お泊まり会開けの土曜日。 学校のある者達は、少し早めに起床して自宅へと戻り、通学路で再び集う。 まどかとさやかも、いつものようにもう一人の親友である仁美と合流しようとして……その場で固まることとなった。 なぜならば。 「おはようございます、まどかさん、さやかさん」 「やあ、おはよう、さやか、鹿目さん」 仁美の隣には『健康な』上条恭介がいたのだから。 「きょ、きょ、きょ」 あんぐりと口を開けたまま、言葉が出ないさやか。ぽかんとしたまま身動きしないまどか。 そんな二人の驚愕する様を見て、クスクスと笑いながら、仁美は鞄から何かを取り出した。 「からかうのはこのくらいにしましょうか。ちえみさんもよくよくいたずら好きだったのですね」 その瞬間、二人の驚きは別の方向にシフトする。そんな仁美の手にあった物は、言うまでもない『本』。 「仁美、あんたも?」 「僕もさ」 そういう恭介の手にも又、同じ『本』が。 そして仁美は、こう言った。 「続きは、学校に向かいながらにしませんか?」 「『今の世界』では、僕が怪我をした事実そのものが消滅しているんだ」 道行きの中、恭介はそう言った。 「この『本』によれば、さやかが魔法少女になった事による、因果のつじつま合わせによる世界改変らしいね。本来というか、かつての世界では、僕の怪我に対する因果として、さやかは魔法少女になっていた。でもこの世界では、さやかが魔法少女であるという事実が、僕の怪我を治すことに対して優先している。そのため、僕の怪我という事実自体を、観測者たる添田さんの意思が消し去ってしまったらしい。こういう細かな差違こそが、今の世界が『特殊』だっていう事の証明みたいだね」 「だめだあ~っ。わけわかんない。なにそれ」 さやかは軽いパニックになっていた。 そんなさやかに恭介は言う。 「気にすることはないさ。さやかはさやからしく、いつも通りに生きていればいい。気をつけるのは、僕たち以外は誰も『僕が怪我をした』なんていう事は知らないしあり得ないことだっていう事ぐらいかな」 「あ、そうなるんですね」 「そう。それとね」 恭介は鞄から紙束のような物を取り出す。それはさやかにとっては見慣れた、しかし久しく見ていなかった……いや、見られなくなっていたもの。 「こういうことだから、よければ増えたお友達と一緒にどうぞ」 それは、一月後の日付の打たれた、コンサートチケットだった。 それを見た瞬間、さやかはここが通学路であることも忘れて泣き崩れた。 「賢者の贈り物、ですか?」 「ええ、あなたなら知っていそうだって思って」 ほむらは家の結界や今回使用予定の火器の仕入れと言った事務的なことをこなした後、かつて『救世の館』があった場所……美国織莉子の自宅を訪れていた。 女神となったまどかの残したという最後の助言。その意味を調べるために。 インターネットで検索してもよかったのだが、何となくこの方が早い気がしたのだ。 「まあ、具体的に憶えてはいなくても、結構耳にするお話ですからね、あれは」 織莉子はそんなほむらを、かつてのキリカにするように迎えていた。 何となく、そうするのがふさわしいと思ったからだった。 「『最後の一葉』って知っていますか?」 「聞いたことあるわ。最後の葉が落ちる時、私も死ぬって言うあれでしょう?」 「ええ。わりと有名な話で、日本でもオマージュやパロディがたくさんありますものね。 その作者がアメリカの作家、オー・ヘンリー。賢者の贈り物は、その人が書いた話よ」 そこで紅茶を一口口にし、織莉子は説明を続ける。 「賢者の贈り物は、一言で言えばこういう話よ。夫は妻のために愛用の懐中時計を売って髪飾りを買い、妻は夫のために髪を売って時計につける鎖を買った。そんな善意のすれ違いとそこにある愛の物語。聞いたことなくて?」 「あ、あれのことなのね」 ほむらもその話なら知っていた。具体的なタイトルに憶えはなかったが、そのエピソードは聞いたことがあった。 