雪が降る。
しんしん、しんしんと、全ての世界を穢れ無き純白に変えながら。
どこかの詩人が、それを乙女に例えたのは、暖かな暖炉のある家の中から外を見て、白の世界の美しさに囚われたのか。
恋に浮かれた世間知らずの青年が、真実の愛だと家を飛び出し、白い柔肌の彼女に抱かれて凍りつく。
それを永遠の愛だと感動するのは、夢に浮かれた愚者達だけだ。
春までの時間が経って想いが『冷』めれば、彼女は去っていく。
あとは、空腹に起き出した獣達が、永遠の愛とやらを美味しそうに咀嚼するだけ。
だから、山に住む者たちは知っている。
いつまでも彼女を愛したかったら、蹂躙せよ、と。
極寒をものともしない屈強な体と、処女雪を散らし陵辱するかのごとく、己の痕跡を刻んで前へと進む強靭な精神を持つものだけが、その彼女の魔性の愛を受けて生を得るのだ。
なに、どうせ彼女を犯したところで、何度でも白に塗り替えられるだけだろう。
雪が降る。
しんしん、しんしんと、吹雪くことなくただ降り積もる。
絶世の美女であり狂気の魔性を持つと謳われるクェルリマ山は、己の肌に優しく白い、死の化粧を付けていく。
恋人を待つ、乙女のように。
そして――
「何故だ、何故、裏切った!」
「……俺が、信じるものの為に」
柔肌の上で殺しあう戦士達を、祝福するように。
「頼む、投降してくれ。まだ間に合うんだよ!オレはお前を殺したくない!」
「ああ、俺もだよ。そして今からでも戻れば俺が殺されることは無いことも知っている。だが――俺は行く。だから引いてくれ」
それは、二人の心からの望み。
だが、お互い譲れないことを、再確認するだけ。
交差する鉄の音が、何度と無く山に鳴り響き、そして、止む。
その場に立つのは、一人の男。
手にしたそれは、赤く、赤く。
滴る鮮血が、破瓜の証のように雪肌を朱に染める。
男の目から頬に伝わる透明な雫は、凍りつき、悔恨すら許そうとしない。
「………おおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
全てを呪うかのような、獣の咆哮が一つ。
おおおん、おおおん、と、慟哭のように山に伝わり、消えていった。
雪が降る。
しんしん、しんしんと、雪が降る。
大陸北東部において有数の寒冷地帯であり、白く染まるマカル山脈の光景が一つの名所となるガダン領。
人々はそんなマカルの山々を敬意と畏れを持ち、少し距離を置いた山林と裾野に生活圏を築いていた。
そんなガダンの僻地にて、山より降りてきた狩人と、おそらくは山菜や魚、そして木を採取するために山に向かう樵が、村から続く小道で出会う。
「ほーい、今日も寒いねぇ」
「あいー、寒かなぁ」
出会い頭にお互い寒さを口にするのは、この地域一帯における挨拶の形。
それは、寒さが日常であり、逃れられない現実であるならば、むしろ受け入れて組み込んでしまえという、諦めと逞しさで作られた文化である。
のどかさを興じていては生き残れない。だがユーモアを失っても人々は緩やかに死に向かう。
絶望は病魔に等しいことを、本能的に生き物は知っているのだ。
寒さの確認という挨拶が終われば、次はマカル山脈の話題だ。
「綺麗」「壮大」
そんな言葉を重ねて、ようやく仕事に戻ったり、本題に入るのが暗黙の決まりごとである。
ただ、今日はそこに、変化がある。
「しっかしまあ、今日は『お山』が騒がしいなぁ。んだばこっち、『山』の獣達も、いつもよりビクビクしとる。まあ、よんく警戒してオラのことがすぐに見つけられたり、逆に何かに脅えるように動かず震えておったり。……足して引いてで仕留めたんは結局いつもどおりの数だったわい」
「だなあ。遠くから見たてば、鳥達が騒がしゅう飛び回っておった。『向こう』で何かあったんかね?」
狩人と樵は、マカル山脈を見上げる。
彼らの言う「山」には二種類あり、一つは普段から狩りや採取に入る、それは今まさに入ろうとし、そして降りてきた「ただの山」だ。
国としては明確な名前があるのだろうが、彼らにとってそれは「山」でしかない為、僅かな者を除いて名前を覚えていない。
