魔法を使って得た情報を元に走ると、遠くにちらちらと羽生の後ろ姿が見えた。
涙子と愛衣はその姿を追い、人込みの中を駆けた。
羽生はゆったりと歩いているのに、走っている涙子達は一向に追いつけなかった。
いつしか羽生は細い通りに入り、涙子達もそれに続く。
何度目か角を曲がり、付いたのは人通りの少ない空き地だった。周囲をビルに囲まれた都会の空白地。
そこで羽生は柔和な笑みを浮かべつつ、涙子たちを見つめて立っている。
息を切らせながらも、涙子達は対峙した。
『やぁ、来たのかい』
「は、羽生さん」
余りにも自然な態度に、涙子は気をそがれた。思えばなんで羽生を追いかけたのか、それすらも良く分からない。
涙子と羽生の間に、愛衣が立ちふさがった。
「羽入さん、ですよね。私は佐倉愛衣、魔法使いの見習いです。あなたは害ある霊なのでしょうか? そうならば、私はあなたを退治せねばなりません」
『害ある、か。それを本人に聞くかね』
ククク、と羽生は苦笑する。
「う……、ですが現在は『人に害を為さない霊や妖怪なら共存が可能』と言われています」
ここ数年、魔法やオカルトといった世界での風潮だった。魔法やオカルトと繋がりの深い偏った宗教的価値観からの脱却。近代的な思想の発現によるものだ。
登録制や監視義務の必須、という人間が上から見下ろす形での管理体制だが、ここ数年日本では一部妖怪との共存体制はうまくいっている。
GSなどの職業で、助手として働いている霊や妖怪もいるらしい。
「幾らかの経緯は佐天さんから聞いています。もし羽生さんが再び霊という形で人間社会での復帰を望むなら、私……私達はそれを援助する用意があります」
これらの要項を、愛衣は麻帆良で習っていた。この様な霊や妖怪との共存の形は、欧米圏などではあまり活発では無い。そこには前述した宗教的価値観が阻害し、多くの場合周囲の人間や環境と不和を起こすからだ。
まだ一般人にオカルトの存在が情報公開されてつかの間。人と人外の壁は厚い。
そういう意味では、宗教的価値観の薄い日本という土地は、魔法やオカルトといった側面でのモデルケースになりやすいのだ。
麻帆良でも例外ではなく、半妖の学生を受け入れたりと様々な便宜をはかっている。
『人間社会、ね。それも面白いかもしれないな』
「それじゃあ――」
『だが、いらんよ』
羽生は頭の帽子に手をかける。
『なぜなら、私は〝人に害を為さない霊や妖怪〟などでは無い』
帽子をそっと外した。羽生の顔が帽子で見えなくなり、その隙間から長い角が飛び出す。
『人に害を為す、まさしく悪意ある妖怪(バケモノ)だからだよ』
羽生を中心に風が吹き荒れた。空気に混ざるは禍々しい妖気。涙子と愛衣の肌が粟立つ。
風にあおられ、紳士帽が宙を舞った。
「ひっ――」
誰かの声がすくんだ。
帽子の下から現れた頭部には、イミテーションには見えない生々しい角がある。右腕はスーツを突き破り肥大し、筋骨隆々の禍々しい姿に変わっていた。指先が地面へ触れるほどの長さだ。
角と右腕、それ以外に羽生の外見的な変化は無い。だがその二つの変化が、見た人にあるモノを連想させる。そう――。
「〝鬼〟……」
先日涙子が感じた同じ印象を、愛衣も持ったらしい。
羽生が右腕を軽く横に振るうと、いつの間にか彼の隣に大きな額縁が現れる。《娘の絵》だ。
羽生の目線が涙子に向けられる。
『お嬢さん、どうやら《獣の槍》に選ばれたようだね。私は歓迎するよ』
「か、歓迎?」
涙子は羽生に疑問符を浮かべる。
『あぁ、歓迎だ。ようこそ〝コチラの世界〟へ。そんな君にプレゼントだ』
羽生は愛おしそうに額縁を抱きかかえる。
『これから私は《学園都市》にバケモノを放ち続けよう。なに、君を殺しはしないよ。死んでもらったら、それはそれで〝厄介〟だからね』
「――っ」
愛衣は目を見開いた。
『少し昨日試して見たのだがね、私が放った低級霊でさえ、この都市の『超能力』とやらは大して対抗できなかったよ。あっさり憑依され、能力が暴走させられたという程度だ』
ククク、と羽生は笑う。
『――つまり、だ。私に対抗する術を持つのは、この都市で君達ぐらいだという事だよ。あの《獣の槍》の担い手がいるのだ。ならば私は相応しい〝悪役〟になってあげよう』
「悪役って……」
『見たところ《槍》を捨ててない様だね。見初めてしまったかね、その溢れる力に。まるで御伽噺の主人公にでもなったつもりかい、『夢見心地のお嬢さん』?』
「――なっ」
カッ、と涙子の顔が熱くなる。自分の中にある青臭いヒーロー願望が見透かされた様だった。
慌てて言い返そうとするも、言葉が出てこない。
『さぁ、お立会いだ。君達のために妖怪(バケモノ)を産み出してあげよう』
溢れる妖気は《娘の絵》からだった。それが渦となり、絵に歪みが生まれる。羽生の肥大した右腕が、絵の歪みに差し込まれた。
