(承前)
君を荷台に横座りさせて、僕は自転車を漕ぐ。爽やかな五月の朝の風、小鳥の声が僕等を包む。
君の手が遠慮がちに僕の腰を抱いている。僕はそれがもどかしくて、少し乱暴に自転車を漕ぐ。
何時の間にか君の身体は僕の背中にぴったり寄り添い、肩の辺りに君の柔らかな吐息を感じる。
ねえジュン、と甘えた声が耳を擽る。ずっとこうして居たいって思わない? 笑いを含んだ声。
「今、ちょっと意識飛んでたみたいなの」
「上り坂の連続でだいぶへばってるですぅ」
「補助動力も変速もない自転車に大荷物……最悪の条件だね……」
「……ふん、いい気味よぉ」
「あ、あいとあいとあいとぉー! 転んだら大惨事なのよ、頑張ってなの~~」
はいはいそうですね。くだらん現実に引き戻してくれてありがとう。しかも森宮さんちっとも手加減してくれません。一人でどんどん先に行ってしまう。
ついて来て、と言われて後に続いたはいいが、目的地はどこなのか聞いてもいないな、そういや。
瀟洒な感じの電動アシスト自転車に乗った彼女がすいすい坂を上る後ろで、チェーンの油が切れかけのオンボロママチャリに巨大なダンボールをつけた僕は必死にペダルを漕いでいった。
目的地は山の手の坂の途中にあった。多分我が借家の築年齢の十分の一くらいの新しいでっかい家。庭付きガレージ付きで門柱のところに「森宮」の表札とインターホン。
絵に描いたようなマイホームってやつだった。一度はこういう家に住んでみたいものである。借家でいいから。
やっと過酷な労働から解放されてぐったりしている僕を尻目に、森宮さんはさっさとガレージを開けて自分の自転車を仕舞ってしまった。
道交法的にいいのか悪いのかは知らんが、取り敢えず家の前の歩道にチャリを置いて、糞重いでっかいダンボールを抱えてお嬢様に続く。気分はブラックキャットジャパンのあんちゃんである。ハンコかサインお願いしますって感じ。
玄関を入るときにダンボールを通すのに苦労する。でっかい家と言えどドアはちょい幅広の普通サイズであった。当たり前か。
「ご苦労様、ジュン」
「応、お前等よくもずっと騒ぎ続けてくれたな。ご到着らしいぞこの……」
「……え? どうしたの?」
「……あ、いや何でもない。チョイぼーっとしてただけ」
どうかしてるぞ僕。森宮さんが如何に人使いが荒く尚且ついきなり僕を呼び捨てにしているお嬢とはいえ、失礼にも程がある。人間なら兎も角、アイツ等の声と間違えるなんて。
森宮さんは何をどう誤解したのか、言い訳に困ってる僕に異様に優しい笑顔をくれた。
ああ、なんか疲れが取れていくような気がする……じゃなくてだな。
「愛されてるのね、その子達」
「……は?」
「そうやって話し掛けて貰えるのだもの。さっき、黒い衣装の子を取り出したときもそうだったでしょう。こんな風に口に指を当てて、しーって」
「まあ、そりゃ確かにやったけど」
「人形にとって、そうやって声を掛けられ、気に掛けて貰えるのは幸せなことなのよ。貴方には選ばれる資格があったのね」
「は、はは……そ、そんなもんかなぁ」
どうやら、彼女の中には「僕=(人形に対して)優しいひと」という図式が出来上がってしまったらしい。
できるならその左括弧から右括弧までの間を消して貰えると当面すごく有難いんですが。将来的には右辺全体をなんか別のものにしていただければもっと幸いであるのですが。まぁ無理だよねー。
そんなことを考えてるうちになんか如何にも客間って感じの、調度が整った部屋に通された。
真っ白なテーブルクロスなんか掛けられてる上にどでーんと薄汚れたダンボール置いて(流石に下に布は敷いたけど)、妙に柔らかい革張りのソファーに座ってると、物凄い場違い感がしてくる。
スーツとかで来たほうが良かったんじゃないだろか。あの手のは制服と喪服以外持ってないけど。
綺麗なティーセットで紅茶とお菓子を出されるが、なんか作法とかを全く知らないので、恥を忍んで彼女に訊きながら飲んでみる。案の定ムチャクチャ詳しかった。
クッキーか何かの形が崩れ気味なのはきっと手作りだからなんだろうな。味は正直なんとも言えないけど、腹が減ってたからひたすら美味かった。
紅茶の話とかお菓子の話をひとくさり聞いて、作法のレクチャーがひと段落したところで森宮さんは漸く本題に入ってくれた。
「その子達の服なんだけど、作ってくれそうな人がいるの」
