レーゼは山札の上から二枚をめくって第一フェイドに置いた。
めくられた絵柄は《影界の玉座》と《血塗れの賢者》。
右の《影界の玉座》には、ありとあらゆる種属の骨で作られた悪趣味な玉座に、影鉄鋼の王冠をかぶった彼女自身が、薄ら笑いを浮かべながら薄衣一枚すら身につけずに頬杖を突きながら腰掛けている。
その玉座の前に跪く者共は、一人残らず首をはねられ、玉座の間を真っ赤に染め上げている。その服装に貴賎の区別はなく、まさに手当たり次第といった様子だ。
本来ならば玉座におわす至高の存在を守るために玉座の左右に控えているはずの近衛兵は、原型を留めぬ程に破壊されて絨毯の染みとなっている。
影界からの干渉は絹糸のようにか細く、希薄。その事実に安堵の溜息を漏らす。
左の《血塗れの賢者》にはトーガを纏って樫材の杖をついたゲランが、うず高く積み上がった敵味方の亡骸の上で、雲間から差し込んだ一条の光りに照らされてその理知的な瞳を光らせている。その頭には智顕と聡明を意味するコーツウェル樹の冠が乗せられていた。
札をめくった瞬間から、身震いするような混沌界からの魔力が吹き出している。
彼女は自分を表す札の下、《影界の玉座》に浮かぶ数字が、以前見た時より減っているのを見て舌打ちをした。
初めてこちらの世界に来たときには三桁だったのに、とうとう二桁になってしまっている。
その数字は彼女の兄弟の数で、もっと言うならば彼女より年上の兄弟のそれである。そして、もしそれがこれ以上目減りするようなら……いや、これ以上は、考えたくなかった。
レーゼは溜息を一つついて第二フェイドへ札を一枚めくった。
現れた札は《運命の交差路》
荷物を抱えた彼女とゲランが、どこまでも延々と続く十字路に差し掛かっている絵が描かれている。
身体に似合わぬ大荷物に挫けそうになっている彼女を、ゲランが助け起こし、その荷物を代わりに背負おうとしていた。
そして、交差する右側の道から、抽象的に描かれた人影が同じように交差路に侵入しようとしている。
二人の向かう先には、先の見えない道が延々と続いている、だが、新しい人影の進もうとしている道は途中で途切れているのがはっきりと描かれていた。
その人影がそのまま進めばどうなるか、わざわざ語るまでもない。
この絵を見た瞬間に、レーゼは思わず息を飲んだ。
今までは、この第二フェイドへ現れる札は《大塔の冒険者》であったのに、このタイミングでこの札とは!
彼女は焦る心を押さえつけながら、平静を失わないように最新の注意を払って札をめくる。
第三フェイドに現れた札は《窮地》《軽業師》《生か死か》。
以前と違う、激変したと言ってもいい。
《窮地》に陥っているのはどうやら彼女とゲランではないようだ。敵の群れに囲まれたその人影は、傷つき、疲労困憊している。
《生か死か》では鏡写りになった二つの人影が、鏡の向こうでは女神に抱きしめられ、鏡のこちら側では死神に抱きつかれている。いや、どちらが「向こう」なのかはまだ分からない、それはどちらにも移り変わり得るということだ。
そして、戦場を縦横に駆け回りながら敵の後背からバックスタブを突き込もうとしている《軽業師》。その顔に、彼女はどこか見覚えがあった。
明るい茶色の髪の毛を後頭部で短い三つ編みに纏め、まだ少年の面影を色濃く残した人間の青年。
そばかすの残った顔へ陽気な笑顔を浮かべ、《軽業師》 の名のとおり青年はいかにも身軽な様子で身を翻している。
その顔。
いっそ無邪気とも言える屈託の無い顔が照れ笑いを浮かべながら、彼女に紙束を差し出した青年のそれと合わさった瞬間、レーゼは驚愕の声を上げながら立ち上がって、いまだにぶつぶつと何やら益体もない事を呟いていた主人の頭を杖で思い切り叩いた。
