『夜の街って言っても、クリスマスの夜は流石に雰囲気が違うわね』
『まあカップルの皆様が仲睦まじく親睦を深めている最中だからな。そこらじゅうで他人が近寄りがたい雰囲気を発しているんだろうさ』
二人は夜の街を歩いていた。
適当な店を物色して回り、何か気に入った物があれば懐の許す範囲で買っていた。
とはいっても細々としたアクセサリー程度しか買っていないのだが……
『ふーん。じゃあ私達はどうなんだろうね』
『別の意味で近寄りがたいんじゃないか。俺とお前の口論に口を挟もうとは思わないだろうからな』
『あー、本人の目の前でそういう事を言うかなー』
『事実だろー』
軽口を叩き合いながら二人は街の中を歩き続ける。
なんとなく、本題を話しにくかった。
だからこんな風に取り留めのない会話が続いて、いつも通りの世間話に発展していく。
『そういえば、そろそろだったか?』
『何が』
『アセンブラの実演。先生の体調が悪くて時間がずれたって言ってたのはお前だろ』
今日、クリスマス・イヴの夜。
ドレクスラー機関の研究所では彼らの先生のチームが開発したアセンブラと呼ばれる第二世代ナノマシンの実演が行われる。
二人にとっても先生は恩師であり、その彼が多大な努力を重ねて作り上げたアセンブラ。
実演の成功は願って止まないところだった。
『レインの親父さん―――桐島大佐もそれに出席するんだよな』
『うん。ほんとは実演の後の予定だったんだけど、急に先生の体調が崩れちゃったみたいだから前倒し。
その割には先生も元気そうに私を送り出してくれたんだけどね……うーん、何か心配』
『止めておけ。お前が手を出すと無駄なお節介が働きすぎてみょうちくりんな方向に事態がぶっ飛びかねない』
『……貴方、私を何だと思ってるのよ』
他愛のない会話が続く。
そのまま街中を歩き続けて、ちょっと奮発して食べ歩きをしたり、そんな事を繰り返した。
どこかぎこちない、それでも楽しい時間が過ぎていく。
そして―――
その時が、やって来た。
遥か彼方。
夜闇を切り裂く眩い光が落ちてきた。
『……え?』
呟いたのは誰だったのか。
周囲でざわめいていた人々は全て、何かに呼ばれたかのように上空を見つめた。
降り注ぐ光条。
雲を突き抜け、大気圏の外側から振り下ろされてゆく光の鉄槌。
―――グングニール。
どこからか聞こえたその言葉を皮切りに、莫大な衝撃音が鼓膜を震わせた。
『に……に、逃げろぉぉおおおおお!!!』
誰かの叫びに呼応するように一斉に人々が動いた。
グングニール―――衛星軌道上に存在する対地レーザー砲の破壊力は核に匹敵する。
それが二度、三度と絶え間なく今も降り注いでいるのだ。
逃げる。今すぐにこの場から逃げなければならない。
『ぐ、空っ……!』
『行きましょう、私達も早く!』
駆け出す。
押し潰されそうなほどの人の波に紛れながら、必死に迫る破壊から逃げていく。
阿鼻叫喚の地獄絵図の中、二人はお互いの手を放す事なく走り続けた。
しかし、異変が起こる。
突如として、頭に異常な痛みが奔ったのだ。
『が、ぁ……っ!!?』
『ぁ……な、に……っ!?』
脳が熱を持つ。限界を超える情報が流れ込み、耐え切れない負荷が痛みとして悲鳴を上げる。
流れ込む。刻み込まれる。組み替えられる。
繋がる感覚と、増幅されていく何か。
二人にはこの感覚に覚えがある。
だが、それはありえない。
彼女が凍結されている以上、起こりえないはずの現象なのだ。
だからこそ思う。これは何だ?
