まるで時間が止まったようだった。
甲は、目の前に立つ幼馴染みがあまりに懐かしくて。
菜ノ葉は、目の前に立つ人物が信じられなくて。
周囲の事など頭の中から吹き飛んで、ただお互いを見つめ合う。
「こう……甲、なの……?」
「ぁ……」
先に口を開いたのは菜ノ葉からだった。
その声を聞いてまた、甲も確信する。目の前にいる人物は間違いなく自分の幼馴染み、若草菜ノ葉なのだと。
途端に胸の内から懐かしさが込み上げてきて、思わず声を掛けたくなる。
だが……
「っ……」
甲は一言も話す事ができなかった。
不安そうな、懸念と僅かな希望が入り交じった菜ノ葉の目が見える。
期待に応えてやりたい、と強く思う。しかし、ここで自分が生きていると大々的に知られるのはまずい。
自分の存在をあえて社会的に抹殺したのは自分の事情に巻き込まないためである。
自分が死んだ事にしておけば知人からこちらに近づこうとはしないだろうし、仮にドミニオンが自分の生存情報を餌に釣ろうとしても一笑に伏されるだろう。
が、それは『甲が死んでいる』という前提条件があるからこそ成り立つ。
もはや致命的だが、自分が『門倉甲』だと悟られてしまえば……
「ねえ、甲なんでしょ……?」
良心と理性がせめぎ合う。
どうするべきなのか、何をするべきなのか、頭の中がごちゃごちゃになってまともな案なんて浮かんでこない。
(……俺は)
拳を握る。
歯を強く食いしばって、必死に理性を働かせる。
言うべき事は一つ。考えるまでもない。
門倉甲は死んでいるーそう、死んでいるのだ。
更に強く拳を握り、血を吐くような思いで口を開く。
そして……
「わーい! 菜ノ葉お姉ちゃんだー!!」
「えっ、ノイちゃん何でここに、ってきゃああ!?」
おもむろにノイが菜ノ葉の胸に飛び込んだ。
それも、思いっきり猫を被ってだ。
「……は?」
目が文字通り点になった。
何だ、あのお子さまキャラ。というか菜ノ葉お姉ちゃん? ノイちゃん?
予想外すぎる組み合わせによる珍百景が目の前で繰り広げられている。
混乱の只中に放り込まれた甲だが、それとは対照的に目の前の二人はじゃれ合っている。というか、一方的にノイがじゃれているのに菜ノ葉が付き合っている。
……何だ、この状況は。
「こらノイ、あまり迷惑をかけるんじゃないわよ」
「はーい」
「……は?」
呆然としているうちにクリスまでも悪ノリしだした。
キャラ的には『はしゃぎ気味な子供を諌めるお姉さん』とでも言えば良いのだろうか。
ともかく薄ら寒いものしか感じないような笑みを浮かべている。
……いや、だから何さ? この状況。
甲のそんな疑問は空に虚しく溶けて消えたのだった。
第五章 幼馴染 -childhood friend-
「はあ……流石に強いわね」
「これでも私は、フェンリルの誇る二本槍の片割れだから。そう簡単に勝ちは譲らないよ」
現在、真のプロヴィデンスエマージをまともに食らった空は大の字になって寝そべっていた。
床はさっきまでシュミクラムが縦横無尽に走り回っていたとは思えないほど冷えており、火照った身体を程よくクールダウンしてくれる。
「初めての姉妹対決はお姉ちゃんの負けか……あー、何かものすっごく悔しいわ」
「……全然本気を出さなかったなかったのに何を言ってるの」
「……バレてた?」
とーぜん、と真は小さな身体で可愛らしく胸を張ってみせる。
