「まこちゃん、私と一緒に来ない?」
そう言って差しのべられた手はあくまで優しげだった。
柔和な笑みと穏やかな言葉。それに嘘偽りはなく、クゥは本当に真を慈しんで手を差し伸べている。
先程までの道化のような狂笑からは想像もつかなかった表情がそこにある。
それが幸福なのだとクゥは確信しているのだ。そちらにいるよりもこちらに来る方が彼女にとっては幸せなのだと。
しかし、それはクゥから見た視点であって真から見た視点ではない。
「お断りです。なんであれ、お姉ちゃんに害を成す以上はそちらに付く意味も理由も無いから」
「ふーん。理由があればいいんだ?」
「……そういう問題じゃ、ないんだけどね。クゥちゃん、分かってて言ってるでしょ」
「あ、やっぱり分かっちゃう? どうにもこういう駆け引きは苦手だなー、私ってば。そこはやっぱりお姉ちゃん譲りなのかな?」
屈託なくケラケラと笑う。
誘いを断られたというのに微塵も動じていない。まあそんなものだよね、とクゥはそれきり手を引っ込めた。
そのまま両腕のブレードを展開させて戦闘態勢を取る。
両腕を広げて、まるで子を迎える母のように声を掛ける。
「さあ、どうする? まこちゃんも私とここで一戦交えてみるかな?
それもいいよ。彼我の実力差っていうのは知っておいて損することはないしね。私も協力してあげよう」
あくまでも声は明るく。
だが裏側に滲み出る隠しきれない狂気が得体の知れない恐怖を駆り立てる。
(勝てる……? あんな、常識を逸脱した気配を持つ相手に)
真がシュミクラムの戦闘において絶対に勝てないと思った相手は、今までの経験の中では門倉永二ただ一人だった。
強者特有の相対しただけで分かる格の違い、というものだろう。
そう簡単にやられるつもりもないが、だからといって勝てるビジョンを浮かべることが出来るかと言えば答えはノーだ。
同じ部隊の中でもトップクラスの実力を持つシゼルやモホーク相手ならまだ勝機を見出すことが出来る。
だが大きく差の開いた相手を前にすると漠然と分かるのだ。
相手の巨大さ、壁の高さ―――自分を丸ごと飲み込んでしまいそうな大きな気配と威圧感。
プレッシャーと呼ばれるものであるそれを如実に感じてきた真は、しかし目の前の敵の放つ気配に底知れぬものを感じていた。
(深くて、昏くて……底が見えない。まるで、深海の底でも覗き込んでいるかのような。
ううん、それだけじゃない。これは……濁っている?)
様々な色が交じり合って黒く変色してしまうように、何かが交じり合った結果として昏く見通せない何かがあるような感覚がある。
それはたとえば、小さな子供が群衆の中に紛れて見えなくなってしまったような。
だが自己主張は消えていない。その中で精一杯の声を張り上げて自分という小さな存在を主張しているのだ。
そうして滲み出ている者こそが目の前のクゥという存在であり、その気配である。
得体の知れなさで言えば真の知る中でも随一だろう。形の知れないものはただ単純に恐怖を生む。
だけど、だからといって逃げてしまえばいいという訳でもない。
逃げられない理由があるからここに立つ。
(……何だっていい。とにかく、今は目の前の敵を退ける事だけを考えないと)
一秒後の戦闘に備えて真の機体が身構える。
それに応じるように黒い冴もまた身を屈めて―――
「……え?」
ふと、唐突に怪訝な声を上げた。
いきなりの事に戸惑う周りを無視してクゥは独白を続ける。
「もうちょっとダメ? あとちょっと、ほんの数分……えー、けち」
誰かと会話しているらしい言葉が垂れ流しになっている。
要領を得ないものの声の調子はどんどん下がっていっていた。
同じように機体から感じる重圧もまるで嘘だったかのように薄れていく。
「あーあ……せっかく良いところだったのに。残念だけど今日はこれでおしまいだって。
良かったね。まこちゃんからしてみたら結構助かったんじゃないかな」
「……」
クゥの言葉に真は応えられない。
事実として真がクゥに勝てる勝算は無いに等しく、最悪の場合はそのまま連れ去られた可能性もあるからだ。
だからこそ誰も下手なことを言えない。
不貞腐れたまま背を向けるクゥを止める事も出来ない。
「じゃあね、三人とも。またそのうち会いましょう」
夢見るように言いながら―――クゥはその場から姿を消した。
第十五章 暗躍 -underground-
クゥとの戦闘から暫くした後、空とレインはフェンリルのベースに戻っていた。
