ルーフェリア王国の首都カナリスの南には、広大な田園地帯が広がっている。
エルリュート湖へと注ぐ大小の河から引き込んだ豊富な水と、西にある白竜山の地熱が作り出す比較的温暖な環境。そして、その地に住まう人々の愛情―――
それらを糧に、王国最大の穀倉地帯として人々の生活を支え続けている。
毎年、秋になるとたわわに実った稲穂が連なり、さながら金色の海のごとき光景が広がるという。
その美しさは、“女神の涙”と讃えられるエルリュート湖にも決して劣らないと、この地を耕す者達は胸を張る。
「今年も十分な収穫が期待できそうだな」
「ええ。本当に」
青々と伸びた稲が形作る絨毯。
薄明の中に広がるその光景を、物見櫓の上から眺める。
この分なら、今年も視界一面に広がる黄金を目にすることができるだろう。
この地の守護者たる任を与えられて、そろそろ五年。
もはや、毎年の楽しみとなっているその光景を思い浮かべて、青年―――ティエリは傍らに立つ先輩の言葉に頬を緩ませる。
「……じきにコソドロどもも動き出す。私達も気合を入れ直す必要があるな」
「はい」
表情を引き締める先輩と、顔を見合わせて頷いた。
毎年、収穫の時期が近づくと、日課のように繰り返しているやり取りだ。
だが、それを滑稽と思うことはない。
それだけ大切なことだとティエリは考えている。
この地域には、毎年秋になると蛮族達が数多く出没することになる。
ようやく実った恵みを横から掠め取るためだ。
それに対抗するため、神殿も重点的に戦力を配置し、日ごろから蛮族の侵入に備えている。
加えて、収穫の季節になれば、本神殿の神官戦士達も多数動員して一帯の警備にあたっているのだが、それでも蛮族どもの出没が絶えることは無い。
懲りもせずやって来る連中の下卑た笑い声を思い出して、ティエリは顔をしかめた。
「今年は、例年以上に蛮族達の動きが活発化しているという話ですから」
「ああ。いつも以上に気を―――」
「……? どうかしま……なっ!?」
北に広がる田園から、南―――国境方面へと視線を戻した先輩が途中で言葉を切った。
その様子に同じ方向へと顔を向け、遠目に捉えた光景に思わず目を剥いた。
「至急連絡を!!」
「はいっ!!」
先輩が角笛を取り出す。
低い音が辺りに響き渡るのを耳にしながら、ほとんど飛び降りるようにして物見櫓を後にする。
近くに繋いでいた馬に飛び乗り、いささか乱暴に拍車をかけた。
(急げ急げ急げ―――!!)
脇目も振らずに全力で馬を駆けさせる。
その背後には、大挙して国境線を越えてくる蛮族達の姿があった。
―――目が覚めたら、日が暮れかかっていた。
「……どれだけ寝てたんだ。俺は」
窓の外に広がる赤く染まった空。それを、しばし呆然と眺めてアルトリートは呻いた。
どうやら自分で思っていた以上に消耗していたらしい。
緊迫しきった状況の中、無防備に爆睡していた自分に呆れを覚える。
「街は……」
窓から顔を出して様子を窺えば、どこか騒然とした空気を感じる。
視線を下へと向けると、ちょうど冒険者らしき風体の輩が通り過ぎていくのが見えた。
「……そういえば、炊き出しってどこでやってるんだろうな」
空腹を覚えて、アルトリートは今朝のことを思い出しながら、ポツリと呟いた。
リッタが大鍋を店の外に運び出している。
コボルドの店員であるエンクや、店の常連客の手を借りて台車に積み込もうとするその姿を見て、アルトリートは首を傾げた。
「ああ、おかえり! ……うん。ちゃんと五人で帰ってきたようだね」
「勿論です。ところで、それは?」
「うん?」
こちらを見て表情を綻ばせる店の女将に、レクターが怪訝そうな声を出す。
彼女は軽く笑って大鍋をパシンと叩いた。
「炊き出しの準備だよ。これから半日もすれば、避難してきた人も増えてくるだろうしね」
「……もう侵攻の話が広まってるのか」
準備は早い内にしないと。そう続ける彼女に、アルトリートは目を細める。
“神託”があってから、まだ一時間も経っていないハズだ。
神殿関係者ならばともかく、一般の人間に情報が広がるのはもう少し先のことかと思っていたのだが。
「冒険者の店には戦力になる者がいるからね。
この手の非常時には、優先的に情報が回ってくるんだよ」
「……なるほど」
彼女の言葉に、アルトリートは頷いた。
確かに、神殿が自前以外の戦力を確保しようと考えるのなら、冒険者の店へと声を掛けないハズがない。
だから、リッタの言うとおり、早い段階で情報が回ってくることはそれほどおかしいことではないのだろう。
それにしても少し早すぎる気がするが。
(それだけ神殿の動きが早いのか、リッタさんの手腕が優れているのか、若しくはその両方といったところか)
もしかしたら、彼女も“神託”を受け取れる身だったりするのかも知れない。
「……さて、ボクは神殿に戻るよ」
「ワシらも一緒に行った方が良いのではないか?」
「ううん。今、神殿に来てもらっても、何もお願いできないから」
ギルバールの言葉に、ルネが首を振る。
まだ情報が錯綜しており、冒険者に依頼を行うどころではないらしい。
また、下手に冒険者が動くと、さらに状況が混乱する可能性がある。ある程度整理が付くまでは、神殿戦力のみで対応するとのことだった。
それに、と彼女は苦笑を浮かべた。疲れきった四人の姿を見る。
