カッタバの村よりさらに東。
街道の整備されていない湖畔の平地を馬で飛ばすこと一日、その神殿は唐突に姿を見せる。
国境神殿。
蛮族の侵攻を防ぎ、また危険な動物などが領内へと入り込まないよう見張っているその施設は、ルーフェリアの守りの要だ。
手練れの神官戦士達が数多く駐在し、日夜辺境の平和を守っている。
「―――さて、どう思うかね?」
その人物は、書類を書いていた手を止めるとそう切り出した。
ヴァレール高司祭。神殿の責任者―――つまり、この国境神殿が管轄するルーフェリア南東部の守護者である。
人間種族でありながら、四〇半ばにして全く衰えの見られない精強さを誇る彼は、この神殿における最強の戦士として尊敬を集めている。
もっとも、短く刈り込んだ黒髪と顎の無精ひげ、そしてその厳つい顔ゆえに、彼の肩書きを耳にした者は首を傾げるか苦笑を浮かべるのだが。
「どう、とは?」
「件の二人のことだ。何となくで構わない。君は彼等にどういった印象を持った?」
上司に問われて、彼女―――フランセットはわずかに首を傾げた。
その動きにあわせて、肩口で切り揃えられた金髪が揺れる。黙考する彼女の内面を反映してか、エルフの特徴である長い耳がピクリと動いた。
「……悪い人物ではないと思います。善人か悪人かでいえば、間違いなく前者だと思いました」
「ふむ」
フランセットは先日の騒動を思い起こす。
『カッタバの近くで、蛮族の砦が確認された』
神殿に届いた書簡を目にした時の衝撃は、未だ記憶に新しい。
もっとも、その書簡を追いかけるように届いた二通目の内容はもっと衝撃的だったが。
『先に連絡を行った件の砦は、偶然村に逗留していた冒険者二名によって排除された。
このため、貴隊への緊急派遣要請を取り下げると共に、今回事件の顛末について取り急ぎ報告を行う』
そんな書き出しで始まった二通目の書簡に対するフランセットの感想は、一言に尽きる。
(何の冗談だろう、と思ったのだけれど)
山中に築かれた砦。五〇体に及ぶ蛮族達の部隊。たまたま村にいた冒険者。星が降った。砦が消し飛んだ。とりあえず一件落着。
こちらが行った追跡調査の結果、どうやら全て事実らしいことが判明した時には、あまりの不条理さに眩暈を覚えたものだ。
(確か、レクターとアルトリート……だったかしら)
星を落した魔術師と双剣を携えた剣士。
彼等は調査にやってきた自分達に事件の顛末を改めて説明し、その上で背後関係―――本隊がいるかどうか等の調査を不可能としてしまったことを謝罪してきた。
その時の、妙に腰の低い対応を思い出し、フランセットはため息をつく。
「軽率、というわけでもないのでしょう。
少なくとも、蛮族の砦に攻撃を仕掛けた理由については納得のいくものでした」
―――神官戦士隊が到着するまでに、カッタバが襲われる可能性を看過出来なかった。
そう言われてしまえば、自分達に彼等の判断を責めることはできない。低姿勢で言われればなお更だ。
結局、あの二人は、出来ることをやったに過ぎない。
もっとも、他にやりようはなかったのか、非常に問いたいところではあるが。
「ただ―――」
「ただ?」
ヴァレールの目を見つめながら、フランセットは一つだけ懸念としていることを口にした。
「放置するには、周囲への影響力が大きすぎます。
彼等に何一つ悪意がなかったとしても、今回のようにその力を躊躇なく振るうようなら、間違いなく大きな混乱の原因となるかと……」
「なるほどな」
そういう意味では、非常に危険だと告げるフランセットに高司祭は頷いた。
「とはいえ、星を落すような魔術師に相手に『危険だから』という理由だけで喧嘩はしたくない。それは、剣士の方も同じだ」
「……はい」
魔術師については言うに及ばず、あの剣士にも悪い心象はもたれたくないとヴァレールは告げる。
銀髪の魔術師の影に隠れるような、ひどく存在感が希薄だった剣士の姿を思い出す。
平々凡々な印象の、そのクセ力量を全く読ませなかった青年。
あれはあれで、間違いなく化け物の一種だろう。彼に対する上司の評に、フランセットも同意する。
脅威を感じない者こそ恐ろしい。
「どちらにしろ、私たちの手に負える相手ではないな。
“本神殿”に報告を入れて、そちらの判断に任せよう」
ヴァレールが結論を出す。
「はい。それがよろしいかと」
フランセットが結論を支持する。
かくて、彼等の上司が抱える頭痛の種が一つ増えた。
街道を西に。
カッタバの村を出立したアルトリート達は、エルリュート湖の南を走る道を歩いていた。