部屋に入って早々、宛がわれた部屋のベッドにおもむろに倒れ込む。
「っ、はあ……」
「お疲れ様です、中尉。身体に異常はありませんか」
「身体中がこれでもかってくらいに痛みを訴えてきているけど……正直その程度ね。
徹底的にいたぶられた割には後遺症らしきものも無いみたい」
「それは―――不幸中の幸い、と言ったところでしょうか」
「手加減されて見逃された、なんて情けないオチだけどね」
陰鬱な溜息が思わず口から出てしまう。
あの敵―――クゥの実力は圧倒的なものだった。それこそ自分の全力で掛かったとしても届かないほどに。
その理由を彼女は自分がシミュラクラ―――ネットで生まれ、第二世代よりも遥かにネットに適合しているからだと言っていた。
理屈自体は空も分かる。自分とてその格差を体現する一人だからこそ生まれつきの差というものを自覚している。
しかし、それを踏まえてもクゥとの差は度が過ぎたものに思えてならない。
ネットのロジックすら捻じ曲げる程の差とはいったいどれほどの差だというのか。
まともに考えようとすると眩暈でも起こしそうだった。
「ダメージが酷いから報告は後回しでいいとは言ってくれたけど……正直、分からないことが多すぎるわよ」
シミュラクラの事については永二も知っている。
それのオリジナルプログラムが行方知れずとなっている事も当然、橘社長から聞かされている。
だが前提として、シミュラクラは最終的に観測対象と同一のクオリアを持つに至る存在だ。
クゥの場合、その対象は空だ。それも学園生時代のまだ明るかった頃の。
だというのに、アレは何だ?
確かに言動はそれらしいものになっていた。
だが根っこにある本質、それに伴う感情や性格などはまったく似ても似つかないものになっている。
あの明るさは空の天真爛漫さを表すものだった。だが彼女の場合、それは道化の振る舞いでしかない。
笑顔は人と友好を結ぶためのものだ。だがあれは見下し、嘲る類のものだった。
困っている人がいれば助けたいと思い、実際に助けるために奔走した。悩んでいるよりも笑顔の方がきっと良いから。
だけど彼女はそれを増長させ、揚句狂気を良しとしている。
ここまでくると「別物」と断言してしまっても違和感はないくらいだ。
しかし、そうなるとあの直前に会っていた―――自分に警告をしてきたクゥはいったい何なのだ?
どちらかが偽物? いや、どちらからも自分と繋がっている感覚はあった。
幼い頃から感じているそれを空が間違うはずもない。間違いなく、出会ったクゥはいずれも本物だった。
「はあ……訳分かんない」
「後で亜季さんに連絡を入れてみましょう。小さな手掛かりでも何か分かるかもしれません」
「うん……そう、ね」
望みは薄いだろうが、それでもシミュラクラの製作者は彼女だ。
レインの言う通り、小さな手掛かりでもいいから情報が欲しい。
地図も無しに探索する大冒険は御免だ。
「それで……あれから集会はどうなったの」
「はい。米内議員はレーザーライフルによる狙撃により殺害されました。
それに伴い集会に集まっていた聴衆が暴動を起こし、それを鎮圧するためにCDFも出動。
程なくして暴動は治まりましたが、暗殺者については行方が掴めていません」
「そう。アークで没入したまま直接出向いたのは正解だったかもね」
「ええ……実体で出向いていたら今頃暴動に巻き込まれていたかもしれません」
レインはともかく、空の現実における戦闘能力は並の軍人程度でしかない。
暴動に呑まれていたらそれこそどうなったか分からないだろう。
そういう意味では運が良かったとも言える。
おかげで被った被害と言えばネットでのダメージのフィードバック程度なのだから。
「ふう……」
一通りの状況の整理を終えると疲れからか眠気が襲ってきた。
身体のダメージと精神的な疲れからかその眠気に逆らう気も起きなかった。
「ごめんレイン……暫く、寝かせて」
「了解。しっかり休んでください。細々とした処理はこちらでやっておきます」
「ん、ごめん……」
ゆるゆると瞼を閉じる。
出会った二人のクゥはいったい何なのか。
警告の真意と敵対の宣言。真を誘う理由は何なのか。
―――何よりも。
(AIの虎の子の片割れ……私達とは切っても切れない、彼)
それは。
いったい、誰のことを指しているのか。
自分は、誰のことを思ったのか。
ありえないと思いながらも、それでも―――
(―――甲。
貴方は、本当に……?)
