◇
MPが回復しきっていないのが不安だったが、情報収集のために、マヤを街に送り出した。パラディンのグエンも護衛につけている。
秋人と他の二人は、川べりの荷駄置き場の木箱の間に隠れていた。他に安全な場所を探す余裕もなく、なるべく誰も来ないのを願うしかない。
湿気が多く、夜が白みはじめる前の冷気で、骨まで凍えそうになる。日本より気温が低いのか、冬の季節にあたるのか。
ガッシュとユエルを脇につけて座りこみ、秋人は両腕を抱えながら震えていた。その目は、ウインドウ内の、マヤとグエンの様子に向けられている。
(このあたりの地理が知りたい。できれば商人だが……朝にならないと無理だろうな。そもそも人がいない)
マヤとグエンは《幻覚》で、男の二人組に姿を変えている。
秋人たちと二手に分かれるのも不安だったが、五人でぞろぞろ歩くと目立ちすぎる。人通りもまったくないのだ。
グエンには、ガッシュが兵士から奪った剣を持たせている。マヤを守りつつ逃げるぐらいならできるはずだ。それに、秋人自身、街にくり出すのは不安だった。いきなり逃走劇になったら、ついていける自信がない。自分が一番弱いのだ。
朝になれば移動しなければならないだろうが、この街外れの荷駄場なら、比較的安全なはずだ。
マヤとグエンはだんだんと、城壁の近くまで近づいてきていた。このあたりは旅宿が多く、酒場のいくつかには明かりが灯っている。
(嫌な雰囲気だが……仕方ない。このへんで情報を貰おう)
先ほどから、何か大騒ぎしている声が聞こえていた。おそらく酔っぱらいだろう。あたりをつけて向かうと、路地裏の方に、騒ぎの声の一団がいた。
◇
マヤとグエンの前に、へらへら笑う男が座っている。
『もう一度《魅了》を』
秋人の指示を受けて、マヤが再び呪文を使う。髪もヒゲもぼさぼさの男は、《魅了》をかけられて、だらしなく顔を緩めた。
酒瓶を片手に、路地裏で仲間と騒いでいた男だ。全員が武装していたが、その装備がバラバラなことから、兵士ではなさそうだった。
様子をうかがっていると、深酔いして手に負えなくなったこの男を残して、仲間たちは去って行った。これ幸いと、《魅了》で情報源にしたのだ。すでに男は、マヤとグエンを大親友と思いこんで、聞かれたことをべらべら喋っている。
ただ、この呪文は強力だが、抵抗されやすく、継続時間も長くて三十分ほど。《魅了》されている間の記憶もあるので、下手なタイミングで切れると、よけいに酷いことになる。酒で脳みその茹だった相手だが、すでに《魅了》を二度かけ直している。
男の話では、近くの街まで歩いて三日、一週間ほど歩けば、子爵領を抜けられるらしい。
馬か馬車が欲しいと一瞬思ったが、そもそも秋人は馬に乗れないし、御者ができる者いない。脳みそまでファンタジーになってどうする、と秋人は自分に毒づく。歩いて行くしかない。
そして問題なのは、やはり凶悪な野生動物や、盗賊が出るらしいことだ。武装商人もキャラバンを組んで護衛を雇うし、そもそも商人以外では、街から街へと移動すること自体が少ないとか。
単独で旅することと、キャラバンとを、秋人は天秤にかける。
(一人の方が安心だが……どこで道から外れるかもわからない。キャラバンの方が旅の仕方を学べるか? 他の護衛の様子を観察すれば、冒険者に混ざるのも容易になるだろうし……姿を《幻覚》で変えておけば、追手も問題ない。危険だが、先のことを考えると、ここの常識を学ぶいい機会か)