……胸は、どこまでも続く平原を連想させた。
とりあえずプロポーションでは勝った、と少々大人気ない事を考える空。
何か不穏なものを感じたのか、真がじー、っと半目で見てくる。
「お姉ちゃん? 何か失礼な事を考えなかった?」
「私がまこちゃんにそんな事を考えるわけないでしょ」
などと言いながら空は心の中で真に謝罪する。
ごめんね、まこちゃん。大人になるって、悲しい事なの。
空としても結構自信のあったシュミクラム戦で負けたのはそれなりにショックだったのだ。これくらいは許して欲しい。
「お姉ちゃんが手を抜いていた理由は分からなくもないけど、ちょっとだけショックかな?」
「仕方ないでしょー。ずっと探していた妹がいきなり現れて、しかも本気で戦えとかどんな無茶振りよ」
「それをやるのが凄腕じゃないの?」
「……そこは察してくれると助かるな」
言って、大きく息を吐く。
何にせよ、敗れたのは事実なのだ。こればっかりはどうしようもない。
「まあ、仕方ないか。負けた以上は従うわ。要求通りフェンリルに入隊する」
「うん。みんなには私から言っておくから、安心してね」
一体何を言うつもりだ、とも思ったが、下手に追求するのは止めた。
藪をつつけば蛇が出る……そんな言葉が頭に浮かび、猛烈に嫌な予感しかしなかったからだ。
しかし、これからの事を考えると頭が痛くなるのも事実。
組織がどこまで融通を利かせてくれるかにもよるが、確実に行動に制限ができるだろう。
反面、行動に関してはそれなりのバックボーンがいれば何かと重宝はする。
一応は行動指針が指し示されたと考えておこう。
「それじゃあ、お姉ちゃんにはこれからフェンリルを束ねるおやっさんに会ってもらうんだけど」
「待った、組織を率いる人をおやっさん呼ばわりして良いの、まこちゃん」
「もちろん面と向かっては言わないよ」
『ただ、私にはこれがあるせいで筒抜けなんだけどね』
ああ、それは向こうも諦めるしかなかったのかもしれない。あるいはどこからかこちらを見ているであろうシゼル少佐も今頃は頭を抱えているのだろうか。
空はそうやって納得を感じると同時に、違和感もそこに感じた。
妹はその事についてかなり深刻に悩んでいたはずなのだが……語っている表情が妙に輝いているのは気のせいだろうか?
「その話はまた別の機会にね。お姉ちゃんにはそれより前にちょっとしたイベントがあるみたいだし」
「イベント? なにそれ」
「んー、離脱すれば分かると思うよ。じゃあ私はこれでっ」
「あ、ちょっと待って!」
止める間も無く真は何処かへと姿を消してしまった。
あとに残されたのは、虚空へと微妙に手を伸ばした空だけだった。
……何故だか無性に虚しくなってた。
「離脱すれば分かるって言ってたけど……」
じっとしていては何も変わらないのは確かなので、取りあえずは離脱してみる。
0と1の海を越えて、現実へと帰還する。
と、そこに。
「お目覚めですか、中尉」
レインの顔がどアップで映っていた。
「うわあっ!?」
「お元気そうで何よりです、中尉」
予想もしなかった人物の登場に思わず跳び退く空。対するレインは言動こそ穏やかなものの、目が全く笑っていなかった。
確実に怒っている。それもかなり真剣に。
こうなった時のレインは実に凄まじい迫力なのだが……まさか、ここでそれを体験するとは思わなかった。
「え、と……レイン?」
「何でしょうか、中尉」
