じっと息を潜め、己の全てを殺しながらリリアナは視線で人が殺せるならばというような形相で、酒場内で一番危険な怪物たちの集う円卓を睨みつけていた。
いつもならばそんな危険極まりない集まりなど、毛ほども関わらない彼女であったが、今回ばかりはそうとも言ってられない。
なぜならばそのとんでもない集まりの中に、あろうことか彼女の相棒がほろ酔い加減で楽しそうに笑いながら加わっているからである。
ここ大塔都市ララクにおいて、人々の選ぶ関わりたくない奴らトップテンにランクインする奇人変人魑魅魍魎共。
《比較的温厚な悪魔》と馬鹿みたいな分類名を当てはめられたアセイル・デーモン=レーゼ。リリアナはこの分類名を付けたララクの役人を絞め殺したい気分である。
恐怖の代名詞アセイルデーモンに「比較的温厚」もクソもあるか。
アレが普通に街路を歩いているだけでも、他の都市では都市機能が麻痺する大混乱になるレベルであった。
彼女にフィリップがぶつかって脅しの言葉を囁かれたのがつい昨日で、そして何故その相手と酒宴を共にしているのか、訳がわからない。
そして《八本牙の懐刀》と呼ばれ、あのレーゼを一体どんな外法を使ったものか、きっちりと従えて見せるウォートロルコンジャラー=ゲラン・グロカーシュ・ウランフ。
傭兵たちの間で、一種英雄の如き扱いを受ける戦トロルである。
そもそも、あの縄張り意識が強く戦争中毒の戦トロルの連合体制を作ってみせただけでも賞賛物であるが、あの凶悪なアセイル属を齢八つか九つの頃に召喚し、今に到るまで使役し続けるという行為はあの《魔道士の円環(サークル・オブ・メイジャイ)》が侃侃諤諤の大激論を巻き起こしている。
が、そんな不毛な議論が決着する前に、在野の魔道士達は彼の偉業を手放しで賞賛している。
皮肉にも戦トロルの彼が、この面子の中で一番社会的信用が高かった。
そして、さきほど彼女を殺しかけた伝説の剣士。古王国滅亡期からインペリウム黎明期までを一陣の風の如く走り抜けた半霊半魔の剣客。《幽鬼のヘイゾォルト》と呼ばれる一人の剣鬼。
今はもう伝説となってしまった昔、数えきれぬ程の領界神が人界へ介入し、神々の代理戦争は激しさを増し、領界を隔てるヴェールが薄紙の如く切り裂かれ、数多のソウルシフターを生み出した悪夢の時代。
ケイオスの支配する世界を、ただ己の腕と妖刀だけを引っさげて切り開いた英傑。
そんな相手に矢を射掛けて、自分が生きているのが不思議なほどで、リリアナは知らずのうちに己の首筋をさすった。
ほんの少しだけ何かが違っただけで、恐らく自分はこの世にいない。
そんな、第六感じみた直感が彼女を支配している。
ショートワンドを握り締め、己の持つ夢幻界の魔道を最大限まで開き、虚を実に実を虚に変えながら彼女はじっと息をひそめて視線をテーブルにやっていた。
極限まで尖らせた神経は魔道の維持と目標の監視に向けられていたわけだから、甘ったるい声で「こちら相席お願いしまぁす」というウェイトレスの声と、その後に着席した人影に彼女は気がつかなかった。
しかし、その相席者がカットグラスに注いだブランディを彼女の方に置いた時、リリアナはようやく己のテーブルにやってきたその怪人の正体に気がついた。
そして、気がついた瞬間に彼女は頭の中が真っ白になる。
《流血気狂い魔道師》の異名を持って人々を震撼せしめる、ブラッドメイジ=イーレン・ヴォガスコフ・アンティノーヴァが、対面に座ってじっと彼女の顔を見つめていた。
それは殆ど、冒険者の間では都市伝説のような扱いをうけている魔道師である。
なにせ、目撃証言のあるところでは基本的に凄惨な流血と死闘の渦巻く現場であるし、この狂った魔道師の話を好き好んでしたがるような命知らずも殆どいない。
噂の所にその影あり。
都市部に巣食うブラッドメイジは、間違いなく恐怖の的である。
先ほど救貧院の門前で遭遇した時は、同名の別人かと一瞬思ったが、あの使ってみせた魔法はどう考えても流血界の魔法とエントロピー系統の呪いである。別人の可能性は限り無く低い。
冷や汗の流れ始めた顔を緊張でひきつらせながら、リリアナは自分の隠行をまるで無いものかのごとく無視して席についた魔道士に、一体どうやって応対すればよいかと頭を巡らせた。
