〜〜〜〜〜〜 第48696世界 〜〜〜〜〜〜
なんだこりゃ、というのが正直な感想だった。
そこは、何処かの屋内だった。
恐らく個人の家で、多分日本家屋ではない。十畳か十五畳か、それなりの広さはあるんだが、潜って来たドアの豪華な作りとは対照的な、こう言っちゃなんだが古さと安っぽさが滲み出てくるような部屋だった。
壁は白木のままだし、床も板張りが靴底で傷めつけられて摩耗している。天井だけは昭和の日本家屋に馴染んでいる僕からすると結構な高さだったが、それが却ってしょぼさというか貧相さを醸し出していた。
貧相さを感じてしまうのは、電灯の類が一つもないのも原因だろう。
それなりに物は置かれているのだが、電灯に限らず機械の類が一切ない。明かりといえば高いところに開けられた窓だけ。それもサッシなどではなく木枠に板ガラスといった具合で、なんというか大きな作業小屋といった印象なのだ。これなら、その辺のプレハブ飯場の方がよっぽど近代的である。
目の前というかドアを出た正面には、如何にも四角い棒材を適当に切って作りましたという感じの椅子がこっちを向いている。背凭れのところに上着か何かがだらしなく引っ掛けられていた。
人の姿は見えない。ただ、脇の方にドアが──潜り抜けて来た立派な扉に比べてしまうと四角い枠に板を張って蝶番と取っ手を付けましたという感じにしか見えないぞんざいな代物があった。
「……何処のボロ家だよ、ここ」
「何処でもあって、何処でもない。精神世界のひとつさ」
「誰かの思い出の光景ってとこか?」
「あるいは、複数の人達の。少なくとも僕や君の記憶ではないようだけど」
「これまでのパターンだと、僕等の周辺の誰かってトコか」
「残念だけどそれも判らない。全く関係がないところには飛びにくいから、多分なにがしかの関わりはあるのだろうね」
「いい加減だなオイ」
「ファジーな場所なんだよ。色々とね」
「番地が振ってあるだけマシだと思え、ってか」
「そういうこと」
やれやれと肩を竦めていると、ばらしーがするりとコートの裾から抜け出た。
きょろきょろと部屋の中を見渡していたが、いきなり電球が頭の上に点灯したような表情になり、椅子に駆け寄って飛び乗る。えらく子供っぽい仕種であった。
こういう時こそ伊賀だか甲賀だかの忍術を披露すべきだと思うのだが、まあ致し方あるまい。多少ならず興奮してるようだしな。
……と、なんとなく子供を見守る父親のような気分になっていると、ばらしーは椅子に腰掛けてこちらを向いた。
「お父様も……きっとお喜びになります……」
「いきなり何言い出すかと思えばそれかいっ」
「うーん。水銀燈役が足りないね」
「そこは……そちらの方で代用ということで……」
「いい加減にせい。石原も自然に乗ってんじゃねーよ」
ばらしーのやりたい場面は大体見当がついたが、今回はホイホイと乗る気になれん。
いくらごっこ遊びにしても不謹慎が過ぎるだろう。しかも相手は本物だぞ。
流石にぽかりとやる訳にはいかんので、指の先でぐいっとほっぺたを押してやる。ばらしーはうにゅうというような音声を発した。
音声は置くとして、触感の方は相変わらずもちもちである。どんな材質なのか見当もつかんが、プラというか無発泡ウレタンだった頃とはえらい違いだ。
というか、あの頃は迂闊に触ると化粧が落ちるかもしれん、ということで顔など下手に撫でることもできなかった。本人形は平気で動き回っていたが、やっぱり落ちた化粧はサイカチがメイクしてやっていたのだろうか。
「お父様……お喜び……ぐすっ」
「あ」
「泣いたな」
「うぅぅ……お父様……お父様ぁ……」
「あぁ、ほら泣かないで」
「はひ……うぅ」
ばらしーはちゃっかり蒼星石の腕の中という羨ましいポジションを占めた。泣く子の役得である。
なるほど、薔薇乙女さん達であっても相手が六十センチサイズのドールなら大人が子供を抱くように抱き締められるのだなぁ。
蒼星石はあやすようにばらしーの頭を撫で、こっちを振り向いて苦笑した。
「サイカチ君だったっけ、世話をしていたのは」
「うむ」
「これだけ慕われるということは、大切にしていたんだろうね」
「大切っつーか、溺愛しとったな。ばらしーはコイツ等の仲間内じゃ一番幸せだったかもしれん」
ガネ子が語ったところによると、残念人形共の本分は遊んで貰うことにあり、その意味で「巻かなかった」ジュン君には感謝しているということだった。
まあ大体そんな目的で作られたんだろう。出来上がりは実に残念であるし、そんならビスクなんて金のかかる材料じゃなく当時絶賛売出中のキューピー人形の如くセルロイド製にしたらどうよ、と思いもするが。
その伝で行けば、ばらしーのような大型のキャラクタードールの場合は愛でられてなんぼなのであろう。サイカチの嫉妬は故なきものであったし(いや、中学時代のはともかくとして森宮さんには好かれていたのだから半分だけ当たりというところか)、ばらしーはそれを更に斜め上に受け取ってしまったわけだが、注がれた愛情の量が大きかったことだけは間違いない。
──必ず連れ帰ってやらにゃあな。コイツだけは。
柄にもなく殊勝なことを考えていると、不意にばらしーが泣き止んだ。
「いま……向こうで、物音が……」
「お? いや、気付かなかったが……聞こえたか?」
「うん。あの扉の向こう側だ」
「誰かいる……のでしょうか……?」
「何か動くものがあるのは間違いないね」
「こんな不思議時空にも住人が居るのかよ。てっきり無人だとばかり」
「普段はあまり他人に会うような場所じゃないね」
蒼星石は否定とも肯定とも取れそうな玉虫色の回答をこっちに寄越してドアの方に顔を向けた。
さっき潜って来た方ではなく、例の脇の方にある粗末なやつである。ちなみに、この部屋の風景に合致しとるのはそっちのドアであり、僕等が潜って来た方が場違いなのは言うまでもない。
今度は僕にも聞こえた。その向こうで、がさごそと音がしている。
ドアやら床をぶっ叩いているのではなく、何やら物を動かしているような音にも思える。……というか、よく見るとドアと床の間の隙間から、向こうの光と足か何からしい影が見え隠れしていた。
人間の足だ、と言い切れるほどじゃないが、幸いなことに多足生物だったり小さくて茶色い虫の類ではないようだ。
「気付かれたみたいだ」
「そりゃあこれだけ騒いでれば、あの隙間から声は駄々漏れだわなぁ」
「ひっ……な、何者なのでしょうか……」
「ナニモノか知らんがまあ、やばくなったらそっちのドアから逃げりゃいいだろ」
「意外と冷静なんだね。もう少し驚くかと思っていたよ」
「当たり前だろ。こちとら退路が確保されてるときは冷静沈着かつ豪胆なのだ」
というか、おかしな光景の連続で感覚が麻痺してるだけなんだがな。あの夜以来。
返答が可笑しかったのか内心を見抜いているのか判らんが、蒼星石はこちらを振り向いてふっと笑いを浮かべた。どういう訳かやたらびくびくしているばらしーを僕に押し付け、ドアの方に歩み寄る。
気を付けろ何が出てくるか判らんぞ、と声を掛けようとしたとき、ドアはギイギイと錆びた蝶番特有の嫌な音を立てつつ、しかしこの手の場面にありがちな緊張感の溢れるゆっくりした動きをするでもなくあっさりと開いた。
「なんだ騒々しい。気が散るから出て行ってくれ」
いきなりの登場ではあるのだが、なんとなく空気が弛緩したのは錯覚ではなかろう。
精神世界とかいう、薔薇乙女さん達の導く不思議空間には場違いに思える、しかしこの風景にはまぁお似合いな台詞とともに姿を見せたのは、金髪髭面で赤ら顔のおっさんだった。
汚れた前掛けによれよれのシャツとズボン。手は前掛けと同じく白っぽい色に汚れている。
大きな隈のできた落ち窪んだ目は、さっさと向こうに行かんかと言いたげに細められている。迫力のない顔立ちに鬱陶しそうな表情を浮かべているのが実に陰気臭い。
しかしまあ、おっさんのルックスはともかくとして、これどっかで見たような展開じゃね? ドラマだの映画だのじゃなく、週刊漫画誌の連載で。
〜〜〜〜〜〜 第十一話 薔薇は美しく散る(後) 〜〜〜〜〜〜
おっさんは一言言って僕等を睨みつけるとドアの向こう側に戻って行ったが、肝心のドアは開けっ放しであった。
用があるなら入れということなのか、単に閉めるのまで気が回らなかったのか。どっちとも取れそうな微妙な按配だ。
僕等はそれぞればらばらの高さの顔を見合わせたが、結局おっさんの後に続いてドアを潜った。まあ、文句を言われたら退散すればいいのだ。
ドアの向こうに広がっていたのは、斜め上というかある意味予想どおりというか、ちょっとこれまで見たことがない情景だった。
壁際にも天井にも、制御機器らしいものは見当たらない。というか、電灯もなければ電動で動きそうなものは何一つ見当たらなかった。作りはでかいが、えらく古臭い建物のようだ。
向こうの壁までの距離を見る限り部屋そのものはさっきの部屋とは比較にならん広さで、ちょっとした会議室程度は楽にある床面積なのだが、そこらじゅうに何やら白っぽいものが山積みにされているせいで妙に狭っ苦しい。ついでに言うとおっさんは奥の方に行ってしまったようで、山の一つに隠れて姿が見えなくなっている。
