本当にすごい。
一通り研究所を回ったエリカ・ローレンスの心はそのひと言で満たされ切っていた。それほどまでにここで目の当たりにした技術の数々は凄まじいものがあったのだ。
フェイズシフト装甲、ラミネート装甲、パワーバッテリーにデュートリオン送電システム、ナノ技術によるビーム反射や量子通信システムドラグーン、他にも数え切れぬ新機軸の技術に度肝を抜かれていた。その一つでも実用化できればそれだけで世界が変わる、そう思える程にこの研究所は最先端をひた走っているように感じられたのである。
なるほど。これらの技術を搭載することができれば、モビルスーツが軍事常識を覆すという言葉もかなりの真実味を帯びてくるだろう。事実トダカなどは先ほどから真剣な顔でジャンに実用化の見通しを尋ねていた。
「少なくとも機体の完成まで後数年はかかります。何しろあまりにもノウハウがなさすぎるのですからね。きちんとデータを蓄積しなければ、どんなことが起こるかわかりません」
「ま、公試でいきなり空中分解されても困るからね」
ここは研究所内に設けられたカフェテリアである。ガラス張りの天井からはオーブの強い日差しが入り込み、室内は明るい空気で満たされていた。エリカは注文した紅茶をすすってイチゴのショートケーキを口に運ぶ。社員食堂的な代物とは思えないほど繊細な味わいが舌で踊った。思わず瞠目する。
「お気に召しましたかな? ここのパティシエは一流でして、私もよくケーキを食べて帰るんですよ」
ジャンがにこやかにガトーショコラを口に運んだ。渋い外見に因らず随分と甘党のようだった。本当に美味しそうに食べる。
「食べ物に妥協しない。美味しいものこそわが人生よ」
ちなみにユウナの前には胸やけがしそうなほどの菓子の山が積まれていた。ケーキからパイ、ワッフル、パンケーキにパフェとある意味で女の子の夢が一杯の光景である。ちょっとつまもうとしたら烈火のごとき怒りをぶつけられた。金持ちのくせに、ケチである。
「まあ僕個人の趣味ってこともあるけど、やはり食事は人間の基本だからね。美味しいものを食べてもらった方が研究もはかどるってもんよ」
もしゃもしゃとクリームをむさぼりながら言われてもあまり説得力はなかったが、意味としては理解できた。そして同時にその言葉で確信に至る。
つまりこのアストレイ研究所の意思決定に、ユウナ・ロマ・セイランという人物が非常に大きな決定権を有しているということだ。先ほど回ってきた各研究室のいずれにもユウナが軽い概要を付け加えてきたことからもうすうすそうではないかと思っていたのだが、やはりこうはっきりと見せつけられるとやはり複雑な思いを禁じ得なかった。
ナチュラルとコーディネイター。比率としては後者が多いようだが、それでも両者かなりの人数がここに努めている。昨今の世界情勢を鑑みれば問題が多発してしかるべきはずなのだが、不思議なことにこの研究所はひどく穏やかな空気が流れているように感じられた。
ユウナいわく「ナチュラルだから見下すような人やコーディネイターだから差別するような人物は面接段階で首ちょっきん」の効果が表れているようだった。
ジャン所長も三人の博士たちも、彼の要求には忠実に従っている節がある。それが単なるスポンサーへの義理というだけでないことくらいエリカには容易く察することができた。
自分とは大違いだ。
何一つ決められない、ただ流されるまま生きてきた自分とは、全然違う。
「何じゃ、お主らも休憩か?」
鬱屈した感情にとらわれそうになった刹那、聞き覚えのあるしわがれた声が耳を打った。
「誰かと思えば三爺じゃない。お揃いでお茶でもするの?」
「こりゃ、誰が爺じゃ。わしゃまだ四十だぞ」
「はは。確かにユウナ殿から見ればお爺さんなんだろうけど、そうはっきり言われると傷つくね」
「ふん、わしなんかまだまだ現役のぴっちぴちじゃわい」
瀬川博士、モリセイワ博士、ノストラビッチ博士の三人が苦笑しながらこちらに手を振った。そのまま相席する形で椅子に腰を下ろす。
「どうじゃ、この研究所は。色々とごたついとったろう」
一通りの注文を済ませた瀬川が笑いながら問いかけた。エレンとトダカはそれに苦笑しながら同意する。エリカもまたイチゴにフォークを突き立てながら頷いた。
「そうだろうね。確かにここは幅広く研究を行っている場所だから、混乱するのも無理はない」
「どっかの金づるが厄介な注文ばかりしてくるからじゃ。小槌は小槌らしく黙って振られておけばええのに」
「ロシア人のくせに何で極東の小話引用してるんだろうこの人。ていうかこっちとしては血反吐出そうなほどの金を注ぎ込んでるんだから、ちょっとくらい我がまま聞いてくれたっていいじゃない」
「この研究所が余所で何と言われてるのか知っとるか? 我がまま御曹司の玩具工場じゃぞ?」
