彼の一日は病室のベットから始まる。
「ぬ……朝か」
柔らかなシーツの感触を肌に感じながら、朝日の眩しさに目を細める。
彼にとっての一日の始まり。
それは、ここ数日で少しは慣れてきた生活の始まりを意味する。
窓の外を見れば白い雲と輝く太陽、そして広がる青い空。
いつもと同じ、平和な一日の始まり。
おそらく今日も良い天気。
「あー……今日はノイ先生が治療をするって言ってたっけか」
ベットから身体を起こす。
隣を見れば、同じく白いシーツに身を包んですやすやと眠る銀の長髪を持った人形のような少女が一人。
彼女はここ数日、というか出会った当初から体調を崩していたのだがそれなりに回復してきた。
変な事さえなければ今日中には完治するだろうと彼ら二人を拾った医者も言っていた。
とりあえずまだ起きていないであろう二人の朝食を用意するために、名前も思い出せない少年は一歩を踏み出す。
前章<03> 邂逅 -encounter-
ジュウジュウとフライパンの中で数種類の野菜が炒められていく。
玉ねぎ、人参、キャベツ―――適度に塩を振られて味付けされたそれは、まごう事なき野菜炒めである。
少年は炒め終わったそれを用意した皿に盛りつけて適当な机へと運んでいく。
本日の朝食のメインディッシュである。
「うし、結構美味そうに仕上がったな」
現在の世間の状況故に手に入る野菜も少なく、どうしても見た目は貧相になるが仕方ないと少年は思う。
『灰色のクリスマス』の余波で経済状況まで混乱してしまい、まともな商品が店舗にあまり並ばなくなってきている。
適当に買ってきてくれと頼まれ買い出しに行ったのはいいものの、選べる商品が少なすぎて困ったほどだった。
野菜で言うなら選べる商品にニラが残っていたのだが……本能的にその選択肢は却下していた。どうやら自分はニラが苦手らしい。
「ぬ……美味そうな野菜の匂いがするぞ」
「ああ、ノイ先生。おはようございます」
食器を並べているうちに奥からこの店の責任者が出てきた。
ノイと名乗るこの少女はどうやら相当の腕を持つ医者のようで、ちょっとした情報から次々に症例などを挙げていくその様は圧巻だった。
外見とは裏腹に実に頼りになる人物だと少年は認識している。
……ただ、性格に少々難があるのが傷だが。
「今日は野菜炒めです。今ご飯をよそいますから、席に着いて待っててください」
「うむ、苦しゅうない」
どこの時代劇ですか、とツッコミを入れながら炊飯器の蓋を開けてふかふかのご飯を茶碗によそっていく。
立ち昇る蒸気が室内の温度を微妙に上げていき、室内ながらポカポカ陽気に包まれる。
そこで、もう一人の同居人が起きてきた。
「おはよう―――あら、もうご飯の準備ができてるの。用意が良いわね」
「おはようクリス。もうできるから座っててくれ」
「そうさせてもらうわ」
言って席に着くのは六条クリス。
倒れたところを少年が発見し、そのまま背負って共に荒野の街を彷徨った少女だ。
言葉の端々に少々棘が見え隠れするが、基本的に良い人物だと少年は思っている。
三つの茶碗に炊き上がった白米をよそい終え、それを机へと運んでいく。
少年が席へと着く頃には二人の手で取り皿とお箸が並べてあり、朝食の準備は整っていた。
二人にならって席に着き、三人同時に手を合わせる。
「「「いただきます」」」
これがここ数日で通例になった、少年の朝の風景である。
◇ ◇ ◇
「……で、これは何ですか」
「何と言われても……ナニだが」
「俺が言いたいのはそうじゃなくて、何で真昼間からそんなけったいな道具を取り出してるんだって事だよ!?」
昼下がりの頃、ノイの店に少年の絶叫が響き渡った。
住み込み治療の家賃として店の品出しを頼まれた少年だが、絶叫の原因はその品だった。
「どう見ても一八歳以下お断りな商品を堂々と未成年に扱わせるなよ!」
「何を言うかね。君くらいの歳になると既に経験している者がほとんどだろう、最近の若者ときたら」
「悪かったな最近の若者で! 生憎と俺は未経験だよ!」
「おや、記憶が戻ったのかね? しかしそれはそれとして童貞か。初々しい青い果実の筆下ろしというのも中々……」
「本人の目の前で変な事を考えないでくださいよ……! ていうかそれで手を出したら外見年齢的に犯罪ぶっちぎりだからな! 主に俺が!! あと経験云々は直感だ!!」
「何だ情けない。据え膳喰わぬは男の恥という言葉を知らんのかね? ロリコン認定書はどこに置いてきたのだ」
「知った事かよ!? そもそもそんな認定証を手にした覚えもねえよ!!」
「……仲が良いのね、貴方たち」
