オーラ、と言うものがある。
ギリシア語で「息」を意味する単語に由来するそれは、その名の通り目には見えない空気あるいは雰囲気を表す言葉だった。温和な人物ならばどこか温かみを感じさせるものを発し、厳格な人間であればまさに他を圧する何かを醸し出す。人の持つ五感の一切に触れないにも拘わらず、それらはまるで実体を有しているかのように語られるものである。
しかしながら、ごく稀に。このオーラなる代物がまるで質量を伴うがごとく発せられることがあると、ムルタはどこかで聞きかじったことを思い出した。無言の気合で落ち葉が爆ぜた、何もない水面にさざ波が立った等、まるで小説の中にしか存在しないような状況が時に現実として真正面に付きつけられることがあると。
なるほど。これがそうなのか。
あらゆる感覚がマヒする中、ムルタはどこか他人事のように心内だけで呟いた。否、実際自分には関係のない出来事であるはずなのだ。このある意味超常現象がアズラエル家庭園もしくはムルタの眼前でさえ行われなければ。蚊帳の外、アウトオブ眼中。おそらくこのまま家に入ってベッドで丸くなろうが、場は一切動かないと確信できるほどにムルタはその輪の中に踏み込んでいない。
にもかかわらず。足どころか指一本動かせずにいた。口内が乾ききって気持ち悪い。と思えば額にはびっしりと脂汗が浮き、体中にかけて冷たい汗がとめどなく流れている。がたがた震える程度の動作すら許されぬムルタは、ただただ己の不幸をひたすらに呪いつつ眼前の公開処刑を眺め続けることとなった。
殺気と称することすら生ぬるい空気が、翡翠の間を満たしきっていた。
とうの昔に力を失ったはずの宗教にすらしがみついて、ムルタは天に祈りをささげる。一刻も早くこの場から解放されることを。あの狂える鬼神を自身の聖域から消し去ってくれることを。願いは決して届かぬと知りながら、ただひたすらに祈り続けた。
「ねえ、カナード」
びょうびょうと噴きつけてくる禍々しい暴風――つい先ほどまでここに吹いていたのはそよ風だった――が髪をなびかせる。ユウナ・ロマ・セイランという名を持つ羅刹は湧水のごとく澄み切った声で小さな子供を撫で上げた。これまで表情一つ動かさなかった幼児が恐怖に顔をひきつらせてびくりと震える。隣の赤毛の少女などがちがちと歯を鳴らして怯えきっていた。
「僕、ちゃんと言ったよね? 今日だけでなくずっと前から、何度も何度も、なんっども! 勝手に行動しちゃダメだって。ね、言ってたよね?」
黒髪の少年は答えない。ただただ怯え震えるのみだった。
「答えなさい!」
鞭のように鋭く、聞くものの肉を切り裂くほどの叱責が響き渡る。さほど声量はないにも拘わらず、ムルタは迷わず耳をふさいだ。しかし無駄な努力など笑止とばかりにユウナの怒声はするりと指の隙間から鼓膜へと届く。
「駄目だと言った! 約束もした! なのにどうしてそれをするの!」
とうとう耐えきれなくなったのか、子供がしゃくりをあげ始めた。ぼろぼろと涙をこぼし、何度も何度も小さな身体を上下させる。正直ムルタはそれだけで済んでいるこの黒髪の子供に尊敬の念すら抱いていた。自分ならあの恐ろしい空気の直撃を受けただけで洩らしているだろう。
一瞬だけ、ユウナ・ロマからの圧力が消えた。だがほんの刹那、一息の間だけだ。すぐさま生じた気配の空白を圧倒的な質量が駆逐する。
「泣く前にしなければいけないことがあるでしょう! ちゃんとそれをしなさい!」
涙と鼻汁で顔をどろどろにした子供がまた震える。逃げることも沈黙することも許さず、ユウナ・ロマは青白い炎を称えた瞳で彼を射抜いた。思わず射線を避けるように、ムルタは身体を右に寄せる。
永劫にも等しい時間。けれどきっと時間にすれば数秒ほどだったのだろう。子供が鼻をすすり、震える唇で必死に言葉を紡ぎ出そうとした。
「……ご」
ご? と冷たい声でユウナ・ロマが繰り返す。さらに数秒たって、ようやく一つの言葉が翡翠の絨毯に落ち込んだ。
「ごべ……ごべんなざい……」
「…よろしい」
嘘のように黒い氷嵐が霧散する。同時にどさりと重いものが落ちた音が耳に入った。見るとユウナ・ロマにつき従っていたSPたちが倒れ伏している。普段ならば呆れるか小馬鹿にするムルタであったが、この時ばかりは無理もないと名も知らぬ男に深い憐憫の情を抱いた。黒髪の子供を挟み、なおかつ少し離れた位置にいた自分さえ現実逃避していたのだ。あれを至近距離からくらえばそうなるのも当然と思った。