そんなほむらに、織莉子はでも、と話を続ける。 「賢者の贈り物の話そのものは、愛を讃えるお話ですけど、『贈り物』に限った時は、敢えてよくない意味で使われることもある言葉ですわ。 それは『賢いつもりで無駄になったその実愚かなこと』という意味を含みますから。今回の場合、そういう意味の方が強そうですし」 「……そうね」 ほむらにもうすうす判ってきていた。まどかのために己を犠牲にしたとも言えるほむら。そんなほむらのために己を犠牲にしたまどか。 それはお互いを思いやる愛の行為。だがそれは物語の夫妻のように、むなしいすれ違いを生んでいるのではないか。 「……でも、どうすればいいの。私はまどかをあれには、クリームヒルトにはしたくない。でもそうしないためには、私が魔女にならなければならない。こんな二律背反、どうやればいいのよ……」 「本当に、そうかしら」 「織莉子……」 その時の織莉子は、ほむらだけが知る『親友の織莉子』と同じ顔を、同じ瞳をしていた。 「こういう時は、出来ることは二つ。 一つは、まず問題を徹底的に分析して、条件付けを細かく絞り込んでいくこと。 もう一つは、まどかさんとあなたの絆を信じること。 そしてその二つが出来れば、もう一つ、出来ることが増えるわ。 ただ、その前に……」 次の瞬間、振り下ろされた鉄のような刃が、紫の六角形に受け止められていた。 無言のまま振り向きもせず盾を掲げるほむらを見て織莉子は微笑み、そして一言。 「無粋ね」 それを振り下ろした鎧の魔女は、九つの魔力球によって、瞬時に粉砕されていた。 「お話、続けましょうか」 「ええ」 二人の魔法少女は、何事もなかったかのように二人の会話に戻るのであった。 そして時は過ぎ、日曜日。 ピンポーン、という音が、マミの家に響いた。 「ん、客?」 「だれかきたの?」 「変ね……そういう予定はなかったけど」 「んじゃ宅配か何かか? なら隠れたり出て行ったりしなくていいな」 マミは一人住まいだが、保護者が全くいない訳ではない。遺産を管理している後見人を始めとして、何人かの大人がまれにマミの元を訪れることもある。 そんな場合は、杏子やゆまが居座っている状況は何かとまずい。 もしそうならと杏子が気を使ったのだが、マミからすればそういう場合はまず事前に連絡が来るので、気にすることはほぼ無い。 とにかく待たせる訳には行かないとマミが玄関のモニターを見ると、そこには知らない大人の男女がいた。 「はい、巴ですけど、どなたでしょうか」 インターホンにそう声を掛ける。そして返ってきた言葉を聞いて、マミは絶句することになる。 『はじめまして。私、添田と申します』 そういう夫婦の手には、あの『本』が握られていた。 「あなたが、添田さん……ちえみさんのご両親なのですね」 「ええ。『ここ』ではあなたとちえみは何の接点もない子でしたけれど」 いつも魔法少女が集っていた居間で、マミは珍しく緊張していた。隣では杏子とゆまがだらけた姿勢で寝転がっている。 しかり飛ばしたかったが、さすがに客の前でそうするのも憚られ、どうしたものかと悩んでいたが、 「そちらが佐倉杏子さんと千歳ゆまさんね。大変だったらしいけど、いい娘さんじゃない」 そう言った添田夫人の優しげな言葉の、その裏に秘められた不思議な苛烈さに、気がつくと杏子もゆまもきちんと姿勢を正していた。 「警戒する気持ちは判るけど、お客さんの前ではそうやってきちんとしていないと、巴さんの矜恃を貶めることになるのよ」 「……はい」 何となく逆らえない雰囲気のまま、頭を下げる杏子。 何というか、格が違った。 「それはそうと、私たちが訪ねてきた理由だけど、娘のことは直接は関係ないわ」 「……では、何故?」 「あなたの抱えている問題、どうにかしてあげようと思って。杏子さんとゆまちゃんの親権問題、解決してあげるわ」 マミと杏子の目が丸くなった。一人ゆまだけは訳の判らぬままぽかんとした杏子を見つめている。 