言外の圧力が想像以上に痛かった。
とても冷めた目付きでこちらを見るレインの視線がグサグサと空の心に突き刺さる。
一体レインは何をそんなに怒っているのだろうか……? などと、考えるまでもない。
どう考えても自分が彼女を置いていったのが原因である。
この様子では言い訳などいくら並べても聞き入れて貰えそうにはない。
だから、今の空にできる事は一つ。
「ごめんなさい」
「……中尉は、何か謝る事をされましたか?」
意地悪だった。
文字通りとりつく島もない。
これは機嫌を直してもらうまで時間がかかりそうだ……そう思って、空は頭を抱えた。
◇ ◇ ◇
少し傷んだ、とある宿の個室。
一通り騒いだ甲達は、とりあえず場所を移す事にした。
そして現在、甲の目の前に座る菜ノ葉の目は思いっきり据わっている。
「さて、甲……いろいろと説明してくれる?」
「あー……」
ノイとクリスは好き勝手に騒ぎ倒しただけであり、事態はちっとも好転してなどいない。
とりあえず、足掻くだけ足掻いてみる。
「えっと、だな……俺は確かにコゥだけど、俺は六条コゥであって君の言う『こう』とはおそらく別人……」
「じゃあ、何で私の名前を知っていたのかな?」
駄目だった。最初の時点で思いっきり詰んでいた。
何か他に言い訳はないかと考えて……
「甲、は……そんなに、私と会いたくなかったの?」
「……ッ」
そんな事はない。俺だって会いたかった。
そう言いたい、素直に再会を喜びたい。
だが下手に関わりすぎるとかえってこちらの事情に巻き込みかねない。
と、そこにクリスが割って入ってきた。
「二人とも、少し落ち着いたらどうかしら」
そう言ってクリスは二人の間に割って入る。
「そういえば……ノイちゃんと一緒にいる貴方は誰なんですか?」
「挨拶が遅れたわね。私は六条クリス―――そこにいる唐変木の『家族』よ」
「…………………………え?」
家族、という部分をやけに強調するクリス。
甲はまた何をやらかす気なのかと頭を抱え、菜ノ葉は文字通り凍りついた。
ただ一人、ノイだけが菜ノ葉の死角でニヤニヤしながら事の推移を見守っている。
「かぞ、く……?」
「ええ、家族」
甲には全く分からない、しかし彼女達には理解できているのであろう言葉の意味とその応酬。
もう一度、茫然としながら『かぞく……』と菜ノ葉が呟く。
不意に甲を見て、それからクリスを見た。そしてまた甲に視線が向けられて……
「……ふぇ」
「ッッッッッ!!!?」
一気に涙ぐんだ。
やばい、やっちまった、という地雷を踏んだ感触。
幼馴染みを泣かせてまで何やってんだ、俺、という後悔の念。
さしもの甲もこれには揺れる。
これ以上、彼女を悲しませないようにするのは確かに簡単だ。
だが、それでは……
「そうだよね……甲には、こんなに綺麗なお嫁さんができたんだね。
空先輩そっちのけでそんな事になったら、確かに会いたくないよね」
「待て、何を一人で納得してるんだ。確かにクリスは俺の妹だが……って、空?」
変な誤解をされたようなので、その誤解を解こうとする甲だが……菜ノ葉の言葉が引っ掛かった。
空先輩そっちのけで……何でそこで空が出てくる?
甲の脳裏にツーサイドトップの天然娘が浮かんでくる。
喧嘩していても一分後にはその相手の人生相談に乗っているような超が付くど天然。彼女と自分はいつも喧嘩ばかりしていて……
はて、何を断る必要があっただろうか?