分からない。
分からないから―――どうすればいい?
(私は―――)
弛緩した意識は緩やかに思考を停止していく。
微睡のまま、空の意識は眠りに落ちていった。
◇ ◇ ◇
あれからコゥとクリスは自分たちの拠点へ引き返した後、情報を整理していた。
最初の議題としては、捕捉した彼女―――渚千夏について。
「さて、結論から言えば彼女はGOATね」
「やっぱり、統合か。正直今のタイミングでここに手を出してくる勢力はそこしかないよな」
「わざわざ何の理由で米内を暗殺したかは知らないけどね。阿南の側に何か切り札でもあるのかしら」
推測だが、それはおそらく当たりだろう。
米内が暴露しようとしたのはほぼ間違いなくそれだ。
それを阻止しようとするのは阿南の側と、それを暴露されて困る者。
もしくは米内に余程困る情報を握られていたのか。
何にせよ、ここでGOATの関与が確認できたのは大きい。
「阿南と言えば、CDFに対して結構な権力を持っている奴だったな。
そっちとGOATとの繋がりも一考しておく必要があるか」
「さて、その阿南だけど……ちょっと調べたら面白い繋がりを見つけたわ」
言って、クリスが情報をパネルに表示させる。
記されているのは阿南の写真と簡単な略歴―――それと、主に繋がりのある政府高官や施設だ。
「性関係で世話になっている施設が多いわね……本当、顔を裏切らない趣味だわ」
「おい、その笑みやめろ。薄ら寒い気分になる」
「失礼ね。単にどれだけ豚のように鳴いてくれるのか考えてみただけよ」
「……」
「何よその目は……まあいいわ。
話は戻るけど、阿南の行きつけの場所の一つにこんな施設があるの」
前に持ってこられた画像を見る。
場所は『愛と快楽のフォーマル』という名の密造業者の拠点だ。
その名に関して、コゥは少し前に耳にしている。
「待て、ここは確か……」
「ええ。ここはドミニオンのアジトにも繋がっている……興味深い符号の合致ね?」
阿南は愛と快楽のフォーマルによく顔を出しており、そこはドミニオンのアジトとの繋がりがある。
そしてドミニオンはドレクスラー機関と関係している可能性が高い。
更に言えば、ドレクスラー機関が開発しているアセンブラ―――灰色のクリスマスでの発表時、阿南もその席にいたという記述が資料にある。
決して、偶然の一致ではないだろう。
「想像以上に事態が大きくなってきたな。
ドミニオンを追っているうちにドレクスラーとCDF、下手すればGOATまで敵に回しかねない訳か」
「そうね。とはいえ、やる事が特別変わる訳でもないけど」
「それもそうだ」
やることは変わらない。
こちらを付け狙う神父を倒す。ドミニオンからの襲撃はここの所沈静化しているが、アジトに乗り込む以上は本格的な抗争になるだろう。
その過程で敵対するものがあるというのなら―――上等だ。立ち塞がるのならば容赦はしない。
日常に帰る。そのために戦い続けてきたのだ。
ドミニオンの信徒に狙われながら安寧とできない日々を、クリスと共に駆け抜けてきた。
―――丁度、今のように。
『……居るな』
『ええ、それなりに』
直接通話での会話に切り替える。
どうやら、最近は沈静化してきたものが久々にやって来たらしい。
『……窓からは遠慮したいな。最悪、出たところを狙い撃ちだ』
『扉の向こうには団体さんでお越しのようだし、さてどうしようかしら』
それなりの人数がドアの向こう側にいるのを察知する。
ここは安宿の中でも一番下の端にある部屋だ。包囲するにはうってつけだろう。
下手に窓から逃げようにも狙撃手が待ち構えている可能性が高い。
順当に行けばほぼ詰んでいる。囲まれているのに気付かない時点で間抜けにも程があるだろう。
このまま燻っていても下手に行動しても数に物を言わせてやられるのがオチだ。
まあそれも、真っ当な手段を採ればの話だが。