羽生が右腕を絵の中でまさぐる度に、絵の表面に波紋が立つ。モゾモゾと何かを探すように腕は動いている。目的のモノが見つかったのか、動きは止まり、腕が絵から引き抜かれる。引き抜かれた羽生の手の中には、何かの”頭”があった。
のっぺりとして目も鼻も無い顔。ツルリとした人工的な表面の光沢。女性の形をした〝ソレ〟は、どこにでもある様なマネキンである。
一瞬、何が出るのかと恐れていた涙子と愛衣の表情に、微かな安堵が過ぎる。
だが――。
『私はこの都市の結界の《要》として封印されていたのでね、地脈と繋がっているのだよ。溢れる妖力はそのお陰だ。そして莫大な燃料があれば、この程度の妖怪(バケモノ)を連れてくるなど造作も無い』
羽生がマネキンの頭を離すと、それはカタカタと震えながら地面に立った。細い手首や足、それらはあくまで記号的にデフォルメされている。自立を目的としない手足でありながら、マネキンは何故かその場に立っている。
ただ人間のシルエットのみを真似た存在が、首をカタカタと揺らしながら二人の前に立った。愛衣は手首の発動体に魔力を流すが、涙子はすくんで動けない。自らの体の中にある《槍》の存在すら忘れ、心にチロチロと灯りだした恐怖の種火をじっと見つめるのみだ。
喉の渇きがザラザラとした痛みに変わっていた。首筋にいつの間にか汗が浮いている。
《槍》を持たなければ一般人とほぼ変わらない涙子が、ほんの数分妖力を浴びた結果だった。
『さぁ、行きたまえ《石喰い》』
ガラスとガラスを擦りつけた様な甲高い鳴き声が上がると同時に、マネキンの胸元が内側から破れた。
中から出てくるのは、ゴツゴツとした表面を持つ触手。十本以上の触手が飛び出し、それらどれもがまるで蛇の様に頭部と口がある。先程聞こえた鳴き声は、触手の先端の一つ一つから発されていた。
「だ、ダメッ!」
口をガパリと開けて触手が襲い掛かってくるのに対し、愛衣は即座に反応する。自らの魔法障壁を斜めに展開し、触手の攻撃を上方に反らした。
「――ひッ!」
涙子は触手の姿と鳴き声に驚き、尻餅を付いた。触手の先端の口元にはビッシリと牙が生えそろい、ヌメヌメとした奇妙な粘液が光を放っている。
生理的嫌悪と恐怖がない交ぜになったものが、涙子の喉元から競りあがった。
(何で、何で、何で)
先程まであった楽観的な思考が、ほんの数分の間に霧散した。残ったのは後悔。自らへの罵倒。
どくん、と自らの手の平が疼いた。
(そ、そうだ、槍)
《槍》の感触に、すがるものを思い出す。手の平から飛び出した槍の柄を、もう片方の手で強く握り、引き抜いた。
涙子の髪が一気に膨らむ。体に巻きつくほどの長髪になり、槍を構える。槍が吸い取ってくれるはずの恐怖も、不安という形で心にこびり付いていた。
目の前では愛衣が涙子を庇うように、魔法の盾を展開している。
(私だって!)
揺らぐ視線を、触手の根元たるマネキン姿の《石喰い》本体へと向ける。
「佐倉さん、私もッ!」
槍を前へ構え、涙子はただ真っ直ぐに走る。それは単純故に、バケモノにとっては厄介な攻撃だった。なにせ《獣の槍》に触れれば、一撃で屠られるのだから。
「あぁぁぁぁぁ!」
逃避の攻撃。
先日と同じく愛衣の横をすり抜けた突進は、自分達を守っていた障壁すらも破壊した。
「さ、佐天さん、駄目で――キャッ!」
その余波を受け、愛衣は後方に飛ばされる。
涙子の突進は、果たして石喰いまで届かない。マネキンに当たる寸前、真っ直ぐな攻撃は触手の穂先への小さな攻撃で反らされた。
涙子はそのままバランスを崩して地面を転がった。
「――うあッ!」
背中が堅い地面へとぶつかり、息が詰まる。
涙子が急いで顔を上げると、マネキン姿の《石喰い》が倒れた愛衣の元へ向かっていた。
「さ、佐倉さんッ!」
《石喰い》は触手を手足の様に使い、軽々と宙を滑る。そのまま愛衣へ――。
「え」
と思いきや愛衣を飛び越し、細い路地の奥へと消えていった。
助かった、そんな思いが涙子に広がる。
『いいのかね』
傍らに立つ羽生の声に、緊張が再び張り詰める。
落ち着いて周囲を見れば、地面や建物の壁に触手の牙によって抉られた傷が幾つもある。そしてその傷のいずれもが『石の様に固まっていた』。牙に傷つけられただろう花や雑草までも、石で出来たイミテーションの様だ。
『石喰いには人や物を石化させる力がある。ヤツをそのままにしていたら、楽しい光景が見れるだろうね』
ニッコリと笑い、羽生が告げる。
「石化って、そんな危ないものを召喚したんですか! 石化の治癒には高等な魔法が必要なのに!」
石化という現象は、古今東西の神話や伝承に数多くある。愛衣の専攻する西洋魔法にももちろんあるが、高等な上に禁呪だ。
石化の治癒に関しては幾つかの治療魔法も開発されているが、難度の高い石化となると難しい。未だ治療方法が見つからず、そのまま手付かずの患者もいる。特殊なアーティファクトやアイテムがあれば別だが、それらとて希少なのだ。
