ある朝のことである。
壮一郎とマミが出会ったその日、早朝。
これまで経験し得たことの無い未知との遭遇を果たした壮一郎は、混乱の極致にあった。
生首と叫び声の合唱をしてしまったのだ。本当にわけがわからない。隣室の住人のうるせえぞと壁を叩く音で正気に戻った壮一郎だったが、冷静になればなるほど再び混乱していくという負の連鎖に陥っていた。
胡坐を掻いて座った卓、その対面には――――――否、卓上には、少女がちょこんと“置かれていた”。
置いたのは自分である。
まさか自力で移動出来る筈がないのだ。
なぜなら、その少女は――――――生首、であったからだ。
「あの・・・・・・」
少女、の生首が発した声に壮一郎は身を硬くした。
あろうことか、その生首は生きていた。
生命活動維持に必要不可欠な大部分を失ってなお、生きて、呼吸をして、瞬きもして、生きていたのだ。口を開閉しながら、存在しないはずの肺から空気を絞り出し、言葉を発したのだ。
自分が大切にしていた鉢植えに、すっぽりと端正な顔を納めて。
混乱を通り越してまた恐慌寸前になるやもとぐっと身構えた壮一郎だったが、叫び声を上げ続けてカロリーが消費されたのか、頭に血は上らなかった。
代りに心臓が痛いほどに暴れている。
極限の恐怖を味わうと、人間は逆に冷静となるらしい。初めての経験だった。
冷汗が顎下にまで溜まり、滴り落ちた。
指先が凍えるほどに寒いというのに汗が止まらないなど、これも初めての経験だった。
「ここは、どこなんでしょうか?」
「見滝原の、ボロ社員住宅だけど・・・・・・」
「はあ、あの、つかぬことをお聞きしますが」
「あ、ああ、どうぞ」
「私、何なのでしょうか?」
「は、はあ?」
「あ、いえ、すみません、言い間違いました。あの、私はいったい何者かなと、聞きたくって・・・・・・」
愛らしく小首を傾げて問う少女。
指があれば、人差し指を頬にでも当てていたのだろうか。
知るか、と壮一郎は怒鳴り付けそうになった。
ここは何処私はだあれ、などというやり取りをよもや実際に聞くことになろうとは。自分がいったい何者なのか、という意味で彼女は言を発したらしいが、答えられるはずもない。
そんなことは俺が知りたいよ、とは壮一郎は言えなかった。一切の冗談が含まれていない、真剣な質問だった。本当に彼女は自分がこの場にいる経緯を把握していないようだった。
生首であるに飽き足らず、記憶喪失であるというのか。
黙り込む壮一郎に、少女の目線が泳ぐ。
長い睫毛がふるりと揺れた。
瞳の端が光ったのは、朝露が溜まったからではないのだろう。
壮一郎は溜息を吐きつつ口を開いた。
全く気乗りがしなかった。
「何も覚えてないのか」
「あっ、は、はい。何も覚えてなくて。その、昔のことは思い出せるんですけれど」
「昔のこと?」
あるいは、壮一郎は彼女に記憶が存在しないのではないかと思っていた。
どう見ても自然発生したようにしか見えなかったからだ。
植物ではないことだけは確かだが。
「はい。私も、見滝原に住んでたんです。小学校の頃はあんまり目立たない子で、運動も勉強もそれなりで。それでも両親は私のことをうんと愛してくれました。
そして中学校に上がって、両親の期待に応えようって、勉強も運動もいっぱい頑張って、それでお父さんもお母さんも喜んでくれて、それで、いつも頑張っているからご褒美に出かけようって、それで、それで・・・・・・」
「それで、どうなったんだ?」
唇をわななかせ、顔色を青くする少女に、しかし壮一郎は続きを促した。
少しでも多くの情報を聞き出さなければどうにもならないからだ。
こんな異常事態を、全くの手つかずのままで放っておく訳にもいかない。
警察に電話しようかとも考えたが、それは確実に良くない事態に発展すると、普段は冴えないはずの直感が告げていた。
自分で何とか出来る範囲まで、何とかするしかない。
逃げるなり、捨てるなり、何なりと。
実害が出ない範囲まで。
「それで、それで・・・・・・お父さんが車を運転してて、対面から、ライトがピカッて光って、まぶしくて・・・・・・」
「・・・・・・それで?」
「大きな音がして、上も下も解らないくらいにぐるぐる回って・・・・・・赤い水溜りが、出来てて。それは、お父さんと、お母さんと、私の身体から出ていて・・・・・・」
はつはつと、少女の呼吸が小さく、細くなっていく。
眼はきつく瞑られていた。
眉間に皺を寄せ、少女は叫び声を上げた。
「わ、わたし・・・・・・私、死んだはずなんです! お父さんと、お母さんと一緒に、死んじゃったんです! でも、どうして! 眼が覚めて、窓ガラスに映った私は、私の顔は、顔だけで!」
壮一郎が何をかを言う前に、隣室から壁がばあんと叩かれた。
うるせえぞ、という壁越しからの怒鳴り声。
すみません、と消え入りそうな声で少女は眼を伏せた。
