、これからに期待ということで――あ」
ふと視界の端に赤いものが映り込んだ。すっと視線を転じれば、先ほど粗相をいたした赤毛の娘が侍女に伴われて向かってくる様子がうかがわれる。幼女、フレイ・アルスターはこれまたご立派な大福を両頬に詰めこんでいるようだ。
「これはまた…すごく…ご立腹です」
それはそうだろう、というアズラエルの突っ込みにユウナは肩をすくめて苦笑した。仰る通りであるから、何の反論もできない。いかな完全に頭に血が上っていたとはいえ、怒りを周囲にまき散らしあまつさえ幼い娘に恐怖を与えてしまった罪は如何ともしがたい事実であった。
年をとると感情の制御が下手になってくると言うが、あれは真実である。
「ええと、フレイ・アルスター嬢だよね? こ、こんにちはー」
がん無視であった。赤毛の幼女はぷいと顔をそむけてその不機嫌さを全体に顕現させる。あ、こりゃだめだわ。と可及的速やかな関係修復を早々にあきらめたユウナは、このお嬢様のご機嫌が戻るまで触れるのをやめた。
「大丈夫?」
と、思っていたのだが。それを押しとどめる光景を垣間見てしまった以上、そういうわけにもいかなくなった。
カナードが小首をかしげてフレイに近寄ると、幼女は困惑した表情で一歩身を引き下げた。彼に向ける視線には、混乱と猜疑がない交ぜとなっていて、あまり良いと呼べる代物ではない。
どうしてそんな反応をされるのかわからなかったのか、カナードがさらに首をかしげる。さらりと肩で切りそろえた黒髪が揺れた。
「…ねえ、カナード」
しばしの沈黙ののち、おずおずといった体でフレイがその帳を打ち破る。
「あなたって…わるいひとなの?」
わけがわからない、という風に黒髪の子供の顔に――当社比である。表情筋が動いてないと言うことなかれ――困惑の色が交った。
「だって、パパがいってたもの。コーディネイターはわるいひとたちだって。だからわたしにもきをつけなさいって」
ここで思わずアズラエルに怒気を交らせた笑みを送った自分は、果たして責められるのだろうか。金髪の美青年の顔が面白いくらいに引きつっていく。どうやら心当たりがあるようである。
大方彼が何らかの理由で口を滑らせたのであろうが、この状況はよろしくない。VERYよろしくない。
フレイの父、ジョージ・アルスターは大西洋連邦の高官であるとともに、穏健派とはいえブルーコスモス一派である。その影響をもろに受けた愛娘フレイ・アルスターもまた、史実においては嫌コーディネイター姿勢をまざまざと見せつけ、アークエンジェル艦内をめくるめく昼ドラへと変えるという実績を誇っていた。
よもやこの年頃の子供にまでブルーコスモス的教育を施すとは思えないが、親や周囲の言動というのは恐ろしいくらい子の価値観に影響する。父やその交流相手――十中八九ブルーコスモスなんだろうなあ――を近くで見て育ったこの娘も、事情はわからないながらコーディネイターは悪、みたいな認識を持っている可能性は高かった。
さて、どうしたものか。ユウナは軽くこめかみをたたいた。
ある意味、いつかは通る道、ではあるのだ。どれだけ気をつけたとしても、どれだけ身辺を固めたとしても、カナードがコーディネイターである以上、ナチュラルのこうした目から逃れることは残念ながら出来はしまい。例え今日ユウナが助け舟を出したとしても、そう遠くない未来、カナードはこうした問題に直面することだろう。そしてそこに自分、あるいは彼に好意的な人物がいるとは限らない。
ことに、ユウナがひそかに考えているカナードの進路であれば、なおさらだった。
思考の海に埋没しかかった自分を引き戻したのは、黒髪の子供の何気ない一言であった。
「コーディネイターって、なに?」
「その発想はなかった」
一瞬だけ気が遠くなった。よもやこの場面でそんな台詞が出てくるとは誰が思うだろうか。アズラエルも目を点にしているし、それまで無表情を保っていた侍女や護衛の方々まで、何言ってんのこいつ? みたいな顔で口をぱかんと開けている。つい〇コンマ一秒前まで険のあったフレイまでもが、きょとんと小首をかしげる始末であった。
いや、よく考えるとカナードのこの反応は当然と言えば当然であるのだが。これまで安全のためセイラン邸か自宅以外、あまり出歩くことができなかったカナードの交友関係は恐ろしくせまい。自分とその両親、母であるエレンに護衛役のトダカ、時折遊びに来るエリカや仕事サボってないだろうな? と最近疑いが濃くなっている三爺、ジャン、ダフト。最近ちょっとばかし妙なことになっているアビーその他使用人の皆々様と。…あれ、結構広くね?