ルーフェリアの中央部一帯を占める巨大な淡水湖。かつては“青い宝石”、今は“女神の涙”と讃えられる美しい湖を右手に眺めながら、のんびりと徒歩の旅を楽しむ。
遭難死の恐怖と戦いながらの山歩きとは大きな違いだと、アルトリートは鼻歌を歌った。
カッタバを出てから三日、そろそろ宿場町オルミに到着するはずだ。
そう告げた相棒に視線を向ければ、彼もまたとてもご機嫌な様子だった。穏やかな表情を浮かべたまま、肩に乗せた鴉と何事か話をしている。
そんな姿を見ながら、アルトリートは今後の予定を脳裏に浮かべた。
(とりあえずは、カナリスに向かう)
突然この世界に放り出された自分達には、当然のことながら寄る辺となるものは何もない。
それは面倒臭いしがらみに囚われないということと同時に、何をするにも独力で行わなければならないことを意味している。
そんな状態で、魔神―――レクターの話を信じるのなら推定レベル30前後の化け物に挑むなど、できるワケがない。
―――騎士と結んだ約定を守るためには、今の自分達には足りないものが多すぎる。
だから、二人が出した方針は、先ず自分達の足元を固めようというものだった。
しばらくの間は、単なる冒険者として地道に実績を積み上げていく。
その内に、仲間だって見つかるだろう。もしかしたら、魔神への対抗手段について情報を得る機会があるかもしれない。
(単なる問題の先送りのような気もするが……)
焦っても仕方がない。今はこの世界を楽しもう。
そこまで考えて、アルトリートは思考を止めた。軽く頭を振って、もう少し目先のことへと視点を向ける。
「レクターはオルミの町に着いたらどうするんだ?」
「うん。少しくらいなら遊んでもバチは当たらないかな、と思うんだけど」
「ま、報奨金も貰ったしな」
それも良いかと、アルトリートはレクターの答えに頷いた。
その存在を確かめるように、そっと財布を入れた腰のポーチへと触れる。
カッタバの村を守った二人には、国境神殿から報奨金が支払われている。
事件の調査として行われた事情聴取の後、少しキツ目の印象を受ける―――レクターはそれが良いと言っていたが―――女性神官から手渡された袋には、何と一万二千ガメルが入っていた。
一人あたり六千ガメルという金額は、15レベルの冒険者に対する報酬としては当然不足だが、文無しとなっていたアルトリート達にとっては大変ありがたいものだった。
何しろ三ヶ月は宿暮らしができるのだ。
ちなみに、村からも報酬を出すという話があったのだが、そちらに関しては、二人は受け取りを固辞していた。
もっとも、あれを持って行け、これも持って行けと、保存食やら何やら色々と旅に必要な物を渡されてしまったのだが。
本当に、どこまでもお人好しな人達だったと、アルトリートは小さく苦笑した。
「じゃあ、到着して宿を取ったら、そのまま自由行動とするか」
「うん。異議なし。クルーガーも羽を伸ばすといいよ」
「お心遣い感謝します。主よ」
二人と一羽が向かうオルミの町は、ルーフェリアの玄関口と呼ばれている。
ルーフェリア神殿への巡礼者を始め数多くの旅人が行き交い、それを目当てに集まった商人たちによって急速に発展した宿場町。
急激な発展ゆえの闇も数多く抱えているが、それゆえに力強い―――若々しい活気に溢れた混沌の町として知られている。
カードが配られる。
遊戯台の上に表向きに置かれた二枚の札。その絵柄を確認する。
一枚目、剣の王。
二枚目、五つの杯。
(む……十五か)
ちらりとディーラーのカードへと視線を走らせる。
一枚は表向きに、もう一枚は伏せられている。
表向きにされたカードの絵柄は、三本の剣。それを見て、アルトリートは指先で台を叩いた。
ヒットの意思表示に、新たにカードが配られる。
(七以上は勘弁してくれよ。できれば六で)
そう願いながら、新しく配られたカードを確認する。その絵柄は―――四つの杯だった。
自分の持ち点は合計十九。これが限度だろう。
スタンド―――これ以上カードはいらないとの意思表示として、自分のカードの上に手をかざす。
他の客も同様の動きを見せたことを確認し、ディーラーが伏せられていたカードを表にする。絵柄は、七本の剣。
カードが一枚追加される。今度は六枚の金貨だ。
これで、現在のディーラーの点数は十六。ゆえに、次が最後の一枚となる。
(……六以上、もしくは二以下を)
最後のカード。その絵柄は―――
(……残念)
アルトリートは苦笑いを浮かべて首を振った。その視線の先には、五本の剣が描かれている。
他の客達からもため息がこぼれた。
随分長いこと遊んでいたらしい。