真一文に唇を引き絞ったが、しかし一度噴き出した不安を押し留めることは出来なかった。
「あ、あ! ごっ、ごめ、ごめんなさ・・・・・・ごめんなさいっ! ごめんなさ・・・・・・あああ」
嗚咽が漏れる。
ごめんなさい、ごめんなさいと、そう繰り返して、少女は必死に涙を留めようとしていた。
場を取り繕おうと、必死に笑みを浮かべようともしていた。出来そこないの笑みだった。
その全ては失敗に終わっていた。
流れる涙や、鼻水や、涎をぬぐう事さえできないのだ。
少女は、生首なのだから。
「・・・・・・ええい、くそう。もう何とでもなれ」
諦めたように吐き捨て、壮一郎は鉢植えを両手で抱えると、そのまま抱え込んだ。
もう大声を上げさせることは出来なかったし、生首とはいえかなりの美少女が顔をくしゃくしゃにして涙しているのだ。罪悪感も湧く。
それ以上に恐怖の方が強かったが、諦めたのは一時の常識である。もう何とでもなれ、そういうことだ。
口を塞ぐ訳にもいかず、半ば自棄になって壮一郎は、少女の頭を腕の中に抱き抱えた。
仕方なしに、寝巻の裾でとめどなく溢れ出す涙を拭ってやる。
ふぐ、と少女が壮一郎の胸元で息を詰まらせた。
くぐもった呻き声が聞こえて来る。
「うううーっ、あうううううーっ!」
「よしよし。泣け泣け、たんと泣け」
人の頭というものは、思っていたよりもずっしりと重かった。
そう長い間抱えていられるものではない。
震え始めた腕を、壮一郎は膝で無理矢理に抑えつけた。
今だけは、意地を張りたいと思ってしまった。
例え、初めから恐怖で手が震えていたとしても。
それは恐怖を克服しようとする意地であったかもしれない。
何故か壮一郎は、この少女の生首に、頼れる大人としての面子を取り繕っていたいと思っていた。
しばらくして、すんすんと鼻をすする音が聞こえ始める。
ゆっくりと鉢植えを引き剥がすと、粘着質な液体が服の裾と少女の鼻先で橋を作っていた。鼻水だった。
ごめんなさい、と少女はまた言った。壮一郎は肩をすくめると、ティッシュ箱を手繰り寄せて数枚紙を取り、涙と鼻水で汚れた少女の顔を丁寧に拭き取ってやった。
目が粗いティッシュでは肌が擦れて痛いだろうに、少女はえへへとはにかんで、どこか嬉しそうにしていた。
「だいたい、事情は把握したよ」
「はい、その、私これからどうしたら」
「別に、どうすることもないだろ。警察だかに連絡する訳にもいかないし。どこかに行きたいっていうなら連れていってやるし、ここに居たけりゃ居たらいい。
あと数日でここから叩き出されちまうから、その後のことは保証できないけどよ」
「あの、それじゃあ、私」
途端に曇る少女の顔色。
置いていかれるのだとでも思っているのだろう。
壮一郎はにっと笑うと、少女の頭に手を置いて言った。
別に年下の女の子の扱いが上手いという訳ではない。
そこしか触れる部分が無いのだから、仕方が無い。
「職もないし、金だって独り身の癖にそうはない。加えて、運もないとくれば。しかも来週には路頭に迷うことが決まってる。
それでもいいって言うんなら、お嬢ちゃん、俺と一緒にいるかい?」
「あ・・・・・・」
一瞬、呆けたようになる少女。壮一郎が何と言ったのか、ゆっくりと理解しているかのようだった。
ただそう言った側としては、頭を抱えたくて仕方がないのだが。
しまった、つい勢いで言ってしまった。昨晩の酔いが残っていたか。
歳をとるにつれ説教臭くなるというが、ようは歳をとって、自分のヒロイックさを発揮できる機会を見逃さなくなるようになっただけだ。
種の保存の本能に関係している、かもしれない。脂の乗った男盛りの壮一郎である。ここまでの美少女に縋られて、いい所を見せない訳は無かった。ただしその美少女は生首であるのだが。
兎に角格好を付けた手前、吐いた言葉は飲み込めない。
壮一郎は内心を顔に出さないように努力した。
「はい・・・・・・はい!」
「こら、せっかく拭いてやったのに、また泣く奴があるか」
「ずびばぜぬぶぶぶ」
「喋るなって、拭きにくい。ほら、鼻かんで。チーンってなさい、チーンって」
「ふぐ、ちーんっ、ずず」
顎下の涙を拭う振りをして、壮一郎はさっと確認をとる。
少女はくすぐったそうに身を、頭を捩じらせていたが、どうしても確かめたいことがあったのだ。
それは、断面がどうなっているか、ということ。
手を滑らせたフリをして、首筋に指をなぞらせる。ひゃん、と少女が可愛らしい声を上げた。壮一郎の指先が少女のキメの細かい肌を滑り、土と肌が接しているそこへと到達する。
覚悟して少しだけ地面を掘り起こしてみると、そこには壮一郎が予想していた朱色は、存在していなかった。
「んっ・・・・・・んっ・・・・・・」
しばらく首筋に手を這わせ、間違いない、と壮一郎は確信を得る。
