見る影も無い。
未だ百年には届かないけれど、決して短くない年月そこを見てきたというのに、無限に広がっているとしか思えない月光と星々の輝きによって照らし出された砂の大地は、相も変わらずそこにある。数日前には完全に消え去ったというのに……はてさて。それは蜃気楼であったのか。
「……あぁ。変わり様、という言葉は、適切じゃあなかったかな」
その、数日前に旅立っていった男の影を思い出し、苦笑。ひとしきりの“参った”を満喫してから、思考の続きを再開した。
変わったのではない。戻ったのだ。
結果だけを見れば差異はないとはいえ、真実をより鮮明にさせるのは良い事だ。それがどういう意味であれ。
頭髪の色に合わせた灰色のワンピースを風になびかせながら、眼下の砂漠を見据える者―――ネズミの妖怪リンは、ぽそり、そう呟いた。
「何を眺めているのです?」
後ろから、リンと同じく、天界へと挨拶を行う為に同行しているウィリクが声を掛けた。クベーラより奪……授かった、簡素ながらも技巧の凝った純白のサリーを小麦色の肌に身に付けている。若返った肉体に更なる彩りを添えるアクセサリと化した事で、女としての魅力に一層の拍車をかけていた。
現在、ダン・ダン塚は大幅な改装工事中。ネズミだけならまだしも、たった一人とはいえ、これから人間が住まうのだからと。ひとまずの安定を手に入れた小さな住人達の手によって、恩人への感謝と未来への期待を爆発させた為か……他の種族顔負けの、文明とすら呼べる建造物が出来つつある。
これも偏に神の加護か、はたまた【禁忌の果樹園】の実という実を貪り尽くして自力の底上げをしたせいなのかは、誰にも分からぬ答えであるけれど。
振り向き、リンは微笑を以って母を迎え、二人は並び立つ。
その二人の足場は、船。ヴィマナと呼ばれる大型クルーザー大のそれは、いずれ幻想郷に出現する宝船にも似た形の、神木を用いた神族の飛行船であった。
特別な力場でも発生しているのだろう。人ならば体を震わせる冷気であるというのに、船の周囲は一定の温度で保たれている。
二人が残るこの船は現在、天界へと向かうべく航行していた。何はともあれ、今後神の使いとしての役目を全うするのであれば、無駄な軋轢を生じさせない為にも、同業者への挨拶は欠かせぬものであるのだから。
インドラ、クベーラは共に先行し、この度の件を早急にまとめ上げるべく奔走している。特にクベーラの嬉々とした様子は、リンやウィリクにはいっそ異常だと思えたほどだ。
尤もそれは、リン含むネズミ達による信仰獲得の量を、大雑把に計算しただけでも従来の倍に近いものが手に入ると算出された事に起因する。元々この地での信仰は頭打ちであったので、それが一気に倍ともなれば、その喜びようは神々の誰もが羨み、納得するものであった。
それとは真逆に、落胆の色を隠し切れていなかったのがインドラである。てっきり九十九―――非常に強い力を保持する者が、自らの傘下……手中に収まるものだとばかり思っていたのだから。ウィリクも、リンも、幾万のネズミ達もそうであったのだからと、自然、その結論へと至ってしまったのは仕方がないのだろう。
でなければ、仮にも大陸の一角を統べる主神が、ああも他者に対して擦り寄るような真似はしない。
当人の本心が何処にあったのかは定かではないが、これは自分の物になったのだという思い故に、それを独占しようとする意味合いの強いマーキング……スキンシップであった。玩具に夢中になる子供が、それを決して手放さないように。
尤も、それは玩具がこの地を離れてしまう事によって、無駄となってしまったのだが。
リンは悩ましげな視線を大地へと這わせた後、遠方の地へと消え去った……戻っていった存在へと思いを馳せた。
「あれは……」
九十九の力は―――片鱗は、それこそ刹那の間の、ほんの僅かしか分からないもの。そこに何かがある、と知っていなければ、勘違いだと意識を逸らす程だろう。
だからこそ気づかない。力ある者……クベーラなり、インドラなり、平天なり。彼らは自身が持つ強大な力によって、それが感じ取れていないのだ。
聖も使う。魔も用いる。けれど、それだけではない。
世界の全てとも思えた大地の崩壊は、白―――聖の力であると言い、巨大な山であった平天大聖の体を一瞬にして死の縁にまで立たせた力は、黒―――魔の力であると言う。
けれど、皆の体力を回復した力はそれらとは別で、雷の赤竜を呼び出した力もまた別で。更には、幾度も行っていた大地創造術は、当人すら詳細に把握していないらしい。
……大地の悉くを崩落させた力が聖なるものだとは理解に苦しむところがあるけれど、まぁ、それも今更か。
(ふわふわ、ふわふわ。君は言動だけじゃなくて、その力までも定まらないんだね)
少し、羨ましい。
風に吹かれて流されるだけの浮き雲が、それを良しとせず、一つの目的を持って動いているのだから。
国へと帰る。否、あの人の元へと帰るのだと。
結局最後まできちんと尋ねる事はなかったけれど、隠す気があるのだか無いのだか不明瞭な彼であったので、さり気なく問い詰めてみれば、言動の端々からそれ―――思い人が居るのだと推理するのは難しくはなかった。
……しかし、それを全く感じさせない……いや。悪さをした子供のように、家に帰りたいけど帰れない。とでも言わんばかりの気の持ちようであったのだが、それでも、決めた事はあるようで。
「良いなぁ」
決して縛られない者を、縛る。妖怪としても、女としても、そういう存在には憧れる。
実に魅力的な立場だ。叶うのであれば、今後の参考として、そんな立場へと収まっている者に会ってみたいものである。
聖人であっても難しそう。悪人であれば尚の事。