終ってみれば、所持金が千ガメルほど減っている。そのことに若干へこみながら、アルトリートは賭場を後にした。
「やれやれ。当然のことながら、そうそう勝てるわけないよな」
イカサマをすれば話は別だろうが、アルトリートにその意思はない。
純粋に遊ぶことを目的にしている以上、興ざめとなるような真似はゴメンだと小さく頭を振った。
(そもそも、金を稼ぐことを主目的にするのは、何か間違ってると思うんだけどな)
自分の所持金が、己の智恵や運によって乱高下する。賭博とはそのスリルを楽しむものだろうと、アルトリートは持論を持っている。
無論、異論は認める。それどころか自分の方が少数意見だろうとも認めながら、人通りの多い道を眺めた。
すでに深夜といってよい時間帯のハズなのだが、人気が減る様子は全く見られなかった。
むしろ、これからが本番と言わんばかりの賑やかさに、何となく心が浮き立つような心持ちでアルトリートは笑った。
気分直しに一杯飲むかと、酒場へと向かって歩き始める。
「ま、何にせよ引き際が肝心だよな」
金を稼ぐことに血眼になった挙句、引き際を間違って素寒貧。
そんな末路は正直ゴメンだと、何となく店の脇にある路地へと視線を向ける。そこに一人の青年が倒れていた。
傍らには、ガタイの良い強面の兄さんが立っている。
(……うげ)
嫌なものを見たと、アルトリートは顔をしかめた。
「お、お願いします」
「だから……うちは、アンタみたいに金のない客にゲームを続けさせるほど優しくないし、またアコギでもないんだよ」
縋りつくように、男の足へと青年が手を伸ばす。それを一歩下がってかわしながら、強面の男は辟易とした様子でため息をついた。
金が無くなればそれでおしまい。そう告げる彼の言葉に、青年はそこを何とかと懇願の声を上げる。
「……いい加減にしてくれないと、さすがに俺もキレるぞ、おい?」
「うう。で、でも……どうしてもお金がいるんです」
「知るかっ、ボケ!!」
しつこく食い下がる青年に、男のコメカミに青筋が浮かんだ。彼が懐から取り出したものを見て、アルトリートはため息をついた。
通りを照らす灯りを受けて、男の手元がギラリと冷たい光を放つ。
(放っておきたいが、酒が不味くなるのも嫌だし)
やだやだ、と首を振りながらアルトリートは二人に近づいていく。
元より脅しのつもりで使う気などないのだろう。男は青年へとナイフを見せ付けてはいるものの、何かをしようとする気配は無かった。
だが―――
「お願いします。お願いしますっ!!」
「……こ、このっ!!」
見せ付けられた光物を全く意に介さず、青年がさらに食い下がる。
いい加減、我慢の限界に達したのか、男の顔が赤く染まり―――
「はい、それまで」
「な!?」
振り上げた男の腕を、アルトリートは無造作に掴んだ。
驚愕の表情を浮かべた男へと囁くように告げた。
「それを振り下ろすと、色々とマズイだろ?
この男は俺が引き取るから、お兄さんは店に戻った方がいいんじゃないか?」
「……アンタ、こいつの知り合いか?」
「いや。単に通りがかっただけ」
男の問いに、アルトリートは首を振る。
「負けた気分直しに酒でも飲もうかとしてるのに、その酒までマズくなるような光景はゴメンでね」
「…………」
そんなアルトリートの言葉に、男はため息まじりに体の力を抜いた。
押さえていた手を離すと、彼はナイフを懐へとしまう。
「分かった。引き取ってくれるのなら、俺も文句は無い。早く連れて行ってくれ」
「はいはい」
シッシと犬を追い払うように手を振る男に、アルトリートは小さく苦笑する。お勤めご苦労様と言葉を投げながら、青年へと向き直った。
その後ろ襟を有無を言わさず掴む。そのまま引きずり始めた。路地から通りへと戻る。
「ちょ、ちょっと待ってください。僕にはまだ―――」
「うるさいだまれ」
抗議の声を一蹴して、周りの奇異の視線を黙殺しながらアルトリートは別の路地へと入り込む。そこで手を離すと、中腰になって青年と視線を合わせた。
「なあ、アンタ」
「な、何ですか?」
真正面から半眼になって見つめると、青年は若干怯えの表情を浮かべながら見返してくる。
柔らかそうな金髪をした細身の青年だ。よく見れば、繊細で整った顔立ちをしている。
仕立ての良い衣服に身を包んで、街角を歩けばさぞモテることだろう。
(……へぇ)
先程のやり取りで、今彼が身に付けているものはヨレヨレになっている。だが、青年自身には目立った傷がないことに気が付いて、アルトリートは若干感心した。
どうやらさっきの男、それなりに心得ていたらしい。