「皆は一戦やってきたばかりだからね。しっかり休んでもらわないと。
……今日の夜、もう一度ここに顔を出すから―――」
力を貸してもらえるのなら、その時に一緒に神殿に来て欲しい。
彼女はそう続けて、アルトリート達に背を向けた。
「……そういえば、まだ神殿に行ったことなかったね」
「“テレポート”で送るのは無理か……」
アルトリートとレクターは、まだルーフェリア本神殿に行ったことが無い。
意図的に近づかないようにしていたことが、こんな所で祟るとは思っていなかった。
遠ざかっていく背中を見つめながら、相棒が舌打ちをする。
「出来ないことを悔いても仕方があるまい。
今は、体力を回復させることに専念しよう。それがワシらの仕事じゃろうて」
「特に、レクター様はお顔の色が優れません。すぐにお休みになられた方が良いかと」
「そうそう。あんた達は、早いこと部屋に戻って寝ときなさい」
「…………」
パーティーメンバーとリッタの言葉に、アルトリートとレクターは顔を見合わせる。
苦笑交じりにため息をついて、二人は頷いた。
階段を下りながら、欠伸を噛み殺す。
(休んで正解だったんだろうな)
これだけ爆睡したということは。
そう考えながらも、何だか格好が悪い気がしてアルトリートは顔をしかめた。
「やれやれ、我ながら緊張感の……と、ギルバール?」
「おお。起きたか」
「二人は?」
「双方共にまだ下りて来ておらんよ」
「そっか」
一階の食堂にはギルバールの姿があった。
どうやら武器の手入れをしていたらしい。彼はこちらの姿を捉えると小さく笑いながら、手にしていた戦棍を置いた。
「……何度も聞いてアレだが、ヴィカーズの魔剣は本当に良かったのか?」
「うむ。アレは、ワシでは使いこなせん」
国境神殿の面々へと引き渡したヴィカーズの魔剣。
両手持ちの武器であるし、当初はギルバールに渡すつもりだったのだが、彼はアッサリとそれを固辞している。
そのことを思い出し、今更と思いながらも問うたアルトリートに、ギルバールはカカカと笑いながら愛用の戦棍へと触れた。
「使いこなせぬ武器を手にするよりは、こやつを用いるほうが選択としては正しかろうて」
「そうか」
しつこくて悪かったと謝りながら、アルトリートは彼の隣の椅子へと座った。
しばし、店内の様子を眺める。
厨房の入り口辺りにコボルドの店員が佇んでいるのに気が付いた。何やら、外の様子を気にしているようだ。
「エンクは炊き出しに……って、行くわけが無いか」
「この状況じゃからの。下手に外を歩けば、それだけで揉め事が起こるじゃろうな」
「揉め事程度で済むなら、まだマシだろうな」
最悪の場合、暴発した者達によってエンクが殺されるなどという事態すらあり得る。
アルトリートは、ギルバールの言葉に苦い表情を浮かべた。
(俺達は、エンクのことを知っているから何とも思わないが……)
そうではない者の目には、街に侵入した蛮族に映ったとしても仕方が無いだろう。
たとえ彼を知る者が庇ったとしても、蛮族はどこまで行っても蛮族だと考える者達は聞く耳など持つまい。
まして、今はその蛮族達から攻撃を受けている真っ最中だ。
こちらを騙すための演技だと誰かが声高に唱えれば、それに同調する者の数は決して少なくないだろう。
「……面倒なことだな。蛮族狩りとかに発展しないと良いが」
「こういう状況じゃと、あり得んとは言えぬのが恐ろしいの」
不安そうな様子のコボルドの姿に、アルトリートはため息をついた。
「心に余裕がない時は、本当に些細なことで諍いが起きるからの。
ワシらも気をつけねばならん。……ただ」
「……?」
先程まで難しい表情を浮かべていたギルバールが笑う。
その厳つい顔には、どこか感心したような色が浮かんでいた。
「先程、少しばかり街の様子を見て回ったのじゃが、皆、意外と落ち着いた様子じゃったよ」
「……そうか」
最寄の神殿―――“賢神”キルヒアを祀る神殿で行われた炊き出しも、整然とした様子でどこか手慣れた感さえあったという。
その言葉にアルトリートは、ああ、と小さく声を上げた。
「そういえば……ルーフェリアはこの手の事態には慣れてるんだったか」
「む、そうなのか?」
「五十年前まで完全に孤立してた国だからな。
確か、こうした事態に備えて、保存食などの備蓄も日頃から欠かさないようにしてる、とか」
あと、避難してきた知人などを収容するため、カナリスの家は皆一様に大きく造られているらしい。
そう続けたアルトリートの言葉に、ギルバールはなるほどと頷いた。
“大破局”から開国までの約二五〇年。
ルーフェリアは、蛮族の勢力圏のど真ん中に孤立しながらも、互いに助け合いながら危難を越えてきた歴史を持つ。
あまり、心配する必要はないのかも知れない。
「良い国じゃな」
「俺もそう思う」
頷いて、アルトリートは少しだけ楽観的に考えることにした。
エルリュート湖の畔。美しい湖の青を背にして建てられた白亜の神殿。
緑と水に彩られた前庭を抜けた先に建つ荘厳な建物に、レクターは小さく息を呑む。
「これは、凄いね」
「うむ。見事じゃな」
すでに日は暮れている。だが、至るところで焚かれている篝火のおかげで、その威容をハッキリと捉えることが出来た。
今が昼であったなら、さらに目を楽しませることが出来ただろう。
レクターは、そのことを少しだけ残念に思う。