『邪魔だ、どけぇ!!』
痛みのあまりに周囲に注意を忘れ、一人の男性が二人の間を突っ切って行った。
互いの手が、離される。
『そ、らっ……!!』
『こぉ、ぁっ……!!』
痛みに呻きながらも、必死に手を伸ばす。
互いの手を離さないように。繋ぎ止めるために。
だが、無情にも光の衝撃が二人の身体を吹き飛ばした。
周囲の人々も衝撃に巻き込まれて紙屑のように飛んでいく。
悲鳴を上げる脳。寸断される意識。
視界が白に潰されて轟音が全てを掻き消していく。
何も分からない。何も考えられない。
それでも、二人は互いの名を叫んでいた。
『空ぁぁああああああああああああああああああああっっ!!!!』
『甲ぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっっ!!!!』
その直後。
衝撃と熱風が全てを呑み込み、吹き飛ばした。
第二章 背反 -contradiction-
「このっ、連絡の一つくらい寄越さんかぁぁぁあああああああああああああああっっ!!!!」
ノイの診療所に辿り着いた二人は、そこで盛大に怒鳴り声で出迎えられた。
肩を怒らせて剣呑な表情で詰め寄るノイにコゥとクリスも出鼻を挫かれる。
「何の音沙汰もなく早数年。やっと顔を見せたと思えば今度は論理爆弾を喰らっただと?
まったく、君達は医者を便利屋か何かと勘違いしていないかね」
「いや、確かに連絡を入れなかったのは悪いと思っていますが、ノイ先生を巻き込む訳にも……」
「シャラップ。
確かに普段なら面倒事を持ち込むなと言うところだが、君達は私が受け持った患者だ。最後まで面倒を見る義務があるのだ。
それに、まだまだ君達は若い。もう少し年長者を頼れと言いたいのだよ」
彼女にしては珍しく完全にお冠だった。
二人にしても彼女がここまで怒るような場面を見た事は無い。単に過ごした時間が短かっただけかもしれないが。
とにかく、それくらい彼女は怒っていた。
だからコゥが取れる手段といえば―――頭を下げて謝るしかなかったのだ。
「―――すみませんでした」
「……あまり深く首を突っ込もうとは思わん。が、あえて聞いておこう。理由は話せるかね」
それを無碍にする事はしない。ノイとて何らかの事情がある事は理解している。
「正直、俺としても訳が分からない。ここ数年を奴らとの攻防に費やしてきましたが、俺が狙われる理由がいつも抽象的かつ一方的ですから」
「迷惑な話だな……相手の正体くらいは分からんのかね」
「……性質の悪いカルト集団ですよ。教主自ら俺の首を獲りに来て、それからずっと付け狙われています」
「流石にやられてばかりは性じゃないから、仕返しとばかりに噛み付いているけどね」
それを聞いて、ノイは得心顔で頷いた。とりあえず今の会話で納得のいく部分はあったらしい。
クリスは肩をすくめて、コゥは溜息を吐いた。
自分達の着ている者は軍服であり、少し調べれば現在の職くらいは見当がつくだろう。
そこから少しばかり噂話などを集めていけばおのずと自分達の行動も見えてくるはずだ。
これが今でき得る限りの最大譲歩だ、と話題を切る。
ノイもそれに対して特に異論はなかった。
「さて……それでは診察を始めるとするか。この数年間、経過を報告しなかった分も含めてみっちりと診てやろう」
「げ……」
連絡入れておけば良かった……
その時ばかりは本気でそう後悔したコゥであった。
◇ ◇ ◇
目が覚めると、くすんだ天井が見えた。
「ぁ……れ……」
何時の間に寝ていたのだろうか。
空が力の入らない首を緩慢に動かすと、安い色彩の壁が目に入った。
身体に意識をやると真下から何かに持ち上げられている感覚がする。シーツが見える事を考えるとベッドの上だろうか。
意識を失う前の前後を思い出そうとする。
「私……」
ドレクスラー機関残党のアジトを突き止め、そこに強襲し、データを持ち帰って……
「っ……」
そこで、思い出した。
自分が見たもの―――否、体験した事を。
一二月二四日、クリスマス・イヴの夜にあった、あの悲劇を。
だが、
「記憶が二つもあるって、一体何よ……」
呟いて、自分でも訳が分からなくなった。
本格的に脳チップのバグや故障を疑う。
片や、門倉甲が生きながらアセンブラに融解される記憶。