愛衣はこの場で一番、石化という現象の恐ろしさを認識していた。
慌てて愛衣は立ち上がり、《石喰い》を追いすがろうとするものの、羽生に背を向けるのを躊躇った。
そして、何より――。
「佐天さん!」
涙子の目の前で、羽生がしゃがみ込んでいる。
羽生の顔が目の前にある。昨日のどこか情けない幽霊姿と違い、鬼の一面を覗かせた羽生に、涙子は震えた。カチカチと歯の根が不協和音を奏でる。
『お嬢さん、再び礼をおくろう。〝私を解放してくれてありがとう〟』
涙子の耳朶を確かに打った。
『これから起こる事は〝君のおかげだ〟』
――君のおかげだ。
キミノオカゲダ。
キミノ。
(わ、私の、せい……)
この時、涙子の心に《棘》は確かに刺さった。
(槍、を振るわなきゃ……)
本来、使い手が素人だろうと心と体の両方を一流の戦士として特化させる《獣の槍》だが、使い手が使わなければ意味が無い。戦いへの恐怖を吸い取る《獣の槍》も、羽生の心を穿つ言葉の前に無力だった。
『さて、私の要件は以上だ。せいぜい高みの見物とさせて貰おう。遠慮なく妖怪(バケモノ)を追いたまえ』
羽生が《絵》を抱え、視界から消えた。
見上げれば、遠くのビルの屋上に影が見えた。いつの間にか夕焼けになり、赤味がかった視界の中で、羽生の影は以上に目立つ。まるで空を飛ぶかの如き跳躍を繰り返し、遠ざかっていく。
羽生が消えた事を確認し、愛衣が涙子に走り寄った。
「佐天さん、大丈夫ですか!」
「う、うん。大丈夫。」
言葉少なく返す。愛衣とて、今の涙子の言葉を信じるわけではない。
涙子は苦笑いを浮かべているが、瞳に光は無い。つい先程の喫茶店でのハツラツさは消え、意気消沈している。
(――ッ。こうなる事が分かってた。分かってたはずなのに!)
愛衣は歯がゆく思う。〝コチラの世界〟にはそれなりの洗礼がある。愛衣とて一時期は落ち込んだものだ。だが、その時には頼れる師と姉がいた。今の愛衣にでは持てない安心感が、あの二人にはあったのだ。
涙子は昨日まで〝コチラ〟を知らずに生きていた。例え超能力という異能を扱う都市にいたとて、彼女は素人だ。
手の中に残っている探知の術式が、《石喰い》が離れていくのを感知している。愛衣は決断する。
「佐天さん、急いで帰ってください。後は私がやります」
帰れ、その言葉に涙子がピクリと肩を震わせた。
「私は追わないといけません。このままじゃ一般人に被害が出てしまう。その前にどうにかしないと」
愛衣が「来たれ(アデアット)」と呟くと、手に持っていたカードが箒へと姿を変えた。古の魔女や魔法使いが愛用するような、そんなどこかアンティークな雰囲気を持つ箒だ。
それはアーティファクトと呼ばれる魔法具に分別される。箒の名は『オソウジダイスキ』、ブレスレッドの発動体より魔力運用がスムーズで、飛行魔法を使った時には乗り物にもなる。
《石喰い》がいる場所へ向かう愛衣の背中を、涙子の声が呼び止める。
「ま、待って」
チクリ、と《棘》が涙子の心を刺激する。じゅくじゅくとした鈍い痛みが、じんわりと広がった。
ほとんど傷たる傷が無いのに、涙子は槍を杖の様に……すがるようにして立ち上がる。
「私も行く。行かなくちゃ駄目なの」
「ですが――」
「行くっ! 行くよ! だって私は《獣の槍》の使い手なんだよ。あんなマネキン、すぐに倒せるよ! そう、倒せる――」
涙子は自分に言い聞かせる様に喋り続ける。頷き気味の顔は、伸びた長髪に隠れて見えない。
愛衣は涙子に言い知れぬ不安を感じた。
それと同時に、今の涙子に自分の言葉が届かないのも分かった。昨日知り合ったばかりの二人には、仕方の無いことである。
ならば、愛衣は最善を取る。無闇に涙子を説得するくらいなら時間も惜しい。単独行動されても厄介だ。
「――分かりました。急ぎます、付いてきてください」
愛衣は涙子の《槍》の力の一端をしっかり認識している。自分が飛行魔法を使っても、それなりのスピードなら易々と追いつくだろう事も。
走りながら、箒型アーティファクト『オソウジダイスキ』に魔力を流し込む。そのまま自転車でも乗るような身軽さで、箒に跨った。
「いきますよ」
「うん!」
愛衣はそのまま滑る様に飛ぶ。余り涙子と離れない様に四メートル程の低空を維持し、この空き地から伸びる細い路地を駆け抜けていく。チラリと後ろを見れば、涙子もしっかりと追走していた。
(やっぱりすごい)
幾らかスピードを落としているとはいえ、今の愛衣のスピードは普通の人間が追いつける様な速さでは無いのだ。オリンピックの短距離選手でも無理だろう。
だが、あの《槍》は昨日まで素人だった涙子を、この人外の領域にいとも容易く導いてる。
(あれ程の力があって、リスクが無いわけない)
愛衣はそう結論付けた。
◆
涙子と愛衣は、狭い路地をかなりの速さで走り抜けた。