客に怪我を負わせたなどと風評が立てば客足が遠のく。迷惑な客を店の外に放り出すことはしても、暴力は出来る限り控える。
そんな意図が見える青年の姿に、これなら止めに入らなくても良かったかも知れないと、少しばかり後悔しながらアルトリートは言葉を続ける。
「何で金が必要なんだ?」
「……え」
あの状況で全く怯む様子がなかったあたり、相当に切迫した事情があるのだろう。
理由によっては、一部カンパをしても良いと考えたアルトリートの言葉に、青年の表情が揺れる。
「え、ええと。その……大事なひとに贈り物を」
「……そうか」
アルトリートは良く分かったと頷いた。
何となく、今の自分は無表情だろうななどと思いながら、立ち上がる。
「じゃあな、青年。賭博で金を稼ぐのは無理だろうが、せいぜい頑張ってくれ」
「ちょ、ちょっと!?」
無駄な時間だった。そう呟きながら、足早に路地を出ようとするアルトリートに青年が声を上げる。
「ちょ、待ってください。助けてくれるんじゃ!?」
「そんなこと言った覚えは無い。というか、博打で贈り物の資金を作るとかアホかアンタはっ!?」
「そんなこと言わずに、そこを何とかっ!」
「ええい。触るな。馬鹿がうつる!!」
行かせまいと手を伸ばす青年をかわし、アルトリートは悪態をついた。
衣擦れの音に被さるように、艶やかな声が上がる。
最初は囁くようにか細かったそれは、すぐに部屋中に響くほどの大きさへと変わった。
高く、早く、低く、緩やかに―――音階とリズムを目まぐるしく変える甘い吐息が、耳元をくすぐる感触を愉しむ。
一際大きな声と共に硬直した柔肌を抱きしめて、レクターは小さく息をはいた。
いつの間にか蝋燭が随分と短くなっている。
そのことに気が付いて、レクターはそっと自分の衣服を身に着けた。着替えが終るとサイドテーブルに置かれたグラスを手に取る。
「ん……あま」
どうやら、果実の絞り汁でアルコールを割っているらしい。
口の中に広がった酸味と甘み―――そして仄かな酒の味に目を細めながら、レクターは窓の外へと視線を向けた。
建物と建物の間に縄を通し、それに幾つもの照明具を吊るす。
そうして得られた光によって照らされた通りから、陽気な酔漢の歌や小気味良い客引きの声が聞こえてくる。
「……この町は、本当ににぎやかだね」
「ええ。昼と夜で若干異なるけれど、活気がなくなることはないですよ」
さすがに花町で暴れるような馬鹿はいないようだが、時折、別の意味で戦っているらしき声が聞こえて来る。
(まあ、完全防音の部屋なんて、そうそうあるものでもないよね)
お偉いさん御用達の高級店ならばともかく、普通の店ならそんなものだろう。
苦笑しながら視線を動かせば、寝台に腰掛けている女性と目が合う。乱れた赤い髪を手櫛で整えながら、彼女は照れたように微笑んだ。
先程まで似たような声を上げていたことを思い出しのだろう。
「こういうお店が堂々と軒を連ねるって、ルーフェリアじゃ結構珍しいと思うんだけど」
「そうでしょうね。カナリスでは目立たないよう、裏通りでひっそりとって話ですし」
「カナリスって神殿のお膝元でしょ? そもそも存在しないと思ってたよ」
軽く驚いた様子を見せるレクターに、彼女は小さく笑った。
「時に人肌が恋しくなるのは、誰だって同じでしょう?」
「……なるほど。もっとも、私はイレーネさんの虜になってしまったから、他の店には行かないだろうけど」
「あら、嬉しいことを言ってくださいますね」
「事実だからね。少し恥ずかしいけれど、気持ちは口にしないと中々伝わらないでしょう?」
「ふふ。ありがとうございます」
レクターの言葉に、イレーネがくすぐったそうに目を細める。
ひとしきり軽やかに笑った後、彼女は首を傾げた。
「―――そう言えば、レクター様は、ルーフェリアの外から来られたのですか?」
「うん? ああ、そうだよ。
といっても、私は駆け出しの冒険者だからね。あまり楽しい話のネタはないのだけれど」
「あら、そうなのですか?」
「そうなんだよ」
イレーネの言葉を笑って流しながら、レクターは彼女の横に腰を下ろした。
「私は口下手だから、あまり自分のことを話すのは慣れていないしね。
もし良かったら、イレーネさんのことを聞いてもいいかな。最近嬉しかったこととか、変わったこととか、そんな感じの」
「嬉しかったこと、ですか」
サラリと赤い髪を揺らして、彼女はわずかに思案する。
「そうですね。実は、今度私の同僚が結婚するんですよ」
「それって―――」
「ええ、身請けという奴です。お相手の方は、結構な大店の主様なんですよ」
「それは凄いね」
本当に、とレクターに頷きながらイレーネは目を伏せる。
