〜〜〜〜〜〜 桜田ジュンの部屋(承前) 〜〜〜〜〜〜
「黒とか銀の戦士は助っ人なのよぉ。美味しいところは貰ってくわぁ」
「いいえ主役は赤なのだわ。これは譲れなくてよ」
「主役ぅ? 聞いて呆れるわぁ。私は天涯孤独の一匹狼。貴女達みたいな雑魚に協力してるのは利害が一致してるからよぉ」
「そう……いいわ。どちらが上か思い知らせてあげなくてはいけないようね、哀れな野良犬」
「ふん、いい度胸じゃなぁい、『血染めの衣を纏いし美しき遵法の狂戦士(ブラッディ・ローフル・バーサーカー)』……! その身を貴女自身の血で染め上げてやるわよぉ」
「能書きは要らないのだわ。かかって来なさい、邪悪の嵐卑劣な力凶鬼の掟暗黒の罠悪魔の野望!」
「あーっはっはっは!」「ほーっほっほっほ!」
「め……面妖な……」「また始めたかしらー」「既に何かになりきってるの」
「なんなんですかあの厨二病な名前。しかも長過ぎですぅ」「っていうか血は出ないよね、人形だし」
「もう片方は名前になってないかしら……」
「あんなのよりばらしーが言ってた名前のがいいのー。あふぅ。なのー」
「アイドルかぁ……えへへ、いいよね。やーりぃっ☆」
「まこと……良きものです……」
「ちんちくりんで穴掘って埋まるのは御免ですぅ! そっちもやり直しを要求するです!」
「……何盛り上がってんだお前等」
大きなドアを開けると、ジュン君の部屋はえらく賑やかであった。
どうやら息を殺していてたのは最初の数分だけで、それからは自分達で勝手に名前を考えて騒いでいたらしい。先ほどちらりと考えはしたが、実際に階下まで聞こえてこなかったとは大したものだ。
完備された防音設備の賜物である……というか、こんな無駄に高機能な家だから快適に引き篭もれてしまうんじゃなかろうか。よく判らんが。
それはともかく、床一面に散って遊んでいる人形どもに巴ちゃんを引き会わせる。
ドアを開けた時の喧騒に若干引き気味ではあったが、巴ちゃんはこれといった拒否反応は示さなかった。むしろ、瞳を輝かせたようにも見える。もっとも、残念な姿でなくなっているので当然かもしれない。少なくとも表情の豊かさだけは薔薇乙女さん達に劣らない生きた人形なのである。
座布団がわりのクッションを出そうとする僕を、いいから、と手で制し、巴ちゃんはジュン君のベッドの端に腰を下ろした。この部屋自体には慣れているようだが、何故か少しばかり慌てた様子にも見える。
お客に対してクッションを出すというのは、ジュン君が平生やらなかった行動なのかもしれない。確かジュン君の部屋に来たみっちゃん氏は薔薇乙女さん達用の卓袱台を前にしてクッションに座っていたと思ったのだが。
漫画を斜め読みしただけの知識はアテにならないのである。また翠星石からご指導ご鞭撻を賜ることとしよう。
座ったと見るや、早速要領の良いうぐいすが寄って行く。巴ちゃんは目を細めると抱き上げて膝の上に乗せ、よしよしと髪の毛を撫でてやった。
背丈というかスケール自体違うが多分雛苺にもそうしていたんだろう。年の離れた妹にしてやるような、随分慣れた手つきだった。
「本当にそっくりなのね」
「細かいところはあちこち省略されてるし、大きさも別だけど。でも雰囲気はあるかな」
「うん、楽しそうに喋って動いて……よく似てる」
「詳しいことはまだ謎だらけなんだけどさ、作った人の本気度は伝わってくる」
「そうだね……」
巴ちゃんの視線の先にはツートンがいる。
そりゃ、意識しないはずがないよな。
どういう気分なのだろう。自分の手から離れ、ジュン君のミスが原因(とは誰も言ってないが、漫画を斜めに読んだ印象ではそう思えた)で失われてしまった掛け替えのない友人の模倣品を目の当たりにしているというのは。