クリスはその様子を呆れ半分で見守っている。何だこの茶番、と全身で語っていた。
ノイが適当にボケると少年はそれに反応してツッコミを入れる―――どこからどう見てもただの漫才である。
少年の言い分も、まあ分からなくもないのだが……別に使う訳ではないのだから良いような気もするというのがクリスの意見だ。
そもそも、自分もあと少しでそういう事が公的に許される年齢になる。おそらくあの少年もほぼ同年代と見ていいだろう。
なので別に気にする必要もないと思うのだが……
「ええーいまどろっこしい! こっちに来い、私が手取り足取りナニ取りみっちり叩き込んでくれるわ!!」
「だからやらないって言ってるだろうが!? こっちの話を少しは聞けぇぇえええええ!!」
「……楽しそうだし、放っておいても良いかしら」
別に放っていたからと言ってこちらに実害がある訳でもないだろう。
そう思って傍観を決め込んだ。
無視を決め込んで自分に割り振られた段ボールの中にある商品をマニュアルに従って陳列させていく。
一つ一つを丁寧に並べながら商品概要にざっと目を通すのはなんとなくだ。
もしかすればそういう機会もあるかもしれないのだから別に見ていて損は無いだろうという魂胆はある。
クリスも年頃の女の子なのだ。こういう事にも興味はある。
……ただ、どうしても苛めたいという欲求が強いのだが。
「だあーっ、もう! クリス、お前も眺めてないで何か言ってやってくれ!!」
「良いじゃないの、幼女に迫られるなんて貴重な体験をしているんだから。いっそそのまま卒業してしまえばどうかしら?
その時は盛大にロリコンと罵ってあげるから」
「断固っ、お断りだぁあああああッ!!」
再度、店内に少年の叫びが響く。
神経の図太い三人は今日も平和に日常を満喫していた。
◇ ◇ ◇
「はあ……今日も疲れた」
深夜、少年はそう呟いてベットに身体を投げ出す。
スプリングがギシリと音を立てて重量のある少年の身体を受け止めた。
隣のベットでは既にクリスが眠りに就いている。
それを見て、そのまま視線を中空へと向けた。
朝には朝食を作って、昼には品出し、夕方には買い出しに行って、夜もまた食事を作る。
未だに自分の名前すら思い出せない状態だが、この現状にも随分慣れてきた。
それに、脳チップの治療も一通り完了したと今日聞いた。あとは放っておけば勝手に完治するらしい。
それでも記憶が戻る気配はないが……
「まあ、今の生活も悪くないさ」
もちろん、いつまでもここにいる訳にはいかない。
ノイに迷惑をかけ続けるのは心苦しいし、自分の知人や家族はきっと心配しているだろう。
記憶は戻らなくとも身元が分かればそちらに向かうべきだ。
そして、脳チップが修復されればネットへの接続が可能になる。
そのレベルまで回復したのならチップの情報の観覧も可能だろうし、ネット経由で身元を調べるのも容易だ。
「どうするかな……これから」
窓の外には星空が広がっている。
だが、その空は徐々に曇りつつあった。
『灰色のクリスマス』以降、破壊された建物などの塵が原因で核の冬のような状況になりつつあるらしい。
「アセンブラか……何か、聞き覚えがある気はするんだがな」
とにかくこれ以上平和な日常を掻き回すような真似は止めて欲しい。
そう願いつつ少年はゆっくりと目を閉じた。
『脳チップへの不正アクセス探知。
迎撃(インターセプト)モードを起動しますか?』
同時に、脳内に響いた警報で強制的に意識が覚醒した。
「なっ、何だ!?」
突如として鳴り響くワーニングに疑問を投げかけても返す声は存在しない。
ただ決められたプログラムの通り、迎撃モードを起動するかどうかを繰り返し確認してくるだけだ。
「く、そっ……!」
状況はまったくもって分からない。
そもそも記憶喪失のせいで抜け落ちている情報が多すぎる。これで状況を理解しろというのが無理な話なのだ。
その最中、突如鳴り響いた警報。
何も分からないまま、何も思い出せないまま。
「迎撃(インターセプト)モード、起動っ……!!」
与えられた唯一の選択肢に手を伸ばした。
全神経がここではないどこかへと引っ張られていく。
目の前がデータの羅列とグリッドの描き出す造形に飲み込まれていく。
頭の中でどこかが繋がっていく感覚。
少年に記憶がなくとも感覚が覚えている。ネットへと繋がり、埋没するこの瞬間。
懐かしさに身を浸し、感覚から記憶を引き出そうとし、
そして―――
「……ここは」
気が付けば、不思議な場所に立っていた。
少年は今立つこの光景に見覚えがある。あるはずの記憶と知識を引っ張り出す。
