前回とは違い、退院したほむらを迎えに来たちえみの姿はなかった。 「来ているんじゃないかと思ったけど、あれは一回限りだったのかしら」 そう思いつつも、時間を止めて当座の武器をいつものヤクザから入手し、最初の待ち伏せ地点に行く。 もしこちらの事をキュゥべえが知っていれば、必ず接触してくるはずだ。そうでないなら、また狩ればいい。 だが、その夜、キュゥべえは現れなかった。 どうやら、歴史は少し変わっているらしい。 次の日、ほむらはちえみに会いに行く事にした。見河田中の校門付近で、ちえみの下校を待つ。 やがて、見慣れたちえみの姿が校門から現れる。 そこでほむらはまた少し違和感を憶えた。 まず、ちえみの表情がどこか暗い。さらに、周りの人間との距離が以前より広い。 明らかに避けられている雰囲気があった。 だが、ここで見ていても始まらない。ほむらは、ちえみに声を掛けた。 「添田、ちえみさんね」 「え? あ、はい。私がちえみですけど……えっと、初めてお会いする人ですよね」 ほむらは思わず衝撃を受けてしまった。このちえみは、少なくともほむらと知り合う前のちえみである。 だとすると今回、ちえみは記憶を継承していない。 そう思っている間に、ちえみは鞄から一冊のノートを取り出して、ページを繰りはじめた。 「えっと……やっぱり見当たらないなあ。初めてですよね?」 「え、ええ。そうだけど……どうかしたのかしら」 「いえ、あたし、顔はともかく、人の名前が覚えられない方なんで、こうやって会った人はメモしているんです」 その言葉を聞いて、今度こそほむらは理解した。 このちえみは、魔法少女になる前のちえみだ。 ちらりと見えたノートには、写真かと思うほどに精緻な似顔絵と、それにそぐわない、幼児が書いたようなひらがなが混在していた。 桁外れの空間把握、形状認識に対して、漢字や九九、人の名前などの記憶がどうしても出来ないという、偏った頭脳構造。 サヴァン症候群と呼ばれる、特異な精神。 しかし、だとすると今のちえみに自分が関わっていてもたいした事は出来ない。 彼女に関してだけは、魔法少女の契約も救いに繋がるからだ。 「間違いなく、あなたと出会うのは初めてよ。私の側からはそうとも言えないのだけど」 「よくわかんないなあ」 「わからなくてもいいわ。わからないついでに、さらにわからない事言うけど、単純に憶えておいてくれる?」 ちえみはきょとんとしながらも、反射的にノートの新しいページを開いていた。 そこにものすごい速度で、写実的なほむらの似顔絵を描いていく。 それを描き終えるのを見た所で、ほむらは続きの言葉を口にした。 「私は暁美ほむら。そして用事は、もしこの先あなたが『キュゥべえ』と名乗る存在に出会ったら、私の事を思い出して欲しいの。ただそれだけよ。もし何も無ければ、それはそれでいいの」 というか、もしキュゥべえと契約すれば、ちえみはほむらの事を思い出すはずである。 だからこれは保険の意味でしかなかった。 「……わかんないけど、わかりました。メモしておきます」 ちえみはほむらの言葉を拙いひらがなで似顔絵の脇に書き込むと、ぺこりと頭を下げた。 「あ、私、家に帰りますので、これで失礼します」 その様子を、じっと見守るほむら。何か下校中の生徒がもこちらを見て何か噂しているようだったが、ほむらは聞かなかった事にした。 そう。聞いていない。私は百合なんて単語を聞いていない。 少し精神的にダメージを受けたほむらだが、それでは終わらなかった。 場所は巴マミの住むマンション。マミの家の前。 だがそこには、巴マミという表札がなかった。 書いてあるのは、全く別人の名前。 さすがにほむらもおかしいと思い始めた。 何かが違う。この世界は、いつものループ世界ではない。 魔法は使えるが、どうもいやな予感がする。 その予感は、やがて確信となった。 魔女が、いない。 キュゥべえも、いない。 