まあ、そこは大事ではないので置いておくとして。以上、ナチュラル・コーディネイター入り混じっている上に、ユウナ以外は基本的に人格のできた方々ばかりなのである。である以上、世間様では非常に深刻化しているナチュラルとコーディネイター間の問題がセイラン邸で顕在化することは全くと言っていいほどないのが実情であった。何せ問題ありとされる人物に関しては、初期の段階で家令ヴィンス・タチバナの手で異動や解雇といった処置がとられていたのだから万全なのだ。
故にカナードはこれまでそうした問題に悩まされることは愚か、意識にすら上ることのない生活を送ってきたわけであるが。その結果として、コーディネイターという存在に対する認識もまた育つことなく今日まで放置されていたというわけであった。先ほども言ったが、周囲の態度は子供に嫌という程影響を与えるのである。
そりゃニュース見りゃ一発なのは分かる。けれど考えてほしい。五歳児はそもそもニュースなぞ見ぬ。アニメか子供向け番組でそんな生誕差別取り入れるわけがないのである。大西洋連邦じゃああるまいし。
「あー、フレイお嬢さん、でいいのかな?」
この時点でユウナの介入は既定路線となった。返答どころかそもそもの問題意識さえ有していない当事者に通過儀礼を施しても意味はない。
「な…なによ」
フレイは怯んだようにこちらを睨みつける。粗相をするほど恐怖を感じた相手にそれだけのことができるとは、何たる胆力かと内心で称賛しつつ、ユウナは努めて笑顔を浮かべて膝を折った。
「先程は失礼を。僕はユウナ・ロマ・セイラン。こっちのカナードの、まあ保護者みたいなものなのかな」
なおも疑いの眼差しで突き刺してくるが、彼女の視線が頷くカナードを捉えると、徐々にその色も薄れて行った。まあ、警戒だけは何時まで経っても消える様子はないのは御愛嬌であろうや。
「フレイお嬢さんは、カナードが悪い人に見えるの?」
「………わかんない」
苦しげに幼女は声を絞り出した。一緒に遊んだ友達、悪人出ないと信じたいけれど、彼女にとって絶対の存在たる父親がカナードの存在を悪と断じている。それゆえの葛藤、と言ったところであろうか。
史実でもそうだったが、フレイ・アルスターという少女は生粋のファザコンである。それは幼少期に母を亡くし、父子だけで生活してきたためであろうが、ともかくアルスター親子の絆は非常に強固なものなのは疑いようがなかった。
何せ父は職権乱用で危険な軍艦――本人にその認識があったかどうかは置いておくとして――に乗り込んでまで、娘を迎えにきているし、娘の方も大西洋連邦事務次官の子としてふさわしい自分になろうと日々努力していたようである。
だからこそ彼女の父を、その言葉をここで否定するのは危険だった。それは間違いなく心の聖域を土足で踏み荒らす行為であり、下手をすれば以後フレイはユウナの言葉を一切信用しなくなる危険性をはらんでいる。
なので、ジョージ・アルスターの言葉を肯定しつつ自分の望む方向へと思考を誘導することにした。
「ねえ、フレイお嬢さん。パパさんが気をつけるように言っていたのは、悪いコーディネイターのことなんだよ?」
「わるいコーディネイター?」
「そう。世界にはね、皆の困ることばかりする悪いコーディネイターと、フレイお嬢さんと仲良くしたいっていう良いコーディネイターがいるんだ。それは僕たちナチュラルにも良い人と悪い人がいるように、どうしようもないことなのかもしれないね」
「……そうなの?」
「うん、そうだよ。きっとフレイお嬢さんのパパさんは、貴方が大切で仕方がないんだね。フレイお嬢さんだって、パパさんが大好きなのでしょう?」
「う、うん! わたし、パパがだいすきだもん!」
「だったら、パパさんが悪い人に傷つけられるのは、嫌だよね?」