隙間から木箱らしきものが覗いてるところを見ると、どうも最初は白いものをその箱か何かに入れていたようだ。ただ、今は完全にそれを覆うほど溢れて、さながらボタ山の如く堆積している。
蒼星石はぎくりとその場に立ち止まって息を呑んだ。対照的に、ばらしーは緊張感を置き忘れた仕種で(多分おっさんの所有物か制作物であろう)その山のひとつにトコトコと歩み寄って行く。
近寄って見るまでもなく、白いものの正体は僕にも判別できた。
人形だ。
でかい部屋と思しい空間に堆く積み上げられていたのは、何十どころか何百、下手をすると何千という数の、まだ衣装も着せてなければ髪の毛も植えてない、多分目玉も入れて貰っていない素焼きのドールだった。
久々に耳の後ろがざわつく感覚を味わいつつ、数歩進んで覗いてみる。
中途半端な状態に半完成品状態の焼物人形の山の向こうで、おっさんは何やら作業をしていた。
詳しくない僕にはどの程度進んだところの工程か判らんのだが、数人掛け程度の作業机に独りで向かい、一心不乱に半完成品の人形相手に何か作業をやっつけている。そう、まさにそれはやっつけていると言ってしまって良さそうな、何やら執念と言うか怨念のようなものがちらつく姿だった。
机の周辺には黄色っぽいわしゃわしゃしたものが大量に積まれている。多分、髪の毛を植えた頭頂部だろう。
──なるほど。
おっさんの背中は不気味は不気味なのだが、耳の後ろのざわざわは引いて行った。
どうやら、ここは何処ぞの人形屋の工場らしい。それにしちゃ大分製品の扱いが良くないし、このボタ山はおっさん一人でこなすには無茶苦茶な量だが……って精神世界だから何でもありなのか。
ううむ。ますますどっかで見たようなパターンだぞ。
実に嫌な予感がする。これは専門家の意見というやつを聞いてみるべきかもしれん。
振り向いてみると、蒼星石はまださっきの位置で立ち尽くしていた。
おい、しっかりしてくれ専門家。いくらお前が苦手な酷いゴミ部屋だからって、固まってる場合じゃなかろう。
少し屈んで小さな肩をぽんと叩いてやると、蒼星石は漸く正気づいた。
「……ごめん、どうも僕には刺激の強い光景だったみたいだ」
「そこまで潔癖症だったか? まあ、えらくきたねー工場だけど」
「いや……そういう意味じゃ──」
「──ゴチャゴチャうるさいぞ。なんだ、話があるならこっちに来い。こっちは忙しいんだ、見れば判るだろう」
おっさんの怒声に首を縮め、もう一度蒼星石の顔を見る。こっちを見返してはきたものの、まだなんとなく曖昧な表情だった。
どうなっとるんだ。らしくないなんてもんじゃないぞ、いきなり腑抜けになりおって。
まあ、いきなりの展開にウロが来てるのは判らんでもない。まんま某漫画みたいな展開だからな。
この妙に生活感のあるようなないような工場の雰囲気が、不思議空間の「常識」から外れてるんだとすれば、知識持ちなだけに却って衝撃的ってなことは有り得る。
とはいえ、こいつのこんな面はこれまで見たことがない。
間違っても魂が抜けてしまうようなことはないだろうが、放っとく訳にもいかん。どうする。
一旦向こうの部屋、いやこの際どこでもドアの向こうに退却して一息つくか。それが良いかもしれん。
いや待て。
ここは僕等凡俗(ばらしーも含まれる)にとっては、精々嫌な予感がするとか、珍しいと思ってあれこれ眺め回したりする程度の場所だ。
そんな光景に、蒼星石がこれだけ衝撃を受けておるということは、ここに薔薇乙女さんに関わる何かがあるんじゃないのか。
具体的に何かと聞かれると、素人の悲しさでさっぱり見当も付かない。ただ何かあるとすれば、それはこの空間のヌシ然としているおっさんと少なからず関係があるはずだ。
──取り敢えず、おっさんは出て行けとは言わなかったよな。
むしろこっちに来いと言った。少なくともさっきよりは友好的である。
ならば、ご招待に与ろうではないか。
まだ不決断に垂れてる小さな片手をぐいと掴んでみる。相変わらず鈍い反応でこちらを見上げた蒼星石を半ば引き摺るようにして、おっさんの方に向かう。
製造途中の物体でボタ山が出来てる割に、床がまともに見える程度の汚さで助かった。でなければ、蒼星石は転んでしまっていたかもしれない。
後ろの方でばらしーがほぇーとかうわーとか緊張感皆無の感嘆の声を上げていたが、そっちは気にしないことにする。
勝手に遊んでるなら僕が相手をしてやるまでのことはなかろう。うっかり悪さをしたら……まあ、そのときはそのときだ。
おっさんはこっちに背中を向けたまま、何の用だと訊いてきた。短い話なら立って話せ、長くなるなら適当にその辺に座れ、と言う。横柄な態度だが、闖入者に対しては友好的と言うべきだろう。
その間も手の方は相変わらず動いている。拒絶してるのか歓迎したいが時間が惜しいのか、どうもはっきりしない態度だった。
それじゃあ、と作業机の脇にあった何かの木箱の上に腰を下ろさせていただく。
蒼星石がちらりと物言いたげな視線でこちらを見上げる。言いたいことはなんとなく判ったが、無視して人形どもにするようにひょいと抱き上げて隣に座らせた。
いいじゃねえか。少なくとも出てけとはっきり言われてはいないんだから。
さて、どうやって何から順に訊いていけば良いものか。
「ビスクドール、ですよねこれ」
「そうだ。すべてのパーツが高温で焼き固めたビスクだ。安物の縫製胴体のやつとは訳が違う」
だから勝手に触るな、とおっさんはじろりとこっちを振り返り、僕等は揃って頷き返した。
蒼星石が黙ったままなのは、思いがけず僕にイニシアチブを握られたせいで気持ちの整理が付いてないのかもしれん。済まんなぁ。
それはそれとして、縫製胴体と聞いて一つ納得したことがある。
残念人形どもの件で色々検索してたのがこんなときに役立つとは。多分後にも先にもこれっきりだろうが。
ビスクドールといっても、全部が全部焼き物で出来てるオールビスクばかりではない。手足と頭以外は例のコンポジで出来ていたり、時代が下るとセルロイドとパーツがちゃんぽんになったものもある。
樹脂が流行る前、もっと言うと高級な焼き物が流行る前は、おがくずや綿を詰めた布製の胴体のもの(これもコンポジットということもあるらしい)も多かった。もちろん、焼き物全盛になってからも、作りやすく破損しにくい布製の胴体は安価な品物を中心に作られ続けていた。
これはセルロイドが普及して、大量生産可能かつ高品質で破損もしにくいオールセルロイドの人形がビスクやコンポジを駆逐するまで続く。
まあ、ぶっちゃけキューピーちゃんがビスクドールを死滅させたようなものである。今は精々マヨネーズの商標として見るばかりだが、往時の勢力は凄まじいものがあったのだ。
ここは多分、ビスクドールが人形として普通に作られていた時代(まあ現代でも盛んにリプロされたりしているのだが、それはちょっと趣旨が違うので置いといて)の、どこぞの人形工場を模した場所なのだ。電気を使う機械が見当たらないのは当然である。なにしろまだ街灯がガス灯だった時代なのだから。
但し、工場の大きさに反して従業員は恐らく一名、このおっさんだけであろう。そのくせそれぞれの工程を一括してやってるもんだから、こんな半端な作りかけが大量にあるのだ。
もっとも、実際に作業をどれだけやってるかは判らない。なんせイメージ先行の場所なのだ。これは、要するにおっさんがどれだけ人形の大量生産に拘っていたかというサインだと思っておこう。
しかしまあサインにしても、なんでまたこんなに。
工場の風景からして、おっさんはとうに死亡しているはずだ。
まあ某漫画の人々も大抵そうだった訳で、それは想定の範囲というか予想どおりではある。
問題はそれから長年、何故に成仏できないおっさんが延々とこの決して世に出ることのない人形作りを執拗且つ孤独に続けていたのかってことだ。
精神世界一つ丸々乗っ取ってるのか、それとも僕等が出たところが偶々おっさんのテリトリーで、工場の外には無限の大海原が広がっているのかは蒼星石に聞かんと判らんが、おっさんの執念が物凄いのは間違いない。そして、恐らくその何かが蒼星石に衝撃を与えたんだろう。
腕を組んで考え込みたいところだったが、纏まらない内におっさんの方から尋ねてきた。
「それで、話は何だ」
「えーっと、話せば長くなるんですが」
「長話に耳を貸してやるほど暇じゃない。要点だけ言え」
「じゃあその……単刀直入に訊きますけど、なんで人形作りやってるんですか。こんな工場に一人で」
「……聞きたいのか」
「はあ、まあ、できればお願いしたいなと」
「どうしても聞きたいというのだな」
「あ、その、嫌なら別に無理にとは……」
「長くなるぞ。それでもいいんだな」
「まあ、それは構いませんが……」
「仕方ない。そこまで言うなら話してやろう」
「……はあ。ありがとうございます」
なんなんだよおっさん。ツンデレか?