片や、彼と自分が共にグングニールに巻き込まれる記憶。
「……どうせなら、あいつが生きている記憶でも思い出せばよかったのに」
言って、また違和感を感じる。
無意識に思い出すと言ったが、この場合はどちらが正しい記憶なのだろうか。
そう考えて―――無意味だと断じた。
どちらにせよ悲劇的な結末である事に変わりはない。アセンブラにしろグングニールにしろ、彼はそれに巻き込まれて……死んだのだ。
その事実に変わりはない。
だから、今はそちらを考えるべきではない。深みに嵌れば何かがずれてしまいそうな気がする。
と、部屋のドアを開けてレインが入ってくるのが見えた。
彼女は目を開けている空を見るなりほっとした表情を浮かべてくる。
「中尉……良かった、目が覚めたのですね」
「ええ。また苦労を掛けたみたいね、レイン」
おそらくはレインが一人で自分を背負ってここまで運んできたのだろう。
いつも苦労を掛けっぱなしだな、と思う。
今まで彼女の補佐がなければどこで野垂れ死んでいてもおかしくはなかったのだから。
「今は休んでください。きっと神経パルスの影響もあると思われます……明日にでも、医者に診てもらう事にしましょう」
「そうね、今は休ませてもらうわ……と、言いたいところなんだけど、これを見てくれるかしら」
空はなんだかんだとレインに渡し損ねていた施設で手に入れたデータを送りつける。
データを受け取ったレインは暫くその視線を中空に彷徨わせて―――やがて、その表情が険しいものになった。
レインも自分と同じ物を見たのだろう。深刻な雰囲気を漂わせている。
『……最悪ですね。既に指揮官(コマンダー)を除いて完成しているようです』
『大した執念だわ。そこまでして大虐殺を起こしたいのかしらね、奴らは』
レインから纏められた情報を受け取りながら重く溜息を吐く。
そう、今はやるべき事がある。
ドレクスラー機関を追い、久利原直樹に真実を問い質す―――それまで立ち止まる事はできない。
立ち止まる訳には、いかない。
そう強く想い、懐にあるカートリッジを空は握り締める。
『……私からはこれだけ。他には何かあるかしら』
『いえ、取り急いで報告するような事はありません。どうぞごゆっくりお休みください』
『そう……じゃあ今度こそ、お言葉に甘えさせてもらうわ……』
いい加減に重い瞼を閉じていく。
頭痛に痛む頭に悩まされながら、それでも意識は泥に沈むように引きずり込まれていく。
精神的なショックが大きかったのか……まだまだ疲れは取れていないらしい。
一つ溜息を吐く。
「おやすみなさい、レイン」
「おやすみなさい、中尉」
ありがちな就寝の挨拶を最後に完全に意識を繋ぎ止める努力を放棄する。
そして、崖に落ちるような感覚と共に意識のブレーカーが落ちた。
◇ ◇ ◇
暫くの後、コゥは診療台でぐっすりと眠っていた。
あどけない寝顔……いつもなら周囲への警戒で凝り固まっていた寝顔とは違う、随分と久しぶりの寝顔。
それを、少し複雑な気分でクリスは眺めていた。
「ナノマシンで脳チップを修復ね……とうとう中に入り込んで人体の特定箇所を弄れるレベルにまで達したのね」
「正確には安全性がほぼ確立された、という事だな。技術自体は前からあったものだが、その安全性の確保にも相当な年月を必要とする。
技術というものはそうやって初めて世間の矢面に立つ事が許されるのだ」
「なるほどね……さしずめ、今の彼に使われているのは限りになく白に近いグレー、といったところかしら」
言いながら部屋を見渡す。
所々に見える医療器材や奥に見える水槽は数年前には見られなかった物だ。おそらくは自分達のいない間に運び込まれたのだろう。
流石に様変わりしているものだと思いながら、クリスは言う。
「……それで、彼の事はどこまで知っているのかしら」
「どういう事かね」
「数年前、貴方は彼がここを出ていく事を察知していた。あの短い期間の間で、彼の人格を理解していた。
そしてそんな彼がこの場所から離れる事を決意するようなことが起こった事も―――そこまで察しの良い貴方だから、ある程度は予測や調べがついてると思うのだけれど」
「……なるほど。彼の思慮の及ばない部分は、見事に君がフォローしてくれていた訳だ」
飲むかね、とノイがコーヒーの入ったマグカップをクリスへと向けた。
