男は悩んでいた。
眉間にしわを寄せて、手元の書類を睨むように見つめる。
その姿に不安を覚えたのか、部下が恐る恐るといった様子で口を開いた。
「あの、何か問題が?」
「……いや。確かに彼女ならば能力的にも十分だろう」
「はい。また、五十年近く前ではありますが、内偵の経験もあるとのことですので」
「なるほど」
部下の説明に男は頷いた。だが、その表情はやはり曇ったままだ。
「何か気に掛かることがあるようでしたら」
「いや、すまん。他に適任もいないだろう。
蛮族どもの動きが活発化している今の状況では、動かせる者も少ない。それに―――」
彼女ならば、二つ返事で了承するだろう。男は内心で呟いた。
そう、こんな面白そうな事柄を、みすみす見逃すような真似はすまい。
男は小さく頷いて、書類にペンを走らせた。
「彼女によろしく伝えてくれ」
「はい。お伝えいたします」
無事に決裁が下りたことに安心したのだろう。部下がほっとした表情を浮かべて一礼する。
その後、書類を後生大事に抱えて退室するのを見送って、男はため息をついた。
『ルネ・フランセット高司祭に巡察任務を命ずる』
部下が決裁を求めてきた案件。
要約すればその一言で済む内容について、積極的に否定する理由はない。
彼女の能力は、神殿でも有数のものであり、また今回の件に生かせる経験も持っている。
これ以上の人選はないだろう。
―――彼女の性格を考えなければ、だが。
このニ、三十年は大人しくしていたため、神殿の中でも忘れられつつあることだが、彼女は当然のようにこちらの想定を踏み潰す。
かつて、彼女が巻き起こしたトラブルの数々を思い出して、男はコメカミに手を当てた。
先程の部下は知らないのだろう。
彼女―――ルネ・フランセットにかつて与えられた渾名など。
「あの“ドクダミ司祭”に、監察官の権限を与えるのか……」
少々……非常に不安ではあるが、何とかなるだろう。多分、きっと、おそらく。
「…………」
男は小さく頭を振って、思考を打ち切った。
他にも片付けるべき案件は多い。すでに決裁を下ろした件について、延々と頭を悩ませているワケにはいかない。
いい加減、誰か代わってくれないだろうか。そんなことを考えつつ、男は執務を再開した。
蛮族の一隊が、木々の合間を縫うように進んでいく。
その姿を確認し、アルトリートは情報通りだと頷いた。
山に入ったその夜に目標を発見できたというのは、少々出来すぎている感があるが。
「…………」
僅かに差し込む月明かり。その下を進む部隊の編成は、ボガードを中心としたものだった。
ボガードソーズマンや、ボガードトルーパー……そろそろ見飽きてきた感のあるお馴染みの組み合わせだ。
ただし。
(……ダークトロール)
それらを指揮している者の姿を捉えて、アルトリートは表情を険しくする。
周囲の闇に溶け込むような黒い肌。三メートルを超える徹底的に鍛え上げられた体躯。
そして、落ち着いた―――隙の無い物腰。その身からは鬼気にも似た気配が発せられていた。
蛮族の中でも、特に優れた戦士として知られるトロール。その上位種だ。
強者との戦いに喜びを見出し、力ある者には種族を問わず敬意を示す。
そんな彼等を、尊敬に値する敵と評する者も少なくないという。
「面倒だな」
「相手がトロールじゃ、油断は期待できそうにないもんね」
「…………」
夜の森。
気配を押し殺して様子を窺うアルトリートの隣で、同じように身を低くしている少女が呟く。
青を基調とした神官服を見て、アルトリートは複雑な表情を浮かべた。
「うん? ボクの顔に何か付いてる?」
「……いや」
妙に慣れた様子で気配を消している彼女に、アルトリートは首を横に振った。
ルネ・フランセット。
“水晶の欠片亭”にいたアルトリート達に、神殿からの依頼を持ってきたという女性神官はそう名乗った。
長身の者が多いエルフにしては、ずいぶんと背の低い少女だ。
その小柄な体を、青を基調とした神官服で包み込み、長い金色の髪を青いヴェールで覆っている。
一見するとどこか幼げな印象を見る者に与えるが、その物腰は肩書きに相応しい落ち着いた―――
「ボクのことは、ルネって呼んでくれて良いよ! ヨロシクね!」
「…………」
一階の奥に設けられた個室。そこに入ると同時に態度を一変させた彼女に、アルトリートは思わず肩をこけさせた。
数秒前までの厳かな雰囲気が綺麗サッパリ吹き飛んでいる。