妾ではなく、正妻として迎えられるというのは、中々あることではないのだと彼女は続けた。
「少し妬ましいですけれど、妹のような娘ですから、やはり幸せになってくれればと―――」
「よかったですね。本当に」
「……ええ」
彼女の言葉が、本心から出たものであることは間違いないだろう。若干複雑なものがあることも含めて。
レクターはそっと彼女を抱き寄せて、耳元で囁いた。
「大丈夫ですよ。イレーネさんにも良い方が現れます。貴方ほど魅力的な女性なら、私を含め、焦がれる男は多いでしょうから」
「あまり言われると、本気にしてしまいますよ?」
「もちろん。私は本気で言っていますよ」
「……もう」
少し頬を染めて、イレーネが目を閉じる。
それからしばらくの間、二人は中身のない甘いやり取りを楽しんだ。
琥珀の酒に満たされたグラスを見つめて、アルトリートはため息をついた。
軽く揺らせば、カラリと中に入っている氷が音を立てた。
種類が違うのだから当然だが、カッタバで振舞われた酒とは随分と味の印象が異なる。その違いを確かめるようにアルトリートは、グラスへと口を付けた。
喉の奥へと流し込まれたアルコールが、喉の奥を熱くする。
「…………」
店は落ち着いた感じの雰囲気に包まれており、おだやかに時間が流れている。
出された酒も相応に上等なものなのだろう。アルトリートがそれを不味いと思うことはなかった。
それなのに、楽しくないのはどういうことだと、再びため息がこぼれる。
「何か、ありましたか」
「……う~ん。鬱々とするようなことは無いんだが」
カウンターの向かいから、この店のマスターらしき男が穏やかな口調で問いかけてくる。
それに苦笑いを浮かべながら手を振って、アルトリートはグラスの中身を飲み干した。
空になったグラスを差し出せば、マスターがそっとおかわりを注いだ。
「……さっき、賭場の近くでお店の人と揉めてる兄ちゃんを見つけてね―――」
「…………」
再び満たされたグラスに口を付けながら、アルトリートは先程の話をした。
「―――結局、上手いこと撒いた後、近くにあったこの店に来たんだけど。何か、決まりが悪くてね」
「なるほど。私は、その青年に感謝しなければなりませんね」
「うん?」
「新しいお客様を連れて来てくれたということですから」
「ははは、確かに。ああ、そういう意味では感謝してもいいか。こんな良いお店に出会えたわけだし」
マスターの言葉に、アルトリートは小さく笑った。
一杯どうかと問えば、彼は頂きますと頷いて新しいグラスに琥珀の酒を注ぐ。互いに軽くグラスを掲げた。
「とても良い店を教えてくれた兄ちゃんに」
「新しいお客様を連れて来てくれた青年に」
乾杯と、軽くグラスを触れ合わせる。そのまま、半分ほど中身をあおって、アルトリートは小さく息をはいた。
「ま、もし次に出会ったら、もう少し話を聞いてみることにするよ。酒の一杯でも奢りながら」
「それがよろしいかと」
マスターが頷いた。
と、店の入り口が開かれた。ドアに付けられた鈴が涼やかな音を立てて、新しい客の入店を教える。
アルトリートはグラスに口を付けたまま、そちらへと視線を向けて―――
「このっ、いい加減にしろっ!!」
「お願いしますっ!! 何とか!」
同時に聞こえてきた罵声に、思わず酒を噴出しかけた。
「おいおい」
「……お知り合いですか?」
グラスを置いて腰を浮かせたアルトリートに、マスターが首を傾げる。
先程の話の、と伝えれば納得したようにマスターは頷いた。
「……奥に、一室ほど個室があります。今は誰も使っていませんから」
「申し訳ない」
マスターに礼を言って、アルトリートは揉めている新たな来店者達へと近づく。
せっかく美味くなった酒を、再び不味くされては叶わない。早々に片をつけるべく、迅速に行動する。
「ああ、すまない」
「……何だアンタは?」
「あっ」
揉めているのは、四人の男だった。
一人は言うまでもなく、先程撒いてきたハズの青年。
残りの三人は、お偉いさんとその取り巻きといったところだろうか。身なりの良い初老の男と、護衛らしきガタイの良い男が二人。
声を掛けたアルトリートへと、護衛らしき男の一人がジロリと視線を向けた。小さく声を上げる青年を無視して、アルトリートは話を続ける。
「そいつを引き取ろうと思ってね」
「君の知り合いかね」
何かを言いかけた男を制し、初老の男が問いかける。
その色の無い視線を受けて、アルトリートは頷いた。
「待ち合わせをするほど仲が良いわけではないがね。
この店の雰囲気をぶち壊しにするのも忍びない。良ければ、俺に任せてはもらえないだろうか」
