振り返れば、さほど遠くない位置にカナリスの城壁が見える。
東の方へと視線を向ければ、ゆっくりと顔を覗かせる太陽の姿が目に入った。
「とりあえず、何とかカナリスまで戻って来れたが」
「これから、どうするんだろうね」
いつの間にか傍らに立っていたレクターが、肩を竦める。
眼前には、蛮族どもの姿。数は、たくさん。
五百メートルほど先に陣を敷いている彼等を見て、アルトリートはウンザリと表情を歪めた。
「少なくとも、真っ向勝負はありえないよな」
「敵が諦めるまで篭城を続けるか。それとも敵将を暗殺するか」
何とも言えないと続けるレクターに視線を向ければ、彼は苦笑を浮かべながら杖に寄りかかっていた。
まだ疲労が抜けきっていない様子に、眉をひそめる。
「お前、寝てなくていいのか?」
「さっきまで寝てたから大丈夫だよ。ま、ちょっとキツイけど」
「いや、キツイなら寝ておけよ。……他の三人は?」
「城壁の向こう側」
まだ眠っているらしい。
カナリスを囲む城壁の内側には、兵士達の休息のために無数のテントが張られている。
昨夜、その一つを借りて全員倒れ込むように眠りに就いたのだが、復帰にはまだ時間が足りないようだ。
レクターがあくびを噛み殺し、肩を竦めた。
「しばらくしたら私もテントに戻るよ。ずっと眺めていたい光景でもないし」
「俺もそうするか」
圧倒的大多数の敵を眺めながら、アルトリートは頷いた。確かに、精神衛生上あまりよろしくない光景だ。
「……ところで、オルミとフォリマーの話は聞いた?」
「ああ。さっき教えてもらった」
オルミとフォリマーも敵の攻撃を受けていたらしい。
先程、神官戦士から聞かされた話を思い出し、アルトリートは小さく舌打ちをする。
「オルミの方は何とか撃退に成功したみたいだが……」
「フォリマーは、陥ちたらしいね」
もっとも、街の住人達の避難は終わっていたため、人的な被害はほとんどないらしい。
それでも街が一つ破壊されたという話を聞くと、暗澹たる気持ちになる。
「……守りの剣は?」
「避難する住民達と一緒に、街の外に持ち出されたらしいよ」
今はこのカナリスにあるはずだと、レクターが答える。
どうやら、最初から街を放棄するつもりだったらしい。そう続けながら、相棒は苦笑いを浮かべた。
「元々がそんなに大きくない街だから、住人さえ無事ならすぐに復興できるということなんだろうね」
「……たくましいな」
その言葉に、アルトリートも苦笑いを浮かべる。
その思い切りの良さは、どこから出てくるのだろうか。
「普通なら、守りの剣を動かす……街を放棄するなんて判断は、そうそう出来ないと思うんだが」
「今回が初めてじゃない、というのもあるんだろうけど。
……安全な場所があると分かっている分、割り切りが早いのかもしれないね」
壊れたものは直せばよい。
そう割り切るためには、再起が約束されていなければならない。
そうでなければ、『どこに逃げても同じだ!』とか、『この街と運命を共にする!』と言い出す者が出てくることになる。
「ああ、それは確かに」
レクターの言葉に頷きながら、アルトリートは空を見上げた。
「安全地帯があるというのは大きいよな」
「うん」
レクターも空を見上げた。
二人の視線の先には、朝焼けに染まった空がある。
雲は特になく、それゆえに彼等に降り注ぐ陽光を遮るものは何もない。
だが、手を伸ばせばすぐにヒンヤリとした感触を覚えるはずだ。
「……正直、発動の瞬間を見たときには目を疑った」
「たとえ知ってても、信じ難いものがあるよね。まさに奇跡といったところかな」
「確かに、奇跡だよな」
―――都市を丸ごと包み込む氷の天蓋。
ルーフェリア神官だけが行使できる“アイス・ドーム”は、この奇跡を人でも扱えるよう簡易化したものなのだろう。
“大破局”から、現在までの約三百年。
そして、これからもこの国を守り続けていくだろう女神の奇跡に触れて、アルトリートは感嘆の吐息をもらした。
忌々しい氷の天蓋。
己の天幕からでも見ることのできるソレを睨みながら、イェクトは酒をあおった。
血の色を思わせる葡萄酒を一息に飲み干して、空になった杯を放り投げる。
「フン。今の内に、いい気になっていれば良い。その方が、見世物としては面白くなる」
口元を拭いながら、ニヤリと笑った。
傍らに立てかけていた長剣を手に取り、鞘から抜き放つ。
現れた刃が陽光を受けて毒々しい光を放った。その鍔元には、蜘蛛と蜘蛛の巣を象った紋章が刻まれていた。
“腐敗の女神”ブラグザバス。その力の一端を付与された剣。
百を超える人族の苦痛と怨嗟、そして絶望を供物とし、準備のためにひと月、儀式にまる一日。
さらに、最上位の神官の命を費やして鍛え上げられた魔剣―――否、神剣というべきか。
その刃を見つめながら、クツクツと笑う。
(あの腐れ神官どもも、中々面白いものを作るじゃないか)
本来は、彼等の勇者を女神の地上代行者とするために造られたらしい。
もっとも、儀式が終わった直後に見届け人―――自分に強奪されたため、本来の担い手がそれを振るうことは無かったのだが。
完成したばかりの剣で斬り付けられ、先程まで降臨していた神に助けを求める間抜けども。
その姿を思い出して、笑みが一層深くなる。
(あれは、中々に傑作だった)
その力を解放できるか試してみたところ、アッサリと発動した時には笑いが止まらなかった。
神殿が丸ごと消し飛ぶ光景を目にした生き残りの表情ときたら―――
「失礼いたします」
「……何だ?」
ニヤニヤと笑みを浮かべていた所に、部下が近づいてくる。
黒いヴェールで顔を隠している女の姿に、イェクトは笑みを引っ込めて首を傾げた。
「オルミ方面での戦闘に関する報告が来ました」
「ふぅん。そういえば、アッチにも仕掛けていたな……それで?」
「失敗したのとのことです。
後背から神官戦士団による強襲を受け、指揮官が討ち取られたとか」
「……使えない奴らだな。生き残りは見つけ次第、ぶち殺しとけ」
「了解しました」
部下が頷く。