「今度、ボクが案内してあげるから、見学はその時にしてもらえると助かるかな」
「スマン。思わず見蕩れてしもうた」
「同じく。ゴメン」
先頭に立つルネの言葉に、ギルバールと二人して頭を下げる。
相棒の方へと視線を向ければ、彼もまたバツの悪そうな表情を浮かべていた。
どうやら、自分と同じように見入っていたらしい。
「そういう反応をしてもらえると、ボクとしては凄く嬉しいんだけどね」
「あまり時間があるとも言えないようですし、参りましょうか」
イーリスの言葉に頷いて、一同はルーフェリア本神殿の中へと足を踏み入れた。
神官戦士が守る扉を潜り、神殿の奥へと進む。
等間隔に設置された燭台の明かりにより、十分な光量が確保された廊下を神官達が行き来している。
一同とすれ違い、または追い越していく彼らの顔は一様に険しい。
走ることこそしないものの、足早で進むその姿を見れば、今の状況がどんなものくらいかは何となく想像できる。
当たり前の話だが、未だ緊迫した状況が続いているらしい。
(……絶望的な状況じゃないことを祈ろう)
通路を真っ直ぐに進むルネの背を見つめながら、レクターは小さく祈りを捧げる。
そうこうしている内に、目的の部屋へと着いたようだ。
ちょうど部屋から出てきた神官と二言三言話をし、ルネがゆっくりと扉をノックした。
「……大司教、ルネ・フランセットです。先のカッタバの件でご協力いただいた冒険者をご案内しました」
「入りなさい」
扉の向こう側から、落ち着いた低い声が返ってくる。
知らずレクターの体が強張る。ちらりと視線を動かせば、相棒の剣士もどこか張り詰めた表情を浮かべていた。
大司教―――バトエルデン・エラー。
ここルーフェリア神殿における最高責任者であり、女神ルーフェリアと並ぶこの国の守護者だ。
アルトリートとレクターが知る限り、この世界における最強の人族の一人。
そして、二人がこれまで神殿に近づかなかった理由―――出来れば会いたくなかった相手でもある。
遠くから見てみたいという気持ちは、大変強かったのだが。
(神殿に来た時点で、ある程度は覚悟してたんだけど)
忙しいので、部下の人から命令書を渡されておしまい。
そんな展開を期待していたのだが、そうもいかないらしい。
「失礼します」
ルネが静かに扉を開いた。
レクターはゆっくりと深呼吸をする。そして、彼女の後に続いて“湖の大司教”の執務室へと入室した。
「はじめまして。バトエルデン・エラーだ。よろしく」
部屋の中ほどに立ち、一同を迎え入れた男はそう名乗って頭を下げた。
長い黒髪を頭の後ろで縛った中年の男だ。
ルネとは逆の意味でエルフらしくない―――神官服の上からでも見て取れる徹底的に鍛え上げられた鋼の体躯は、並大抵の事ではビクともしないだろう。
また、その身から感じ取れる魔力は、穏やかながら底が見えず―――さながら大海のそれを想起させる。
その立ち振る舞いには隙はなく、長年に渡って磨き上げられてきた技の片鱗を窺うことが出来た。
だが、そういった諸々とは別に―――
(……ああ、これはだめだ)
勝てない。
元より戦うつもりなど毛頭ないが、レクターは内心で呟く。
総経験点や取得技能、能力値―――そういった諸々のスペックがどうと言う次元の話ではない。
三百年に渡りこの国を守り続けてきた男だ。格が、器が違う。
真っ直ぐに向き合っているだけで、疲弊する。思わず膝をつきたくなる衝動を堪え、レクターは脚に力を込めて踏ん張った。
「そう硬くならないでくれ」
緊張していたのは、レクターだけではなかったらしい。
バトエルデンが苦笑を浮かべながら、強張った表情を浮かべているアルトリートやギルバールに声を掛ける。
全員に椅子を勧めた後、彼はもう一度頭を下げた。
「先ずは、改めて礼を言わなければならないな。
ゴーシャの村の一件、そして先の“金剛剣”の撃破。共に君たちのおかげで、随分と被害を抑えることが出来た」
「……あ、いえ」
えらく簡単に頭を下げる神殿最高位に、上手く言葉が出てこないレクター達。
そんな一同に小さく頷いて見せ、バトエルデンは言葉を続ける。その視線が、アルトリートとレクターへと向けられた。
「そして、君たち二人にはさらに礼を言わなければならない」
カッタバの村の近く築かれていた前哨基地。
オルミの町に潜入していた蛮族の工作部隊。
共に、放置していれば大変なことになっただろう。そう続ける大司教に、アルトリートが首を振る。
「あれは、成り行き上で……」
「それでも、為したことに変わりは無い。胸を張ってくれ、君たちはそれだけのことをしている」
「…………」
その言葉に、アルトリートが微妙な表情で黙り込んだ。
さもありなん、とレクターは思う。
カッタバはともかくとして、オルミの件はあまり褒められたことではないからだ。
酔った勢いでやらかした事柄を賞賛されても、アルトリートとしては嬉しくあるまい。
(結果オーライだっただけで、一歩間違えれば檻の中だもんね)
顔には出さずに苦笑する。
「さて……スマンがあまり時間がない。そろそろ本題に入ることにしよう。
先ずはこれまでの経緯と、現在の状況について話をしようか」
軽く咳払いをして、バトエルデンが表情を改めた。一度席を立ち、執務机の上から一枚の地図を取り出してくる。
応接用のテーブルの上に広げた。