ならば一体、どのような偉人が、彼―――雲の心を掴む事が出来るのだろう。
(生きる……生き延びる為ではない事に頭を使う……か)
これまでは、どうすれば母が生き伸びられるかに腐心していた自分が全てであったというのに。
起死回生を苦悩でもなく、最悪の中からの最善を模索する熟考でもない、ただの妄想。しかもそれが、現実逃避の類ではないときた。
何と無駄で、何と楽しい甘美な時間。こんな時がずっと続けばと思い、こんな時をずっと続けていけるよう。無理をする日々でなく、無茶をする日々を目指していこうと。
―――と。リンは自分の左頬に、こそばゆい感覚が走るのに気づいた。
思い当たる節は一つしかなく、思い当たるそれとの確信の下に、口を開く。
「おや、もう我慢の限界かな?」
いつの間にやら自らの肩に縋っていた小ネズミへと、リンは人指し指を差し出した。
スンスンと鼻を動かし、擦りつけ。少女の意見に同意する形でひと鳴きする声には、不満の意思が表れていた。
「あら、その子は?」
「何でも、ツクモの命の恩人……恩ネズミらしいよ?」
ワザとらしい疑問系。自らの紹介がぞんざいであると感じた小ネズミは、抗議の声を上げる。
冗談だよ。とリンが反し、小ネズミが抗議した最もたる理由の部分―――自らとの関係を口にした。
「色々あって、今じゃ僕の友人。ほら、こっちへ」
声を掛け、肩に乗ったそれを手の平へと誘導。ウィリクの方へと差し出した。
母はそれを両手で受け取り、自身の前へと手を持ってきた。
完全に胸の前へと持ってこられた小ネズミは、チュウと一声、ペコリとお辞儀。愛くるしい仕草を披露する。
「まぁ。しっかりとしたお友達ね」
「ははっ。うん。僕の自慢の友人―――チフスって言うんだ」
元々、その小ネズミには名など無かった。
けれど、リンや九十九との交流を持つ内に、名がないのは不便でならないと思った九十九は『こんなのどうよ?』と提案し、今に至る。
「ツクモが名付け親でね。何でも、凄く強いイチマナ?のクリーチャーから借名したそうなんだ」
その1マナのクリーチャー、【チフス鼠】という黒の1/1のカードは、【接死】と呼ばれる強力な能力を有している。
10/10だろうが、100/100だろうが、ダメージを与えた相手を破壊する効果があり、ともすれば等価交換以上の取引の強要か、強大な抑止力となってくれる性能を保持していた。ところどころ欠点があるとはいえ、それが1マナで可能であるのは、MTGでもそうあるものではない。
それを知ってか知らずか、得意気に胸を張る小ネズミ―――チフスの顔には、根拠のない自信が表れているような気がするウィリクとリンであった。
……このチフスという名前。
後々の時代、高熱や発疹を伴う細菌感染症の一種……ピロリやコレラといった類の病原菌の名となっている事を、とうの名づけ親は知らないのだが。
「やりたい事。やらねばならない事。山積する量は共に目を疑うばかりですが、それもまた楽しみとなりつつある……」
遠ざかる地上に憂いを帯びた視線を這わせ、ウィリクは哀愁の篭った吐息をこぼしながら。
「……ふふっ、強欲な女ね。少し前まで、如何にして民を治めるかに頭を抱えていたというのに。……それが……今は……」
「お母様……」
納得してここに立っているというのに、それでも後ろ髪を引かれる思いが消え去らないのは、それだけ自分の中で大切な……大切であったもの、だったから。
自虐に濡れる顔を不安に思ったリンが、ウィリクの服の裾を掴む。
もう離れないでくれと。もう居なくならないでくれと。
いつかは別れる定めではあるけれど、それでも、寿命以外の離別は許容出来るものではない。
儚げな微笑を向け、ウィリクは了解の意を反す。
人生、一度きり。そんな定め……命の真理を容易く覆された上で、今の自分はここに居る。
命ある者の誰もが望み、命ある者の誰もが縋った願いの体現者。しかもそれが、聖魔のどちらでもなく、ましてや幾年もの修行の末の成果―――仙人でもないただの人であるのだから、他の者が耳にすれば、子供向けの幼稚な笑い話としかとれないだろう。
「あぁ、そうでした」
陰鬱な空気を払う形で、ウィリクは話を変えた。さも今思いついたという口調からの切り出しであったが、まとう空気からは、元よりこれを告げる機会を窺っていたのだと知るものであった。
リンと並び立っていた姿勢を、対面する形へと。
優しげな表情はそのままに、そこには真を含んだ心が宿る。
「我、故クシャタナ王国が女王、ウィリクが真を以って発する。五十万以上の小さな猛勇達を。そして、あの平天をも影で束る将。宝物神クベーラの使い―――監視する者、ナズーリンよ」
それは、九十九がこの地より去って翌日の事。
クベーラ、インドラの両名は、神の使いになろうという者が、ただの名のままで良い筈がないと。しかし当初の懸念通り、仮にも妖怪を配下として迎えるには他の神々には多くの抵抗がある。よって、多少なりとも嫌悪感を軽減すべきだとし、母国の言葉を用いず、隣国―――後にペルシア、ペルシャと呼ばれるもののそれ。『nazare』―――見る、監督、の言葉から流用する事となった。
ウィリクの言葉に反応し、二人は対面。しばし目と目を交わす。
そして、すぐにリンはその場に傅き、目を閉じて頭を垂れた。機微を察した小ネズミのチフスはリンの肩から降り、やや離れた位置でそれを見守るよう静かに伏せ、二人の間に混ざる気はないと、行動で示す。
無言の均衡は、ウィリクが動く事で変化を見せる。
一歩踏み出し、懐より取り出した小箱を開ける。それは、リンがウィリクの国より持ち出していたもの―――クシャタナ国の特産である、ホータン玉と呼ばれるそれであった。