表情は見えないが、その声音に逡巡の色はない。イェクトの言葉は当然のものと捉えているようだ。
使えない者は殺してしまえ。そんな思想を隠しもせず、主従は会話を続ける。
「ヴィカーズの奴はどうした。あのクソ真面目な男がまだ姿を見せないとか、あり得ないだろう」
「東部方面における友軍の動きは全く見られないようです。おそらくは―――」
「今回の戦の前にくたばった、か?」
「そう思われます」
「カハハ。ザマァねぇな。強い奴に会いに行くとか。今時流行らないことやってるから、んなコトになるんだよ」
ひとしきりブラッドトロールの末路を嘲笑した後、イェクトは腰掛けていた椅子から立ち上がった。
手にしていた長剣を鞘に納め、天幕から出る。
そう言えば、と背後をついてくる部下へと肩越しに視線を向けた。
「あの新参は?」
「ああ……彼でしたら」
部下の声に、軽侮の色が混じる。
「無事に、カナリスの北へと到着したようです。
どうやら人形遊びがお好みのようで、随分と多くのゴーレムを引き連れているとか」
「ふぅん。ま、アイツの出番は無いがな」
「はい」
せせら笑いながら、天幕のすぐ近くに掲げられた己の軍旗を見上げる。
―――黒地に金色の瞳。
すでに上りきった太陽の下、風を受けて翻るソレを見て口の端を吊り上げた。
「さて、では宴を始めるとするか」
「―――御心のままに」
“嘲笑う黄玉”
その名のとおり、イェクトは周囲の何もかもを見下しながら、氷の天蓋を目指して歩き始める。
敵陣に動きがあったのは、昼を前にした頃だった。
といっても、攻撃を仕掛けてきたワケではない。氷の天蓋まで五十メートルほどの位置まで前進し、再び待機に入っている。
その最前列に敵将らしき蛮族が姿を現したのを捉えて、アルトリートは目を細めた。
「あれが」
「そう。“嘲笑う黄玉”イェクト」
アルトリートの言葉に、ルネが頷いた。
金色の髪が目を惹く、派手な赤い長衣を纏った男。その腰には、一振りの長剣を帯びている。
距離があるため、その詳細まで窺うことは出来ないが、遠くからでも分かる派手派手しい格好に、ギルバールが苦笑を浮かべた。
「何というか。目に痛い男じゃの」
「確か、ウチの大司教は『金ぴかトカゲ』って呼んでたと思うよ」
「大変分かりやすい表現ですね」
イーリスがルネの言葉に感心したように頷く。
あまり緊張感のないやり取りを聞きながら、アルトリートは周囲を見回した。
(誰も脅威を感じている様子がないのは、距離があるからってワケじゃないよな)
周囲にいる者の顔には、一様にイェクトに対する敵意や嫌悪の色が浮かんでいる。
だが、その強大な力に対する警戒といったものは、ほとんど見て取ることが出来ない。
「バジリスクの視線に宿る力も遮断してるし、転移系の魔法も機能してない。
だから、絶対に突破できないと考えるのは、ごく当然だとは思うけど」
「……何か嫌な予感がするな」
レクターと顔を見合わせる。
アルトリート達がいるのは、カナリスを覆う氷の天蓋―――その壁面にほど近い位置ではある。
だが、イェクトの正面からは随分と外れているため、その表情や仕草の詳細まで捉えることは困難だ。
どこか芝居がかった大仰な仕草を見せながら、氷壁越しに人族を嘲笑う男。その姿に、アルトリートは眉をひそめた。
先程から、脳裏で警鐘が鳴り響いている。
(何だ? 何を嘲笑っている)
逆ならば解る。
せっかく大軍を引き連れてやって来たのに、結局氷の天蓋に阻まれてそれ以上何も出来ない蛮族軍。
それを指差して笑う人族の姿、というのは十分にあり得る光景だろう。
だが、その逆となると―――
「挑発のつもりか?」
「う~ん。どうだろうね」
首を傾げたアルトリートの呟きに、レクターが腕を組んで眉をひそめた。
もっとも、イェクトの意図がどうであれ、自分たちにはその行動を見守ることしか出来ないのだが。
と、派手派手しい男が剣を鞘から抜き放った。
陽光を受けて、その剣身が毒々しい光を放つ。
「なに……アレ」
―――気持ち悪い。
イェクトが振りかざした長剣。それを目にしたルネが眉をひそめて呟く。
遠目にはごくごく普通の両刃の直剣。そのハズなのに、目にしただけで湧き起こる嫌悪感は一体何なのか。
吐き気を堪えながら、アルトリートはソレを真っ直ぐに直視する。
「……やばい」
強烈な危機感が、脳裏を埋め尽くしていく。
その感覚の正しさを証明するように、イェクトの持つ長剣がその力を発揮した。
―――突如、イェクトの周囲に影が落ちる。
その手に握られた刃から闇が溢れ出した。剣を中心に生じた黒い靄が、瞬く間に周囲へ拡がっていく。
「―――ッ!!」
「何だ、アレはッ!?」
靄は、氷の天蓋に阻まれてコチラにやってくることは無い。
だが、蛮族の軍勢を飲み込むほどにまで成長したその様に、どうしようもなく不吉な予感を覚える。
固唾を呑んで経過を見つめる一同の前で、今度は渦を巻いて収束を始めた。
イェクトの剣を中心に渦を巻きながら、上空へ伸びていく黒い靄。それは、やがて一つの形を虚空に造り出した。
「巨大な、剣?」
誰かが、声を上げた。
螺旋状に収斂した靄。それが形作った物は、正しく巨大な剣だった。
百メートル近くあるかもしれない漆黒の刃。巨人ですら振ることの叶わないだろう大きさの剣が、天を衝くようにそびえ立つ。
その根元に立っているイェクトの嘲笑う声が聞こえた気がした。
『グズグズに腐れ落ちて死ねッ!! 雑魚どもが―――ッ!!』
刃が振り下ろされ、氷の天蓋に接触する。
そして―――
「――――――え?」
ルネが、目にした光景にぽかんと口を開けた。
イーリスが絶句し、ギルバールは目を剥く。
「なるほど。そりゃ嘲笑うよな」
「……神の奇跡を打ち破る魔剣とか、おかしくない?」
アルトリートは先程からのイェクトの態度に納得し、レクターは呆れ果てたような口調で呟いた。
氷の天蓋―――その一角が融け落ちる。
漆黒の刃が、呆然と見上げる神官戦士達へと叩きつけられた。
―――地面が腐食している。