僕から見れば漫画の中の出来事であり、この家に集った薔薇乙女さん達にとっては何年も前の記憶になる。しかし巴ちゃんにとって雛苺の喪失はまだほんの数カ月前……日時を詳しく聞いていないが、ひょっとするとここ一月ほどの間に起きたかもしれない事件だ。
騒いだり泣き出してもおかしくない場面だろう。だが、巴ちゃんはじっとツートンを眺めているだけであった。
いい子だ。いい子過ぎるくらい。
ただ、あまりに抑制していて、僕なんぞには殆ど内心が見えて来ない。それが危うさを秘めているようであり、そんな子に嘘をついていることに罪悪感が込み上げてくるのも事実であった。
──もう全部暴露しちまおうか。
その方が楽ではある。少なくとも僕にとっては。
だが、それで本当にいいのか? この子にとって、のりさんにとって、いや薔薇乙女さん達にとっても。
情けない話だが、判らない。
悪いことに、さっきの一件で自分の判断にますます自信が持てなくなっている。
必ずしも全て吐き出してしまう方向じゃなかったとはいえ、自分の都合で動き出そうと思っていた。それが巴ちゃんの、想定していなかった視点からの言葉一つで簡単に止められてしまったのである。
要するに僕の状況判断などその程度でしかないということだ。実に近視眼的なのである。
今までそれで過ごして来れたのは、殆どの決断が自分自身にしか影響しなかったから、という全く褒められない理由によるものだった。根っからの下っ端なのだ。
考えてみれば、自分の決断一つでこれほどあちこちを巻き込むことが確定しているのは、あの日店長氏から話を訊くと決めたとき以来かもしれん。
いや、待て。そもそもあのとき──。
絡んでくる人形どもにおざなりに対処しつつ、柄にもなく悶々と考えを巡らせる。
巴ちゃんは人形と遊びながら、時折こちらに物問いたげな視線を向けてきた。だがそんなときもどちらかが曖昧な表情で頷く程度で、会話すら碌にできないまま時間だけが刻々と過ぎて行く。
やがて階下からのりさんが夕食を知らせにやって来た。お気楽な人形どもが歓声を上げて部屋から飛び出して行き、貴重な機会だったかもしれない巴ちゃんとの時間は、何の成果もないまま終わりを告げたのであった。
〜〜〜〜〜〜 第六話 風の行方 〜〜〜〜〜〜
悪化の一途を辿りつつある僕の心境とは裏腹に、夕食の時間は賑やか、かつ和やかに過ぎた。
巴ちゃんは終始にこやかだったものの、殆ど静かに笑っていたり相槌を打ったりする程度で自分からはさほど話すことはなかった。ついでに言えば、僕の方を見ることはあまりなかったし、僕自身積極的に会話をリードするような場面もなかった。
テンションが高かったのは周囲の女性陣であった。
全体的に言葉が多くなったのは、人形どもの名前を決める件を持ち出したからかも知れない。
のりさんは行儀悪く食い散らかしている人形どもを撫でたり汚れた顔を拭いてやったりしつつ、あれこれと名前の候補を考えてくれた。薔薇乙女さん達も、特に金糸雀はこういう案件が好きなのか、思い付いた名前をぽんぽんと出してくれた。
それぞれ好みが分かれるだけに、当然のようにダメ出しも(身の程知らずにも人形どもからのダメ出しも含め)多かったが、その分口数が増えて賑やかになったのは間違いない。
ただ、何処か安心感を伴った朗らかな空気は、上っ面の話題にはあまり関係がないように見えた。
翠星石はいつになく子供っぽく破目を外していた。空元気には見えない──いや、かつてはこっちの方が普通だったのかも知れん。
勢い余って失敗したことを自覚して、逆に一つ重石が取れたような心境なのか。いや、半分自棄になってるだけかもしれん。
どちらにしても腰を据えて重たい話ができるのは部屋に引き上げてからになりそうだ。こっちにしてみればボスに訴えたい話は山ほどある訳だが、まさかのりさんと巴ちゃんの前でする訳にはいかない。