「……甲。『空先輩』に、反応したね」
「げ……」
またもや『しまった』と思うがもう遅い。完全な他人なら『空先輩』なんて言葉に反応するはずはないのだ。
普段の自分からすればあまりにも迂闊な反応……やはり、感覚が記憶に引っ張られているらしい。
が、狼狽えてもしょうがない。とりあえず元凶のクリスに矛先を向けてみる。
「クリス……お前な、無意味に場を掻き乱すな」
「あら、これでも私は貴方の事を考えて行動しているいるつもりなのだけど。
それと、現実逃避は良くないわよ」
うぐ、と潰れたカエルのような呻きが甲から漏れる。
唯一の味方であるはずのクリスまで相手方についてしまい、八方塞がりな状態だ。
本当に打つ手がなくなってきており、冷や汗をダラダラと流しながら沈黙を保つしかない。
「はあ……分かった。貴方は、甲じゃないん……だよね」
「え……、あ、あぁ……」
と、急に菜ノ葉はこちらの言い分を認めた。
あそこまで頑なだった割にはえらくあっさりと引き下がった事に甲は疑問を感じる。
幼馴染みは静かに目を閉じ、小さく何かを呟いおり状況ささっぱりだ。
そして……
「……じゃあ、一つだけお願い、聞いてくれるかな……」
そんな事を、言い出した
「分かった……何だ?」
そして、軽々しくもそれを聞いてしまった。
本来ならば切って捨てるべきだ。こんな状況からの頼まれ事など厄介な臭いしかしない。
第一、巻き込まないためにわざと遠ざけているのだ。これ以上の接点は本末転倒である。
だけど、それでもーこの繋がりを完全に断ち切りたくはなかった。
そんな甲に、菜ノ葉は儚げに微笑む。
「言伝を、頼みたいんだ」
「言伝?」
「うん。もしも、貴方と同じ顔、同じ名前を持つ人と会ったなら……『何しているかは知らないけど、信じてる』って、伝えて欲しいんだ」
それは、一体どんな心境での言葉だろうか。
菜ノ葉はとっくにコゥが甲である事に気付いている。それは確実だ。
だが彼女は、別人だと言い張るこちらの主張をあえて受け入れた。それは、どんな気持ちなのだろうか。
分かる事があるとすれば、それは―――
「ああ……分かった。必ず伝えるよ」
「うん、お願いね」
自分は、勿体無いくらいに良い幼馴染みを持った、という事くらいだろう。
口には出さず、それでも心の中で菜ノ葉に礼を言う。
自分勝手なエゴに何も付き合う必要はないだろうに……彼女はこちらの意思を尊重してくれた。
話は終わったとばかりに席を立つ。
クリスとノイがそれに続き、部屋のドアを開く。
流れ込む外の空気……それを一身に受け部屋を出る、その直前に甲は振り返った。
「じゃあ、俺はこれで」
「うん……元気でね」
「……ああ」
力強く頷き、一同は部屋を後にする。
最後に一度だけ菜ノ葉を見て―――門倉甲は、六条コゥとしての仮面を再び被った。
静かな音と共に、扉が閉まる。
菜ノ葉以外は誰もいなくなった部屋の中で、彼女は二人が出て行ったドアの方をただじっと見つめている。
不意に、
「……本当、優しい所は変わってないね……甲」
確実に幼馴染は生きていた。
その事実に、彼女は静かに―――数年振りに、喜びの涙を流した。
◇ ◇ ◇
「さて……着いたぞ。ここがフェンリルのベースだ」
あの後、どうにかしてレインを宥めた空はシゼルにつられてフェンリルのベースにやって来た。
発着場に鎮座している見た目は何の変鉄もない一機のVTOLがそうらしく、もっと物々しいのを想像していた空はちょっと拍子抜けだった。
「以外と、普通なんですね」
「我々も表向きは『門倉運輸』という一般事業だからな。あからさまな軍用機でまともな運送などできるものか」
「なるほど……」
確かに軍用機で玄関口を叩かれて『宅急便でーす』などと言われても心中穏やかなではいられないだろう。
というか、ただの運送会社が軍用機など持っているはずがないのだ。
なのでメジャーな航空機であるVTOLなのだろうが……
「……結構なカスタム機ですね?」
「まあ、そうでもしなければ生きていけない世界だという事だ」
やっぱり、見る者が見れば分かってしまうものなのだ。
パッと見た限りは三つの武装……よく探せばもっと見つかるだろう。