「まったくもう、心臓に悪いったらありゃしない。年寄りは色々弱いってのに…。
あーあー、せっかくのハンサムが台無しだね」
そう言って懐からティッシュを取り出し、ユウナ・ロマは子供の顔を拭き始める。未だ泣き続ける少年に彼は小さく苦笑した。そしてとんとんとその背中を優しく叩く。
「無事でよかった」
その言葉には万感の思いが込められているようだった。目を細めるセイランの総領は先の悪鬼とは思えぬほど穏やかで、彼が心底から子供を案じていたことが見て取れる。確かに黒髪の子供の素性を考えればユウナ・ロマの心配はもっともだろう。ある意味元凶とも言えるムルタがそう思うのは滑稽極まりないが、あの凄まじい一時を過ごした今は驚くほど素直にそう思うことができた。
正直言って、つい先ほどまで渦巻いていた感情の洪水がきれいさっぱり消えさっており、文字通り嵐の後の様にさわやかな風が心内を凪いでいる。どう考えても恐怖と生存本能による一時的な問題の棚上げなのだが、それすらどうでもいいほどムルタは自身の生を噛みしめていた。
「さてと」
もっとも、そんな澄んだ空気は泣きたくなるほどあっさりと消滅したが。ほっと一息ついたユウナ・ロマが、すっと視線をムルタに向けたのである。思わず肩が跳ね上がり、顔が悲惨なほど引きつった。
「うちの子がご迷惑をかけたようで。申し訳ない、アズラエル殿」
「あ、や、は、はは。めっそうもない」
正直腰が抜けそうだった。にこやかな笑顔で雰囲気も穏やかなものだったが、先の記憶がこびりついて頭から離れない。そんな内心を見抜いたかのようにまた彼は苦笑した。
「でもって、そちらのお嬢さんは……」
ユウナ・ロマの動きが止まった。つられる形でムルタも、いやに静かな赤毛の娘に視線を転ずる。そしてユウナ・ロマの顔色が変わった理由と対面した。
「あ、やべ」
諸悪の根源の間の抜けた声が虚しく響く。ムルタは生意気極まりなかった小娘を多分の憐憫を込めて見つめたが、すぐに瞳を別の場所に移す。いかな子供といえど、女性のそれを凝視し続けるのはあまりにもあれであるし、何よりも哀れであったからだ。
赤毛の娘は、放心したように尻もちをついて下着を濡らしていた。見たところ三、四歳であったのがせめてもの救いであろう。これがある程度の年齢だったならば目も当てられない。何も言わず、ただムルタは空と雲を見上げ続ける。下手をすればその立場にいたのが自分だったかもしれないことを思うと、これ以上この娘に鞭打つような真似をしたくなかったのだ。
「うわやっべ、どうしよ。だ、誰か、侍女はおらぬかー!」
一方で原因はそこまで考える余裕がなかったようで――それでも呼んだのが侍女であったということは、一応最低限の線引きはできているようだ――慌てて声を張り上げた。それを受けて、離れた所に待機していた侍従たちが素早く駆けよってくる。
侍女たちに連れられて行く少女に深い哀悼の意をささげるようにムルタは数瞬だけ黙祷した。
「いやー、まずった。もうちょっと手加減しとくべきだったね、こりゃ。ところであのお嬢さん、どなた?」
目を腫らしながらも気を落ちつけたのか、黒髪の子供が先と同じく淡々とした様子で小首をかしげた。どうでもいいが驚くほど立ち直りが早い上に、平然としながら恐怖の大王と手をつないでいるとは、どんだけ太い神経をしているのだろうか。正直羨ましかった。
「フレイ」
「簡潔な答えをありがとう。……てこら待て、フレイ? ちょ、おま、赤毛で三歳くらいの女の子……もしかしてその娘の名前って、フレイ・アルスター…だったりしちゃう?」
「そう」
やっべ冗談抜きにやっちまった。ユウナ・ロマは思い切り顔をひきつらせた。同時にムルタも聞き覚えのある名に片眉をはね上げる。
アルスターと言えば、大西洋連邦でも屈指の名家だ。アズラエル財団――もといブルーコスモスとも密接なかかわりを有しており、今の家長ジョージ・アルスターなどは次期事務次官と目される優秀な官僚である。そう言えばジョージ・アルスターには幼い息女がいると小耳にはさんだことがあった。もしやあの小生意気な娘がそうなのだろうか?
