フェンリルベースであるVTOLの一室。空とレインはそこでお互いに向き合っていた。
数分前に部屋に案内されてからずっとこの調子であり、シン―――、と静かな沈黙が続いている。
お互い、話したい内容は分かっている。だがそれを切り出す切っ掛けが出てこない。
このまま無言続きで時間が流れていくのかと思い、
「……空中尉」
それは、レインの手によって打ち破られた。
やや厳かに彼女が言う。
「私を置いて行ったのは、足手まといだからですか」
「違う」
それに対して空もはっきりと答える。
相棒である彼女を置いて行った、その理由を。
「ここから先は、きっと経験した事のないくらい激しい戦いになる。レイン、貴方は半ば私に引っ張られる形で傭兵になった。だから―――」
「だから、私に今後の身の振り方を考える時間を作ったとでも? 失礼ですが、そんな事は全くもって不要です」
きっぱりとレインは要らぬお節介だと断じた。
彼女の決意など、とっくの昔に固まっているのだ。
それは数年前のあの日から、今も変わる事なく彼女を支える柱でもある。
「覚悟など、とうの昔にできています。
ドレクスラー機関を追い、あの日の真実を確かめる。そのために、私は中尉の剣となり、盾となると」
「……参った。これじゃ私一人が馬鹿じゃないの」
空とて、そんな事は承知済みのはずだった。
だがそれでもあんな行動を取ったのは彼女への甘えからか―――
とにかく、これ以上レインに何を言っても無駄だろう。
「私が悪かったわ……これからも宜しく頼める?」
「はい。貴方が望もうと望むまいと、お側でお守りいたします」
空は苦笑すら浮かべられずに手を差し出す。
対するレインは不適な笑みで確かにその手を握り返した。
とりあえずこの一件はこれで決着が着いた。
あとは、フェンリルの件だ。
「……レインは、どうするべきだと思う」
こうなった今、率直に意見を求める空。
事は自分だけではなくレインの先をも左右する。だからこそ本人の意見も欲しいのだ。
それに、レインなら自分とは別の視点で物事を見ているだろうという考えもある。
この際だ。判断材料は一つでも多い方が良い。
「……そうですね。客観的に言わせてもらいますと、やはりフェンリルの指揮下に入る事はメリットに働くでしょう」
「組織としての知名度はもちろん、実力まで折り紙付きだからね」
少し前に妹に負けた時の光景を思い出す空。
確かに真は元から強かったが、自分とて数多くの死線を潜り抜けてきた身。腕前にはそれなりに自信があったのだ。
が、真はその上を行って見せた。真でアレならば隊長である永二はいったいどれ程の実力だというのだろうか……
正直、想像するのも寒々しい。
「逆に主観的に見るならば、庇護下に入るのは必ずしもメリットとは言えません。
第一に行動の制限が掛かるでしょう。次に私達が行ってきた戦いは所謂ゲリラ的な側面が強いので、それがあちらと合うかも問題ですね。
付け加え、私達はフェンリルについて何も知りません。
手にしている情報は真さんが所属している事、甲さんのお父様がトップだという事、相当な実力派集団だという事くらいです」
「……確かに、情報はかなり不足しているわね」
なにやら身内や浅くない関係者がいる、という事以外に自分達にとってのプラス材料が見当たらない。
これで首を縦に振るのは相当難しいだろう。
「……どうするか」
腕を組んで思案する。
確かに真が居るのは空にとって大きな判断材料だが、それだけだ。
自分は、あの頃と同じではない。
真の無事は確認できたのだし、あのフェンリルに身を寄せているのであればそうそう大事には至らないだろう。
そんな軍人としての冷めた思考がより冷徹かつ合理的な判断を空に求める。
(こんな考え方……昔の私が知れば何て言うのやら)
そんな事すら、今の空には分からない。
あの頃とはかけ離れてしまった自分ーだが、だからこその判断ができる。
「……少し、話してくる」