ブクブクと気泡を吐き出しながら、吐き気を催すような悪臭を撒き散らす。
イェクトの正面にいた神官戦士達の姿は、どこにも見当たらない。
「そ、んな」
「馬鹿な―――、嘘だ、ありえな」
「落ち着けッ! このまま、蛮族の侵入を許すつもりかッ!!」
『……ッ!!』
骨さえ残さずに姿を消した味方の最期。
それを見て恐慌に陥りかけた一同を押し留めたのは、大司教の一喝だった。
どこからともなく響き渡ったその声を耳にして、一同の顔色が変わる。
漆黒の刃が破壊したのは、氷の天蓋のごく一部分だけだ。そこから一度に侵入できる敵の数は決して多くない。
だが、その侵入を阻むべき者は、先程の一撃で軒並み消し飛ばされている。
「お、押し返せッ!!」
『応―――ッ!!』
近くにいた神官戦士が、声を張り上げながら悪臭を放つ一角へと走り込んでいく。
それに呼応するように、他の者達も気勢を上げながら後に続いた。次々に侵入を果たす蛮族達へと斬りかかって行く。
「すげ、一瞬で立て直した」
「……大司教、前に出て来てたんだ」
姿こそ見えないが、声一つで味方の動揺を抑え込んだバトエルデン。
思わず感嘆の声を上げるアルトリートとは裏腹に、レクターは呆れたように半眼になっている。
今の彼は氷の天蓋を構築するために用いた“コール・ゴッド”の影響で、大幅に弱体化しているはずだ。
本来なら安全圏にいるべき人物の登場。そのことに呆れているらしき相棒に、アルトリートは苦笑を浮かべながら双剣を抜き放った。
気分を切り替えるため、一度深呼吸をする。
「さて、俺達はどうする?」
「氷の天蓋の一部が壊れてる今なら、すぐ近くまで“テレポート”できると思うよ」
レクターが不敵な笑みを見せながら、アルトリートを見返した。
斬り裂かれた氷の天蓋へと殺到する蛮族達のせいで、イェクトの姿を捉えることは不可能だ。
だが、上空からなら簡単に見つけることが出来るだろう。
その肩に止まっているクルーガーが、誇らしげに鳴き声を上げた。
「“テレポート”で接近してイェクトを瞬殺。即座に“テレポート”で離脱する」
無謀の一言で切り捨てられるような案だ。
三六〇度、全方位を敵が埋め尽くす状況で、『宝石バジリスク』に挑む。随分と手の込んだ自殺だなと、アルトリートは笑った。
さて、どうするかと仲間の様子を確かめる。
「先程の一撃。万が一、大司教が巻き込まれていたらと思うと、背筋が寒くなるの」
「その時点で、カナリスの未来は無くなっていたでしょうね」
ギルバールが戦棍を担ぎながら呟いた言葉に、両手に大型拳銃を持ったイーリスが同意する。
先の一撃に対する恐怖がない、などということは無い。軽く言葉を交わす二人の顔色は決して良いものではない。
だが、それでも二人は、いつでも行けるとばかりにコチラへと頷いて見せた。
「ボク達は、まだ負けてはいないよね」
ルネが、黒杖を握り締めて顔を上げる。
絶対の信頼を寄せていた女神の奇跡。それを打ち破られた衝撃はまだ残っている。
だが、その瞳から光は失われていない。
「決まりみたいだね」
「……お前ら、長生きできないぞ」
誰一人、異論はないらしい。
そのことに、レクターとアルトリートは苦笑いを浮かべて頷いた。
敵将の位置はすぐに判明した。
(うわぁ。何とあからさまな)
黒地に金色の眼が描かれた軍旗。
その周辺だけ蛮族達の姿がなく、ポッカリと空間が開いている。
その中心に、副官らしき蛮族を従えて立つ派手な衣装の男。あまりの分かり易さに、レクターは思わず苦笑を浮かべた。
それ以上近づかないよう命令を与えて、閉じていた目を開く。
「……準備はいいね?」
すでに大方の支援魔法を身に受けている四人の姿を見回して、レクターは小さく頷いた。
それでは、と呪文を唱え始める。
「真、第十三階位の転」
予想どおり氷の天蓋の一部が崩壊したことに伴い、転移系の魔法が機能するようになっている。
彼方と此方を結びつける感覚に、小さく笑みが零れた。
「瞬間、移動、空間、強化」
無事に帰って来られるだろうか、とは思わない。
今の自分はアルトリートと二人だけではなく、信頼できる仲間達がいる。
―――絶対に上手くいく。
そう確信して、レクターは魔力を解放した。
「―――“転移”」
瞬間、視界が切り替わる。
タンッ、という軽い音と共に、アルトリートが前へと飛び出すのが見えた。
その先にいるのは、言うまでも無く赤い長衣の男だ。衣装には金糸や飾り紐で装飾が施されている。
左目は眼帯に覆われて確認することが出来ないが、その右目は鮮やかな金色に輝いていた。
思った以上に派手な格好をしていることに、こんな状況にも拘らず笑みがこぼれ落ちる。
男―――イェクトが驚きに表情を歪ませた。
「―――ッ!? 貴様らッ!!」
「もらった」
十メートルほどの距離を一瞬でゼロに変えて、アルトリートの双剣が走る。
青白い光跡を虚空に刻みながら、女神の加護と魔力の風を纏った刃がイェクトの体に叩きつけられた。
瞬転、四連撃。
一瞬で全身を斬り刻まれ、血しぶきを上げながらイェクトが仰向けに倒れた。
アルトリートが即座に離脱する。
「真―――」
転移から一秒経っていない。
突然の惨劇に周囲の蛮族達は思考が停止している。今のうちと、レクターは呪文を唱え始めた。
「第十三階位の転」
「……イ、イェクト様ッ!?」
近くに立っていた女が悲鳴を上げる。黒いヴェールで顔を覆っているあたり、彼女もバジリスクなのだろう。
もしかしたら、イェクトの愛人だったりするのかも知れない。
「瞬間、移動、空間、強化―――」
何にせよ、これでお別れだ。
そう考えながら、レクターは魔力を解放しようとし―――
「ガァアアアアアア―――ッ!!」
突然、辺りに轟いたイェクトの咆哮に、思わず魔法の発動を止めた。
「し、しくじったッ!?」
「違う」
イェクトが立ち上がった。
傍らの女を押し退けながらこちらを睨む姿に、戻ってきたアルトリートが呻くように呟いた。
その言葉をルネが首を振って否定する。
「……間違いなく死んでたハズ」