そう決めると、秋人は意識をグエンに移す。
『さっき、キャラバンの護衛の仕事があるって言ってたな? 俺も紹介してもらえないか?』
「さっき、キャラバンの、護衛の、仕事が、あるって、言ってたな? 俺も、紹介、してもらえないか?」
秋人の意識の通りに、グエンが話す。ぎこちない、外国語を喋っているような口調だったが、酔った男は気にもしていない。
チャットのような形でキャラクターを喋らせられることを、秋人は以前に発見していた。
グエンの言葉を聞いて、男は気まずそうな顔で、
「お、おお、護衛か? それはいいんだけどよ、その装備じゃなあ。ちゃんと鎧もつけてねえと、雇ってもらえねえんじゃねえか」
グエンとマヤは、ごく普通の布の服だ。グエンは腰に剣を挿しているとはいえ、街の外に出るには心もとない。
(護衛でなくても商人として混ざれば……いや、無理か。ややこしい符丁や勘合があったらまずいし、そもそも荷がない。装備を調達するしかないか)
◇
肩に寄りかかるユエルの体温を感じながら、秋人は白みはじめた空を見上げた。ユエルはうつらうつらと、頭を揺らしている。
替わりに起きたガッシュが、今は周囲の見張りをしている。
ゲームでも睡眠は必要だったし、空腹度や、喉の渇きという項目もあった。無視しているとステータスがどんどん低下し、眠ったり食事を取ると、回復するというシステムだ。
ゲームのときのAIたちは、自己判断で、持っている食料を食べたり、飲んだりしていたが……
(食料が必要だ)
それも五人分。
一人だけなら、《魅了》で分けてもらえるだろうが、さすがに五人は量が多すぎる。《魅了》は相手に親しみを覚えてもらう呪文であって、何でも命令を聞かせられる呪文ではない。そういった呪文もあるにはあるが、
(いちいち食料を手に入れるのに、《支配》とか《誓約》なんて使ってられるか)
どちらも高位の呪文で、大量のMPと、高価な秘薬を必要とする。
そこで、秋人は重大な事実に気づいた。
(……秘薬。そうか、この世界に、ゲームで使ってた秘薬はあるのか? ないとしたら、高位の呪文はほとんど使えなくなる。ユエルの《蘇生》や《完全治癒》もだ。秘薬の代用品はあるのか? そこから調べないといけないのか。それに……)
秋人は眉を曇らせる。
この街から離れ、安全が確保できたら、マヤの《次元の門》を試してみようと思っていたのだ。
かなりの日数の儀式を必要とするが、ゲーム内では、異界である星幽界や、影の世界へと渡ることのできる呪文だった。
だが、それには、複数の貴重な秘薬が必要となる。それをすっかり忘れていた。
あまり期待していたわけではないが、それでもあったかすかな望みが断たれ、秋人の心は暗くなる。
『ここだぜ! 親父は臭ぇが、鉄はいいもんが揃ってる』
ウインドウから聞こえてきた声に、秋人は顔を上げた。
映っている光景は、職人通りの鍛冶場の一つらしい。あの男に、武器と鎧が手に入る場所を案内してもらったのだ。幸い、そこは朝早くから開いていた。
岩のようなゴツゴツした初老の鍛冶屋が、屋内の作業場の前で、黙々と何かの金属を削っている。男の軽口を気にした様子もない。
勝手に入っていく男に続いて、マヤとグエンも中に入った。