通常、この玉は多少なりとも異物が混じる。ダイアモンド、ルビー、トパーズのように、不純物が殆ど混入していない代物は皆無に近い。
けれど、ウィリクが小箱より取り出したそれは、青。
晴天の青空。南国の大海。清水の湖。一点の曇りも異物も見受けられない、ともすればサファイアと見紛うほどに清んでいた。紛れもない国宝。その価値は計り知れない。
だからこそ、それをせめてものウィリクの死の対価として奪取したリンであり、今この場で行われようとしている……それを託される意味も、充分に理解している。
小箱より出された宝石は結い紐に連なり、首飾りとして着用するものだと分かる造り。それをウィリクがどうするのかは、一目瞭然であった。
「これより、あなたは神の僕となります。弱き者の声を届け、声無き声を拾い集め、炎下の地を駆け巡る。けれど、忘れてはなりません。妖怪という種故の嫌悪、若輩者であるからの偏見、経験や知識がない為の歯痒さ。立ちはだかり、待ち受ける困難は、この広大な砂漠にも似た規模である事でしょう」
傅くリンの首へと、青い宝石をかける。
目を開き、ゆっくりと立ち上がるリンに、ウィリクは力強く、それでいて慈愛に満ちた眼差しを向けながら。
「ですがあなたには、あの平天大聖にすら挑む幾万の勇士が居ます。その力量は火を見るより明らかであったというのに、それでも付き従ってくれた部下―――いえ、あなたの大切な仲間です。そんな彼らが傍に居る。信頼の置ける者達が周りに居るという状況は、それだけで何者にも変え難い、巨万の富に勝る、あなただけの―――いえ。あなた達の、宝物」
国に裏切られた者の吐露だからか。その言葉の端々には苦く、赤黒い色が混じっている。
だからこそ、その言葉は真実。
ウィリクは膝を落とし、直立不動のリンへと目線を合わせ。
「そんな仲間達が居ても……。もし、それでも挫けそうになった時。乗り越えられない現実に打ちひしがれ、歩みが止まってしまいそうになったのなら」
言葉を区切り、とても柔らかな笑顔のままに。
「逃げなさい」
ともすれば、最低の侮蔑を受けるであろう行いを推奨する言葉を告げた。
ただしそれは、額面通りの意味にあらず。
「弱気になった自分から。逃避したくなる心から。逃げたくなる気持ちから、全身全霊を以って背き続けなさい。そうすれば、あなたはこの世の誰よりも素敵な女になれる。そう、母は思い、願っています」
目頭が熱くなる思いのリンは、それでも無言。
口を硬く結び歯を食い縛りながら、それでも声だけは上げまいと、両の手の平を握り込んでいた。
しかし、この点においては、リンはそれを実践し続けてきた。
自らの命を救い、心を救ってくれた母の為にと。西へ東へ、北へ南へ。魑魅魍魎が跋扈する危険地帯から始まり、魔に属し、忌み嫌われる身でありながら、人間のコミュニティである他国までも。妖怪とはいえ幼い体に酷使を重ね、考えられうるあらゆる手段を講じてきた。
巧妙に隠していた―――と信じているのはリンばかり。それに感づかぬ母ではない。ウィリク自らに嘘偽りを述べてすらも実行していた心情を察し、言葉で止める術はないものと思い、ならばせめて心穏やかな場を作り続けようと苦慮した結果の、これまでのリンやウィリクの付き合いであった。
けれど。
「でも、それで本当に折れちゃったらいけないわ。逃げて、逃げて、逃げ続けて。それでも逃げ切れなかったのなら―――」
悪戯をした幼子のように、声色を明るいものへと変えつつ。
「―――本当に逃げちゃいなさい。そして、あなたが本当に逃げてしまいたくなるような経験をした、そんな時が訪れたとすれば」
優しげな表情に加え、今度は茶化す風な色を新たに付け足しながら。
「その時は―――ツクモさんが黙ってはいないでしょう」
一瞬、リンの目が点となる。
何故この場に居ない者の名が出てくるのかという疑問は、ウィリクの続く言葉で氷解する事となる。
「広大な砂漠の一点……偶然と、奇跡と、運命と。それらが結託しないと……しても起こせない様な出会いだったんですもの。たまたま出会い、たまたま良好な関係を築き、たまたまそんな相手が大聖以上の力を有しているなど、何処の夢物語だと疑ってしまうでしょう。……もし、あなたがまた苦境に立たされたのなら、全ての問題を押し退けて、きっとその手を差し伸べてくれる。縁とは、そういうものですから」
愛おしく頭を撫でながら、愛おしさをその手に乗せながら。
「逃げる事は恥ではないの。頼る事は悪ではないの。逃げ続ける事、目を逸らし続ける事が弱さであると。私はそう、考えます」
その考えは万人には当てはまらないものだと、リンに語り掛けた当人が最もよく理解しているし、それをリンが行い続けてきたからこそ、今の自分達はここに居るのだとも思っている。
釈迦に説法。ウィリクの心を過ぎる思いを言葉にしてみれば、そんなところが適切か。
それでも言わずにはいられないのは、ずっと押し殺してきた―――僅かにしか表せなかった、母としての面が強い。
クドクド、クドクド。誰もが言われた経験があるだろう。
分かっていても言いたくなる。それが親という者であり、最愛の存在を持つ者の、性の一端でもあるのだから。
「おかあ、さま」
母は子を胸に抱く。
子は母の胸に縋る。
背に回された五指が強く握られるのを感じながら、ウィリクはより一層の力を込めてリンを抱きしめ反した。
「……それに、今の私だって、我が子を抱きしめる事くらいは出来るもの。あなたの心を守るのは、インドラ様よりも、ツクモさんよりも。他の……世界の誰よりも適任であると。自信を持って告げておきます」
あなたが困難に直面するまでには、それなりの力を蓄えておきたいのですけれど。