そしてもう一つは、マカル山脈の山々である。
マカルという固有名詞のほか『お山』という場合こちらを指すのが通例だった。
「『向こう』か……まあ、オラたちはマカルには近づかねぇんだ。気にしてもしかたねぇけどな」
彼らは、マカルに入山したことが無い。
これは別に、それまでそういう法律や慣わしがあるからではなく、単純にマカルの踏破が危険だからであり、存在しないが国境線でもあるからだ。
ガダン領が属していたガダン国は、主張としてマカル山脈をはさんだ東部の領域全土を我が国家の領土と宣言していた。
が、それを周囲の国は認めてはいない。いないにも関わらず、そのことが近隣諸国との火種となっていなかったのは、そこがそれほど広大でもなく(とはいえ一つの国家が出来るくらいの大きさはあった)、極寒と言われるガダン領すら超える寒冷地であることが解っていること。そして最大の理由は――
「ただ、亜人たちのすることだしなあ。警戒はしとくべぇ」
亜人、それも「神に見放された者たち」に属する亜人だ。
フェリス教により、大陸東部に追いやられた多くの土着宗教の人間と、亜人たち。
その中で、「神に許された者」とされる一部の亜人たち――例えば四腕族や風鳥族、三眼族などは、人間と同じ扱いを受けているが、多くの亜人は「神に見放された者たち」として、フェリスの言う異端と同じ扱いを受けてきた。
土着信仰の人間達も異端ではあるが、人間と亜人で最も大きい差は、その個体数である。たとえ固体性能が勝っていても、「社会」となったとき彼らは必然的な弱者になった。
フェリスという強者に蹂躙され恨みながら、自分達も同じ事をしてそれを正しいことだと正当化する。
結局は何も変わらない構図が、マクロからミクロへと変わるだけだった。
結果、彼ら亜人は、影響が西部、南部ほどではないとはいえ多数のフェリス信者がいる大陸北東部にて、異端信仰をする人間達と同様、社会の隅でおっかなびっくり紛れて生きていたり、生存圏を必然的に過酷な地域へと移すことになった。
強靭な力を持つものは、より過酷な環境に住まうことで、人間からの干渉を防ぎ、そこで小さいながら街や国を作るという。
そして、マカルの東部に住むという夜叉族は少数ながら、単体での戦いならば、伝説といわれる魔鬼族、天翼族に匹敵する力を持つ亜人であった。
彼らは一部の土小人族や雪樹族などの協力の下、非公式ながら国を作り統治しているという。
マカルから東にいくには、海から回り込むか、大陸南部から回り込むか、マカルを横断しなくてはならない。だが、大陸反対側には危険海流と魔獣が生息しており、小船を利用した一部のルートでしか海路が確立しておらず、大陸南部に軍隊を通らすことは宣戦布告になりかねない。さらには難攻不落のマカルの山々を軍を引き連れての横断は死の行進と変わらない。
ようやく辿り着いても、そこはガダンを超える凍りつく世界、待ち受けるは最強の一角を持つ夜叉族。
早い話が、どれだけ領土を主張したところで、実質的に占領も統治もなにもできていないのだ。
そうして、「存在しない国境線」として聳え立つマカル山脈。
『向こう』とは、「存在するであろう国」、夜叉族の国を指し、近くにありながら別の世界であったのだが――
「やっぱり、『あの方』がガダンに視察に来られてることと、なにか関係あるのかのう」
狩人が呟く。
四腕族の治める、アフェバイラ王国。ガダン国の隣国――だった国の第三王子。
今では、ガダンを統治下に納め、大陸北東部をマカル東部を除きほぼ制圧下に置いた、大国アフェバイラ王国の、事実上の最高権力者である。
彼が、今何故ガダンに来ているのかは、ただの村民である二人には解りようが無い。
ガダンなど、最近アフェバイラに属したとはいえ、辺境も辺境なのだから、観光にしたってマカルを眺めるくらいしかないだろうに、と。
アフェバイラとガダンの関係は、割と昨今の出来事で構築されていた。
以前より大陸北東部の国々を吸収し、領土を広げ、20年ほど前ついにガダンまでその手が近づいたとき、戦争になるかと誰もが不安に陥ったという。