いや、実はさっきから昔話したくてうずうずしてたんじゃねーのかコレ。
まあいいや。取り敢えず情報が得られるのは悪くない。ついでに語り尽くしたことでおっさんの気が済み、成仏してくれるなら一石二鳥でもある。
いつの間にか思考が大分某漫画的な方向に傾斜してしまっていることに気付く暇もなく、僕等はおっさんの長話を拝聴することに相成った。
それは探せばあちこちにありそうな、しかし不真面目に聞き流すには少々忍びない話だった。
おっさんも最初からおっさんだった訳ではない。当たり前の話だが彼にも人並みに若い頃はあった。
いや、彼の場合人並み以上だったと言えるかもしれない。
経済的な後ろ盾をひょいと捨て、恋を選んだのだ。有り体に言えば駆け落ちしたのである。相手は貧しい売り子の娘、彼はそれなりに裕福な家の跡取りだった。
二人は遥か海の彼方の都市を離れ、船と鉄道を乗り継いで都会の片隅に居を構える。奥さんはやがて女の子を身籠もった。
順風満帆とは行かないまでもささやかな幸せを噛み締められたのは僅かな間だった。
奥さんが病に倒れた。肺病だった。
医者はお決まりの転地療養を勧め、一家は郊外に居を移す。だが、奥さんは結局快復することなく短い命を終えてしまった。
残されたおっさんは懸命に働いて娘を養ったが、彼女もそれから数年の後に同じ病で世を去った。
茫然自失のおっさんは、都会に戻って荒んだ生活を始めた。日雇い労働の疲れと娘の面影を酒で誤魔化す毎日だった。
転機が訪れたのは、荒んで弱っていく一方のおっさんを見かねた奥さんの友人が持ってきた仕事だった。材料を人形工房に搬入する馬車の御者である。少しでも身体が楽になれば、という親切心だったらしい。
ともあれ、そこでおっさんは、ビスクドールというものと出会った。
工場で扱っていた物は芸術品としての人形とはやや違う、比較的安価な量産品ではあったが、おっさんにとってはどちらでも同じだったろう。
──これは娘だ。
おっさんはそう思うようになった。
丹精込めて手作りされ、支度を整えて送り出され、着いた先で長らく愛され続ける。
人間ではないけれども、それは子供のようなものだ。
作ろう。幾つも幾つも、出来るだけ沢山の娘を生み出そう。
娘は短すぎる人生を終えてしまったが、無数の人形として甦り、無数の生を生きることができる。
もちろん、早く人生を閉じてしまうものもあるだろう。死んでしまった娘よりよほど短く、自分の手を離れてすぐに壊れてしまうかもしれない。
しかし何人かは、もしかしたら人間などよりずっとずっと長きを生き抜けるのではないか。人間では到底味わえない出会いと別れを経て、何かもっと高みに到達することも、ひょっとしたらあるかもしれない。
それまでの淡々とした口調が急に熱っぽくなり、情感たっぷりに語るおっさんに、病んでしまった人間の片鱗を見たような気がしたのは、こっちがそういうバイアスをかけて見ているからだけじゃあるまい。
所詮人形は人形である。おっさんが如何に手を掛けてやったとしても、おっさんの娘の生まれ変わりではないのだ。
ただ、そう思いたくなるような心境だったんだろうな、というのも判る。
死んだ人は戻ってこない。しかし、残された側は何かに死んだ人の面影を託さなくては生きて行けない場合もあるのだ。
形見の品物や新しい誰かにその面影を上手く託せる人ばかりではない。いや、おっさんは多分一度は奥さんの面影を娘に託したのかもしれないが、それも失ってしまった。
日本的な感覚で言えば、おっさんは供養のために地蔵を彫り始めたようなものだ。
それがただ彫るだけのことに昇華されず、出来上がりの品物が世間に出ることも含んでいたのは、文化の違いというやつだろうか。それともおっさんの性格によるものだろうか。
ともあれ、おっさんは人形作りを一から学び、やがて自分でも作るようになった。
原型から自分で作ることにしたのは、動機からして自然のことだった。そして──
「──今に至る、ってことですか」
「……端折ればそういうことになる」
「何かあるんスか、ここから先が」
「……ないでもないが……」
おっさんは急に歯切れが悪くなった。どうも何か言いづらいことがあるらしい。
これまでも言いたいことをだらだらと吐き出す感じで、到底立て板に水とは行かなかったが、言葉は続いていた。正直少しばかり疲れてきたほど切れ目なく昔話を喋っていたのである。それがいきなり淀んでしまった。
丁度いいかもしれんな。一旦時間を置いておっさんの話を検討したり、こっちから何か質問したりするタイミングだろう。
言いたくないことを語っていただくのはそれからでも遅くなかろう。無理矢理続きを急かすのも気の毒な気もする。
なぁに、時間はあるのだ。金糸雀によれば世界のナンバーが判っていれば到達は可能だという。また日を改めればいいのである。
何なら、今日ここで暫く時間を置いたって構わんだろう。蒼星石のゼンマイ巻きも、なんとなれば休息場所の鞄までも持参しているのだから。
マエストロボデーでない状態の僕がゼンマイ巻きを使えるのも確認済みである。強いて言えば連絡役のばらしーがイマイチ不安ではあるが、本人形曰く鋏改めサファ子やらメル子よりはマシだというから、多少まごついたとしても迷子になって帰れなくなることはあるまい。
「まあ、その話はまたぼちぼち──」
「──いや、聞きたいです。端折らないで教えてください」
「おいおい」
「ごめん邪夢君。大切なことなんだ。僕はここからの話に興味がある。──話してくださいませんか、その後のことを」
いきなり口を開いたと思ったらこれだ。
長話を聞いている間に立ち直っていたのか、おっさんの急変に反応して覚醒したのかは判らんが、蒼星石はいつもの(もちろんこっちに来てからの)蒼星石らしい生真面目な顔に戻って、蒼星石らしくない、見方によってはかなり不躾な要求を口にした。
幸い、おっさんは背中を押されるのを待っていたような状態だったらしい。如何にも渋々といった風を装ってるのがバレバレの顔で、それなら、と続きを語り始めた。
人形作りを教わった段階では問題はなかった。複製作りの工程も衣装縫いもひととおり教わった。
しかしいざ木彫で原型を作り始めたところで、おっさんは壁に突き当たった。
実に単純明快、当然の帰結だった。絵画も彫刻も本格的に学んだことがなく、これといって特異な才能もない彼には、人形の手足の指先やら顔やらを美麗に仕上げることができなかったのである。
それでもおっさんはめげなかった。工場の守衛代わりを買って出、昼は仕事、工場の就業時間が過ぎてからはその片隅を借りて、ランプの灯りの下で幾つも木型を彫り続けた。
何年か過ぎた頃、どうにか努力は報われた。
まだ本職の芸術的な作品には遠く及ばないものの、まあ売り物に使ってもクレームは付かないだろうと言われる程度のものが作れるようになったのである。
ただ、その頃になると別の、おっさんには解決不能の問題が持ち上がっていた。
おっさんのビスク人形との出会いは、おっさんの野望というよりは切ない願望を叶えるには些か遅すぎたと言えるだろう。
時代はビスクから樹脂に変わっていた。
安定した本職のデザイナーの作った一つの原型から出来た無数のセルロイド人形が、驚くほど安価に出回る世の中になっていた。ビスク等を使った一点もののドールは高級品、あるいは芸術品としての需要がまだあったが、それは有名ブランドに限られていた。
ブランド物に対して安さを売りにしていた会社は、樹脂製の人形製造に切り替えるか店を畳むようになっていた。ましてや、技術のない素人の作ったビスク人形が利益を上げられるほど甘い時代ではなくなっていたのである。
おっさんが半ば住み込みで働くようになっていた工場も例外ではなかった。悪いことに経営者は樹脂製の人形や他の玩具への転換の時機を逸してしまい、工場は閉鎖されてしまった。
元の木阿弥となったおっさんは、また日雇い暮らしを始めることになった。何度目かになる挫折だった。
とはいえ、全てが無駄になったわけではない。彼の手許には製作した人形の原型が残ったし、ほぼ独学とはいえ一応身につけた技術もある。今度は自宅で、彼はこつこつと人形を作り続けた。
長らく音信不通にしていた親が亡くなり、その遺産の一部が偶然のように転がりこんできたとき、彼が閉鎖した工場を借り受けて人形工房を開いたのは当然だった。