適当に選べという鍛冶屋の言葉に、秋人が指示を出す。
グエンは、刃渡り一メートルほどの長剣と、体格に合いそうな鎖かたびらを手にとった。心臓の部分には鉄板が縫いつけられている。
もっと重装備の鎧もあったが、移動のことを考えると、これぐらいがちょうどいい。
グエンに装備させてから、試しにステータスを表示してみた。
グエン 《装備》
右手:ロングソード
左手:なし
頭:なし
胴:チェインメイル
腰:なし
手:なし
足:なし
アクセサリ:なし
(なるほどなあ……)
普通の服や靴は表示されないらしい。腰に挿していた剣も表示されていないのは、予備武器扱いになっているのだろうか。
恐らくゲーム的表現のために、いろいろ省略されているのだろう。魔法の武器でも装備したら、+1とか表示されるのかもしれない。
(鑑定代わりにはなるか。なまくらを掴まされることもなさそうだ)
そう納得する。
『盾も選んでおけ。使いやすそうなのをな』
その指示にグエンは、ふちを鉄で補強した、円形の盾を手に取った。ゲーム的に言えばラウンドシールドか。AIにも好みがあるようだ。
マヤの方は、六十センチほどのショートソードを。これは護身具として秋人が持つつもりだ。敵を切れるとも思えないが、不安は紛らわせる。弓も欲しかったが、ここには置いていないようだ。
小物も含めて、一通り装備を選び終わると。
グエンは男に近づき、そっと言った。
「銅貨の、袋と、銀貨を、一枚、貸してくれ」
その言葉に、男は不安そうに差し出す。
「やらねえぞ? 俺も厳しいんだ」
「借りる、だけだ」
グエンはそれらを、後ろ手にマヤに渡す。
グエンの陰で、マヤはじっと銀貨を観察し、細部を把握し終わると、小声で呪文を唱えた。すると、手の中の銅貨がすべて銀貨に変わった。
秋人の指示で、《幻覚》の呪文による偽銀貨を造ったのだ。
金貨ならともかく、銀貨なら詳しく調べられないだろう。男からだいたいの値段は聞いているから、それで足りるはずだ。
期待通り、支払いは何事もなく終わった。
男に銀貨を多めに返して、ともに鍛冶屋から出る。
躊躇なく贋金造りを行った罪悪感は、秋人にはあまりない。別世界の通貨にたいして、あまりリアリティを持てないのだ。
それに《幻覚》でも、永続化するとそれなりにMPを消費するし、疑り深い人間なら、手触りで気づかれる可能性もある。金貨などで作っていたら、すぐにバレただろう。あまり多用すべきではない。
(《幻覚》なんて、ゲームじゃほとんど使いもしなかったのにな。犯罪者になったときに、ガードに殺されないように変装したときぐらいか。しかし、いい加減マヤのMPが心配だ。ガッシュの装備も整えたいが、その前に食料を調達して……)
ふっと空気が変わった。
ウインドウを前に考えこんでいた秋人の隣で、ガッシュが腰を浮かせていた。ユエルも目を覚まし、秋人の肩から身を起こす。
秋人たちの隠れている荷駄場に、複数の足音が近づいてきた。
◇
一瞬だけ顔を出して見ると、遠くに兵士の一団が近づいてきていた。隊列の上に伸びるいくつもの槍と、腰の剣が、朝日を受けて輝いている。
秋人は慌てて引っこんだ。
(早すぎる! なんでこの場所がわかった!? しらみ潰しでたまたまぶつかったのか? いや違う。マヤの方は兵士なんて見かけてない。こっちの位置がわかってるんだ。斥候が居たのか!?)
