ダンジョン“絶望の檻”を出発してから早五日。二人は、未だ山中にいた。
木々の隙間から光が差し込んでくる。
朝にしては若干強めの―――おそらくは初夏のソレであろう陽光にまぶたを開けば、空が朝焼けに染まる光景が目に飛び込んできた。
「ああ……朝か」
焦点の合わない瞳で明るい空を眺めた後、アルトリートはポツリと呟いた。ノロノロとした仕草で身を起こす。
「おはよう」
その声に視線を向ければ相棒の姿があった。後番で見張りをしていた彼は、寝起きのアルトリートと同じか、それ以上に力のない表情を浮かべている。
(そろそろ、限界が近いか)
全く力のない、虚ろとさえ言えるレクターの笑みを見て、いよいよ危ないかと、アルトリートは考える。
原因は分担して行った夜の見張りのために睡眠時間が足りてない、ということではない。それもあるだろうが、それ以上に切実な問題が他にある。
「……肉が食べたいね」
「同感」
レンジャー技能を駆使して集めた野草や木の実をモソモソと口にしながら、相棒が抑揚の無い口調で呟いた。
それに心から同意して、アルトリートはこれまた朝露などを集めて確保した僅かな水を口に含む。
「まさか、ダンジョン探索ものの単発セッションだからと、水と食料について何も考えてなかったのがこれほど祟るとは……」
「もし、アルトリートのレンジャー技能が無かったら、今頃死んでいたかもね」
どれほどの力があろうと、人である以上、生きるためには水と食料が必要だ。
そんな当たり前のことを思い知らされた二人は、深い深いため息をついた。
「……今、どれくらい進んでるんだっけ?」
「ん。ちょっと待て」
レクターの問いに、アルトリートは脳内に地図を広げる。
ダンジョンの入り口から見た風景や、これまで歩いてきた行程を元に作成したその地図を信頼するならば、今の二人はダンジョンから北東に約二〇キロメートル程度の位置にいることになる。
残りの行程がどれくらいなのかは、見当もつかない。
「そんなものなんだ」
「直線距離での話だから、実際の移動距離はその倍以上だけどな」
「そうか。真っ直ぐ進めるわけじゃないから……」
一日あたり一〇キロメートル弱。
野外活動を本領とするレンジャー技能のおかげか、脳内とはいえ常にマッピングを行っていること、安全なルート選択を行えていることなどの理由により、比較的無駄のない移動をしていることを考慮しても、全く整備のされていない山中の移動速度としては相当ハイペースなのではないかと思う。
自分はともかく、レクターへの負担は相当なものだろう。
尾根に登るまでに二日、それから尾根伝いに移動して三日―――未だに里へと下るルートを確定できないことに、アルトリートは焦りを覚える。
(“ディメンジョン・ゲート”を使えれば―――)
話は早いのに。そんな、意味の無いことを考えて、すぐにその思考を振り払う。無いものねだりをしても仕方がないからだ。
遠く離れた場所へと通じる“門”。それを造り出す真語魔法“ディメンジョン・ゲート”。
ソーサラー15、コンジャラー13、アルケミスト10、セージ10。
複数の魔法技能に通じ、その中でも特に真語魔法に関しては最高位の使い手たるレクターだ。
当然“ディメンジョン・ゲート”の魔法も使うことができる。
だが、門の出口――つまり、移動先は術者が知っている場所に限定されるという条件ゆえに、今の彼にとってその魔法はほとんど意味を為さないものとなっていた。
アルトリートもそうだが、レクターがこの世界「ラクシア」に関して、その土地に行った記憶があるという意味で「知っている場所」はダンジョン“絶望の檻”しかない。
否定すると同時、別の思考が浮かび上がる。
(“フライト”を使って、山越えの方が良かったか……)
飛行用の真語魔法“フライト”。
その移動速度は徒歩の比ではない。直線的に移動できることを踏まえれば、現在地まで来るのに一時間かからない計算になる。
ロック鳥などの大型生物との遭遇や、ゲームとの違いによる不測の事態―――それによる墜落の危険性から不採用となった案だが、遭難中の現状を鑑みると大失敗だったかと、アルトリートは苦々しく思う。
だが。
(……今更だよな)
疲労と空腹で蒼褪めたレクターの顔色を見て、アルトリートはそれ以上考えるのをやめた。
焦りと不安に押しつぶされそうな今の状況では、嫌な考えばかりが脳裏に渦巻いて精神衛生上非常によろしくない。
「さて、じゃあ行くか」
「そうだね」
「それにしても」
「うん?」
「仲間にタビットがいなくて良かったな」
「……確かにね」
二足歩行のウサギという外見から、よく「非常食」呼ばわりされることのある種族の名前を口にすると、レクターが一瞬真顔になって頷いた。
その表情を見なかったことにして、アルトリートはゆっくりと立ち上がる。
本格的に生命の危機に陥る前に、何とかこの状況を脱したい。
目を開くと、天井があった。
「…………?」
しばし、その意味を考える。
(ええと、俺は何をしていたんだったか?)