ともあれ、桜田家のムードメーカーであるところの(はずの)翠星石は、彼女の本分に相応しく振舞ってみせていた。周囲も──いや、あからさまに言ってしまえばのりさんなのだが、あの影のような何かをその表情から消して屈託なく笑っていた。
二人とも、僕がこっちに来てから終始どんよりとしていた訳ではない。
むしろ、こうしているところと平生ののりさんを比較すると、彼女は頑張って明るく振舞っていたのだなあとは思う。逆に言えば消沈した姿を見せまいと無理に繕っていたことは否めなかった。
それが旧態に復したのは、翠星石の振舞いもさることながら、巴ちゃんという存在が現れたことが大きかったのだろう。
のりさんにしてみれば、彼女もまた二週間ばかり前にばらばらにされてしまった「楽しい日常」のピースの一つなのだ。全てとは行かないまでも、その一片が戻って来たことで多少ならず気分が上向いたようだった。
但し、いつまで続くかは判らない。ほんのひとときだけの楽しい時間が過ぎたら、また影のある優しいお姉さんに戻ってしまうことも充分あり得る。
盛り上がる女性陣の中で、美味い食事を素直に美味いとも言えず、傍目にはいかにもジュン君らしく見えそうな仏頂面をしながら、僕はどうにも遣り切れない思いを胸中に燻らせていた。
夕食前まで悶々と悩んでいた件ではない。新たな──但し、密接に関連しているかもしれないことだ。
のりさんの「楽しい日常」は、「楽しかった日常」になってしまい、もう二度と戻って来ないのではあるまいか。いや、既にそうなりつつある。
仮にジュン君が僕と首尾良く再び入れ替わり、その過程でキラキーさんの手から皆さんを救い出し、翠星石共々この家に戻って来れたとしても──
──このローザミスティカは彼女から借り受けているもので、僕の所有物ではないんだ。
──君が漫画で読んだ印象よりもずっと、彼女は真面目で……そう、頑固なんだ。
多分、水銀燈はキラキーさんのところからめぐさんを救出するために蒼星石の手を借りようとするか、もっと即物的にローザミスティカを召し上げるだろう。
それが首尾良く行けば──次は……
二人とも、元々この家の住民ではない。だが、蒼星石のローザミスティカが水銀燈に渡ることは、嫌が応でも他の薔薇乙女さん達の立場と行動に変化を齎す。
有体に言えば、キラキーさんの登場以来有耶無耶になってしまったアリスゲームの再開と終結である。
その結果どうなるかは僕なんぞの理解を超えている。しかし少なくとも以前のように薔薇乙女さん達がこの家で暮らすことは有り得まい。
逆に言えば、のりさんの屈託ない笑顔が戻るためには、アリスゲームが不発に終わり、尚且つジュン君以下の人々が以前のようにこの世界に帰還する必要がある訳だ。
──真紅のプランが上手く行けば、ってところか。
付き合いが僅か数分に過ぎない僕には、頭の回転の速さも思慮深さも薔薇乙女さんの中で一、二を争う(と、キラキーさんでさえ看做していた)はずの彼女の計画の内容など考えも及ばない。だが、全員揃ってゲームを終わらせるという彼女の目的は、のりさんが望むものでもあるはずだ。
彼女のプランの実現には他の姉妹との協力が不可欠と言えるだろう。それにはまず真紅の消息を掴み、健在なら合流して協力し、囚われの身なら解放せねばならん訳か。
そこまでは判る。
だが、具体的にどうやったものか。そも、果たして僕が助力できる事柄なのか。そこら辺については、どれだけ考えてもおつむの足りないパンピーでしかない僕にはまるきり判らない。
実のところ、最初は悶々と考えていた案件から気を逸らすために考え始めたことなのだが、こっちも壁に突き当たってしまった。
どっちを向いても行き止まり。八方塞がりとはこのことだ。
取り敢えずこの件はここで御手上げである。なんせ、この件では自分に何ができるかを全く把握していないのだ。