「まさか……」
イーリスが強張った表情で呟いた。
その後を引継いで、レクターが口を開く。
「どうやら、レブナント化したみたいだね」
死亡直後に、レブナント化して蘇ったバジリスク。
その姿に、五人は表情を凍りつかせながら、怒りに震えるイェクトの姿を見つめた。
―――ハイレブナント。
生前の知識や記憶を保ったまま、アンデッドとして蘇った怪物に与えられる名前だ。
「コロスコロスコロス、絶対コロス―――ッ!!」
どうやら、『瞬殺して離脱作戦』は失敗らしい。
周囲の蛮族達が仕掛けてこないのは、イェクトの放つ強烈な殺気に恐れをなしているからだろうか。
咆哮を上げながら姿を転じるトパーズバジリスク。その姿にアルトリートはほぞを噛んだ。
「……アトカースを使わなかったのは、失敗だったか」
「いや、それは関係ないと思うよ。現に殺せたわけだし。むしろ切り札を残したのは正解だったかもね」
背後にいるレクターが苦笑交じりの声で応じる。
それもそうかと頷きながら、巨大なトカゲの姿に転じたイェクトの様子を窺う。
体長五メートルほどの八本足の大トカゲ。
乳白色と金色。左右異なる色合いの瞳がこちらを捉えた。
「―――ッ!!」
瞬間、わずかに重圧を感じて、アルトリートは目を細める。
“黄玉の視線”
対象をトパーズへと変えるという魔眼の力を、意識を集中して撥ね除けた。
「……ハッ」
「殺ァアアアアアアア――――――ッ!!」
何かしたかと鼻先で笑って見せれば、イェクトが苛立ったように咆哮した。
「コロスコロス、コロ―――ッ!?」
狂ったように連呼していた呪詛が唐突に途切れる。
直後、その体が一回り大きく膨れ上がった。
「グ、ギ……ガ、アアアアアアアアアアア――――――ッ!?」
体表を覆っていた鱗同士の間隔が広がり、その下の皮が裂ける。
肉が断裂し、隙間から骨が覗く。肉体の急激な変化に耐えられず、全身から血を撒き散らしながらイェクトが悲鳴を上げた。
「――――――ッ!?」
唐突に始まったイェクトの変異。
それを目の当たりにして、アルトリート達だけでなく周囲の蛮族達もが息を呑んだ。
体内で何かが暴れ回っているかのように、バジリスクの全身で隆起と陥没が繰り返される。
―――突如、その八本の脚が内側から弾け飛んだ。
「ア、ギ、ギャアアあアアアア―――ッ!!」
べちゃりと地面の上に腹ばいになり、八肢を失ったイェクトが絶叫する。
だが、彼の体の変化はそこで終わらない。弾け飛んだ脚の付け根にあたる部分が大きく隆起して―――
「うげ」
「なに、一体何がどうなって……」
ぬらぬらとした体液をまとってズルリと一斉に生えた八本の脚。
その異様さに思わず声を上げたアルトリートの傍らで、ルネが蒼褪めた表情で口元に手を当てた。
「虫の脚、かの?」
「……蜘蛛」
それを目にしてギルバールが眉をひそめ、イーリスが呻くように呟いた。
再生―――否、新生したイェクトの脚は、元の大トカゲのものとは似ても似つかない。
イーリスの言葉どおり蜘蛛のソレを思わせる細長い脚が、腹ばいになっていた大トカゲの体を持ち上げる。
「ギハッ、ギギャ、ギヒャヒャヒャヒャヒャヒャ―――ッ!!」
「……見てるだけで気がおかしくなりそう。しかも、なんだか脅威度が増してるみたいだし」
狂ったように笑うイェクトの額に、新しく魔眼が出現している。
金色に輝くそれを一瞥して、レクターがげんなりとした声をもらした。
「ハ、ハハハハハハハ―――!! グヒャハハハハハハ―――ッ!!」
「イ、イェクト様っ」
周囲に己の血を撒き散らしながら、変異を続けるおぞましい化け物。
その姿に怯むことなく、女バジリスクがイェクトへと駆け寄った。
「イェクト様、お気を確かに」
「アハハハハッ!! ヒャッハハハハハハ―――!!」
触れられる程の位置にまで近づいた彼女へと、バジリスクは笑いながら顔を向ける。
直後、金色の光が閃いた。
「……え?」
女がその場に崩れ落ちる。
頭に被っていたヴェールが取れて、素顔が露わになる。赤い髪をした女は、信じられないとばかりに目を見開いたまま、絶命していた。
さらに、その顔が―――否、その全身が溶けるように崩れ始める。
「……な」
「うそ」
イーリスとルネが呆然と声を漏らす。
腐臭が辺りを漂った。一瞬で腐れ落ちていく女の様子を見て凍り付いた場に、イェクトの馬鹿笑いが響き渡る。
「ギャハハハハハッ―――!!」
「……なん、じゃ……今のは」
ギルバールが顔を引きつらせる。
第三の瞳が放つ光線の直撃を被れば、バジリスクであっても即死するらしい。
アルトリートは小さく頭を振って、背後の相棒へと声を掛けた。
「あれ、首を刎ねたら倒せるかな?」
「……新しい頭が生えてくるんじゃないかな。多分、全身を破壊し尽さないと止まらない」
「…………」
その答えに、アルトリートはため息をつく。
「何だって、あんなデタラメなことになってるんだか」
「多分、イェクトが持っていた魔剣のせいだろうね」
「体内に取り込んだのか」
レクターの言葉に、改めてイェクトとその周囲を見回す。
魔剣の姿はどこにもない。大トカゲの姿に変ずる瞬間まで手にしていたことを考えれば、レクターの推測が正しいのだろう。
そう考えるのなら、あの化け物のコアは……
「魔剣の位置って分かるか?」
「ごめん。推測も出来ない」
「となると、やっぱり全身を破壊しないと駄目か」
やれやれと、アルトリートはため息をつき、両手の剣をしっかりと握り直した。
「先ず、俺がアレの頭を潰す。最悪でも魔眼は無力化してみせる」
「突っ込むつもり?」
「ああ。だから、皆には胴体の破壊を頼みたい」
「……アンデッドであることには変わりはないから、治癒魔法で打撃を与えられるハズだよね」
自分なら、一回くらいは何とかなる。
そう嘯いたアルトリートに、しばしの沈黙の後、ルネが自分の行動を宣言した。
イーリスとギルバールが笑いながら、各々の得物を構える。
「……では、私は左側から仕掛けましょう」
「ならば、ワシは右側じゃな」