ところが、彼らは攻めてくるどころか、極めて友好的に接してきた。さらに言えば、ほぼ「贈呈」ともいえるような支援を自ら提示、全て実現をしていく。
開発されたマジックアイテムの提供、インフラ整備、アフェバイラへの移住の簡略措置化、アフェバイラへの留学者費用の完全負担等々。
このとき、多くの大臣達が「我らガダンの権威と栄光に平伏しておるのだな。『神に許された者』とはいえ亜人には眩しかろう」などと傲慢な笑みを崩さなかったのだが。
その笑みは、5年後に凍りつくことになる。
設備が整い、さらには様々な物資がある程度安定供給されたあるころ――アフェバイラは「支援はもう良い頃ですね」と『贈呈』を打ち切ったのだ。
それを当たり前だと勘違いしていた彼らは、そのときになって初めてアフェバイラに完全依存して生活をしていたことに気付く。
マジックアイテムの多くは、魔力が切れたり壊れたりすればそれまで。再入荷が必要だし、インフラの多くは運用に職人や亜人の協力が必要だったのだ。
さらに、『あの方』の力にほれ込んだ優秀な人材の多くが『留学』し、さらにアフェバイラ領地では亜人の多くが堂々と生活できると『移住』している。
一度知ってしまった「便利さ」を人は二度と忘れることが出来ない。
だが、正規の値段で物品や運用依頼を取引しても、その膨大な費用は国家そのものを揺るがしかねない。
止めとばかりに、『あの方の力』は国民達の意識までも大きく変えるものだった。
そんな中、アフェバイラより行われた通達は、
「もしアフェバイラに帰依するなら、ある程度自治権を認めたうえで、『我が国の為』として今までどおり支援をするよ。もちろん、今までどおり『友好』的な関係でも良いよ」」
であった。
しかも、ガダンの国民にも伝わるように、国境の関所を通る商人に大々的に告知。
ガダンの国民たちは『戦争するなんてとんでもない』『アフェバイラは我らの誇りも認め自治権と王家を存続させてくれている」と完全にアフェバイラに付いた。
そしてとどめは、ガダン王の一言である。
「確かに、物資や設備が止まったら、我らは苦しむだろう。だが、何よりも恐ろしいのは、『あの方の力』が国民に渡らず、その笑顔が消えることなのだ」
ニスティア暦1012年。
後に、アフェバイラ帝王の生誕を起原とする大陸暦の、113年のことであった。
数々の常識をものともせず、起こした奇跡は常に人々の幸福を導くそのあり方に、フェリス教に変わる「道」として『力』を惜しみなく使うアフェバイラ第三王子。
彼らが神聖視するマカルの異変が、彼の者に関連してしまうと思えるくらいには、ガダン最辺境に住む彼らにも信奉されていたのである。
「うーんさすがに考えすぎだとは思うが……まあ、『あの方』だしなあ。亜人にもいろいろ居るって考えさせられたのは、あの方のお導きのお陰だ。『向こう』への交流も、いつかは実現すっかもな」
「だなあ。……さて、オラはそろそろ獲物を捌かねばなんね」
「ああ、んだな。俺も、樵小屋に戻るべぇ」
思ったより話しこんだせいで、お互い少し寒さに震えている。だが、挨拶以外でそのことを口にするのは、自らを情けないものと叫ぶようなものなので、お互い触れない。
なにより――アフェバイラより届いた、火の精の力を細かく砕いた鉄片に封じ込めたという、特性のマジックアイテムの懐炉が、服の下で彼らを暖めていてくれたのだから。
二人、距離が離れたところで、樵が最後に「ほーい」と別れ代わりの声を掛けると、狩人も同じように返す。
まだ太陽は真上に昇りきっていないとはいえ、ガダンの昼は短い。
仕事は、まだまだ残っている。
樵は、よっこいせ、と呟きながら、入山し小屋へと向かった。
樵が自分の樵小屋に辿り着いたとき、最初に感じたのは妙な不安感だった。
とはいえ、自らの命が脅かされている、というようなものではなく――
ああ、そうだ、これは数年前嫁に行った妹がまだ幼い頃、よく寂しいと泣き出しては自分を困惑させたときのあれに近いのだ、と、妙に懐かしい気持で納得した。
だが、それも小屋の扉に近づくと、ざわり、と明らかな敵意が樵を襲い――
ドスン、と。
「……あ?」