「あー…後で謝んなきゃなあ。それと君はいつまで寝てるつもりだね」
ユウナ・ロマは未だ夢の彼方にあるSPを足で小突いた。お世辞にも品のいい動作とは呼べなかったものの、彼の浮かべる苦笑が粗野な印象を綺麗に打ち消している。まるでだらしのない弟でも見るかのような表情だ。
目を覚ましたSPは、己のどうしようもない失態に顔を青くしながらも機敏な動作で立ちあがった。震える声音で主人に詫びたが、原因とも言うべきユウナ・ロマはからからと笑ってあっさり謝を受け入れる。
「お気にめされるな。それよりも」
そこで言葉を切った彼は、ちらりと手をつないでいる幼子に視線を向けた。向けられた側はそれに気づかず、アルスターの令嬢が連れて行かれた方を色のない瞳でじっと見つめている。
「心配?」
子供は無言でうなずく。正直ムルタには相も変わらずの無表情としか見えないのだが、ユウナ・ロマの瞳は全く別の姿を映しているようである。彼はくすりと笑声を洩らし、かしこまっているSPの男を見やった。
「様子を見てきてあげてくれないかな。本当ならこの子を連れて行ってあげたいん
だけど、そう言うわけにもいかないから」
「いえ、しかしユウナ様」
「護衛のことなら大丈夫。何せここにはアズラエルの御総領がいらっしゃるんだから」
三対の瞳がムルタに集中した。別段それに臆する謂れはない――ただしうち一つは除く――のだが、何となく居心地が悪い。けれど彼らから目をそらすというのも負けた気になりそうなので、あえて涼しい顔でそれを受けた。
「カナード。僕の目の届くところまでなら庭を見てきてもいいよ」
「…ほんと?」
「よろしいかな、アズラエル殿?」
そこでこっちに振るのか。いや、確かにこの庭はアズラエルのものであるのだし、自分に許諾を取るのは至極まっとうなのだが、できれば自分に触れることなく戯れていてほしかった。
「え、ええ。かまいませんよ」
それ以外に何が言えるだろう。先ほどまで部外者――しかもコーディネイターだ――に徘徊されるなど御免という思いが渦巻いていたのだが、今はそんな些事にかかずらわっている余裕はない。さらりと紡がれた言葉に、変わらず無表情ながらも子供の顔がぱあと輝いたような気がした。
「いっといで」
ユウナ・ロマの言葉が終わるや否や、子供は弾丸のように駆けだした。その瞬発力はまさにコーディネイターの面目躍如と言ったところか。
「本当に申し訳ない。あの子は草花が絡むと抑えが効かない性質でね、自宅でも色々と苦労しててねえ」
くすくすと、どこからか取り出した扇子を口元に当てユウナ・ロマが笑う。ムルタは「そうですか」と当たり障りのない言葉とともに愛想笑いをする。
「僕は園芸には疎いんだけど、それでもここがかなり手入れされてるというくらいはわかるよ。これは全てアズラエル殿が?」
「…ええ、まあ。僕の趣味みたいなものですよ」
それはすごい、と感心した様にまた笑う。そこには男の花いじりに対する嘲弄も戸惑いも介在していなかった。ただただ純粋に褒め称えている、父には及ばないながらもそれなりに表情の裏を読む経験を積み上げてきたムルタだからこそ、それがわかった。
「にしても、ここまで世話するのは大変だったろうに」
ぱたぱたと扇子であおぎ、ユウナ・ロマは一心不乱に花畑を鑑賞している子供を見つめたまま呟く。口調も瞳もひどく穏やかだ。唐突にムルタはこの少年が自分よりも十も下であることを思い出した。先の衝撃が大きすぎて、このあまりにも子供らしくない態度に疑問を差し挟む精神的余裕がなかったのである。