「本当、長生きできそうにないね。私達は」
苦笑を浮かべながら、レクターが頷いた。
「“メテオ・ストライク”を撃つから、攻撃の成否に関わらず一撃離脱でよろしく。
正直、効果範囲を制御する自信がないから、下手にその場に留まると巻き込みかねない」
「了解」
彼の言葉に頷いて、アルトリートは一度周囲を見回す。
どうやら取り巻きの蛮族達は、女バジリスクの二の舞はゴメンだと考えたらしい。
戦いの邪魔をしないよう距離を取るために―――否、イェクトから逃げるために押し合いになっているその姿に、詠唱中の護衛は不要と判断する。
(ありがたいことではあるな)
もしもこちらに攻撃を仕掛けようなどと考える連中がいたら、この案は実行できなかったところだ。
そう考えながら、アルトリートは身を低くした。
その背に、レクターの手が触れる。
「“クリティカル・レイ”」
「さんきゅ」
魔剣が眩い光を帯びる。
そう言えばこれを掛けてもらったのは“不屈の騎士”以来かと、アルトリートは笑った。
「皆で帰ろうね」
『勿論』
ルネの言葉に、全員が頷く。
そして―――
「カハハハハハハ――――――ッ!! お別レは済ンだカなァアアアアアア―――っ!?」
「行くぞッ!!」
イェクトが狂ったような声を上げる。
その三つの瞳がこちらへと向いたのに反応し、アルトリートは地を蹴った。
「泣き叫べッ!! 絶望シロッ!! 死に腐レッ!! ギャハハハハハッ―――!!」
「そんなヌルい攻撃で、この剣を砕けるか―――ッ!!」
嘲笑うイェクトの魔眼から放たれた金色の光。その魔力を、“不屈の正義”が撥ね退ける。
万物を腐食させる穢れた光を、磨き抜かれた鏡の如き刃が一閃で引き裂いた。
「何ィ―――ッ!?」
驚愕に目を剥くイェクトへの間合いがゼロになる。
“魔力撃”発動。
双剣を包む“クリティカル・レイ”の光に、マナの青白い輝きが混じった。
さらに。
「―――“時よ止まれ、お前は美しい”」
“絶望を識る者”が目を覚ます。
死してなお蠢くレブナントの姿を、無様だ惨めだと嘲笑う。いい加減に諦めてしまえと、イェクトを嗤いながら漆黒の刃が唸りを上げた。
時が止まったかのような灰色の世界。その中でひとり、アルトリートは双剣を振るう。
バジリスクの額に輝く第三の魔眼を、アトカースとペルセヴェランテが十字に引き裂く。
間髪入れず、残る左右の瞳を串刺しにした。
引き抜きざまにバックステップ。一度開いた間合いを再び詰め直しながら、その大きな顎の下へと滑り込む。
「ハァッ!!」
頭上に見えるバジリスクの喉元へと、鋏のように双剣の軌跡が交差する。
黒と白の魔剣が肉を裂き、その奥にある骨へと食い込んだ。
「――――――ッ!!」
魔剣の効果が切れるのと、双剣が振り抜かれるのはほぼ同時だった。
イェクトの首が落ちる。その断面から、大量の血が噴出した。
咄嗟にその体の下から飛び退きながら、飛沫を吸い込まないように腕で口元を覆う。
バジリスクの血液は猛毒だ。レブナント化したとしても、それは変わらない。
(心臓が止まってるはずなのに、何で血が噴き出すんだろうな)
何となくそんなことを考えて後退するアルトリートの視界に、二人の仲間が映った。
「“マギスフィア起動、ショットガン・バレット装填”」
イーリスが、二挺の大型拳銃を大トカゲへと突き付ける。
連続して銃声が轟いた。
ばら撒かれた大量の弾丸が、脚の一本を引き千切り、さらにその胴体へと幾つもの孔を穿つ。
「―――っ!!」
ギルバールが、独特の呼吸を用いて己の身体能力を引上げる。
“キャッツアイ”の効果を受け、猫のように瞳孔が細まった目で標的をしっかりと見定める。
「ぬんッ!!」
鎧の下で筋肉が膨れ上がる。“マッスルベアー”により瞬間的に上昇した膂力の全てを用いて、彼は手にした戦棍をフルスイングした。
軌道上にあった脚を叩き折り、その勢いのまま胴体へと強烈な一撃をぶつける。
伝播した衝撃が体内で荒れ狂い、バジリスクの体に刻まれている無数の傷口から血が噴出した。
「塵は塵に、灰は灰にっ! 死してなお蠢くモノに、女神の慈悲を以て正しき終焉を!!」
アルトリートの背後で、ルネが祈りの言葉を高らかに謳い上げた。
“キュア・インジャリー”
本来は、傷ついた者達を癒すための力だが、アンデッドに対しては致命の炎に変わる。
イェクトの全身が煙を上げながら崩壊を始めた。
「“コンセントレーション”」
即座に離脱を開始した仲間たちの姿を見ながら、レクターが呪文を唱える。
マテリアルカードが生んだ煌きの中、全神経を集中して魔力を紡ぎ上げていく。
「真、第十五階位の攻。強化、召喚、衝撃、破壊―――“隕石”!!」
“メテオ・ストライク”
天を引き裂いて星が落ちてくる。
幾条もの赤い火線がイェクトへと殺到し、着弾と同時に轟音が響き渡った。
土砂が巻き上がり、バジリスクの姿が見えなくなる。辺りを一掃するが如く吹き荒れる暴風に、周囲の蛮族達が悲鳴を上げた。
(これで駄目ならどうしようもないな)
身を低くして荒れ狂う風に耐えながら、アルトリートは祈るような気持ちでイェクトのいた辺りへと視線を向けた。
暴風が止み、土煙が晴れる。
「…………」
レクターの必死の制御により、ほぼ一点に降り注いだ隕石の落下地点。
幾つもの小規模なクレーターが重なり合うようにして残されたその場所には、おぞましく変異したバジリスクの姿はない。
吹き飛んだのか、それとも―――
「……魔剣」
破壊の爪痕の中心に剣が突き立っているのを捉えて、アルトリートは目を細める。
イェクトが持っていた魔剣だ。
その剣身には、無数の罅が入っている。
「あっ」
誰かが声を上げた。
魔剣が突如、黒い靄へと姿を変えたためだ。
氷の天蓋が破られた時のことを連想し、アルトリート達は咄嗟に身を硬くする。
だが、黒い靄は特に何らかの動きを見せることはなく、急速にその存在を薄れさせ始め―――やがて、幻であったかのように消え失せた。
『…………』
沈黙が落ちる。