僅かに頬を朱に染め、照れた顔を浮かべながらそう漏らすウィリクに、リンは再び胸へと顔を埋めた。もぞもぞと首を左右に振って、奥へ奥へと押し入るように。
今までは体を労わっていた付き合いであったので、極力避けて……遠慮していた力強いスキンシップであったけれど、今の母は十代半ば。見た目こそ二十代前半ではあるが、歩行も困難であった老体とは比べるまでもない体力である。
「あら、どうしたの?」
胸へと顔を埋めたリンが、しかし、再びむず痒そうに体をくねらせ、頭を離す。
ぷはぁ、と大きな一呼吸。悩ましげな目を、目前の柔らかな物体へと向け。
「……」
その後、視線を下へと自分の胸へと落とし、自らの手でそっと……。
―――ヒニュン。
「……はぁ」
おそるおそる、繊細なガラス細工でも触るように触れた体の一部は、しかし、見た目通り、肉体年齢通りの感触を反してくるばかりで。
対して、ウィリクは無言。
微笑ましい、若き日の過ちでも見るような、全てを許す慈愛の瞳を浮かべ。
「大丈夫。私の夫も、大よその男が興味を惹く……筈だったお尻やおっぱいには目もくれず、太股ばかりを愛でていたもの」
「……ツクモ相手ならいざ知らず、お母様からそういった言葉は聞きたくなかった、です」
肩を落とし、顔面に何本かの縦線を走らせるリンに対し、ころころと笑うウィリクの内心は、少しの嫉妬が含まれていた。
リンと九十九、当人達の意思はどうあれ、自分の目の前であれだけ夫婦漫才をやられた日には、拗ねたくもなるというものだ。
それが―――愛娘の唇を奪った者であれば、なおの事。
と。
「―――そこまで気落ちするものでしょうかねぇ。その辺りは多少の造形よりも、相性の要素が強いものだと認識していたのですが」
月光降り注ぐ砂漠に木霊する、鋭く冷たい男の声が。
純白のサリーに身を包んだウィリクよりもなお白い全身の。元・タッキリ山が主、平天その人であった。
「女心が分からないとは、あなたの奥方達は、さぞ苦労されているでしょうね」
そこに居たのは知っていたと。
呆れと挑発の視線を混ぜ合わせた眼光を向けるウィリクに、平天はおどけた風に肩を竦めた。
「おや。一を見て十を知った気で? インドラから千里眼でも授かりましたか?」
「そんなもの無くても分かります。女ですもの」
「……参りましたねぇ」
どうやら図星であったようだ。
困った、と吐息を一つ。警戒するリンを他所に、平天はウィリクの横へと並び立つ。
……いや。並び立とうとし、足を勧めた直後、対面する形で、彼の進路を塞ぐ形で大柄な人影が現れた。
「ほう。久方ぶりですねぇ。―――睚眦」
片手に直剣、背に大弓を担ぐ大男の名は、睚眦。九人居るという龍の子の内の一人である。
壁となって平天の前にそびえ立つ意図は、誰がどう見ても、背後に居る者を守る為。
これが数刻前、【鬼の下僕、墨目】によって傀儡と化していた時ならば当然のものであった。けれど、今ここに居る睚眦の瞳には、虚ろとは真逆の、力強い意思が感じ取れるもの。
「これはこれは。あなたともあろうものが、まさかヒトに下ろうとは」
「……それはキ……あなたが言えた事じゃあないと思うけどね」
非難の声。小馬鹿にした物言いであった筈なのだが、それは非難した相手の全身を撫で回すような視線によって封殺されて、リンは慌てて言葉遣いを若干丁寧なものへと修正した……された。
幾ら立場が上とはいえ、相手はタッキリ山の主であった平天大聖。実力差は日を見るより明らかである。怖いものは怖い。
そんな平天の視線を挑発と取った睚眦が、その大妖怪の眼前へと直剣を突きつけた。
かつて配下にいたものの、それは利害関係の一致からに過ぎず、こうして不一致となれば、それは……。
「おっと。冗談、冗談ですよ。怖い怖い、あなたは昔から、冷血でありながら血気盛んで楽しい者ですが……」
そっと。一枚の紙切れを扱うように直剣の切っ先を掴み―――。
「―――この場で騒動を起こす事は、どちらにとっても不都合以外の何者でもないでしょう? 我らにとって、この小船は、力を受け止めるには小さ過ぎますからねぇ」
触れている面は人差し指と親指のみ。たったそれだけしか触れていない筈の直剣は、岩に突き立つ聖剣の如く、ピクリとも動かず固定されてしまった。
ただの人間であればそれも当然かもしれぬ状態であろうが、相手は妖怪の中でも上位に食い込む猛者。そう易々と行えるものではない。
睚眦の目が僅かに細まり、次いで浮かべる表情は、笑み。龍の顔から牙を覗かせ哂う様は、獰猛な赤に染まっていた。
直後。
睚眦が直剣を握る腕が一瞬膨らんだかと思えば、バキリ。金属質の叩き折れる音と共に、直立不動の姿勢へと戻る。その手にあった刃の先端。それが見事に一部を欠けさせた事を除けば、時の巻き戻りを錯覚させる光景であった。
(……これらを監視しきる自信がないよ……)
危うい、など生温い。傍から見れば一触即発状態であった。
これが、この先ずっと。
これから起こるであろうあれやこれを思い浮かべ、内心で頭を抱えるリンを他所に、平天は摘んでいた直剣……の先端部分であった金属片を、興味を失ったとばかりに船の外へと放り投げ、当初の目的通り、睚眦の横を通り抜けて、ウィリクの隣へと移動。
問い掛けるような、言い聞かせるような。そんな自問自答を呟いた。
「やはりあの男は理解に苦しみますねぇ」
平天は、願いを託した男を脳裏に画く。
初めての出会い……印象は、妖怪の総本山たる場所へと雄々しく乗り込んで来たかと思えば、道中は欲に塗れた人と呼ぶに相応しい態度であり、その評価はこうして全てが一区切り付いた後となっても、基本は変わることはない。
最後まで己が心情に従って欲を貫いた姿勢は、人間を統べている立場の、主に王や皇帝と呼ばれている者に多く見られる傾向ではあったものの、その態度は大よそ人の上に立っている者ではなかった。