「これくらいのことしか、させてもらえませんでしたからね」
じっと、ユウナ・ロマがこちらを見つめている。ふむ、とまるで何かを探るかのような不躾とも言える一対の瞳に思わずムルタはたじろいだ。しかしすぐに精神を再構築してそれを跳ね返す。
さして深い意味があったわけではない。単純に何となく反骨精神が湧き上がったからやったのだ。これに負けたくない、という子供じみた癇癪と言い換えてもいい。
しばしの沈黙と共に、ユウナ・ロマがうっすらと笑った。
「いいね、うん。実にいい」
また空気が変わった気がした。
何がしかを口にしようとしたムルタを、ユウナ・ロマの視線が射抜いた。刹那、ムルタはまるで電流が体中をひた走ったがごとき感覚を覚える。
「まあ前情報があったとはいえ、やっぱり生は違う。貴方はとてもとても『いい人』だね、ムルタ・アズラエル」
彼の薄青色の瞳は慈愛に満ちていた。にも拘わらず、ムルタはそれに言い知れぬ不安を感じる。
「憎悪」まるで歌うように。心底から楽しいと言わんばかりの言葉だ。
「嫉妬、挫折と屈折。ともすれば理性の鎖すら引きちぎらんばかりの飽くなき欲望。そして何よりも――うんうん、非常に僕好みで結構なことだ。貴方とはいい友人関係が築けそうでなによりだね」
ごくりと息をのんだ。
ユウナ・ロマの朗らかな声が耳を打つ。とても陽気で、それでいて乾ききった老人のような声。
「貴方の原風景。コーディネイターへの嫉妬。それによる無力感。届かぬことに打ちのめされ、絶望の中それでも抗い続けるか」
「…何を、言ってるんだい? 君は」
「ちょっとした独り言と、現状確認みたいなものかな」
扇子が軽い音とともに閉じられた。少年はまた笑う。
「ねえ、ムルタ・アズラエル。貴方が望んでいることはなあに?」
とても軽い口調だった。それこそ今晩のおかずを訊ねているかのような、日常巻溢れる声音である。しかしそうであるはずなのに、言葉はタールの様にどろついていて、ムルタの全身を包み込むようにへばりついた。
心臓が早鐘を打つ。可能ならばこの場で胃の中身をぶちまけたい程の緊張感が両肩にのしかかっているが、それでも尚ムルタはあえて気丈の鎧をその身にまとった。そうでなければこの場に崩れ落ちてしまいそうだからである。
「貴方が本当にしたいことは、なあに?」
「べ…別に。君に言うことでもないだろう」
「コーディネイターの抹殺」
びくりと、今度こそムルタの身体が大きく跳ねた。
「それが貴方の目的を達するために、貴方が選んだ手段」
自分が、もといアズラエル家がブルーコスモスの後援者であることは公然の秘密であるし、セイラン総領という立場にいる彼が知っていても、さほど不思議ではない。が、あのコーディネイターの子供をあれほど可愛がっているこの少年からすれば、自分は排除すべき敵なのであろう。
次に来るのは罵声か、糾弾か。不思議な事にムルタはそのどちらかを強く望んだ。どちらの反応も非常に人間らしい、自分の知っている常識内であるからこそ、この理解不能な存在を己の条理に落とし込んでくれるはずだからである。
しかしその期待はあっけなく裏切られた。
「ありだね、それ。悪くないと思うよ」
何、と声が漏れた。
「最初に自己研鑽で彼らコーディネイターを越えようとした。でもできなかった。どれほど努力してもなお超える事の出来ない、生まれ持った才能に阻まれて。誰が悪いわけでもない、あえて言うなら運の悪い出来事だあね」
そうだ。あのコーディネイターの少年たちを越えるために、文字通り血のにじむような努力を重ねてきた。机にかじりついて書物を読み漁り、血尿が出るまで身体を酷使し続けた。