ニコニコと笑うその姿は、陽気な町娘といった風情であり、神官という肩書きを連想するのはとても難しい。
「う、うむ。して、依頼というのはどういった内容になるのかの?」
「うん。その前に、そっちの二人に確認しておきたいんだけど」
「……?」
席を勧めるギルバールに礼を言って、彼女は席に着いた。
そして、アルトリートとレクターの二人へと視線を向ける。
「私達に何か?」
「うん。前にカッタバの近くで蛮族の砦が見つかった事件があったけど、関わったのは二人で間違いないかな?」
「……っ! あの村に何かあったのか!?」
ルネの問いに、アルトリートとレクターが顔色を変える。
脳裏に浮かぶのは、ゴーシャの村の惨状だ。
にわかに殺気だった二人の様子を見て、ギルバールとイーリスが驚いた表情を浮かべた。
「ん。その様子だと間違いないみたいだね。
大丈夫。カッタバの村が襲われたという話じゃないから安心して」
「……そう、か」
「すみません。取り乱して」
「ううん。じゃあ、依頼内容について説明するね」
安堵のため息をついて椅子に腰を落とす二人に、ルネが柔らかく微笑んだ。
軽く咳払いをして表情を改める。
「これは、先日、国境神殿から上がってきた情報なんだけど―――」
先月―――七月の初旬。
アルトリートとレクターの存在が、神殿に知られることとなった一件。
一歩間違えれば、大惨事に発展していただろう事件を受けて、エルリュート湖南東地域を管轄とする国境神殿は、山中への警戒を大幅に強化したらしい。
その成果と言うべきか。このひと月で何度となく蛮族の部隊を発見、これを撃破ないし撃退しているという。
「ただ、問題が二つあってね。一つは、何度も撃破しているという事実そのもの。
もう一つは、最近……ここ十日ほどの間に、その動きが急速に活発化しているということ」
「……裏に規模の大きな組織がある。しかも、近々、大規模な侵攻の恐れがある、と?」
レクターの言葉にルネは頷いた。
「当然、神殿も情報を集めるために動いているんだけど、今のところ目ぼしいモノは得られてないんだ」
「蛮族を捕らえて尋問とかは?」
「残念ながら。逃げられないと見るや即座に自害されるらしくて、捕縛自体がとても困難な状況になってるみたい」
その言葉に、四人は沈黙する。
末端の兵士でさえ、全く命を惜しむ様子の無い蛮族の軍団。
万が一、そんな連中が本格的な攻勢に出た場合、果たして国境神殿の戦力だけで対抗できるものなのか―――
「おそらく、猶予はほとんど残ってない。だから、危険だけど別のアプローチを採ることにしたんだよ」
「……蛮族の後をつけて拠点の位置を探し出す、とか?」
「ご名答。話が早くて助かるよ」
依頼内容は、蛮族の拠点の正確な位置の割り出し、及び敵戦力についての情報収集となる。
場合によっては、その後の拠点攻略にも参加してもらいたい。
彼女は、そう締めくくった。
このままだと、カッタバの村に災厄が降り懸かる。
そのことが分かっている以上、アルトリートとレクターに依頼を断るという選択肢は存在しない。
残る二人も異論を唱えることはなかったため、四人は依頼をその場で受けたのだが―――
(……何で神官がスカウト技能を持ってるんだよ)
ルネの立ち振る舞いは、ちょっと齧っているなどというレベルのものではない。
それこそ本職―――それも何十年もの経験を積んだ玄人のそれだ。
暗視能力を持つエルフであるがゆえに、暗闇の中での動きならアルトリートに並ぶ可能性さえある。
足音ひとつ立てずに夜の森を進むルネを見ていると、本当に神殿からの依頼なのか不安になってくる。
カッタバの村で、国境神殿の者から詳細説明を受けている以上、騙されているということはありえないのだが。
(本当、どういうことだ)
二メートル近い長さを持つ漆黒の杖を手に、身軽な様子で山中を進む神官。
その姿に、非常に釈然としないものを抱えつつ、アルトリートはルネと共に蛮族の一隊を追跡する。
段々状に広がる田畑を、馬車の荷台の上から眺める。
目に映る風景に、郷愁にも似た感慨を抱きながら、レクターはゆっくりと深呼吸をした。
「……あの二人は大丈夫かの?」
「う~ん。アルトリート一人なら、絶対に大丈夫と言い切るところなんだけどね」
ギルバールの言葉に、レクターは苦笑いを浮かべた。
近くに相棒の姿はない。彼は、昨日の内にルネと一緒に山中へと入っている。
『蛮族の追跡は俺一人で行う』
