「霧の魔女、ね……」 だんだんと濃くなる霧を、忌々しげに見るほむら。 「この霧を結界として、襲ってくるのかしら」 油断無く周囲を警戒するマミ。 「にしては妙だな……魔女の気配を感じない」 槍を構えつつも、反応のなさを不審に思う杏子。 「なにがあっても二人には傷一つつけさせない」 まどかとさやかをかばう位置に付くキリカ。 「あの人嘘をつくとは思えませんけど、実際、たぶんこの魔女の弱点を見たら、私の力が尽きます……」 泣き顔のちえみ。 「まどか……」 「さやかちゃん……」 身を寄せ合うまどかとさやか。 だが、だんだんと霧が濃くなるだけで、魔女の気配はかけらも現れない。 やがて濃くなり続ける霧が、至近にいるはずの仲間の顔すら見えづらくなるまでに濃くなったとき、ちえみはそれに気がついた。 力はなくとも、感知能力に長けるちえみの本領であった。 「いけません! 魔女は、この『霧』です!」 しまった、と思う間もなかった。魔女はあらゆる姿をとりうる。今までのように、特定の『形』をとるという先入観を突かれた形になった。 そして、ふと気がつくと―― 食いちぎられた傷は再生できたものの、魔力はもうほとんど残っていない。せいぜいこちらに近寄ってくる使い魔を撃退するのがせいぜい。 シャルロッテは暁美さんが追い詰めてくれている。これなら大丈夫だろう。 そう思ったときだった。突然シャルロッテの動きが変わる。 なにもかも振り捨てて、傍らに隠れていた、鹿目さんに襲いかかろうとしている。 隙だらけになったシャルロッテを暁美さんが全力で攻撃する……届かない。大きさを半分程度にしながらも、脱皮しつつ鹿目さんに迫っている。 残りの魔力はほとんど無い。でも、通すわけにはいかない! 私は残る全力を振り絞って、シャルロッテを攻撃する。ティロ・フィナーレを撃つ時間はない。銃を大量召喚して、同期攻撃を掛ける。 これが文字通り、最後の攻撃! 着弾した攻撃を受けて、シャルロッテの首と胴がちぎれ、分解していく。 勝った、と思った。でもそれは早計だった。 なんと、ぼろぼろの首だけになりながらも、シャルロッテは動いていたのだ。 そして相手も最後の力を振り絞り……鹿目さんを、一飲みにした。 あ…… その瞬間、私の中で、何かが崩れた。 ソウルジェムの濁りが限界を超え、収まりきれなくなった瘴気がはじけ飛ぶ。 そして瘴気を放出したソウルジェムは、ある見慣れたものに変形した。 それを見た瞬間、私は悟った。 そういう事、だったのね…… 薄れ行く最後の意識は、自分の体が解き放たれ、一筋の紐となる所で尽きた。 瘴気は細く、長くなり、瘴気の名に反するかのように、黄金に輝きはじめる。一筋の糸となった障気は紡がれていき、やがて瓢箪型の繭を形成する。 紐の魔女ザビーネ、その性質は孤独。 寂しさを紛らわさんと、全身の紐で相手を束縛する。だが紐で縛られた人は自我をも縛られてしまい、全ての意志を失う。 この魔女を倒すには、魔女が心から求める、ただ一言を囁けばよい。 あたしは織莉子のために全てを捧げると誓った。巴マミに負けた私を、偽りの自分で友になった自分を、織莉子は認めてくれた。 私のソウルジェムは傷つき、砕ける寸前だ。 もう、助からないのは判っている。このままだと、自分がどうなるのかも判っている。 それでも、私は、織莉子のために。 彼女のために。 そして作れるようになっていた結界の中に、初めて見る魔法少女が入ってきたとき、私は限界を悟る。 そして見知った魔法少女が来たとき、その時は来た。もう、持たない。でも―― 「大丈夫。 私はなにになっても、 決して織莉子を 傷つけたりしない。 いや、むしろ こうなる事で 君を守る事が 出来るのならば 私は――」 ――安らかに、絶望できる! 瘴気は渦を巻き、新たな形を形成していく。下半身を残したまま、上半身が膨れあがる。 ボコり、ぼこりと膨れあがる体は、女性の上半身がいくつも連なったような奇怪なオブジェと化す。 そして頭部につばとリボンの付いた帽子がかぶさり、結ばれたリボンの中心に、むき出しの眼球がせり出してくる。 風船の魔女マルゴ。その性質は偏愛。全てはこの身を満たす、あの方の愛のままに。 空の身を膨らませる息吹がある限り、この魔女は息吹を吹き込みし者の意に全力を持って仕え、守らんとする。 もし吹き込みし者が倒れたならば、この魔女はその者と生死を共にするであろう。 「くそっ、なんで倒れないんだよおまえはっ、無敵だとでも言いたいのかっ!」 いや、判っちゃいるんだ。こいつは無敵なんじゃない。耐えているんだ。 鋼のような意思で、こちらの攻撃を跳ね返してやがる。 このままじゃじり貧だ。逃げるか、攻めるか。 そしてあたしは――『攻めた』 使い魔を蹴散らし、本体に攻撃を掛ける。木枠、拘束台、そして、刃。 