「立って! 走って! 早くしないと間に合わない!」
目を白黒させる主人を急き立てるレーゼは、異界札をそれ以上開かなかった。
もしも、第四フェイドの札を一枚でも開いてみれば、色々と考えることもあっただろうが、そうはならなかったし、もしもこの時じっと耳を澄ませば山札の一番上から吉凶を司る領界神ギャンブラーの高笑いと賽を転がす音が聞こえただろう。
ともかく、レーゼは間に合う方に賭けた。
■■■■■■
「クソが! 死人が歩いてんじゃねぇ!」
悪態をつきながらフィリップは右手に握った水銀封入式小剣を敵の心臓に突き刺すと、直ぐに引きぬいて右から襲いかかっていたゴブリンの振りかぶる短剣を弾く。
がら空きになった相手の胴体のどまんなかに左手の短剣を根元まで突き刺して、相手の絶命を確かめるまもなく敵の隙間を這うようにしてすり抜ける。
だが、すり抜けた先にもまた敵、敵、敵。
ゴブリン、コボルド、ゾンビ、大蜘蛛が視界いっぱいに蠢いている。
また、首筋ギリギリを錆びついた槍の穂先がかすめていく。
異能者じみた直感に従って前方に飛び退くと、先程までいた場所にゴブリンが振りかぶった戦槌が振り下ろされ、石畳を破壊している。
素早い動きについてこれない敵を回りこみ、脇腹を一突き。
正面からやって来るゾンビに素早くニ回小剣を突き込んだ。
背後から、完全に死角から振り下ろされた戦斧が、たまたま別の方向から斬りかかっていたゴブリンの身体に直撃する。
また。
ぜえぜえと喘鳴を響かせながら両手の武器を極限まで鋭く突き出す。
右の刃は大蜘蛛の頭部をかち割った。左の刃はコボルドの頸動脈を掻き切った。
脇腹目がけて突き込まれたナイフが、ホルスターにたまたま残っていた投げナイフにはじかれる。
また。まただ。
「畜生! クソったれが!」
たまたま、偶然、幸運にも……。
一度なら、誰にでもある。二度あれば、すごい確率だと驚くだろう。
だが、三度あれば、四度あれば、五度、六度……それは最早偶然ではない。
両手に大剣を振りかざしたホブゴブリンが正面から突っ込んでくる。
死んだ、そう思った瞬間、偶然にも穴が空いていた石畳にホブゴブリンは躓いた。
「くそがー!」
雄叫びを上げながら両手の刃を敵の腹に突き刺す。
血反吐を吹き出しながら敵が死ぬのを見る暇もなく、引き抜いた両手の武器で振り下ろされる凶器を弾く。
また、彼の耳元で賽が椀の中で勢い良く転がる音が木霊する。
心臓の鼓動はすでに張り裂けそうなほど高鳴り、全身の筋肉が瘧のように震えている。
だが、それでも身体は前に動いた、まるで自動的に、何かに糸を引っ張られるように。
本来ならばありえないほどのスタミナと直感が何処からともなく湧いている。
身体はもう限界だと主張しているのに、心は何時まで経っても疲れない。
まだだ、まだいける、まだ戦える!
「がぁっ!」
だが、とうとう終わりはやって来た。
槍で足払いをかけられ、いつもならば直ぐに体勢を立て直すはずが、がくがくと震える膝はそれ以上の酷使を許さなかった。
無様に投げ出された彼の目の前に、怒りで顔を歪ませたゴブリンが現れる。
いつの間にか、賽の転がる音は消えていた。
「リリアナ……」
死を覚悟したフィリップが愛しい人の名前をつぶやいた瞬間、カタコンベ中を揺り動かすような大喝が広間中に響き渡った。
「まてい!!」
まるで伝説に語られる古龍の咆哮のように、それを聞いた化け物どもは不死者にいたるまでピタリと静止した。
「未来ある若者を死に至らしめ、正義の心を未然に挫かんとする者共よ。
人、それを外道という!
法の届かぬ深淵で、人知れず非道を行う悪鬼羅刹共!