一日時間を掛けたが、全く魔女の気配も、他の魔法少女の気配も、そしてキュゥべえの気配も感じられなかった。 図書館で歴史を調べてみた。 どうもいつもとは違う、少しずれた世界に飛び込んでしまった気がするから。 そして奇妙なことに気がついた。 歴史上の偉人、歴史に名を残した人物のうち、自分でも知る何人かの記述がない。 しかもそれは、全て女性であった。 クレオパトラがいない。 卑弥呼がいない。 ジャンヌ=ダルクがいない。 他、女性天皇の一部や、西大后、エバ=ブラウンなどの名もなかった。 さすがにほむらも気がつきはじめた。 (もしかしたらこの世界……魔法少女がいない世界なの?) そしてその答えは、帰還一週間後、転校初日に出た。 これは変わらない、自分の転校を後回しにする担任教師の声。ようやく呼ばれたほむらは、教室に入っていく。 しかし実際のところ、ほむらは立っているだけでいっぱいいっぱいであった。 見滝原中の教室はガラス張りなので、外から中が見える。 そしてほむらは、困惑と憤りが入り交じり、自分を抑えるのに全力を使っていた。 その理由は。 (何故あなたがそこに座っているの、佐倉杏子!) 本来まどかが座っている位置に、何故か杏子が座っていたのだ。しかも見滝原中の制服を着て。 さやかと声を掛け合っている様子も見えた。ポジション的にも、杏子がまどかの位置にいるようだった。 「あけみ、ほむら、です」 そう言うだけで、ほとんど精一杯になってしまった。 皮肉にも杏子が保健委員だった。そのせいで今ほむらは、杏子と見滝原の廊下を歩いている。 その途中で、ほむらは杏子に声を掛けられた。 「あのさあ、ちょっと言いにくい事聞くけど、いいか?」 「何かしら」 むかむかする気持ちを抑えつけながら、ほむらは答える。杏子自身には思う所が無くても、それが『まどかの代わりをしている』という事実に、ほむらはどうしてもわき上がる憤りを抑えきれなくなる。 「あんたには会った事無いと思うけど、なんであたしに怒りを向けてるんだ? ひょっとして親父関係でなんかあったか?」 「親父関係? あなたのお父さんとあたしに、何か?」 少し予想とずれた事を言われて、ほむらはとまどう。 「ほら……うちの親父、ちょっとある意味世間からずれた人だから。宗教っていうのはさ、いろいろあるだろ」 「あなたのお父さんは、宗教関係の人なの?」 知ってはいるが、それは不自然なのでごまかすほむら。 「ああ、親父はさ、子供心にも立派な人だとは思うんだけどさ、宗教家って言うのは、どうしても変な目で見られるからさ。親父の説教……あ、叱られる方じゃなくて、宗教的な方の……っていってもわかんないか。まあ要するにいわゆる、ためになるお話って言うやつ?……は、聞いてていいなあって思うんだけどさ」 「それが何か関係あるの?」 そう問うほむらに、少し赤くなる杏子。 「いやさ、そういうのでなんかあったのかと……親父、わりと誤解されやすいから」 「違うわ。私はあなたの事、別に詳しいわけじゃないから」 「わり、そうなのか……」 「怒りっぽく見えたのも、ちょっと個人的なものなの。気をつけるようにするわ」 「ならいいんだけど」 会話をしつつ、ほむらはふと疑問に思った事を、言い方を考えつつ聞く。 そもそも何故杏子が見滝原中に通っているのだろうか。 「そういえばあなたのお父様、宗教家なのかしら」 「まあ、一応そうなのかな? 元々はわりとメジャーな某宗派の神父だったんだけど、親父のやつ、とち狂ったというか行き過ぎたって言うか、教義が古いって言い出してある意味独立みたいな真似しちゃったからさ。 教会施設とか買い取ったりしたりしたもんだから、今のあたしんちは極貧だよ。お袋が働きに出てギリギリ喰っていける程度かなあ。あたしはいいんだけど、妹がさ。ほら……って、なにいきなりあたしは転校生にこんなことしゃべってんだよ」 「自爆だと思うけど」 あがっ、とか言っている杏子の言葉を聞き流していると、保健室についてしまった。 