遺産はそれなりの額だった。ちまちまと使っていれば、楽に暮らして行くこともできただろう。だがそんな選択肢は彼の頭に浮かびもしなかった。
人形を作るのだ。今度は製造を手伝っていたのとは訳が違う。念願の、材料の選定から原型の製作まで自分ひとりでこなした彼自身の人形である。
ただまあ、そこから先はお察しのとおりというやつであった。
一応は販路も持っていたであろう会社が立ち行かずに廃業する時代である。いくら人件費をゼロにできるからといって、名前も知れてなければ出来の方も怪しい個人の零細工房が上手く行くはずもなかった。
ビスクドール以外も作ってみたもののまるで売れないことに変わりはなく、開店資金を支払った後に僅かに残った遺産はたちまち負債に変わった。
いや、借りられた額が少ないとはいえ借金ができただけマシだったかもしれない。人形工房と言いながら、収入は日雇いの土方仕事の分しかなかったのだから。
二進も三進も行かずぎりぎりで凌ぎ続ける内に、彼に漸く幸運が舞い込んだ。
格安ではあったが、大口の注文が入ったのである。それもビスクドールの。
但し、大口なのはいいがやや大口過ぎた。工場をそのまま借りていたことで、工房の規模を間違われたらしい。
期日も厳しかった。それでも若干の交渉の末、ぎりぎり仕上げられると判断した彼は仕事を引き受けることにした。
背に腹は替えられぬ。借金が大部分返済できそうな見積もりを見てしまえば、おっさんに拒否するという選択肢はなかった。そもそも多数の注文というのは彼自身の願望にも反しないのだ。
おっさんは寝る間も惜しんで人形の量産に掛かり──
「──それが、これってことですか」
「そうだ。だから急がねばならんのだ」
「いやー……流石にこりゃあちょっと多過ぎじゃないっスかね。一人でやるにゃ限度ってモンがあるんじゃないかと」
「誰か、職人さんでなくてもお手伝いしてくれる人を雇ったりはできなかったんですか?」
「そんな金があれば苦労はせん。……ああ、そういえば」
「……ボランティアでもいたとか?」
「確かに、タダでいいから手伝わせてくれ、と言って来た奴は居た。お前等のような東洋人の男だった」
視界の隅で、蒼星石がぎくりと身体を強張らせるのが判った。
どういうことだよオイ。心当たりでもあるのか?
おっさんはこっちの機微など構うこともなく、あいつめ、と忌々しげに舌打ちした。誰だか知らないがボランティア氏には失礼な話である。
「奴は、その代わり人形作りを教えろ、と言い出した。この忙しい時にだぞ」
「断っちまったんですか」
「そのつもりで言ってやったさ。私には綺麗なものは作れない。そんなものを作れるのは一流の芸術家だけだ。弟子入りするつもりなら他をあたってくれ、とな」
「……でも、彼は引き下がらなかった……」
蒼星石はぽつりと呟く。
なんだ。まさか本当に知り合いなのか。実は昔のマスターさんの誰かでしたとか言わんよな?
「ああ。教えられるのは手順と材料、それからちょっとしたコツ程度だと念を押したが、それで構わんと言い切った。だから手伝わせることに決めたのだ」
「随分熱心なんだなァ」
「……その人はそれからどうしたのですか……?」
「製造工程をひととおり見せてやってから、焼き工程に入ったところで手が空いた。そこで余ったポーセリンや型材を使って好きなように人形を作らせてみた」
「って、ひょっとして原型作りからですか? 結構時間掛かりそうな」
「そう思っていたが、肩透かしを食った」
おっさんはますます不機嫌そうな顔になったが、話は続けてくれた。
その東洋人の男の原型作りの習得には、時間はまるで掛からなかったという。どう見てもある程度の基礎的な素養は事前に持っていたとしか考えられない、とおっさんは苦々しげに口を歪めた。
そればかりか、男は作業そのものが神速の域だった。
魔法か奇術のようだった、とおっさんは溜息をついた。男の手にかかると、何でもあっという間に人形の形に変わってしまうのだという。
七つの人形の形を作るのに数時間と要しなかった、というのは流石に誇張だろうが、ともかくミスも淀みもなく原型を作ったのは確実らしい。それを几帳面に、おっさんが教えた手順に従って型を取って複製し、焼き工程に入った売り物人形のパーツの中に混ぜて焼き上げた。
ドール服の製造工程やらノウハウは、必要なかった。男は裁縫に関しても天才的で、なおかつ裁縫に関しては何をすれば良いのか最初から全て弁えていた。
「気に食わんのはな、それだけの才能がありながら、だ」
「才能っていうか、異能ってやつじゃないスか、そこまで行くと」
「細かい文句は何でも構わん。
とにかく、奴はワンオフの人形を都合七体ほど完成させただけで満足して出て行ってしまった。そして此処には二度と戻って来なかった。何処に行くか言わなかったどころじゃない。挨拶の一つも無しに、唐突に出て行ったんだぞ。
あれほどの才能を持ちながら、碌に手伝いもしなかった。教え損もいいところだ。
手伝わせろと言ったのは奴自身で、仕事は未だこんな状態なのにだぞ。礼儀知らずにもほどがある」
おいおいおっさんおっさん。
言いたい気分は判るが才能と人格はこの際関係ないだろ。いや、その時の気分で動くとか、才能豊かなゲージツ家のお方ならばむしろありがちなエピソードじゃねーか……。
さっきは言いたいことをずけずけ言ってしまった僕だが、しかし流石にそこまでは口に出せなかった。
おっさんの愚痴を否定するのが忍びなかった、だけじゃない。漸くあることに思い至ったからだ。
ここの時間というか風景がいつまでも変わらない、停滞またはループしているような状態だとしたら。
恐らく、おっさんはその東洋人のゲージツ家のあんちゃんが出て行った辺りでお亡くなりになってしまい、それからずっと永遠に進捗しない作業を延々続けてるのじゃなかろうか。
いやひょっとするとあんちゃんが居る間に死んでしまった可能性もある。自覚のないままこの空間に来たせいで、不意に出て行ってしまったと誤解しているのかもしれん。
事実を指摘して自分が死んでいると納得すれば見事成仏する、という仕組みなら言ってやってもいい。だがそんな保証は何処にもないし、僕は某漫画のような除霊成仏アイテムなど持っておらんのだ。
下手に刺激して不測の事態を招くより、今は蒼星石に訊きたいことを尋ねさせた方が──
「──彼には、急ぐ事情があったんです」
「事情?」
「探し物をしていたのです。詳しいことは長くなるので省きますが、ドールを製作した理由も探し物に関わっていました」
「ほう、奴の知り合いなのか、お嬢さんは」
「はい。今のお話を聞いて確信しました。彼は僕のよく知っている人物です」
「ふん。今更顔を出せとは言わんが、あいつは今どうしてる」
「それは判りません。──ですが、彼は貴方が親切に人形作りを教えてくれたことをとても感謝していました。お別れを言えなかったことを悔やんでもいました。あのときはどうしても先を急がなければならなかったので、余裕がなかったのだと」
「……そうか」
「彼に代わってお礼とお詫びをさせてください。本当にありがとうございました」
おっさんの話を聴き始めた時のぼんやりぶりは何処へやら、蒼星石はかっちりした発音で礼を言うと、流麗な動作で立ち上がり、こちらに向いているおっさんに帽子を取って恭しく一礼してみせた。
僕も慌てて腰を上げて頭を下げたが、その時には既におっさんは照れたように前に向き直っており、こっちをまともに見ていなかった。ちぇっ。
それにしても、なんなんだ蒼星石。見てきたような嘘を……いやいや、先程からの様子では実際に知っていたのだろう。
とすると、一体誰のことだ? さっきちらっと考えたように、昔のマスターさんがこのおっさんのところに入り浸ってた、なんてエピソードでもあったのか。
だとすれば、世間というのは随分と狭っ苦しい事になるが──
──いや待て。
ドール作り、天才的な才能? おっさんの時代に限定しなけりゃ、一人居るじゃねーか。
そうだ。その天才あんちゃんが、おっさんが生きてる内に訪ねてきたとは限らない。
ここで恐らく永久に出荷されることのない人形を作り続けていたおっさんを見付け、そのまま弟子入りしたのなら一応辻褄は合う。
えらく短時間で手順を習得したのも、作業が異様に速かったというのも、この時間の曖昧な不思議空間でならありそうな話だった。
イメージしていた光景が、一瞬で高橋留美子の漫画からPEACH-PITの漫画に様相を変えた。