記憶を探るように再び目を閉じて、アルトリートはしばし黙考する。
突然放り出されたダンジョン。不屈の名を冠する騎士。迷宮の外は山々が連なる山岳地帯。サバイバル。食料がない。水が尽きた。遥か遠くに大きな湖。動けなくなったレクターを背負って……
「……っ!?」
断片化されていた記憶がつながり、声にならない叫びと共にアルトリートは跳ね起きた。
慌てて周囲を見回せば、すぐ隣の寝台で眠り続けている相棒の姿を見つける。
ちゃんと息をしていることに思わず胸を撫で下ろして、アルトリートはようやく自分達の置かれている状況を理解した。
つまり。
「おや、もう気がつかれたのですか」
ガチャリと音を立てて、扉が開かれた。壮年の男性が部屋へと入ってくる。
細身の、髪に白い物が混じりつつある男性だ。
どこか和風な印象を覚える衣装を身に付けた彼は、アルトリートの姿を見ると驚いたように目を丸くした。
(辛うじて助かったということか)
エルフの特徴である尖った耳を見ながら、アルトリートはそう判断した。
居住まいを正す。
「……助けて頂き、ありがとうございました」
「いやいや。礼なら、私ではなくあなた達を見つけた者に言ってあげてください」
何をおいても先ずは礼を言おうと、深々と頭を下げたアルトリートに男は手を振った。
「ここは、湧き水の村カッタバ。ルーフェリア王国の東部に位置する村です。
私は、村長のエクトル。
あなた方は、二日前、山中で倒れているところを村の者が見つけたのですよ」
「そうでしたか」
「お連れの方も大丈夫。命には別状はありません。
あなたも、まだ体力が回復していないでしょう。今はしっかりと体を休めて下さい」
「……ありがとうございます」
柔らかく笑うエクトルに、アルトリートは深々と頭を下げた。
レクターが目を覚ましたのは、翌日の昼のことだった。
「全く未知の場所だったり、情報はあるけど色々とアレなザルツだったりしなくて幸運だったな」
「フェイダンもあんまり大差ないような気はするけどね。でも、ルーフェリアなら確かに幸運と言えるのかな」
アルトリートの話を聞いたレクターが小さく笑いながら頷いた。
“女神の涙”ルーフェリア。
テラスティア大陸南部。フェイダン地方に位置する小国だ。
かつて“青い宝石”と称されたイズマル王国を前身とするこの国は、“大破局”と呼ばれる蛮族の大侵攻の折に“騎士神”ザイアの導きによって神へと至った少女―――後の“水の神”ルーフェリアの加護の下、約二五〇年に渡って蛮族の侵攻を退け続けてきた歴史を持つ。
五〇年ほど前、“石塔の学び舎”カイン・ガラの学者達によって発見され、ようやく周辺諸国との交流が再開したばかりの国家で、今は開国に伴う様々な変化が起きている言わば過渡期にあたるらしい。
周辺を蛮族の勢力に囲まれているとか、“滅びのサーペント”に代表される凶悪な魔剣の話とか。色々と火種のある地域ではあるが、いきなり滅亡の危機を迎えるほどの危険地帯ではないと思いたい。
女神ルーフェリアは言うまでもなく、“湖の大司教”バトエルデン・エラーなどの強力な守護者が存在するこの国の状況を思い浮かべながら、アルトリートは席を立った。
「とりあえず、今後のことはこれから考えるとして、お前はとっとと体力回復しとけ」
「了解。……ところで」
「何だ?」
「その格好は何?」
「借してくれた。何か動きやすくていいぞ、これ」
アルトリートは自分の服装を見下ろす。
今のアルトリートの格好は、当初から着込んでいた武装ではなくエクトルから借り受けた民族衣装だ。
前開きになっている薄地の衣を幾重にも重ねて、それを帯で一つに纏めており、どこか和服に似通った印象がある。
何でも、突然、水場に落ちた時に速やかに脱ぐことができるよう、という配慮から、このような構造になっているらしい。
紺色などの寒色系で染め上げられたこの衣装を、アルトリートは密かに気に入っていた。
「……男のアルトリートが着てるのを見ても、あんまり面白くはないね」
「確かにな」
これが若くて綺麗な女性だったら話は別だが。
そんなことを真顔で告げたレクターの言に、小さく苦笑してアルトリートは部屋を後にした。
そのまま、外に出て炊事場の方へと庭を回る。
少し喉が渇いたため、水が欲しくなったのだ。
(湧き水の村、というだけあって、水がメチャクチャ美味しいよな、ここ)
昨日、初めて口にした時、仄かな甘ささえ覚えるその味に感動さえ覚えたものだ。
無論、それまでの状況が酷すぎたというのもあるだろうが、それを差し置いても掛け値なしに美味しいとアルトリートは思う。