焦る間にも、足音はどんどん近づいてくる。悪いことに、その足音は、秋人たちのいる荷駄場を囲むように接近していた。逃げ場がない。
(まずいまずいまずいまずい)
マヤはいない。《透明化》で切り抜けることはできない。
グエンに剣を渡したために無手のガッシュと、プリーストのユエルがいるだけだ。こちらに追手が来ると思っていなかったのが、完全に裏目に出た。あの数を相手にかなうとは思えない。
兵士たちの足音が変わった。速度が遅くなり、バラバラになり、明らかにこちらの存在を警戒している。どこまで来ているのか気が気でないが、《遠目》がない今、偵察もできない。
「出てこい! いるのはわかっている!」
すぐ近くで怒鳴り声がした。
複数の人間の息づかいと、長靴が石畳を叩く足音が、荷駄場に散らばっている。この木箱の陰にもすぐ来るだろう。そう思うまに、ぞっとするほど近くで足音が響き、木箱の角から、兜と胸当てをつけた兵士の姿がのぞいた。
『撃退しろ!』
頭が真っ白になった秋人は、それだけを叫んだ。
次の瞬間、爆音とともに、兵士の体が吹き飛んだ。
石畳をバウンドし、荷駄場の壁にぶつかって、地面に落ちる。口から血を吐き、すでに意識はなさそうだ。その胸当てはベコリとへこんでいた。
爆心地には、放った蹴り足を戻す、ガッシュの姿があった。
蹴りだけで兵士を弾き飛ばしたのだ。
秋人が呆然としている間に、他の兵士がその物音を聞きつけて集まってきた。
「いたぞ!」
背後から怒鳴り声が響く。すぐ背中から呪文詠唱が聞こえ、慌てて振り向くと、ユエルが《衝撃》を放つところだった。
巨大な空気の塊が動き、反対側から木箱の間に入ろうとしていた兵士たちが、木の葉のように吹っ飛ぶ。手足をありえない方向に向けて、兵士たちはばらばらと地面に落ちた。
その光景に、他の兵士たちも呆気に取られる。
そこで秋人の脳は、ようやく再起動を果たした。
(……そ、そうだ。焦るな。プリーストにも攻撃呪文はあるんだ。搦手は無理でも、正面突破はできる)
『川上に逃げる! ガッシュは武器を拾って先行しろ! ユエルは追撃を防げ!』
ガッシュの動きは俊敏だった。足ですくい上げるようにして槍を拾い上げると、旋風のような槍さばきで、またたくまに兵士二人を戦闘不能にした。
包囲が解けたと見て、秋人もそちらの方向に走り出そうとするが、立ち上がったところでつんのめってしまう。足が震えて立てないのだ。地面が揺れているようで、足に力が入らない。血液が過剰に頭にのぼり、ガンガン頭痛が襲ってくる。
(くそくそくそくそ! 落ち着け! これじゃ訳のわからないうちにやられちまう! 走って逃げるだけだ!)
柔らかい腕の感触が腰に回り、ようやく秋人は立ち上がることができた。ユエルが支えてくれたのだ。ガッシュは前方で長い槍を振り回して、敵兵を近づけさせないでいる。秋人は必死にそちらの方向へ走り出した。
◇
逃げる途中で、秋人はようやくマヤとグエンのことを思い出した。《遠目》を上空に飛ばしてお互いの位置を確認し、なんとか合流に成功した。
しかし、兵士に追われて街を走り回り、かなり目立ってしまった。
酔っぱらいの男の、キャラバン護衛という話も、中途半端に打ち切ってしまっている。今から男を探して、街をさまようわけにもいかない。
こうなったら、運に望みを託して、街から脱出するしかない。
前触れもなく隠れていた場所を襲われたことも、引っかかっている。街に留まるべきではない。嫌な予感がするのだ。そもそも、もう街中はうんざりだった。
今は路地裏の行き止まり、ゴミ溜めの陰に、《透明化》をかけて隠れている。酷い臭いだが、贅沢を言っている場合ではない。
(正門も封鎖状態か。《透明化》でも危険だな)
偵察を行っていたが、街の各門は、兵士たちに完全に固められていた。認可証のない者は通行禁止になっているらしい。
先ほどかいま見たガッシュの実力からして、グエン、ガッシュに、スペルキャスターの二人の力があれば、正面突破も不可能ではないだろうが……
(そこから先をどうするんだ? 追撃を受けたら? ゲームじゃ面倒で、パワープレイばかりしてたけど……殺されるかもしれない場面で、先の見えない特攻とかできるか。転んだだけでアウトだ。俺が臆病なだけか? 回避できるもんなら回避したい……)
先ほどの逃走劇を思い出すと、今でも震えが来る。いくらキャラクターたちが強くても、秋人は斬られれば死ぬのだ。そして、その死がひどく身近にあることは、館から逃げ出したときに思い知っている。
