青年、氷川銀河はひとしきり叫んだあと、まず冷静に状況の把握につとめた。
そこで違和感。
意識を失う前と服が変わっているのだ。
ベッドに横になった時点で、彼は黒のジャージをパジャマ代わりに着ていたはず。
だというのに、今着ているのは青を基調とした豪奢なローブに、水色の鉄甲が着いたズボン。
全く覚えがない。
いや、見覚えはある。あるが――――
「セラフィムのローブに……………ぜったいのズボン…………あと、オベロンのくつ…………?」
いくらなんでもあんまりだ。
挙句の果てには腰に一振りの西洋剣まで下げている。
恐る恐る鞘から引き抜いてみると、それはこれまた見覚えの、そして名前から妙な愛着のある「銀河の剣」。
となると、背中に背負っている金色の盾は恐らく冒険中で一番お世話になった「ウロボロスの盾」だろう。
これらの装備は、全て銀河の操作していた「ギンガ」が装備していたもの。
――――何がなんだか分からない。
いや、分かる。分かるが故に、認めたくないだけだ。
まだドッキリ、悪戯という可能性もある。
しかし……………
「考えるな」
半ばパニックになりかける思考を超人的な理性で持ち直し、彼は最優先でなすべき事を考える。
まずは森を抜け、人と会うこと。
疑念通りにいけば言葉が通じるかどうかも甚だ疑問であったが、このまま一人でいても仕方がない。
出来れば人里に着きますように、と願いをこめて、青年は、まず昔の知識から川を探し始めた。
しかしどうしてこう事がスムーズに運ばないのか。
「ははっ。なんと言うか、基本だな。最初はスライムって」
目の前で飛び回る一匹の青いタマネギのような形をした軟泥状の生物を視界に入れ、銀河は呆れとも愉快ともつかない乾いた笑い声を上げた。
スライム。
恐らく日本なら一度は見た事のあるであろう、ドラゴンクエストの世界において最もポピュラーな、
「魔物」である。
笑った風な顔のままピョンピョンと飛び回るその姿を目にして、銀河の中で何かが吹っ切れた。
「ははは………………はは………」
乾いた笑い声も、自然と止まる。
スライムを見ていたはずの目が、どこか遠くを見つめるような――――焦点が合っていない眼差しへと変貌する。
「おい……………待てよ…………」
青年の声が震え始める。
興奮、高揚から来るものではない。
むしろ逆。怒り、恐怖、不安、それらをない交ぜにしたような声色だった。
「ゆめ…………だよな……………?」
「たつじんのてぶくろ」に覆われた手で、青年は自身の頬をつねる。
痛い。まだ目は覚めない。
頬を殴る。
痛い。それでも目は覚めない。
鼻毛を一掴み、思い切り抜いてみる。
一番いたい。涙が出てきた。それでも目は覚めない。
夢じゃない。
となると、これは。
「待てって、おい。やめろ銀河。馬鹿なこと考えてるんじゃない」
両手で頭を抱え、髪を掻きむしる。
しかしその爪は青年の黒い髪に届く事はなく、頭部を覆う金色の兜によって遮られた。
「しんぱんのかぶと」。
これもまた、「ギンガ」が装備していた武具の一つである。
「…………………っ」
模造品、現代日本の技術で作られたとは思えないほど神秘的な雰囲気を漂わせるその兜を外して見つめ…………………青年は、その兜を地面に思い切り叩き付けた。
黄金の兜が地面に勢いよくめりこみ、ゴガァン! と人間の腕力では出す事が不可能な音が響くが、銀河はそれを見てはいなかった。
「ふっっっっっっっっっっっ――――――――ざけんな!! ドラクエってのはゲームの中、架空の世界だろうが!」
天を仰ぎ、絶叫する。
仮にも魔物であるはずのスライムは眼中に入っていない。
ただ己の中にある理不尽を吐き出したいがための咆哮であった。
しかし、それを黙って見ているほどスライムは温厚ではない。
案の定、「魔の物」であるスライムは人間である銀河へと飛びかかる。
開いた口から二本の牙が覗く。
それらは小さかったが、人間の皮膚をやすやすと貫通しうる程度には鋭かった。