そう―――ここは中継界。ネットとネットが繋がる場所だったはず。
そこまで思い出して、彼はふとその光景に疑問を覚える。
確かに自分の知る中継界のそれと随分と似ているが……頭上に存在する果ての知れない穴など存在しなかった。
頭上でグリッドが描き出す、どこまで続くとも知れない穴。
自分の知識と食い違っている事に記憶との擦れ違いを感じ、
「ようこそ、門倉甲君」
見た事もない男が、目の前に立っていた。
「誰だ……お前は」
「知識に貪欲なのは良い事だ。その問いには答えをあげようではないか」
男が両腕を掲げる。
天を仰ぐように、宗教的な法衣に身を包んだスラブ系らしき大柄の男は謳い上げるようにその名を名乗った。
「私こそはドミニオンの教祖。神の教えを人類へと伝える仲介者、グレゴリー神父である。
……理解したかね?」
「訳が分からん」
何だつまらん、とでも言うように神父と名乗った男の表情は残念そうに歪んだ。
その仕草の一つ一つがどこか露骨さや演出を兼ねているようにも見えて、少年は男への警戒心を高める。
だがそれ以上に、
「……かどくら、こうって言ったな」
「勿論だとも。君こそ自分の名前を呼ばれた事がそんなに不思議かね?」
「いや」
別にそんな事は問題じゃない。
もしかすると記憶を失う前に縁のあった人物なのかもしれないのだ。記憶のない自分にその辺りは分からない。
ただ一つ収穫があったのは、自分の名前が判った事か。
かどくらこう―――門倉甲。
それが自分の名前だと言われて、ストンと胸の中に落ちる。
同時に納得できた。この名で呼ばれる事に自分は懐かしさを感じている。
そう―――俺の名は、門倉甲。
「で、その教祖様が何の用だよ。訳の分からない警報なんか鳴らしやがって」
「何……用と言っても単純だよ。とても簡単な事だ」
真っ直ぐに、神父の瞳が少年―――甲を射抜く。
その視線に、その目に、甲の背筋に寒気が奔った。
身が竦み、足が棒のように固まる。
神父の瞳はこちらを見ているようでまるで別のものを見ていた。
文字通り眼中にない。
彼の眼は無機質なガラス球のようで―――
「我がドミニオンの仇敵に、悪魔足り得る君に、神の慈悲を与えに来たのだぁぁああああああああああッッ!!!」
狂笑と共に神父の姿がぶれていく。
いや、重なり合うように別のシルエットが姿を現しつつあった。
「こいつはっ……!?」
「ふははははははははははははっ!! さあ、始めようではないか門倉甲君。これは未来の行く末を占う大いなる戦いであると心得たまえ!!」
そうして、神父の姿が消え、代わりにその数倍の大きさを誇る巨体が姿を現した。
漆黒の装甲に、どこか生物感が現れている機械の姿としては歪なフォルム。
両腕には巨大なチェーンソーを装備しており、その出で立ちは重戦車を思わせる。
―――パプティゼイン。
グレゴリー神父だけが持つワンオフのカスタム機がその姿を現した。
「シュミ、クラム……」
そうだ、知っている。あれは、あの鋼の肉体はシュミクラム。
ネットの世界で戦うための武器にして自分自身の持つもう一つの肉体……戦闘用電子体だ。
その戦闘能力は圧倒的の一言であり、とてもではないが普通の電子体で太刀打ちできるような相手ではない。
「どうしたのかね。君がそのままで神の寵愛を受けたいと言うのなら……私はそれに、全力で応えようではないか……!」
「っ……、くそ、冗談きついぜッ!!」
振り上げられたチェーンソーを前にして本能的な危険を察知した甲は即座に横へと跳ぶ。
その瞬間、ついさっきまで自分自身が立っていた場所に身の丈以上の大きさを持つチェーンソーが刃を回転させながら襲ってきた。
目標を失って床に叩きつけられたチェーンソーの刃がガリガリガリッ!! と不協和音の悲鳴を上げて接触面を削り取っていく。
その光景を見て、ゾッとした。
あんな物を人体で受けてしまえばどうなるかなどわざわざ想像するまでもない。
即座に背を向けて全力で走り出す。
「はははははっ! 得意のシュミクラム戦闘はどうしたのかね! それとも、このまま子羊のように逃げ惑うのがお好きかな!?」
「ああもう、何なんだよいったい!!」
状況が複雑すぎて訳が分からなくなる。
相変わらず記憶は戻らないし、脳チップが直ったと思えば変な神父に襲われている。
自分の名前が門倉甲だと分かって、あの鋼の巨人がシュミクラムと呼ばれる戦闘用電子体だというのは思い出せたが、それだけだ。
それ以外は全くの謎。襲われている理由など全く想像もつかない。
いきなり悪魔だの仇敵だのと言われてもさっぱりだった。
言っている事が突飛過ぎて偏執狂か何かかと疑いもする。