クルーガーを連れて行くので、拠点発見後に“ディメンジョン・ゲート”を使って合流しようというアルトリートの提案。
それに対する反応は、賛成がニ、反対がニというものだった。
ちなみに各々の立場は、レクターとイーリスが賛成、ギルバールとルネが反対となっている。
もっとも、ギルバールとルネとでは、反対の内容が微妙に異なっていたが……
「彼女の身のこなしを考えると、特に問題はないと考えますが」
「うん。アルトリートもそう判断したから、彼女の同行を認めたんだろうしね」
パーティーの分割には賛成だが、追跡には自分も同行する。
足手まといにはならない。そう言って示されたルネの力量は、明らかに素人のソレではなかった。
「ボクの本業は盗賊です!」などと、元気一杯に宣言されたら、思わず信じてしまう可能性があるくらいだ。
渋々といった調子で、彼女の同行を認めたアルトリートの表情を思い出す。
「……どうして神官が足音を立てずに歩いたり、気配を消したり出来るんだろう?」
「私には分かりかねます」
首を横に振るイーリス。
だよね、とため息をつきながら、ギルバールへと視線を向けた。
相変わらず心配そうな表情を浮かべている仲間へと、言葉を投げる。
「大丈夫だよ。クルーガーを付けてるから、本当にマズイ時にはすぐに合流できるし」
「う、む。分かってはおるんじゃがな」
山中を移動する蛮族の一隊―――それも尾行を警戒しているだろう相手を、長時間に渡って追跡する。
そうした状況において、隠密行動を苦手とする重戦士のギルバールや、山歩きや隠密行動に関する技術を持たないレクターは単なる足手まといだ。
イーリスならば追随することも可能だろうが、やはりアルトリートやルネの技術と比べれば一段劣ってしまう。
ゆえに、今回のパーティー分割という選択は間違っていないだろう。即座に合流する手段があるならば、なお更の話だ。
ギルバールもそのことは理解している。無論、アルトリート達の力量を疑うつもりなど微塵もない。
それでも心配なものは心配らしい。仲間思いのドワーフは、ため息をつきながら頭を掻いた。
「……それに、私達は私達でやるべきことがあるし」
背後を振り返れば、随分と小さくなった村の姿が見える。
その光景に目を細めながら、レクターは小さく呟いた。
『万が一を想定し、カナリスへと村人達を避難させる。道中の護衛に協力して欲しい』
アルトリートが拠点を発見するまでの間、特にすることのないレクター達はその依頼を二つ返事で受けている。
無論、追跡組に何かあった場合はそちらとの合流を優先するなどの条件付きではあるが。
オルミからは、大型船を使うため護衛は不要らしい。
だから、護衛を行うのは、カッタバの村からオルミまでの道中だ。
カッタバからオルミまでは、馬車で二日ほどの距離だ。
ただし、村人だけで百名を超える大所帯であることや、夜間の移動を控えることを考えれば、四日は見ておく必要があるだろう。
その間、彼等の安全を何としてでも守らなければならない。
(ま、私達だけで護衛をするわけじゃないんだけど)
むしろ自分達は脇役だと、レクターは周囲を見回す。
護衛にあたって主となるのは、当然の話ながら神官戦士隊の面々となる。
レクター達に求められる役割は、有事の際の援護程度となるだろう。
無論、だからといって手を抜けるようなモノではないが。
(“ディメンジョン・ゲート”なら、安全かつ手っ取り早いんだけどね)
全員を移動させようと思えば、膨大なマナを消費する。
レクターでも、最大で三分程度のゲート維持が限度となる大魔法。本来、あまり気軽に使えるような代物ではない。
神官戦士達からマナの補給を受けることも可能だが、その結果、部隊の機能が低下するというのはマズイ。
結局、余力を残すことも考えて採用しなかったのだが、それが裏目に出たという結果だけはゴメンだと、レクターは思う。
「……変なフラグが立っていないことを祈ろう」
レクターは真っ青な空を見上げた。
陽光を苦手とするトロールが指揮していることもあるのだろう。
蛮族達の行動パターンは、夜間は移動、昼は休息というものだった。
当然、連中を追いかけているアルトリート達も、昼夜逆転の生活を送ることとなる。
(……こちらにとっては、ちょっと不利な状況のハズなのに)
暗視を持たない人間がいる以上、どうしたって夜間行動は不利となる。
なのに、全然そんな風に思えないのは何故だろう。