(城壁を越えよう)
《浮遊》は、高度十メートルまで浮力を得られる。壁をよじ登るようにして行けば、なんとかなるはずだ。五人は足音を殺して、城壁の方向に移動を始めた。
(問題はMPだ。脱出したら、早くマヤを休ませないと……)
《遠目》を出している間は、少ないとはいえ、じりじりとMPを消費する。それでなくても、朝から《魅了》やら《幻覚》やら《透明化》やらを使いっぱなしだ。ここでさらに、五人分の《浮遊》を使うのだ。比較的低レベルの呪文とはいえ、ここまで重なると厳しい。すでにマヤのMPは四分の一を切っていた。
マヤの呪文は強力だが、その分、使えなくなったときの反動は大きい。
MPには常に注意しなければならないし、呪文の使い所を間違えてはいけない。
(こいつらの力は凄いが、俺の頭が追いついてないんだ。全然使いこなせてない。生き残るためには、頭を動かさないと……)
生死は自分の判断にかかっている。ベッドの上でのほほんとしていたころが懐かしい。
人のいない路地裏を選んで、ようやく城壁までたどりついた。
マヤの《浮遊》を受け、城壁を這い上がるように登っていく。大きな風船が、体を押し上げていくような感覚だ。機敏な動きはできないため、戦闘向きの呪文ではない。
最上部まで到達したが、城壁の見張り台にも兵士がいたので、注意深く、音を立てないように、城壁を乗り越える。
これで見納めという気分で、都市の方を振り返った秋人は、眼下に広がるその光景に、少しだけ状況を忘れた。
(すげえ……)
壮観な景色だった。
高所から見下ろす中世都市。
洗濯物のひるがえる入り組んだ路地や、屋台の集まっている広場。それらを蟻のように移動する住民たち。職人通りの方向からは、いくつも煙が立ち上がっている。
そして、それらを睥睨する、丘の上の城。
(ファンタジーだよな……)
ゲームにどっぷりはまっていた秋人だ。ファンタジー世界への憧れはある。
いつか、命の危険がなくなったときに、ゆっくりと旅をしてみたい。
そんなことを考えながら、秋人は城壁を下りはじめた。
◇
城壁の外にも貧民街のようなものはあったが、それらはすぐに途切れ、あとは田園風景が広がっていた。
街から十分離れ、あたりに人影がないことを確認すると、秋人は《透明化》を解除した。
酔った男からの情報を頼りに、道を進んでいく。馬車二台がすれ違える程度の、踏み固められた土の道だ。
安全のために、道から離れて歩きたかったが、あたりは見晴らしがよく、隠れる場所もない、なだらかな草原が広がっている。
自分たちが脱出したことは子爵側にはわからないだろうし、しばらく追撃はないだろう。
(それにしても……)
食料のことを考えると、気が重くなる。
四人とも表情には出していないが、ステータスには『空腹』と『渇き』が点灯している。
眠る余裕のなかったマヤとグエンは、『睡眠不足』もだ。放っておけば、どんどん能力が低下していくはずだ。
秋人も一睡もしていない。興奮のせいか眠気は感じないが、脳の回転が鈍くなっているのはわかる。
(鹿か何かを獲れば……弓がないか。木の枝で弓を作れれば……いや、大工スキルなんて誰も取ってない。そもそも動物すら見当たらない)
野営についても悩みどころだ。このままだと原っぱに雑魚寝することになるが、それでまともに眠れるとも思えない。夜になったら相当冷えるはずだ。
マヤの呪文で火は起こせるだろうが、それは目立つことと同義でもある。盗賊という言葉がちらつく。
(社会から外れるだけで、こんなに苦労するなんて)
現代社会では感じなかったことだが、街の外は、人間の領域ではないのだ。道の上を歩いている今は、次の街という希望があるが、万が一にも道を見失ったら、あてどない草原をさまようことになる。サバイバル能力のない現状、十中八九、野垂れ死にだ。
道から離れるという不安は、そこにもあった。
(どこか隠れる場所でもあれば……)
せめて、人目を避けて、休むことができる。
眠気と空腹と疲労とで、朦朧となりながら、秋人は足を引きずるようにして歩いた。
◇
日が天頂にかかり、傾いていった。
秋人は何度か気を失いながら、そのたびに仲間に抱き起こされ、歩みを進めていた。
そして、街からも遠く離れ、空がだんだんと赤づきはじめたころ。
曲がりくねった道の先に、小高い丘が見えてきた。その先に、目にも鮮やかな緑が広がっている。
(森だ!)