だが、今問題なのはそこではない。
「ほらほら、どうしたのかね。速く走らねば追いついてしまうが」
「そもそも追ってくるんじゃねえよキチガイ野郎……!!」
このままでは間違いなく自分は殺されるという事だ。
だが人とシュミクラムでは移動速度に差があり過ぎる。普通に走った程度で逃げられるとは思えない。
更に良く分からない警報に従ってここに来たが、あれが何を意味するのかすらも分からないのだ。
状況も分からず、抵抗する手段もない。
手も足も出ないこの状況で、それでも足を動かす事だけは止めなかった。
「はっ、はぁ、はっ……!」
背後から死神の足音が近づいてくる。
振り返ると手に持っている鎌で容赦なく首を切り落とされそうで恐ろしかった。
ただ迫る恐怖から逃げるために足を動かす。
だが、それも長くは持たなかった。
やがて中継界の端へと行き着き、それ以上先に進めなくなってしまう。
「おや、鬼ごっこはもう終わりかね?」
「っ、くそ……」
一歩ずつ、神父の巨体が近づいてくる。
床越しに伝わる振動がまるで断頭台へと上る音のように感じられる。
息が詰まった。
動悸が激しくなり、心臓が早鐘を打つ。
全身から嫌な汗が噴き出し、服がべた付いて気持ち悪い。
ネットのロジックはこんな不快な感覚まで再現してしまうもんなんだな、と甲は他人事のように思う。
神父がチェーンソーを振り上げる。
甲高い音で唸りを上げて回転する刃から甲は目を逸らさない。
目を逸らせない。
「ではさらばだ。実にあっけない幕引きだったが、これも神の思し召しであろう」
「……っ!」
一息に振り下ろされる。
迫りくる刃。
絶対的な死。
甲は目を閉じる間もなく迫るそれをただ唖然と見つめて、
そして―――
「伏せなさいッ!!」
飛んできた叱咤に身体が動いた。
固まっていた身体が生きるために動こうとする。
同時、重たく巨大な衝撃音と共に神父の機体が前のめりに吹き飛んだ。
「ぬ、お……!」
「おぉわぁぁああああああああああああああっ!!?」
チェーンソーなど比にならないほどの巨体がいきなり甲の頭上から降ってきた。
慌てて脚を全力稼働させて力の限りに横へと跳び退く。
まるで水泳選手の飛び込みのように跳んだ甲は、次の瞬間に襲ってきた巨体が倒れ込んだ風圧で更に大きく吹き飛ばされた。
そのまま床を二転三転と転げ回り―――五回ほど転がったところでやっと止まった。
「くそっ……次から次へと何なんだよ」
痛む身体に力を入れてなんとか立ち上がる。
と、
「何やら酷い厄介事に巻き込まれているみたいじゃない。貴方、実は記憶を失う前はとんでもない問題児だったりした?」
「その声……クリス、なのか?」
目の前で甲と神父の間に割って入るように一機のシュミクラムが佇んでいた。
スリムな外見に、どこか生物感を感じさせる機械には似つかわしくないフォルム。
更には両腕に装備された身の丈はあるチェーンソー。
神父の機体とどことなくに通っている、しかし全く真逆の性質を突き詰めたような機体―――グリムバフォメット。
その機体から、ここ数日で聴き慣れた少女の声が聞こえてきた。
「何で貴方が潜脳を受けているのかとか、あちらの方はどちら様なのとか、寝ていたところを起こしてくれてどうしてあげようかとか、言いたい事はたくさんあるのだけど……
まずはあちらの方にお帰り願わないといけないようね」
言って、クリスの機体―――グリムバフォメットの両腕に装備されているチェーンソーの刃が高速で回転し始めた。
神父の機体と同種の甲高い音が空間に響く。
状況を飲み込めていないのはクリスとて同じだ。
飲み込めていないが、ここ数日を共に過ごした恩人が命の危機に瀕しているのだ。
クリスが正体不明のシュミクラムの前に立つ理由などそれだけで十分だった。
しかし、
「ほお……悪魔を討ちに来たつもりだったのだが、思わぬ場所で思わぬ人物と再会するものだ」
その声を聴いたクリスの表情が凍りついた。
不自然に揺れ動いたクリスの機体に甲も何か不穏なものを感じる。
「クリス……?」
クリスの身体はシュミクラムに変換されており、その表情を窺う事が甲にはできない。
だがクリスの表情はこれまでにないほど驚愕に染まっていた。
彼女の視界にはフェイスウィンドウが展開されている。
その四角く区切られた小さい窓に映っているのは、相対する黒い機体の主。
甲にグレゴリー神父と名乗ったその男を見て、
「お爺、様……?」
「……は?」
呟かれた言葉は甲を更に驚愕させた。
お爺様? クリスの爺さん? 俺をいきなり襲ってきたあいつが……?