路地から路地へ、まるでジェットコースターにでも乗ってる様に、視界が狭まっていく。
そのお陰で、《石喰い》を目の端で捉える事に成功する。
「見えました!」
愛衣の言葉に、涙子は首肯するのみで返す。
涙子の体を恐怖や不安、負の感情が柔らかな鎖となり絡めとっている。それでもすがる様に力を込め、槍を握る。
遠く、夕焼けの影に隠れる路地で、マネキンが触手を手足の様に使い、走っていた。
涙子の強化された視力が、更に遠くを見通す。《石喰い》の行く先には、幾人かの男子学生がたむろしている。学生達もマネキンに気付いたのだろう、目を見開いていた。
「だめ……だめッ!」
《棘》がチクチクと心を刺す。涙子の背中にヒヤリとした冷たさが広がった。
足の筋肉が引きちぎれる程の、爆発的な加速をする。
狭い路地だった。槍の尾、刃と逆の『石突き』と呼ばれる場所が、ガリガリと周囲の壁を削る。だが、そんな事も構わずに《石喰い》に追いすがった。
「なんだこのマネキン」
「何の能力者だ。念動能力(テレキネシス)か?」
学生達がマネキンと対峙する。一人はマネキンを念動による操作と誤認したらしい。男子学生は三人で、それなりの能力を持っている様だ。構える様も堂に入っていた。
されとて相手は人間ではない。マネキンの胸部や背中から伸びた十数本に及ぶ触手が、彼らの死角から襲いかかる。
「うぁぁッ!」
「何だよコレ! 何なんだよッ!」
一人が触手に噛まれ、パキパキと石化していく。残りの二人はその信じられない状況に、すぐさま落ち着きを無くした。先程まで演算されてたのだろう、自らの能力の構築式が霧散し、無手の状態に陥る。
学生の一人が石になるのを見ながら、涙子は下唇を強く噛んだ。
「うあああああああああ!!」
涙子は槍を大きく振りかぶり、《石喰い》の背中目掛けて振り下ろす。
《石喰い》に死角は無い。元々マネキンの姿は仮初、背は死角ですら無い。《獣の槍》の刃には触れず、柄に触手を巻きつける方法でたやすく攻撃を止めた。
「ぐ、ぐぅぅ! そこの男子ッ! 早く逃げて!」
涙子は触手と力比べをしながら、必死に声を上げる。
学生達は涙子の姿にも驚くが、言葉に従い這うようにして逃げようとする。だが――。
「うあぁぁぁ」
「やめ――」
悲鳴が途切れる。
伸びた触手が残った二人をも石化した。
「――ッ!」
その姿を見、ズキリと《棘》の痛みが増す。逃がそうとした二人でさえ助けられなかった。
《石喰い》は返す刀で、涙子の体に向け触手を伸ばした。
その時、涙子の体を掠めながら炎の矢が飛ぶ。触手数本に突き刺さり爆散させる。
箒に乗った愛衣が放った魔法だ。
「佐天さんッ! 伏せてください!」
愛衣は箒の飛行速度を落とさず、突進しながら《槍》に巻きつく触手を蹴り上げた。残る触手を右手で握りこみ、魔力を力の限り発動体に流し込む。
「火よ(フラマ)!」
魔法のキーとなる単語のみの簡素な魔法。だが、力を込めればそれなりの力になる。
愛衣の手を中心に炎が燃え広がり、触手がボロボロと崩れた。涙子はチリチリと肌を焼く熱気を感じながら、自由になった槍を手元に引き寄せる。
《石喰い》は触手を切り離し、更に距離を取った。愛衣の作った一瞬の火の壁を好都合と思ったのか、そのまま路地を駆け逃げる。
追いかけなきゃ、と思う二人の前に三つの石像があった。
涙子がグっと歯噛みする中、愛衣は石像の表面に触れた。
「――完全に石化しています。私には治療できません。佐天さん、早くしないと被害が増えます。行きましょう」
「行く、って。この人達このままにするのッ! 佐倉さん、どうにか出来ないの?」
涙子はすがりたかった、目の前の小さな魔法使いに。
愛衣は困った表情をしながら、首を横に振った。
「そんな――」
そうしてる間にも《石喰い》は被害を増えるかもしれない。
だが、そんな時にまた涙子の中に囁きがあった。
――《獣の槍》ならばこの程度の呪いを壊せる。
《槍》の持つ歴代の使い手の記憶が、それを後押しする。
「で、できるの?」
涙子が《槍》の囁きを問い直す。涙子の唐突な独り言に愛衣は眉をしかめた。
獣の槍は人を傷つけない、妖怪(バケモノ)を討つ破魔の槍。
それを、涙子は知っている。《槍》を自らの体に仕舞っているのを思い出した。確かに槍は、涙子の肌すらも傷つけなかった。つまり――。
「人を、斬るの……?」
人を斬る。人を傷つける。
いくら助けるためとはいえ、その行いに涙子は躊躇した。
弟との喧嘩ぐらいならした事がある。されど、幾ら傷つかないとはいえ、人に刃物を向けるという行いが、涙子の心を重くした。
――〝キミノオカゲダ〟。
言葉が耳に反響する。
「――ハァッ!」
涙子は奥歯を強く噛み、槍を大きく振るった。槍の軌跡に合わせ、長い髪も弧を描く。
槍はしっかりと三体の石像の胴を薙ぎ払う。ズプリと体内に差し込まれた槍は、傷一つ無くすり抜けていく。