休息を取っている蛮族達の気配を探りつつ、ルネは隣の剣士へと視線を向けた。
アルトリート。
黒を基調とした服装の、平々凡々とした容姿の青年。
気配が希薄なこともあって、ほとんど印象に残らない。それこそ、雑踏に入り込まれれば、あッという間に見失うことになるだろう。
そのクセ、その力量は二十歳前後という若さからは考えられない領域にある冒険者。
(……二十歳前後、だよね)
見た目どおりの年齢のハズだ。人間種族なのだから。
確信が持てないのは、昨夜の彼の動きを目にしているからだろう。
(なんで、夜目が利かないのに、夜の山を平気で歩けるのかな)
エルフと違って、人間種族に暗視の能力はない。
ゆえに、蛮族達の追跡中、アルトリートはほとんど前が見えていなかったハズだ。
昨夜は、木々の合間から月光が差し込んでいたとは言え、それとて気休めに過ぎない。
その状況で、平気な顔をして闇に覆われた山中を進んでいた青年。
「…………」
ナイトゴーグルを使う素振りがないことを不思議に思って問えば、「マナの節約」という答えが返ってきた。
どうも、戦闘時以外で使うつもりはないらしい。
「眠らないのか?」
「アハハ。あんまり、眠くなくて……」
実は人間じゃなかったりするのだろうか。
そんな疑念を含んだ視線に気がついたのか、アルトリートが訝しげな目をこちらへと向けた。
ルネは、笑って誤魔化した。
「ね。少しの間、話に付き合ってもらっても良いかな?」
「……いいけど。ちゃんと寝ておかないと夜が辛いぞ」
「うん、分かってる。それで―――」
アルトリートとレクター。
彼等二人の名前を神殿内で聞いたのは、七月に入ってからのことだ。
国境神殿とオルミの警備隊。その二つから相次いで入った報告。
その両方に、アルトリートとレクターの名前があったことを知り、ルネは大きな興味を抱いた。
星を堕とした魔術師と、一夜で町に潜入していた蛮族を殲滅した剣士。
“水晶の欠片亭”を拠点とした後も、新しい遺跡を発見したり、村を壊滅させた蛮族達を討伐したりと、少々異常な頻度で活躍を耳にしている。
「だから、一度、君達に会ってみたかったんだよ」
「……そうか」
ゴーシャの村。その名前を出した瞬間、わずかに表情を変えた青年にルネは微笑んだ。
『色々と怪しげなところはあるけれど、決して悪人ではない』
以前、彼等と話をしたという妹の評価を思い出し、ルネはその内容に大きく頷く。
まだ、出会って間がないが、悪人でないのは間違いないだろう。
「ところで、アルトリートはどこの出身なの?」
「出身?」
「うん。フェイダン地方じゃないよね、多分」
「あ~……」
アルトリートやレクターの名前を、七月以前に耳にしたことはない。
彼等と合致するような噂にも心当たりがないことを考えれば、二人はどこか遠くの地方からやってきたのだろう。
そう考えて問うたルネの言葉に、アルトリートは視線を彷徨わせる。
しばしの沈黙の後、彼は苦笑を浮かべながら頬を掻いた。
「……悪い。ちょっと事情があって、ルーフェリアに来る前のことは伏せさせて欲しいんだ」
「あ、ゴメン。無神経なことを聞いたかな?」
「あ~、いや。単に話せないってだけだから。その……あまり気にしないでくれると助かる」
「そっか」
真正面から、話せないと言い切られてしまえば、それ以上追求することも出来ない。
嘘でもついてくれれば、その内容から本当のところを推測するとか、ほころびを突いてみるとか出来たのだが。
「…………」
少し気まずくなった空気を変えようと、話題を探すルネの目に二振りの剣が映る。
ちょうど良いと、もう一つ気になっていたことを聞いてみる。
「ねぇ、その剣って魔剣かな?」
「うん? ああ、そうだけど。良く分かるな」
「これでも、経験豊富だからね、ボクは」
アルトリートの言葉に、ルネは少し気を良くして胸を張った。
彼が持つ双剣。
実際に抜かれたところを見たことはないが、尋常でない気配を宿していることにルネは気が付いていた。
本当のところは、実際の力を見てみないと分からない。
しかし、彼が身に付けている他の魔法の品々とは一線を画す代物だとルネは見ている。あくまで勘であるのだが。
「兄弟剣の魔剣って珍しいよね。どういう由来なのかな?」
「兄弟剣?」
ルネの言葉に、アルトリートが首を傾げる。
その反応に、見誤ったかな、などと考えながら言葉を続ける。
「柄の拵えが全く同じだから、そう思ったんだけど」