森なら動物もいるだろう。狩猟スキルはないが、ガッシュなら、どうにか捕まえられるかもしれない。もしかしたら、水場もあるかも。それでなくても、休むことはできる。
疲労も限界に達している。秋人の心は歓喜にあふれた。
偵察もせずに、秋人はその森に急いだ。
次の瞬間、秋人の鼻先に、矢尻があった。
横から伸びた手が、その矢を掴んでいた。ビィーン……と、矢羽根が目の前で震えている。
ガッシュが、秋人の眉間に向けられた矢を、寸でのところで受け止めたのだ。
森の中から、歓声があがる。
「すげえ。手で止めたぞ」
「ふざけんなおい、いきなり頭を狙うなよ。捕まえろって言われてただろ」
「俺は殺っていいって聞いたぜ。この五人組だろ?」
「どっちだよ。まあいいか。バラせバラせ」
その言葉とともに、森の中から男たちが姿を現した。思い思いの武装をし、剣呑な雰囲気を放っている。
(盗賊……じゃない? 先回りされた? なんで?)
秋人は呆然となりながら、それらを見つめた。
森の中に鋼がきらめいたのを見て、我に返る。
『《矢避けの加護》をかけろっ!』
次の瞬間飛んできた矢は詠唱が間に合わず、ガッシュが剣で切り払い、グエンが盾で受け止めて防いだ。さらに森から追撃が来るが、それらは風に逸らされたように弾かれた。飛来物を弾く、ミイサル・プロテクションの一種だ。
その光景に、男たちが動揺する。
「呪文使いだ! ぶっ殺すぞっ!」
剣や槍を手に、突っこんでくる。
『近づけさせるな! マヤは《遠目》を上空に!』
偵察ウインドウが開く。高空から見下ろす形で、敵とこちらの位置を把握する。
最悪なことに、後方から近づいてくる一団があった。子爵の兵士たちだ。目の前の男たちは、足止め役の冒険者だろうか。
なぜか、都市を脱出したことがばれているのだ。
(そうか……! なんて間抜け!)
秋人はある可能性に気づいた。
そうしているうちにも戦いは始まる。
剣と盾、鎧を装備したグエンが、最前線に立ちはだかった。
剣を振りかざして向かってきた男を、剣を合わせることもなく、すれ違いざまに切り捨てた。そのまま盾で隣の男を強打し、蹴倒したところを、喉に剣を突きたてた。
死体から剣を抜き、盾を構え、グエンは再び、不動の体勢になる。
一瞬で、二人の敵を始末していた。その早業に、
「んだ……こいつ……」
力量の差を感じたのか、残りの三人は躊躇している。
それを見ながら、秋人は必死で頭を回転させる。
(このまま戦っていてもダメだ。後ろの兵士たちと乱戦になるのは避けたい。それにこれじゃキリがない。ここで切り離さないと)
『左から回りこもうとしてる奴らを牽制しろ! マヤはMP温存! ガッシュは後ろを守れ! 全員で森に突っこむ!』
ユエルの《衝撃》が、こちらの側面を突こうとしていた男たちに叩きつけられ、数人を吹き飛ばした。
グエンが盾を前に、正面の敵に突撃する。
まさに閃光のような剣技で、男たちに反応する暇も与えず、数度の足運びだけで切り捨てていった。その隙をついて、秋人たちは森に逃げこんだ。
◇
夜も暮れ、兵士たちのたいまつだけが、木々の間をちろちろと動いている。
街道の上には、兵士が数人と、隊長格の男、それに、あの巫女の姿があった。その右目は包帯で塞がれている。
やがて、森から出てきた兵士の一人が、隊長格の男に向かって言った。
「奴らの死体を見つけました。冒険者のものも。残りは逃げ去ったようです」