「んー、やっぱり窓かしら」
「リスクは高いが、まあ妥当なところか」
呟くと同時に窓へと駆け出す。
同時に布団を引っ手繰って窓を解放。
そこから身を乗り出すよりも早く―――
「投げてから一秒後!」
「了解!」
クリスが窓の外目掛けて手榴弾を放り投げる。
瞬間、それは白昼にも関わらず視界を焼く程の眩い閃光と聴覚を蹂躙する爆音を辺り構わず撒き散らした。
所謂スタングレネード。閃光と爆音による目晦まし及び平衡感覚の一時的機能不全を目的とした非殺傷の兵器。
強烈な閃光は何の対策もしていなければ容赦無く視界を焼く。
それは扉を蹴破って部屋の中に押し入って来た連中然り、こちらを逃すまいと狙いを定めていた狙撃手然りだ。
「そらっ!」
加えて、クゥとクリスは閃光が収まらない内に自分たちの目と耳を守った掛け布団を窓目掛けて放り投げる。
それこそ自分たちの姿を覆い隠す程に大きく広げて。
視界を焼き、自分たちの姿も一時的に隠し、同時にこの視界状況でなら簡単なダミーとしても機能する。
不明瞭な視界の中、狙撃手が自分たちを正確に狙い撃つことはまず無理だろう。
「まったく、しばらく大人しくしていると思ったらこれだ。微妙に気の緩んでるタイミングを狙ってきやがって」
「兵法の基本ではあるけどやられていい気分にはならないわね」
慣れた雰囲気で動じる事無く堂々と路地裏を二人は駆けていく。
予め用意しておいた逃走ルートの内の一つを使って相手の追手を徹底的に撒きに入る。
「いい加減に、こういう生活も終わらせたいものね」
「……そうだな」
日常に帰るために。
もはや公的に死んだようなものである自分を受け入れてくれる場所があるとは思わない。
血で染まった両手をあの陽だまりの中に持ち込もうとは思わない。
それでも、出来ることなら隣で走る彼女くらいは陽だまりの中に帰してやりたい。
元々、こんな道行きに付き合う必要は無かったのだ。だから、そこには報いるべきだろう。
以前ノイに言われた言葉が脳裏を過る。
(―――そうだな、ドミニオンとの決着がついたら……)
少し、やってみたい事があるかもしれない。
それを成すためにも、とりあえず目下の目標は襲撃者を撒く、もしくは撃退することだろう。
「さて、その角で撒けないようなら仕掛けてみない」
「そうだな……規模からしても手持ちでどうにかなりそうだ。やるか」
「了解」
今日を安心して眠るための戦いはもう暫く終わりそうになかった。
◇ ◇ ◇
―――仮想空間。
AIが様々な演算の結果として生み出したネット上に描かれる電子の世界。
0と1の集合体でありながら様々な形を生み出しているそれは日々進化を遂げている。
たとえば、ネット上におけるロジックの進化などが良い例だろう。
今となっては過去の話。ネットで死んだ者は死体すら残らない時代があった。
死ねばそれで終わり。何も残さず、0と1の塊として分解されて消えていく。死と消滅の等しい時代。
だがAIが人を観察し続け学習した結果、ロジックはそこから進化を果たした。
すなわち、死ねば人は骸になるということ。
形が残るようになった、というだけの進歩に過ぎない。だがAIは確かに進化しているという証でもある。
そしてそんな仮想空間の片隅―――とある構造体に一人の少女が舞い戻った。
「よっと。ただいまー」
亜麻色の髪を揺らしながらその少女は構造体に足を踏み入れる。
その構造体は何ともいえない不気味さに包まれていた。
どこか生物を思わせる壁や床の装飾と全体的な薄暗さ、物静けさが重なって不気味な雰囲気を漂わせている。
それだけでなく、ここはどこか重い。
この場所にいるだけでまるで生き物の内臓の中にでも放り込まれたかのような生物的嫌悪を掻き立てる。
常人ならば立っているだけで正気を保ってはいられまい。
ここは正常が異常となり異常が正常となる狂気の世界。