彼女はそれを受け取ってちびちびと飲み始める。
―――熱い上に、苦い。
ミルクなど全く入っていない完璧なブラックコーヒーだった。
「ははは、そう渋い顔をするな。五感への刺激は眠気を覚ますのにも効果的なんだぞ」
「そういう話をしているつもりじゃないんだけど」
「悪い悪い。さて、本題は私がどこまで知っているか、だったな」
ノイは視線を中空に投げると、おもむろにクリスへとデータを送りつけた。
とりあえずはこれを見ろという事なのだろう。クリスは送られてきたデータを開いて視界に表示する。
そこに現れたのはあるデータの羅列だった。
言うなれば簡易的な履歴書のような物。おそらくはノイによってまとめられたであろうそのデータの主は……
「門倉甲。
『灰色のクリスマス』以前は星修学園の学生として生活していたそうだ。住居は如月寮で、シュミクラムを使ってアリーナに出場したという記録も残っている。
経歴自体は平凡そのもの。家族事情が少々特殊なようだが、取り立てて説明するような事ではないな」
「……やっぱり、ある程度は調べがついていたのね」
中には、彼女の知らない彼の情報も記されていた。どちらかといえばそちらの方がほとんどだ。
星修学園の生徒で、アリーナの出場記録あり。門倉家の一人息子で、母親は電脳症で他界、父親は傭兵稼業。
父親と母親の名は―――
「門倉永二と、門倉八重……?」
誰にも聞こえないほどの小ささで呟いた言葉には、想像以上の重みがあった。
寒気がした。
それ以上に、どこかに納得がいった。
覚えのあるこの二つの名前。彼が、コゥが彼と彼女の息子であるというなら、それはつまり―――
「む、どうしたのかね」
「いえ……何でもないわ」
頭が痛くなりそうである。
自身の祖父―――グレゴリー神父が何故彼を狙うのかは分からない。
だが、これだけははっきりと言える。
「……貴方は、想像するよりもずっと、重い何かを背負っているのかしらね」
言いながら、安らかに眠る彼の髪を撫でる。
門倉永二と、門倉八重。そしてグレゴリー神父。
この三人を結びつける因縁と、それらと繋がりを持つ自身とコゥ。
「知った時、貴方は何を思うのかしら……」
知れば、おそらく単純な危機回避が目的ではなくなるだろう。
あの神父が以前の神父と同じという保証はどこにもないが……彼は、知って放っておける性格をしてはいない。
数年前と違い冷酷さを身に付けていたとしても、根っこがお人好しなのは変わらなかった。
「……それに」
今の彼は、記憶を回復させるための処置を受けている。
数年経って進歩した技術は、自然回復を待っていた彼の記憶を手繰り寄せる事が可能になっていた。
記憶遡行。
まるで映画を見るかのような感覚で、彼は過去の記憶を夢という形で体験し、思い出しているのだろう。
クリスの知らない、門倉甲を。
それを思い出した時……彼は何かが変わるのだろうか。思い出した事で、知人に会いたいと思うようにはならないだろうか。
そうやって日常に回帰していって……そこで、自分はどうするのだろうか。
「まったく、無様ね」
そう自分を断じた。
元々自分は誰かに依存しやすいとはいえ、いくらなんでも安直過ぎはしないだろうか。
「おそらく夜には目を覚ますだろう。君もそれまでくつろいでいると良い」
「そうね……数年振りなのだし、少しくらい様変わりしてないか探索してみようかしら」
踵を返す。
クリスは最後にコゥの寝顔を一瞥して、店内を物色する作業に入った。
◇ ◇ ◇
―――夢を漂う。
『……青い空。舞う桜の花びら、か。出来すぎな春の光景だなぁ』
『おい、甲、何呆けた事言ってんだよ。そんな場合じゃないだろ?』
懐かしさで胸が締め付けられた。
今、自分が見ている―――いや、体験しているものは過去の出来事。
それでも、記憶の中の友人と再び会う事ができた。知る事ができた。
須藤雅。
彼が星修学園に入学してから知り合った親友。
確か、彼女を見つけてやると言われていたが未だに見つかっていないんだっけか、とおぼろげな記憶の糸を手繰り寄せる。
『しかし、いきなり『荷物を纏めて出て行け』だもんな。ったく、いきなり廃寮なんてアリかよ?』
『仕方ないだろ? 住んでるヤツの半分が不正アクセスの現行犯で捕まったんだから……』