「ああ。でも、これってそんなに特別な拵えじゃないと思うが」
「だからこそ、だよ」
「……?」
世界を創世したとされる“始まりの剣”。
その複製品たる第一世代、さらにそれを複製した第二世代、そして第三世代あたりまでの魔剣は、所有者に神格を与えるほどの力を持つという。
そうした規格外の代物ではなかったとしても、魔剣と称される武器の祖が“始まりの剣”であることに変わりはない。
時に迷宮を形成するという特性を含めて、その力は計り知れないものがある。
「そんな凄い剣が、ごく普通の拵えになってること自体が特殊なんだよ」
「ああ、なるほど」
ルネの説明に、アルトリートが感心した表情で頷く。
何で所有者に説明をしているんだろう。そんな内心を察したのか、アルトリートが苦笑を浮かべた。
「いや。この剣は貰い物でね。由来については、俺も良く分かってないんだよ」
「あ、そうなんだ」
おそらくは剣の師匠から受け継いだとか、そんな感じだろう。
アルトリートの言葉に、ルネは特に疑問を抱くことなく納得した。
それにしても、と彼の剣を見つめる。剣としての機能を最優先したかのような、飾り気のない無骨な拵え。
こうなってくると、その剣身も見てみたくなる。
そのことを告げれば、アルトリートは苦笑を浮かべたまま首を横に振った。
「ま、そのうち嫌でも見ることになるだろうから、楽しみはそれまで取っておいてくれ」
「む~、ケチ」
その答えに、ルネは少し膨れてみせる。
それからしばらくの間、彼との会話を楽しんだ後、ルネは眠ることにした。
(……う~ん)
目を閉じて、先程までの会話の内容を思い返す。
人柄については分かったと思う。やはり悪人ではない。
だが、その素性に関することは、結局何一つとして分からなかった。
『色々と怪しげなところはあるけれど、決して悪人ではない』
妹の評価の正しさを再確認しただけだ。
そのことに気が付いて、ルネ・フランセットは苦笑を浮かべた。
避難民の護衛として動員された神官戦士は、全部で三十名となる。
交代を入れつつ、夜を徹して警戒に当たる頼もしげな戦士達。
その姿は、ともすれば不安に呑まれそうになる村人達にとって、大きな心の支えとなっている。
「お疲れ様です。交代の時間です」
「……もう、そんな時間でしたか。それでは後をお願いします」
「はい。司祭もゆっくりお休み下さい」
「ありがとう」
持ち場を後任に譲り、その場を離れる。
ずっと気を張っていたためだろう。
交代と同時に、どっと疲労が肩に圧し掛かってくる。その感覚に、レアは思わずため息をついた。
仮眠をとるため、割り当てられたテントへと向かう。
「……あれは」
その途中で目にした光景に、レアは足を止めた。
視線の先にあるのは、協力者として同行してくれている冒険者の姿だった。
見覚えのある人間の魔術師、金属鎧に身を包んだドワーフ、そしてメイド。
(……メイド?)
暖かな焚き火の明かりを囲み、和やかに談笑している彼等の組み合わせに一瞬違和感を覚えた。
何か、ひどくこの場にそぐわない単語を思い浮かべた気がする。
「……ああ、そう言えば」
レアはしばし黙考し、以前耳にした話を思い出して納得した。
神殿お抱えの学者の中には、常にメイドを付き添わせている者がいるらしい。
調査に赴いた遺跡で、残されていた罠や、根城にしていた蛮族などの障害を、メイドのサポートを受けながら突破するのだという。
彼女も、その話に出てきたメイドと同様、冒険者としての訓練を受けているのだろう。
“メイド・オブ・オールワーク”
メイドの種類には、そうした名前のものもあるらしい。
何しろ『何でも出来る』というくらいだ。冒険者としての技能を持つくらい、それほど特殊なことでは無いのかも知れない。
(……主の方は、あのドワーフかしら)
そう推測しながら、三人の様子を眺める。
何やら冗談を飛ばしている人間の魔術師と、それに豪快な笑い声を上げるドワーフの重戦士。
その様子を、柔らかい表情で見守るルーンフォークのメイド。
見ているだけで感じ取れる暖かな空気に、レアは少しばかり羨ましいと思った。
「……挨拶くらいはするべきよね」
昼間は忙しくて声を掛けるどころでは無かったが、今はこうして若干の余裕がある。
特に、銀髪の青年とは以前一度話をしている。このまま知らん振りというのも義理に欠けるだろう。
そんな思考の下、レア・フランセットは、吸い寄せられるように彼等のところへと近づいていく。