でも、勝てなかった。
「だからコーディネイター抹殺という手段に切り替えた。勝てないならば最初からいなかったことにすればいいと。自分の望みを達成するために」
「……ああ、そうさ」
はっきりとした声が出た。ユウナ・ロマに対する疑問、異物感、それらの複雑な感情すら押しのける何かがムルタの背を後押ししたのだ。
「あいつらさえいなければ、僕はあんな思いをせずに済んだ。努力に失望せずに済んだ。自分を嫌わずに済んだんだ」
「飽くなき欲望。その結果の殺戮。度し難い、そしてそれでいて魅力的」
くすりとユウナ・ロマが笑った。またあの顔だ。慈愛に満ち満ちた老人の笑み。
「…理解できないね。君にとって、いいや君たちにとって僕は完全に敵だろうに」
「だろうね」
何が言いたいのか全く分からない。先までの委縮を取り払い、ムルタは睨みつけるようにユウナ・ロマを見つめた。
「ブルーコスモスという集団の行う結果が僕の利に反するが故に彼らは僕の敵だよ。けれどそれはあくまで結果であって、行動理念や背景とは別のものだ」
「…コーディネイター排斥に思うところはないと?」
「より正確には、コーディネイター排斥の何がしかの行動そのものが不利益であるということ。でも考えるだけなら余所様が口出しすることじゃないしね」
ムルタは訝しげに眉をひそめた。理屈がわからないのではない。彼のその明快な割り切りに対して疑問を抱いているのだ。
誰でも口にすることは簡単だ。自分に火の粉が降りかからない限り、人にとってそれは対岸の火事、別世界の出来事なのだから。しかしそれが身近に燃え広がった時、人間はそれまでの考えを容易く捨て去ってしまう。
ムルタはあえて挑発するように笑った。
「へえ。ならあの子供がブルーコスモスに狙われても、君はその理念を尊重し続けるとでも?」
「するだろうさ。もっとも、それを理解し続けることと悪感情を抱くことは分けて考えるべきだろうけど。多分そうなったら、怒りにまかせてブルーコスモス狩りをしそうな気がするね、我がことながら」
一体何が言いたいのだ。この少年は。いい加減苛立ちがこみ上げてきて、ムルタは大きく息を吐いた。
「おお、苛立ってるね。ま、何が言いたいかというとだ」
ぱ、と扇子が再び広がった。
「僕は貴方みたいな馬鹿が大好きで、是非お友達になりたいってことさ」
「…僕が馬鹿だって?」
そんな言葉が出てくるとは思っていなかったせいか、怒るよりも呆れが先立ってしまった。ムルタはぽかんと口を開き、ユウナ・ロマをまじまじと見つめた。
「違うの? あらゆるものを踏みつけてでも頂点を目指すような欲望。つまり愛すべき馬鹿ってことじゃない?」
「…いやいや、どうしてそうなるんだい?」
「だって、コーディネイター越えようと正規の手段で失敗したからなりふり構わずでしょ? その気になれば後先考えずにプラント群に核ミサイルすら叩き込みそうな感じじゃない、貴方。それを馬鹿と言わずして何と言う。いやはや見上げた向上心だ」
いや、いくらなんでもそれは、と言おうとしたが、そう言われてしまうと何故か非常に納得できてしまって嫌な気分になった。普通に考えれば憎むべき化け物どもの巣とはいえ、プラントは理事国側の財産であり、経済を支える重要な基盤だ。喪失に伴う世界的混乱を思えばとてもじゃないが核なんてブチ込もうとは思わないはずなのだが…何故かついやってしまいそうな気がしてならない。
「鍛錬もブルーコスモスも、結局は貴方がより高みに登るための手段じゃないか。まさに虚仮の一念なんとやら、だね。そういう馬鹿は大好きだよ」