やれやれと息をつき、既に食卓を離れてソファの方に移動した女性陣と人形どもを見遣る。
ひととおり名前候補は出揃ったようで、一体一体をテレビ台の前に立たせてはどの名前が良いか協議しているらしい。何やら品評会とか人形のお披露目のような雰囲気である。
また随分大仰なことをするじゃねーか、とは思うが、まあいいか。のりさんと巴ちゃんも乗り気で参加していることだし、形だけでも華やかにするのが大事なのだろう。
なにより当の人形どもが実に嬉しげである。まあ、それは人間達が楽しんでいるからだ、人形とはそういうものなのである、と赤いのなら力説するところだろうが。
結局誰でもいいんだよな。僕に限らず、可愛がってくれる人が居ればそれで。
ちらりとジュン君の本棚に目を遣る。彼の神経質さを示すように綺麗に片付いているそこには、海外のお土産と思しい人形が何体か鎮座していた。
あの人形達はどうなんだろう。元残念人形ズと同じく、あまり個人への帰属意識みたいなもんはないんだろうか、などとぼんやり思っていると、蒼星石がそっと輪を抜け出してこちらに寄って来た。
なんとなく隣の高椅子を引き、どうぞと示す。蒼星石はこれはこれはと帽子を脱いで慇懃に一礼し、身軽によじ登った。
「──浮かない顔だね」
「ったりめーだろ」
「はは……ああなるとは思わなかったよ、僕も」
「はいはいそりゃどーも。暴走して悪うござんしたね」
「君を責めてる訳じゃないさ。ただ、あの展開は意外だった……翠星石の言葉も含めてね」
「そうかいそうかい」
「大分御機嫌斜めなんだね」
「何にも指示くれなかったせいで、どっちへ話を持ってったらいいかまるきり判らないまま話してたんだぜ。こっちがバカだからいかんのは承知してるが、見事な放置っぷりに少しは腹も立つさ」
「……そう」
声を潜め、ぼそぼそとまるきり色気のない言葉を交わす。可愛い系の美少年……と多分言っていいだろう、おまけに将来イケメンになることが約束されている少年と美しい生きたドールがしているとは思えない、実に陰気臭い会話である。
蒼星石はひとつ溜息をつき、そうだね、ともう一度呟いた。
「僕達は……いや、僕は単純過ぎるんだろうね。だから翠星石の想いも、君の当惑も想定できなかった」
「単純だとは到底思えんが、こっちが方針無しで悩むと思わなかったのは解せんな。これでも巴ちゃんに洗い浚い話すかどうか無い知恵絞ったり、なけなしの良心と戦ったりしてたんだぞ」
「ごめんよ。僕には当然のように答えがあった。だから、みんなも同じ答えを持っているものだと思っていたんだ」
「ほぉ。で、そいつは巴ちゃんに包み隠さず話す件なのか、翠星石が言い出した登校の件についてなのか、どっちなんだ」
「どちらも、になるかな。それが誰にとっても自明な最適解だと思い込んでいたから、君達の挙動を予想もしていなかった」
「最適解ねえ。どうすりゃ良かったんだ、こっちは」
あくまで個人の見解として聞いて欲しい、と蒼星石は念を押すように言う。
僕等が全く別の(多分に頓珍漢な)答えを提示したことで、その最適解と信じていた案に自信が持てなくなってきたらしい。さっき玉虫色っぽい発言で終わったのもそのせいか。
そいつで構わんから是非聞かせてくれ、と僕は蒼星石の顔を覗き込んだ。
やたら真剣な表情をしてみせたのは、もちろん笑わせようとしてやってる訳じゃない。
既に後知恵になりかけだが、僕にとっては散々悩んだ案件に関する初めてのヒントなのである。ボスたる翠星石本人の意見でなくとも、大いに参考にできることに変わりはない。
現金な僕に苦笑しながら、蒼星石は顔に掛かる前髪を掻き上げて前を向いた。
「僕にとっては、マスターの意思と安全が最優先なんだ。ジュン君の決めたことに従うし、彼の思いは叶えてあげたい。それは変わらない」
「さっき言ってたとおりか」