「マジっすか? でもオーダーメイドとか高そうだな……」
「いいえ、貴方に負担は掛けないわ。材料費は私が負担するし、手間賃は要らないから」
「ホント!? あ、いや材料費くらいなら持つよ流石に。あんま凄い材料使わなければの話だけど……」
「ありがとう。でも大丈夫。手を動かしていた方が彼のためにもなるのだわ」
「そうなの?」
「ええ。時間はたっぷりある人だから」
「なんか引退した縫製職人さんとかが目に浮かぶんだけど……森宮さんのお爺さん?」
「……いいえ、弟よ。私の」
「……なんと」
弟、で時間がたっぷり? 作業してる方がいい? 高校浪人でもしてるのか。いや、そうじゃなくてまさか……おい、厭な予感がするぞ。物凄く。
行きましょう、と彼女は立ち上がり、二階に案内してくれた。弟さんの分のお茶のセット持って。
声を掛けると物憂げな返事が返ってくる。ドアが開いて中を見ると、予感は的中していた。
モデルルームみたいな、整頓された妙に大きな部屋。全ての物がきっちり片付いていて、特に職人的な雰囲気はなし。ついでに何かのマニア的な雰囲気もなし。
飾り気のない机に向かっていたのは、アニメか漫画のキャラみたいなツンツンした髪型にでっかいメガネを掛けた、森宮さんによく似たちょい中性的な、中学生くらいの男の子だった。
まあ、一言で言ってしまえば、あれだ。僕はリアル桜田ジュン君を目の当たりにしたのであった。
「なんだよ。今度は男連れ込んだのか。彼氏できたっていちいち報告する必要なんかない。勝手にすればいいじゃないか」
「違うのよ。貴方にドールのドレスの製作を依頼に来たの。彼はそのドールのオーナーなのだわ」
「……どうも、オーナーです。あとドレスじゃなくて適当に服で構わな──」
「いいえ。作るからにはドレスでなくてはならないわ。あの子達に似合った最高のものを」
「──ということなんで、宜しく」
「ボ、ボクが? ボクは作らないぞ。何でボクが」
「貴方にしかできないことなのよ。貴方にはその才能があるのだわ」
「適当な事言うなよッ、ボクはお前や倫姉とは違うんだ。ボクに才能なんかない。自他共に認める引き篭もりの社会不適格者だろ」
うっわー。何この修羅場。つか引き篭もりまで一緒かよ。何なら名前まで取り替えて差し上げたいんだが。
こいつの処になら、ホントに漫画とかアニメのローゼンメイデンが来るんじゃないか? 残念人形じゃなくて。
しかし、元々桜田ジュンは好きじゃなかったが、改めて目の前にすると……。なまじ、顔が漫画のあれより可愛いだけに余計、なんというか。
何かがあっさり折れるのを僕は感じた。流石は僕。堪え性が全くない。
「──森宮さん、もういいや」
「え?」
「来る途中にリサイクルショップの看板見て気付いたんだけど、サイズ合えばベビー服とかでいいんだよな。あとほら、型紙探して自作頑張ってみる手もあるし。なーに、主婦レベルのやっつけ裁縫くらいなら僕だってできるさ」
「……」
「考えてみたらさぁ、アイツ等に似合わんよ美麗な衣装なんて。元々、フェルトとかで雑に仕上げられた服着てたんだし。どう考えたってあの造形じゃ衣装負けするだけだ」
「そんなこと……」
「ありがとう。あんなオンボロどものこと本気で考えてくれて。アイツ等もきっと喜んでる。気持ちだけでホント、目一杯嬉しいよ」
あーあ。終わっちゃった。
階下に戻ると、例によってガサガサザワザワしてたダンボールがぴたっと止まる。まさに庭先のスズムシかコオロギ状態。甘酸っぱくてほろ苦い雰囲気はたちまち、いがらっぽくて埃臭い現実にバトンタッチだ。
まあ、帰りにベビー服最低五着は確定だな。それで満足するなり我慢して貰えればこちらとしては裁縫の手間が省けるというものである。
森宮さんの手前ああは言ったものの、当然僕に裁縫の自信なんてない。家庭科の授業で使った重箱みたいな裁縫セットは速攻でどっかになくしてしまい、貫頭衣作成にあたって百均でソーイングセットなるものを新調したくらいだ。
安く簡単に上げようって目論見自体が事態を舐め腐ってたってことかもしれんなぁ。ま、性根据えてぼちぼち行くしかないわな。
最後に見せた、彼女の泣き出しそうな顔だけが心残りというか気懸りだが──
「──ま、待てよ! ボ、ボクが作る。作ってやる!」
「え? うわっ」
「だ、だから、作ってやるから……もうこれ以上、姉ちゃんのこと泣かせるな! こ、これ以上苛めたら……ボ、ボボボクが相手になってやるッ」