「ふーむ……意外と抵抗されたのだな。よし、案内しろ」
森の中に踏みこみ、進んでいくと、血と糞便の臭いが強く漂ってきた。激戦とおぼしき場所で、周囲の木がいくつも焼け焦げている。
その中央に、五体の、損傷の激しい死体があった。
「このあたりに散らばっていたのを集めておきました」
兵士の言葉にうなずくと、兵士長は隣の巫女に尋ねた。
「こいつらで間違いないか?」
その言葉に、巫女はふらふらと近づく。
その五人は、確かに、召還された勇者たちのものだった。秋人の顔もある。何より、ここで異貌の神イ=ハの《印》が途切れているのだ。死んだのは間違いない。
教団の未来が塞がれようとしているのを感じて、巫女は必死で言い募った。
「今すぐ戻って死体を贄にすれば、まだ儀式は……!」
兵士長は肩をすくめ、巫女の腹を膝蹴りにした。
巫女は苦悶の声をもらし、苦しげに咳きこみながらうずくまる。
「儀式なんぞ知らんよ。信心深い子爵様は、異端の技によって生まれた悪魔どもが許せなかったのだ」
巫女は絶望的な表情で、兵士長の顔を見上げた。それを見下ろし、兵士長は鼻を鳴らす。
「もちろん、お前らもな」
巫女はとっさに逃げ道を探すが、周囲は兵士に固められていた。その肩に、兵士長の手がかかる。
「殺しはせんから安心しろ。悔い改めれば……」
巫女の顔に、幼い泣き顔が浮かんだ。
◇
《遠目》で兵士たちが引き上げるのを見て、秋人は息をついた。
死体を調べられるかと思ったが、うまく《幻覚》に引っかかってくれた。
あれは、返り討ちにした男たちの死体だ。
森に逃げこんだあと、《呪的感知》で五人の体を調べると、禍々しい紫色に輝いた。魔法的な力で、何者かの標的にされていたのだ。
それに気づかなかった自分の迂闊さに、秋人は毒づく。
(まぬけめ。こっちが呪文を使えるんだ。神官に巫女だぞ。なんで相手が使えないと思うんだ。これは教訓だな。心に刻んでおこう)
印に気づいたあとも、すぐには消さなかった。
男たちをおびき寄せ、死体に変えたあと、激戦を演出してから、ユエルの《解呪》で魔法の効果を消し去ったのだ。うまくいけば、これで死んだと思わせることができる。そうすれば、もう追手に怯えなくてすむ。
森の奥、倒れた大木の陰で、枯れ葉にうずもれるようにして、秋人は横たわっていた。マヤはすでに隣で休ませてある。MPはほぼ枯渇状態だった。
それでも、どうにか切り抜けた。
今までにない安心感が満ちる。
『睡眠を取る。グエン、ガッシュ、ユエルの順に交代で見張れ。何かあったら起こせ。身の危険がありそうなら排除しろ』
(これでどうにかなる……あいつらの死体から、使えるものを剥ぎ取れば……多少は楽に……)
完全に盗賊の思考だが、この場ではそれが正しいような気もする。
直接ではないとはいえ、今日一日で、何人もの人間を殺しているのだ。
それについて秋人は、
(意外とあっさりしてるな……人殺しを童貞に例えた言葉があったか。あれこれ考えるが、実際にやってしまえば大したことはない……)
無抵抗の人間に手をかけることは、とてもできないだろう。
しかし、生き延びるために敵を始末することは、躊躇なく行えそうだ。
死体に気持ち悪さは感じたが、それは、犬や猫の轢死体を見て感じる生理的嫌悪感と、似たようなものでしかない。
(それとも俺が狂いはじめてるのか……? もういい、考えるな……眠ろう……)
秋人の意識は闇に沈んだ。