少し考えてから、空はそう切り出した。
言葉数少なくレインはその意図を察する。話をするとは、当然―――
「私は、どこまでも中尉について行くだけです」
「……ありがと」
レインの言葉に少しだけ肩の荷が軽くなった気がした。
小さく礼を言った空は軽やかに席を立って宛がわれた部屋を後にする。
次はいよいよ、組織のトップと一対一での座談会だ。
第六章 不安 -uneasy-
「さて、そろそろ動くとしましょうか」
適当に取った安宿の部屋のベッドに腰掛けながらクリスが言った。
彼女は手櫛で銀の髪を鋤きながら優雅に脚を組んでいる。
そんな彼女に対して、背中合わせに軍服を脱いでいるコゥが答えた。
「ノイ先生に付き合いながら集めた情報に何かあったのか」
「一つ、気になる情報をね。聞いた事はこっちに纏めてあるから、見て」
言われて、クリスからデータが送られてくる。
受け取ったのはクリスが纏めたテキストデータらしく、開けば文字の羅列が目の前に流れ出た。
コゥはそれに簡単に目を通して―――読み終わってから、一泊の間を置いて言う。
「……なるほど、これは確かに気になるな」
クリスの寄越した情報は、『近いうちに米内議員が演説を行う事になっており、それに合わせるようにドミニオンの姿が確認されている』というものだ。
が、二人はこの情報の一部がデマ、もしくは意図的に流されたものだと考えている。
「神出鬼没、そして後には何も残らないのがドミニオン。この程度で情報が掴めるのなら苦労はしないわ」
「それに、あの神父の事だ。あいつならもっと分かりやすい形で俺達に喧嘩を売ってくるだろうさ」
これはただ、二人の経験則だ。
だが、だからこそ、自信を持って二人は断じる事ができる。
「米内が標的の情報、だというのに間違いないでしょうけど……流しているのはどちら側だと思う?」
「確か、米内はガチガチの反AI主義だったよな」
そのAIを巡って阿南市長と争っているのは二人もよく耳にしていた。
単純に考えれば、これは敵対勢力である阿南側の工作だと考えられる。
「けど、わざわざドミニオンの名前を使うのは―――」
「どう考えても失策ね。ドミニオンはサイバーグノーシス……主義主張で言えばAI派だけど、さっきも言った通り積極的に動く組織じゃないし」
「だけど、これは少なからず利用できる」
見ていたテキストデータを閉じて、コゥが言う。
「ドミニオンの名を出すって事は、阿南側にあいつらを疎む理由があるって事だ。
それは同時に、奴に繋がる情報にもなる」
「そうね……少しばかり網を張った方が良いかしら」
コツン、とクリスの後頭部がコゥの背に預けられる。
彼よりも遥かに軽い体重や微かに漂ってくる独特の香りが、女を強く意識させた。
「ねえ……甲」
静かな世界の中、不意にクリスが問いかける。
「幼馴染みと再開して―――どうだったかしら」
「どうって……かなり、懐かしい気分になったな」
何をいきなり、とコゥは思うが、背中合わせの今の状態で互いの表情を窺い知る事はできない。
かといって別段隠すような事でもないので正直に感想を述べた。
それを聞いて、クリスは―――
「……そう、それは良かったわ」
彼女にしては珍しく、本当に安心した声を漏らしていた。
いつもの彼女からすればらしくない態度。それに少し引っ掛かりを覚える。
「どうしたんたよ、急に」
「別に。ただ―――ノイが言っていたでしょう、全てが終わった後の事」
それは確か、日常への回帰の話だったか。
戦場に慣れすぎた今、はたしてそのまま平穏な日常に戻る事ができるのかどうか。
「不確かな記憶が確かなものになった事で貴方には変える場所が出来た。それも、とても温かい場所が」
「……クリス」
どこか遠くを見ているような声で、優しげに彼女は語る。
おそらく、彼女の『良かった』という言葉は本心からのものだろう。
ただ、コゥにはそれが少し―――寂しげに聞こえていた。
「本当に良かったじゃない。帰る場所がないのは中々に堪えるものよ」
