C.E.五九年九月十六日。
この世界に訪れて、いつしかユウナには側にいるのが当たり前の存在が生まれていた。見知らぬ景色、慣れぬ暮らし。そうした様々なことに直面しながらも、それは決して自分の側から離れることなくずっと傍らに寄り添い続けていた。
故にそれはユウナにとってもっとも信頼の置ける存在であり、もっとも長い付き合いを持っている。そして今まさに、もはや数えるのも馬鹿らしい回数を再び刻む時が現れた。
即ち。
「どうしてこうなった」
もはや使い慣れすぎて口が専用に調整されたのではないかと思うくらい滑らかに発音できた。片手で頭を抱え、柔らかなシートに身を預ける。このまま夢の世界へ旅立てたならどれほど幸せなことだろうか。これまた常連となった現実逃避行は、しかし自分の右隣に座る人物によってあっさりと遮られてしまった。
「どちらかと言うと、それは私の台詞だ」
福々とした腹にオレンジ色のサングラス。濃紫の服をしっかりと着こなした三十半ばの男だ。ウナト・エマ・セイラン。ユウナの父親にしてこの旅唯一の主役…のはずだった人物である。
本当に、どうしてこんなことになったのやら。時折変に揺れ動く機内でもう一度ため息をついた。そう機内だ。ちらりと窓外を一瞥すると、そこには一面のスカイブルーが白の綿あめを纏って遥かかなたまで広がっている。がくりと全身が揺れるような感覚はおそらく気流に揺られたことが原因だろう。
オーブロイヤルエアライン保有のVIP専用機、その中がここだった。敷かれた絨毯は清潔で毛先も長く、備え付けの座席もこれまた広々として柔らかだ。これらが恐ろしく金のかかった代物であるとは機内に入った瞬間に理解できた。客室添乗員はきれいどころばかりだし、差しいれてくれるジュースや菓子類も極上。もしもこれが普通の旅行か何かだとしたら、おそらく脳みそ空っぽにしてフィーバーしたに違いない。
しかし残念ながら、今のユウナにそれは夢のまた夢であった。何となれば今回のフライト理由が、温泉旅行などという素晴らしい行事などでは断じてなかったからである。
「そもそも例の件はアスハ家が主導で進めていたはずだし、『彼ら』の相手はグロード家だろうに。何故私が呼ばれなければならないんだろうな」
「いやあ、モテる男はつらいですねえ、父上」
「…どうせなら若くて美人の女性にモテたいのだがな。何が悲しくて老人の相手など」
ウナトは不満げに愚痴を吐き始めた。どうやら今回の旅――表向きは大西洋連邦での公務となっているそれを任されたことが相当腹にすえかねているらしい。
まあ、無理もないか。ユウナは乗務員の美人姉さんが注いでくれた果汁百パーセント葡萄ジュースを舐めて苦笑を洩らした。何せ今回セイラン家はこの一連の騒ぎに一切――セイラン家は、である。個人? アーアーキコエナーイ――関わっていないのだから。
この騒動、その発端はざっと二年前に起った出来事が原因であった。それは世界各地で広範かつ多岐に渡る内容であるものの、こと言葉で表すならば次の一文でほぼ全ての意味を含めて表すことができた。
端的に言うと、オーブ製品の打ちこわし・不買運動が始まったのである。
いつかそうなるんじゃないかなあ、とは思っていたものの実際なるとちょっとどころではないくらいきつかった。「改造人間の手を借りて作ったものなんか使えるか!」「オーブの拝金主義者どもめ、青き清浄なる世界を何だと思ってるんだ!」「こんなもの、こうしてしまえ!」云々で電動鋸でジェイソンばりにオーブ製エレカを真っ二つにしたり情報端末をその場でたたき割ったりと。もう見ているだけで頭に血が上っていると分かるパフォーマンスが世界を席巻したのである。
まあ、彼らがピースと笑顔を向けているカメラやその映像を映しているテレビってプラント製じゃん、とかあんたその電動鋸のバッテリーパックオーブ製…とかいう恐ろしくシュールな部分がないわけではないが、やっている方もやられている方も割と洒落にならないのでそこらへんは見なかったことにした。どうせマスコミも言及するまい。
そう、ともかく全く笑えない喜劇であった。ヘリオポリスというある程度の資源自給施設を保有しているとはいえ、オーブは基本的に無資源国家である。故に産業発展とそれに伴う加工技術の向上を図ることで貿易国家として成り立ってきたわけだが、今度のような一件はまさに死活問題とも言える重要事なのだ。
ことにコーディネイター排斥論が著しい大西洋連邦、ユーラシア連邦、東アジア共和国はこの世界でも最大の市場である。これを失うとなれば冗談抜きで国家経済が瓦解しかねない。実際、この騒ぎを問題視した各国政府がオーブ製品への一部輸入関税引き上げを画策しているという情報もマルキオからもたらされている。さすがに世界最先端であり最大シェアを誇るバッテリーパック関連は除外だろうが、精密機器分野では大幅な変動が見受けられた。あそこの連中はただでさえプラントから高品質の工業機器が安価で輸入できるのだから、関税上昇にためらいはあるまい。