この水を用いて造る酒がカッタバの名産品だという。
残念なことに―――本当に残念なことにすでに過ぎてしまっているが、春先に行われる“井戸竜祭”と呼ばれる伝統行事ではその年の新酒が振舞われるらしい。
機会があれば必ず参加しようと心に誓いながら、アルトリートは炊事場の横手に据えつけられた水槽の前で足を止めた。
竹管から水槽へと流れ落ちる水を掬う。何となくそのまま水の流れを観察する。
引き込まれた湧き水が最初に流れ込むのは、三段の階段状になった水槽の最上段だ。
木製の水槽の一段目へと流れ込んだその水は、一定以上の水位に達すると側面に開けられた穴から二段目へと流れ込み、同じように三段目へ。最後はすぐ傍らの池を通って、村中に張り巡らされた水路にと至るという具合になっている。
一段目の水を飲料や炊事用に、二段目は野菜などを冷やしておくのに使っている。三段目は使った食器などの洗い物用だ。
ちなみに傍らの池には、色鮮やかな魚が泳ぎまわっている姿が見られる。彼等が水中に落とされた汚れを食べることで水が綺麗になるということらしい。
昨日の夕方、見慣れない物だと興味津々と覗き込んでいた時、そんな風にエクトルが教えてくれたことを思い出す。
この村では全く珍しく無い、どこの家にでもある光景。
水不足の土地の人間が見たら、きっと気が狂うんじゃないだろうか。そんなことを思いながら、アルトリートは掬った水を口にした。
「アルトリートさん」
「ああ。村長さん」
振り返れば、エクトルが立っていた。
なぜかその髪や身に付けている衣服から水が滴っているのが凄く気になるが―――変わらず柔らかい笑みを浮かべている彼に、アルトリートは小さく会釈をした。
「レクターさんの様子はどうです?」
「ええ。あれなら、明日か明後日には問題なく動けるようになると思います」
本当にお世話になりました。そう言いながら、頭を下げるアルトリートの言にエクトルは小さく考えるような仕草を見せる。
彼は、少し眉を顰めながら口を開いた。
「……まだ、少なくともあと四、五日はこちらに泊まっていきなさい。
あれだけ衰弱していたのですから、体力の回復には相応の時間がいるでしょう」
「ですが、あまり長い間お邪魔するのも……」
「困った時はお互い様。
私達、ルーフェリアの民はそうやってこれまで生きてきましたから、全然特別なことではありませんよ」
アルトリートが、意識を失っていた間を含めれば、すでに四日泊まっている。
レクターの体力が最低限回復するまで、さらに一日、二日かかることを考えると、それだけで六日間もの間、世話になりっぱなしということだ。
さすがにそれは迷惑をかけすぎだ、と辞するアルトリートに、エクトルはそんなものは迷惑でも何でもないと言い切る。
急ぐ旅でないのなら、しっかり回復するまで泊まっていけと告げるエクトルに、アルトリートは「あ~」だの「う~」だの唸り、結局は頭を下げることとなった。
(実際、物凄くありがたい申し出なんだよな)
それだけに、何もせずにいるのは物凄く気が引ける。
だが、何かを手伝おうとするたびに、「病み上がりは世話を焼かれるのが仕事」とエクトルや彼の夫人ににこやかに切り捨てられている。
かといって、金品で贖うのも何か失礼な気がする。そもそも金に関しては、遭難中、重りになると放棄してしまっているため手元にない。各種装備品やレクターのマテリアルカード等、金目のものはまだ持っているが、それを渡すのはもっと失礼だろう。
(せめて、一般技能があれば何か出来たかも知れないが……)
―――戦闘能力が高いだけの自分は、平和な村では単なる穀潰しだ。
そのことに気が付いて、アルトリートは若干落ち込んだ。
水路を進む小船に揺られながら、水面から顔を出す花を眺める。
村の風物詩として知られる薄紅の花は、今は蒼褪めた月の光に染まっていた。
『快気祝いをしましょうか』
レクターが十分に回復したため、そろそろ村を出ようと考えていることを伝えたアルトリートに、エクトルは開口一番そんなことをのたまった。
相も変わらず、善意の塊としか言い様のない笑顔で告げられた言葉に、もはや抵抗をしようとは思わない。
その代わり。
(いつか、この恩は必ず返さないと)
そのことだけを肝に銘じて、ありがたく善意を受け取る。
「本当に水路を利用しての移動が主なんですね」
「ははは。私達にとっては、道を歩くより水路を泳ぐ方が楽だったりしますからね」
数日振りに外に出たレクターの呟きに、船頭を務めていたエクトルが応える。
カッタバの村には道が少ない。