法で裁けぬ貴様らを、天に変わって俺が討つ!」
『な、何奴!』リーダー格のホブゴブリンが、頭上に張り出した岩棚の上に慄然と屹立する人影に問いかける。
「遠からん者は音に聞け、近くに寄らば目にも見よ! 俺こそは噂に名高しウランフ・トロル傭兵団筆頭薬師、ゲラン・グロカーシュ・ウランフなり! 貴様らの乱暴狼藉、たとえお天道様と領界神が見逃そうとも、この戦トロルが見逃さぬわ! 成敗! とう!!」
なんと、人影は大見得を切って高さ40フィートはある岩棚から飛び降りた。
駄目だ、死んでしまう、そんなふうに考えた次の瞬間、我が目を疑う光景が飛び込む。
「 赤 射 !」
人影が閃光に包まれたかと思うと、次の瞬間に現れたのは全身を頭のてっぺんから爪先まで、メタリックレッドの全身甲冑に身を包んだ巨人であった。
その両手には恐ろしい巨大さのハルバードが握られ、あっけにとられる彼の目の前で石畳に着地した巨人は、そこにたむろしていたゴブリンやゾンビを衝撃でふっ飛ばしながらその斧槍を振り回す。
「とあぁぁあああぁ!」
まさにその姿は生ける暴風。
普通、この大きさの全身鎧と斧槍となればその総重量は恐ろしい物になるが、巨人――ゲランと名乗るそれはまるで重さを感じさせない軽快な動きで跳びまわると、その凶悪な凶器で瞬く間に敵の命を刈り取っていく。
そこまで見て、はっと我に返ったフィリップは言う事を聞かない両足を引きずりながら、何とかこの暴力の渦巻く死地から逃れようと地面を這う。
その眼の前に、目を血走らせたコボルドが、狂犬病のように牙と牙の間から泡を吹きながら立ちふさがる。
「よ、よう、俺なんか気にせず、早く逃げたほうがいいんじゃないか? 断然おすすめだぜ」
「ぐるるるるる、がふっ、ぎぃぃえ!」
「なわけねぇか! クソッタレ!」
振り下ろされた刃こぼれだらけのロングソードを何とか両手の剣で受け止めるが、酷使され続けた両腕の筋肉は最早限界となっている。
プルプルと震えるその両腕は、たった一匹のコボルドの力にさえ抗しきれない。
ギラつく刃が彼の首筋に差し掛かった瞬間、突然敵の力が緩む。
ハッと目を見張る彼の眼前に、敵の胸元から飛び出す鋭い刃が映る。
勢い良く引きぬかれた刃と共に倒れ伏す死体、そしてその向こうには芸術作品のごとく精緻な衣装を施されたスケイルアーマーに身を包むアセイル属の姿があった。
あっけにとられる彼に彼女は歩み寄ると、彼の襟首を掴んで引っ張り上げ、美しい顔を怒りに歪ませて彼の鼻先半インチまでその端正な顔を近づけた。
「私の忠告を無視したようだな、《軽業師》 。この私の心胆を寒からしめるとは……全く、自覚はないとは言え大した奴だ」
「お……お褒めに預かり光栄で、閣下」
真っ白になった頭はリリアナの警告すら忘れて、いつものように軽口を叩く。
「やべ、しまった」そう思った時にはもう言葉が舌に乗って口の外に飛び出た後だ。
冷や汗をかいて愛想笑いを浮かべる彼の目の前で、悪名高きアセイル属はキョトンとその三つ目を瞬かせたあと、苦笑を浮かべて彼を離した。
「本当に……大した奴だ。運命の交差路に祝福あれ。今、お前の行く末は切り替わった」
「は……な、何だって?」
「今度からは、先輩の忠告には大人しく従っておくんだな」
その言葉にリリアナを思い出したフィリップは、バツが悪そうに黙り込んだ。
そんな彼を尻目にして、アセイル属は左手に握っていた小剣を鞘に収めると、先程まで空中に浮いていた杖を手にとった。
「さて……私も久しぶりに無茶をしてみるかな」
そう言って悪魔はニヤリと酷薄な笑みを浮かべ、両手に持った杖を掲げて魔道を開いた。
途端に影界から吹き込む無限の魔力。
月影の魔道とも呼ばれる、この世全ての影と暗闇が集まった領界から、触れるものの魂を凍りつかせる影界の魔力が悪魔の全身に満ち溢れる。
「くくく……そら、跪け! 頭が高いぞッ」
同心円状に広がった闇色の魔力刃は、地面から半フィートほどの低い場所をまるで這うように放たれた。