今までも随分とぶっ飛んだ状況だったがこの上更に場が混乱するなど思っていなかった。
というか……まさか、孫と一緒にいたから襲われたなんて下らないオチじゃないだろうな……?
そこまで考えて自分の否定する。
神父は『思わぬ場所で思わぬ人物と再会した』と言っていたのだ。つまりこれは意図せぬ会合という事になる。
「ああ、その通りだともクリス。久しぶりだね」
「う……そ、お爺様は、死んだはずじゃ……」
「確かに、私は一度死を迎えた。ある人物に頭をパイルバンカーで打ち抜かれ、西瓜のように破裂させてね。
しかし私は蘇った。予言通りに、世界を救済するために……!!」
その言葉に異様な狂気と鬼気迫るものを感じて甲は戦慄を覚えた。
言っている事が全く理解できない。
まるで全く未知の生物と遭遇しているような気分だった。
「そのために、君の後ろにいる彼は不要なのだよ。彼はこの世界に災いしか齎さない、まさしく悪魔と言える存在なのだ」
「っ、いったい何の根拠があってそんな事を言うのですか。私はここ数日を彼と過ごしましたが、そのような人物には見えません」
そして、クリスもクリスで甲には異常に映った。
たった二、三の言葉を交わしただけで普通に会話を成り立たせている。
それ以前に死んだはずの人間とこうも冷静に言葉を交わせるものなのだろうか?
甲はそうは思えない。
いつもならばひょっとすると気にしなかったかもしれない。
だがこの特異な状況とおかしな空気が甲に必要以上の警戒心を抱かせていた。
「人格は関係ないのだよ。彼は、その存在自体が災いなのだ。
そして神は彼の排除を望まれた……だからこそ、私は今、ここにいるのだよ」
「……分かりません。お爺様はいったい何をしたいのですか?
幼い少女を集めたり、大勢の信者と集団自殺を図ったり……私にその教団を継がせようとしたのは何故です! 何故私だったんですか! 何で……!」
何で、あんな中途半端で死んでいったのか。
クリスはドミニオンの次期首領として育てられ、ドミニオン壊滅と同時に捨てられた。
ドミニオンの札付きという理由で親戚の家をたらい回しにされ、どこからも拒絶され、孤独な生活を送ってきた。
思想もそれに準ずるものに教育されていて、一般世間に溶け込むのに随分と苦労した。
―――あんな思いをするのなら、いっそドミニオンの次期首領として最後まで育てられていた方がまだ良かった。
「お願いです……答えて……」
それが、彼女の中に長年わだかまっていた感情だった。
まだ幼く何の力も持たなかった頃、ただ状況に流されるままだったあの時、彼女に選択肢など存在しなかった。
あるがままを受け入れ、それでも前に進むしかなかった。
それ以外に生きる方法など、ありはしなかった。
だから彼女は答えを求める。
始まりであり、元凶である祖父―――グレゴリー神父その人に。
神父は相変わらず感情を映さないガラスの瞳でクリスを見ていた。
全てを見透かすような瞳で縋る彼女を見つめ……その口を笑みの形に歪めた。
「その意味を知って……クリス、君はどうするのかね?」
「え……」
唐突な問い掛けにクリスの思考が停まった。
神父はそれに構わずなおも言葉を重ねる。
「君が求めているのは自身の境遇に対する納得のいく理由かね? それとも目を背けるための言い訳かね?
それを得たところで君はどうなる。『そうだったのか。ならば仕方ない』と納得ができるのかね」
「それ、は……」
フェイスウィンドウ越しに見える神父の顔が狂気に歪む。
対するクリスは、無意識のうちに一歩後ずさっていた。
「実に滑稽! 君は自分自身が真に望んでいるものを、救いを理解してはいない!! だが、それもまた良し!