けらけらと笑うユウナ・ロマから、それまでのある種静謐だった空気が霧散した。
「…そう人を馬鹿馬鹿言わないでくれないか?」
口ではそう言いつつも、どうしてかその二文字が心の奥底にすとんと落ちた感触が残る。
馬鹿、馬鹿か。これまでムルタを突き動かしてきた情念がそう規定されたことで、どうしてかその重さを消失させた気がしてきた。熱量は変わっていない。けれど軽くなったのだ。
何故か少しだけ笑いが漏れた。
「それは失礼。でも悪い意味で言ったんじゃないよ。ふふ、やっぱり君みたいな人間はいいね。本当に」
「褒められた、と思っていいのかな?」
「勿論。目的がどうあれそこまでして己の望みを叶えようとする人間には敬意を表するよ。貴方が別の方法でのぼりつめるにしろ、やはりコーディネイター抹殺の道を選ぼうとね。
屍山の頂を踏む貴方を、敵対はしても否定だけは絶対にしない」
ムルタ・アズラエル、と。少年はすっと息を吐いた。
「僕は貴方を肯定しよう」
しばしの沈黙が場に横たわった。さらさらと草が揺れる。
先に口を開いたのは、ムルタだった。
「…やれやれ。止めるのかけしかけるのか、どちらかにしてもらいたいものだね。判断に困るじゃないか」
「僕は蝙蝠って可愛いと思う派だから。それに、これぞオーブって感じでしょう?」
確かに孤立主義万歳の島国らしい考え方だ。あいまいな灰色。どちらにもつかないくせに、両方に共通する点を持っている。ムルタは小さく苦笑した。ふっと視線を外し、一輪の赤い花に視線を転じる。鮮やかな血潮が花弁を揺らした。
「ならばこちらははっきり白黒をつけよう。僕は、これからもコーディネイターを排斥する道を選ぶ。僕自身の原風景から来る憎悪があることは否定しない。自分のこれまでをないがしろには絶対にしない」
あの日の屈辱と憤怒は、おそらく死ぬまでムルタにつき従うことだろう。これだけはどうしようもない。なぜならばそれこそがこのムルタ・アズラエルを形作った基盤の一つであるのだから。
「けれどそれ以上に、僕はコーディネイター達の存在を認める事ができない。奴らの持つ圧倒的な能力は、これまで人類が築き上げてきた社会を根底から覆しかねないからだ。ジョージ・グレンの告白から今まで、どれほどの企業が倒産し、何人のナチュラルが自殺に追い込まれてきたかは、君も知っているだろう?」
コーディネイターがもたらした技術的発展は確かに素晴らしいものだ。しかしそれだけの力を、何千万もの数を許容する懐は今の社会には存在しない。
どれほど個人主義で取り繕おうと、基本的に人間の能力に隔絶した差がないのは厳然たる事実。多くの人々は純粋な資質ではなく、小手先の技でもってのぼりつめ、あるいは蹴落としてきたのである。
しかし、奴らは違う。コーディネイターは真正面の能力からして自分たちナチュラルを上回っている。これまでほんの一握りしか存在しなかった、天才とも言うべき力を持つ彼らは、確実にナチュラルを駆逐しヒエラルキーの上部に居座ることとなるだろう。そして世界は、コーディネイターという特権階級に富が集中する地獄と化す。
だからこそ、今しかないのだ。コーディネイターとの文明的、技術的な格差が開ききっていない今を置いて、ナチュラルが隷属の未来を回避する機会はない。
「僕は自分自身の復讐と、そしてこれから先を生きる僕の子や孫のために、あの化け物を退治する。それが僕の進むべき馬鹿の道だ」
ムルタの強い視線を受けたユウナ・ロマは。
唇を赤い三日月に導いた。