「ゲームのくせに――――」
対して、銀河が取った行動はシンプルだった。
張り裂けんばかりに握った拳を、カウンターの要領で飛びかかって来るスライムの身体へと叩き付ける。
それは一種の防衛本能であると同時に、自身に起きた異常への腹いせの意味も含まれていた。
「現実に干渉してんじゃねえぇぇぇぇぇぇぇぇぇっっ!!」
凄まじい音が響いた。
青年の絶叫すらかき消すほどの、轟音。
それは拳が空を裂く音であり、拳を叩き付けられたスライムがひしゃげる音であり、振るわれた右腕が生み出す風圧が近くの木々をなぎ倒し、地面を抉り取る音でもあった。
静寂が戻る。
原型を止めないほどに破壊されたスライムはやがてその身体が半透明になり、数枚の金貨へと変貌し、その姿を完全に消した。
銀河はしばらく破壊の嵐を巻き起こした自身の右腕をぼーっと見つめ、やがて再び拳を握ると、今度はそれを地面に叩き付けた。
再び爆音が炸裂する。
地面には直径数メートルのクレーターが穿たれ、衝撃波は周りの木々を根っこから吹き飛ばし、轟音に驚いた鳥たちが一斉に羽ばたく。
それらを見ても、銀河の表情は何一つ変わっていなかった。
どうにもならない事に直面したかのように、どこか諦めた、吹っ切れた顔をしている。
「ああ……………そういや攻撃力もカンストだったっけ」
力の種を集めるためにブラウニーを狩りまくった日々が脳裏に浮かぶ。
液晶に映る魔物を倒し続けた日々。
しかし、今はもうそれが笑い事ではなくなってしまった。
「自分の育てたキャラクターになるって………………なんでこんなことに……………」
さっきの暴行で理不尽への怒りは出し切ってしまったのか、一応は落ち着いた様子の銀河。
自身の状態に対する疑問は数えればキリがないほどであったが、ここでグジグジ悩んでいても事態は好転しないという事が分かる程度には、彼は大人だった。
さて。
森の中を歩きながら、彼は頭を切り替え、現在の自分の状態をチェックすることにした。
まず、自分のステータス。
間違いなく、ゲーム内での「ギンガ」と同一だ。
これはもう、先ほどのスライムとの戦闘(と呼べる物であったかどうかは定かではないが)で疑う余地はないだろう。
呪文、特技に関してはまだ試してはいない。というか、試し方が分からない。保留。今は人を捜す方が先だ。
次、現在位置。
これについては不明と答えるしかない。
スライムが生息していたことからウォルロ地方、アユルダーマ島のどちらかだろうが、これはこの世界が「9」であった場合の話だ。
もしかしたら、ナンバリングタイトルとは全く関係のない別の世界だということもありえる。
いや、むしろそちらの可能性の方が高いかもしれない。もし自分が主人公、つまり天使であるなら、近くにサンディがいないのはおかしい。
もっとも中身はただの人間であるため、サンディの姿自体が見えないという可能性も捨てきれないが、考え出したらキリがない。保留。
差し当たっては歩くしかないだろう。
次、所持品について。
これはもう、着の身着のままだ。
あれだけ苦労して集めた装備品も、道具も、秘伝書も、全て無い。というか、「ふくろ」らしき物さえ無かった。
一応腰に得体の知れない鱗のようなものが張られている巾着のような物はあったが、中身は空だった。
まあ差し当たっては現在の装備があれば大丈夫だろうが、やはり自分で集めた物がなくなると多少は落ち込む。たとえゲームの中の話だったとしても。
次、所持金。
当たり前の事だが、「ふくろ」が無い以上、金について期待するのは間違っている。
とりあえず先ほどのスライムとの戦闘で拾った四枚の金貨、恐らく4G(金貨の裏に数字が書いてあった)を、腰の鱗が張られた巾着に入れておく。
いつの間にか日が高く上っていた頃。
歩き続けて数時間、いまだ疲れを見せない自分の身体に、銀河は驚くというよりもむしろ「やっぱりな」という思いが強かった。