ギロチンなんてふざけた形をしている魔女に、全力で猛攻を掛ける。 それでも、あいつは揺るぎなくそこにあった。 ヤバいな……ミスったか。もうソウルジェムも限界だ。 さすがに逃げないとまずいだろう。そう思ってあたしは、最後の『啖呵を切った』 「ったく、てめえ、魔女の癖して『何様のつもりだ!』。とっととくたばりやがれ!」 そう、あたしが叫んだときだった。 一瞬、魔女の、ギロチン台の姿が歪んだような気がした。 そして返事をするかのように聞こえた声。 ……許さない……万引きは、泥棒なんだよ…… それは、「あいつ」の口癖だった。あたしを追っかけ回す、ミニスカポリスっぽい魔法少女の。 おい、まさか、てめえ やちる、なのか…… その瞬間だった。気が緩んじまったせいか、気がついちまったせいか。 あたしのソウルジェムが、限界を超えちまった。 押さえつけていた瘴気が、濁りが、よどみが、解き放たれていく。 ああ、そういう事だったのか。キュゥべえのやつ、適当抜かしやがって…… 地面から突きだされた槍が、杏子の、既に物言わぬ骸と化した体を貫く。 そのまま掲げられた体を、今度は水平に突き出された槍が、両の腕を大の字に固定する。 それはかつて教会に掲げられていた聖人の像のごとし。 だがその身は黒く穢れ、その顔はいびつに歪み、その身は淫靡な娼婦のようであった。 やがてどこからともなく現れた使い魔が、十字架に貼り付けられた魔女を、聖なる者のように掲げながら行進していった。 聖者の魔女マリアンネ、その性質は贖罪。彼女の姿を見、その声を聞いた者は、己の罪を告白せずにはいられない。 だが、懺悔した者に与えられる救いは、常に『死』あるのみ。 一人、だった。 なにも、出来なかった。 なにも出来ないまま、心は絶望に染まった。 そして、私は――『歯を食いしばった』 私は『知っているから』 このまま心をゆだねていたら、私は『また魔女になってしまう』 だから私は、必死に抗った。 身動き一つ、出来ないけれど。 気がつくと、私は病室にいた。 「なんで? なんで私はここにいるの?」 私はあの世界で死んで、円環の理に帰るはずだった。なのにここは、始まりの場所。ループの基点。 そして手の中には、懐かしいソウルジェムの手触り。 動揺した私は、『なにも考えられなかった』。 混乱がめまいを、心臓を痛めつける。 『いつもの確認も、なにもかも忘れていた』。 私の変調に気がついた看護師さんから、私は退院の延期を知らされた。 なんという大失敗。 転校が遅れたら、なにもかもが崩れてしまう。まどかは魔法少女となり、あの最初の悲劇がが繰り返され……そこではたと気がついた。 自分にとっての全ての事の始まりは、転校して私がまどかと出会った事。 ならば、もし、そもそも自分が、まどかと出会っていなかったら。まどかがマミと共に、ワルプルギスの夜まで、私と共に行動していなかったら。 不安は不調を呼び、迷いは迷いを呼んだ。運命の一月の間、私のソウルジェムはどんどん濁っていく。グリーフシードを手に入れたくとも、この体がまともに動いてくれない。希望の力がわき上がらない。体調を整える事すら出来なくなっている。 そして運命の日。 見滝原は――『平穏なまま時が過ぎていった』 もう、駄目だった。私の心の中で、最後の支えが外れるのを感じる。 せめてソウルジェムを砕いてしまいたいが、今の私は指一本動かせない。 私は、どんな魔女になってしまうのだろうか。 「それを、知りたいかしら。暁美ほむらさん」 その声に、私の意識が急速に浮上した。 そこは、視界を閉ざす霧の中だった。ほむらが自分の左手を見ると、そこに見えるのは限界まで濁ったソウルジェム。 かつてまどかが昇華したときよりひどい、といえば濁り具合が判るであろう。 ほむらは、自分の意識を覚醒させた存在――ジークリンデを睨み付けた。 襲いかかろうにも、動くのはせいぜい首から上だけだ。 あたりを見渡すと、うっすらと、三体の魔女の気配を感じた。そのうち二体は、見覚えのあるシルエットが霧に映っていた。 「ザビーネと……キリカがなった魔女?」 「ご名答」 ジークリンデが答える。 「あのお方には一切の攻撃能力はありません。ただ、あり得る未来を、あり得た可能性を体験させる事が出来るだけ。但し、体験させられる側にとっては、それは現実と全く同じ事。幻覚のように、打ち破るという事は不可能。そしてあなた方が見せられたのは、『魔女化した未来の体験』よ」 それを聞いてほむらは慄然とした。そんな事をされたら、どんな魔法少女であってもまともでいられるわけがない。 「そう……絶対不可避な魔女化の再現。それがあのお方の使える唯一の攻撃手段。勝てないといった意味がおわかりかしら」 「……いやというほどね。でもなら何故あなたは、私を助けたのかしら。