我が神は、誰一人例外なく、信ずる者には救いを齎されるであろうッ!!!」
この瞬間、甲は神父に対しての評価を狂信者と固めた。
ドミニオンは性質の悪いカルト集団だというのは彼も知っている。
信者の異常性はよくネットで噂になっているが……目の前の教祖はそれ以上だった。
「救いだなんて今更……私をこんな境遇に追いやり、小さな幸せすら奪い去った神を誰が信じるとでも!!」
「そこが大いなる間違いなのだよ、クリス。全てにおいて意味の無い事などないのだ。
君のその苦悩も、不幸も、全ては救いへと到達するための筋道なのだよ」
「そんな事……! そんな、こと……」
まるで蛇のようだった。
実に的確に神父はクリスの殻を掻い潜り、罅を作り、その隙間からぬるりと心の中へと踏み入ってくる。
心を暴かれる潜在的恐怖と嫌悪。全てを曝け出せる安堵感と解放感。怒りと憎しみ、希望と羨望。
それら全てが入り混じってクリスの心をぐちゃぐちゃに掻き回す。
自分が何をしたいのか、何を望んでいるのか、今なすべき事は何なのか、何のためにここにいるのか。
全ての思考が停止して感情の波に飲み込まれていく。
それを見て、神父の表情はより一層の笑みに歪んだ。
「今まで一人で辛かったろう……だがこれからは私もいる」
「ぁ……?」
「そこを退いていたまえ。その悪魔を滅ぼし次第、君は私と共に世界を救うのだ」
重い音を上げて神父の機体が一歩ずつこちらへと向かってくる。
甲の背後にもはや道はなく、これ以上の後退は不可能。逃げ場などない。
そしてクリスは、まるで金縛りにあったかのように身動き一つしていない。
「くそ……」
あの二人の間に何があるのか甲には分からない。
ただあの異様な雰囲気にクリスが呑まれている事は確かなのだ。
どうにもあの神父はクリスに手を出す気がないから良いものの……これでクリスまで殺す気なのだったらと思うとゾッとする。
が、依然として自分が命の危機に立たされている事実は変わらないのだ。
どうする……?
「さあ、審判が下される時だよ。門倉甲君」
圧倒的な優位に立つ者として神父が悠々と近づいてくる。
甲にこの状況をどうにかする手段は思い浮かばない。
できる事といえば早鐘を打つ心臓を抑えて、犬のように息を吐き出す程度だ。
死がやってくる。
身体が動かない。
そうして神父がクリスの横を通過しようとした時、
「……もう一つ、聞かせてもらえますか」
酷く抑揚のない声で、クリスがチェーンソーを神父の首元へと突きつけた。
「ふむ、何かね?」
そんな異常な、一息で自分の命が無くなる状況であっても、神父の態度はほんの僅かたりとも揺らぎはしなかった。
クリスは感情の伺えない声で、再び神父に問いかける。
「どうあっても、彼を殺すのですか」
「どうあっても、だ。彼は、確実に我らの神に対する反逆者となる。もはやそれは運命付けられた世界の真理、彼の宿命と言っても良い。
故に、彼はこの場で排除する」
そして、沈黙が降りた。
肌を刺すような沈黙が場を満たす。
甲にとっては生死の狭間を彷徨う気分だった。
自分の無力さに腹が立つ。この場で甲ができる事などただ見ている事だけだ。
そうして暫くのあと、
「……そう、ですか」
その言葉と共に、
「なら、私の答えは―――こうですっ!!」
クリスは神父の首に突き付けていたチェーンソーを振り抜いた。
だが神父はそれを見越していたように素早く機体を後退させて回避する。
再び、クリスは神父の前に立ちはだかった。
「私は、今更あの頃に戻りたいとは思わない! 私はこの日常が愛おしい! 私はここで生きていたい!
全てを失って、最後に残った小さな温もりを―――奪わせはしない!!」
「―――なるほど。それが君の答えかね」
クリスと神父、双方の機体が両腕の獲物を構える。
同時に、爆発的な殺気が溢れ出した。
「よかろう!! 我が孫をも惑わす悪魔の所業、今ここで断ち切ってくれようぞ!!」
「やれるものなら―――やってみなさいッ!!」
最初に仕掛けたのはクリスだ。
ダッシュで一気に距離を詰め振りかぶったチェーンソーを突き出す。
神父もそれに対抗するようにチェーンソーを打ち付けた。
回転する刃同士がガリガリと耳をつんざく不協和音を奏でる。
「ほうっ、真っ向勝負かね! 潔いと言いたいが、君の力では私に押し負けるばかりだが……!?」
「そんな事は―――百も承知よ!」
クリスの駆るグリムバフォメットはパワー勝負を前提とした機体ではない。
その機動力を生かした高機動戦闘と形態移行による戦術の切り替えにこそ真価がある。
「シフトッ!」
「ぬっ」
真下から蹴り上げるようにクリスの機体が回転し、神父の機体に一撃を見舞う。
同時にクリスの機体の形状が大きく変化した。
下半身が一見すればまるで蜂のような形状になり、両腕に装備していたチェーンソーが消えている。
更に、彼女の周囲では楯のような物が一つ宙に浮いて旋回していた。
「穿てッ!」
彼女の下した号令に従い楯がその姿をチェーンソーへと変じさせる。
独立して稼働するその武器は目の前の神父へ向けて突撃していく。
「ほう、ビットかね!」
「ビットだけだと思わない事ね!」
クリスの機体から六発のミサイルが放たれる。
目の前の敵を壁で取り囲むように軌道を描くそれは神父が対応するまでもなく青白い爆発を連鎖的に引き起こした。
エレクトロミサイル。
爆発する当時に電磁フィールドを短時間の間発生させる弾頭は電磁フィールドの光で神父の視界を遮る。
その隙間を掻い潜りビットチェーンソーが神父へと襲い掛かる。