肉か、血管か、神経のどれかが露出しているのではないか、と思っていたのだが、違った。そこには、淡い黄色の光の粒が泡となって、揺ら揺らと揺らめいていた。明らかに物理現象の反応でも化学変化でもない。超常現象だった。
死んで、生き返ったのだと少女は言った。
ならばこの娘は、モノノ怪に属するものに違いないだろう。
つまり、妖怪である。
この少女はおそらくは、音に聞く大陸妖怪、飛頭蛮に相違ない。日本ではろくろ首と呼ばれるそれに、相違ない。
普段は人となんら変わりない彼らは、自分が「それ」であるとも気付かないそうだ。
恐らくは死に面して、無意識に死に体を捨て去ったのだろう。
ごくり、と喉が鳴ったのを壮一郎は自覚する。
サラリーマンが心霊現象に遭遇する、という都市伝説は腐るほど存在しているが、まさか元サラリーマンである自分が体験することになるとは。
あまつさえ、話しの流れで一緒に暮らすことになったなど。
「あのっ!」
「あ、いや悪かったな。もう拭き終わったぞ」
「あ・・・・・・いえ、その、いいんです! 私、こんなだけど、がんばります!」
「うん、まあ、何だ? 色々大変だろうからな、頑張れよ」
「がんばりますから!」
と、少女は決意を込めた眼で頷いていた。
やはり目の粗いティッシュで顔を拭いてしまったのがいけなかったか、少し肌が荒れてしまったようで赤くなっていた。
しばらく見つめあっていると、またも少女があの、と声を上げた。
「あの・・・・・・おじ様の名前を教えて頂けませんか?」
「おじ様って、俺まだ・・・・・・」
「おじ様?」
「ああ、いいよ、気にするな。そうだなあ、自己紹介も未だだったよな」
「ですね。ふふ、名前を教えあう前に、恥ずかしいところ、いっぱい見せちゃいましたけど」
「だなあ」
「むう・・・・・・そこは、そんなことないさ、って言ってくれないと」
「うるへ。オッサンに期待なんかしなさんな」
見合って、あはは、と二人で笑う。
笑えたことに壮一郎は胸中で驚きを感じていた。恐怖は、ある。それはどうしようもない。でも、それだけではなかったのもまた事実。
クビにされた自棄だったのかもしれないし、歳経た感傷によるものだったのかもしれない。
気付いたことは、自分には彼女に対する嫌悪感が無いということだった。壮一郎は彼女を悪いモノであるとはどうしても思えなかったのだ。
それは奇異な存在に対する恐怖とはまた別のものだ。壮一郎はそう思った。
少女は静かに微笑んで、桜色の唇から己の名を紡ぐ。
「私の名前は――――――」
巴マミ――――――と。
可憐な少女の生首は、そう名乗ったのだった。
その日から、マミと壮一郎の奇妙な共同生活が始まった。
非常に不自由であるマミのため、壮一郎は食事は勿論、風呂や、果ては散歩まで、常に共にあって甲斐甲斐しく世話をした。
壮一郎に飲みこぼしを拭われる度、風呂で髪を洗われる度、鞄に詰められて外に遊びに出かける度にマミは申し訳なさそうな顔をしたが、それも直ぐに幸せそうな笑みに変わっていくのは、毎度のことであった。
数日後、次第に記憶を取り戻していったマミの案内で、生前に両親の遺産で購入したというマンションの一室に生活の場を移しても、それは変わらなかった。
こんな毎日がいつまでも続く、とは人生をそこそこに経験した壮一郎は思えない。
一人暮らしを強いられることとなったマミも、きっと解っていることだろう。人間社会に紛れて暮らしていくには、マミは制限が大き過ぎた。
だが、今しばらくはこのまま穏やかな時が流れればいいと、壮一郎は、マミは、想い願っていた。
それが魔法少女に待つ悲痛な運命を迎えるまでの、一時の安らぎと知らず――――――。
魔法少女マジか☆マミさん
「ζ*'ヮ')ζ<ていろふいなあれ☆」
夢を見た。
白一色の夢だった。
幼い頃から心臓の病気で入退院を繰り返していた自分にとって、思い出など、病院の光景の中にしかない。
清潔なシーツに、病室。検診に来る主治医に、看護師。どれもこれも全てが真っ白で、何年経っても、曇り一つなく真っ白なまま。
白に閉ざされた世界だった。
そこで自分はいつも寝たきりでいて、チクタクと音のする壁掛け時計をじっと眺めながら日々を過ごしていたことを覚えている。
チクタク、チクタク、世界にはそれだけ。チクタク、チクタク、たった一つの音だけしかない。
不満はなかった。身体が満足に動かせないことを覗けば、特に何不自由なことなどなかったからだ。
今直にどうにかなってしまう病ではなかったが、それでもこれから先、ずっと長い間、それこそ一生こんな生活が続くのだろうなと思っていた。
負い目があったのか解らないが、次第に両親も仕事を理由に見舞いにすら来なくなっていった。
別にどうということもなかった。
正直なところを告白すれば、怖かったのだ。