「あたりまえでしょ! パパをけがさせるやつなんて、わたしがやっつけてやるんだから!」
「パパさんも同じ。フレイお嬢さんが悪い人に傷つけられるのをとても怖がってる。だから、悪いコーディネイターには気をつけなさいって言ったんだよ」
「……じゃあ、カナードはコーディネイターでも、いいコーディネイターなの?」
「勿論。フレイお嬢さんが良いナチュラルであるのと同じようにね」
ちょいちょいと手招きでカナードを呼び寄せる。今の話を分かったのか分かっていないのか、判断に困る顔をしながら黒髪の子供はとてとてとこちらに向かってきた。
「ほら、これで仲良し。でしょう?」
ユウナは二人の手をとって握手の形に持っていった。フレイは幾分何かを考えている顔をしていたが、やがて晴れやかに笑うとその手をぶんぶんと振り回した。
「うん! カナードは、いいコーディネイター!」
「そうなんだ」
…どうやら帰国後色々と教育が必要であるらしい。苦笑して肩をすくめたユウナは、まるで詐欺師でも見るかのようなアズラエルの傍らに立って小さな声で言葉を転がした。
「チョロいぜ」
うわあ。呆れたような、引いたような呻きが上がる。何とでも言うがいい。世の中勝てば官軍なのである。これでカナードとフレイの小さな友情が壊れなかっただけでなく、どさくさにまぎれて先の失態を煙に巻くことができたのだ。その成果に対しその程度の引きくらい、どうということはない。
うわはははー、と思わず哄笑しかけたユウナであったが、その前にこの赤毛の悪魔がとんでもない一言を吐きだしやがった。
「でも、さっきのかりはまだかえしてもらってないわよ!」
何、とユウナは戦慄の呻きをあげた。にこやかな笑顔を一転させ、フレイは再び頬をふくらませてこちらを睨みつけている。
「わたし、ほんとうにこわくてはずかしかったんだから、せきにんはとってもらうからね!」
よもやこの単細胞娘がこちらの高度な心理的罠を打ち破ってくるとは。ユウナは内心でほぞをかんだ。舌打ちの衝動をこらえつつ、相手側の要求を静かに受け入れる。
「そうねえ……じゃあ、かくれんぼをしましょ! わたしにかったら、さっきのことはみずにながしてあげる」
かくれんぼ? と何故かアズラエルと声をハモらせて首をかしげた。かくれんぼ、かくれんぼか。まあ、遊びに付き合う程度であればさほど問題も――
「だたし、まけたらあなたたちは、わたしのげぼくになってもらうから」
「なん……だと……」
「…ちょっと待て。あなた『たち』? ひょっとしてそれ、僕も入っているのか!?」
「とうぜんでしょ! レディをまもらなかったおとこに、せんたくのよちなんてないの! もちろん、カナードもよ!」
「わかった」
わかるな! そう叫びつつも、ユウナは不敵な笑みを浮かべた。下僕ときたか。面白い。
この娘は分かっているのだろうか。自分が今、いったいどんな存在にかくれんぼを挑んだのかを。
「ふふ…こう見えても若いころは『隠行のゆうちゃん』と呼ばれたこの僕に、かくれんぼを挑むとは。フレイ・アルスター語るに落ちたり! よかろう、先達として人生を歩み始めた若者に壁というものを教えてやろうではないか!」
数多の人間を恐怖と絶望のどん底に突き落としてっきたかくれんぼマスターを相手にしたこと、後悔させてくれるわ! うわはははー、とユウナはひたすら笑い転げた。
「何でそんなにのりのりなんだ、君は!? ていうか若いころって、君今でも子供だろう!?」
未だにアズラエルが何事かをわめいているが、そんなことはどうでもいい。こっそりフェードアウトしようとしていた侍女と護衛の二人も加えつつ、ユウナは自信満々にその勝負を買って出た。
この日、大西洋連邦の名門アルスター家の御令嬢に、五人の下僕が生まれることとなった。