まったくジャパンバッシングならぬオーブバッシングだった。対策として比較的排斥論の薄い大洋州連合や赤道連合などの非プラント理事国への輸出拡大を行っているが、それでも三つ合わせるまでもなく世界最大の人口を誇る分の代わりを埋めるには全く足りない。
はっきり言って首長会涙目であった。ユウナ最高の相棒の親友「やっぱりこうなった!」と手をつないで踊っていた首長会だが、そこは何だかんだで有能な連中が集まるオーブクオリティ。昨年代表首長に就任したライオン殿の一言であっさり方向性は定まってしまった。
いわく「オーブ製品で売れないなら他国製にすればいいじゃない」だった。
具体的には近隣国の企業を買収・合併して新企業を作り、オーブ国内で作った製品をその企業のある国で組み立て、出荷させるという方法である。それならばメイドインどこかとして堂々と連合国に物を売ることができるはずだった。
まあ調べればわかるのだが、わかったとしても公表しないという確信がオーブにはあった。何せ仮にその第三国の製品にまで不買運動をしてしまうと、その国の国民感情が悪化して今度は三大国がよろしくない状態に陥りかねないからである。理事国は大きな工業力を有しているが、その莫大な生産力は内需だけで使いきれない。自然外部へと市場を求めなければならないのだが、大市場であるこの三国――ことに大西洋連邦とユーラシア連邦は犬猿の仲。
となればそれ以外の国に市場を求める動きが出てくるのだ。前者なら南米、後者ならアフリカやスカンジナビア、東アジア共和国は赤道連合やムスリムといった具合である。そんな中で諸外国との関係悪化など、財界やロゴスが許すとは思えない。
ともあれそうした動きに関する根回しは政府ではなく国営企業モルゲンレーテで行ったし、マルキオ導師の助力もあって太平洋地域に関してはほぼ内諾をもらった。彼らとしても国内企業への投資や輸出拡大、関係国との経済的接近が持てて悪い話ではなかったため比較的容易にまとまったようである。既に段階的な関税の引き下げも始まっていると聞いていた。
主な面々としてはオーブ連合首長国、赤道連合、大洋州連合、汎ムスリム会議の四カ国。さらに状況次第ではここにスカンジナビア王国、南アメリカ合衆国が加わるかもしれない。まさに非プラント理事国そろい踏みであった。外相たちの中にはこれを機にさらなる経済的発展を踏まえた地域連合発足を画策しているものもいると聞くが、そこらへんオーブがどう出るか少し見物だった。アフリカ? 内輪もめでそれどころじゃないってよ。
そんなわけで多少打撃は受けたものの、むしろ非理事国間がより緊密になって結果的によかったんじゃね? とまで言われるようになったわけだが、言うまでもなく世の中ああよかっためでたしめでたし、ですむほど甘くはない。こんなバカでかい動きを放っておくほど、国際社会は御間抜け様ではなかったのだ。
この二年右肩上がりの地域経済成長率のおかげで、ワムラビ市再開発のしわ寄せによって計画延期となっていた軌道エレベータ「アメノミハシラ」も一年遅れで先月より建造開始。順風満帆かと思われていた頃になって、オーブ縁のロゴス幹部グロード家から「ちょっと面貸せや」という幹部連名のお呼び出しがかかったのである。
先にもウナトが述べたように本来彼らとの折衝はグロード家が担っているのだが、経済的影響力は多大なれど彼らは下級氏族。オーブに対するロゴスの権力増大を恐れた首長会によって五大氏族昇格はタブー視されていたため、多分に表立った政治色を強めるこの問題への対応はグロードでは荷が重かったのだ。
そこでじゃあどこが行こうかというお話になったのだが。大西洋連邦と強い繋がりを有する五大氏族二家、セイランかサハクに白羽の矢がぶっ刺さり、様々な利権だの影響力だのの折衝の結果見事ウナト・エマ・セイランがその任に付くことになった。なったのだが…。
「どうして僕まで?」
「何、いい機会だと思っただけだ」
いい機会って何ぞや? そんな思いが顔に出ていたのか、ウナトは苦笑を交えながら口を開いた。
「お前がそれはもう意味不明なまでにかけずり回っていることは知っている。まあ傍から見ているとアホの子以外には見えないが、ヴィンスも口出ししておらんし、我が家に不利益なことではないようだから放置もしていた。けれどまあ…何と言うか、その」
と、そこでウナトは困ったように頬をかいて瞳をさまよわせた。ユウナの首が斜めに傾く。
「そろそろ、ちゃんとしておかねばならんだろう? …親子の会話というものをな」
ああ、とユウナは小さく苦笑した。同時にウナトから視線を外し、ぼんやりと天井を見上げる。
いい機会。なるほどいい機会だ。ユウナとしてもそろそろ腹を割って話さねばならない時期だと思っていた。母とは主にカナード関係でよく話すし、なかなか良好な関係を築けていると思っている。一見するとヒステリックな女性と思われたが、話してみるとこれが滅茶苦茶いい御人だったのだ。厳しいところは厳しい。しかしそれは相手を思いやった優しさと愛情から来るものだとユウナは見ていた。実際、カナードも彼女にとても懐いている。