ここは白に閉ざされた世界。檻の中にさえいれば、傷つくことは無い事を、自分は知っていた。外の世界が恐ろしい場所であることを、知っていたのだ。
チクタク、チクタク。
私の世界はこれだけでいい。
外の世界になんて、いいことなど何一つとして無いのだから。
そう、思っていたのに。
『そんなに緊張しなくていいよ、クラスメイトなんだから。私、鹿目まどか。まどかって呼んで』
――――――覚えている。
『いきなり秘密がバレちゃったね。クラスの皆には、内緒だよ』
――――――覚えている。
『ほむらちゃん、私ね、あなたと友達になれてうれしかった』
――――――覚えている。
『さよなら、ほむらちゃん。元気でね』
――――――覚えている。
『騙される前のバカな私を、助けてあげて、くれないかな』
――――――覚えている。
決して忘れるわけがない。忘れられるものか。忘れてなど、なるものか。
交わした約束は、目を閉じる度に確かめられる。
進まなくてはならない。
彼女との約束を果たすまで。
押し寄せる闇を振り払って、進まなくては。
例え、他の何を犠牲にしてでも――――――。
『君はどんな願いでソウルジェムを輝かせるんだい?』
白く閉ざされた世界の向こう側で、何かが、蠢いた様な、気が、し、た――――――。
「あ、あああっ! ああっ、あああっ! うあ、あ――――――!」
鈍痛――――――覚醒。
掛けられていたシーツを跳ね上げ、鈍い痛みを訴える頭に顔を顰める。
呼吸を整えても、じっとりとした汗が噴き出てくる。
嫌な夢を見たような気がした。
眠りに落ちるまでの前後の記憶がない。
自分の状態を確かめてみれば、特に変わり映えもしない、痩せっぽちで貧相な身体の暁美ほむらがそこに居る。
大きすぎて股下までをすっぽりと覆うシャツの裾から、肉付きの悪い骨と皮だけのような細すぎる足が露出していた。
胸元からは飾り気のない上下セット数百円の下着が覗いている。これは自前のものだ。少し安心した。
はて、こんなサイズの合わないワイシャツなど持っていただろうか。
首を傾げると、鈍い痛みが再びこめかみに奔る。
「あ、つつっ・・・・・・」
「ああ、起きてたのか。おはよう、よく眠れたか?」
「うぐ、は、はい・・・・・・」
「二日酔いか。味噌汁があっためてあるから、こっちにおいで。無理しなくていいからゆっくり立ちな。ほら、手貸して」
「ん・・・・・・」
手が取られ、立ち上がらせられる。
視界がぐらぐらと揺れた。
魔力を流せば不調も解消されるだろうが、駄目だ、集中出来ない。
そのまま手を引かれてテーブルへ。
ゆっくりと背を支えて椅子に座らされる。人の世話をするのにやけに慣れたような手つきだった。
「はい、味噌汁。熱いから、ゆっくり飲むように」
「ありがとうございます・・・・・・」
小麦色の水面に舌を着ける。
熱い。
舌先がヒリヒリとした。
言わんこっちゃあない、と苦笑されてしまった。
「息を吹きかけて、ふーふーして飲みなって」
「はい・・・・・・ふぅ、ふぅ」
「まだ熱いぞ」
「ふぅ、ふぅ」
はいどうぞ、という許しの声に、一口汁を含んだ。
眠っていた味覚が目覚めていく。
貝殻がこつこつと唇に当たった。シジミのダシがよくとれている。
「おいひい」
「そうかい。具も美味いぞ」
手渡された箸で豆腐を崩す。
しっとりとしていてそれでいて柔らかく崩れる絹ごし豆腐だ。
ダシ汁とよくからんでいて、頬張ると美味しそう。
気が付けば豆腐の方から口の中に飛び込んで来ていた。
美味しい。美味しい。
そういえば、こういった手の込んだ食事をとるのは、いつ以来だっただろうか。
思いだせない程に前から、出来合いの店屋ものしか口にしていなかったように思える。
空腹は最高のスパイスとは良く言ったもの。
小食な方だったはずだが、箸が止まらない。
「はふ、ほふ、はふ」
「落ち着いて食べなって、逃げやしないからさ。おっと、新聞取りにいかないと・・・・・・」
注意を無視して汁を吸いこむ。
食事のペースにまで口出しされたくはない。
モノを食べる時は誰にも邪魔されず、自由で、なんというか、救われていなければ駄目なのだ。
「はふ、ほふ、ほむ。ほむ、ほむほむ」
「うふふ、おかわりもあるのよ? 遠慮しないでいいからね」
「ほむっ」
と横合いから湯呑を差しだされ、お茶が淹れられる。
やや渋めの緑茶だった。しかし日本食によく合う組み合わせである。
直ぐにカラッポになってしまった腕に、うふふと笑いながら、その人は長い巻き髪でお玉を傾け、おかわりを注いでくれた。
「ふぅ、ふぅ」
「おいしい?」
「おいひい」
「よかったあ。そのお味噌汁、私が作ったのよ。久しぶりに料理したから心配だったけれど、うん、腕は落ちてないみたいね」
「はふほむっ、ほむほむ、ほ・・・・・・」
湯のみへとポットの取っ手に色素の薄い巻き髪が巻き付いて、傾けられていた。急に訪れた客人にここまでしてくれるとは、よほどの善人か、お人よしか、暇人か。