「おや? 貴方は、確か―――」
「お疲れ様です」
銀髪の青年―――レクターが、自分の顔を見て目を丸くし、次いで柔らかい笑みを浮かべた。
その反応に、レアは少しばかり安心する。どうやら、ちゃんと覚えていてくれたらしい。
微笑みを返しながら、彼と共にいる二人へと頭を下げる。
「お二人とは初めてですね。
私は、レア・フランセットと申します。オルミまでの道中、どうかよろしくお願いします」
「おお、これはご丁寧に。ワシはギルバール・レギンという。こちらこそ、よろしく頼む」
「イーリス・ベルステラです。見張り、お疲れ様です」
軽い挨拶を交わした後、レクターの勧めに従って焚き火の近くへと腰を下ろす。
イーリスから差し出されたカップを受け取り、そっと口をつけた。
「…………」
白湯とはいえ、暖かいものを口にしたおかげだろう。全身の疲れが抜け落ちていくような気がした。
「……と、ところで、レア殿」
「はい?」
「その、フランセットという名前は、ルーフェリアでは比較的多いのかの?」
「……? ああ、なるほど」
ギルバールの言葉に一瞬首を傾げ、すぐにその意図に気が付いた。
両手でカップを持ったまま、彼の疑問に答える。
「皆さんに同行してカッタバまで来た神官、ルネ・フランセットは私の姉です」
「……姉? 妹、ではなくてかの?」
「はい」
ギルバールが首を傾げながら聞き返してくる。それに頷きながら、レアは笑う。
彼の反応は、とても馴染み深いものだ。
百を超える年齢であるにも拘らず、姉の外見はとても若い。
高めに見ても十代半ばといったところ―――これまで、彼女の年齢を大まかにでも言い当てた者は、レアの知る限り存在していない。
「家名が同じだから、若干気にはなっていたんだけど……そうか、お姉さんにあたるんだ」
「ええ。随分と歳が離れていますので、私にとっては母に近いイメージもあるのですが」
八十以上離れていると言葉を続ければ、ギルバールの表情が凍り付いた。
「はち……あの嬢ちゃん、ワシよりも年上じゃったのか」
「素晴ら……ゴホン、そこまで歳が離れると、確かに親子みたいな感じになるかも」
「はい。私は、早くに母を亡くしましたから、余計に」
「良いお姉さまだったのですね」
「自慢の姉です。いつか追いつければと思っていますが……」
イーリスの言葉に、レアはしっかりと頷いて見せた。
今は山中にいるという姉の笑顔を思い浮かべ、最近、ゆっくりと話をしていないことに気が付く。
(……この一件が片付いたら、お茶にでも誘ってみようか)
たまには休暇を取ってカナリスへと戻るのも良いだろう。
お茶をして、そして一緒に買い物をしよう。
妹扱いされて膨れる姉を思い浮かべて、レアはこっそりと微笑んだ。
キプロクスの森。
オルミの西側に広がるその広大な森林地帯の外縁部。
街道から、四、五十メートルほど入った位置で捉えた蛮族の姿にイーリスは目を細めた。
「…………」
木々の合間に身を潜めながら、長銃を構える。
野営中の村人達に襲い掛かるため、護衛に気付かれぬようゆっくりと森の中を前進する蛮族達。
五つのグループに分かれて進む彼等が、背後へと警戒を向けている様子はない。
自分達が狩られる可能性など、微塵も考えてないようだ。
(カッタバ付近に出没するという者達とは、どうやら別口のようですね)
カッタバから随分と離れていることや、聞いた話と比べて明らかに練度が低いことを理由にそう判断する。
もっとも、捕捉している数は五十ニと非常に多い。
ゴブリンやボガードといった雑魚しかいないとはいえ、十分に脅威となる数だ。
なぜか、指揮官らしき者の姿がないのが救いだろうか。
(どう対応するつもりでしょうか)
イーリスは、ちらりと傍らの魔術師を見る。
先程から無言で佇むレクターの表情には、全く感情の色が見受けられない。
周囲にマテリアルカードを展開したまま、極度の集中状態を保っている。その瞳の奥には、色の無い光が揺れていた。
彼は、ゆっくりと口を開く。
「真、第一階位の攻。瞬閃、熱線―――“光矢”」
透き通った声が唱えるのは、真語魔法の初歩の初歩“光矢”だった。
だが、それに伴って放出された膨大なマナと、それを支える魔力の強大さに、イーリスの背筋が粟立つ。
(これ、は)
“ディメンジョン・ゲート”を軽々と使ってみせるレクターだ。
その力が、一国の頂点に立ち得るものだということは、イーリスも理解している。