「素晴らしい」
「――は」
「エクセレンッ……これほど巧妙な夢幻界の魔道は久しぶりだ。たしかにそこにある、だが同時にそこには何も無い。虚実を巡らす夢幻の魔道。開きすぎてはいけない、しかし同時に大きく開かねばならぬ。夢幻と虚実は巧緻を備えるべし」
想像に反して、怪人の口から漏れたのは賞賛の言葉であった。
突然の褒め言葉にリリアナはどう反応してよいやらわからずに、ただ言葉に詰まる。
それと同時に彼女は、この魔道士の両目に話で聞くほどの狂気を見出すことが出来ずにいた。
その双眸はあくまで理知的で、厳しい魔道の理に浸かった熟練のそれを思わせる。
彼女は唐突に、己の魔道の師である老人を思い出していた。
イーレンの顔貌はその師ほど老けておらず、むしろ二十代半ばほどの精悍さを残していたが、その両目には彼女を厳しく指導した老師と同じ光が、確かにあった。
「今暫し、それを維持せよ。吾輩が良いというまで、世界に虚実を交えるのだ」
「……はい」
「宜しい」
そう言って満足気に頷くさまも老師を思い出し、彼女は黙って意識をもう一度鋭敏化させる。
二人の座るテーブルをゆっくりと世界から切り離していく。
そこに確かにある。
だが、そこには何も無いのだ。
そうして魔道を細く広く開くと、それに合わせるようにイーレンは己の魔道を開いた。
その時リリアナは、ブラッドメイジの知られざる側面をたしかに知った。
慎重に開かれた流血界の魔道は、力強い波動で虚実の障壁内を満たす。
流血界といえば、凄惨な鮮血と吐き気を催す臓物の魔道だとばかり思っていた彼女は、その穏やかさの中に確かに息づく力強い拍動に驚いた。
そして、彼女は気がつく。
これは、己が母の胎内にいた時に感じていた心の臓が鼓動する音である、と。
それと同時に全身の血流に乗って力強い魔力の胎動が駆け巡る。
後で知ったことではあるが、これぞ流血魔道士の初歩にして最奥。
《血の饗宴》と呼ばれる秘法であった。
さて、魔道士の円環が必死になって隠して回っている禁術の知られざる側面を知った彼女が驚愕に打ち震える目の前で、鷹の如き顔貌となった魔道士はゆっくりと呪文を呟いた。
やがて呪文が完成したのか、さっきまで彼女が、今はイーレンが睨みつけるテーブルの会話が、まるで隣で話しているかのような近さで障壁内を満たす。
『ふふ、ふ、おぬし、なかなか飲める口じゃぁござんせんか、さ、もう一杯、グッといきなせぇ』
『うっぷ、ちょっと手加減してくれよ。こっちは人間なんだ、あんたらみたいなのと比べられちゃ困る』
『ガハハ、おい若人、酒っていうのは場数を踏んでなんぼだ。呑まないとどれだけ入るのかもわかりゃしねぇ。肝臓の強さは決まっていても、飲み方の強さは場数で決まる』
『そうそう、兄さんは相変わらずいいことを言いなさる。さ、どうだ、おい、もう一杯』
『う…………よしっ』
視線の先でフィリップがグラスの中身を一気に飲み干した。
『うっ、うぷ、もういくらなんでも無理だ』
『ああ、情けねぇ奴だ、兄さん手本を見せてやりなせぇよ』
『よしきた、どれどれ、とくと見るがいい』
長身の戦トロルは酒瓶を喇叭飲みし始める。
陶器製の酒瓶を逆さにしてその一滴までを胃袋の流しこむと、酒臭い息を吐き出しながら笑う。
『ワーハハハハハ! どうだぁ! 俺にかかれば火酒などもののかずではないわ!』
『さすが兄さん! よっ! このウワバミ! ザル! いや、むしろ底のない升!』
『うぇっぷ』
『ソフィー、あのようなお酒の飲み方はご主人様のような限られた人にだけ適応されます、マネをしないように』
『ええ、レーゼさん、わたくし以前お酒ではひどい目に会いましたの。それからは気をつけています』
その、鈴を転がすような声がした瞬間に、イーレンは身を乗り出した。
声の主は、リリアナが唯一その正体を掴めなかった少女である。
見た目には、ララクの初等部に通う幼い少女でしか無い。
『ほう、痛い目?』レーゼが片眉を上げる。
『はい、それからはお酒はなるべくひかえるようにしています』
『へぇ、通りで。で、その痛い目ってぇのは一体どんな事で?』ロクシーが問う。
『それは、その……』少女――ソフィーは恥ずかしそうに顔を赤らめると『ひみつ、です』と小さく呟いた。