「……いいだろう。私も、罵声や男の悲鳴を肴にする趣味は無い。
まして、こんなことで店の主に迷惑をかけるわけにもいかない」
そちらに任せよう。そう頷いた男に頭を下げて、アルトリートは青年の後ろ襟を再び掴む。
チラリとカウンターの奥へと視線を向ければ、マスターが店の奥へと続く扉を示した。
「ちょっとこっちにこい」
「あ、貴方は……、いや僕はまだ」
「いいからこい」
有無を言わさず、店の奥にある個室へと引っ張っていく。
背中に突き刺さる視線を意識して、アルトリートは深くため息を付いた。
部屋に入って、後ろ手に扉を閉める。
「……お前ね。人の迷惑って考えてる?」
「分かってます。でも、僕には時間がないんです」
額に手を当てて、ウンザリとした口調で問えば、そんな答えが返ってきた。
椅子に座りながら、アルトリートは青年を見る。殴られでもしたのか、その顔はところどころ腫れていた。
もう一度深くため息をつく。
「……話せ」
「え?」
「贈り物をする、というのはさっき聞いた。
だから、何で贈り物をするのかって理由と、『時間がない』という言葉の意味。
全部話して、納得が行く様なら少しは金を出してやる」
「ほ、本当ですかっ!?」
「……一万ガメルくれ、とか言われたら困るがな」
アルトリートの言葉に、青年が表情を輝かせる。
とりあえず落ち着けと椅子を勧めれば、彼は向かいの席へと座って深呼吸をした。
浮ついた表情を改めて、こちらへと視線を向ける。
「はい。実は―――」
彼は、静かに話を始めた。
青年の名前は、ロラン。このオルミで宝飾師をしているらしい。
昼間に目にした真珠の耳飾りなんかを作っているのかと問えば、そうだと彼は頷いた。
「もっとも、僕はあまり筋の良い方ではなくて、その、一度は廃業を考えたこともあったんです」
「…………」
「それを師匠に告げたところ、お前は根性が無さ過ぎると叱られまして」
度胸付けに、娼館に叩き込まれたのだそうだ。
その時のロランはまだ女性を知らず、ゆえに何が何だか分からないまま困惑していたのだが、そこはプロの手管というところだろう。
相手を務めてくれた女性に優しく手ほどきを受け、さらに何やらロランの相談にも乗ってくれたそうだ。
結果、ロランは立ち直り、今も宝飾師を続けている。
「……なるほど」
「あの。笑わないんですか? 大体この話を聞いた人は僕を笑うんですが」
「そういうこともあるだろう。それで?」
「あ、はい」
優しくされて本気になっちゃったらしい。そのことについて、どうこう言うつもりはない。本人の問題だ。
先を促すアルトリートにロランは話を続けた。
「それからも、その……何度か彼女のところに通ったのですが、先日行った時にお店の人に指名を断られまして」
「……嫌われた、とか?」
「いえ。私も最初、そう思ったんですが。理由を聞いてみると、何でも身請けが決まったとか」
「ああ、なるほど」
身請けが決まった以上、別の男に抱かせるわけにはいかないということだろう。
「相手の方は大きな商会の主だそうです。何でも妾ではなく、妻として迎えるのだとか。
そのこと自体は良いんです。いえ、全然良くないんですけど」
「どっちだよ」
肩を落すロランの言に、アルトリートは苦笑しながら突っ込みを入れる。
気持ちは理解できる。『彼女』が身請けされるということは、彼の恋は破れたということだ。だが、他でもない『彼女』が幸せになれるのなら、それはそれで良いということだろう。
そんな微妙な心情が窺えて、アルトリートは初めてこの青年に好感を抱いた。
「それで? その様子だと、彼女が身請けされること自体は、祝福するつもりなんだろう?」
「はい。だから、お祝いと、何より感謝の気持ちを伝えたいと思って」
しかし自分は話下手で、上手く気持ちを伝える自信がない。
それに自分は宝飾師だ。だから気持ちは物に込めて渡したいのだと、彼は続けた。
「それで、髪飾りを作ろうと考えたのですけれど、一度失敗してしまって」
「材料を買う金がない、とかか」
「はい。あと少し、宝石を買うことが出来れば、すぐにでも完成させられるんですが」
ロランは頷いた。
そして、その宝石を買うための資金を得るために、賭博に走ったり、金貸しに縋ってみたりしたのだという。
「……まあ、理由に関しては理解出来た。時間がないというのは?」
「彼女の身請けは、明後日です」
「…………」
「…………」
しばし沈黙する。
念のため、もう一度聞き直すが、ロランは「明後日、彼女が身請けされる」と答えた。
「間に合うのか?