「……そうか。そういえば、お前の家は―――」
「ええ。『灰色のクリスマス』でグングニールの掃射を受けて全滅。私は経歴が経歴だから、親戚には腫れ物扱いだったしね」
そう、彼女には帰る事のできる場所がもう存在しないのだ。
今の今まで、こうやってその事を『辛い』と言う事もなかった。
菜ノ葉に関して煽っていたのも、おそらくはそこに起因しているのだろう。
普段からどこか超然とした佇まいをしているクリスだが……やはり、一人の女性なのだとコゥは思った。
「だったら、お前も一緒に来れば良い」
だから、自然とこんな言葉が出ていた。
「お前ならきっとみんなも歓迎してくれるさ。あの頃みたいに毎日が楽しいとはいかないだろうけど……きっと、お前にとっての居場所になれると思う」
「……」
肩越しに、クリスが面喰らったような表情になったのが見えた。
普段ならこの程度の言い回しは予想通りと言っている彼女だが、今回ばかりはこんな台詞が出てくるのは予想外だったらしい。
たっぷり一〇秒ほどの静寂を挟んで―――
「……まったく、貴方って人は」
彼女の表情に苦笑が漏れた。
それはコゥの言葉に心底呆れていて……同時に、喜びも確かに見えた。
「良いのかしら、軍人気質の私がいると貴方の心が休まらないんじゃないしら?」
「そんな事はないさ。ずっと死線を潜り抜けてきた仲だからな……どっちかと言えば勝手が知れていて良いかもな」
「空さんに何言われても知らないわよ」
「……だから、何で空が出てくるんだよ。ていうかお前はあいつを知らないだろ」
そう言うと、クリスはこれ見よがしに深く深く溜め息を吐いた。
その仕草の一つ一つが全力でコゥを馬鹿にしており、彼としては甚だ心外である。
「この朴念人……私でも分かったのに、それはわざとかしら? それとも単に忘れているだけ? どちらにしても救いようがないわね」
「好き勝手言ってくれるなオイ」
言い返しても冷やかにコゥを見る彼女の視線は変わらない。むしろ冷たさを増したようにも思える。
どうにも踏んではいけない地雷を踏み抜いてしまったらしい。コゥは軽く後悔した。
(それにしても……空か)
自分と彼女の間に、いったい何があったのだろうか。
確かに、一言では済ませられない何かがあった気はする。
それを考えると酷く胸が締め付けられたりもする。
だが、答えは一向に出てこない。
(……何か、あいつの事で大切な事を忘れている気がする)
記憶の中でも一際大きく抜け落ちた記憶。
なんとなく、それを思い出さない限り、彼女に会わせる顔がないと思った。
◇ ◇ ◇
レインと話し合ってから暫くして、空はとある部屋の前に立っていた。
言うまでもなくその部屋はこのフェンリルのトップ―――門倉永二の部屋である。
そのたった一枚の扉を前にして……彼女は二の足を踏んでいた。
「はあ……きちんと話せれば良いけど」
空は、レインや一部を除いたあちら側の関係者以外の者とは極端に会話をしていない。
それは間違いなく『灰色のクリスマス』での事が影を作っているからであり、そういう人達を見ているとつい嫉妬にも似た感情を覚えるからでもある。
だから、そんな彼女にとってこういった『普通の会話』というのは久しぶりなのだ。
「ええい、うだうだしてたって仕方ない。失礼しますっ」
少し妙な気合を入れて扉を開く。
開けた先に見えた部屋は、特に他の部屋と変わりはなかった。あるとすれば置かれている機材の違いか。
ベッドがあり、デスクがあり、ネットにアクセスするための機材がある。
その中で、一人煙草を吸っている一人の男―――永二だ。
彼は扉を開けた空に気付くと煙草を灰皿に突っ込んで手招きする。
「おう、煙草臭くて悪いな嬢ちゃん。まあ入ってくれや」
「はあ……失礼します」
何だか調子が狂うな、と思いつつ部屋に踏み入る。
永二が適当な椅子を指したのでそこに腰掛けて、改めて向かい合った。
そして沈黙。
「……あー、その、なんだ……」