そんな少女にニヤニヤと笑いかけながら、美貌の剣客はしたり顔で頷いて見せる。
『ははぁ、つまりあれだ、愛しの叔父様と関係のある話ってわけだ、ええ? そうでござんしょうが』
『そ、そんな、ことは、その……』
『おいおい、つれねぇなあ、教えてくれたってよござんしょう。おおかた、酔った勢いで叔父様の寝床に潜り込んだとか、そんなオチで?』
『な、な、な…………』
『おや、図星?』
『も、もうっ、知りません!』
そう言って、ソフィーは真っ赤になった顔でぷいと横を向く。
そんな彼女に絡む侍は、こちらは酒で真っ赤になった顔でニヤニヤと笑っている。
質の悪い酔っ払いめ、とリリアナが思った瞬間に「パキン」と何かにヒビの入る異音がした。
ぎょっとしてそちらを見れば、鬼のごとき形相をした魔道士が右手に持ったグラスを震えるほどの力で握り締めている。
リリアナはすぐに視線をそらせて見なかったことにした。
『おい、ロクシー。あんまり揶揄うんじゃない。相手は小学生だぞ』
『小学生ってなんでござんす』
『む、ああ、初等部学生っていう意味だ』
『ああ、なるほど』
『こういう時はな、あれだ、そう、将来の夢とかを聞くべきだろう。なあ、ソフィ、将来の夢はなんだ』
そう言って話しかけられた少女は、暫し考えた後に面を上げた。
『わたくし、まなびやを卒業した後はおじさまのお役に立ちたいと思っております』
その言葉に、ブラッドメイジは曰く言いがたい呻き声を上げた。
『わたくしが世界で一番そんけいする人が、おじさまなんです。こうして外に出れたことも、まなびやに通えていることも、全部、全部おじさまのおかげです。わたくしは今まで、何もかもいただいてばかりで何もおじさまに返せたことがありません。だから、わたくしが成長して、まなびやをすばらしい成績で卒業すれば、きっとおじさまのお役に立てると思いますの』
そう言って、蜂蜜色の髪をした妖精のような少女は頬を染めてはにかんだ。
ぐしゃり、と音がしてそちらを見ると、ブラッドメイジ――恐らく、少女の大好きな「おじさま」は憤怒に震えながらグラスを握り締めている。
リリアナは生涯これ以上無いという速度で顔を背けた。
そんな彼女の耳に、恐怖の流血魔道士の呟き声が滑りこんでくる。
自分の耳の良さを、彼女は呪った。
「馬鹿者……馬鹿者めがッ……。分かっておらぬ……何も……何一つ……愚者の戯言ッ……この吾輩が、そんな理由で……そんな事のために……お前を解き放ったと…………馬鹿者が……度し難い…物を知らぬ、大言壮語……! 流血神(ガデス)にかけて……! 浅はかな愚か者に、呪いあれッ呪いあれ呪いあれ呪いあれ呪いあれ呪いあれッ……! おのれ……おのれ、ソウル………、汚らわしき……冒涜の……ファック! 呪いあれ!」
背筋がゾクゾクとするような、壮烈な恨み節である。
この瞬間、たしかにこの怪人は世に語られるブラッドメイジそのものであった。
つまり、狂気と、混沌と、不安定と、崩壊と、呪いと、そして報復を象徴する禁忌の魔道である。
自分の夢を語り終えた少女が恥ずかしそうに俯く横で、筋骨隆々とした戦トロルはうむうむと頷いた。
『なるほどな、だが、うむ、まずはしっかり学び舎に通うがいい。そして、イーレンとじっくり進路については話しあえよ。ほかに、話し合うような奴もおらんだろう、話しに聞いた限りじゃあな』
『はい、わたくしの実家は早々にわたくしの事を忘れてしまいたいようですの。たぶん、おとうさまもわたくしにはもう会ってくださらないと思います』
『全くひでぇ話でござんす。ええ全く、貴族って奴らはどうしてこう今も昔もいけ好かねぇのが揃ってやがるんで?』
『おいおい、それはてめぇの事まで含んでやがるのか、ええ、ヘイゾォルト卿』
『うふふ、さあて、どうでしょうかねぇ』
そこまで聞いて、とうとうイーレンは立ち上がるとずんずんと有無を言わせぬ足取りで件のテーブルに向かって歩き出した。
慌てたリリアナは思わず術を解いた後、彼の後を追ってテーブルに進んだ。
集中を解いて魔術を解放すると、真っ先にアセイル属がぎょろりとこちらを見た。
恐らく解放された魔道から漏れる、尋常な魔道士ならば見逃すような微量の痕跡に気がついたのだろう。