―――している、つもりだった。
周囲に展開された、五十ニ条の“光矢”。その光景に戦慄する。
その一つ一つが、標的である蛮族を容易に殺害し得る力を宿し、解き放たれる瞬間を待っている。
「―――っ!?」
“光矢”が放つ淡い光。それが五十ニも集まったことで、周囲の闇が退いたせいだろう。
こちらの存在に気が付いた蛮族達が、展開された矢の群を見て目を剥いた。
泡を喰って逃げ出そうとするが、すでに遅い。
「射抜け。一体足りとて逃すな」
直後、木々の合間を縫うように、光条の群が走り抜けた。
森の中が一瞬だけ明るくなって、すぐに元に戻る。
「……終わったようですね」
念のため、“ライフセンサー”を使って、討ち漏らしがいないか確かめた後、イーリスはため息を付いた。
どうやら、自分の出番はないらしい。万が一を考えて、街道側で待機しているギルバールや神官戦士達の出番も同様だ。
そのことに、小さく苦笑を浮かべる。
(本当に、敵でなくて良かった)
音一つ立てずに蛮族達を殲滅したレクター。その力に、イーリスはしみじみと思う。
「外の様子はどうかな?」
その言葉に、街道の方へと意識を向ける。特に騒ぎが起こっている様子はない。
この三日間で、心身共に疲労が溜まっていることもあるのだろう。
休息中の村人達は、先程の光には気が付かなかったらしい。
「大丈夫。特に混乱は起こっていないようです」
ゆえに、彼等は何も知らないまま朝を迎えることになる。
「そっか。良かった」
この三日間、近づく蛮族達を片端から殲滅しているレクターの望みどおりに。
―――レクターが味方で良かった。
一瞬だけ光った後、蛮族達の気配が根こそぎ消失した森へと視線を向けたまま、改めてギルバールは思う。
休息をとっている村人達が、森の中で行われた戦闘に気付いた様子はない。
「さすが、と感心するべきか。デタラメじゃと呆れるべきか」
街道の安全を確認するため、神官戦士達の一部は先行して周囲の状況を探っている。
そんな彼等から得た情報を元に、ギルバールとレクター、イーリスの三人が脅威の排除を行う。
この三日間で、そんなパターンが成立していた。
最初は、神官戦士隊が対応する、と三人が動くことに反対する者もいた。
それを「神官戦士隊が動けば村人達が不安に思う」という言葉や、自身の実力を見せることで封じ込めたレクター。
今回の件で、彼は絶対的な信用を勝ち取ったことだろう。
(今回は、どうしようもないと思ったからの)
野営の直前。
偶然、森から出てきたところを捕らえたゴブリン。
襲撃前にガマンできずに顔を出した。そんな愚かな蛮族を嘲笑う余裕は、すぐに吹き飛んだ。
ゴブリンの仲間は、十や二十ではないという。
それを聞いた時の緊張を思い出し、ギルバールは表情を歪める。
村人達を逃がす暇は無い。森の中で迎え撃つとしても、その全てを撃退するのは不可能だろう。
被害が出るかも知れない。
そのことに緊張した面持ちを浮かべる一同に対し、レクターは自分が大多数を殲滅するから討ち漏らしをよろしくと、事も無げに言い切った。
それに対する皆の反応を思い出し、ギルバールは苦笑を浮かべる。
「……結局、被害どころか、戦闘の事実さえ悟らせずに片付けおった」
神官戦士の一人と目が合う。
蛮族達の脅威が取り除かれたことを察知したのだろう。
彼は、安堵の吐息をもらしつつ、自分と似たような苦笑を浮かべていた。
『強力な魔法使いと関わる場合、常識は捨てておいたほう良い』
お前が想像する『あり得ないこと』はアッサリと実現されると思え―――かつてデュボールにいた頃、酔った友人が口にしていたことだ。
鬱々とした表情で吐き捨てられた言葉を、このルーフェリアに来てからよく思い出す。
「……戻ってきたようじゃな」
数名の神官戦士と共に、レクターとイーリスが森の中から出てくる。
周りから賞賛の言葉でも掛けられたのか、芝居掛かった仕草で胸を張る青年の姿を見て、ギルバールは頬を緩ませた。
底知れない力。全く分からない過去の経歴。時折見え隠れする力量と経験の不一致。
正直な話を言えば、不審人物以外の何者でもない。
それなのに安心して背中を預けられるのは、その人柄について理解できている自負があるからだろう。
ドワーフの戦士は小さく笑う。その労をねぎらうため、足早に彼の元へと向かった。
追跡を始めてから四日。