代わりに村中を水路が走っており、村の住人達はそちらを利用して行き来を行っている。
エクトルのようにエルフならば、水中移動はお手の物だろう。彼等は“剣の加護”と呼ばれる種族特性によって、一時間は息継ぎなしで水中にいられる。そのため、水中を移動している際に何かあってもおぼれることは先ずないのだ。
もっとも、他の種族にとっては今のように船を出す必要があって不便ではないかとアルトリートは思ったのだが、この村の住人は全てエルフであるという。
(……なるほど、ね)
どうもレクターはその辺の事情を知っているらしい。
村の様子を見てもそれほど驚いた様子を見せず、ただ感心したような表情を浮かべるだけの相棒を尻目に、アルトリートは空を見上げる。
中天に浮かぶ月は、満月でこそないがとても明るい。
おかげでエルフと異なり暗視の能力を持たない人間にも、周囲の状況をしっかりと見通すことができる。
快気祝いで何ゆえ船に乗って水路上を移動しているのかは、正直よく分からない。
だが、明るい銀月の下、小さな花に彩られた水路の上を船に揺られて進む今の状況は、それはそれで風流な感じがして良いものだ。
そう考えて、アルトリートは深く考えないことにした。どうせすぐに分かる話だと、何が待っているのか楽しみにしておく。
「さて、ここで一旦船から下りてください」
脇へと伸びる水路の入り口のあたりで、船が泊まる。
エクトルに従って、アルトリート達は水路脇の道へと上がる。アルトリートは首を傾げた。
水路の入り口。その水面から、人の腕くらいの太さを持った棒が数本突き出ている。
「ここからは、徒歩で」
そう告げて、エクトルが歩き始めた。
その背後をレクターと二人して歩きながら、アルトリートは落ち着かない気持ちで辺りを見回す。
船などによる進入が禁止された水路。その存在は、この村では非常に特殊なものだと思う。
「ふふ。ここは、この村でも少し特別な場所でしてね。とっておきという奴です」
しばらく歩いて、足を止めたエクトルが振り返る。
「…………」
「……これ、は」
進入禁止の理由はこれだろう。
息を呑むアルトリートの横で、同じように呆けたような表情をレクターが浮かべている。
自慢げに笑うエクトル。
―――その背後を、いくつもの燐光が舞っていた。
明るい月の輝きと、仄かな星明り。
天の光が水面に反射して、水中花と共に水路を彩っている。
いつの間にか置かれていたカンテラの暖かい光が水路脇を照らし出し、植えられている色とりどりの花や木々を闇に浮かび上がらせていた。
―――そして、中空を舞う蛍の燐光。
その光景に見蕩れるアルトリート達を置いて、エクトルは道の脇に備えられた階段から水路へと降りる。
「うん。冷えてますね」
水路の中に何かを沈めていたらしい。結んでいた紐を手繰り寄せて水中から取り出した籠の中を見て、エクトルがよしよしと頷く。
そしてこちらを見上げて笑った。
「さあ。お二人とも、こちらへ」
「あ、はい」
「今行きます」
頷いて二人も階段を降りる。
流水部の両脇には、少しだけ開けた空間がある。そこに陣取って、エクトルは籠の中身を取り出した。
「妻は後から来るとのことですから、先に始めてしまいましょうか」
そう言って、こちらへと軽く振って見せるのは透き通った液体で満たされたビンだった。
振られる度に、月明かりを受けて僅かに煌く。
中身は考えるまでもない。
「さあ、どうぞ」
「頂きます」
「すみません」
アルトリートとレクターに杯を渡し、エクトルが上機嫌で酒を注ぐ。
そのまま促されて、二人はそっと杯に口をつけた。揃って目を見開く。
「…………」
「口当たりが優しいので、飲みすぎには少し気をつけた方が良いかも知れませんが……悪くないでしょう?」
「ええ。ええ、本当に」
エクトルが言うには、米で造った醸造酒であるという。
感激した表情で、レクターが何度も頷く。その横でアルトリートは無言のまま杯を傾けた。さらにひと口。
砂糖などとは違う、独特の甘みと優しい香りが口中に広がる。その感覚にひどく懐かしいものを覚えながら、アルトリートはほぅと息をついて甘露を堪能した。
「どうやら、お気に召して頂けたようですね」
「本当に、ありがとうございます」
「何から何まで……」
アルトリートとレクターは、そっと杯を置いて、深く頭を下げた。
そんな二人に目尻を下げながら、エクトルが軽く手を打ち合わせる。
「では、少し順番が前後しましたが……乾杯といきましょう!」
その夜。
目にした光景と、口にした酒。
そして、何より酌み交わした相手のことを、アルトリートとレクターは生涯忘れることはないだろう。