いや、ここは漫画に影響され過ぎて、今まで気付かなかった自分の鈍さを笑うべきか。
天才あんちゃんとは、ドールショップニセアカシアの店長──「巻かなかった」ジュン君のことなのだ。彼はドールショップを開く前、いや僕等の居た世界に来るより前に、ここでひととおりの作業を習い、幾つか実物も作ったのだろう。
蒼星石がショックを受けていた理由の詳細までは判らん。だが「巻かなかった」ジュン君は彼女のマスターさんでもある。何等かの繋がりで、彼の残り香のようなものを嗅ぎつけたのかもしれん。
「あいつはいつか動く人形を作るのだと言っていた。それはどの辺りまで実現できた?」
「動く、ですか」
「あ、えーとほらゼンマイ仕掛けで手を振るようなやつがあるじゃないスか。そういう動力仕込んだ人形のことなんじゃ」
「私もそう思って笑ってやったものだ。そうしたら奴は、そうじゃない、自分は生きてる人形を作りたいんだとほざきよった」
「あー……」
「……生きた人形……」
「自分の力で動き、人と同じように考え、思い、悩み、悲しみ、喜ぶような代物だそうだ。
大笑いして言ってやったさ。確かに一度は誰でも創り出したいと思うだろう。だがそんなものが作れるのは神だけだとね。
それは人間が到達して良い高みじゃない。お前は神に挑戦したいのか、それとも、いっそ神に成り代わるつもりなのか、と」
「彼は、何と答えたのですか」
「呆れた話だ。あいつは真顔で答えたんだ」
おっさんはこちらを振り向き、呆れ顔になって肩を竦めた。
天才あんちゃんは……いや、もう「巻かなかった」ジュン君と言い切って良いかも知れない。彼はこう言ったという。
──そういうものを創り出せるのが神だというなら、僕はその神を認めない。
──でも、同じ高みに立てたときは、彼の考えが間違っていることを彼に伝えたいと思っています。
随分と天狗になったもんだろう、とおっさんは大袈裟に溜息をついた。
ほんの少し前にこんな工場で人形の作り方を習ったばかりで、もうそんな大それたことを口にするんだからな、これだから才能を鼻に掛けた奴は御しがたい、と羨望と軽蔑が混じった声で言い、また前を向いてしまう。知り合いの前だからといって口を慎むつもりはなかったらしい。
まあ、おっさんの立場からすれば愚痴を言いたくもなるだろう。自分は長いことやってきて、漸くぎりぎり売り物になるレベル(というのも本人の主張でしかない訳だが)の物しか作れなかったところに、手伝いと称して大したこともせず、実質人形作りをロハで教えたただけの相手が異能の持ち主だったのだから。
他方「巻かなかった」ジュン君が言いたかったのは、おっさんが考えていたこととは少しばかり違った内容だったはずだ。
彼が意見したかった相手は、全知全能の神様ではない。神ではないのに神に等しいことを成そうとしている存在だ。
薔薇乙女さん達の作り手であり、至高だか究極だか忘れたが、そんなものを目指すためにアリスゲームなどという全滅イベントを開催している存在。「巻いた」方は知らんが、「巻かなかった」ジュン君がそれに対してあまり肯定的な印象を持っていなかったのは明らかだ。
何故またそこまで強く否定的な意見を持つようになったのか。なにゆえ否定的な目で見ている相手と同じようなものを作ろうとしていたのか。そして、今はどう考えているのか。
残念ながらその辺の考察は僕の手には余る。
一つ言えることは、彼にも尖っていた頃はあった、ということだ。
あの街の商店街の隅のドールショップで見た覇気のない状態になり、どっかで拾った残念人形どもにアリスゲームの真似事をさせるという半端にしょぼい計画を実行するまでには、そういう無闇に高い志(と言ってしまっていいのか微妙だが)を持っていた時期もあった訳だ。
すぐにおっさんは作業を始めた。
暫く三人とも無言だった。
おっさんは黙々と虚しい(と本人は思ってない訳だが)作業を続け、僕はぼんやりと「巻かなかった」ジュン君ではなくおっさんの方のあれこれについて思い巡らしていた。
なんだかんだで結局借金に追いまくられたまま成仏もできてないおっさんの方が、神に挑戦する男達よりは身近に感じられる。まあ未練なこと夥しく身勝手な割に執念だけは人一倍、しかもこう愚痴っぽいとなると、生きてたらあんまり友達になりたくない種類の人物ではありそうだが。
蒼星石は蒼星石で思うところが多大にあるようで、斜め下に視線を向けて考え込んでいた。もちろん、それは僕だのおっさんだのといった凡俗とは無関係な部分だ。自分のマスターが何故ここに来たのか、何を考えていたのかといった案件だろう。
沈黙が長くなり、なんとなく間が保たないような気分になって隣に目を遣る。視線に気付いたのか、蒼星石はちらりとこちらを見上げ、すいと立ち上がって微笑んだ。
柔らかい表情だった。聞くべきことは聞き出せて、一応情報と気持ちの整理もできたということだろうか。
微笑み返すような気障な真似はできないが、こっちも軽く頷いて腰を浮かせる。
おっさんが自ら垂れ流した話を聞いただけとはいえ、これ以上の情報は望めないだろう。蒼星石が納得できたなら、そろそろお暇すべき頃合いかもしれん。
僕の方としても、蒼星石がこの表情になれば当初の目的は達成されたようなものだ。元々ネジ巻き要員兼鞄持ちとして同道しているだけで、この場に留まったり無理矢理余分な話を聞き出すような必要はない。
敢えて言えばこのままおっさんを放置しといていいのかという気はするが、相手はこれだけのインナースペースを維持し続けている頑固者だ。某漫画の如く便利アイテムでもなければ成仏させることも出来ないだろう。何しろこちらはお経も暗唱できないずぶの素人である。
二人で顔を見合わせ、おっさんにありがとうございましたと挨拶しようとしたとき──
「──きゃぁっ」
背後で小さな悲鳴が聞こえ、間髪入れずにがらがらがしゃーんと物が崩れる嫌な音がした。
おっさんが手を止め、じろりと僕等を振り向いた。溜息を一つつき、実にうんざりしたと言いたげな唸り声とともに腰を上げ、大股にそっちに向かう。
蒼星石は苦笑を浮かべ、僕は額に手を当てた。ばらしーめ、最後の最後でやってくれおった。
おっさんの後を追ってボタ山の間を来た方に戻ると、丁度ばらしーが崩れた人形の山の中から首だけ出したところだった。何が起きたか判っていないような表情でこちらを見ている。
未だ彩色されてない生白い焼き物の中で、紫色の眼帯と黄色い目が鮮やかに映えている。写真に撮れば楽しい一枚になるところかもしれんが、生憎ジュン君はケータイも持っていない──いやいやいや。それどころじゃない。
おっさんが借金の返済の素になると信じている人形が一山崩れたのである。
木だの鉄だのならともかく、割れやすい瀬戸物だ。そういえばさっき、皿が割れるような音も混じっていたような気がする。
ばらしーは流石に悄然としていたが、それでも細心の注意を払っているとは到底言えない動作で人形の山を抜け出した。
幸い本人形には怪我はないようで、外から見る分には髪の毛が乱れている程度だった。流石は摩訶不思議マエストロボデーである。無駄に頑丈だ。
但し、案の定作りかけ人形の方は死屍累々というかガラクタの山というか。わざわざ近寄るまでもなく酷い有様になっているのが見て取れた。
おっさんの怒り如何ばかりか。ザボーガーが勝手に動き出す程度には……いやいや、怒りを通り越して茫然自失になっているかもしれん。
恐る恐る横合いから窺ってみると、おっさんの顔は確かに固まってしまっていたが、しかしその表情は素直に驚いているようにしか見えなかった。
はて、と首を傾げている僕の脇をすり抜け、蒼星石がばらしーに歩み寄る。母親や姉が小さな子にしてやるように服と髪を整えてやり、まだ凝固したままのおっさんに頭を下げた。
「ごめんなさい、この子は僕達の連れです。人形に興味があったみたいで……」
「……はい……よく見ようと……思って」
「ほんとすいません、なんてお詫びしたらいいか……ほれ、ばらしー」
「……ごめんなさい……」
「そんなことはどうでもいい」
おっさんは蒼星石がびくりとするほどのでかい声を出した。
開いている方の目をぱちくりしているばらしーの前に屈み込み、まじまじとその顔を見詰める。
「この子は……いや、これは」
「えっとですね、その」
「人形じゃないか。しかも、一人で動いて喋っている」
「いやそのそれは、はい」