ならば、ここで笑い平常を保てている彼女も―――等しく狂気に染まった者であることに間違いはない。
「戻ったかね、クゥ」
「あ、神父」
そんな彼女を一人の男が出迎えた。
大柄の身体にカソックを纏い、逆十字を掲げた神父―――ドミニオン教主、グレゴリー神父その人だ。
彼は子を迎える父のように手を広げてクゥを労う。
「ご苦労だった。威力偵察としては十全な成果だろう」
「スペックの把握は大体済んだかな。まだやり合ってない相手は多いけど、この分だと誤差の範囲で済んでしまいそうだし」
「素晴らしい……やはり、真の世界で生まれ育った者は我らの遥か上を行く。
我らが教義の正しさもより鮮明に証明されたということだ」
神父が真実、女神でも見つめるような眼差しでクゥを抱く。
ドミニオンの教義―――それは一種の人類進化論だ。
人としての肉体を捨て、仮想空間という真実の世界へと還り人は進化するべきなのだと。
そうあるべしとして定められ、集まった者たちの集団。それこそがドミニオンだ。
だが、それを聞いたクゥは特に何も思わない。
「そこら辺については私はあんまり興味は無いんだけどねー。
ほら、私ってば彼のエージェントだから。そういうのって煩わしいとしか感じないのよね」
「無論、理解しているとも我らのイヴ。全ては我らが神のために―――」
「うん、宜しい」
神父とクゥ、二人の関係は傍から見ればどこかちぐはぐに見えるだろう。
どちらが上でもなく下でもなく、だがどちらに対しても一定の命令権を互いに持っているようで常に下についいているようにも見える。
対等であり、対等でない矛盾。
今でこそ神父がクゥに同調する形だが、先程クゥの撤退を促したのがこの神父であることを考えるとその不安定さが目に浮かぶ。
だが、その方向性は同じだ。
まるで出鱈目に組み合わせた積み木のようでありながら目的地への道のりは確実に歩を進めている。
「それはそれとして、なんであんな良いところで茶々入れるかな。私もまこちゃんもやる気十分だったのに」
「すまないね。だが今の段階で君の戦力をあまり大っぴらに曝け出すのも好ましくないのだよ。
君に対するカウンターが存在することを忘れた訳ではあるまい」
「どっちかって言うと私がカウンターの側なんだけどね。はてさて、あっちが介入してくるのはいつになるのかな?」
その到来を想うだけで心躍るのをクゥは自覚する。
同じ存在でありながら真逆の立ち位置に収まった自分とは異なる二人を想う。
その到来が待ち遠しい。その邂逅に焦がれている。
この世界で真実、自分を愉しませてくれるとすればあの二人以外に在り得ないと確信しているがゆえに。
ああ待ち遠しい。まるで恋人を思うようにクゥはその時を待ち続けている。
その時こそ、と夢見ながら。
「そういえば、そろそろ軽くこっちに乗り込んでくるんじゃない?」
「ああ、もうそんな時期かね。それでは手厚い歓迎の準備をしなくてはなるまい」
誰が、などという主語は必要ない。
彼と彼女にとって誰が来るのかなど既に語る必要もない確定事項だからだ。
そう、必ず来る。
そういう歯車の元にこの世界は回っているのだ。
誰も彼もが好き勝手に歯車を追加して舞台装置をそれぞれの望む方向に持っていこうとしている。
だが無意味だ。
どれだけ足掻きもがいても、最後に笑うのはこちらなのだから。
神という絶対の存在がついている限り、こちらに敗北はあり得ない。
「さあ―――始めよう。いよいよ舞台の幕を開けよう。
新しく芽生えたこの希望も、等しく私が呑み込んであげる」
少女は謳う。
ケラケラと面白そうに、可笑しそうに、全てを玩弄して嘲笑している。
両の腕を大きく広げ、まるで全ての世界―――全ての人を抱きしめ慈しむようにくるくる回る。
それは舞踏会。
お相手はAI? それとも彼? 彼女? はたまた世界?