「……えっと……」
お互いに、どう話題を切り出せばいいのか分からなかった。
話したい内容について察しはついているものの、良く分からない気まずさがどうしても先立ってしまう。
視線を中空に漂わせるが、別段何かがある訳でもない。
「……その、だな。うちの倅が……世話になったそうだな」
「……はい」
結局、無難なところから手を付ける事になった。
ポツリ、ポツリと、少しずつ言葉を繋げていく。
「真ちゃんから聞いた話なんだが……あいつとは、恋人同士だったんだって?」
「……そうです、ね。いろいろあって、ちょっと複雑な結ばれ方をしましたけど」
複雑、とは当然シミュラクラの事だ。
彼女―――クゥが居なければ、そして共振が起きなければ、もしかしたら甲は別の誰かと一緒になっていたかもしれない。
それこそ、積極的にアタックを仕掛けていた千夏か影ながら頑張っていたレイン辺りと。
「そう、か……ったく、嫁さん紹介する前に逝くとか何考えてんだあいつ」
「嫁、はちょっと気が早すぎるような気もしますが……そこには同意しておきます」
自分もまさかあんな形で置き去りにされるとは思っていなかった。
あの日、あの場所、あの瞬間に―――彼は、決して手の届く事の無い場所に、逝ってしまった。
ザリ、と頭にノイズが奔る。
繰り返される光景。アセンブラに溶解される甲ではなく、グングニールに薙ぎ払われる甲と自分。
「どうかしたのか、嬢ちゃん」
「いえ……なんでも、ありません……」
時折、こうして脳内を奔るあの記憶―――ありえないはずの、もう一つの『灰色のクリスマス』の記憶。
おかしいと思う反面、それは何かを訴えているように感じてしまう。
そう考えてしまう事自体が、既におかしいのだが。
「施設で論理爆弾が起動したとか言ってたな……余波でも受けたのか?」
「いえ、その……余波というか、直撃を……」
直後、永二の目が据わった。
「直撃だぁ~? 嬢ちゃん、何でそれを先に言わねえんだよ」
「す、すみません」
「謝る前に自分の身体くらいしっかり管理しろってんだ。ったく……」
言葉こそ粗暴だが、それはこちらを思いやっての事だとは理解できる。
ちょっとぶっきらぼうで、だけど心根はとても優しい―――
親子の仲は思わしくないと聞いてはいたが、それでもこんなところは似ているらしい。
それが、なんだか少しだけ可笑しかった。
「腕の良い医者を紹介してやるから後で行ってこい。身体には気を付けろよ、良いな?」
「了解」
「うし」
ならば良し、とばかりに永二は首肯する。
と、二人はいつの間にやら自然と会話が成り立っている事に気付いた。
ある程度の距離感がはっきりしたからだろうか、さっきまでの気まずさを感じる事はなかった。
「あー、んでだ。あいつとはどうだった? 嬢ちゃんにちゃんと何かしてやれたねか?」
「どう、でしょうか……私達の場合はかなり特殊でしたので。他の一般的なものが当て嵌まるのかどうか。
逆に私自身、甲にもっと何かをしてあげられたんじゃないかって」
あんな結ばれ方をしたのはおそらく自分達が初めてで……共振の危険性が発覚している以上、自分達が最後になるだろう。
だから、今でも少し不安になる事がある。
彼は―――甲は、あんな結ばれ方をして何とも思わなかったのだろうか。
本当は自分の事など何でもなかったのに、共振のせいで無理矢理に気持ちを向けさせられたのだと、そう考えた事はなかったのだろうか。
それは……きっと怖い。
もしそうなら、と考え出すと、空は怖くて堪らなくなる。
今も一瞬、そんな事を考えて身震いした。
永二はそんな空の様子に気付かず、一言。
「……あー、ほんと我が息子ながら良い目の付け所してやがる。こんだけ想われてちゃ万々歳じゃねえか、クソッタレ」
そう、一人ごちた。
彼は頭をガシガシと掻いて、改めて空に向き直る。
「ま、そっちはまた追々話すとしようや。他にも話はあんだろ」
「……はい」
そして空も向き直る。