「あまり大きくはないので、少々見難いが―――」
広げられた地図は、言うまでもなくルーフェリア王国のものだ。
とはいえ、全域を記したものではなく、カナリスの南に広がる田園地帯とその周辺を切り取ったものだった。
西に白竜山、東にキプロクスの森、北にエルリュート湖―――そして、その畔にカナリスとオルミが記載されている。
「先ず、最初に蛮族の軍勢が確認されたのがこの位置」
バトエルデンの指が、田園地帯の南端―――国境上の一点を指し示す。
「確認されたのは、日の出の直前……五時になる少し前。こちらへと報告が入ったのが、その二十分後となる」
「……伝令、ではありませんよね」
「ああ。通話のピアスを用いての連絡だ」
レクターの言葉に、バトエルデンは頷く。
国境神殿の責任者には、緊急時のために通話のピアスを与えられているらしい。
一日一回、十分間限定という制限が付いているが、この手の事態には大変に重宝する代物だ。
「入ってきた情報を整理し“神託”を発動したのが、その十五分後」
(……それが、あの時の)
緩んでいた空気が、一瞬で張り詰めた時のことを思い出す。
「―――現在は、田園地帯に点在する村々の住人達含め、エルリュート湖南岸地域にある他の町や村の者達をカナリスへと避難させているところだ」
「失礼じゃが、間に合うのかの? 特に田園地帯南部にある村は、避難する時間さえないように思えるが」
「国境神殿の者達が時間を稼いでくれている。何とか間に合わせるつもりだ」
そうは言うものの、相当にキツイのだろう。
ギルバールの問いに答えつつ、敵の位置を地図上に示すバトエルデンの表情は渋い。
「敵戦力についてだが、先鋒として動いている部隊が、確認されているだけで十二隊。各部隊を構成する蛮族の数は三十体前後だ。
……そして、その後方を進む本隊が、目測で三千」
「現在、動員されているルーフェリアの戦力は?」
「田園地帯にある三つの国境神殿から各五十ずつ、本神殿から二百となる。
……本神殿所属の者達が合流するのに、あと二日ないし三日掛かるだろうが」
「何の問題もなく合流できたとしても、全部で三五〇。単純に数だけで考えれば、戦力差は……約十倍ですか」
イーリスが小さく呻く。
現在動いているのは神殿でも精鋭と呼ばれる者達ばかりで、数で言えば二倍、三倍に見積もることが出来る。
だが、それらを踏まえても酷すぎる戦力差と言えよう。
(それでも、何とかなるという見積もりみたいだね)
大司教の表情は渋いものではあったが、悲壮感の類は特に見られない。
その様子に、レクターは僅かに安心した。絶望的、という状況ではないらしい。
部屋に落ちた重苦しい沈黙を払おうと、口を開く。
「それで、私達の役割は?」
「既に予想は付いているだろうが、主に敵の先鋒部隊に対する遊撃と避難民の脱出支援だ。
敵の侵攻が進んでくれば、防衛線の維持にも手を貸してもらうことになるだろう」
妥当なところだとレクターは頷いた。
ちらりと仲間達へと視線を向ければ、全員が小さく頷く。
「それでは、詳細についてお聞かせ願えるでしょうか」
「……ありがとう。恩に着る」
依頼を受諾する旨を伝えると、バトエルデンは礼を言いながら頭を下げた。
致命的に戦力で劣る戦いに挑む代わりに、神殿の最高位に貸しを作ることができる。
これを安いと見るか、高いと見るか。
(正直、何とも言えないかな。高すぎる買い物にならなければ……って)
一つ聞き忘れていたことがある。レクターは説明を始めようとする大司教へと小さく手を挙げた。
「あの、すみません。もう一つよろしいでしょうか?」
「ああ、構わない。何かな?」
「敵将についての情報というのは、あるのでしょうか?」
「そう言えば話をしていなかったな」
敵将の撃破。
戦力差を引っくり返す方法としては、最もオーソドックスなものの一つだ。
自分達がそれを行うかどうかは別として、その必要が出た時のために予備知識は持っておきたい。
レクターの言葉に、バトエルデンがもっともな話だと頷いた。
「敵将については、これまでにも何度か散発的な攻撃を仕掛けてきていたので、こちらにも情報がある。
ちなみに、オルミに潜入していたオーガ達。その背後にいたのもソイツだ。名は―――」
―――“嘲笑う黄玉”イェクト。
バジリスクの亜種であり、他者をトパーズへと変える黄玉の魔眼を持つ上位蛮族だと彼は続けた。
田園地帯には、大小様々な河川が流れている。
その中でも、白竜山の南に端を発し、田園地帯を縦断、カナリスを通ってエルリュート湖に注ぐフォルカーフ河は最も知られたものの一つだ。
田園地帯を通る河川の中でも一、二を争う延長と豊富な水量。
また、その経路ゆえに、収穫された穀物の輸送路として機能している他、有事の際における避難経路の一つに指定されている。
色々な意味で生命線となっており、言うまでもなくその重要度は高い。
だが。
(クソッ!! 蛮族どもめ)
川べりの道を北へと向かって進みながら、ティエリは内心で罵声を上げた。
思い出すのは、少し前に目にした光景だ。
明らかに悪意をもって川底に沈められていた船か何かの残骸と、それに船底を擦って座礁した別の船。
座礁船には避難民の荷物らしきものが数多く残されていた。
乗っていた者達の姿がどこにも見当たらなかったのは、速やかに船を捨てて徒歩での移動に切り替えたからか、それとも―――