「佐天さん、何をッ!」
涙子の唐突な行動に、愛衣は目を見張るも。
一拍の間。
ガラスが割れるような音と共に、男子学生の石化が解かれた。周囲には石の破片がパラパラと舞い落ちる。
石化していた間の記憶が無いのか、男子学生はキョトンとした顔で涙子たちを見ていた。
「――行こう」
言葉少なく、愛衣を急かせた。涙子は男子学生の顔を見る事無く、再び《石喰い》を追った。
◆
一通りの打ち合わせをした西条は、喫茶店の前で上条と別れようとしていた。
そこで西条は、自らの霊感を大きく揺らす存在を感じた。
「これは、妖気。しかもかなり大きい」
「え? 妖気、ですか?」
漫画やゲームで名前を聞くヤツだろうか、と上条は浮かべる。そして、目の前の人間が本物の霊能力者だと思い直した。
「それって、もしかして危険な感じでしょーか?」
「あぁ、それもかなりね。上条君、悪いが早速仕事を手伝ってもらおう」
西条は荷物から金属製の短筒を出した。グリップ部分を握り、スイッチを押すと金属が擦れる音と共に、警棒の様にグリップから金属棒が延び、一メートル程で止まる。
『神通棍』と呼ばれる、業界では一般的に使われる霊具だ。霊力の伝導率が良く、除霊効果が高いのだ。
元々西条は『霊剣ジャスティス』と呼ばれる霊具を使っているのだが、今回学園都市に入るにあたり、刃物や銃器といった『学園都市』を警戒させる霊具を持ち込んでいなかった。
使い慣れない神通棍を握り締め、スーツの懐に入れた破魔札も確認する。
上条を連れて行くに辺り霊視ゴーグルも必要かとも思ったが、遠くに悲鳴が聞こえ、必要ない事を悟る。
「さ、西条さん。あの声って!」
「一般人にも見える妖怪。これは大物だぞ、急ごう上条君」
西条は足に霊力を通して強化するが、人込みが邪魔して思うように進めない。それでも一般人の上条が全力で走って、何とか置いて行かれないという速度だ。
「うお! は、速いよ! 西条さん、速すぎる!」
後ろから上条の悲鳴にも似た声が上がった。
◆
いつの間にか涙子達は大通りに出ていた。
下校時のラッシュの中、人込みの上に《石喰い》の姿があった。幾つもの悲鳴が木霊し、混乱が伝播する。
「な、何て事」
愛衣はその惨状を見て呟く。彼女が考えていた最悪の状況だった。
本来、魔力や妖気、妖怪や霊などといったモノは特殊な素養が無いと見ることは適わない。だが、時として容易く人に見える事もある。
現在、羽生により莫大な妖気を注入された《石喰い》は、力の強大さ故、一般人の目にもはっきりと見えていた。
のっぺりとしたマネキンの顔。そこから伸びる異形の触手。次々と石化していく周囲の人間。能力がほとんど効かない存在。
なまじ力を持っている『学園都市』の学生だからこそ、初めて見る妖怪(バケモノ)に強く恐怖した。
涙子はその光景を見るなり、飛び出した。人込みの頭上を長髪が尾を引き駆け抜けていく。恐怖に逃げ出そうとする学生は、その姿に更に混乱した。
「いやーーーッ!」
「こっちにもバケモノだぁ!」
涙子に悲鳴と罵声が浴びせられる。怯えた学生が能力を振るうも、念力で飛ばされた小石は涙子は槍の一振りでいなされる。
涙子の姿に人波が割れる。その中を顔を歪めた涙子が走っていく。
だが、周囲の人間には、長い髪に隠れた涙子の表情も服装も体型も、おぼろげにしか見えない。
割れた人波の先には《石喰い》がいる。《石喰い》の軌跡を示すが如く、途中に幾つもの石像が並んでいた。
「あぁぁぁぁぁぁ!」
悲鳴にも似た咆哮。滲む視界を必死に見据え、ずいぶんと重くなった槍をがむしゃらに振るう。
槍を振るう度に石化された人間が元に戻っていくものの、周囲の人間たちは〝槍を振るい、暴れる〟涙子の姿に悲鳴を上げた。
周囲の人垣に当たらぬよう、槍を短く持った涙子は、標的たる《石喰い》を強襲する。迎撃するべく振るわれた触手を、一切の防御をせずに紙一重で避けていく。腕や足、頬に浅い傷が出来る。
それでも構わずに、《石喰い》の本体に肉薄した。マネキンの頭部に槍の刃を突きつけるも、柄を触手に絡まれ、再び力比べとなった。
ふと涙子の視線が、人垣を掻き分けてくる見慣れた影を捉えた。
正義感の強い子だ。たいした能力も無いのに、おそらくこの事態を見過ごせなかったんだろう。
(……初春)
涙子のクラスメイト、初春飾利がいた。確か今日も風紀委員の仕事がある、と言っていたので、その帰りなのだろう。
周囲の人間の避難をさせながら、涙子や《石喰い》の姿を見て、驚いている。幸い涙子の姿は髪が絡まり、ほとんど隠れていた。
それでも、涙子は今の自分を見られたく無かった。
浅はかな憧れに酔い、多くの人間を巻き込んでしまった自分を。
周囲の悲鳴が罪悪感を呼び起こし、初春の視線が羞恥を感じさせた。
槍を握る力が弱まる。その期を逃さず、周囲に伸ばされた《石喰い》の触手が鞭の様にしなった。