いくらなんでも身請け当日や、身請けの後には渡せないだろう」
「はい。間に合わせます。しかし―――」
残された時間は、明日一日だけだろうと告げたアルトリートに、ロランは頷くと同時に項垂れた。
材料が無ければどうにもならない。
「……いくら」
「え?」
「だから、その宝石って幾らくらいするんだ? 妥協なしで」
「三千ガメルです」
その答えを聞いて、アルトリートは目を閉じた。
フェアリーテイマー達が用いる宝石が、一つ五〇ガメルであること考えれば、トンでもない値段だ。
それこそ、詐欺の一種ではないかと思うのが普通だろう。
(それこそ、そんな大金を出す馬鹿はいないよな)
そう考えながら目を開けば、殴られて腫れた顔が目に入る。
金の無心に走った相手は、さっきの明らかに裏街道を歩いていそうな男だけではないのだろう。先程よりも更にボロボロになっていた服装を見て、アルトリートはため息をついた。何となく酒が欲しくなる。
「足りないのは?」
「二千ガメル……いえ、さっき賭場で全財産が無くなったので三千」
「……賭博で三倍にしようとしてたのか」
「はい」
消え入りそうな声でロランが答える。
その以上は触れずに、アルトリートは最後に一つだけ確認を行った。
「本当にお前はそれでいいのか?」
「え?」
「そんな大金かけて贈り物をしても、喜んでくれるとは限らないだろう。
それこそ受け取って貰えるかさえ分からない」
「はい。それを身に付けて貰えなくても構いません。たとえ売り払ったとしても、そのお金は彼女の持参金になるでしょうし」
受け取りそのものを拒否されると困りますが。そう答えるロランに、アルトリートは確信した。いや、再認識したというべきか。
(馬鹿だ、馬鹿。それも真性の)
そして、自分も人のことは言えないだろう。
ウンザリとした面持ちで、アルトリートは腰のポーチから財布袋を取り出した。
「一つだけ、俺の意見」
「はい?」
アルトリートの手元に目を吸い寄せられていたロランが顔を上げる。
その目を真っ直ぐに見据えながら、アルトリートは静かに告げた。
「お前は、自分の気持ちを伝えるべきだ」
「え? だから、そのために―――」
「そうじゃなくて。祝福や感謝とは別に、彼女に対して抱いている気持ちの方だよ」
お前の問題だから、別に従う必要はないが。そう締め括って、アルトリートは財布の中から金貨を取り出した。
何だか妙なことになった。
レクターは、ため息をついて星空を見上げた。
“ライト”の魔法を、道端で拾った枝の先端にかけて、それを灯りに暗い道を歩く。
杖とアルケミーキットを宿に預けているため、こういう暗がりを進むのは何となく心細いものがある。
(魔法自体は使えるから、問題はないかな)
右手首に填めた腕輪を見て、レクターは脳裏を過ぎった不安を振り払おうとした。
前衛技能を持たない魔法使いの単独行動は、かなり危険なものがある。
相手が複数で距離が無かった場合など、条件次第で格下相手に袋叩きにされる可能性があるくらいには。
「…………」
楽天的に考えようとして、失敗するのは一人きりだからか。
クルーガーを呼び寄せようかとも一瞬考えたが、羽を伸ばせと放っておきながら、夜道が怖いからこっちに来てくれとはちょっと言えない。
あと、暗視がないのでアイツは鳥目だ。
「街中だから、出てもゴロツキくらいだろうけど」
レクターは再びため息をつく。
手元の紙に書かれた地図に目を落して、目的地が近いことを確認すると早足で歩を進めた。
『もし、もし……そこのお方』
そんな声を掛けられたのは、娼館を出てすぐ横にある路地の前を通りかかった時だった。
人目を憚ってフード付きの外套で顔を隠し、暗い路地の中に佇むその姿は明らかにワケありで、出来れば関わり合いになりたくない手合いだ。
それでも、レクターが足を止めたのは、その声が明らかに若い女性のものだったからだ。
女性に声を掛けられて、それを無視することなどレクターには不可能だった。
「何か私に御用でしょうか?」
内心の不審を押し殺し、表情に穏やかなものを浮かべて彼女へと近づく。
無視されなかったことに安堵したのか、フードの女性はほっと胸を撫で下ろす仕草を見せた。
「突然声をお掛けして申し訳ございません。また、このような格好でお話をするご無礼をお許し下さい」
「……構いませんよ。何か、理由があるようだし」
「本当に申し訳ございません。あの……貴方様は、先程まで“水面の誘い”にいらっしゃったのでしょうか?」
「ええ。そうですが」