なんと言っても、HP999である。ダークドレアムの攻撃が直撃しても二回までは耐えられるのである。
これで疲れるわけはない、と銀河は半ば確信していたのだが、どうやらその通りだったようだ。
しかし、いくら疲れないからと言っても、人に会えないのではどうしようもない。
「てか、ほんとにこの森出口あんの……………?」
呟いた、その時だ。
ピタリ、と青年の足が止まる。
この身体になってから、なんだか「勘」のような物が働くようになった。
例えば、まだ見えていないにも関わらず「数十メートル先に何かがいる」ということが分かり、結果としてそれは正しい事が多い。
第六感とも呼ぶべきものなのだろうか。おかげで今まで戦闘もなく進んで来れた。
そして今回も、それが働いていた。
ただし、今回のそれは今までのとは違う、ほとんど確信に近い物を銀河へと与えていた。
「ああもう、なんなんですかぁ?」
この獣道を進んだ先に、何かがいる。
いや、正確には、何かが戦っている。
本来なら避けるべきところだったのだろうが、今の青年は魔王すらサシで倒した勇者。
何を恐れるものがあるとばかりに堂々と歩いて行くと、第六感の次は聴覚が、青年の勘が正しい事を教えてくれた。
聞こえて音は、主に三つ。
男の叫び声、金属音、猛獣か魔物のものらしき咆哮。
間違いない。魔物と誰かが戦闘している。
巨大な足音や地面そのものを破壊するような音が無いということから、それほど大型のモノと戦闘している訳ではないらしい。
だが。
叫び声は途切れ途切れにしか聞こえてこないが、消えはしないということから、恐らく声の主の相手は楽な魔物ではないのだろう。
しかし、第六感と聴覚だけでここまで状況を推察できるとは、自分の頭の変わりように薄ら寒いものを感じる。
ふと、拳、そして鞘に納まったままの「銀河の剣」が目に入る。
「…………やれるのか?」
自分が大変な状況だというのに、こんな思考をしている自分に呆れてしまう。
だが、もしやれるなら、助けに行けるなら。
身体は恐らく史上最強でも、中身は動物も殺したことのない一般人だ。本当に戦えるのか。
スライムの時とは訳が違う。
半ば反射的に繰り出した一撃とは違い、今度は自分の意思で戦いに赴くのだ。
その時、聞こえて来る戦闘の音に変化が生じた。
鳴き声だけが聞こえて来るようになり、男の叫び声が全く聞こえてこなくなったのだ。
それを認識した瞬間、青年の頭から悩みは消えていた。
素早さ999の脚力を十二分に生かし、銀河は音が聞こえて来る地点へと走り出した。
鬱蒼とした木々が取り囲む森の中、木立もいよいよまばらになり、もう少しで森の出口といった開けた場所。
そこで、魔物と人間による戦闘が繰り広げられていた。
襲われているのは一台の馬車。荷台を引く馬は襲いかかって来る魔物に混乱に陥るが、それを操る御者が巧みな操縦で彼らの暴走を食い止めている。
商人が乗るこの馬車を襲うのは、多数の魔物による混成部隊だ。
一・五メートルはある大型の猫を直立させてローブと杖を持たせたような「ねこまどう」、大型の鳥の頭部をそのまま赤い花に付け替えたような「はなカワセミ」、鳥に鉄の鎧を着せたような外見の「メタッピー」。
馬車に襲いかかる魔物は合計十数匹にも及ぶ大軍団。
比較的魔物の少ないとされるこの森においては、異例の大所帯である。
普通に考えれば、馬車とその乗組員たちはとっくに魔物の餌食になってもおかしくない状況。
しかし、そうはならなかった。
一人の戦士風の男が、襲いかかる魔物の群れから必死に馬車を守り抜いていたのである。
「全く、ツイてないぜ……………!」
吐き捨て、筋骨隆々の肉体を鎧兜で包んだ戦士風の男――――ウィリアムは、両手で「鉄のオノ」を構え直した。
豊かなヒゲと日焼けに彩られた精悍な顔つきを今は苦痛で歪め、怯える商人を背に、魔物の群れと対峙している。
彼は、付近の町にある冒険者ギルドの一員であり、今回この商人の護衛を引き受けた一人であった。