「あながち間違ってないから困るねえ。ていうかそんな噂でも流れてないと、既得権益侵されたと考える連中が妨害工作かけまくってくるし。いいんじゃね?」
サハクとかモルゲンレーテが怖いんよ。ユウナが扇子を広げてかかと笑った。瀬川とノストラビッチは嫌そうな顔を隠そうともせず大きなため息を吐く。
「いやいやいや、そんな顔されても。実際利権争いって怖いんだよ? サハクとかグロードとか洒落にならないから。この研究所が普通に運営できてるのも、モビルスーツが傍から見たら道楽としか思えないからなんだから」
「つまり世間様から見ると、わしらは道化ということじゃな」
「まあ我々としても面白い仕事をさせてもらっているわけだから、あまり文句はないのだがね」
「金払いも良いしの」
そういう問題ではなさそうな気もするのだが、エリカは何も言わずに沈黙を保った。両親がアレだったせいか、頭に筋金入りがつく学者の生態には普通より詳しかったからである。
…まかり間違っても彼らの様に仕事一筋にはなるまい。エリカは心にそう誓った。家庭と両立してこその人生である。
「おかげでこちとら金欠なんだけど。とっとと結果出せやコラ」
「馬鹿を抜かすでないわ。大体本格的に研究ができるようになったのはここ数カ月のことじゃろうに。こういうのはもともと時間のかかるもんなんじゃ」
ユウナのもっともな意見に、これまた正論のノストラビッチが返した。両者とも相手の言い分を認めたうえでの軽い皮肉であったのだろう。その顔に焦りも苛立ちも存在しない。
ふう、と無意識のうちにため息が出た。それを聞きつけたのだろう。ちらりと御曹司が自分を一瞥する。
「ね、エリカさん。この研究所についてどう思った?」
「…え? わ、私ですか?」
そうそう、とユウナはにこやかな笑顔で頷く。どう思う、と言われても。ひどく先進的で興味を引かれるものだったという程度の感想しか持ち得ていない。エリカはまだまだ駆け出しの技術者であって、一流の研究者でもなければ経営者でもないのだ。
「ふむふむ、興味を持ってくれたのは何よりだね。そいじゃエリカさん、ちょいとここで働いてみやしませんかい?」
「…は?」
何を言っているのだろうか、この人は。
「ほう、やはりユウナ様もそう思われましたか。いやいや、私もどうやって誘おうかと頭を悩ませていたところなのですよ」
「確かにの。そこのお嬢さんは一番熱心に見学しとったようじゃし、質問も的確じゃった。なかなか見所があるとわしは思うぞ」
「何よりも花があるね。むさくるしい親父たちといるとなお一層そう思える」
「それはこっちの台詞じゃ。どうじゃなお嬢さん、わしの研究室にこんか?」
貴様は数学者じゃろうが! 瀬川が呆れたようにこめかみをたたいた。するとジャンが工学者であることを理由に自分の研究室に招こうとし、そうはさせじとモリセイワが量子力学の良さを説く。
一体何がどうなっているのか。エレンとトダカは我関せず、むしろどう転ぶか期待してすらいそうであった。他人ごとだと思って。
「あ、あの! 私はまだ学生で…卒業もまだなんですけど」
「なら嘱託なり助手なりの扱いでも一向に構わないよ? 勿論卒業後は正規雇用で」
「ですから! その、私なんかが入ってもお役には」
「立つとも。少なくともこの四人を虜にできる貴方を無能だとは誰も断ぜるわけがないでしょうや。まあエリカさん個人の意思もあるから、強制はできないけれど。…いいねジャン博士、三爺」
「それは当然でしょう。言うまでもありますまい」
「あたりまえじゃ。というか三爺と一括りにするでないわい」
打てば響くように、とはまさにこの事ではないだろうか。あらかじめ打ち合わせでもしていたかのような連携だった。
エリカは困惑していた。はっきり言って彼らほどの傑物たちに絶賛されるほど自分の能力に自信を持てていなかったのである。幼いころからコーディネイターというだけでいじめられ、また両親もエリカ・ローレンス自身ではなくコーディネイターとしてのエリカしか愛してくれなかった。確固たる自分のない彼女が、きちんと目的を持って二本の足で立つ彼らと並ぶなど、想像すらできないことであった。
わからない。自分が何をするべきなのかも、そもそも何をしたいのかすら。一つとして決める事が出来ないのだ。
「…ああ。そうだったね。うーん、となるとだ…前言撤回」
悩むエリカを見て、何かを思い出したかのようにユウナが手を打った。そしてぴしりと扇子の先を突き付けてさらりと言った。
「エリカさん。うちで働きなさい。これ命令、五大氏族的な何かの」
は、と再び間の抜けた声が漏れた。またもや何を言い出すのだこの人は。
「…ユウナ様。先ほど全く正反対のことをおっしゃっていませんでしたか?」
「お主…そんな舌の根も乾かぬうちから堂々と…」
「ええい、黙らっしゃい! 僕だってポリシーに逆らうようなことなんてしたくなか! ばってん仕方なかとね!