まだあれと敵対する前、ネズミ達と共に【禁忌の果樹園】の実を食していた頃の評価は、ここにきてそれが寸分違わぬ評価であったのだと決まった……決まってしまった。
余裕を消す事で相手の本性を曝け出そうとしての行いは、それをせずとも、見たまま、感じたままの相手であったのだから。
初めて見る、チグハグな存在。
自分やインドラを凌駕する力を持ち、それらを得る為にはまず解脱している筈の境地……一貫性とも言えるそれ―――人という種の欲を抱きながら、たった数日間とはいえ、それをまったく感じさせない程に自然体で居続けられる胆力は驚嘆に値する。
まるで人という種をそのまま強大にした……仕立て上げたような試作品。古びた剣に、無理矢理人外の力を宿したような歪さ。
それを何と例えたら良いものかすら、今の自分には思い至らない。
(……いけませんねぇ)
数百年のこれまで培って来た知識が、かえってあれの認識を歪めてしまっている。
次に会う機会があるのなら……あの者を正確に把握するには、余計な経験はない方が良い。自分などよりも頭の軽い……そう、最も新しく義兄弟となった岩猿の方が適任だろう。
(まぁ……だからこそ、ですか)
愚者と蔑んでいた相手……ヒトという種に、羅刹女、玉面公主に次ぐ三つ目の愛が実ったかと思えば、それを奪い去っていったのも同じ種の愚者。
―――人の子ではないからと。人外の子であるからと。
火炎が舞う家屋。それを取り囲むニンゲン。手にした鋤や鍬の先端にこびり付く甘美な赤と、ぶつ切りに解体された肉人形は、最も新しく情愛を交わしたばかりの……ナニカ。
それの次に視界に飛び込んでくるものは、今まさにその小さく幼い体に刃を突き立てんとする、塵共の姿―――。
ヒトは、守り、導く対象にあらず。そう思い至るのに、さして時間は掛からなかった。
他の理由が鬱積していたところに起こった決定打。天界より反旗を翻した頃にあった考えは、今も変わらず胸の中にある。
事実、タッキリ山などという雑多な神々や妖魔すら寄せ付けぬ根城を築き勢力を広げていたというのに、把握しているだけでも、人の数というのは減るどころか増える一方。まだネズミ達の方が自然を尊重している分、可愛げがあるというものだ。
その後。残った子への対応は、自分を以ってしても探り探りであったとしか言いようのない程に危ういものであったが、妻を亡き者にした同種は全て噛み砕き消化してしまっている。
少しは妻の心でも流れ込んでくるかと思えば、味わえたものは恐怖のみ。実に予想通りで、実に期待外れの結果であった。
……そして、そんな最愛にして最憎たる種族に再び友好を以って関わろうというのだから、この世の理を鼻で笑ってしまいたくなる。
それもこれも。
(既に、私はあれの手中にあったのですから)
あの東の超越者が、情に脆く、情に厚い事は把握済み。
それがどう叶えられるか……。に対しては不安が鬱積しているものの、仮に最悪の事態になろうとも、死の否定すら軽々と行ってしまうのだ。親として、これ以上の安心感はまずあるものではない。
あの子以外は、もはや自らの加護がなくとも十二分に世に羽ばたいていける実力は有している。後は残りの手札を全て使い助力を確約させれば良いだけ……で、あったのだが。
(慧音の名を告げた時の、あれの反応ときたら)
見ず知らずの我が子の名を知らせた時のあれの反応は、もはやそれが既知であるとしか言えないほどの狼狽であった。
知っていたのだ。自らの秘部を。
掴んでいたのだ。自らの弱点を。
ただそれが、今の今まで平天の子であるという事実に結び付いていなかっただけ。口にしなければ良かった弱みを発してしまった事で、自らの墓穴を掘る羽目となり……。
「……降参、ですねぇ」
数千万は居るであろうヒトという種の中で、よりにもよって、何故自らの子の存在を知っているのか。しかもそれが顔見知り程度のものではなく、あの驚き様からして、既に一定以上の関係を築いているに違いないときた。
偶然などという単純な答えで片付けられる訳がない。我が子この世に生まれ、まだ百年は経っていないという短い間に、自分に気づかれる事なくあれは、既知の関係を育んで来たのだ。
ありえない、と。それ以外の何の言葉が出てこよう。
炎天の地を統べる神々は勿論、配下の妖怪、自らの妻ですら。誰もが知り得なかったそれを把握していたばかりか、既に根回しが済んでいたという、もはや未来を……千里眼を持つインドラすら上回る、先見の眼でも備わっているとしか考えられない手回しの良さ。
……もし。それを知らずに、あれを意のままに操ろうと画策した場合の未来は。一騎当千の妖魔の群れを沈め、大聖の大半を大地へと没し、タッキリ山すら埋めてしまった結果を見るに、自らが守るべき全ての死という結果が待ち受けていただろうから。
「あの方は、娘の唇を奪ったのですもの。これくらいはしてもらわないと」
―――そんな思い悩む平天の思考を遮る形で、ウィリクが九十九に対する感想を述べた。
平天の浮ついていた意識が戻り、彼は何故この女が唐突に、そのような事を言い出したのかを考える。
あれについての熟考が顔にも出ていたのかと思ったが、何の事は無い。
(……おっと。そういえば、問い掛けの形になっていましたか)
自ら発した、あれは理解に苦しむ。との呟きに反応しての台詞だろう。
こちらから振った話題であったのを平天が思い返していると、それを皮切りに、忘れかけていた記憶が鮮明に蘇ってしまったリンは、耳や頬のみに留まらず、顔……いや。もはや全身から湯気が出そうな程に赤く茹で上がってしまっていた。