親友と言葉を交わしながら、彼は桜の散る土手の道を歩いていく。
―――ノイズが奔る。
『ううっ、甲ぅ……甲~~ぅっ……ふぇええええっ……』
『なっ、泣くなっ……! ちょっと、そりゃ、大袈裟すぎるだろっ……!』
抱きとめた幼馴染が泣いていた。
若草菜ノ葉。
小さい頃は何かと付き合いが多かった少女。
そういえば得意料理はニラ系列のものだったか、と胸焼けするような光景を浮かべた。
―――ノイズが奔る。
『一応、事情を説明してくれる?』
『ネットに潜りすぎた。こっちに戻ってきたら空腹でダウン』
食事を終えて満面の笑みを浮かべる再従姉が見えた。
西野亜季。
贔屓目で見ても天才だと言い切れるほどの技術を持った姉のような存在。
カゲロウは、彼女からプレゼントとして貰った物だと思い出す。
―――ノイズが奔る。
『シュミクラム対戦の仲間に……ならないか?』
『最初っから、そう言わんかぁああ~~~っ!!』
盛大な勘違いから彼女を思いっきり叫ばせてしまった。
渚千夏。
スポーツ万能で容姿美麗。彼としては、初めて真剣に異性として考えさせられた相手。
何かと大胆な行動が多かったなあ……と、今にしてみればかなり美味しい思いをしていたのだと痛感する。
―――ノイズが奔る。
『じゃあ、あの真ちゃん……でいいかな?』
《はい、嬉しいです。甲先輩っ! 先輩は私が電脳症だって分かっててもイヤな目で見ないんですね》
普通に接する事に目の前の後輩はとても喜んでくれた。
水無月真。
電脳症を患っている、ちょっと口下手な女の子。
彼女には色々と世話になっていたと感謝の念が湧いてくる。
―――ノイズが奔る。
『……頬にキスなんかしたら、今度はグーで殴るからね?』
『するかっ!』
出会いは、それはもう散々だった。
水無月空。
自分にとって、とても大切な存在だったはずの女の子。
何か……彼女とは、言葉で言い表せないほどに大変な事があった気がする。
―――ノイズが、割り込んでくる。
そこでも、彼は夢を眺めている。
彼女と共に、幾万、幾億もの数え切れない夢を眺めている。
『ん、こっちに意識が向いてるな』
『これもリンクを作った影響かしらね……今までのようにAIを経由したリンクとは違って、今回のは特殊だから』
何だ、何の話をしているんだ?
会話に耳を傾けようとしても、彼にはその内容が掴めない。
必死に聞き取ろうとしていると……不意に、彼女がくすりと笑った。
『焦らなくても良いのよ。今は分からなくても、その時が来たのならきっと理解できるから』
何を言っているのか分からない。分からないけど……分かる事はある。
彼女は、きっと俺を気に掛けてくれている。自分の存在を賭けて……なんて言葉が、本当に真実味を帯びていそうなくらいに。
そう思うと、彼は何故だかとても嬉しくなった。同時に気恥ずかしくなり―――多大な後悔の念が押し寄せてくる。
どうしてそんな気持ちになるのか、それすらも今の彼には分からない。
『今の俺達にできるのは、ただ眺めている事だけだ。願いを託して、夢を見続ける事だけ』
だけど、
『それでも、全てを終わらせるために……私達も力を貸すから』
『神父なんかに負けるんじゃねえぞ。ただ、あんまり情けないようなら、どこかからありがたい叱責が飛んでくるかもな?』
『……ちょっと、誰の事よ』
自分の見ている彼らがとても幸せそうなのは、自分でも訳が分からないくらい嬉しかった。
その光景を最後に、意識が沈んでいく。
漂う身体がまるで吸い上げられるように引っ張られて―――
そうして、夢から覚めた。
「……えっと」
目を擦り、まだはっきりしない頭で辺りを見渡す。
周囲に見える医療機器……一見しただけではどういった類の物かは分からない。
所々に資料や器具が置かれており、奥にはよく分からない物が踊っている水槽がある。
「あぁ……そういや、ノイのところに来てたんだっけ」
徐々に頭がはっきりとしてくる。
そう、自分はドミニオンを追っている最中にドレクスラー機関の施設へと襲撃を仕掛けた。
その最中、脱出に遅れて論理爆弾を喰らってしまい……脳チップは半壊。
治療のためにノイの元を数年振りに訪れてナノマシンによる治療を受けたのだ。
コゥは、その成果を確かめるように目を瞑る。
―――確かに、思い出す事ができる。