「……皆さん、もう少し行ったところで休憩にしますから、あと少しだけ頑張ってください!!」
背後を歩く人々へと声を掛けながら、ティエリは嫌な考えを頭から振り払う。
近くに蛮族達がいる可能性だけを頭に叩き込みつつ、避難途中の村人達を励ましながら進む。
「大丈夫?」
「ああ。ありがとうな、お嬢ちゃん」
ふと、老人へと声を掛ける少女の姿が目に入った。
十代半ばの人間の少女だ。
薄青を基調としたルーフェリアの民族衣装を身に纏った彼女は、村人達との繋がりはないらしい。
襲撃の報が入った時、たまたま村に居合わせたという身元不明の少女。
敵軍の中にレッサーオーガの姿があったことを考えなくとも、警戒の対象とするべき存在だ。
だが、なぜかティエリは彼女を疑う気にはなれなかった。
(……どこかで見た気がするんだけどな)
避難民達の護衛にあたっている神官戦士は、全部で四名。
他の三人も、何となく怪訝そうな表情を浮かべている。だが、ティエリと同じくなぜか警戒を抱けずにいるようだった。
柔らかく微笑みながら老人を励ます彼女を見つめ、小さくため息をついた。
「まあいいか」
いち早く先の状況に気が付いた少女の言葉がなければ、自分達が乗っていた船も座礁していたかも知れない。
そうなれば、川岸へと上がるのに相当な時間を喰ったハズだ。
そのことを考えれば、彼女は自分達の味方と考えて問題はない。
また、予め避難民全員に“バニッシュ”を使っているため、蛮族が紛れ込んでいるという可能性も排除されている。
気になることは確かだが、とりあえず脇に置いておいても問題はないだろう。
そう結論付けて、ティエリは少女から目を逸らした。
五台の魔動バイクが、川沿いの道を南に向かって駆け抜ける。
太陽の位置からそろそろ昼頃かとあたりをつけて、アルトリートは小さく息をはいた。
(カナリスを出てから、まる一日と半。そろそろ、蛮族の部隊とかち合ってもおかしくないか)
田園地帯の地図を頭に思い浮かべながら、そう考える。
今自分達がいるのは、カナリスと国境神殿を結ぶ線のだいたい中間あたりに相当する場所だ。
田園地帯を北上する蛮族達の速度が、魔動バイクを快調に飛ばしてきた自分達と同じであるとは考え難い。
だが、位置的には斥候あたりと遭遇してもおかしくない。
警戒の度合いを引き上げつつ、周囲の様子を窺う。
「こんな事態じゃなければ、河沿いのツーリングというのも楽しかっただろうにな」
右手を北に向かって流れる河を見てため息をつく。
フォルカーフと呼ばれるその河は、田園地帯の主要河川の一つらしい。
神殿で見た地図にもしっかりと載っていたソレを、アルトリートは視界の端で―――
「…………っ!」
「な、何!?」
目に入った光景に、反射的にブレーキを引いた。
後方を走っていたルネが慌てた声を上げながら、急停止したアルトリートのバイクを避ける。
驚いた表情を浮かべる彼女に手で謝りつつ、アルトリートはバイクから下りて河の中へと足を踏み入れた。
「アルトリート? ……ぁ」
怪訝そうな声を上げたルネが、アルトリートの進む先を見て息を呑んだ。
川面から突き出していた木に、腕を引っ掛けたまま沈んでいる人らしき何か。
ピクリとも動かないその姿に、わずかに表情を歪めながらアルトリートは水を掻き分ける。
(……だめか)
引っかかっていたのは、人間種族の中年の男だった。
すでに呼吸はおろか、脈拍も止まっている。川から引き上げようと引っ張りながら、アルトリートは内心でため息を付いた。
期待はしていなかったが、すでに手遅れらしい。
「ダメ。もう亡くなってる」
「そうか」
川べりに寝かせた男の容態を確認して、ルネが首を振った。
仲間達と共に、しばし黙祷を捧げる。
レクターが、目を開いて呟いた。
「何が起こったのかは、確認しておきたいね」
「……ああ、“ポゼッション”か。俺がやろうか?」
「いや、私がやるよ。アルトリートの体で暴れ出されると怖いし。なので、彼女の対応はよろしく」
レクターが笑って、ちらりとルネの方へと視線を向けた。
「……?」
その視線の意味が分からずに彼女は僅かに首を傾げる。
そう言えば神官だったよな、などと失礼なことを考えながら、アルトリートは口を開いた。
「神官的にはマズイだろうが、緊急事態なんで大目に見てくれ」
「……ああ、そっか。レクター君は操霊魔法使えるんだっけ」
一瞬黙考し、すぐにこちらの意図に気が付いたらしい。彼女はアッサリと頷いてみせた。
「うん。ボクはあまり気にしないから、気にせずにやっちゃって」
「……了解」
意外と軽い返答に、レクターが若干肩透かしを受けたような表情を浮かべる。
だからと言って、絶対反対とか言われても困るのだが。
苦笑交じりに、レクターがゆっくりと息を吸い込む。
「操、第九階位の魂―――」
「…………」
一時的とはいえ、自分の体を誰かに明け渡す。
その行為を相棒に任せるというのは、かなり忸怩たるものがある。
その内心を見透かしたように、レクターがこちらへとわずかに笑って見せた。
「召喚、霊魂、精神―――“降霊”」
“ポゼッション”
死者の魂を一時的に己の肉体に降ろす魔法。その完成と共に、レクターの表情が入れ替わった。
「……ここは? ……っ!? わ、私が二人!?」
「あ、やば」