先程の“メテオ・ストライク”の影響で、この周辺だけでなく戦場全体の動きが止まっているらしい。
どうしたら良いのか分からない。そんな空気が漂う中、アルトリートはその場に立ち上がり周囲を睥睨するように見回した。
声を張り上げる。
「主の後を追いたい者は掛かって来いッ!! すぐに同じ場所へと送ってやろうッ―――!!」
『―――ッ!!』
その言葉に、自己を奮い立たせて挑む者の姿はなく―――
代わりに、蛮族達は泡を食って我先にと逃げ出し始めた。
“嘲笑う黄玉”イェクトの撃破。
その情報が敵味方全てに広がるのに、さほどの時間は掛からなかった。
ほどなくてして、攻守が逆転する。
氷の天蓋を破られ消沈しかけていた反動もあり、一気に士気が跳ね上がった神官戦士達の猛攻。
それを突然の凶報に浮き足立つ蛮族達が受け止められるハズもなく―――
「……やれやれ、これは本格的に破産の危機だな」
「首が回らなくなりそうね」
壊走を始めたイェクトの軍勢を城壁の上から見下ろして、バトエルデンは苦笑いを浮かべた。
傍らでクスクスと笑う少女に、「お前の負債でもあるんだが」とため息をつきながらコメカミに手を当てる。
(……今回は本当に危なかった)
先ほどまでの危機的な状況を思い返し、バトエルデンは眉間に皺を寄せた。
氷の天蓋が破られたことが問題なのではない。
たとえ神の力によって造られた防壁であったとしても、絶対ではない。
同等以上の神の力や第四世代あたりまでの魔剣の力ならば、突破は十分に可能となる。
つまり、今回のような事態は決して起こりえないことではないのだ。
ゆえに問題とすべきは―――
(氷の天蓋が突破されることはあり得ない、そう考えていた我々の油断だな)
万が一、氷の天蓋が突破された時のことを考えて配置していた戦力は、最大動員数の三分の一程度。
事態の急変に即応できるよう待機させていた者達を含めても、せいぜい半分程度。
本当に氷の天蓋が突破されるような事態になった場合、とてもではないが敵の攻撃を押し留めることは出来ない。
(だが、誰もそれを問題として認識していなかった)
事態の変化に即応できなければ、反撃の機会を逸することになる。
そういった指摘はあったものの、『もしも突破されたら』などと考える者は皆無に等しかったのだ。
(だから、その『もしも』が現実になった瞬間、皆の思考が停止した)
あと数秒でも対応が遅れていたら、そのまま戦意を喪失していたかもしれない。
前線に出ると周りがうるさいため、コッソリと城壁の上から様子を見ていたのだが、もしも神殿に居たままだったらと思うと背筋が冷たくなる。
(俺がいなくとも、他の誰かが声を上げていただろうが……)
その場合、果たして自分の一喝と同じだけの効果をもたらしただろうか。
そう考えて、己の思考にバトエルデンは小さく舌打ちをした。
「……俺も含めて意識を変える必要があるな」
「うん。この国を守っているのは、みんなの力なんだってもう一度確認し直さないと」
リアが頷いた。
この国を守っているのは、女神や大司教のような一部の超越者達だけではない。
そうした者達も単なる一要素という意味では、他の大勢の者達と何ら変わるところはないのだ。
それを忘れて一部の者に依存するようになってしまえば、この国はいずれ破綻するだろう。
「この国がこれからも成長を続けようというのなら、一部の者の力に頼らぬ強さを得なければならないだろうな」
「うん。……わたしとしては、ちょっと寂しいけどね」
「別に、お前のことを軽視するというわけではない。
皆がお前のことを忘れることはあり得ないし、あったとしてもソレは何百年も先の話だろうよ」
俯いた少女の頭に手をのせる。
サラサラとした感触に目を細めながら、バトエルデンは下方から前方へと視線を動かした。
と、視界の端に一つの影を捉える。
(……フン。イェクトとの腐れ縁はこれで終いだが、フォリマー方面に現れた連中とはこれからか)
ドレイク。
背に竜の翼を広げた人型のシルエット。それを睨みながら、大司教は内心で鼻を鳴らした。
一難去ってまた一難。
これから先、この国に何らかの形で災厄をもたらだろう新手の存在に、彼は辟易としたものを覚えながらため息をついた。
連中との因縁を断ち切るのもアルトリート達なのだろうか。
それとも―――
何にせよ、それはまた別の話になるのだろう。
こちらの視線に気が付いたのか、北へと向かって飛び去っていく影から視線を逸らし、バトエルデンは小さく頭を振った。
バサリと翼を空打って、自軍の本陣へと帰還する。
地面に降り立つと同時に、ダークトロールの男が駆け寄って来た。
「アスフォード様!! お怪我はっ!?」
「単に物見に行って来ただけだ。あるワケがないだろう」
ダークトロールの男―――アーヴィスに苦笑を返しながら、アスフォードは己の天幕へと向かい足を進める。
追従する彼へと口を開いた。
「全軍に通達しろ。撤退する」
「……撤退、ですか?」
「そう、撤退だ。……イェクトが討たれた。すぐに敵の大反攻が始まる」
「―――ッ!!」
アーヴィスが息を呑んだ。アスフォードは言葉を続ける。
「急げ。モタモタしていたら、こちらも混乱に巻き込まれて連中と心中する羽目になるぞ」
「―――ハッ!!」
硬い表情を浮かべてアーヴィスが離れる。
伝令を呼ぶ彼の声を聞きながら、アスフォードは先ほど目にした光景を思い出す。
(あれ程の魔剣を手にしていながら敗北するとは、所詮はバジリスクか)
顔をしかめながら目を閉じる。
今回の戦、自分が主導権を握っていたなら確実に勝てたハズだ。そう考え、舌打ちをもらした。
空しい妄想をしても仕方がない。何を言おうとも、今の現状こそが全てだ。
今回の戦で自分が失ったものは、三百もの兵と四体の改造型アイアンゴーレム。
逆に得たものは―――
「……結局、ヤツに良いように振り回されて戦力を消耗しただけか、馬鹿馬鹿しいッ!」
吐き捨てるように呟く。
ハインラト地方からフェイダンへと拠点を移したものの、その結果は散々なものとなっている。
