レギオーは子鬼用の椅子と机に座ったまま、机に広げた大量の巻物に齧り付いていた。
幾星霜もの年月を経た紙が出す独特の匂いに囲まれて、銀縁のメガネをかけた彼は机の上に山と積まれた巻物を舐めるように読みふけっている。
そんな横に、鎧を身につけて斧槍をボロ布で磨く怪物の姿があった。
「なあ」
「……」
「おい」
「……」
「おーい」
「……」
「聞いているか?」
「……何です?」
「ちょっと外出したいのだが」
「どうぞ、ご自由になさってください。私は今、一族の誰も触れることの出来なかったロストメモリーズに埋れているんです。ちょっと角が離せませんのでお一人でどうぞ」
「いや、お前がいないと困る」
「私が? 何をしに行かれるのですか」
「いや、ちょっと見回りと地図作りを、な。前みたいに他の生き物に出会った時に、通訳がいないと困る、いや、困らないかもしれないが、まあ、その、なんだ」
「……?」
そこで漸く、レギオーは視線を移し、メガネを外して首に鎖で引っ掛けながら顔を上げた。
そこにはどこかバツの悪そうな顔で頭をかく怪物が、床に胡坐をかいて座り込んでいる。
「どうしたんです? いったい」
「いや、なあ、うむ。アレだな、どんな生き物でも、一度楽を覚えてしまってはなかなか前の状態には戻れないものだ」
「はぁ……」
「あー、その、つまり、な、以前は丸っ切り誰とも話が通じんし、それが普通だった。だが、レギオー、お前が現れて、話が出来る相手が出来た。別に、今までずっと話しが通じん状態でやって来たんだ、早々不都合はない。ない、が、うむ、今更言葉が通じる相手がいるって言うのに、わざわざ一人でぶらつくのも、な、まあ、そういう事だ」
最後にはその白い頬にうっすらと紅を載せて、まるで要領を得ない尻切れトンボである。
が、その人生経験によって人一倍聡い性を持ったレギオーは、すぐさま怪物の真意を悟った。
つまるところ、この恐ろしい怪物はレギオーがいないと寂しいと、遠回しにそう言っているのである。
それに気がつくと、レギオーは優しい微笑みを浮かべ、今まで手にとっていた巻物を片付けた。
「そうですね……たしかに、そろそろ外の空気を吸いたいと思っていた所ですから、ちょうどいい気分転換になりそうです」
「おお、そうだろうそうだろう! 私もそう思っていたんだ。根を詰めすぎても良い成果は出ないぞ、適度に息を抜かないとな」
「ふふ……ええ、そうですね。すごく最もらしい言葉です」
「なに?」
「いえ、何でも。さあ、行きましょうか」
「ああ」
外したメガネを革張りのしっかりとしたケースに仕舞って蓋を閉じると、それを腰元のポーチにしまう。そのポーチの中身はレギオーの数少ない私物であり、怪物が馬車ごと持って来てくれなければ紛失してしまっただろうものだ。
娯楽といえば読み物くらいしかなかった彼にしてみれば、決して変化しない自分の遠視は悩みの種で、それを解決してくれる眼鏡は手放せない必需品である。
椅子から立ち上がり、背もたれにかけていた外套を羽織る。
日によっては汗ばむような陽気が訪れるようなもう春先近い季節とは言っても、ふと気を抜いた瞬間に走り抜ける冷気はまだまだ冬を感じさせるもので、彼からすれば上着なしではやはり、寒い。
レギオーは嫌な意味での温室育ちであった。
二人して図書館から外に出ると、屋内は暖房が効いていたせいもあってか、よけいに寒く感じてぶるりと震えが走った。
吐く息が、ほんのりと白い。
気がつけば、時刻は空が白み始めるような薄靄である。
明るくなり始めた東の空を見ながら、レギオーはそっとその右手を己の首もとへやる。
そこに物心着いた頃から嵌っていた黒い戒めは、今はもう無い。
「どうした?」
じっと空を見上げて固まったレギオーを見て、怪物が首を傾げている。
一生解けぬと決めつけていた戒めを、この美しく恐ろしい怪物はあっさりと打ち壊した。
それを、いったい彼がどれだけ感謝しているか。いったいどれだけ心の奥底を揺さぶったか。
この怪物は知りもしないし、知ろうとも思わないだろう。
それが、なんだか彼には歯痒くて仕方がなかった。
万感の思いを込めて「ありがとう」と伝えても、この常識はずれの怪物はただ不思議そうに首を傾げて「何も難しい事をした覚えはないのだが」と答えるのだろう。
そんな事では、伝わらない。
そんな答えでは、満足できない。
嗚呼、この、胸の奥底からこんこんと湧き出る感情の名前は一体?