その一本が初春の近くの人間に当たりそうになる。
そして――。
(あぁ……)
初春がその人間に覆いかぶさった。幸い直撃は避けたものの、初春のトレードマークである花飾りがパリパリと石化し、地面に落ちる。
自らの油断。
自責の念で、涙子の戦意が崩れそうになる。様々な感情と思いが渦巻き、膝をつきそうになった。
その時、目の前の《石喰い》が殴られた様に体勢を崩す。だが、どうにか耐え切ったのだろう、〝ぶつかってきたモノ〟と更に力比べをし拮抗する。
〈佐天さん!〉
涙子にだけ聞こえる声がした。それはすぐ横、顔がぶつかりそうなくらいの場所からだ。
体が薄っすらと透けた愛衣がいた。涙子は知らなかったが、認識阻害という魔法を駆使している。
これだけの人間がいる中でも魔法が使える様に、愛衣は自らの体を隠蔽していた。
愛衣は箒の加速を使いつつ、前方に魔法障壁を展開して体当たりしたのだ。それでも《石喰い》は後ろに一歩下がる程度だった。
〈佐天さん、ここでは被害が広がってしまいます! この妖怪をこのまま押し出して、人気の無い場所まで引っ張ります!〉
愛衣は早口で涙子に説明する。念話を使っているのは、涙子の名前が周囲にバレないためだろう。
〈私一人じゃ無理なんです! お願いします! 力を、力を貸してください!〉
視界の端に起き上がろうとする初春がいた。
《棘》が更に痛みを増す。周りの悲鳴から逃げ出したい衝動が、涙子をギリギリで立たせていた。
悔しさや苛立ちを膝に込め、力の限り地面を蹴った。体ごと愛衣と一緒に《石喰い》へとぶつける。
「――ッ!!!」
衝撃。
口をへの字にしながら、必死に耐えた。
涙子と愛衣、二人分の力が辛うじて《石喰い》の本体を空中に押し上げる。
そこへ、幾つもの炎の矢が殺到し、《石喰い》を更に空中へ吹き飛ばす。愛衣が体当たりをする前に、あらかじめ飛ばしていた魔法の射手(サギタ・マギカ)。弧を描くように遠回りさせていたソレが突き刺さったのだ。
涙子は残っていた石像を槍の一振りで元に戻してから、《石喰い》を追撃する。
六階建ての比較的低いビル、その屋上に《石喰い》が落ちた。空を飛ぶ愛衣の手に捕まり、涙子も《石喰い》に食い下がる。
屋上に辿り着くなり愛衣の手を離し、落下速度を上乗せしてマネキンへ槍を突き刺した。
『ギャァァァァァァァァァァァ!!!』
《石喰い》が鳴き声を上げる。マネキンという仮初の殻が割れ、飛び出したのは巨大なムカデだ。
それこそが《石喰い》と呼ばれる妖怪変化の本体だった。
おおよそマネキンの体積と合わない巨大ムカデが、紫の血を撒き散らしながら、背に刺さった槍を抜こうと必死にもがく。
「――うッ! ――くッ!」
ムカデの背の中央に突き刺さった槍を、涙子は力の限り掴む。体は大きく揺さぶられ、呼吸すらままならくなっていた。酸素を求める体が必死に口を開けさせるものの、息が詰まり体に入ってこない。
《石喰い》たるムカデは、背に涙子を乗せたまま逃亡を開始した。全長二十メートルを越える巨体が、ビルの屋上から屋上へと移動する。
途中、幾つかのビルの屋上にあった手すりやプレハブさえも粉々にし、疾走する。まるで空飛ぶダンプカーの様だ。
――目。それこそがこの化生の急所。
《槍》の知識が、涙子に助言を与える。
「目、って」
先程よりはマシになったが、風が顔を叩き呼吸は浅い。息継ぎをしながら、なんとか槍の囁きに答える。
涙子は力を振り絞り、叫んだ。
「佐倉さん! 動きを止めて!」
愛衣はその言葉を聞き、箒を最高速にした。ムカデが通る進路を予測し、それを遮る場所へと先回りをする。
降り立った建物の屋上から、愛衣は真正面に見える《石喰い》に対峙する。
そして紡ぐ、自らの最大の魔法を。
「メイプル・ネイプル・アラモード……」
始動キーと呼ばれる言葉を唱えた。
「ものみな焼き尽くす浄化の炎破壊の王にして……」
前方では、必死に涙子がムカデの背に掴まっている。
「再生の徴よ我が手に宿りて敵を喰らえ……」
愛衣の周囲に魔力と精霊が渦巻いた。空気に熱が帯び、かざした手を中心に炎が燃え広がる。
「紅き焔(フラグランティア・ルビカンス)ッッーー!!」
目の前に迫ったムカデの鼻っ面に向かい、力の限り魔法を叩き付けた。
ムカデの顔が炎に焼かれる。愛衣の目前で、巨大な炎の壁が唸りを上げた。
《石喰い》は一瞬力を失い真下へと、建物と建物の間へ落ちていく。
涙子はその機会を見逃さず、槍を引き抜き、《石喰い》の背中を一気に走りぬけた。目指すは頭部、ムカデの目玉だ。
真下へ落ちていく中を、落下速度より早く涙子が駆ける。
「――ッ!」
頭部に辿り着き、槍の刃を目玉に突き刺した。
『ギャアアアアアアアアアア!!』
《石喰い》の悲鳴が涙子の耳朶を揺らす。肉を抉る感触が伝わった。
《獣の槍》にある技術が、バケモノへ止めを刺すための動きを勝手に行なう。