右肩口を狙った刺突突撃―――だが神父は淀みない動きでそれを弾いた。
光の向こう側にいるであろうクリスに向かって嘲笑が放たれる。
「その程度の目くらましで怯むとでもっ!」
「思っていないわよ―――妨害!」
瞬間、ビットが再びその姿を変じた。
丸ノコギリがコマのように回転し、その周囲にはエレクトロミサイルとはまた別の電磁フィールドが展開される。
至近距離で展開したそれをまともに受けた神父は、その身動きを封じられた。
「ぬ、ぐ……これは……!」
「オーダー・ストークス……このジャマーフィールドに囚われた者はその動きを著しく制限される。
これでチェックメイトですね、お爺様」
クリスがニードルガンを神父へと突き付ける。
鈍く光る針先は機体の頭部を捉えていた。
引き金が引かれれば神父の頭部は串に刺された団子のようになってしまうだろう。
そして、引き金を引く時間と放たれた針を回避する時間では圧倒的な差がある。
文字通り、これでチェックメイトだ。
「……ふはは」
だが、なおも神父は笑みを崩さない。
むしろ狂おしいまでの感情のうねりが増していく。
「何がおかしいのです」
「いや、なに……、君は確かに優秀だ。用意周到、冷静沈着、頭脳明晰……だがね。
君の戦いには、圧倒的に経験が不足しているのだよッッ!!!!」
叫びと同時に神父の機体が―――大きく爆ぜた。
「なっ……!?」
「はぁあはははははははははははははははっ!!」
いや、正確には機体が爆ぜたのではない。
頭部から大量の何かが爆ぜるように吐き出され―――それが撒き散らされた。
飛び出たのは夥しい量の血と思わしき液体と、無数の小さな生物のような何か。
体皮の色は灰色をしており、大きさは人間大のそれ。
目はなく、口の中からは何本もの牙が見え隠れしている。
一見すると蠍のような体形をしていて、前に付いた二本の不格好な腕だけで地面を這いずり回っていた。
「な、何っ……!」
「呆けている暇があるのかね? 我が仔ら、嘘の霊は小さき者、弱き者、倒れ伏す者に襲い掛かる習性がある。
さて、今現在それら全てに当てはまる彼はどうなるのかな……?」
「っ―――!?」
その言葉で、クリスと甲が同時に駆け出した。
まるでそれに反応したかのように撒き散らされた大量の仔も甲目掛けて凄まじい勢いで這いずってくる。
その速度たるや、シュミクラム以上。
「あぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああっっ!!??」
「ちょっとは落ち着いて逃げなさい、馬鹿ッ!!」
叫びながらも甲が追いつかれまいと必死に逃げ惑い、クリスは一匹たりとも近づけさせまいと片っ端から踏み潰し、手首に内蔵されている機銃で撃ち抜いていく。
その瞬間、クリスの意識は完全に神父から外れていた。
「隙だらけだよ、クリスッ!!」
「くぅっ……!?」
ジャマーフィールドを抜け出した神父がクリスに向かって斬り込んでくる。
機銃を乱射しながら咄嗟にビットを楯に戻して自身の下へと呼び寄せるクリス。
圧倒的な速度で神父よりも先にクリスの下へと辿り着き、その本懐として神父を阻もうとする。
だが、
「その程度の楯で―――」
神父のチェーンソーが大きく振り抜かれ、
「私を止めらるなどと、思わない事だッ!!」
楯諸共に、クリスの機体が大きく切り裂かれた。
「ぁ……」
短く、細い声を聞いて、甲は思わず背後を振り返る。
振り返った先で―――大きく切り裂かれた機体から、クリスが強制的に除装されていく様が見えた。
やがて、彼女の身体が地へと墜ちていく。
その一連の動作が―――甲には、嫌にゆっくりと映った。
「クリスぅぅうううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううッッ!!!!」
手折られた花のように華奢な体が地面に打ち付けられ、横たわる。
クリスはそのまま動く気配はない。
ピクリとも、動きはしない。
「っ、クリスッ!!」
嫌な予感がして必死に彼女へと駆け寄る。
だがその前に、神父の撒き散らした仔が群がってきた。
「くそっ、テメエら邪魔だッ!!」
飛び掛かってきたそれを真正面から殴り飛ばす。
殴った反動が直接骨に響いてきたが、気にしない。
今は倒れている彼女の下へ向かう方が先だ。
ふと目をやれば彼女の方にも神父の撒き散らした仔が数体、向かっている。
「ちくしょう……!!」
まずい、と焦燥感が競り上がってくる。
クリスが動く気配はない。気絶しているのか、それとももっと別の事が原因なのか。
最悪な想像が頭を過るがそれを無理やり振り払う。
それ以上に、クリスが動けないという事は抵抗する手段もないという事だ。
あのままでは、クリスは仔の餌食となってしまう。
更に―――
「これで、チェックメイトだぁぁあああああああああああああああああああああああああッッ!!!!」
頭上から神父が降ってくる。
さっきのように事故ではなく、明確な殺意を以てこちらに向かってくる。
前門の虎、後門の狼―――まさにそんな状況だ。
今度こそ誰も助けに来ない。あんなラッキーは二度も起こりはしない。
(俺は……、また、見ているだけなのか)
悔しさが胸を締め付ける。
前にも、こんな事があった気がするのだ。
目の前で誰かが傷ついて、自分の手は届かなくて、加害者は執拗に誰かを傷つけて―――
(嫌だ……)
もう、見ているだけなのは。誰かが傷つくのは。
(嫌だ)
強く願う。
力が欲しい。
誰かを守る力が、敵を倒す力が、危機を跳ね除ける力が。
(嫌だ!!)