まず悪魔はリリアナの方を見て面白そうな顔をした後、その前をずんずんと進むイーレンを見て更に面白そうな顔をした。
リリアナの前方を進む赤錆色の魔道士は、円卓の前、蜂蜜色の少女の真後ろに立つとニヤニヤ笑いをこちらへ投げかける伝説の剣士を睨みつけた。
「ロクシー、貴様吾輩の指示を無視したな! しかもそれだけに飽きたらず吾輩を謀りこのような罠にはめようとは言語道断無礼千万! 貴様のような奴は「奴ら」よりもよっぽどたちが悪いわ! いやまて! 何か吾輩は重要な事を見落としておるぞ! そうだ! そう言えば貴様はタヴェンティアの出身だったな、そうか、読めたぞ、貴様やはり「奴ら」の間諜であろう、そうだろう! このおぞましい半端者の戯け者が! 吾輩をこの程度で罠にはめたなどとその浅はかな考えが愚かしい!」
「おお怖い怖い、愛しの叔父様は随分とお冠だ、ねぇ、ソフィ」
そう言って水を向けられた少女は、両目をまん丸にして突然現れたイーレンを見るや「まあ」と本当に驚いたふうに両手で口元を抑えている。
「おじさま? いったいいつの間にいらしたの? わたくしまったく気づきませんでしたわ」
「何だと? どういう意味だ! この吾輩が貴様程度のひよっこに見破られような下等魔道士だと? 馬鹿にするでないわ! 舐めておるのか! この吾輩を誰と心得る? イーレン! イーレンだ! イイィィィィィィレン! 高等魔道士イーレン・ヴォガスコフ・アンティノーヴァだぞ!」
「ええ、こころえております、おじさま。おじさまは世界で一番のまどうしです!」
そう言って、妖精のような少女に大輪の花が綻ぶような笑顔を向けられ、怒れる流血魔道士は恐らく罵倒の言葉を吐こうとした口をあんぐりと開け、キョロキョロとあらぬ方向を見ながらゆっくりと口を閉じた。
そして、怒りではない要因で首筋までを真っ赤にすると、相変わらずニヤニヤ笑いを浮かべているロクシーを睨みつけ、次に微笑を浮かべているアセイルデーモンを睨みつけ、次に「まあ座れよ」と仕草で示す戦トロルを睨みつけ、最後に新参の青年……つまりリリアナの相棒を「誰だ貴様」とでもいうような薮睨みをしてから席についた。
当然のように、少女から一番遠いところに座ったが、これまた当然のごとく席を立った少女が魔道士の膝の上に乗った。
膝に乗られた瞬間に魔道士の眼の中によぎったものを、リリアナは一瞬見間違いかと思った。
その目の奥底には、確かに隠しきれぬ恐怖の感情がチラリと過ぎったのだ。が、次の瞬間そこにあったのは苛立ちと困惑と憤怒である。
リリアナは見間違いかと己を納得させた。
今日は、一日の間に余りに多くの事が立て続けにありすぎた。
「それで……どうして貴方はこんなテーブルで酔いつぶれているのかしらね……」
「う……うう……あ、あくま……あくまのぐんぜいが……」
「はぁ……」
重い重い溜息をつく彼女の肩を、完全に酔っ払った赤ら顔のトロルがバシバシと叩いた。
「ガハ、ガハ、ガハハハハハ! おいおい、そんな時は魔法の言葉を唱えるんだよ! そうすりゃ全部解決だ」
「……一体、なんなのかしら。これが全部夢幻になるんだったら、どんな咒言でもいいわ」
「ガハハ、それはな」
グビリとジョッキの中身を飲み干して、ゲランは片足を椅子に乗せて天井高くジョッキを突き上げた。
「もうどうにでもなぁぁあれ!!」
――――――――――――――――
料理の皿がぶつかり合う。
コップがテーブルに叩きつけられる。
歓声。
罵声。
悲鳴。
そして、笑い声。
影界には絶対に無い物。
心地良い、空間。
レーゼは二人の魔道士を新たに加えたテーブルの端で、ゆっくりと異界札を開いた。
《血塗れの賢者》
彼女が愛する、生涯の伴侶。
その絵札の中で、今や彼は屍の山の頂上で、一人きりではない。
《無自覚の差配者》
あらゆる歴史の分岐点で、あらゆる偉人たちの影で、影響しつつも自覚はない。
無数の宿命が魔道士の足元で集結し、やがてあらゆる所へ散っていく。汝の成したいように成すがいい。全てを掻き回し、あらゆる領界神のシナリオを御破算にするトリックスター。狂気とは、正気の一形態でしか無い。そら、流血神が興味深く見守っているぞ。次はどんな血を流す?