既に彼の足下には大量の金貨が落ちている。
死んだ魔物は金貨へと姿を変える事を考えると、ウィリアムの健闘は凄まじい。
ねこまどう、はなカワセミ、メタッピー。
これらのうち、前者一つは後方から魔法を放ち、後者二つは空を飛ぶ。
およそ戦士にとってこれ以上悪い組み合わせは無いにも関わらず、ウィリアムはそのハンデをものともせず、上空から迫るはなカワセミを拳で叩き落とし、メタッピーを鉄の鎧ごと斧で叩き斬っていた。
しかし、どうしても後方でメラを使い、稀にしか接近してこないねこまどうには対処できない。
自分が前に出れば、その分護衛対象が手薄になる。それではダメだ。
「ジリ貧か……………」
かろうじて耐えていた火弾呪文も、そろそろ限界。
残りがメタッピー四匹、はなカワセミ三匹、ねこまどう六匹。
半数近くは減らした計算になるが、もう最後の手段を使う時かもしれない。
一か八か、逃げるという手を。
いくら魔物相手に健闘しようと、死んでしまってはそこで全てが終わる。
決断しなければならない。
この数の魔物相手に逃げ切れる確率は、多く見積もって三割弱。
空を飛べる魔物は足が速いため、振り切るだけでも至難の業だ。
しかも馬は暴走しないだけで使い物にならないほど興奮状態のため、必然的に荷台は置いて行くことになる。
しかし、それは自分も逃げに徹した場合だ。
自身がここに残り、足止めに徹した場合――――護衛対象が逃げ切れる確率は、グンと上がる。
「おい、オッサン……………ぐっ!!」
「き、君!」
また一匹のはなカワセミを斬り捨て、ねこまどうのメラを左肩に喰らいながら、それでもウィリアムは声を振り絞って商人に言った。
「何も言わずに真っ直ぐ走れ。いいか、何があっても走り続けろ」
「そんな、君は……………」
「いいから行きやがれッ!!」
鬼気迫る何かを感じたのだろう。
最初はウィリアムを案じるような様子だった商人も、コクリと頷くと、御者と一緒に全速力で森の出口へ走り出した。
しかし。
側の木立から飛び出した新たなはなカワセミが一匹、商人たちの方へと向かって行った。
「っ! マズ――――」
言いかけたウィリアムの声が、再びねこまどうのメラによって遮られる。
気を逸らしていた彼の右肩に直撃した火の玉は鉄の鎧の一部を破壊し、右手に握られた「鉄のオノ」を弾き飛ばした。
くるくると回転して宙を舞うオノが、やけにスローモーションに感じる。
「――――!!」
ほとんど言葉にならない声を上げるウィリアム。
それに気付いたのか、御者の方が走りながら後ろを振り向く。女性だった。まだ若い。
彼女の瞳は、自身へと迫る魔物をはっきりと捉えていた。
瞳が見開かれる。表情が恐怖で歪む。
その細い背中に、はなカワセミの鋭いクチバシが突き刺さる――――その、刹那。
一つの青い影が魔物と御者の間に割り入った。
目にも留まらぬ早業、とはこういう事を言うのだろうと、ウィリアムは疑問より先にまずそう思った。
その影――――青いローブを纏った青年が弾き飛ばされたウィリアムの「鉄のオノ」を空中で掴み取り、なおかつそこから御者の所まで移動し、片手の腕力だけではなカワセミを両断したと、はたして誰が視認できただろうか。
自然、皆の動きが止まった。
これまでせわしなく動き回っていた魔物でさえ、雰囲気に呑まれたかのように動きを止めていた。
俯いている青年の顔は、前髪に隠れて見えない。
ただ、一言。
「〝消えろ〟」
脅しでもなんでもない、ただの言葉。
にも関わらず、それを聞いた魔物が震え始める。
一匹のねこまどうが回れ右をして逃げ出すと、それに釣られてか他の魔物まで我先にと蜘蛛の子を散らすように逃げて行ってしまった。
「……………助かった…………のか………?」
自分のオノを片手にこちらに近付いて来る青年の姿を最後に、ウィリアムの意識は途切れた。
――――あのオノって、片手で振り回せるようなもんだったけかなぁ。
最後に、そんな事を思いながら。