全てを思い出した訳じゃない……だけど、仲間達と過ごした記憶は途切れ途切れでも思い出す事ができる。
「あら、起きていたの」
と、思い出に耽るコゥへと声が掛けられた。
適当に店内を物色して回ったクリスが、戻ってきてみれば目を覚ましていた彼へと声を掛けたのだ。
「クリスか」
「その調子だと問題は特になさそうね。論理爆弾を受ける前に見たものは思い出せた?」
「いや……」
コゥが首を横に振ると、クリスは『そう』とだけ言って彼の隣にまで歩いてくる。
「けれど、仲間達の事は……少しだけだけど思い出せた」
「……そう」
返答には少しの間があった。
コゥの座る椅子に腰掛けるようにクリスがもたれ掛かってくる。
お互いが触れ合える距離。
静かな診察室の中、二人の手が重なる。
「どうするの。記憶が戻り始めた今、数年振りに顔を出す事もできるんじゃないかしら」
「自分の生死を偽装しておいて今更どの顔を出せって言うんだよ。空や千夏辺りにばれたら俺の命がヤバイ」
そう言って苦笑する。
死を偽装して、架空の戸籍を用意し、彼は名を変え生きてきた。
ほんの少しの情報を頼りに親戚の力を借りる事もできたのに、それをしなかった。
そうさせるほどに神父の狂気が常識を逸していたのか、それが彼の生来から来る性質だからなのかは分からない。
それでも、彼は選んだのだ。
仲間を巻き込まぬよう独りで戦う道を。
「そういえば、」
と、クリスがふと思い出したと声を上げた。
「貴方の知り合いの中に、西野亜季からカゲロウを譲渡されるような人物はいたの?」
「……そういや、そんな話もあったな」
クリスの言葉でコゥもその事を思い出す。
彼女が遭遇した、おそらくカゲロウタイプと思われる機体。
戦闘記録の映像でそれを見たが、あんな形状の機体を彼は知らない。
加えて、あの機体はおそらく両腕に装備されているブレードが主力武装だ。
千夏ならば格闘、それも蹴りに特化するはずだし、雅に至ってはあんな女性的な機体になるとは思えない。
カゲロウの自己進化ロジックによって変化した可能性もなくはないが……
想像する。
彼の知る範囲でシュミクラムを持っていなかったのは―――空、真、菜ノ葉、亜季、の四人だったはずだ。
しかし……
「想像できん……」
それが彼の素直な感想だった。
彼女たちがシュミクラムを身に纏い戦っている姿がどうしても想像できない。
ギリギリで空なら想像できるかもしれないが……他の三人については全くと言って良いほど無理だった。
そもそも、彼女達があんな戦場に出てきているなどとは考えたくない。
「とどのつまり、全く分からないって事ね」
「面目無い……」
記憶を取り戻したところで分かるような事ではなかった。
まだ完全に戻った訳ではなく、むしろまだまだ思い出せない部分の方が多いのでそちらに何かあるのかもしれないが。
「まあ良いわ。明日は少し気分転換をしましょう」
「何だ急に」
「そういう気分なのよ。聞いた話だとナノマシンによる脳の修復が進むにつれて記憶遡行も起こりやすくなるらしいわ。
何かの行動中にいきなり白昼夢を見られるのも迷惑なのよ」
「……それは、怖いな」
もしも戦闘中にでもそんな事態になってしまったなら……そんな事は、想像するだけでも恐ろしかった。
確かに、これは少し街でも見て回りながら様子を見た方が良いのかもしれない。
「すまん。迷惑を掛けるな、クリス」
「今更よ。貴方のお守りなんて、ここ数年で慣れたくもないのに慣れてしまったわ」
挑発するような笑みを浮かべながら言うクリスに、コゥも挑発的な笑みを返す。
そのまま話は終わりとばかりにクリスが立ち上がり、診察室と病室を隔てる扉へと歩いていく。どうやら向こうが彼女の寝室らしい。
クリスはその扉の手前で一旦立ち止まり、
「そうそう。彼女、貴方の朝食を楽しみにしていたから、そのつもりでいた方が良いわよ」
最後にそんな事を言って、病室の中に消えていった。
それを見ていたコゥは、視線を天井の方へと向けて頭を診察椅子に預ける。
今日は、色々とあった一日だった。
それでも何とか今日も生き延びる事ができて、明日を迎えるための眠りに就く。
(……冷蔵庫の中身、何があるかな)
そんな事を考えながら、コゥの意識はゆっくりと眠りに落ちていった。