しばらく人の掛け値なしの善意など、感じた事はなかった。ここは有り難く御馳走になろう。
そう湯呑を傾けて、あれ、と少女は停止した。
どうしたの、という声が投げかけられる。
その人の巻き髪は、ポットの取っ手に巻き付いていた。
・・・・・・待て。
何故巻き髪がポットの取っ手に巻き付いているのだ。
その人が見に付けている品の良い可愛らしいエプロンは、揺ら揺らと風にゆれていて――――――。
まるで、首から下が無いみたいに――――――。
「ほ・・・・・・ほ・・・・・・」
「どうしたの? 暁美さん」
「ほむぶ!」
「てぃろふぃなー!?」
口から噴射されたミソスープが散弾となって生首を撃墜する。
自分も椅子から転げ落ちた。
腰が抜けて動けない。
目がァ、と言って転げ回る生首。手が無いために目が擦れないのだろう。恐ろしい形相だった。
「嘘、嘘よ。これは夢なの、夢なんだから。だからお願い、早く覚めて。覚めて覚めて覚めて・・・・・・」
「もうっ、ひどいじゃない! 人の顔にお味噌汁を吹きかけるなんて!」
「ひぃ、と、巴マミ!」
「何かしら、暁美ほむらさん? 私、怒ってるんですけれど」
鉢植えを傾けて、底の縁を使ってくるりくるりと回転しつつ、近付いてくる生首マミ。
土器がフローリングに擦れるごりんごりんという音が一層恐怖を煽る。
が、逃げることは出来ない。
これまで魔法少女となって様々な修羅場をくぐり抜け、滅多な事では動揺しない精神力を培ったと自負していた。だが、しかし。これは・・・・・・。
ここまで訳のわからない事態は初めてで、脳がオーバーフローを起こしていた。
ぷりぷりと怒っている巴マミ、の生首。
巻き髪があごのあたりにくの字に曲げられて添えられている。腰に手を当てているポーズ、のつもりなのだろうか。怒っていますよ、というジェスチャーであるようだ。
一体何がどうしてこんなことに。
インキュベーターのしわざか。
「おおい、どうしたよ、騒がしい」
「あ、壮一郎さん。もう、聞いてくださいよ。暁美さんったら、こんなにしちゃって」
「うわ、びっしょびしょだな。ははあ、咽て吐き出したのをひっ被ったんだな。だから言ったろ、酔っ払いの相手は慎重にってさ。
ワンダフル投下された日には目も当てられないぞ」
「ううっ、目に染みて痛いの・・・・・・。壮一郎さん、拭いて拭いてー」
「マミ、お前ね、自分でどうにか出来るようになったんじゃなかったのか? 飛べるようになったし、ほら、その触手も使えるようになったんだろ?」
「触手って、酷いわ壮一郎さん! 乙女の髪を何だと思ってるのかしら、この人ったら、もう!」
「でもそれどう見ても触手・・・・・・あ、いや、悪かったよ。悪かった」
よっこいせ、と何の躊躇もなくマミを抱き上げると優しく顔を拭い始める男性。
あの顔には見覚えがあった。
そういえば、昨晩、魔女の結界の中に取り残された一般人だったはず。
どうして結界の中で動けていたのかは不明だが、その傍らには、今のようにマミの生首を侍らせていた。
そしてその生首は、空を飛んでいた。
実に生き生きとして。
生首が生きているはずなどないのに。
「よし、と。綺麗になったぞ」
「何だか髪が塩っ気でキシキシしてるわ・・・・・・。ほら、上手く動かないもの」
「触手・・・・・・。いや、わかったわかった。今晩はトリートメントしてやるから、それでいいだろ?」
「わあ、約束ですよ、壮一郎さん!」
すうっとマミの収まった鉢植えが浮かび上がった。
嬉しさを全身で表そうと空中で回転している。
まさに、飛び上がって喜んだ、と表されるだろう。笑えない冗談だわと言い捨てたくなった。
駄目だ、何度見ても正気を失いそうになる。
男が目の前で腰を下ろした。
自分は今、股を立てて大きく開いている格好。
大開脚をしてしまっているが、気付かないくらいに唖然としてしまっていた。
男がそっとワイシャツの裾を直して下着を隠してくれた。
「ん、お嬢ちゃん立てるかい? また手を貸そうか?」
「そ、それには、お、及ばないわ」
「生まれたての小鹿みたいに震えながらじゃあ、説得力ないぜ」
脇に手を入れて抱え上げられ、椅子に座らせられる。
しばらく動悸を落ちつけてから、髪を掻き上げて平静を装った。
余裕であることを示すポーズである。
「礼を言っておくわ」
「慣れない事もしなさんな。背伸びしてるようにしか見えないぜ、お嬢ちゃん」
「・・・・・・ほむぅ」
ぬう、と唸る。
頭痛が酷くて眩暈がした。
言わんこっちゃあない、と男が苦笑していたのが、何だか腹が立って仕方なかった。
「あー、駄目っぽいな。今日はもう休め。そうれ、よっこいせ、と」
「な、何を! 下ろして、下ろしなさ・・・・・痛っ」