はいエリカさん嘱託研究員として採用しました、異議は認めません! よろしい?」
「え、あ、はい」
思わず頷いてしまった。勢いにのまれたわけではない。けれど何となく、拒否することができなかったのである。
何故、唐突に強要の形をとったのか。まるでこちらの心の内が読めていたかのようなユウナの変貌に、驚くのと同時に棘のような気味の悪さが突き刺さった。同時に湧き上がるのは安堵と喜び、そしてよくわからないもやもやとした感情。負のものではない。しかし正のものでもない。文字通り不明なものであった。
ごちゃごちゃと散らかった心を押し殺して、エリカはもう一度頷いた。
「その、御命令なら従います…」
「お待ちになってエレンさん! ちゃうねん、仕様がないねん。これには抜き差しならぬ事情があってやめて耳がちぎれそうなほど痛い痛い痛いー!」
「ユウナ様? 権力を楯に女性に迫るだなんて最低ですよ?」
「だからこれには深い事情があいたー!」
笑顔なのにとても怖い女性に耳を引っ張られ、ユウナは悲鳴を上げた。どうするべきかわからず茫然としていると、ジャンがまあまあと仲裁する形で話を先に進めようとする。
「それでユウナ様。どこの研究室に配属されるおつもりですか?」
ふとエリカは、ジャンの様子に小さな違和感を覚えた。平静を保ってはいるが、どことなく苛立った――否、焦れたような印象を感じさせるものがあったからである。
それだけではなかった。エリカは遅ればせながら事態の異常性に気がついた。静かなのだ。先ほどまで職員たちの雑談で満ちていたこのカフェテリアが、痛いほどの静寂に包まれているのである。見れば先ほどまで茶を楽しんでいた白衣の集団が、目を真っ赤に染めてこちらを凝視していた。ものすごい形相である。
「ん、あー。どうしよっかなあ…」
ごくりと、誰かが喉を鳴らした。
「エリカさん、技師だから…とりあえずジャン博士の研究室で。その後いくつか回ってもらって、最終的な配属は本人の希望に沿う形で行こうか」
「っぃいやったあああああああああああああ!」
歓声が爆発した。幾人かの職員が涙を流さんばかりに立ち上がり、天への祈りをささげていた。彼ら以外は、まるでこの世の終わりを見たかのように顔を暗くし、テーブルに突っ伏している。
え、何なのだろうかこれ。ジャンに訊ねようと口を開きかけて、しかし何も発することなく閉じられた。何となれば白髪の男もまた無言で天を仰ぎみていたからである。
「何じゃ、結局所長の所か」
「とはいえ、まだ試用段階だからね。機会はあるさ」
「そうじゃな。嬢ちゃん、楽しみにしとるよ」
三博士は苦笑しているだけなのに、どうしてこうまで温度差があるのだろうか。氷山の様な疑問が浮かんだが、それは喜び咽び泣いている職員たちの言葉によって、ものの見事に爆砕されてしまうこととなった。エリカの幸せな未来像と共に。
「これで、これで家に帰れる! ミサキ、ようやく君のご飯が食えるぞおおおおおお!」
「シフト、楽になる、シフト! 寝れる! 寝れる! 寝れる!」
「新入社員なのに手取りが基本給の倍…! 残業…! 労働基準法違反…! 帰れる!」
血の気が引いた。ばっと髪が乱れる程の勢いでユウナを振り仰ぐ。すごく笑顔だった。舌を出してサムズアップ。ジャンを見た。眼鏡をはずして目がしらを押さえていた。三博士を見る。とても生温かい、孫を見るかのような視線だった。
何これ。本当に何これ。
「あの、私やっぱり」
「あはは、やだなあもう、エリカさんたら」
立ち上がり叫ぶ自分の台詞に被せて、ユウナがいつもと同じように――なのだが、まるで地獄の底から聞こえてくるように思われた――朗らかに笑った。
途端に全身に刺すような視線と言い知れぬ圧迫感が襲いかかる。いつの間に近づいたのか、職員たちが手を伸ばせば触れられる位置でエリカを取り囲んでいた。顔は能面の様で意思と言うものが感じられない。やばい、身の危険をびんびんに感じた。
「もう逃がさないぞ?」
ああ。なるほど。今日、エリカは幾つもの大切な事を学んだ。その中でもひときわ輝き、胸の中で燃え盛るものがある。
これが殺意か。