そんな子供達を、婦人はいとおしげに見つめながら言った。 「あなたたちは、生きていられた娘の可能性を知っている人たちだから。だからこちらではいなくなってしまったあの子の思いに答えるためにも、何かしてあげたいのよ」 「それって……」 そう、この世界にちえみはいない。マミはそのことを思い出した。 「添田さんは、ちえみさんは、どうなってしまったのですか? この世界では」 「死んだわ」 問いに対する答えは簡潔だった。 「あなたは知らないのでしょうけど……この『本』に記された道を歩まなかった私たちの娘は、若い身空で死んでいるのよ、例外なく。どんな死に方かは……若い娘さんにはあまり教えたくない、悲惨なものだとしか言えないわ。人の名前を覚えられないあの子は、そこにつけ込まれて、騙されて……だからね、たとえ命を売り渡すようなことでも、最後に破滅が待っていても、『普通の子』としてあの子が過ごせた人生があったこと、その想いを受け取れたことは、私たちにとって、かけがえのない宝物なのよ」 「あいつはそういうやつだったからな……」 婦人がしみじみと語り、夫はぶっきらぼうに、だが愛情を込めて言う。 「そんな『想い』を受け取った私たち夫婦が、あなたたちのために何かをするのはいけないことかしら。娘の仲間であり、友であったあなたたちに、私たちでなければ出来ない手をさしのべることは」 いつしか、三人の……ゆまの頭すら、自然に下がっていた。 そして出た言葉は一言。 「お願い、します」 そして再び、時が過ぎる。 やってくるのは、ほむらの転校初日。 だが、そこにも異変があった。 早朝、ほむらが職員室に行くと、そこに見知った顔が。 「……なんで杏子がここにいるの?」 「……言うな。ゆまの件片付けてもらったら、あおりを喰らってこうなった。ああ、ゆまも今小学校行ってるよ」 「あら、仲がいいのね」 困惑するほむらと杏子に話しかけてくる早乙女先生。 それでほむらは時間になっていたことに気がついた。 職員室を出、教室への通路を歩く三人。無言の時間が過ぎる中、唐突に早乙女先生は言った。 「暁美さん、佐倉さん」 「はい」 「なん?」 少しの間。そして紡がれる、言葉。 「あなたが『何か』と戦っていることは聞いています。私のような大人がそれに対してなにも出来ないことも。でもね、それにかまけて、学業や学園生活をおろそかにはしないで欲しいです、先生は」 二人は、沈黙を持って答えるしか出来なかった。それを気にしないかのように、早乙女先生は言葉を続ける。 「無理にとは、言わないわ。ただ、これだけは約束して欲しいの。いつの間にか、消えないでね」 「……はい」「……おう」 少し遅れて、力強い言葉が、彼女の元に帰ってきた。 そして教師は沈んだ様子をきれいさっぱりぬぐい去ると、教室に入っていった。 「皆さんは目玉役の焼き加減に文句を言うような大人になってはいけませんよ~。それと、今日から転校生が入ることになりました」 この辺は毎回か、と思うほむらと、その破天荒振りに目を丸くしている杏子。 そして二人が入って行くと、出迎えたのはまどかの絶叫。 「ええっ! 杏子ちゃんもっ!」 「まどか、声大きい」 隣でさやかがなだめている物の時既に遅し。もっともほむらも、その隣で手を振っている上条恭介を見て表情が変わるのを抑えるのに必死だったのだが。 その日の屋上は賑やかだった。 巴マミ、呉キリカ、鹿目まどか、美樹さやか、暁美ほむら、志筑仁美、上条恭介、佐倉杏子と、ちょっとした集団が出来ていたからだ。 端から見るとイケメンで有名バイオリニストである上条ハーレムだが、この世界においては既に上条×志筑が認知されているため、その誤解は生じなかった。 「何か大分違うのね、今までと……」 少し疲れたようにほむらが言う。 それを受けたように、まどかも言う。 「ちえみちゃん、どんだけ記憶ばらまいたのかなあ。