またもそのまま、今度は肩の上に担ぎ上げられて、先ほどまで自分も横になっていた寝室へと足を向ける男。
何をされるのか、されてしまうのか、嫌な想像が頭を過る。
「いいから、暴れなさんな。布団まで運んでやるから、もそっと寝てろって、な?」
「ほむむ・・・・・・・」
ぴしゃりと腿を叩かれて、ベッドの上に寝かされた。
正直、横になっていたほうが気分が楽だ。体を起していると、割れるように頭が痛む。
マミ、と男が呼べば、はいはい、と諦めたような声で巴マミが浮遊してベッド脇に着地。その触手、巻き髪でシーツを手早く直し、首元にまで布団を掛けられる。
こちらが口を開く前に一連の作業は完了していた。
「ねえ、暁美さん」
「な、なにかしら? 巴マミ」
「少しずつだけれど、私、記憶が戻り始めてるの。だから私、あなたに謝らないといけない」
本当に申し訳なさそうな顔をして瞳を伏せるマミ。
触手が、否、巻き髪が、胸の辺りの布団をぽんぽんと叩いている。
そのリズムにゆっくりと瞼が落ちて行く。
とても落ち着く。
相手は生首だというのに。
「ごめんなさい。あの時あなたの忠告を聞いてさえいれば、こんなことにはならなかったかもしれないのに・・・・・・」
「巴マミ、あなた・・・・・・」
「もしかしたら、あなたと一緒に魔法少女として戦っていた未来もあったかもしれないわね。
顔も知らない誰かを守るために、命を賭して。誰に褒められるでもなく、認められるでもなく、そんな孤独な戦いの日々を、二人で一緒に・・・・・・」
「あ、ああ、マミさ・・・・・・」
「でも、ごめんなさい。今の私はただの新妻。二人の愛の巣を守るのに精一杯なの」
「マ、マミさん?」
「今の私の使命は、一パック69円のたまごお一人様二パックまでを、壮一郎さんと一緒に四パック買いに走ることなの!」
「マミさん」
「うふふ、心配しないで。私は買い物が出来ないんじゃないかって思っているんでしょう? ノンノン、二パック以上買う作戦はもう立ててあるんだから」
「もしもしマミさん」
「私たちには秘策があるの! そう、それは――――――合体よ! 言い換えればそう、二人羽織! 二人の初めての共同作業!」
「マミさん、あの、マミさん、ねえ、マミさん」
「今晩はオムライスに決まりね。ケチャップでハートを書くの!」
「朝ですよマミさん。起きて、お願いだからもう起きて」
「それまでゆっくりしていってね!」
「さようならマミさん・・・・・・」
ひょっこりと扉から顔を出した男がマミを呼ぶ。
うふふ、とマミはゆっくりと宙に浮かぶと男の下へと一直線に向かった。
その背に背負った大きめのリュックの中へと垂直着陸。
パイルダー、などと言いながら男がリュックのジッパーを上げた。
「じゃあ、俺達はこれから買い出しに出かけるから。大人しくしてろよ」
「待って」
「どうした、お嬢ちゃん」
「・・・・・・あなたは、一体何者なの?」
そう言われてもな、と男は頬を掻く。
「おっさんかヒモ男か・・・・・・何とでも、好きなように思ってくれていい。ああ、それにしても定職が欲しい」
「キュウべえという人間の言葉を話す白い動物に、心当たりは?」
「いや、無いな。お嬢ちゃんのペットかい?」
「・・・・・・そう、ならいいの」
男が嘘を吐いているようには見えない。
本当に何も知らないようだ。
あの夜、魔法少女という存在を知り、それなりに取り乱すかとも思ったが、限られた情報量ではこれが妥当な反応か。
あるいは、魔法少女よりも魔女よりも衝撃的な存在と共に暮らしているからなのかもしれないが。
「あなたにお願いしたい事がある」
「俺に出来る範囲でなら」
「・・・・・・躊躇しないのね。疑うことすらも」
「さあてね。顔色に出てないだけかもしれないぜ。あんまり人のことを見かけで判断しない方がいいぜ」
「そうね・・・・・・本当にそう。あなたに言われるまでもなく、思い知っているわ」
「まあ、いいがね。気をつけろよ。海千山千の狸にとっちゃあ、お嬢ちゃんみたいに解りやすいタイプってのは、いいカモだ」
「もっと早く、あなたの言葉を聞けていたなら・・・・・・。私はそんなに解りやすいのかしら?」
「解りやすいさ、お嬢ちゃんみたいに取り繕ってるタイプはな。こう見えて俺は外回り担当だったんだ。人を見る目はそこそこあると自負してる」
「そう・・・・・・」
「それで、お願いってのは何だい?」
「もし、あなた達の前にキュウべえと名乗る人語を話す獣が現われたなら、どうかその言葉に耳を傾けないで」
「なるほど首が飛ぶんだ、動物が喋ることだってあらあな」
「お願い、信じて。これは、あなた達のためでもあるのよ」
そして、とそこまで言って、言葉を切る。
男はなんだ、と耳を近づけた。
近付く男の襟首を掴み、耳を口元へと引き寄せる。
予想外の力に男は驚いたようだった。
魔法少女の腕力は、魔力によって強化される。体格の全く違う成人男性であっても、容易に抜け出せはしない。