確かに今までの話も大事な事だが、今はそれ以上に重要な事がある。
「フェンリルへの入隊ー確かに魅力的なお誘いですが、はいそうですかと簡単に首を縦に振る訳にはいきません」
「ほう?」
空の言葉に永二は面白そうに笑みを返す。
が、気にせずに空は続ける。
「私達はフェンリルという組織の実態をあまりに知らなすぎる。
賭けに負けた身で失礼を承知で言わせてもらいますが、そんな場所に背中は任せられません」
それは当然の帰結だ。
統合のような大きな組織ならともかく、噂が先行するような組織はそもそも一般的な信用に欠ける。
だが、
「しかし、この先に踏み入るのなら組織のバックアップの有る無しでは大きく状況が違ってくる。それも承知しています」
戦いでは最も弱い者から死んでいく。
規模の大きな戦いなら尚更そるは顕著だ。個人など、組織の前では無力に等しい。
だからこそ、見極める必要がある。
「―――だから、見極めさせてください。私達がフェンリルと行動を共にすべきかどうかを、これからの行動で」
「これまた、大きく出たもんだな? 嬢ちゃんよ」
言葉を受けて、永二の笑みが獰猛な肉食獣のそれに変わった。
空の言った事は丁寧であっても視線は上からのものだ。
実際にフェンリルのトップである彼からすれば結構な挑発行為に見えたかもしれない。
だが、空は目を逸らさない。
ここで逸らしては決定的なイニシアチブを相手に握られてしまう。それではいけない。
自分達はまだ個人なのだ。
組織としてならともかく、傭兵水無月空一個人としてはへりくだる必要はない。
「―――」
「―――」
静かで、重い静寂。
睨むのでもなく、見詰めるのでもなく、空はただ静かに永二を見やる。
そして、一瞬とも数分とも感じられる静寂の後―――
「……ま、今のところじゃそれが妥当か。それで手を打っとくかね」
はあ、と軽い溜め息と共に確かな了承の意思を、彼は示した。
同時に空も軽く息を吐く。気まずさが無くなったとはいえ、やはり緊張する場である事に変わりはないらしい。
それもこんな要求をする以上は当然とも言えるのだが。
「嬢ちゃん達は一時的にフェンリルの指揮下に入る……それで良いな?」
「はい。ありがとうございます」
とりあえず、今はこれで十分だろう。先を見極めたい身としては実にありがたい立ち位置だ。
席を立つ。
「それでは、まだやる事があるので失礼します」
「おう」
方針は固まった。
これから世話になるのだし、フェンリルの隊員達に挨拶でもするべきかもしれない。
そんな事を考える空の背に、
「嬢ちゃん」
永二が声を掛ける。
「あんた、まだ甲の事は?」
それは、彼にとっても難しい質問だったろう。
古傷をわざわざ抉るような真似は彼とて本意ではない。
だからこれは何か意味のある問い掛けだ。おそらくは、彼にとって。
そして、そんな事は確認するまでもない。
「……そうでないと、きっと私は今ここにはいないと思います」
「そうか……悪かった、変な事聞いて」
空は答えない。
代わりに静かな一礼を残して今度こそ部屋を後にする。
(私は今でも……か)
機内の廊下を歩きながら、空は今さっきの問いを思い出す。
―――はっきりと、気持ちを口にする事をあえて避けた。
それは、空自身が漠然と抱いているあの不安に端を発する。
(本当のところ、どうなのかしら。私は今でもあいつの事を思う事ができる?
それとも、本当にただ共振があったから……?)
彼への不安は、つまるところ自分自身への不安でもある。
あまりに特殊すぎる、前例などなく基準も存在しない恋愛への発展だったからこそ―――空は不安で堪らない。
だから、具体的な回答は避けたのだ。
不安定で不確かな自分の気持ちが怖かったから。
誰もいない廊下の中でも、空はふと足を止める。
「馬鹿だ私……こんなんじゃ、甲に会わせる顔がないよ」
震える声で上を見上げる。
不安と自己嫌悪に揺れる彼女は、泣きそうな顔で天井の向こうにある空を睨んだ。