「それにこの顔……もっとよく見せてくれ」
ばらしーは身を強張らせたが、おっさんはそんな反応には全く頓着せずに手を伸ばし、ばらしーのほっぺをむにむにといじる。
おっさんよ、お前もか。
とはいえもちもち具合に対する感想は大分僕等と違うはずだ。固いはずのドールヘッドがゴムなんぞ目じゃない餅肌的柔らかさなのである。
物凄く驚くだろう、と半分身構えて反応を待ったが、案に相違しておっさんはすぐに手を引っ込め、溜息と共に肩を落としてこっちを見上げた。
「……これは、あいつの作品だな。そうだろう」
「──はい。彼の作品です」
蒼星石はきっぱりと言い切った。
確かに、話を聞く分にはおっさんが言う天才あんちゃんは「巻かなかった」ジュン君にしか思えん。とはいえ、おっさんはまだ相手の名前すら言っていないのだから、本当に彼なのかと言われると保証はできない。無数の世界の無数の人物の中に、似たような天才が存在しないとは言い切れないのである。
ついでに言うと、サイカチの注文に応じて中華ドールを魔改造してばらしーを作ったのも、人工精霊の欠片を埋め込んで自律行動できるようにしたのも「巻かなかった」ジュン君だが、現在の摩訶不思議ボデーを製造したのが彼である保証はない。まさかとは思うがアリスゲームの主宰者の人がやらかしたり、過去に遡った「巻いた」ジュン君が作っていたなんてこともないとは言えない。
だが、やはり蒼星石には確信できる何かがあるのだろう。いや、確信できる何かをここで見付けた、と言った方が正しいかもしれない。
「そうか。そうか、ははっ。あいつは神に挑む資格を得たか」
おっさんは立ち上がり、はっはっは、と無駄に高い天井に向かって笑った。
「素晴らしい。やったな。いやあ大したもんだ。口ばかりじゃなかったとは」
次はいよいよ本番ってところか、全く大した奴だ、こっちはこんな仕事に汲々としてるってのに、とまた笑う。
おっさんの笑い声は、さっきグチグチと昔語りをしていた人物と思えないくらい、実にからっとしたものだった。
そこに若干虚ろな響きが混じっているように思えるのは、僕が柄にもなくおっさんの話に感情移入し過ぎているからだろう。
余計なお世話かも知れんが、おっさんが一頻り笑い終えたところで、その気分を僕は口に出してみた。
「──目標に近付いてたのは同じじゃないですかね」
「……何がだ」
「僕ァそっちにゃ素人なんで、高みってのがどのくらい凄いのかは見当もつかないスけど。
でも、神様に文句付けてやろうってことに近付いてるのも、自分で人形作って売り出したいってことに近付いたのも、目標に近付いたってことには変わりないんじゃないですかね。
っつーか、ぶっちゃけ今んトコこっちの方がまだまだ先行ってるって言っちゃっていいんじゃないスか。実際人形売るトコまで漕ぎ着けたお陰で、こうやって注文抱えて必死こいてる訳で」
「……屁理屈とおべんちゃらが上手いな、頭は良くなさそうだが」
「よく言われます」
「まだまだ先を行ってる、か。そうだな。数はまだまだ少ないが、こっちはもう六種類も娘を世に出しているんだからな」
おっさんはアメコミの登場人物の如く、HAHAHAHAという擬音が相応しそうな笑い声を立てた。
態度の変化についていけないばらしーが僕とおっさんを頻りに見比べ、蒼星石がやれやれと苦笑を浮かべるほどの機嫌の良さだった。
えらくちょろいなおっさん。まあ、この程度で上機嫌になってくれる人物でないと、ぶきっちょな僕にゃ元気づけることもできんのだが。
しかし、そうか。六種類か。
蒼星石がマスターの痕跡を察知したように、とは言わないが、頭の中で何かのピースが揃ったような気がした。
考えてみれば当然のことかもしれん。「巻かなかった」ジュン君がここで人形作りをやっていたのだから、その繋がりということになれば、むしろそれが自然だ。
そろそろお暇します、と頭を下げると、そうか、とおっさんは頷いた。
はい、と言いつつ内心でほっと胸を撫で下ろす。
ばらしーのしでかした大破壊を未だ思い出していないのか、それとも気が大きくなって見逃してくれる気分なのかは判然としないが、どちらにしてもおっさんは人形の山のことには言及しなかった。
また来いとも名残惜しいとも言わなかったが、そっちは取り敢えずどうでもいい。引き留められても、一応こちらにはこちらの時間制限がある。特におっさんが一番関心を抱いていそうなばらしーには、実時間で三十分経過したら伝令をこなしてもらう必要があるのだ。
まあ叶うことなら、次に来る時はノウハウを取得するか便利アイテムを持って来て、おっさんを成仏させてやりたいものである。本人は一向に気付いてないようだが、ここは永遠の地獄のようなものだ。
去り際、向こうの部屋への戸口のところで、僕はおっさんに、不躾な、見方によっては随分意地の悪い質問をしてみた。
「──さっき、六種類世に出した、って言ってましたけど」
「うむ」
「今、その世に出た人形達に言葉を掛けてやれるとしたら、何かありますかね」
「何だそれは。考えたこともなかったぞ」
「そうっスか……」
「娘達はもう私の手を離れたのだ。そこから先は、持ち主が宜しくやって行けばいいことだ。壊れてしまうまでよーく遊んで貰えれば、それでいい」
「ふむ……」
どこかで聞いたような話だ。
なるほどな、と僕は軽く頷いただけだったが、もう一人には別の思いがあるらしかった。
「……そういうものなのでしょうか」
「そういうものだ。使われない玩具に価値はない」
「……職人さんは、自分の作った品物が長く大切に使われるのを好むものだと思っていました」
む、珍しく食い下がってやがる。おっさんの言い方に無責任さを感じたらしい。
おっさんの方でも勘付いたのだろう。優しいお嬢さんだな、と苦笑した。
「確かに、いつまでも使って貰えれば言うことはない。
だが、納屋の片隅で埃を被ったまま忘れ去られて百年経ってしまうよりは、寝る間も肌身離さず遊ばれて半年で壊れた方が幸せだろう。
芸術品のようにガラスケースに入れられて綺麗に飾られるよりも、ぼろぼろになっておままごとの相手をしている方がいい。
玩具は、遊んで貰えなければ意味がないのだからな。死蔵されて何年経過しようが、それは生き死にで言えば死んでいるのと同じだ」
もちろん長いこと大切に扱われて、家族の一員であってくれれば言うことはないがね、とおっさんはまた笑った。
「だから、そうさな……
もし声を掛けることがあるとすれば、よく遊んで貰っているか、何処かに仕舞われたままになっていないか。
頑張ってずっと長いこと遊んでもらえ、そして、遊び壊されたとしてもお前の持ち主を恨んではいけない、と言ってやりたいものだ。
まあ、そんなところだな」
「……はい」
「納得できないと言いたそうだな? 結構、結構。
だが、そういうものなのだ。私は永遠に存続するモノを作っている訳ではない。
人間と同じさ。いずれはダメになってなくなってしまう。だからこそ気を入れて作るのだし、幾つも作らなくてはならないのだ」
相変わらず正しいようでいて何か根本的におかしい理屈をおっさんは述べ、僕の隣の難儀な女の子も相変わらず形だけ頷き返した。
──いかん。これは無限ループだ。
葵はものに囚われなさそうな顔をしていて意外に頑固なところがあり、ここまで見てきたところおっさんは持論を垂れ流すのが大好きっぽい。
このままではおっさんはいつまでも同じことを言葉を変えて話し続け、葵は葵でその言葉が琴線に触れるまでずっと肯定に見せかけたお代わりの催促を繰り返し続けるだろう。いや確実にそうなる。
双方にちょっとした不満を残しそうだが、ここは第三者が引き分けさせる場面だ。
というか、すっかり脇になってしまったが、話を振ったのは僕だしな。
「──判りました。貴方の娘に会ったら伝えときますよ」
「はっは、そうしてくれ。運良くお前さんのお目に止まるか判らんが」
「そこは大丈夫です。もう会ってますから。それも散々」
おっさんは一瞬眉を顰めたが、すぐに理解した表情になった。
「なんだ、そういう話か。道理でこんなところまで出掛けて来る訳だ」
「ええ。つまり、少なくとも何体かは今でもしぶとく生き残ってるってことです、ローゼンさん」
おっさんは、多分それまでで一番いい笑顔になって、そうかそうか、と頷いた。
気に入ってくれたならうちの工房の名前も宣伝しといてくれ、頼むぞと念を押してきたのは──まあ無粋な蛇足ではあるが、つい商売人としての本音が出ちまったんだろう。