囁く。
「巴マミを、単独でキュウべえに接触させては駄目」
鋭く、告げる。
リュックの中のマミに聞こえないよう。
「もっと、より強く、巴マミをあなたに縛り付けなさい。誰の言葉にも耳を貸さなくなるくらいに、強く。
支配なさい。依存させなさい。巴マミの世界の全てを、あなたで埋め尽くしなさい」
「それは、どうして」
「彼女は奴の言葉を疑わない。だって、おともだちなんですもの」
嘲りの笑みが浮かんだ。
本性を知らなければ、誰だって騙されるだろう。あれは、奇跡を呼ぶものなのだから。
奇跡をもたらす代わりに、少女を魔法少女へと変えるのだ。少女の未来と引き換えにして、奇跡を呼ぶのだ。
等価交換、いやそれ以上のものをもたらしてくれる、奇跡の代行者。
願いを叶えるという一点でみれば、それは素晴らしいことだろう。
天秤の対に乗せる未来を無視すれば。
あれらが悪辣であるのか、自分を売ったことに気付かぬ少女達が愚かなのか。
どちらかを責めることが出来るのは、未だ願った奇跡が叶わぬ者のみである。
自分のような――――――。
「そう、命の恩人なのだから」
巴マミも、曲りなりにも契約によって命を救われていた。
彼女には掛ける未来など、初めからなかったのだ。
ただ生きたいという、願いの強さだけで魔法少女となったのである。
そんな彼女に魔法少女という存在へ疑いを抱かせることは難しいだろう。あるいは命を救われたことに対する裏切りであるとしてあれらの側に付き、こちらと敵対しかねない。
彼女がそんな情に溢れて義理堅い性格であることを、自分はよく知っていた。
そう、よく、知っていた。
見た目の奇特さに目を瞑れば、この時点で彼女が生存していることは、戦力的に大きな利となる。
“あの時”に彼女が暴走したのは、真実の重みに耐えかねてのことだけだったのでは無いのだろう。利用されてゴミのように捨てられることへの恐怖と、そして信頼を裏切られたことへの失望が入り混じっていた。
孤独に耐えられず、誰かのために戦うなんて、そんな免罪符で自分を誤魔化してきた彼女だ。耐えられなかったのだろう。
だが彼女の心の支えとなる誰かさえいれば、きっと、また共に戦うことが出来るかもしれない。
自分はイレギュラーを否定しない。
予定調和はいけない。それだけは、断固として阻止せねば。変化することがあれば、諸手を打って歓迎しよう。
よって“今回”発生したイレギュラーも、最大限利用すべきだ。
何を犠牲にしても――――――と、そう決めたのだから。
「少し、眠るわ。運んでくれてありがとう。ごはん、美味しかったと彼女に伝えて」
「ああ、お休みほむほむ。行ってくるよ」
「ええ・・・・・・。ほむほむ?」
鍵の閉める音が聞こえた。
オートロック特有の、モーターが回るような音だ。
ここに来てようやく気付いた。ここは、マミのマンションだ。かつて何度か招待されたはずなのに、忘れていたなんて。
シーツから香るこの柔らかな臭いも、彼女のものだった。これも、忘れてしまっていたことだった。
たくさんの温かかった思い出は、全部覚えていたはずだったのに。
全部覚えていて、零さないように、全てに蓋をしたはずだったのに。
シーツを頭まで被って、目を閉じる。
そうして、確かめる。
あの時彼女と交わした約束を。覚えている、覚えている――――――。
彼女との約束がこの胸にある限り、何があっても挫けることはない。
強くそれだけを想い、拳をきつく握りしめて、足元からじっとりと這い上がる睡魔へと身を委ねた。
意識が薄く途切れる瞬間に思ったこと――――――それは、彼女と交わした約束では、無かった。
なぜだろう。
マミのことが、ひどく羨ましく思えてならなかった。
■ □ ■
壮一郎とマミが合体技で、たまごお一人様2パックのところを4パック手に入れた、その帰り道のこと。
タイムサービスを狙ってやや遠くの総合ショッピングセンターに足を運んだかいもあり、かなりの金額に余裕が出ていた。
元々そこでアルコールや紅茶といった趣向品も購入する予定であったため、ワンランク上のものを購入することが出来て、ホクホク顔で二人は帰路に着いていた。
それでもまだ財布に余裕があり、ではリッチに電車で帰りましょうと、人の利用が少ない近場の駅に足を運んだ、その時だった。
「むむっ、魔力!」
リュックの中からジッパーをこじ開け、マミの触手、ではなく巻き髪がぴょんと飛び出したのは。
何やら魔力に反応しているらしく、アンテナのように一方向を指し示していた。
魔女だろうか、とマミに導かれるままに歩を進めた壮一郎だったが、見つけたものは、小さな赤い石の破片。
何やらひしゃげた金属片も付着していたが、特に何かの異常を感じるものではなかった。