樵が身構える間を与えないまま小屋の扉が勝手に開き、そこから倒れこむように現れたのは、全身赤毛の体毛に覆われ、手には赤黒い『何か』に染まった鎚を持つ、巨体の何か。
一般的な人間種の成人男性の1.5倍はあるかというその大きさと赤い体毛に、樵は一瞬、こんなところにいるはずのない『魔獣』かと息を呑む。
だが、その何かが息を荒げながら、杖を突くように鎚を支えに上半身を持ち上げて――
「あ、亜人?」
それは、樵の記憶には見た覚えの無い亜人だった。
ごうごうと燃える様な赤い髪、体毛と、冷たい宝石のような青い目。無骨ながら狼のそれを思い出すような2本の牙には、獲物の生き胆を食らったのか、それとも内臓を痛めて自ら吐き出したのか鮮血が滴る。
何よりも特徴とすべきは巨木をも片手で持ち上げそうな豪腕とその体躯。
見たことは無い、だが、知識だけなら該当するものを知っている。
「や、夜叉族!?」
魔獣よりなお在り得ない、いや、あってはならない存在が、そこに居る。
腰を抜かしそうになる。
だが、そして逃げる手段を失えば、自分に生きる術は無いのだと、がくがくする足を必死で押さえつけながら、樵は背中に背負った斧を取り出した。
それを見咎めたのか、血走った青い目で樵を睨み、その夜叉族は鎚を大きく振り上げて――「ごふっ」っと口から血漿を吐き、そのまま、どさり、今度こそ完全に倒れこんだ。
夜叉族が鎚を振り上げた瞬間、「ひっ」っと固まっていた樵は、その出来事に唖然としながら、とりあえずこの亜人が生きてるかどうか斧でつつこうとして――
「やめて!」
突然の声に、ぎょっとして小屋を見上げれば、そこには扉のヘリを支えに立っている、5歳ほどの真白い肌の少女が一人。
「おじ……ちゃんを……いじめないで」
さきほどの制止の声とはうってかわって、か細い声で少女が言う。
ふらふらと足取りはおぼつかなく、その顔は手足のそれとは違いのぼせたかの如く赤く色が指している。
のぼせた、というより、そう、まるで熱病に浮かされたようで――
「あ、いや。別にいじめるつもりじゃ……ってお前、熱あるんじゃねえべか!?」
そう樵が言った時には、夜叉族の男をかばうかのように、彼の背に倒れこむ少女。
余りのことに呆然としながら、それでも何かを考えようと必死になるが、樵の頭は混乱の渦の極みにあった。
「なんてこった……あー、もう、何が起きてるんよ。わっけわかんねえ!」
無理も無い。
なにしろ、今まで平穏無事に、戦争にも1度しか参加したことが無く、ただ樵として生きてきただけの男なのだ。
教養もかろうじて読み書きと簡単な計算ができるだけで、誇れるのは山で生きる知識だけ。
「た、助けなきゃ?でも夜叉族だぞ?てかなんでこんなところに?じゃあ女の子だけたすけでもそれじゃ見殺しとかなんか罪悪感がうああああああ!」
もし、このまま彼が混乱したままであったなら。
もし、ガダンが20年前にアフェバイラに統治されていなかったら――きっと、この物語はここで終わっていただろう。
的確な治療も出来ず――もしくは、治療することを放棄したり、あるいは少女は別として夜叉族は危険とその命を絶っていたかもしれない。
夜叉族の男、謎の少女は息を引き取り、もしかしたらその後の大陸のあり方が大きく変わっていたのは間違いない。
「……見捨て、られないよなあ……」
だが、やはりそこで彼らを救い、そして樵の気高き精神をも救ったのは、『あの方』の導きであった、と、のちの歴史学者たちは述べている。
「俺だって、ここで見捨てちまうような小悪党や脇役じゃなくて、ヒーローになりたいからなぁ……」
こうして――
十数年後、自由帝国と呼ばれたアフェバイラ帝国の精鋭軍武将の一人として、「常勝将軍」「アフェバイラの鬼神」、
さらには「赤い月光」「千種のUNKNOWN」「死を生み出すもの」「精神戦車」など、数々の異名を誇る、夜叉族の戦士、オアド。
「神に見放された者たち」と、人間種、「許された」亜人種との、友好の架け橋の中核を担い、朝日に祝福された少女と謳われたモニン。
二人の伝説が、始まったのであった。
自由帝国建国まであと17年、大陸暦133年のことである。