蛮族達は一直線に目的地へと向かうことはせず、ジグザグに進む、同じ場所をグルグルと回る、などの行動を交えながら移動を続けている。
そう告げるアルトリートの言葉に、ルネが同意した。
二人は共に、自分達が歩いてきた経路を概ね把握しているらしい。
地図も無いまま、夜の山中を歩いてきた道筋を、だ。
(……何かが、おかしい気がするのですが)
そう考えるのは、きっと自分だけなのだろう。
主の命を受けて二人に同行しているクルーガーは、何となく寂寥感に駆られる。
それでも、自分は主の名代なのだからと、アルトリートの肩の上で二人の様子を見守り続ける。
斥候の技術に長けた神官。
暗視抜きで夜の山中を歩く人間。
最初は互いの特異性に若干の警戒を抱いていたようだが、今はそんな様子は微塵も感じられない。
これまでの時間で、互いに信頼に値すると判断したのだろう。
二人は息の合った様子で、危なげなく蛮族達の追跡を続けている。
「さて」
「うん。そろそろ終わりが見えてきたね」
顔を見合わせて頷く二人の前方には、小規模ながら防御陣地としての機能を持った野営地があった。
周囲を柵で囲み、入り口にはトロールとボガードトルーパーが歩哨に立っている。
その様を見て、アルトリートとルネは、蛮族達の拠点が近いことを推測した。
もっとも、先に進むためには、この場所を何とか越える必要があるため、あまり喜んでもいられないのだが……
「う~ん。迂回する以外に方法はないよね。ボクなりに色々考えたけど、潜入はちょっと無理でしょ、アレ」
「俺もそう思う。そうなると、そこら中に仕掛けられてる罠の中を通るのか」
「万が一、引っかかったら?」
「警報系が結構目に付くから、あっという間に囲まれるだろうな」
「うわ、気をつけようね」
アルトリートとルネが打ち解けていることは、大変喜ばしいことだ。
だから、監視の目を欺く方法を思案する神官とか、暗中に張り巡らされた罠を一目で見抜く人間とか、そういう些末なことを気にしてはならない。
クルーガーは諦めに近い胸中で、割り切ることにした。
「それじゃ、行くか」
「あ、ナイトゴーグル使うんだ」
アルトリートがゴーグルを装着する。
さすがにこの状況では、マナの節約などとは言っていられないらしい。
そんな彼の姿に、ルネがどこかホッとした表情を浮かべる。
(ああ。今もおかしいとは思っているんですね)
彼女の反応を見て、クルーガーの孤独感が少しだけ和らいだ。
―――この半日後、二人と一羽は蛮族達の拠点を見つけることになる。
船がゆっくりと桟橋から離れる。
カナリスへと向かう大型船。避難民を乗せるため、神殿が用意したものだ。
その甲板上で、カッタバの村長―――エクトルは、深いため息をついた。
(……無事に、カナリスへと辿りつけそうですね)
誰一人欠けることなく、誰一人傷つくことなく。
そのことに、エクトルは女神へと感謝の祈りを捧げた。そして、桟橋で自分達を見送る者達に頭を下げる。
「…………」
見送りの中に、見知った青年の姿を見つける。
赤と黒を基調とした長衣に、銀色の髪。遠目にも分かりやすい長身の魔法使い。
「少し、安心しました」
レクターと、その両脇に立つ冒険者の姿に、目を細める。
久しぶりに再会したアルトリートとレクターは、二人だけではなくなっていた。
仲間を得て、今は“水晶の欠片亭”という冒険者の店を拠点にしているらしい。
元気にやっている。そんな近況を聞いて、村の危機も忘れて胸を撫で下ろしたものだ。
「……アルトリートさんは、大丈夫でしょうか」
今頃、蛮族の拠点を探っているという青年のことを心配し、その滑稽さに苦笑を浮かべる。
神官戦士の方に聞いたのだが、アルトリートやレクター、そして彼等と共にいる冒険者達は、早々お目に掛かれないほどの手練れだそうだ。
自分のような素人が、心配をすること自体おこがましい。
「ふふ。いけませんね」
それでも、エクトルの中で二人に対するイメージは変わらない。
初めて言葉を交わした時の―――まるで迷子のような、どこか不安そうな表情を浮かべた二人組のままだ。
どれほど歳をとっても、親にとって子は子であり続けるように、きっと彼等に対する印象も変わることは無いのだろう。
あの二人にすれば堪ったものではないだろうが、どうか我慢して欲しい。
そんな勝手な自分の考えに、小さく笑った。
(どうか、彼等に女神のご加護を―――)
その道先が明るいものであることを願い、エクトルは静かに祈りを捧げた。