「子供のおもちゃか何かか? 変形した十字架に見えなくもないが。なあ、勘違いじゃないのか? こんなんに魔力なんか無いだろ」
「嘘・・・・・・これって・・・・・・。壮一郎さん、あの時、私の頭にある宝石を磨いてくれたみたいに、これにも同じようにしてくれませんか?」
「まあ、お前さんがそう言うなら」
よく解らないまま、壮一郎は言われるままに石の破片を掌に置いて、もう一方の指の腹で擦り上げる。
あの時、魔女に襲われた時に壮一郎がマミの宝石にしたように、とのこと。であるならば、念を込めて磨きあげねばなるまいか。綺麗になれ、元に戻れと。
不思議な感触が、した。
温かいような、柔らかいような、指先にトクトクと血潮を感じられるような。
つい最近、これと同じものに触れたような気がする。
そうだ、魔法少女化したマミの頭にあった宝石によく似た感触だ。
いったいこれは――――――。そこまで考えた所で、壮一郎はまぶしさに目を細めた。
石が、光を放ち始めたのだ。
赤く、紅く――――――。
「お、おいおい、マジかよ・・・・・・」
光が収まっていく。
その時にはもう、指先にあった硬質な感触は消え去り、替わりにぐにぐにとした柔らかい――――――人の肉のような触感があった。
壮一郎の手の内からは紅い石のかけらは消え失せていて。
静かに寝息をたてる、小さな、手の内に収まってしまうくらいに小さな少女が、産まれたままの姿でそこにあった。
「やっぱり・・・・・・どうして彼女が・・・・・・」
「おい、何だかもう、俺の処理能力を超えてるんだが。説明してくれないか?」
「あっ、壮一郎さん、彼女目を覚ましますよ」
「振っといてスルーするのはおじさんどうかと思うよ」
ううん、とこれも小さな声量が手の上から聞こえる。
くあ、と大きく――――――小さく欠伸をして、ゆっくりと身を起こす小女――――――少女。
眠気がとれないようで、壮一郎の手の平に座り込んで、ごしごしと目を擦っている。
呆、とした眼と視線が絡む。
どうするのかと身構えていると、きゅるると可愛らしい小さな音が。
この少女の腹の虫が鳴った音のようだった。
「ええと・・・・・・何か、食うかい?」
言葉が解るか知れないが、とりあえず聞いてみる壮一郎。
最後のフレーズに少女は反応し、飛び起きた。
激しく頭を縦に振っている。
涎が飛び散っていた。
「とりあえずさっき買ったたい焼きでいいか? クリームとアズキの二つあるけど、どっちがいい?」
少女は壮一郎の手の上で仁王立ちになると、両手を突き出して宣言した。
「あんこ!」
長い赤毛が快活に揺れる。
マミが、やだ何これ可愛い、と呟いている。
それには壮一郎も同意する。人は自分よりも小さな存在に、庇護欲を掻き立てられる本能があるらしい。可愛い、と無条件で思ってしまうのだ。
であるならば、この少女以上に可愛らしい存在など、在りはすまい。
何故ならば――――――。
「うま、うまっ。はれるやー!」
千切ってやったたい焼きを、口一杯に頬張る少女は。
壮一郎の手の平の上に乗る程度の大きさでしか、ないのだから。
※
【飛頭蛮(ひとうばん)】
魔法少女の最終形態。
古来から中国大陸を中心に伝承に残る飛頭伝説の正体である。日本におけるろくろ首も、この魔法少女の飛頭蛮化が由来であるとされる。
歴戦の魔法少女が闘いの果て、戦闘に不要な器官を自ら削り落とした末に完成する、戦闘に特化した魔法少女の姿こそがこの飛頭蛮である。
軽量化による飛行能力の獲得という戦術的優位性を有するが、しかしその代償として、著しく人間とのコミュニケーション能力を失う。
また被弾面積も激減したが、魔法少女であることを隠蔽するために重要な、人間社会に紛れ込んで一般生活を送るという社会性カモフラージュさえ困難となる欠点を持つ。
自らの魂を外部に分離、物質化させて管理し、残った器を消耗品として運用する魔法少女であるが、飛頭蛮は正に魔女と戦うためだけの最終形態(フォーム:フィナーレ)であると言えよう。
魔法少女が飛頭蛮化することを魔魅ル(マ・ミル)、あるいは魔視ラル々(マ・ミラレル)、と称する習わしもあるが、由来は不明である。
解釈は諸説あり、大別して二つ、魔に魅せられた魔法少女の成れの果てであるとされる説と、魔に眼を付けられたことで次第に追い込まれていく魔法少女の運命を現している、とされる説がある。
どちらも、魔を魅つめている時は自分も魔にも視られているのだ、という警告を示していると考えられる。
上海に伝わる著書不明の小説集『反魂剣鬼』には、その結末として主人公の飛頭蛮化が記されているが、これも闘いに身を捧げ尽くした魔法少女の悲哀を綴ったものであることが今日までの研究の結果明らかにされた。
なお、飛頭蛮の生育には十分な栄養素と水分は元より、中でも温度、とりわけ湿度の微調整が重要であるとされる。
虚玄書房刊
『魔法少女:その哀しき生態』より