──生憎だなおっさん。
人類にとって幸いなことに、もうあんたの作った残念な人形は増えない。何しろあんた自身がとうの昔に死んじまってるんだから。
そうだな、僕にとっては少々寂しく、残念なことではあるけれども。
〜〜〜〜〜〜 nのフィールド・扉の海 〜〜〜〜〜〜
後ろ手に扉を閉めると、何やら急に力が抜けたような気分になった。
まさかしょっぱなで「巻かなかった」ジュン君の痕跡に出会うとは。
説明を受けたようにあの同時多重再生の世界からランダムに飛んだのではなく、少しなりとも関わりのあるところの近くに引き寄せられたのだとすれば、一応の解答にはなるかもしれん。それにしても捗りすぎである。本人の尻尾を掴んだ訳じゃないのが歯痒いが。
しかしまあ、Rosen工房さんがそれなりに関わってくるとは思わなんだ。
そっちの話自体は、ガネ子とクリ子が述べ、柿崎が推定したよりも更にしょぼい。というか、探せば何処にでも転がっていそうな、人生上手く行かなかったおっさんの話だった。
視点を変えれば、残念人形ズに植え付けられた誕生エピソードには、「巻かなかった」ジュン君が薔薇乙女さん達の来し方を参考に捏造したストーリーが多分に入り込んでいた訳である。いや、柿崎の調べたところを抜いてしまえば、薔薇乙女さん達のオリジンそのままなのかもしれない。
彼は、ある程度本気で人形ズを薔薇乙女さんの代理みたいな形に仕立てるつもりだったのか。
つーてもあの姿や性格付けじゃ、どんだけシリアスなストーリーを仕立てたところでまるでギャグにしかならんと思うがなぁ。何を考えてたのやら。
更に、おっさんの目が確かならば、ばらしーのニューボデーは「巻かなかった」ジュン君製ということになる。
それなら残念人形ズのニューボデーも同じであろう。となると、彼は残念人形ズに頼らずとも全てを自前で用意出来た訳で、ますますあの危険物を利用する理由が判らない。
さて。
足りない頭で考えても判らんことは置いとくとして、あの世界では少々長居し過ぎたような気がする。
ゼンマイは一度巻いたからまだ心配ないとして、時間の方はどんなもんなのか。
そういえば時計を持って来ていたっけか。まともに動くかどうかで翠星石と金糸雀の助言が正反対だったが、どっちが正しいのかも含めて確認してみるべきだろう。
ごそごそと服を漁ってみる。出てくるとき、枕元の時計を確かパーカの腹ポケットに入れといたと思ったのだが──あった。
時計は持って来た品物そのままの形で、何故かコートのポケットに突っ込んであった。変身しても持ち物は失われない仕様か。もっとも主観的にこう見えているだけらしいから、これで当然なのかもしれん。
見たところ時計自体は何の問題もなさげに動いており、入った時間から五十分ほど経過した時間を示していた。念の為日付表示も見てみたがリセットされてはいなかった。途中電源が落ちていたということもないらしい。
体感でもっと長いこと過ごしてるのは間違いないと思うんだが、実時間と差があるってのは本当だったんだなあ。どういうからくりなのかは知らんが──いやいや待て。五十分だと?
「おい、やばいぞ。ばらしーを帰す予定から倍近くオーバーしてる」
「えっ……ああ。そうだね。そろそろ一時間か」
「……が、頑張ります……汚名っ……挽回っ……」
「何故そこで福本調になるのだ。あと返上な」
「はぅ……そうでした……」
「どうも不安だのぅ」
「一緒に戻ろう。僕の時間制限も厳しくなっているし、幾つか話し合いたいこともできたから」
「応。帰るのは構わんが、こりゃ大目玉喰らいそうだな」
「はは。そうだね。二人で怒られるのは久し振りかな」
確かに中学時代以来かも知れんな。元々葵は優等生の端くれであり、誰かに怒られるような事自体滅多になかった。自分の分に留まらず、柿崎の分まで度々お小言のご相伴に預かっていた僕とは対照的である。
品行方正であるのは確かだが、クリティカルなところで要領が良かったのも否定できん。四角四面で融通が利かないローゼンメイデン第四ドールのイメージとは反対に近いが、少なくとも葵はそういうところのある奴だった。
ふむ。
サファ子の性格付けはブレブレである。案外その理由は、対応する蒼星石の根っこに、うわべと相反するものが──
──いかんいかん。
あんな映像を見せられたせいか、つい余分なところまで頭が回ってしまう。目の前の相手が蒼星石でなく葵に見えて仕方がないのも、そのせいだろう。
行こう、と差し出された手を頷いて取り、空いている片手でばらしーを抱え込んで鞄を持ち直す。
目の前の風景がふっと変化し、呆気無く僕等はその場から離れていた。
〜〜〜〜〜〜 桜田邸・物置部屋 〜〜〜〜〜〜
「まだ戻って来ないですぅ〜?」
「まさかマスター達が帰って来ないなんて……うぅ」「無茶しやがってなのだわ……」
「へ、変なこと言ってんじゃねーですっ。縁起でもない」
「伝令の薔薇水晶が道に迷ってるだけじゃないのぉ?」
「あ、ばらしー方向音痴っぽいなのー。しかも若葉マークなのよ」「そうそう。ジュンのうちでも玄関の灯りのスイッチと間違えてブレーカー落としてたかしらー」「それは方向音痴じゃなくて無知なだけだと思うけど」
「あまり緊張感がないのねあの子達。意外かしら。みっちゃんのお人形は帰りが少し遅くなるだけで心配したりしていたものだけれど」
「あの子達は特別ですからね。でかジュンにいろいろ細工されてますから」
「桜田君の安否を感知できているのかもね」
「ならいいんですけど……交代で迎えに出ませんか。最初は翠星石が」
「んー……あと十分だけ待ってみて、それでも来なかったら二人一緒で入ってみない?」
「それじゃあ此処に誰も残らないことに……」
「でも二人同時に入れば、私達もお互いの薇を巻くことができるかしら。捜索するにしても、もし──誰かと戦うようなことになっても。ね?」
「……あ」
「蒼星石が二人残れって言った理由は、そういうことだと思うの。貴女は少し冷静じゃなかったから、頭が冷えるまでカナが抑えててくれっていう考えもあったかも知れないけれど──」
「──お見通しなんだね、金糸雀」
「蒼星石っ! 良かったぁ」
鏡から出た途端、栗色の吹き流しを引き摺った緑色の弾丸が蒼星石に飛びついた。
文学的な表現でなくて済まんが、要は翠星石である。トレードマークの黒い帽子が落ちるほどの勢いだった。
こっちに来て初めてじゃなかろうか。いや、ベタベタしてはいたが美登里が葵にこんなに激しく抱きついたのも見たことがない。
呆気に取られていると、一回り小さい青と緑のが僕の足に飛びついてきた。半ば便乗するような風にピンク色と黄色のが続き、黒いのが頭に直撃する。更に背中に赤いのと、何故か一旦離れたばらしーまでまた取り縋る。
こういう行動に限って全員で真似しおって、お前等左門豊作の兄弟のつもりか。大迷惑であるし、翠星石を茶化してるみたいで失礼だろうが。
ええい放さんか、ともがきつつきょろきょろと見回す。
蒼星石は手慣れた風に双子の姉をあやしつつ何か釈明しており、金糸雀は視界の隅でほっとしたような笑顔をこちらに向けていた。
「お帰りなさい」
「遅くなってすいません、先輩」
「本当にね。すっごく心配してたのよ。二人は悪い子かしら」
屈み込んで人形どもをどうにか動作の邪魔にならん程度の場所に移動させ、近付いて来た先輩の手を取って握手をする。
先輩はふと表情を緩ませ、僕の手をそっと自分の髪に触れさせる。大胆な行動に面食らったが、何をすればいいかは鈍感な僕にも判った。
そのままゆっくりと髪を撫でる。先輩は──いや、金糸雀は大きな目を閉じて俯いた。
唐突に、僕は他の二人と金糸雀の体格差に気付いた。
双子は確か姉妹の内でも背の高い方で、逆に金糸雀は一番か二番目に小さい。だからって精神年齢が低いかというと(少なくとも今現在は)そうではないのだが、それでも元々は甘えん坊だったはずだ。
済みません、先輩。双子にとっては大きな収穫のあった実験だったけど、先輩が一番気を揉んでいる件は成果なしでした。
ぼそぼそとそんなことを言ってみたが、金糸雀は直接それには答えてくれなかった。ちょっと顔を上げて片目を瞑り、なんでもない口調で全く関係のないところに話を持って行く。
「桜田君の手は魔法の手かしら。撫でられただけで気持ちが楽になるわ」