彼女の宣言通り、広がった魔力刃によって踝から下をバッサリやられた敵はまるで王侯貴族に跪く平民の群れのように地面に倒れ伏した。
それを見て、アセイル属は高笑いを上げながら更に魔力を高める。
彼女の眼前に突如出現した黒いつむじ風は、時折その旋風の中で稲光を生じさせながら身動きすらままならない敵の中に突っ込んでいく。
旋風の通った後には、まるで肉屋に並んだミンチのような有様となった敵が点々と残される。
黒い竜巻は手のひら大の円形をした剃刀の群れで構成されているようだった。目にも留まらぬ速さで高速回転するそれは、尋常でなく惨たらしい死を敵にもたらす悪魔の魔法だ。
この期に及び漸くフィリップは眼の前で笑う三つ目の女性が、大陸史上幾多の破滅と伝説を産み出してきた最強最悪の悪魔であるということを思い知る。
リリアナのあの警戒ぶりがいかに的を射たものだったか、遅まきながら理解したのだった。
「ほう……畜生でも血は赤いのか。そら、コボルドとゴブリンの合挽き肉の出来上がりだ、たんと食らうがいい」
魂消るような悲鳴を上げて、両足から血を垂れ流して這いずりながら敵が逃げようとする。
そんな哀れな獲物に向かってアセイル属は残虐無比な高笑いを上げて竜巻を突っ込ませた。
「弾けろ」
敵が一番固まった場所の中心で、黒い竜巻は無数の剃刀を縛っていた魔力の螺旋を爆発させた。
四方八方に飛び散った刃の暴風は、凄まじい勢いて周囲の敵を殺傷しながら床や地面に食い込む。
当然ながらフィリップの方にも飛んできたが、いつの間にか周囲を覆う半透明の膜がそれを受け流した。
「そおら、逃げろ逃げろ、悪魔の軍勢が貴様の背後に迫っているぞ」
影界に住まう低級な羽虫の群れが召喚される。
まるで砂嵐のように蠢く羽虫の群れは、血の匂いに導かれるようにして敵に飛び掛っていく。
生きたまま肉を食われる激痛に狂うような悲鳴。
貪欲な食欲に突き動かされた羽虫の群れが通った跡には骨すら残らない。
「う、げぇっ」
未だかつて、これほど凄惨で陰惨な殺戮の光景など見たことのないフィリップは、まさに地獄絵図といった情景に耐え切れずに嘔吐する。
そんな彼を背後に置いたまま、容赦のない殺戮と蹂躙の嵐は続いた。
胃の中のものを全て吐き出して息も絶え絶えとなったフィリップが顔を上げると、そこには鎧の全身に返り血を飛び散らせた巨人がしゃがみ込んでいた。
「おい、随分ひどい有様だな、ほら、口をゆすげ」
そう言って差し出された革袋を受け取ると、そのままぐいと口の中に流し込む。
冷たい水が胃液で焼けた喉を通って胃の中に滑り落ちていく。
半分ほどを飲み干した後に一息つくと、漸く人心地ついた彼は呆然とした視線を目の前の巨人に向けた。
見つめられた巨人は、兜の目庇を上げるとその顔を彼に晒す。
人間ではないだろうとは思っていた彼であったが、まさかトロルだとは思っておらずに目を白黒させる。
そんな様子が可笑しかったのか、戦トロルはガハハと笑ってフィリップの肩を叩いた。
「若いの! 命があってよかったな! 命ってのは余程のことがない限り一回こっきりだ、大事にしろよ」
「あ、ああ、有難う、助かった」
「礼ならレーゼに言え、こいつが血相変えて言うもんだから走って来ただけだ」
「え?」
驚いて視線を動かした先には、羞恥のためか微かに頬を赤らめたアセイル属が「ちょっと、黙っているって約束だったでしょう」と小声で怒って杖でゲランを叩いている。
叩かれた方は「そうだったか、すまん忘れていた」と悪びれない様子で笑っていた。
先程まで情け容赦ない虐殺を行っていた悪魔と同一人物とは思えないその様子に、何が何だか分からないフィリップは混乱した頭のまま大きな溜息を着いた。
「ああ……おれ、生き残れたのか……」
ポツリと、自分に言い聞かせるように呟く。
微かに、賽子が転がるような音が聞こえた気がした……。
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「蒸着!」とどっちにしようか迷った。
戦闘シーンてもっとねちっこく描写したほうがいいのだろうか、これが限界だ。