うち、お父さんもお母さんも知ってた」 意を決して告白したら、黙ってあの本を見せられたという。話してくれてうれしかったとは言われたものの、気持ちは複雑だ。 「添田さんのご両親も記憶を継承していたそうです」 「まあおかげでゆまの親権、どうにかなったけどね」 マミと杏子もそう言う。 彼女たちに言わせれば、まさに快刀乱麻だったそうだ。ゆまの虐待の事実を元に、あっさりと言いたくなるくらい簡単に親権譲渡を取り付け、さらに杏子の身元引受人も受けたというのだ。 さらにどう言いくるめたものか、マミの保証人代理まで勝ち取っているという。 「両親を事実上失っている私たちのめんどうをまとめて引き受けていただいたおかげで、大人の承認を必要とする各種手続きが格段に楽になったの」 「ま、その代わりにあたしもゆまも放浪生活に終止符打つことになったけどな。あたしはまあ仕方ないし、ゆまに取っちゃ必要なことだったし。 本当はあたしはともかく、ゆまはあっちに引き取るって言う話もあったけど、ゆまがあたしと離れたくないって言って、妥協の産物でマミんとこに居候になった」 ま、さすがに添田杏子・ゆま姉妹は阻止したと、笑いながら杏子は言った。 「そういえば魔女退治の方はどうなっているのですか? 私や彼が巻き込まれた事件とかもあったはずですが……」 話題が移る中、仁美がそんな疑問を提示してきた。 「ああ、シャルロッテね……ちょっと暗い話になるわ」 「あの事件、影に一人の堕ちた魔法少女がいたんだけど」 マミとほむらが、少し落ち込んだ口調で話す。 「杏子とキリカが調べに行ったら、もう『堕ちて』いたわ」 「織莉子の……いや、白巫女の助言がこの世界ではなかったから、耐えきれなかったんだろうね」 前の世界で人知れずちえみに殺されていた魔女育成者、銀城かおる。 彼女は白巫女の助言が存在しないこの世界では、既に魔女となっていた。 下僕の魔女は接近戦では倒しにくい魔女ではあったが、二人の敵ではなかった。 「仁美さんが心配する気持ちも判るけど、今の私たちは歴代……っていうのも変だけど、おそらく魔法少女としては史上最高の実力者よ。今ここにいない織莉子さんやゆまちゃんを含めて。『その時』が来るまで、見滝原周辺一帯の魔女は、一人たりとも見逃さないわ」 「ましてやトウテツみたいなバケモノなんか、生まれさせるもんか」 マミと杏子は、力強く言い切った。 「ま、判る限りの魔女は片っ端から掃除してるよ」 「今日辺り、ショッピングモールにゲルトルートが現れるはずだから、退治しに行く予定、っていってたよね、ほむらちゃん」 「ええ」 さやかとまどかのそんな言葉に、仁美も少し落ち着いたようだった。 「この『記録』の世界とは大分様変わりしていましたから、少し心配だったのですけど」 「安心して、仁美。今のここには、このさやかちゃんを始めとして一騎当千の魔法少女がいっぱいいるんだから。魔女の被害なんか、一人としても出したりはしない」 軽いように見えて、それはさやかが心に秘める激情。かつての世界では、一人で空回りしたあげく絶望に至った道。 だが今は一人ではない。友がいる。仲間がいる。 もはや迷うことはない。自分は信じた道を突き進める。 かつての世界でもジークリンデに言われた言葉。 自分は『切り開く者』だと。 この時期、最強の守護者達に守られた見滝原周辺は、平和そのものだった。 そんな彼女たちを、遠くで見つめる目があった。 インキュベーター。世界を孵すもの。 『今回、僕たちは傍観することにしたよ。現状維持以上の新規勧誘も全て止め、余裕の全てを君たちの観察に費やすことにした。君たちから呼ばれない限り、僕は君たちの前に姿を表さない。おそらく、それは鹿目まどかが契約を決意した時になるだろう。 世界の命運を決めると思われるその契約、それがいかなるものか楽しみにしているよ』 感情の無いはずの彼にしては、珍しくその言葉は、本当に楽しく感じているように見えた。