「へっ?」
「どけ! この中に入ってるんだな? 採寸するから上に持ってく」
「ああ……こりゃどうも」
物凄い勢いでダンボールを引ったくって行った弟くんの後に続き、いきなりの超展開に頭を捻りながら階段を上っていくと……彼女はいた。
うん、座り込んでいて、ダンボールを床に置いた弟くんが彼女を抱き締めている。それはとても美しい、一枚の絵画のような光景であったよ。うん、何やら二人だけの世界のオーラが出ていた。
なぁんだ。こういうことだったのか。
終わったとかいうレベルじゃなかった。始まってもいなかったわけだよコンチクショウ。
森宮さんとしては大好きな弟くんに得意なことをやらせて自信を取り戻させたかったんだろうな。そりゃ、一所懸命ドール服を作らせようともするわけだし、お代は要らないってことにもなるわけだ。
んで、弟くんも素直になれないけど、実はお姉ちゃんが大好きだったって寸法か。うんうん、良い方に進むといいねぇ。世間一般に認められる範囲内で、だけど。
暫く二人は抱き合ったまま動かないようだった。声を掛けられる雰囲気じゃないが、出歯亀するのも気が引けたので、僕はそーっと階段を降り、客間に戻る。
美しい光景さようなら。そこには現実そのものが待ち構えていた。
「お帰りなさい」
「のわっ! 心臓に悪いぞ赤いの。いつ抜け出した」
「失礼にも程があるのだわ。さっき零れ落ちたのよ」
「ねーよ。どんだけダンボール傾いたんだよ」
「煩いわね。抱っこして頂戴」
「おい、前後で意味が繋がってないぞその台詞」
大方、もう少し時間がありそうだと思って脱出してたら弟くんが箱を持ってったって寸法だろう。まあいいや。
棚の上のアンティークが見たいと駄々を捏ねるので、取り敢えず抱え上げてやる。真偽の怪しい薀蓄をとうとうと述べ始めるが、それ、こないだの某番組かなんかで仕入れたネタだろうお前。
まぁこんなのでも他のが採寸されてる間の時間潰しの話し相手にはなる。視線さえ合わせなければ。……ん?
「って、駄目じゃん。お前一人だけサイズ違いなんだから」
「あら。それならさっさと連れて行きなさい」
「はいはい。まぁ迂闊に動かれたら森宮姉弟の心臓が止まりかねんからな」
「姿を見ただけで気を失うような度量の狭い人間に用はないのだわ」
「……お前等の最大の武器って、実は外見だよな。仲間内には通用しないけど」
「いちいち煩い下僕ね」
沈黙し、例の仮死状態になった赤いのを小脇に抱えて階段を上って行くと、もう二人の姿はなかった。
弟くんに「これも頼む」と赤いのを渡したときも、部屋の中に彼女は居なかった。自分の部屋に引っ込んだんだろうな。
採寸にどのくらい掛るのか尋ねたら、いきなりその場で赤いのの貫頭衣を脱がしてメジャーで測定し始め、一分としないうちに終わらせてダンボールの中に仕舞ってしまった。
終わりとも言わずに僕の方にダンボールを押し遣って、弟くんは机に向かった。広い机の上には、ラフスケッチかなんかがもう数枚広がっている。
ありがとう、と一応言って、僕はダンボールを抱えて部屋を出た。返事はなかった。
やっぱり桜田ジュンみたいなヤツは、僕の好みには合いそうもない。
「ほんとにありがとう。なんてお礼言っていいんだか判んないよ。それと……ごめん、無神経なこと言って。折角コイツ等のためにって考えてくれたのにさ」
「いいえ、謝らなければならないのは私の方だわ。無理を言ってしまってごめんなさい」
「いやいや、そんなことない。嬉しかったのは本当だって」
「ふふ……そう言って貰えると気が楽になるわ。ありがとう」
「いやいや、こちらこそ」
お互いにぴょこぴょこ頭を下げあってから、僕達はどちらからともなくぷっと吹き出して、笑った。そのまま手を振って僕達は別れた。
結構急な坂をよたよたと下って行く最中、前からどっと風が吹き付けて来た。こけそうになるのをどうにか踏み止まって、またそろそろと下り始める。
暫く身構えながら漕いでいたけど、風はそれきり吹いてこなかった。
なんか、さっきの僕のことを誰かに笑われてるみたいで、どうにも気分が良くない。
腹が思い切り鳴った。そういや昼飯食ってないじゃねーか。そうだ、明日は石原に報告がてら八つ当たりしてやろう。そうしよう。
後ろの連中がまたなんか喧嘩でも始めたらしい。買い置きのラーメンは残っていたかなぁと思いつつ僕はペダルを踏むのであった。