あのままにされたら、私も間違いなく魔女になっていたはずよ」 ジークリンデは、一転して厳しい顔になって答える。 「あなたが魔女化する事は、全ての終わりを意味するわ。それはあのお方にとっても望む事ではないの。あのお方は、絶望しかない世界に希望をもたらす『奇跡』を望んでいるのだから」 そしてほむらのソウルジェムに、ジークリンデは細長い棒――キューを突きつける。 「だからあなたは、この後で私が殺します。でもその前に」 「その前に?」 「少し助言を聞いて行きなさい。ああ、まどかさんとさやかさんは、何ともありませんから安心しなさい」 ほむらは思わずジークリンデの顔をまじまじと見つめてしまった。 「殺す相手に助言?」 「黙って聞きなさい」 視線だけでほむらを黙らせるジークリンデ。 「助言は三つよ。まず一つ。あなたの固有魔法は、あくまでも『時間遡行』よ。あなたには時間を止める力など無いわ」 「前にも言っていたわね。それ、どういう意味なの。私は確かに時間を止められるのに」 「時間を止める事は、誰にも出来ないわ」 ジークリンデは、馬鹿にするような目でほむらを見る。 「そんな事をしようとしたら、神様にでもなるしかないわ。よく聞きなさい暁美ほむら。あなたの時間停止は、過ぎ去る時間と同じ速度で時間を遡行する事による、擬似的な時間停止なのよ。流れるプールを流れに逆らって泳いで、そこに静止しているように見えるのと同じ事」 思わずほむらは納得してしまった。 「あなたは自分の魔力を帯びたものを過去に戻す事が出来る。それがあなたの固有魔法。静止時間の中で普通に呼吸が出来るのも、銃を発射できるのもそういう理由よ。そしてこの魔法を応用する事で、あなたにとっては得難い真の必殺技を見いだせる。まあ、必殺技と呼ぶにはふさわしくないのですが」 「それって一体……」 「詳しくは教えられないわ。自分で考えて会得しなさい。だけど、あなたの固い頭じゃ思いつきもしないだろうから、ヒントだけは教えてあげます。 その必殺技に名をつけるとすれば、それは『ゼノンの背理(Zeno's Paradoxes)』とでも言うべきものですわ。アキレスは亀に追いつけない、そういうものです」 「ゼノンの、背理……?」 この時点のほむらにはその意味が判らなかった。アキレスと亀の話は昔聞いたような憶えもあるが、詳しくは憶えていない。 「まあ、あなたの武器がなんであるかをよく考える事ですね。助言の二つ目」 そこで話題を変えるかのように、話を変えるジークリンデ。 「もしこの先、魔女でない私に出会う事があったら……それは千載一遇、一期一会のチャンスだと思いなさい。彼女に会って、なおあなたが願いを叶えられなかったとしたら、それは全ての破滅を意味するわ。言い換えれば、それが最後のフラグよ」 ほむらは考えて、また思わず納得する。織莉子が絶望したのは、おそらくは未来に救いがどこにもないから。ならば逆に言えば、織莉子が存在するのならは、それはその周回においては救いの目があるという事。 「そして最後の助言。但しこれは聞かないという選択も出来るわ。あなたにはまだ時間がある。着実に力を積み重ねるか、多少危険でも一気に近道を行くか、その差くらいですけど」 ほむらの答えは決まっていた。 「聞くわ」 「なら、最後の助言です。暁美ほむら」 彼女の目に、怒りと、哀れみと、慈愛が混在した、不思議な光が宿った。 「あなたがあのまま魔女となった場合、あなたはこんな魔女になるのよ」 そしてジークリンデは、詩の一節を読み上げるかのように、朗々と語りはじめた。 「舞台装置の魔女 フェウラ・アインナル その性質は無力。同じ道を回り続ける愚者の象徴。 切り捨てられた未来は積もり重なって舞台を築き、道化達はその上で、失敗した戯曲を愚直なまでに繰り返し演じ続ける。 かの魔女を倒すためには、己が切り捨てた未来を肯定せねばならない」 ほむらの顔が衝撃でこわばった。 そんなほむらの様子に気がつかないかのよに、ジークリンデは言葉を続ける。 「さて、助言は終わりました。私はこれからあなたを殺します。ですが」 キューの位置を修正し、握る手に力がこもる。 「死如きで運命から逃れられるなんて、甘い事は考えない事ね」 その言葉と同時にキューが突き出され、ほむらのソウルジェムは砕け散った 筈だった。 唐突に目が覚める。そこは始まりの病院。手の中には、濁りのない、きれいなソウルジェム。 困惑するほむらは、とりあえず深呼吸をして落ち着きを取り戻す。 まどから見える景色も、カレンダーの日付も、傍らに置かれたパンフレットも、今がいつもの始まりの時である事を示している。 「どういうことなの?」 先ほど聞いたばかりのジークリンデの言葉もあり、考えがうまくまとまらない。 ひとつ確かなのは、もしほむらが死んだ場合、リセットするかのように、始まりの時に戻る。そういう事だった。