《陽気な軽業師》
彼がどのような役割を担うのか、まだ彼女には分からない。
見る者の気持ちを軽くするような、晴れやかな笑みを浮かべたそばかす顔の青年は、投げナイフを弄びながら片手で賽子を放り投げている。彼女の耳に、己の賭けが行く末を楽しそうに見守る領界神の陽気な笑い声が聞こえる。そらそら、そんな所で立ち止まるな、もっとだ、もっと楽しませてくれ。賽は投げられたのだ。
《姿なき狙撃手》
気を抜いていたとは言え、レーゼに気付かせぬほどの夢幻界の魔道士にして弓手。
絵札の中で、赤毛の狙撃手は限界近くまで引き絞った弓弦を天空に光る星々に向けている。
未だかつて、魔道の冴えと武術の腕前をこれほどの高次元で融合させた相手に、レーゼは己の主と「勇者」以外に見知ったことはない。油断のならない相手。だがしかし、彼女の宿命は常に軽業師と共にある。夢幻界の姿なき領界神がじっとレーゼを覗き込んでいる。
《黄金の魂》
絵札の中で、鮮血の魔道士を叔父と慕う少女が、その叔父の膝に座って微笑んでいる。
叔父の方は、世界のすべてを呪うような仏頂面を浮かべている。
花で編んだ冠を花畑の真ん中でかき抱きながら、少女はその天真爛漫な笑みの向こうに何を見るのか。
少なくとも、レーゼはこの少女がこの魔道士と一辺の血の繋がりもないことは分かっていた。
その正体はしかし……探る気にはならない。
異界札に二人以上の特定個人が描かれること自体、イレギュラーである。
触らぬ領界神に祟りなし。
《万夫不当の剣客》
普段は絶やさぬ薄い微笑を欠片も見せず、絵札の中で半霊半魔の剣客はたすきをかけて鎖帷子を仕込んだ決闘衣に鉢金を巻き、己を取り巻く無数の剣士達に向き合っていた。
その顔には、ひたむきに生き死にへと打ち込む一人の剣士が息づいていた。
それはかつて彼女が切り捨ててきた者共か、はたまた不死の剣士がこれから死会う者共か。
戦場で果てることを望みながら生き延びた孤高の剣士は、戦乱の絶えた世に何を思うのか。
そして《影界の玉座》
それを開いて、やはり彼女は開くのではなかったと後悔した。
銀糸で細かな刺繍の施された天鵞絨の法皇衣を翻した彼女は、右手に握った王笏を振りかざして軍勢を指揮し、大河の対岸から同じように迫る軍勢と衝突していた。
数字は、以前見た時よりも30も減っていた。
どうやら、向こうは跡目争いが激化しているらしい。
この調子だと、父は崩御したか、それに近い状況であるに違いなかった。
「なんで放っておいてくれぬのだ……チッ、バカ息子共が、玉座(ソンナモノ)など貴様らで勝手に奪い合え、欲得で肥え太った豚が」
お願いだから、継承権最下位の鬼子のことなど忘れていてくれ。
そう願いながら、レーゼは己を担ぎ出そうなどと考える数奇者は一体誰だと考え、考えても仕様がないと早々に放棄した。
そんな事より、とうとう動き出した宿命をその第三の目で見やって、影界からやって来た悪魔はわくわくとした興奮に耐え切れず、一人笑みを浮かべるのであった。
「ああ……だからこの世は面白い……」
第一部「おかしな奴ら」完