「ですが、それだけの為に睚眦を傀儡から解放するなど、愚の骨……ちっ」
ほぼ言い切ったに等しいが、それだけ述べた所で平天は言葉を止めて、忌々しげに顔をしかめた。
九十九を蔑めば蔑む程に、それに屈した自分を下げる事にしかならないのだから、自虐行為もいいところである。平天にそのような趣味はない。
先に内心でその者に白旗を振った手前、効果はより大きなものとなっているが故に。
「……まぁ、その辺りは色々と、ね」
呟きは、ネズミなのに茹蛸となっていた少女の方から。
睚眦の獰猛な空気は一転。ギョッとしてリンを見る彼であったが、『分かっているさ』と返す少女に、大きな安堵の息をこぼす。
どう見ても弱みを握られているとしか思えないそれ―――この不透明な関係は、九十九が旅立つ前日にまで溯る。
完全に。とはいかなかった【ハルマゲドン】によって崩壊した土地の修復を全て完了させるべく奔走していた時の事。出会ってからまだ日も浅いというのに、半ば恒例として周囲に認知されつつあった九十九とリンの漫才の一時であった。
少しキツく言い過ぎたリンに対して拗ねる九十九に、少女は苦笑しながら、どうすれば許してもらえるのかと問い掛けたのであったが。
『ちゅーしてくれ、ちゅー』
出来る訳がないと踏んでの男の物言いは、事実、リンが素直に受け入れる事はなかった。それを告げる事で困るリンを九十九が見たいが為の戯言である。
……けれど、その体は、別。
【鬼の下僕、墨目】が龍人の睚眦を傀儡と化した時に、九十九は気づいておくべきだったのかもしれない。墨目によって蘇ったクリーチャーは、プレイヤー……彼のコントロール下に置かれるという事に。
惜しむのならば、この時まで命令やお願いといった言葉を口にしてこなかったのを悔やむべきかもしれないが、時、既に遅し。
『んんっ!?』
『―――んなっ!?』
幸いにも少女の口と男の頬が合わさっただけで抑えられたハプニング……見るものが見ればスキンシップの一環とも取れる行動が起こした結果が、今のこの状況である。
その直後のネズミ達の、『よっしゃこれで!』と言わんばかりの歓喜やら、『あらあらうふふ』と無手―――恐らく暗器持ち―――で九十九に接近するウィリクやら、あぅあぅ言いつつ魂ここにあらずのネズミの少女やら。
そんな、約一名の命の危機が迫りつつあった騒動があった最中。
「……それが原因で、偶発的に睚眦の呪縛が解けちゃったんだよね」
リンは懐かしみ、疲れた笑いをこぼす。
その時、羞恥と混乱の最中の思考によって九十九が導き出した答えは、そんな状態の改善。自分が自分の意思で行動出来るようにする、命令権の返上であった。
『家路』
【特殊地形】の一つ。
タップする事で無色のマナを一つ生み出す能力に加え、タップする事で、各プレイヤーはそれぞれのクリーチャーのコントロール権の再配布を行う能力を有する。要約すると、場に出ている奪った、奪われたカードが元の所有者の下へと戻る。
この【土地】が場に出ているだけで、対戦相手が使うコントロール奪取系のカードは無力化されたようなもの。そういったカードが用いられる場面が多い訳ではないが、そういったカードを使う相手には、これが出ているだけで強い抑止力となる。
個別に対象が取れるものではないそれは、当然ながら、全てに効果をもたらすもの。最大範囲は分からずとも、護衛の為にと目と鼻の先に居た睚眦に、その効果が届かない筈がない。
一瞬で【恭しきマントラ】による【プロテクション(黒)】を付与し、【お粗末】による無力化を狙う九十九であったが……。
『……うん?』
間の抜けた九十九の呟きは宙に溶けて。
血風が飛び、剣撃が乱舞する未来を予想していた誰もが、どれだけ時が経っても風が周囲を吹き抜ける音しかしない……睚眦がまったく動かない、魂の抜け殻にでもなってしまった状況に、頭の中を疑問で埋め尽くし、数十秒後―――。
「君に、お姉様は無理だと思うけどね」
忘れ去りたいような、決して忘れたくないような奇妙な心境を経て、睚眦が意思を宿したままでも付き従っている状況への一言を、リンはそう締め括った。
途端、龍人の顔が朱に染まる。
人間の生半可な攻撃では傷一つ付かないであろう新緑色の表皮の上からでも分かる程に赤く色付いた体からは、もう少し追い詰めれば先程のリン同様、湯気でも立ち上るのではと思わせるくらいであった。
その時の一件を要約すれば、一文……否。たった一言、僅か一文字で事足りる。
恋。
それが、他八人居るという龍の兄弟達の中で、殺戮を好み、最も残忍と言われた者がリン達の護衛になっている理由である。
「……なるほど。命を奪われたばかりか、魂までも、とは」
一触即発の空気、再び。平天のからかうような感心の声は、睚眦の気に触れたらしい。
先の冷たい闘気ではなく、紅蓮の……薄桃色に見えなくもない滾りが体から溢れ出しそうになる龍人であったけれど、その元上司は、そんな相手を片手で制し。
「分かりますとも。でなければ、この私に妻などおりませんからねぇ」
口元の嘲る笑いはそのままだが、眼光だけは嘘偽りないとする力強さ。
舌打ち一つ。睚眦は行き場をなくしたわだかまりを、それに乗せて吐き出した。
「こっちの情勢が落ち着いたら。そういう契約だからね」
墨目は九十九が呼び出した存在である事。つまるところ、この世をいくら探そうとも会えないのだという事を、九十九当人が説明。
『ならば呼び出せ』と龍人が言えば、『ざんけな。嫌とは言わねぇが対価を払え』と男が反し。
そんな流れで話は進み、リンやウィリクが会っても良いと判断すれば、九十九が呼び出すという内容で契約する事で落ち着いた。
(……あれ。でも、その場合ってツクモがこっちに来るという事になるのかな?)