力が、欲しい―――!!
『力なら、貴方は既に持っている』
頭に、誰かの声が響いた。
「え……?」
周囲の景色が止まって見える。
自分の身体を動かそうとするが―――同じように動かない。
ただ、頭の中に声だけが響いてくる。
『思い出して、貴方は力を持っている。
それは貴方の憧れた正義の味方のような、綺麗な力じゃないけれど……』
甲はその声を知っている気がした。
いや、知っている。
だが思い出せない。
とても大切な人の声だったはずなのに、どうしても思い出せない。
『それでも貴方には守るための力がある。この状況を打開するための、敵を倒すための力がある。
それは貴方を戦いに誘う力。きっと後悔をする、悲しんで、孤独になる。他者に心を開けなくなっていく。
それでも、あなたは戦う事を望む?』
身を気遣う、優しい声だった。
投げかけられた言葉に甲は一瞬だけ考え込むが―――すぐに答えを出した。
そんな事、一々考えるまでもない。
「そうなのかもしれない―――戦うっていうのは、きっと凄く怖い事だ。なんとなく、それは覚えている。
だけど、だからって目の前で困っている奴を、自分の知り合いを見捨ててしまったら俺はもっと後悔する!
だから戦う! だから力が欲しい! 俺は―――あいつを助けたい!!」
『―――うん、それでこそ甲だね』
短い返答があった。
それと共に声が遠ざかっていくのが、人ならざる感覚で感じ取れた。
『貴方はきっと覚えている。記憶が引き出せなくても感覚が覚えているはずよ。
そして、負けないで。
これから始まる戦いは―――貴方が思うそれより、もっとずっと重くて辛いものになる』
「あ、おい……!」
声が遠ざかる。
まるでエコーが掛かるようにどんどん声は小さくなっていき―――
『じゃあね、甲。死んだら承知しないんだから……頑張りなさいよ』
懐かしい声と共に、ここではないどこかがフラッシュバックした。
それは夥しい戦闘の記録。
世界各国を巡り、相棒と共に戦場を駆け抜けた。
戦って、戦って、戦って、戦って、戦って、戦って、戦って、戦って、戦って、戦って、戦い続けた。
様々な場面が浮かび上がる。
ダーインスレイヴ、ドレクスラー機関、CDF、ドミニオン、GOAT、アーク、フェンリル。
ノーブルヴァーチェ、震機狼、タイラントギガース、ニーズヘッグ、パプティゼイン、トランキライザー、ノインツェーン。
それら多種多様な戦闘の情景が一気に流れ込んでくる。
否、思い起こされてくる。
「ぁぁ、ぁあああああぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッ!!!!!」
身体に熱が入る。
感覚に身を任せるままにプログラムを起動する。
響く電子音。鳴るシステムコール。
しっかりと眼前を見据えて―――門倉甲は走りだした。
-shift-
「邪魔だぁぁあああああああああああああああああああああッッ!!!」
「ぬぅ!!」
鋼の身体に移行した甲は即座に肩から前方に向けて突撃する。
一旦力を溜めてからのチャージには、流石の重装甲機のパプティゼインもたまらずに大きく吹き飛ばされた。
「ぬぉぉおおおおおおお!?」
「テメエは、どこかに吹っ飛んでいやがれ!!」
次いで、両手で剣を構える。
刀身からはエネルギーが放出され、大きな剣を形作る。
有り余るパワーの全てをそれにつぎ込み、今なお吹き飛ぼうとするパプティゼインへ追撃を仕掛ける。
―――レセクトンブレイド。
「薙ぎ―――」
甲が最も使い慣れたフォースクラッシュ。
それを―――
「払うッ!!」
目前の神父へと、遠慮なく叩きつけた。