槍を更に強くねじ込み、ムカデを建物の壁面、コンクリートへ押し付ける。《石喰い》が槍と壁に挟まれ、体をガリガリと削られた。
その間も《獣の槍》の破魔たる”毒”が、《石喰い》の急所を通し全身に回っていく。
地面に衝突する寸前、《石喰い》の体が塵となり消えた。空中にパラパラと、妖気の残滓が舞う。
「え?」
《石喰い》が急に消滅した事で、涙子は支えを失い、空中でバランスを崩した。
そこを――。
「佐天さん!」
魔法を放った後、飛行魔法で追いかけてきた愛衣にキャッチされた。
ゆっくりと地面に着地した二人は、力尽きた様に座り込んだ。
「ハハハ、う、嘘みたいです。あんな強い妖怪を、退治できたなんて」
乾いた笑いをしつつ、愛衣は安堵の息を吐いた。彼女が見た限り、これほどの惨事ながら人死には出ていないはずだ。
頼る者がいないという状況で、必死に虚勢を張っていたが、《石喰い》を退治した事でそれは消えていた。
心臓はバクバクと未だ鼓動は激しく、手はビッシリと汗をかいていた。
横を見れば、涙子は長い髪を地面に放射線状に広げながら、顔を頷かせている。
怪我をしているのか、と声をかけようとした愛衣だが、髪の隙間から聞こえる嗚咽で留まった。
「佐天、さん……」
涙子は槍を胸で抱くようにして泣いていた。
グシュグシュと、言葉にならない声が聞こえる。
数分、いや数秒だろうか、愛衣はただ涙子を見守った。やがて、涙子がはっきりとした言葉を紡いだ。
「わ、私、ただこの《槍》を手に入れて、いい気になってた。まるで超能力者に、ヒーローにでもなった気だった。」
鼻をすする音。長髪が顔を隠しているのに、愛衣にはその泣き顔が見える気がした。
「でも、ダメだ。覚悟も責任も知らずに、力だけ見ていた。いくら力があろうが、やっぱり私はレベル0の役立たずだ。ううん、役立たずならまだいい。皆に迷惑かけて、それで……」
「そんな! だって、佐天さんは悪くないじゃないですか! あの羽生って人を、妖怪を必死に止めようとしました」
愛衣が涙子の言葉に反論する。
涙子は顔を上げた。涙と鼻水でグジュグジュになった顔を歪ませ、自嘲の笑みを浮かべる。
「でもね、佐倉さん。羽生さんを解放したのは、私なんだよ」
その言葉と表情が、愛衣の心を抉った。
戦いと言う名の『暴力』の中で、涙子は体も心も傷だらけになってしまったのだろう。
愛衣も初めての戦いの時、酷く泣いた。恐かった。それは自分が傷つく事だけではなく、他人を傷つける事が恐かったのだ。
その時の自分には高音という姉と、ガンドルフィーニという師がいた。他にも頼るべき仲間がたくさんいた。
だがどうだろう。《学園都市》という場所で、本来ありえない異質な力を持ってしまった涙子に、そんな存在はいない。
いるとしたら自分だけだ。愛衣はそう思い、言葉をかけようとする。
そこへ――。
「動くな!」
第三者の声がかかった。
◆
人込みを掻き分け、《石喰い》が居た場所へ辿り着いた西条達だったが、そこに妖怪の姿は無かった。
周囲に急を要する重傷人がいない事を確認すると、西条は妖怪を追走しようとした。
風紀委員だという人間に軽く事情を聞くと、どうやら妖怪と対峙する奇妙な人影があったとか。その攻防の最中、ビルの向こう側へと、妖怪と人影は消えたらしい。
息を切らせ、上条が追いついてきた。
西条はそんな上条を肩で担いだ。
「え? え?」
「すまないな、上条君。妖怪を追走するんで、しっかりと掴まってくれ。あ、右手は触れないようにしてくれたまえよ」
「な、何を――」
「喋ると、舌を噛むよ」
西条は足に霊力を込めて走る。車と並走せんばかりの速度で、細い路地を駆け抜ける。外部の非常階段がむき出しの建物を見つけると、その階段を一気に昇り、屋上に飛び出した。
「――いいッ!――のわぁ!」
ガクガクと揺らされ、目まぐるしく風景が移り変わり、上条は目を回す。
屋上に出た西条は、《石食い》が残した破壊痕を辿る。
「酷いな」
幾ら霊感が鈍くなっているとは言え、これだけの妖力の残滓と破壊痕があれば、足跡を辿るのも容易い。
ビルからビルへ、霊力を駆使し飛び移っていく。肩に上条を担ぎながらも、重さを感じさせない軽やかな動きだった。
途中、何かを感じ、ビルから飛び降りた。
「うわぁぁぁぁ!」
肩口から上条の悲鳴が聞こえるも、無視をした。
細い路地へ着地した西条は、上条を降ろす。
「ぷはー、ぷはー」
「上条君、いきなりで悪いんだが、僕の肩に触れて貰えるかな。もちろん右手で」
「え? こ、こうですか」
上条が右手で触れると、西条の霊力が綺麗に霧散する。
天然のステルス能力だ。
「この二つ先の路地に、目標がいる。妖力が消えてるから、おそらく妖怪は始末されたのだろう。だが、もう片方の〝奇妙な人影〟が気になる。先程、妖力とは違う禍々しさを僅かに感じた。できるだけ気配を殺し、近づこう」