おそらくはそのどれでもあってどれでもない。
だから彼女はくるくる回る。彼女にしか見えない舞踏会のパートナーを相手に優雅に陽気にステップを踏み続ける。
壊れた歯車は戻らない。
欠けて歪な回転を続けながら、彼女は常に歪んだ結果を導き続ける。
「それでは行こうか。皆が君を待っている」
「はいはーい。お仕事頑張りまーす」
歯車は回り続ける。
どれだけ欠けて壊れて歪んでも、くるくるからからくるくるからから。
舞台装置の行きつく先は、まだ誰にも見えてはいなかった。
◇ ◇ ◇
清城市のスラムの一角。
交差点に面するアダルトショップを経営しているノイはのんびりコーヒーを飲んでいた。
何気ない平和な午後の一幕。最近は騒がしいがなべて世はこともなし。何も変わらない。
まあ端的に言えば暇なのだ。
持て余した時間をどうしたものかと思案しながら自分で淹れたコーヒーをぐいっと飲み干す。
それだけで手持ちぶさたになった。
現在受け持っている患者も経過報告をしに来る気配もない。
面倒事に巻き込まれているから迷惑を掛けまいとしているのだろうが、はっきり言って余計なお世話だ。
巻き込むなら巻き込めばいい。
どちらともそれなりに付き合いが長いのだ。今更厄介事の一つや二つを持ち込まれたところで何だという。
自分の知らないところで勝手にくたばられる方がよっぽど寝覚めが悪くなる。
「まったく……とりあえず診察の催促でもするか」
チャンネルを呼び出してコールを掛ける。
……が、反応はない。もう片方にも掛けてみるが結果は同じだった。どちらも共に取り込み中らしい。
「勤勉なのは結構なことだが、若いうちから張りつめてどうするのかねあいつらは。
どうせならもっと健全に青春を謳歌しろというのに」
経歴や性格を考えれば無理そうな話だが、そうやって新しいものでも見つければまた見方も変わるものだ。
こう、若者らしく青臭い欲望をぶつけ合ったりなど実に自分好みでいいのだが。
そういえば患者の片割れ、男女一組なのだから何か面白い事でもなかったのだろうか。
あれば是非とも自分も交じってみたいものだと不穏な思考を巡らせる。
特に女性の方とは気が合うだろう。二人掛かりで彼を責めるというのも中々に面白そうで―――
『ノイ先生……今、宜しいでしょうか』
「おや、真くんかね」
と、不意にパネルが開いて一人の少女が顔を出した。
水無月真。ノイの受け持つ患者の一人で、おそらくは最も厄介な事情を持っている者だ。
それは電脳症であったり、とある人物を追っていることであったりするのだが……最も厄介なことは別にある。
実態がどこぞの組織に拉致されているということが何よりも厄介なことだろう。
彼女の出自もさることながらそれに大仰な組織が絡んでくるとなるともはや陰謀の匂いしかしない。
「一人で来るとは珍しいな。調子はどうかね」
『すこぶる元気です。先生に貰ったネージュ・エールもご機嫌ですよ。
毎日ウイルスやシュミクラムを相手にどっこんばっこんやっています』
「そうかね。趣味で組み上げたような代物だが役に立っているようで何よりだ」
『はい。そこいらのシュミクラムにはまったく引けをとりません。
これを私にプレゼントしてくれた先生には感謝してもしきれませんよ』
元々、真のネージュ・エールはノイが統合から譲り受けたシュミクラムをカスタマイズした代物だ。
カスタマイズした、という割には原型がほとんど残っていないようなもので性能ももはや別物同前ではある。
そこいらのシュミクラム相手ならば多少腕が劣っていたとしても互角以上に戦えるくらいの性能を持っていると言えば、特異性は分かりやすいだろう。
性能だけでいうならば現存しているシュミクラムの中でもトップクラスに位置するのは間違いない。
「それで、空君はどうしたね。彼女にも経過報告をして欲しいところなのだが」
『お姉ちゃんは今、戦闘でのダメージが抜けきっていないので寝ています。
幸い、後遺症などを引きずる程でもないみたいなので寝ていれば回復するそうですが』
「そうか。兵隊稼業というのも難儀なものだな……頼むから診察が済む前に死ぬのだけは止めてくれと伝えてくれ」
『くす……分かりました、伝えておきます』
とりとめのない話が終わって会話が途切れる。
―――真は何か、言い淀むようにしてこちらの様子を窺っている。
彼女一人でここにやって来たのは単なる暇潰し、という訳でもないだろう。
今の時期、彼女たちが遊んでいられる状況ではないということくらいノイも察しがついている。
それでも一人でこちらに来たのは用事があったからだろう。
誰にも聞かれずに済ませたい、そういう類のものが。
「何かあるなら言いたまえ。何も言わなければ私も君が何を知りたがっているのか分からない」
『―――はい。それでは、一つ聞かせて欲しいことがあります』
決心したように顔を上げる。
若干の恐れと、底に少しばかりの希望を湛えて。
『失礼ですが、ここ最近の医療カルテの方を勝手に覗かせて貰いました』
「何だと? あー、君に対してはセキュリティは大して意味を成さないんだったか……それでもカルテのロックを解いた事を賞賛すべきか?
どちらにせよあまり褒められた行為ではないぞ」
『申し訳ありません。ですが、その上でノイ先生にお聞きしたいことがあります。
私にとって、とても大事なことです』
「ふむ……何かね、言ってみたまえ」
真の挑むような視線を真っ向から受け止める。
そうして真は少しの間、大きく息を吸って―――
『―――六条コゥ。
いいえ、門倉甲。彼についてのお話を、聞かせてください』
彼女がここに訪れた目的を、はっきりと告げた。