困惑していた様子で周囲を見回したレクター―――の体を借りた誰か―――が、己の足元に寝かされている遺体を見て悲鳴を上げる。
瞬間的に恐慌状態に陥った姿を見て、アルトリートは冷や汗を垂らした。
「一体何が、いや、それよりも蛮族ッ!! 蛮族は!?」
「落ち着けと言って落ち着けるワケもなかろうが、それでも落ち着いてくれんか」
目を白黒させているレクターの両肩を、ギルバールが掴んだ。
反射的にもがこうとする動きを力で押さえ込み、その目を覗き込むようにして低い声で告げる。
「周囲に蛮族はおらん。ワシの言葉が理解できておるのなら、頷いてみせよ」
「……あ、ああ」
「ゆっくりと、深呼吸するんじゃ」
「…………」
「ワシはギルバールという。お主は?」
「私は、エドモンドだ」
「うむ。エドモンド殿か、よろしく頼む。
色々と思うこともあるじゃろうが、先ずはこちらの話を黙って聞いてくれんかの?」
「……分かった。こちらこそ、よろしくお願いする」
ギルバールが言葉を口にするたび、レクター―――エドモンド氏が急速に落ち着きを取り戻していく。
その様子を見て、アルトリートは感心の声をもらした。
「おお。あっという間に落ち着かせた」
「随分と手馴れた様子でしたが……」
「きっと年の功という奴だね」
「この中で……いや、何でもない」
傍らの三人を余所に、ギルバールがエドモンドに状況の説明を始める。
どうやら、彼はあまり感情的な性質の人間ではなかったようだ。
最初こそ戸惑った様子であったが、一度落ち着きを取り戻した後は、特に取り乱すこともなくギルバールの話を聞いている。
自分が死んでいることを含めて、冷静に状況をのみ込んでいく彼の様子にアルトリートはわずかに安堵した。
ギルバールに任せておけば、スムーズに話を聞くことが出来るだろう。
(とはいえ、これは……)
よく見知っているハズの相棒が、見たことのない表情を浮かべ、聞いたことのない口調で言葉を話す。
その様子は、端的に言って気持ちが悪い。状況によっては、おぞましいと感じる者もいるかも知れない。
操霊魔法が忌み嫌われる理由の一端。そこに触れたような気がする。
あんまりと言えば、あんまりな感想を抱きながら、アルトリートは二人の会話を黙って聞くことにした。
蛮族に捕捉された。
避難民たちの背後に迫るボガードソーズマンとゴブリンシャーマンの姿に、ティエリは思わず呪いの言葉をはいた。
斥候の類なのか数は二体と少ないが、近くに他の蛮族がいないとは到底思えない。
恐れていた事態に、ティエリは手にした剣を握り締めながら声を張り上げる。
「大丈夫。オレ達が守ります!! だから慌て―――」
「ティエリ、前方もっ!!」
仲間の声に振り返れば、そちらにも蛮族の姿があった。
ボガードトルーパーと、とりまきのボガードが三体。
(くそっ!! 挟まれたっ!!)
焦燥に歯噛みをしながら、前へと駆け出す。
「前方は俺とセラスで!! 後方は、ラウルスとシルエアが!!」
『了解っ!!』
他の三人の応えを耳にしながら、ティエリは前方のボガード達へと突っ込む。
左手の盾を前に突き出して、体ごとぶつかって行く。
狙うのは、トルーパーの前に立っていた三体のボガード。その中央に立っている者だ。
「ハァッ―――!!」
「ギっ!?」
衝撃に蛮族が体勢を揺るがせる。すかさずティエリは右手の剣を突き込んだ。
刃がボガードの体に吸い込まれる。血が飛び散るが浅い。手応えに思わず舌打ちをする。
「キサマッ!!」
「―――っ」
左側に立っていたボガードが剣を振るう。
それを咄嗟に身を低くしてかわした。だが、その姿を見て右のボガードが嘲笑った。
腰を屈めたティエリの脳天を狙って、ボガードが剣を振り上げる。
「さる、死ネ」
「させません」
振り下ろされた剣を、強引に割り込んできた神官戦士が受け止める。
ティエリと同じ人間種族の青年―――セラスが、受け止めた剣を押し返して小さくため息をついた。
その手に持ったメイスを一振りして、蛮族を牽制しながら口を開く。
「一人で突っ込むのは止めてください。見ていて肝が冷えるので」
「あ、ああ。悪い」
セラスが割って入ったのを見て、右のボガードと同様、左にいたボガードも数歩分ほど後退している。
ティエリは小さく息を吸い込んだ。
仕切り直しだ。
(背後の連中も、ラウルスとシルエアに任せておけば問題ない)
二人とも、自分と同等以上の神官戦士だ。問題なく蛮族どもを退けてくれるだろう。
頭を冷やして、呼吸を整え直す。
「死ネッ!!」
「じゃま、スルナ!!」
「殺ス!!」
「二体は私が、貴方は左の奴と奥のトルーパーを!!」
「分かった」
三体のボガードが声を上げながら各々の得物を振り上げる。
その姿を見据えながら、ティエリは同僚の言葉に頷いた。盾で左のボガードの攻撃を受け止める。
中央と右のボガードは、言葉通りセラスが引き受けている。メイスと盾を用いて器用に攻撃を捌く姿には、全く危なげがない。
(さすが……)
ボガード二体のことは任せておいて大丈夫だろう。
同僚の技量に舌を巻きながら、ティエリはボガードの剣を弾いた。間髪いれず、踏み込みながら長剣を突き込む。
今度は、上手く捉えたようだ。
胸元を赤く染めて、ボガードが口から血を吐き出す。さらに、駄目押しの一撃。
「“我が神ルーフェリアよ!! 我が敵を撃ち払う力を!!」
「ギャ!?」
“フォース”