西条の言葉に、上条は首を縦に振った。
二人は無言で、そっと件の路地へ近づく。路地の手前の角で上条に手を放してもらい、勢い良く飛び込んだ。
「動くな!」
手にはいつでも破魔札を投げられるように構えている。
西条の視線の先には二つの人影があった。
槍を抱える信じられない程長い髪を持つ人影と、中学生くらいの少女だ。
(魔力、だと)
少女の方には認識阻害の魔法がかけられていたが、抗魔力のある西条には通じない。むしろ纏う魔力すらはっきり視認できた。
後ろから覗き込んだ上条も、幻想殺し(イマジンブレイカー)が魔法効果を打ち消していたので、しっかりと少女を見ていた。
「お、女の子? それに何、あのホラーっぽい人は!」
上条は愛衣に違和感を抱かず、涙子の奇妙な姿に目を奪われた。
◆
(いけない)
愛衣は目の前に現れた二人に対し、瞬時にどうやって逃げるかを考えた。
幾ら緊急事態とは言え、魔法使いである自分は異質。しかも《学園都市》でこうも暴れたとなったら、どういう組織間の火種になるかわからない。
西条の体に霊力がある事を感じながらも、疲労に染まった頭は冷静に判断をくだせなかった。
「に、逃げますよ!」
愛衣は立ち上がり、力無い涙子の腕を無理やり引っ張った。
涙子は愛衣にされるがまま、幽鬼の様に立ち上がる。
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
上条が涙子を捕まえようと〝右手〟を伸ばした。その手が《槍》を掴む。
パリンというガラスが割れるような音とともに、長髪が崩れ落ち、普段の涙子の姿に戻った。
「え……女の子?」
上条は涙子の変わりように驚き、《槍》を掴んだ手を離してしまう。
一番驚いたのは涙子だ、体に残っていた力がごっそり取り除かれていた。疲労が一気に体に襲い掛かる。
「なに、これ」
涙子は目を見開く。
上条が《槍》から手を離した瞬間、《槍》の現状が涙子に理解できた。
《獣の槍》の中には、代々の担い手が受け継いできた、バケモノを屠るための技術と知識が保管されている。その一人分のデータが破壊された、と《槍》の知識が囁く。
涙子の知る限り最高の力を持つ槍の一部が『壊された』のだ。
(こ、『壊された』)
だが、タイミングが悪かった。上条の何気ない行動に涙子は敏感に反応する。
涙子に手を伸ばした男子高校生の姿が、急におぞましく見えた。
「――ヒッ!」
再び涙子の髪が伸び、力の限りを使い逃げた。愛衣の手も、上条の手も、西条の視線からも。
涙子の行動に呆気に取られながらも、愛衣も魔法で目くらましの光源を作り、上空へと逃亡する。
光が路地を満たし、その場にいた人間の目を焼く。
気付いた時には西条と上条、男二人だけが取り残された。
「……あれ?」
上条がマヌケな声をあげる。
「ふぅ、失敗したな」
西条は頭を掻いた。もはや追いつける様な距離ではない。やるだけ無駄だろう。
それに、どうやら勘違いをしていたようだ、と思い直す。
(魔法か。それにもう一人の少女は確かに――)
泣いていた、そう西条は口の中で呟いた。
◆
涙子は自分の寮の近くまで来ると、《槍》の力を解除した。
携帯を見れば、何度か愛衣からのコールがあったが、電源を落としてポケットに放り込む。 夜の帳が落ち、街灯と周囲の住居から漏れる光だけが道を照らす。
涙子の胸中では、今日浴びせられた悲鳴や罵声が蘇り、石となった人間の姿がフラッシュバックする。
ムカデへ槍を突き刺した肉の感触が、手の平にまだ残っている。あの時吹き出た紫色の血、そのほとんどは涙子を体ごと覆っていた長髪にかかったものの、見れば制服の端に小さな染みを作っていた。
重い足を引きずる。
今すぐにでも、地面に倒れこみたかった。
ふと、引きずっていた槍を思い出す。
なぜ、自分が未だにこの《槍》を持っているのか。
「私、嫌だ。もう力なんていらない」
自分に確認するように呟く。対して《槍》に反応はもちろん無い。
自責の念がある。羽生を開放してしまった責任。《棘》は未だ疼いていた。
それでも、自分には力を振るう資格は無いと思ってしまう。
《石喰い》に初春が襲われた時、自分は力が振るえたはずなのに止めてしまった。結果的に初春は紙一重で避けたものの、間違えば初春は死んでいたかもしれない。
思えば《槍》を持って、まだ一日しか経っていない。なのに早くも大失敗を犯してしまう、自分の情けなさに苦笑いが漏れた。
寮の近所のマンション前に、金属コンテナ型のゴミ捨て場が見えた。
回収してくれるかな、と疑問に思いつつコンテナの蓋を開ける。
「私は、ヒーローになれないよ。《獣の槍》、ごめんね」
槍をコンテナの中に入れ、蓋を閉めた。
槍は沈黙。なぜならば《槍》は道具であり、道具は使い手の意向のままに働くだけなのだから。
涙子は《獣の槍》を捨て、帰路へ着くのだった。
第六話 END