弟を失い、バジリスクの遊びに踊らされ、だが己の勢力は全く拡大出来ていない。
「……だが、それでも得たものはある」
苦々しげに表情を歪めながら、アスフォードは本陣の四方に配置された四体のゴーレムを見回した。
改造型アイアンゴーレムよりも更に大きな巨体。その材質は、鋼よりも遥かに強固な金属―――ミスリルだ。
単純な戦闘能力だけで考えれば、己よりも強大な力を持った魔法文明期の遺産。
「そして―――」
シャイアを失うこととなった遺跡で手に入れた知識。
それを使いこなすことが出来れば、失った戦力の補充どころではない。付近の勢力図をたやすく一変させることが出来るだろう。
―――見ているがいい。いずれ、このルーフェリアだけでなくフェイダン地方全域を跪かせてみせる。
アスフォードは黄地に赤の双竜―――己が軍旗を見上げながら、己が魂に刻み込むように誓いを口にした。
蛮族による大侵攻を退けてから、およそ二週間。
国内に潜伏する残党の掃討や破壊された街の復旧など、やるべきことは山積しているものの、国内はようやく落ち着きを取り戻しつつあった。
「……はぁ」
田園地帯の南に新たに設置し直された物見櫓。その上で、ティエリは小さくため息をつく。
それを聞きとがめたのか、傍らで自分が見ていた方向とは逆―――北側に広がる田園の様子を見ていた先輩が、手にしていた望遠鏡を下ろした。
「どうした。不景気な顔をして」
「あ……いえ、その」
「何か思うところがあるのなら聞くぞ」
「……実は」
望遠鏡を傍らに置いて視線を向ける先輩に、ティエリは一瞬言い淀む。
だが、小さく息を吸うと意を決したように口を開いた。
「俺は、その……これでもこの国を守る力の一端を担っていると、自負しています」
「うん。そのとおりだな。確か、大司教も同じことを言っていたか」
「はい」
『女神の奇跡も、英雄達の働きも、君達の力なくして意味を成すことは無かった。
胸を張って欲しい。君達こそが、この国を守り抜いたのだと』
本神殿―――大聖堂に集まった神官達に対して向けて発せられた言葉。
それを思い出したティエリの表情は、だが決して明るくない。
「ですが、今回の戦いを思い返してみた時、俺の存在は果たしてどれほどの意味があったのか、と」
「ふむ」
カナリスを丸ごと包み込む氷の天蓋。生まれて初めて目にした奇跡を思い出す。
“大破局”から約三百年。ずっとこの国を守り続けてきた女神の力の一端。あれに比べれば、自分の働きなど誤差の範疇だ。
確かに破られはしたものの、その偉大さに瑕が付いたとは思えない。
そして、その天蓋が破られ、動揺する自分達に力を与えてくれたのは大司教の一喝で、危機的な状況を引っくり返したのはイェクトを討った冒険者達だ。
そう続けるティエリの言葉を聞いて、先輩はなるほどと頷いた。
「セラスやラウルス、シルエアも似たようなことを口にしていたが……」
「あの三人も?」
「正確には、今回初めて大規模な侵攻を経験することになった若手のほとんど、だな」
考えることは皆同じだなと、先輩が苦笑を浮かべた。
「……あの、それで先輩は何と?」
「馬鹿め、と答えてやった」
「…………」
あんまりな答えに、ティエリは言葉に詰まる。
視線の先で、先輩が腕を組みながら言葉を続けた。
「氷の天蓋は、カナリスに避難の必要な人々を収容してこそ意味があるものだ。
ならば、村人達の護衛として動いたお前たちの働きが、無意味な物であるハズがないだろう」
「……ですが」
「避難の途中で冒険者に救われた、か?」
「はい」
先輩がため息をついた。
「助けを得られるまで、村人達を守っていたのは誰だ?
お前達がいなければ、冒険者達の到着は間に合わなかっただろう。
それとも、一から十まで全てやり遂げなければ、関わった者の行動は意味を失うのか?」
「…………」
「ならば、この戦いで斃れた者達の奮戦は無意味ということか」
「そんなことはっ!!」
ない。そう続けたティエリに、先輩は頷く。
「あたりまえだ。そんなワケがあるか。
彼等の働きがあるから今の私達があって、そして平和を取り戻した今のこの国の姿がある」
もう一度ため息をつきながら、先輩は「確かに」と呟いた。
「イェクトを討った冒険者や大司教達の働きはとても大きい。だが、それだけでこの国が救われたなどということはない」
カナリスまで人々が逃げる時間を稼いだのは誰か。
後退してくる友軍の救援に向かったのは誰か。
氷の天蓋が破られた後、怒涛のように押し寄せる猛攻に耐え続けたのは誰か。
冒険者達がイェクトを討った後、蛮族どもに体勢を立て直す暇を与えず追い散らしたのは誰か。
目を閉じて、先輩は腕を組む。
「……全体に比して、いや、英雄と呼ばれるような者達と比しても、私達一人一人が為したことは小さいかもしれない。
だが、それで為したことの意味が失われることはない。価値が損なわれることもない」
―――百人救った者と比べて、自分は一人しか救っていない。だから、自分はいなくても良かったのではないか。
そんな馬鹿な考えがあるかと、先輩は首を振った。
閉じていた目を開き、真っ直ぐに自分の目を見据えて告げられた言葉に、ティエリは何も言い返せない。
当たり前だ。本当は誰かにそう言って欲しかったのだから。
「……それに、お前は彼等に同じことを言えるか?」
「え? ……あれは」
笑いながら、先輩が物見櫓の下方へと視線を向ける。
同じように視線を向けて、ティエリは小さく声を漏らした。
「努々忘れないことだ。ティエリ・フィエリテ。
お前の働きは、無意味でも無価値でもない。その証拠、その一端が彼等の姿だ」
先輩の言葉はティエリの耳を素通りしていた。
「国境神殿のティエリ侍祭さまがコチラに居られると聞いたので……ああ、侍祭さま! 先日は大変お世話になりましたっ!!」
そう言って、笑顔を見せてくれたのは―――
―――弔いの鐘が鳴り響く。
蛮族の侵攻が、ここ数十年で最大規模のものであったことを鑑みると、被害は驚異的といって良いほどに小さく抑えられている。