なんとも物騒な航空機であった。
「ついて来い。ブリーフィングルームで大佐がお待ちだ」
大佐……門倉永二大佐。
傭兵集団フェンリルを束ねる実力者にして、門倉甲の父親。
らしくもなく、少し挙動が固くなる。
「空さん……」
「大丈夫……大丈夫だから」
とは言うが、実際の空の内心はかなり不安に満ちていた。
妹が好意的な以上は良識のある人物なのだろうが、空にとっては恋人の父親だ。
加えて、傭兵がてらそっちの噂も知っている。
期待と緊張と好奇心と畏怖とが良い感じにごちゃ混ぜになり、何やら自分が自分でない感覚。
どう考えても大丈夫ではなかった。
それでも見栄を張ったのは部下の手前だからなのだろうか。
シゼルが入口に立っている男と二、三言葉を交わすとこちらを手招きしてくる。
「……行きましょう」
「はい」
シゼルの後をついて機内を歩く二人。
中は外から想像していたよりも広く、組織としての力を示している。
そうして機内を歩き回りながら周囲の観察をしていたところで……シゼルが一つのドアの前で止まった。
「この中に大佐はおられる。失礼のないようにな」
「っ……」
その一言で背筋が伸びた。
いる。いるのだ。
たった一枚のドアを隔てて、彼の父が……生きた伝説が、そこにいるのだ。
ゴクリ、と意識せずに喉が鳴る。
シゼルはそんな空を見て苦笑した。
「そう緊張するな。大佐に初めての会う者は皆似たような反応をするものだ」
「はあ……」
何だかよく分からないが、彼女なりに緊張を解そうとしてくれたのだろうか。
とりあえず落ち着こうと深呼吸をする……酸素が入れ替わり、少しはマシになった。
「では、行くぞ」
機械的な音と共にドアが開いていく。
そこから視界に飛び込んでくる大型のシステムデスクやコンソールの数々。
隊員らしき者も見受けられる。
その中。
部屋の中心に、他とは全く違う圧倒的存在感を持つ男がいた。
彼が……
「よう、来たか。待っていたぜ嬢ちゃん達」
彼―――真がいうところのおやっさんが、そこにいた。
「……今、妙な事を考えなかったか?」
「いえ、特には」
どうやら勘も鋭いらしい。
今現在、空の中での凄腕ランキングで永二の順位はうなぎ登りだった。
「まあ良いか……んじゃ、まずは自己紹介から始めるとすっか。
俺は門倉永二。知っての通りフェンリルのトップで―――門倉甲の父親だ」
「傭兵協会所属の水無月空中尉です。初めまして」
「部下の桐島レイン少尉です。お噂はかねてより聞き及んでいます、大佐」
永二の野暮ったい挨拶に敬礼を返して応じる空とレイン。
んな堅くならずに気楽にしてくれと言われるが、そんな簡単に別環境に馴染める程に器用ではないのだ。
話が進まないと判断したのか『とりあえず』と永二が切り出す。
「来てもらうために部下がちょいと荒っぽい事をしたらしいな。先に謝っておく、すまん」
「いえ、形はどうあれ同意の上で臨んだ事です。謝罪される必要はありません」
あのまま突っぱねる事も出来たはずなのに、目先の情報に釣られたのは間違いなく空自身の失態だ。
そこを叱責される事はあれど、謝罪される事はない。
「とにかくだ。そっちとしても二人で話したい事はあるだろうし、面倒な話はそれからにしようや」
「え、入隊の件は……」
「真ちゃんがまたやんちゃしたらしいしな、ノーカンだノーカン」
トップがこんな事で良いのだろうか……
激しく疑問が湧くが、今は封殺しておく。そのおかげで選択肢はまたできたねだから。
「ありがとうございます、大佐」
「堅いねえ……まあ良いか。部屋を用意してあるから使ってくれや」
永二が目で合図するとシゼルが再び前に出る。
先導してブリーフィングルームから出る彼女に二人が続き……
「時間があるなら、後で話したいんだが……良いか?」
「……」
そんな言葉が掛けられた。
投げかけられた意味は一々聞き返すまでもない。現時点で、空と永二の間に存在する話題など片手で数える程だ。
それが分かるから―――少し、懐かしい気分になりたいと思ったのだろうか。
「……分かりました。私も、いろいろとお話ししたいですから」