「んじゃあたしは戻るけど、大丈夫だよな?」 「ええ。薬を飲むだけだから。次の授業までには戻るわ」 そして杏子が去った後、ほむらは考える。 (ここはどうも、魔法少女も魔女もいない世界みたいね。そしてもう一つ。おそらくまどかもいない。 巴マミがいないのは、契約の切っ掛けとなった事故の時、契約が出来なかったから。 佐倉杏子が見滝原にいるのは、杏子の魔法少女化が切っ掛けとなった、一家心中が起きていないから。話を聞いた限りだと、発展もしていない代わりに家族全員生きているみたいだし。 歴史から消えた人物が全て女性という事は、彼女たちも魔法少女にならなかったから歴史に名を残せなかったのね。キュゥべえの言った事を考えると。 でも何故こんな世界に?) この世界からは魔女と魔法少女が消えている。そして何故かまどかもいない。 その時、ふと思いついた。 全知の魔女は言った。まどかは世界を複写して再構成したと。 まどかの願いはなんだ? 『全ての魔女を、生まれる前に消し去りたい』だ。 その結果、まどかの祈りは新世界を生み出したわけだが、 (もう一つ考えられる解決法がある) そう、文字通り強引に『全てを無かった事にしてしまう』という手段だ。 魔女を、ひいては魔法少女も、生まれる前に消してしまう。 それはすなわち、インキュベーターの干渉を抜きにしての歴史の再構成。 まどかは魔女の消滅は願ったが魔法少女そのものは肯定していた。 その妥協点があの新世界だ。魔法少女の祈りが文明の発展に寄与したというのを肯定したとも言える。 だがもし、人間がインキュベーターの干渉無しで文明を発展させられたのならば。 キュゥべえは自分たちがいなければ人間はまだ文明を起こしていなかっただろうとはまどかに告げた。 だがそれは『だろう』だ。キュゥべえから見て、自分たちの干渉抜きでは人類が発展しなかったというのは単なる彼らの推測に過ぎない。確定ではないから、この推測が誤っており、干渉無しでも人類が発展できた場合でも、キュゥべえは嘘をついたわけではない。 推測を間違えただけだ。たとえその可能性が99.9%無かったとしても。 そして並行世界なんて言うものは、『あらゆる可能性が無限にある』ものだ。絶対にあり得ないものでない限り、それは存在してもおかしくは無い。 それに考えてみれば、魔法少女を新しい形で肯定している世界は、全てまどかが引っ張って行ってしまっているはずである。だとすれば、そこからはじき出された自分がたどり着いたのが、『魔法少女のいない世界』であるとするのは、きわめて妥当な結論のような気がする。 (もしかしたら) ソウルジェムが砕けた時、自分はここに至るのかもしれない。ジークリンデはほむらに言った。死如きで運命から逃れられると思うなと。 (という事は) ほむらは拳銃を取り出すと、ためらうことなく自分のソウルジェムを打ち砕いた。 結論は予想通りであった。 ソウルジェムが砕かれると、ほむらの時はあの瞬間に戻る。 戻る世界は常に『魔女のいない世界』。 ちえみは未契約で、マミは死亡、まどかは生まれておらず、杏子の家である教会は貧しいながらも見滝原に存在していた。両親と妹も健在で。 さやかやキリカには、たいして変わった所はないようであった。 美国織莉子に関しても少し調べてみたが、彼女は政治家の娘で、汚職事件追求による父の自殺が、彼女を魔法少女へ導いたのではないかとわかったくらいであった。 そして何度かためしてみたが、ソウルジェムが砕ける限り、常にこの世界に自分は戻ってきてしまう。 この世界にあったのは、何気ない平穏。魔女の脅威も、魔法少女の悲劇も、この世界にはない。 ソウルジェムも、今ではほとんど濁らない。 濁ってきても、グリーフシードはないが、破壊してしまえば戻る時と引き換えに濁りもリセットされる。 ほむらはここで、いろんな人物と話が出来た。 杏子の父にも会った。 