至近距離で炸裂した衝撃に、ボガードの体が吹き飛んだ。
背後のボガードトルーパーの足元に倒れ込み、体を痙攣させる。
(これで―――)
ボガードトルーパーへの道が開けた。
元々、十歩分程度しか離れていない。ティエリが前へと飛び出せば、すぐに間合いが詰まる。
だが。
「な……ッ!?」
ボガードトルーパーが、足元のボガードをコチラへと蹴り飛ばす。
それを反射的にかわすが、そこに間合いを詰めてきたトルーパーの剣が唸りを上げた。
真一文字に走る横薙ぎを何とか盾で受け止めるものの、体勢が大きく崩れる。
(クソっ―――)
連続して振るわれる剣を必死の形相で捌いて、ティエリは舌打ちをした。
自分の部下を蹴り飛ばすような輩に苦戦している。そのことに、言いようのない苛立ちを覚える。
焦りに乱れる心を必死に抑えながら、かつて先輩から教わった言葉を胸中で繰り返す。
―――怒りを力に変えよ。冷静さを失うな。剣は丁寧に振るえ。
(無理だと思います、先輩)
思わず泣き言がこぼれる。だが、その心境とは裏腹に、牽制のために振るった剣に乱れはない。
「はッ!!」
「ヌッ―――!?」
トルーパーの動きが僅かに鈍る。その隙に体勢を立て直しながら、祈りの言葉を叫んだ。
「“我が神ルーフェリアよ、今一度我が敵を撃ち払う力を―――っ!!」
「グッ―――!?」
“フォース”を受けて、ボガードトルーパーが体をよろめかせる。
この機会を無駄にするつもりはない。ティエリは、ボガードトルーパーへと大きく踏み込んだ。
剣を横に薙ぐ。
「ギャッ!? キ、貴様ァ―――!!」
「倒れろ、バルバロスッ!!」
胸を真一文字に斬り裂かれて、蛮族が苦悶と怒りに顔を歪ませる。
ここで止めるつもりなどない。盾を捨てて、ティエリは長剣の柄を両手で握り締めた。
肩に背負うように、剣を振りかぶり―――
「ハァッ―――!!」
「ギッ!?」
袈裟斬りに叩きつける。
刃がボガードトルーパーの右肩へと吸い込まれ、一瞬の抵抗を破った直後、左の脇腹へと抜けた。
大量の血しぶきを上げながら、トルーパーが白目を剥いて仰向けに倒れる。
「ハァ、ハァ……セラスッ!」
「こちらも終わりましたよ」
振り返れば、メイスに付着した血を払っている同僚の姿があった。
足元には、頭を砕かれて死んでいる蛮族の姿が二体。
「あちらも終わったようです」との言葉に、村人達の後ろへと視線を向ければラウルス達の姿が目に入る。
特に傷を負ったという様子もなさそうだ。
ティエリは安堵の息をもらしながら、村人達へと声を上げようと口を開く。
「蛮族達は退けました。先に―――」
進みましょう、と続けようとした言葉が途中で止まる。さらに後方に蛮族の集団が現れるのが目に入ったからだ。
緩やかなカーブを描いているその向こう側からやって来る蛮族の一団。
どうやら、今まで森の影に隠れて見えなかっただけで、相当に近くまで接近されていたらしい。
パッと見ただけで三十はいるだろう蛮族達の姿に、ティエリの表情が引きつる。
「……セラスはこのまま村人達の避難を急がせてくれ。俺は何とか時間を稼ぐ」
「それはっ! ……分かりました」
セラスが苦渋の表情を浮かべながら頷く。
それに「すまない」と笑って謝りながら、ティエリは放り投げていた盾を拾った。
(……できるだけ多くの敵を道連れに)
「あきらめないで」
「……!?」
まるでこちらの思考を読み取ったかのような声に、ティエリは肩を震わせた。
驚きに目を見開きながら視線を動かせば、いつの間にかすぐ傍らに少女が立っている。
彼女は柔らかく微笑みながら、言葉を続けた。
「あきらめないで。だって、ほら――――」
希望の光は、すぐ近くにあるから。
その言葉に応えるように、ティエリの傍らを何かが駆け抜けていった。
―――前方で戦闘が行われている。
使い魔からの知らせを受け取ると同時、レクターは周りを走る仲間達に合図をして魔動バイクを停車させる。
怪訝そうな表情を浮かべて停まった仲間を見回し、レクターは口を開いた。
「レクター?」
「この先で戦闘が行われている。それほど遠くないけど、“テレポート”するよ」
「……っ!!」
表情を一変させた仲間を見ながら、すぐ近くにいたアルトリートが抑えた声で尋ねてくる。
「ちなみに、距離は?」
「直線でニ百メートルくらい、かな。森が邪魔で見えないけど、結構近いはず」
「それなら、走った方が早い。先行する」
「……ああ、そっか。うん、すぐに追い付くから―――」
よろしく、という自分の言葉を置き去りにして、アルトリートがその場から走り去った。
あっという間に小さくなっていく背中。そのスピードは、魔動バイクのそれをも上回っている。
―――全力疾走時のアルトリートは、十秒で二百メートル以上を駆け抜ける。
「……へ? えぇ!? ウソ、何アレ!?」
「す、凄まじいの」
「目を疑う光景ですね」
百メートル以上の距離を走るアルトリートの姿を見たのは、レクターも含めて初めてのことだ。
短距離の時には気にならなかったが、こうして見るとその速度は尋常でないものがある。
とはいえ、ここでソレを眺め続けるわけにはいかない。
「さて、私達も急がないと。アルトリート一人じゃ出来ることに限度があるし」
『……あ』
“テレポート”を使うことを告げたレクターの言葉に、呆然としていた他の三人が我に返って頷いた。