だが、それで大切な誰かを失った人々の悲しみが減ずるわけではない。
失われた命の一つ一つがかけがえの無いもので、それを唐突に奪われた悲しみはとても深い。
それは、生涯癒えることのない傷として残るのだろう。
「それでも、ずっと涙に暮れているわけにはいかないから」
こうして失われた人々を送り出して、気持ちの整理をつけるのだ。
そう呟くルネの言葉を聞きながら、アルトリートは幾つもの小さな灯りに照らされた夜の河を見つめる。
花で飾った小さな舟に明かりを灯した蝋燭を一つ乗せて、エルリュート湖へと注ぐ河へと流す。
―――この戦いで失われた者達の魂が、無事に女神の御許へと辿り付けますように。
そんな祈りを込めて、この国の中心―――エルリュート湖へと通ずる水先を仄かに照らす。
「……これから大変だよね」
「残党の掃討、破壊された街や荒らされた田園の復旧……やるべきことは多いからの」
「大丈夫ですよ」
「うん。大丈夫」
レクターとギルバールの言葉に、イーリスとルネが微笑んだ。
彼女達はこのルーフェリアの住人だ。だからこそ、確信を持って大丈夫だと断言する。
「確かに大変ではあるけれど、ボク達は一人じゃないからね」
「これくらいで、というと語弊がありますが、この国の人々はこれくらいで参ったりはしません」
「……たくましいな」
アルトリートは小さく笑った。
へこたれることのないその気質こそが、孤立した小国を守り続けた力の正体なのかもしれない。
「ところで―――」
ふと、ルネが首を傾げた。
「本当に良かったの? みんなのことを表に出さなくて」
「うん。私とアルトリートに関しては、そうしてくれた方がありがたいかな」
「変に名前が売れ過ぎると、面倒ごとに巻き込まれそうだしな」
「ワシも英雄などというガラではないからの」
「あまり興味がありませんので」
イェクトを討ったアルトリート達の名前は、一般には公表されていない。
民に無用な心配を抱かせないよう、氷の天蓋の破壊について緘口令が敷かれたことに伴い、イェクト撃破に関する下りも事実とは異なる形に改変されたためだ。
『敵の隙を見て、氷の天蓋を解除して一斉攻撃。その乾坤一擲の攻撃によって、敵将イェクトを撃破』
公表された戦いの顛末はそんな筋書きで、さらにイェクトを撃破したのはルーフェリアの神官戦士ということになっている。
もっとも、その部分に関しては、アルトリート達の意向が反映された結果だったりするのだが……
「ま、みんなが良いなら問題はないんだけど」
揃って首を振る一同の姿に、自分達のことを伏せるようレクターに頼まれた上司の顔を思い出したのか、ルネが苦笑を浮かべた。
神殿内ではすでに名前が知れ渡っているためどうしようもないが、外部には公表しないようにする。
そう約束した大司教の顔は、有り体に言って物凄く嫌そうだった。
「大司教は頭を抱えていたみたいだけどね。みんなの功績に対して、どうやって報いればいいだろうか、って」
「私としては、報酬に加えて消耗品の補充をしてくれるってだけで十分なんだけどね」
「ああ……あれはあれで顔色を悪くしてたみたいだけど」
レクターが湯水のように使ったマテリアルカード。
その補充のため、神殿の年間予算の幾割かが吹っ飛びかねないらしい。
クスクスと笑いながら続けた高司祭の言葉を聞いて、アルトリートは心中でバトエルデンに手を合わせた。
「いずれ、何らかの形で助けを求めることがあるだろうから、その時をお楽しみにと伝えてくれ」
「それはそれで大司教の胃に負担が掛かりそうだね。ま、穴が空くことは無いだろうけど」
伝えておくと頷くルネに、アルトリートはよろしくと笑う。
いずれ、本当に無茶なお願いをすることになるだろう。
何となく騙しているような気がして少し後ろめたいが、とりあえず気にしないことにする。
「さて、じゃあそろそろ“水晶の欠片亭”に戻るか」
「そうだね」
「……ね。みんなは、これからもこの国で冒険者を続けるんだよね」
軽く伸びをしながら宿に戻ることを提案すると、一つ確認するようにルネが問いを投げ掛けてきた。
その意図がよく分からずに、頷く。
「そのつもりだけど」
「そっか。もし良かったら、これからもみんなに同行させてもらっても良いかな?」
少しだけ緊張した様子のルネの言葉。
それを聞いて、アルトリートは今更ながらに彼女の立場を思い出す。
ルネはアルトリート達のパーティーメンバーというワケではない。単に神殿からの依頼を伝え、そのまま同行していただけなのだ。
忘れていたと苦笑しながら、一つだけ尋ねる。
「神殿の方は良いのか?」
「うん。大司教から許可は貰ってるから。
ちゃんと休職届けも出して来たし、これからはお仕事抜きで冒険者できるよ」
ならば答えは考えるまでもない。
一瞬だけ視線を交し合った後、アルトリート達は笑みを浮かべながら頷いた。
『今後とも、どうぞよろしく』
訳が分からないまま、この世界―――ラクシアに放り出されたアルトリートとレクター。
最初は二人きりだった彼等にギルバールが加わって、イーリスが参加した。そして今回、正式にルネが仲間となる。
ふと気が付けば、失いたくないものが沢山出来ていた。
(いつの間にやら、しがらみだらけだな)
何となくそんなことを思って空を見上げる。
星空を見つめながら、アルトリートは小さく笑った。
―――こういう束縛なら悪くは無い。
誰かと繋がりがあるという喜びに目を細めながら、アルトリートは仲間達の方へと視線を戻した。
「それじゃ、ボク達のパーティー名を決めないとね」
「ふむ。何が良かろうかの」
「私達のこれまでの行動を振り返ると……“鉄砲玉”というのは、どうでしょうか?」
「……アルトリートはどう思う?」
いつの間にやらパーティー名を決めようとかいう話になっていたらしい。
レクターがこちらへと水を向ける。
それを受けて、アルトリートはしばし黙考した。
「ええと、ぞんざ―――」
「却下!!」
彼等の冒険は、もう少しだけ続く。