話してみると、心に気高い理想を持っている人であった。 ただ、何というか、実に世渡りが下手そうな人物であった。実直すぎるというか、職人気質というか、理解するのに時間の掛かる人物であった。 杏子が何故契約したのかがよくわかる人物ともいえた。 話をきちんと聞きさえすれば、実に立派な人物なのである。ところがそれをプロデュースする才能がまるで無い。 わかりやすく言えば不細工であがり症な稀代の歌姫だ。 見た目にみすぼらしく、人前ではまともに歌えない、絶対的な美声の持ち主。 神父の場合人前で話せないわけではないが、内容が高度すぎて聞き流しではさっぱり理解出来ない。 そのすばらしさは真剣に聞かないとわからないのだ。 つくづく思った。もし彼に、ちえみのお母さんのような、才能を売り込む能力を持った人物がいたら、杏子の悲劇は起こらなかったのではないかと。 そう思った時にふとひらめいて佐倉一家と添田一家を引き合わせてみた。 一月後、自分は見滝原に出現した新興宗教の幹部になっていた。 ああやはりと思ったが、ストレスがたまりすぎてソウルジェムが濁るのでリセットする羽目になった。 のべにすると六ヶ月ほどこの『魔法少女のいない世界』にほむらは滞在していた。 そしてひとつの答えを得た。 (ここは、私の望んだ世界ではない) まどかのいない世界。 ちえみとも、さやかとも、仁美とも、杏子とも、彼女の妹とも、そしてキリカや織莉子とさえ、ここでは友達になる事が出来た。 考える時間もいっぱいあった。 ジークリンデは告げた。自分が変わる魔女は、フェウラ=アインナル……すなわち、あの『ワルプルギスの夜』だと。 それは矛盾。だが自分には、その矛盾を解消できる術がある。 ひょっとしたら、もしここに自分が、あの見せられたビジョンのように、なにも知らずにこの『まどかのいない世界』に落ちていたら。 自分は舞台装置の魔女と化し、あの巨大な歯車を回して、時を戻すと同時に世界をさまよったのではないか。 この世界にはいない、まどかを求めて。 それにもう一つ説明のつく事があるのだ。 ワルプルギスの夜は、常に『いつの間にか現れる』。 出現パターンが他の魔女と、記録を調べる限り明らかに違うのだ。 元々魔女は魔法少女が変わって『元祖』が出現し、使い魔が力をつけて増殖する。 そのためたいていの魔女は使い魔を辿ると拠点が確定できる。移動する魔女もいるが、基本的に発生のパターンを読めるのだ。 だがワルプルギスの夜だけはこれが当てはまらない。あまりにも強大な魔女が『突然』出現しているのだ。 通常のパターンに当てはめるならば、出現までにもっとたくさんの『前兆』が発見されていないとおかしい。そのくらい彼の魔女は強大だ。 なのに記録に残るワルプルギスの夜は、常に『唐突に』現れているのだ。 だがもしワルプルギスの夜に、自分と同じ時間遡行能力か、それに類する力があるのならば。 ほむらの知る限りにおいて、矛盾は解消してしまう。 知りなさい。 全知の魔女の言葉がほむらの脳裏に蘇る。本当にこの世は、自分の知らない事がたくさんある。 そろそろ帰ろう、戦いの日常に。我が身はあくまでまどかのために。休息はもう、充分にした。 ほむらは変身すると、左手の盾に手を掛ける。 そういえばひとつだけまだわからない事がある。 自分独自の技。ジークリンデによれば、ゼノンの背理と呼ばれるはずの技。 一応調べては見た。数学関連で、『アキレスは亀に追いつけない』『飛行する矢は静止している』などの題目が有名な人物だった。 だが、どうしても手が届かない、何かそんなもどかしさをほむらは感じていた。 (こういうのはちえみの方が得意そうだから、帰ってから聞いてみましょう) 帰る方法は見当が付いていた。初めての時、自分は『時を戻して』あそこに戻ったのだ。 ならば話は簡単だ。 ほむらは掛けた手を動かし、砂時計を反転させた。 時の回廊が開き、世界が変貌する。 そしてほむらの姿は、この時間軸から姿を消した。