まさか、こちらから行かねばならないのだろうか。きちんとした距離は分からないけれど、九十九が目指している国というのは、決して近いところではなかった筈。
その辺りがうやむやのままに決め事をしてしまったのだと改めて気づいたけれど、神の助力が期待出来る以上、どちらにしても大きな問題ではないだろう。
(ま、具体的な期間は決めていないから)
それが百年先か、千年先かは、少女やその母の胸三寸。
大切な事は、会わせられないと言ってしまう……言ってしまったと同義の行動をしない事。可能性を完全に断ち切る、希望を捨て去る行いは、その命のリミッターまでも奪い去ってしまう。
早い話、自暴自棄。それだけはさせてはならない。相手の力量的に。
(狡賢くなった気がするね)
僅かな希望をチラつかせ、それで相手を操ろうというのだから、ある意味でまさに妖怪の本懐を達成中なのであるけれど、それに素直に喜べないのは、母や九十九の影響だろう。
けれどそれも悪くはないと。首に掛かる、ウィリクより授かったスカイブルーの宝石を触りながら、リンは納得と共に微笑した。
「子供……娘さんは、九十九の国の辺りに居るんだった、かな?」
そんな影響を発していた相手の一人、今回の件の最大重要人物を思い浮かべ、彼が向かっていったであろう目的地を平天へと尋ねる。
「細部は話すつもりはありませんが。まぁ、そちらの方角かもしれませんねぇ」
弱味は少ないに越した事はない。ぼかした表現は、そう意図するからに他ならないとリンは察した。
クベーラやインドラは勿論、妻達にさえも。平天が九十九当人にしか告げていないそれ―――慧音と呼んだ子の居る地は、既に没してしまった元タッキリ山にあらず。この地より遥か遠く、決して平天が率いていた陣営の勢力が及ばぬところであった。
彼の子供達がタッキリ山で暮らしていたのは間違いないけれど、それが全員だとは一言も発していないのだから、平天と九十九以外がそれを正確に把握するのは、まず不可能。
しかしながら、第三者へと話してしまった時点で全てを秘匿するのは難しく。
他人に頼られ、それを了承した九十九が子供の確保―――居場所を隠したがっていた平天の本心に沿うように、目的地へと一直線に向かわない。という気の利いた行動が取れるとは考えられなかったリンであったので、自ずとそのような答えが出て来た。
そして、それはあまり的から外れていないようである。
尋ね過ぎたか。
平天という相手を鑑みて、知り過ぎた者の末路を連想したけれど、今のところは穏やかのまま。これ以上は止めておくのが最善だ。
思わぬ地雷を踏み抜きそうになったリンではあるが、無事に回避に成功する。
悪寒を振り払う様に隣に居た母の手を握り、再び考える事は、九十九の事である。
「超越者……か」
神でも妖怪でもなく、仙人や邪仙でもないとすれば、そういった種族であるのだろう。あの時に初めて耳にした名であるが、呼んで字の如くの存在に違いない。
何といっても、広大な大地を丸々と消失させたばかりか、死の否定すら容易にやってのけるのだから、納得する他に答えはない。
超越者という種族を知っていた平天の博識さに感心しつつ、持ち込まれた文献や書物、伝聞くらいしか外の知識を有しない自分を恥ずかしむ。
「まさかキ―――あなたがハクタクだったなんてね」
「くっくっくっ……。世間に散文している認識は把握しておりますよ」
中々に直らぬ蔑みの口調に笑みを濃くする平天に、またやってしまったと慌てて言い直すリンであった。
ハクタク。
人面の白牛であり、計六つの角に加え、体中に眼を持つというそれは、人外の存在ではあるものの、妖怪ではなく聖獣として認知されている。
世を治める為政者の前に現れ助言を与える事から、王の選定者としての面も持ち、それに出会えば子孫繁栄となり、ハクタクに関わる物品は権力者や延命者達の手元に、こぞって集められている。
「……と。そんな話ならよく耳にするんだけれど」
「希望というものは、見る者の欲によって色を変え形を変え、無駄に膨らむもの。そのような行いは、たった一度しかしていないのですがねぇ」
一度、人に対して福をもたらした噂が一人歩きし、後は受け取り手の自由に話を膨らませた結果だと。
ジト目になるリンに、実に愚かだと平天は哂う。
「しかし……」
そんな妖怪の王へと収まってしまった聖獣を、上から下から。リンは余すことなく観察し。
「……なに。時が来れば、徐々に周知のそれに近づく筈ですよ」
その意図するところを察した平天は、疑念を氷解させるべく言葉を発した。
一度だけであるけれど、リンが平天の本体を見た時には、ただの巨大な白牛であった筈。
それが途方もない巨大さであった事を除いても、人面、六つの角、体中にあるという眼。そのどれも見た記憶は無い。
「自身の欲に身を任せる程に眼の数は減り、清らかであろうと勤めていた心を無視する程に角は減り。まるで自己の醜さが顕現するように、頭部にあった双角だけは物々しい凶器へと変貌していきました。力を持つだけの獣―――妖怪である者に過度なモノは不要だと、自身の体が判断したのかもしれませんねぇ」