苦笑を浮かべながら、ゆっくりと息を吸って魔力を練り上げる。
実際、化け物じみているのは確かなのだ。
平地であれば、大空を舞うロック鳥やエルダードラゴンすら振り切る機動力。
どこぞの“百変化”には届かないものの、アルトリートは限りなく地上最速に近い位置にいる。
「真、第十三階位の転。瞬間、移動―――」
クルーガーの視界を借りて、転移先を指定する。と、その視界に先行していたアルトリートの姿が映った。
避難民たちの横を駆け抜けていく。
その姿を半ば呆れたように見つめながら、レクターは呪文を完成させた。
「空間、強化―――“転移”」
数秒遅れでレクター達も避難民たちの後方へと転移する。
近くにいた神官戦士二名が驚いた表情でこちらを見た。
「あ、貴方達は!?」
「本神殿から依頼を受けて、蛮族達への遊撃任務にあたっている冒険者です。
あれはこちらで引き受けますので、周囲の警戒をお願いできますか?」
「し、しかし、アレだけの数を―――」
「悪いけど、押し問答をしている時間はないよ」
反論を封じるように、ルネが言い切る。
長銃を持って傍らに立つイーリスが続けた。
「すでにアルトリート様が斬り込んでおられますので……」
「ということなので、任せてください」
「わ、分かりました」
気圧されたように頷く神官戦士二名。
理屈になっていないこちらの言い分に、何やら釈然としない様子の二人から視線を逸らし、レクターは蛮族達を睨む。
「マテリアルカード展開、“コンセントレーション”」
視線の先には、片端から蛮族を斬り刻んでいるアルトリートの姿がある。
その後を追って、ギルバールが突撃していった。
賦術の効果により、思考が研ぎ澄まされていく。
蛮族達に対する感情はない。ただ、自分の射程圏内に入った彼等を殲滅するため、機械的に呪文を紡ぐ。
「真、第六階位の攻。火炎、灼熱、爆裂―――」
五倍拡大。
「――――“火球”」
放射状に放たれた五つの火線が、蛮族の集団へと吸い込まれる。
爆音は、ほぼ同時。炎で形造られた五つの赤い華が、容赦なく蛮族達を飲み込んだ。
一列あたり五人。それが全部で八列。
前列に老人や女性、子供を、後列の方に若い男という順番で村人達が並ぶ。
その様を見つめながら、アルトリートは小さく息をはいた。
エドモンド氏の言葉を思い出す。
『他にも危難に遭っている人は大勢いるハズだ。だから、その力は彼等を助けるために使ってくれ』
受け入れる気があるのなら、“リザレクション”を使う。
そう申し出たアルトリートの言葉に、エドモンドは静かに笑って首を横に振った。
代わりにと伝えられた彼の願いに、少しは報いることが出来ただろうか。
そんなことを考えながら、アルトリートは空を見上げる。
「ありがとう。あなた達のおかげで、みんなが助かりました」
「……え?」
ふと掛けられた声に視線を向けると、一人の少女が立っていた。
亜麻色の髪をした十代半ばの人間の女の子だ。
ルーフェリアの民族衣装を身に付けて佇むその姿は、どこかで見たことがあるような気がする。
ニッコリと笑う彼女の青い瞳と目が合った。
―――瞬間、総毛だった。
「―――っ!?」
その視線に、何もかもを見通されたような感覚を覚えて、アルトリートは目を見開く。
ホンの一瞬で幻のように消え去ってしまったが、気のせいではあり得ないだろう。
目の前に佇む少女に言いようのない戦慄を覚えて、アルトリートは思わず後退りそうになった。
「え、ええと。君は?」
「私は、リア。お兄さんは?」
「……っ! ア、アルトリート」
動揺に揺れる内心を押し殺しながら、アルトリートは答える。
単に同名という可能性もあるが、先程の感覚のことを思えば先ず間違いあるまい。
―――“彷徨える小女神”リア。
女神ルーフェリア―――この国を守る神様の分身だ。
全く予想していなかった邂逅に、アルトリートの目が泳ぐ。端から見ると超不審人物だろう。
(やばい。……いや、やばくない。ええと―――)
特に何か悪いことをしたワケではないので、落ち着いて話をしていれば良い。
そう考えながらも、アルトリートの動揺は収まらない。
大司教の時とはワケが違う。今回は完全に不意打ちだ。
「それでは―――」
「……!!」
焦るアルトリートの耳に、レクターの声が割り込んできた。
「それでは、これから魔法を使います。事前に説明したとおりに順番に飛び込んでください」
「あ、始まるみたいですね」
列の前に立ったレクターの姿を見て、何となくホッとしたものを覚える。
アルトリートは小さく息をはいた。一度静かに深呼吸をして、リアへと視線を戻す。
「君は……行かなくていいのか?」
「わたしは最後にしてもらいましたから」
「そうか」
少女と並んで、レクターが呪文を唱えるのを見守る。
“ディメンジョン・ゲート”の魔法が発動し、開かれた“門”へと村人達が次々に入っていく。
八列のみであるため、すぐに彼女の番もやってくる。
「ありがとう。皆を守ってくれて」
「……頑張ったのは俺だけじゃない。その言葉は、他の皆に掛けてやって欲しいね」
「うん。また会った時に、改めてお礼を言わせて下さいね」
リアは笑って、列の最後尾へと小走りに向かった。
「……まぁ、嫌でもまた会うだろうしな」
“門”の向こうへと姿を消す彼女。その姿を見送って、アルトリートはため息をついた。