人は見かけによらない。本当にその通りだった。今日とて忙しいだろうにわざわざ空港まで見送りに来てくれたのだ。ユウナは彼女が好きになっていた。
だからこそ、父ウナトともうまくやりたいと思っている。年齢的には彼らよりもはるかに上であるが、それでも血の繋がった両親だ。親と子。その関係が希薄など、さびしいではないか。
「そうだね、父上。その通りだ」
思えば親として子や孫たちと接することは多々あれど、自らが子供であることは久しくなかったことだ。改めて思うとどう触れあってよいのか少しだけ困惑する。また苦笑が漏れた。
しばらく沈黙が場に横たわった。けれどそれは決して不快なものではない。どこか穏やかで落ち着いた空気が流れている。
「…ところで父上。親子の会話の前に、一つ確認しなきゃならないことがあると思うんだ」
「…奇遇だな。私もお前に確認したいことがある」
その木漏れ日のような香りは瞬く間に霧散した。じっと互いの瞳を探り合い、やがて両者の視線はある一角へと向けられた。そこは機内の窓際に備え付けられた座席。ほんの少し姿勢を傾ければ彼方までたゆたう雲海に思いをはせる事ができる位置にあった。
強化ガラスに張り付いている、見覚えがあるどころではない小さな黒髪の子供。こちらに背を向ける形になっているが、ユウナは彼の顔をまざまざと思い浮かべる事が出来た。
『何故いる』
見事に重なった。思い切り頬が突っ張っていることが感ぜられる。よほど空の光景がお気に召したのだろう。その子供、カナードはこちらの気など知ったことかとばかりに振りかえろうともしなかった。
「いやいやいや、何でいるの? おかしくね? え、僕連れてきてないよ?」
「私もだぞ。どうやって入り込んだんだ!?」
客室乗務員を呼び出して詳細を訊ねたところ、普通に自分たちの後ろにくっついてきていたからてっきり一緒にお連れになると思っていたとのこと。
いやいやいや、おかしいから。ありえないから。セキュリティどうなってんの!? とユウナが青筋を立てて護衛の黒服殿を問いただした。こちらもやはり当然の顔をして後ろに付いてきていたから、ああ一緒に行くのだなと思っていたらしい。父の護衛としてセイラン邸に来ることも多く、カナードの顔を知っていたことも彼らが疑問視しなかった理由の一つの様だった。加えて同じく子供であるユウナの存在が見事に隠れ蓑になったというのだから笑えない。超笑えない。
よく出国審査通ったな。という疑問はカナードの首からさげられているパスポートが見事に物語ってくれた。そう言えばこの子はもともとオーブ外から来たわけだし、その関係もあって移民後子供用パスポートを申請していた気がする。
「だからって通すなよ! あり得ないでしょう子供一人で手続きするなんて!」
「いえ、その……カナード様の手続きは、ユウナ様とご一緒に私どもの方で……申し訳ございません!」
気を利かせてくれたのだろうがあっぱれなほど裏目に出ていた。ユウナは大声を出したことを謝罪し、青い顔をしている黒服殿を慰めた。彼は悪くない。さりげなくセキュリティ上破滅的なまでのミスであり、これがブルーコスモスのテロだったら今頃どかんだぜ、な状況であってもユウナには彼を責める事が出来なかった。
いや、理由はどうあれ雇い主としては厳重な処罰を下さねばしめしがつかないのだが、そもそも後ろにくっつかれていながら気付かなかった時点で糾弾する資格などないという思いが強すぎてそうする気が起きなかったのだ。本当にどうやったんだろうかこの子。無意味にすごいぞスーパーコーディネイター。
「…今更戻るわけにもいかないし、表沙汰にすると色々面倒なことになるよ…。ていうか正直どんだけ首飛ぶことになるか」
「…うむ。仕方あるまい」
「よし、最初から一緒に行く予定だったと言うことにしとこう」
護衛だの空港関係者だのを考えれば多分ダース単位じゃすまないギロチンを思ったのか、ウナトが渋い顔を露わにした。おそらく鏡を見れば自分も同じ表情をしているだろう。ユウナは思い切り頭を抱えた。
これが普通の旅行で、友好的な国に向かうのであればこんな思いはしなかったろう。そもそもそうであるならばカナードを置いてくるという選択肢などなかったはずだ。
けれど今回の旅の目的はすこぶる政治的なものであり、なおかつ向かう先は大西洋連邦。コーディネイター排斥論の中心地とも言うべき国だった。そんな所にコーディネイターのカナードを連れていくなど、カモがネギ背負って鍋に突撃するようなものである。
ましてや。その先を思い浮かべてユウナは暗澹たる気分となった。
「…後でお仕置きコース、覚えてろ……」
甘い甘いと言われるユウナだが、さすがに今回の件を見逃すほどど甘ではなかった。こめかみを指で押さえて軋んだような呻きを洩らす。
ましてや、大西洋連邦での活動の中心地となるのは彼の国屈指の名門にしてこの世界の諸悪の根源。あのアズラエル家なのだから。