西洋には、聖なる者が邪な者へと変貌する際には、堕天、反転などと呼ばれ、その容姿を大きく創りかえる場合もあると思い出したリンは、それが平天にも起こったのだと判断する。
好奇心に突き動かされるがままに詳細を尋ねてみたいとは思うが、更に口を開く気はない。
(……これ以上、機嫌を損ねたくない)
折角和らいだ空気を、再び剣呑にする必要もないし、したくもない。
自分は、ツクモではないのだ。見えている危険に飛び込む無謀は断固避けるべきである。そう考えるリンであった。
「しかし……他の大聖の位置は掴みましたが……はて……あの岩猿は一体何処へ……」
夜景を見ながら自らの思考に没頭し始めた平天から視線を切り、同じく夜景に視界を向ける母の手を握り、共にそちらを見つめる。
すると、これまで見守る事に徹していた小さな友人が、再び自らの肩に駆け上ってきた。
母や自分と同じ方向へと視線を向ける様は、こちらを仲間外れにするなとでも言わんばかり。
「ごめんごめん。そうだね、これからは君が一緒に居てくれるんだものね」
そうだ。と断言する風に胸を張……っている気がするチフスに、微笑。どうやらずっと一緒に居る算段らしい。
それも良いかもしれないと。しかし、今後同行するのなら、移動手段はどうしようかと思い悩む。
歩幅の問題は大きく、ならばこれまで通り自らが連れて歩くのが最適であろうが……。
「ま、ゆっくりと考えていけばいいさ」
幸いにも、これから学ぶべき機会―――これまでと比べれば安息に近い時間は多くある。
母も居て、仲間も居て。友も出来て、目指す未来も出来た。
実に心躍る。これから訪れるであろう様々な出来事に思いを馳せて。
「―――ははっ」
感謝の言葉は、これまでの経緯を脳裏に描いた途端、苦笑にも似た―――心の底から晴れ渡る笑みになっていた。
異形の鉄馬【メムナイト】に跨り、うんうん唸りながら東の地へと旅立って……戻って行った男の後姿を思い描き、その背を後押しするように、小さく。口には出ない感謝の念を、そっと視線に乗せる。
「まずは……私、と言うところから始めようかな」
これまでの呼び方―――僕、などと。
神の下僕たるものが、そのような自己の呼称で公の場に出られようか。そんな、愛娘の女らしさの向上を意図する意味合いが強いウィリクの言葉によって、それを改めるに決意する。
長年それを口にして来たのだ。矯正に一体どれくらいの時間が掛かるものかと……それを成せたのなら、あの男はどのような反応をしてくれるのかと想像し。
「―――♪」
母にも、平天にも、顔の真横に居るチフスにすら知られないよう。悟られないよう。リンは口元に、柔らかな笑みを浮かべるのだった。
―――西暦、二千と少し。
中央アジアの一角には、タクラマカンと呼ばれている砂漠がある。
現・中華人民共和国のウイグル自治区に点在するそれは、ゴビ砂漠、サハラ砂漠に並ぶ大砂漠として世界に知られた、ウイグル語でタッキリ(死)とマカン(無限)を合わせた造語―――場所である。
死の世界。生きては戻れぬ土地。そんな意味合いが込められたそこは、事実、何人も寄せ付けぬ過酷な環境を有するものであり、西方より吹き込む強風によって運ばれる黄砂は、数世紀に渡ってタッキリの名に相応しい災害をアジア各地で振り撒いている。
しかしながら、それでも生命の営みの名残はある。付近にある山脈が、夏季の雪解けと共に川を成す、季節河川と呼ばれる生命線の存在も大きいだろう。
その内一つ。既に砂土へと朽ち果てた遺跡があった。
八世紀頃に放棄されたとされるその町は、その頃その土地を統べていたウテンなる王国の重要な拠点として存在していたらしいが、その詳細な調査は未だ不明瞭のまま、現在も古き生活の跡を残すばかり。
そんな未知の可能性を秘めた遺跡の中に、板絵が何枚か残っていた。内容は、人間の軍勢に攻勢を仕掛ける無数のネズミが描かれているものである。
いずれも人間達を襲うものでなく、剣の柄や鎧の結い紐、弓の弦に馬具などを噛み千切り無力化にしているという―――人間が現実的に考えられる範囲での構図であったが、何でも、ウテンなる国となる前、クシャタナと呼ばれていた古事が残る、現・ホータン王国の一部であった国王が、襲い来る敵国の軍勢に対して劣勢であると悟り、藁にも縋る思いで近くのネズミ塚へと祈りを捧げたところ、その日の夢にネズミが現れ、そのネズミはそれを受諾。撃退は拒否したものの、無力化を約束し、それを成したという逸話が元であるのだとか。
それ故か。それら地域には、嫌われ者である筈のネズミを信仰する、カルニマタ寺院という建造物すらある始末。何でも、そのネズミは神の子の生まれ変わりであるから、という理由からである。
―――そのネズミ塚の名は、ダンダン・ウィリク。
当時からその名称であったのか、はたまた途中で改名されたのかは定かではないが、西暦二千年と少しの現在。御伽噺や空想上の物語、良くある絵空事の一つだと認知されているそれの真偽がどうであったのかは。
今もまだ、黄色の大地に眠ったままである。