「そりゃもう、なんせマエストロの手ですからね。生憎手だけで中身は凡人ですけど」
「ふふっ。じゃあ、スモールジュンが戻ってきたら、いっぱい撫でて貰うことにするかしら。みっちゃんが嫉妬の炎燃やしちゃうくらいに」
「そうっスね。あ、僕としては明日からでも全然構いませんが」
「むむっ、下心を感じるかしら……これって貞操の危機?」
「見破られた!?」
「この金糸雀の勘を侮るなかれ!」
「くそう、次の手を考えねば」
「ふふん、何度でも挑戦してみるがいいかしら」
何を素人漫才してやがるです、とこちらを向いた翠星石が眉を吊り上げ、僕等はわざとらしく顔を見合わせて首を竦めた。
翠星石は落ちていた帽子を拾い上げて蒼星石に渡し、腰に手を当ててこっちを見上げる。
「まあ遅れた言い訳は後でたっぷり聞いてやるです。なんかちょっぴり進展もあったみたいですしね」
「そうか。先に話しといた方がいいと思ったんだが、そろそろ寝る時間だっけ」
「なぁに言ってんですかこの大ボケ野郎。寝るなんてとんでもないです。まだ翠星石達は今日のノルマもこなしてないのですよ。これから行ってくるから留守番してろってんです」
「そっか。じゃ、部屋に戻って……」
「勝手に決め付けんなですぅ。アンタ達にはここで待ってて貰うですよ。それが約束を破った罰です」
「しょうがねぇなぁ。じゃあ先輩には先に……」
「救いようのないアホですね。一緒に行くに決まってるじゃありませんか。翠星石が金糸雀の捜索を手伝うんですから」
「え? そんなの初耳かしら──」
「──しゃらっぷ! 蒼星石には邪夢と薔薇水晶が着いて行きました。だから、金糸雀には翠星石が協力して当然なのです。ま、ちっと豪華過ぎる助っ人ですけどね」
「翠星石……あ、ありがとかしら……でも」
「デモもストライキもねーですよ。さ、ちゃっちゃと行きましょう。早目に戻るんですから」
「ええ……じゃ、行って来るかしら」
金糸雀は唐突な申し出に混乱したままのようだったが、人形どもの無意味に元気な「いってらっしゃい」を受けて二人は鏡の向こうに消えた。それぞれ鞄(と薇)を持って行ったが、使わずに戻って来てくれることを願うばかりである。
残念人形どもは暫く僕に絡まっていたが、パーカの懐から転がった時計で時間を確認するといきなり大慌てになった。二十一時台の連続ドラマを見るとかでガヤガヤぞろぞろと部屋を出て行く。
おい、一瞬前までのじゃれつきぶりは何処行った。
血も涙もないのは先刻承知だが、録画予約してあるテレビ番組見るのがそんなに大事かよ。この不人情どもめ。
結局、その場には僕と蒼星石だけが残された。
どうも拍子抜けな感じだが、今晩のところはあれで終わりであり、本格的な報告と検討は明日に持ち越しといったところか。人形どもに対しても、おっさんの件やら連中が鏡抜けをしている理由など、訊き出したり話さねばならんことはある。
場合によっては全員雁首揃えての会議になるのか。そうなったら議事が進行するのか甚だ疑問である。
やれやれ、と昨日座ったのと同じ位置になんとなく移動し、並んで腰を下ろす。
「いきなり暇になっちまったな」
「移り変わりの激しい夜だね」
「全くだ」
外国の映画なら、先ほどのおっさんよろしく一笑いする場面であるが、到底そんな余裕はない。むしろ漫画なら頭の上に黒いモヤモヤが出てる気分である。
蒼星石も似たようなものなのか、暫くは二人共無言だった。
今のドアが開けっ放しになっているのか、テレビの音と人形どもの声が聞こえてくる。平和というかお気楽なものである。
おっさんよ、どう思う? あんたの娘どもは天才あんちゃんにどえらく弄くられて、もう人間でもなければ大人しく遊ばれている普通の人形でもない、奇怪千万な物体というか存在の域に突入しとるぞ。
それもまた感知するところではなく、持ち主に全部お任せなのか。おっさん的にはそんなもんなのかもしれん。
人形どもの方でも、後付けで色々されたせいか自分を作った人物に対してそれほど関心は無さ気である。その折々の持ち主の方がよほど大切であり(といっても忠誠を誓うなどという方向ではないが)、更にこれまでの経過を見るに我が身の方がそれより遥かに大事そうである。
おっさんの娘は、おっさん本人など遠く及ばぬほど(人間としては)性格的に欠陥品揃いとなってしまった。まあ、人間では到底不可能なほど壊れずに生き延びてきただけでも、おっさんの願いは叶っているのだが。
そういや、娘といえば。
薔薇乙女さん達もまた、父親によって人工的に作り出された娘達である。
ただ、残念人形どもと決定的に違うのは──
「──薔薇の運命に生まれた、か」
「ベルサイユのばらのオープニング?」
「あぁ、そういやそうだったか」
「ふふ。華やかに激しく生きよ……か。さだめの下に生まれたといっても、僕達姉妹とは反対だね」
「そうか? 十二分に美しくて華やかだと思うが」
「人間社会の片隅で、選ばれたほんの僅かな人達と深く触れ合いながら、ひっそりと時代から時代に渡って生きて行く。着ている衣装は派手なものもあるけど、華やかで激しい生き方ではないと思うよ」
「……まあ、そうかもな」
薔薇乙女を作った人は、人付き合いが好きでなかったに違いない。
至高の少女、とか言われてアイドルだのを思い付くのは僕が現代に毒されているからかもしれんが、所詮偶像という点では変わらないと思う。そういう女の子、当時で言えば社交界の星として持て囃されるような存在だって、ある意味で充分至高の少女だったのじゃなかろうか。
だが、薔薇乙女さん達はそういう注目を浴びるような動的な存在としても、動的な存在のきらびやかな一瞬だけを切り取った上辺だけの存在としても作られなかった。きらきーさんのことは知らんが、話を聞く分には彼女も他の姉妹同様に思える。
落ち着いた環境といえば聞こえはいいが、小さく閉じられた場所で限られた相手に静的に愛でられ、殆ど誰の記憶にも残らないまま時間の流れに逆らうようにして生きて行く。人形の姿にもかかわらず人一倍の感受性と葛藤を抱えた、ただの少女とも成熟した女性とも違う孤独な人達──それが、薔薇乙女さんの一面じゃないのか。
薔薇乙女さん達を作った人は彼女達を娘として扱い、彼女達も作り手を父と慕っていたという。もちろん、(本人は否定したがるだろうが)あのおっさんが自分の製造した人形を娘と言ってるのとは次元が違う。つまり、彼はドールの身体と契約者システムを与えることで、自分の愛娘達を厳重な箱入り娘にした訳である。
大事な娘を箱入りにしたがるのは、ごく平凡な父親でも考えることではあるだろう。
だが、薔薇乙女のシステムはいくら何でも行き過ぎている。いや、そもそも娘に至高とか究極ってレッテルを貼ること自体中々あるまい。
嗜好としては、そんな少女を好む人は多いかもしれん。
だが娘を至高の少女若しくは予備軍としてわざわざそういう環境で育てようと考えたとなると話が変わる。
人間は他の人と関わってるとき、箱の外に出て頑張ってる時が一番輝くのである。少なくとも僕はそう思う。
それに気付かないか、箱の中でじっとしてるのが至高だと思ってしまうのは、どっか突き抜けてしまうくらい人付き合いが苦手で、心の中に現実より遥かに素晴らしい自分自身の世界を飼っている文学青年かゲージツ家くらいじゃあないのか。
まあ、こんな凄い「作品」を創り出し、それだけじゃ飽き足らずに殺し合いゲームまで設定するような人物が、悪い意味でゲージツ家でないはずがない訳だが──
「──でも、運命に従って散ることに違いはない」
「滅びの美学ってやつかよ。そんな美学なんか糞食らえだ」
「美学じゃないよ。運命さ」
「じゃあ、運命も糞食らえだ」
「……邪夢君」
考えが煮詰まりすぎて、つい言葉が汚くなっていた。
長い付き合いである。僕が何を言いたいか大体察したんだろう、蒼星石は微かに微笑んで首を振った。
「僕のことなら、もう運命でもない。ここにこうして生きている方が偶然の産物なんだ」
「そしてそれは自然なことじゃない、今のお前はゾンビ同然なんだってんだろ。判ってるよ。理屈は判ってる」
「……ごめん」
「謝んなよ。駄々捏ねてんのはこっちなんだから」
「うん……」
だが、蒼星石はもう一度、僕の顔を見上げてごめんと言った。
その顔が作り笑いでも泣き顔でも怒り顔でもなく、本当に駄々を捏ねる子供に道理を言い聞かせているだけのような、少しばかり困った表情だったことが哀しかった。