レギオーは怪物の声には答えず、じっと太陽が世界の果てから顔を出す様を見つめ続けた。
怪物も、そっと彼の顔を覗き込んでから、何やら満足気な顔つきで同じように東の空を見上げる。
美しい怪物と一角獣は、共に綺麗な微笑を浮かべながら、ただ黙って、今日一日の始まりを目撃するのだった。
――――――――――――――――
一方そのころ、樹海の端で死闘が始まっていた。
「キィエエェェェェェェイイッィイ!!」
左中段からの一刀は、迫り来るメガバグズを左から右に両断した。
ビシャビシャと飛び散る汚らしい体液をそのままに、アブドゥルは大上段に構えたまま俊足の踏み込みで、一歩。
「イリャァアァ!」
これぞ、脳天唐竹割り。
おぞましい節足を蠢かせながら、見上げるほどに巨大なメガバグズが左右に分かれて絶命する。
特注の大曲刀についた体液を振り払いながら、彼はすぐさま身を翻した。
「シャリアン! 小さいヤツ、次が来るぞッ」
「言われるまでも、ないわよっ!」
背後にイソラを庇いながら、赤の信奉者は後ろで括った長髪を翻しながら両手を頭上で組む。
その瞬間、体内のマナ・プールから赤の魔力が吸いだされ、掲げられた両手の中で急速に結晶化する。
結晶化した力は小さい太陽のように閃光を時折放ちながら、不気味に脈動しつつ開放される瞬間を今か今かと待ち構えているように見える。
見るものによっては狂笑とも取られかねないものを顔に貼り付け、赤の信奉者は両手で暴れ狂う赤の魔力に指向性を持たせて解き放った。
「燃ぉえぇちぃまぁええぇぇぇぇぇぇえええええッ」
荒れ狂う赤の魔力が超高温の熱波となって薙ぎ払われる。
人間など一瞬で炭化するヒートウェイブに襲われて、地面を埋め尽くす蟲の群れは業火の中で焼け死んだ。だがそれでも、次から次へと地面に空いた穴から現れる黒い甲虫の群れは留まることを知らないように襲いかかってきた。
「ちっ、糞虫共がぁ、この《赤の信奉者》とマジでやろうってぇわけ? いい度胸じゃないのよぉ! あんたらが死に絶えるか、あたしのマナ・プールが空になるか、どっちが先か試してあげるわよッ」
舌なめずりをするシャイアと、イソラを挟んで反対側。
こちらも襲い来る巨大なメガバグズを斬り殺すリーンが新たにキルマークを追加しながら声を張り上げる。
「シャイアさん、こいつらドローンだッ、クイーンが何処かにいる! このままじゃ押し切られちまうぞ!」
切羽詰ったようなその言葉に、シャイアは戦闘者しか浮かべ得ない獣の微笑をその顔に浮かべた。
「なら、小生意気な売女を巣穴から引きずりだしてやるわ。アブドゥル、イソラちゃん! 5秒!」
「心得た!」
「は、はい!」
イソラが自分とリーンを包む障壁を張り、その外に出たシャイアは全身を渦巻く炎で覆いながら蟲の群れを物ともせずに歩く。
イソラの障壁を破ろうとメガバグズが20体、今までで最多の数を持って挑みかかるも、5体はシャイアの周囲に近づいただけで消し炭となり、残り15体。
「おおっ、拙者がお相手申す!!」
アブドゥルの全身が膨張する。
踏み込まれた地面が爆散し、天頂高く突き上げられた切っ先が雲を引く。
一瞬で常人の数十倍にも至る筋力を引き出し、最早一端の剣客では残像を目で追うことすら難しい神速を持って刃が振り下ろされた。
「きぇっ!」
音すら背後に置き去りにして、空気を切り裂いた一撃はその余波だけでメガバグズの一軍を蹴散らした。
まるで子供が虫を石壁に叩きつけたように、全身をバラバラにしたメガバグズがやたら湿っぽい音を立ててぶちまけれる。白っぽい体液を周囲に飛び散らせ、熱せられた空気と地面に蒸発すると、それは胸の悪くなるような甘ったるい芳香を放った。
障壁の強度を上げ、途切れぬようにマナを注ぎながらイソラは箒で身体を支えながら必死に吐き気を我慢する。
熱せられた空気で視界が歪み、膨張した空気が荒れ狂う。
死闘のただ中で、イソラは思った。
ここは、地獄だ。
「うふふ、ふ、そぉんなくらぁいところに隠れてないでぇ、あたしと一緒に遊びましょ」
赤の信奉者の瞳孔が散大する。
外から、中から、溢れ出るマナの奔流が最も原始的で荒々しい、赤の魔力に変換される。
炎の色は赤から青に、最後には直視することすら難しい白金に。
世界の始まりにそこにあり、気の遠くなるほど年月が経ってなお燃え尽きない「星の火種」。
これこそ、シャイアが今世紀最高峰の赤属性の魔法使いと呼ばれる所以であった。