耳にした娼館の名前に、首を傾げながらレクターが答える。
それを受けて、フードの女性は一つ頷くような仕草を見せた後、意を決したように両手で何かを差し出した。
「あ、あの。これを」
「……手紙?」
差し出されたのは一通の封書だ。もっとも、貴族などが使うような格式高い代物ではなく、平民が平民あてに出すようなものだが。
それを受け取ってレクターは首を傾げた。
もしかして、自分あての恋文だろうか。そんな馬鹿なことを考えるレクターの思考とは裏腹に、彼女はどこか必死な様子で頭を下げる。
「その……お客様に、このようなことをお願いしては失礼だと思うのですが……その手紙を、ある人に届けて欲しいのです」
(ですよね~)
彼女の言葉に、レクターは苦笑いを浮かべた。
察するに、彼女も“水面の誘い”の娼婦の一人なのだろう。
大方、店のホールあたりで自分を見て、頼み事がしやすそうだと考えたといったところか。
その目利きはとても正しい。レクターは受け取った手紙を懐に仕舞いながら頷いた。
「分かりました。届け先の住所と名前、可能なら簡単な地図をいただけると助かるのですが」
「……っ! あ、ありがとうございます。地図ならここに―――」
女性の頼みを無碍に断る選択肢など、レクターには存在しない。
にこやかに頷いた銀髪の青年の答えに、女性の声が明るく弾んだ。手書きらしき地図をレクターに差し出す。
「それと、相手の方のお名前はアルベール様と言います」
「アルベールさん、ね。了解。この方は男性でよいのかな?」
「……はい」
「分かりました。貴方のお名前についてはお聞きしませんし、届けた後に報告もしませんが、それで大丈夫ですか?」
「はい。本当にありがとうございます」
女性が改めて頭を下げる。それに手を振って笑いながら、任せてくれとレクターは頷いた。
あの声の感じからすると、儚げな感じの美人といったところだろうか。
結局最後までその顔を見ることはなかったが、レクターはそう推測して舌打ちをした。
(アルベール氏とやらを爆発させては駄目かな)
手紙の中身はおそらく恋文の類だろう。
そう思えば、何となく出会い頭に“ファイアボール”を撃ち込んでも許されるような気がする。
そんな物騒なことを考えながら、レクターは路地の角を曲がり―――そこで足を止めた。
「――――っ!!」
「―――っ!?」
暗がりでハッキリと見通せないが、何やら数名の人影が争っているのを捉えたからだ。
(あ、まずい)
『早く殺せ』という声が耳に入ると同時、レクターは人影へと向かって駆け出した。
彼我の距離と詠唱にかかる時間とを考えながら、注意を引くために声を張り上げる。
同時に、手に持っていた“ライト”付きの枝を投げつけた。
「お前達、何をやっている!?」
「―――っ!?」
光に照らされて、人影の正体が闇の中に浮かび上がった。
ゴロツキらしき風体の男が四人。それが一人を取り囲んでいる。男達の手に剣が握られているのを見て、レクターは再度舌打ちをした。
(ナイフじゃなくて、長剣とか!)
足を止めて、男たちへと右掌を突き出す。
彼等が何かをする前に、先手を取らないと正直キツイ。
「真、第一階位の攻。瞬閃、熱線―――“光矢”」
呪文に応え、魔力の矢が出現する。数は四つ。
脅しの意味を込めて、あえてギリギリ外れるよう放った矢が、男たちの近くの石壁や地面を抉って弾けた。
「次は中てるよ」
「……っ!? 退けっ!!」
静かに告げたレクターの声に、男の一人が声を上げる。
“矢”が発揮した威力に慄いたのか、他の男たちもそれに従い走り去るのを見送って、レクターはため息をついた。
残る一人―――倒れている青年へと近づく。
「大丈夫かい?」
「……ぅ」
どうやら生きているらしい。
服装はヨレヨレ、顔は腫れている、手足には斬りつけられた傷があるなど、散々な有様だったが命に別状はなさそうだ。
そのことを確認して、レクターは安堵の息をついた。
とりあえず体力だけでも、と“アース・ヒール”の魔法をかけてやれば、すぐに彼は血色を取り戻した。
元より意識はあったらしい。ふらつきながら青年が立ち上がる。
「す、すみません。助けていただいて」
「構わないよ。困った時はお互い様って言うからね。それより、傷は塞がってないから、早く手当てをしないと」
「あ、僕の家がすぐ近くにあるので―――」
「うん。じゃあ、そこに行こう。ええと、私はレクター。あなたは?」
「ロラン。アルベール・ロランです」
助けなければ良かったかな。一瞬、そんなことを考えたのはレクターの秘密だ。