気付けば、そんな言葉を返していた。
あの頃と比べて、自分の両手は血と憎しみに染まり切ってしまったけど……
たまには、思い出話も良いかもしれない。
◇ ◇ ◇
スラム街の一角に位置するアダルトショップ―――兼、ノイの診療所。
やっと帰り着いたコゥ達は手にぶら下げた荷物を下ろして一息吐いていた。
「やーっと帰って来たな」
「ほんとね……肩が痛くて仕方がないわ」
大きく肩を回して背筋を伸ばす。長時間ずっと両手に荷物をぶら下げていたのは流石にキツかったらしい。
少しして落ち着くと、三人は買ってきた物を袋から引っ張り出して片付けていく。
「しっかし甲君、あんな良い子と知り合いだったのかね? 君も中々隅に置けんな」
「幼馴染みですよ。というか、ノイ先生こそ何なんですかアレ。あんなキャラじゃないでしょう」
「なに、私とて他人に甘えたい時もある。彼女のような母性溢れる者には時々ああして甘えさせて貰っているのだよ」
「貴方でもそういう事はあるのね……意外だわ」
「失敬な。君は私を何だと思っているのかね」
などと他愛のない会話を交わしながら時間が過ぎていく。
買い集めた薬品やいかがわしい品をしかるべき場所に置いて、整理する。
作業が終わる頃には、日が傾き始めていた。
手伝いを済ませたクリスは『さて』と言って重さを感じさせない動作で立ち上がる。
「最低限の義理は果たした事だし……私達はそろそろ行くわ」
「おや、もっとゆっくりしてくれても良いのだが」
全く残念そうにない顔で残念そうに引き止めるノイ。
分かりやすいのか分かりにくいのか、いまいち掴みにくい人物だった。
「診察の経過を報告しには来ますよ」
「なら良いのだがね……事情が事情とはいえ、過去に診察を放り出されてしまった経験があってね。
頼むから君までそうならないでくれたまえ。途中で消えられるのは私としても後味が悪い」
「……分かりました、約束しますよ」
普段はいろいろとアレだけど、やっぱりこの人は医者なんだな。
心の中で呆れると同時にそんな事を考える。
こんなだからだろうか、あんなセクハラ紛いの発言を連発してもこの人はどこか憎めないのだ。
「……ほんと、性別が違うと誰でも攻略しにかかるのね」
「なんと、いやあそれならそうと早く言いたまえ。
こんな時間から患者と医師による禁断の爛れた時間を過ごすのも悪くない……」
「だからっ、何でそーなる!? 人聞きの悪い事を言うなっ!!」
わざとらしく頬を赤らめれても、その顔に浮かぶ肉食獣の如き獲物を前にした笑みが全てを台無しにしていた。
見た目だけは可愛らしいだけに全くもって油断ならない。
当然、からかわれているというのは理解しているのだが……
「遠慮をする必要などないというのに……」
「ケダモノの癖に何を理知的に振舞っているのかしら」
……いや、もしかしたら、本気かもしれない。クリスなど目が本気でこちらを侮蔑している。
本当のところはコゥには分からない。分からないからこそ恐ろしかった。
これ以上この話題を続けていると碌な目に遭わない―――そう確信して、とっととこの場から離脱する事を選択。
ちゃっちゃと荷物を纏めて自分も立ち上がる。
「それじゃあノイ先生、俺達はこれでっ」
「む、待ちたまえ甲君っ。君のその剛直を―――」
「だぁぁぁああああああああああっっ!!! それ以上は禁止ー!!」
一秒でも早くこの場から脱出するため、脱兎の如き勢いで駆け出す。
このままここにいては何か大切な物を失いかねない。主に尊厳とか、そんな感じのを。
人として最低ランクのモラルだけは守り通してみせると明日への逃避行を開始するコゥ。
クリスもそれに続いて駆け出す。
「まったく……きちんと定期健診には顔を出したまえよー!!」
「分かりましたー!!」
ノイは診療所の玄関から走り去る二人の背を見つめる。
夕日に紛れていくそれはとても脆く見え……
「しかし、門倉か……神など信じる気はないが、これも運命や宿命とでもいうのかね」
目を細め、これから彼らの前に立ちはだかる困難を思う。
願わくば―――あの若い命が押し潰される事の無いように……今のノイは、そう思う事しかできなかった。