「あたしを相手にしてぇ、地の底に隠れるなんてぇ……愚かなことを、したものねぇ!」
全身を渦巻く赤の魔力で覆いながら、白金の光の中尚もギラギラと光る獣の眼光。
この目を見て、生き残った敵はない。
荒れ狂う炎の奔流から守るように、リーンとイソラを覆う障壁の向こう側にアブドゥルが立ちはだかって叫んだ。
「イソラ、リーン、炎を見てはいかん! 目をつぶれ!」
その言葉が届くや否やといった所で、想像するだに出来ない超高熱の火柱が視界を覆う。
間違いなく一級と言って差し支えないイソラの障壁越しに、肌をジリジリと焼くような、正気を疑う赤の魔法。
音すら遮断する障壁を貫いて、背筋が凍るような焦熱音が二人を包む。
「うっぬぅ! 馬鹿者が、威力を絞らぬか!」
地面に突き立てた大剣に襲い来る熱波を魔力に変化しつつ注いで、アブドゥルは大声で悪態を付いた。もっとも、この炎の祭典の中にあって、その声が聞こえたかどうか疑問ではあった。
やがて、変化が起こる。
四人の周囲を縦横に地割れのような線が走ったかと思うと、裂けた地面から同じように炎の柱が吹き上がった。
所々爆発するように太い柱が上がるのは、果たしてそこに隠れた巣穴の出入口があったのか。
そのうちに一際大きな火柱が、80歩ほど離れた森の中で吹き上がると、全身を炎で焼かれてボロボロと炭化したメガバグズの女王が飛び出した。
最早そこに世界最大の甲虫を統べる女王としての威厳はなく、ただただ狩られるものの恐怖と悲哀があるだけ。
炎を吹き消し、赤の信奉者が叫んだ。
「アブドゥル!!」
「応!」
焼けた地面を物ともせず、異国の魔道士は跳んだ。
熱波で掻き乱される空気の層を文字通り切り裂いて、魔法使いの大剣は巨大な女王をまっぷたつに断ち割った。
「うぬらの負けよ!」
「あたしの勝ちよ!」
二つの勝鬨が、焼け野原に高らかと響いた。
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酷い有様となった森の中の空き地――いや、強制的に空き地となってしまったところへ腰を落ち着け、三人の魔法使いと一人の戦士が英気を養っている。
水筒の中身を一口だけ飲み込んで、黒髪の戦士が大きな溜息をついた。
「……以前通った時はメガバグズの巣なんてなかったのに。どうなっているんだ」
納得行かないふうに汗を拭う彼の隣でイソラも同じように首を傾げ、その拍子に母譲りの銀髪が汗に濡れ、顔や首筋に張り付いている。
そんな様子を見るに見かねたリーンは取り出した手ぬぐいで少女の汗を拭い、解けてしまった銀髪をもう一度三つ編みに括り始めた。
そんな二人を見て、ターバンを解いて汗を拭うアブドゥルが「やれやれ」と溜息を付く。
「愚か者。辺境樹海を甘く見よったな? 獣道すら三日と経たずに行方が知れぬ、何一つ信用できぬ魔の森よ。感じぬか、奥に進むほどに、まるで体中を突き刺すように濃密になるマナの奔流を」
その言葉に、二人は顔を合わせる。
今度はシャイアが溜息を付いた。
「ダメよ、アブドゥル。リーンはそう言うのは全く分からないし、イソラちゃんなんてあの魔女アリステアの娘なんだもの。むしろ森の中のほうがマナののりがいいんじゃなぁい? ねぇ?」
「あ、は、はい! なんだか、体が軽くて、殆ど式を組み立てずに魔法が使えます」
「ふん……相変わらずの常識はずれ共よ。こちらなど、注ぎ込まれる魔力のせいでマナ・プールを閉じねばならんほどだというのに」
「そうそう。あたしなんてあんまりマナが一杯あるせいで加減が出来な――いたぁい!」
憤怒の顔つきで、アブドゥルがシャイアの頭にげんこつを落とした。
「糞戯けが! 加減が出来ぬのは毎度のことであろう! 樹海を言い訳に使うでない!」
「いっったぁああい! ちょっとぉ! 手加減してよぉ。アブドゥルの力で叩かれたら死んじゃうでしょぉ」
「喝ッ! お前と一緒にするな、手加減しておるわ!」
ギャアギャアと口喧嘩をし始めた魔法使い二人を尻目に、激戦の緊張が解けたのかうつらうららかと船を漕ぎ始めたイソラ。
リーンはそんな彼女をそっと横たえて膝枕をすると、盛大に自然破壊が行われた風景をなるべく視界に収めないように空を見上げた。
「もう、昼近くかなぁ……」
その時、時刻は午前九時。
死闘というべき激戦は、若き青年の胃袋を直撃していたのだった。
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誤字修正と加筆。