「nのフィールドに入る前……いや、囚われる前の彼は復学に向けて前向きだった。あんな形で妨害が入ってしまったけど、登校を再開すると決めていたのは確実だ。本人から──森宮アツシ君から直接聞いたことがあるから。だから、ここで君が演技を続けるつもりなら、そのための準備をしている形を作っておくのは自然な流れだよ」
「大嘘こいといて自然とか、矛盾もいいところだが……まぁ、ジュン君ならそうなるのか。そっちの見立てでも」
「うん。彼にはアリスゲーム以外に大切なものがあった。マエストロの才能を発揮するよりも、いち学生としての日常を選ぼうとしていた」
「この状況に置かれても変わらないもんかね? 自分が契約した愛しの薔薇乙女さんを一体潰されたままで、更にもう一体行方不明なんだぜ。むしろ僕みたいにゴロゴロしてる暇もなく、みんな連れて探しに行くんじゃねーのか」
「可能性はあるね。ただ、どちらも同様に確からしい、としか言えない。確実に彼が表明していたと言えるのは、こんなことになる前の、復学したいという意思だけだ」
「確実な情報の中では最新のものを元にして、ってやつかい。ただの前動続行って気もするが」
「間違ってないよ、そういうことになる。ただ、帰還したら復学していた、というのも彼にはハードルが高過ぎる──あちらの世界でも、特に理由もなく中学に通えなくなったほどだ。だから、君にやって欲しかったのは、あくまで彼と同じように図書館に通って勉強して貰うことだった」
「図書館か。外出許可は嬉しい限りだが、ここの図書館なんて入ったこともないぞ。何が何処にある、どころか肝心の場所さえ知らないんだぜ」
「位置や道順は追々覚えればいい。施設や利用方法なんて図書館によってそんなに変わるものでもないし……ただ、細かいことは柏葉さんに色々と教えて貰うしかないだろうね、事前に尋ねたり、その場で指示を受けたりして」
「ふむ……っておい待て。それって巴ちゃんに丸バレになっちまうのが前提じゃねーか」
「翠星石の目の届かないところに君と彼女が居れば、いくら秘密を守ろうとしても早晩破れてしまうのは必定だ。そうなってから慌てるより、彼女には早い内に事実を告げておく方が良い。今日、向こうから来てくれたのは都合がいいと思っていたんだ」
「……なるへそ」
蒼星石も僕と同じ懸念を持っているようだ。ボロを出すのが確定事項だとバッサリ言われてしまったのは悔しいが、ボロを出さずに頑張れと言われてできるものでもない。
理詰めで押している気配はあるが、蒼星石の言うことは確かに無難な線だ。戻って来てからのジュン君にとって。
知らない内にいきなり学校に通い始めてましたとか、逆にぱったり図書館通いも停止して(既に大分サボっている形ではあるが)完全引きこもりに逆戻りと相成っておりました、という形よりは、取り敢えず進展なしの状態を保っていた方が楽だ。彼にとっては。
そういや蒼星石が言ったとおり、確かにジュン君は向こうの世界でもヒッキーであった。彼の中では合計何年経った扱いなのか判らんが、未だにトラウマを引き摺っているのなら尚更、元に近い状況に保っておくのが良いだろう。
──ジュン君にとって、か。
そうか、とちくりと良心の欠片のようなものが胸を刺す。
さっきの蒼星石の発言は意味もなく発せられたものではなかった。
言葉に中身がなかった訳でもないし、翠星石が黙ったのも単に水を差されて頭を冷やしたからではなかったのだろう。単に、こちらにその視点が欠けていたからそう見えていただけの話だ。
最初から、僕は入れ替わった後の「ジュン君の」ことをまともに考えていなかった。
学校に行くことも、外出して不慮の出来事に遭遇するのも、はたまた巴ちゃんと親しく話し込むということも、全てバレるかどうか、バレてしまうなら忌避するかこっちからバラしてしまうかどうか、という問題としか捉えていなかった。その一点だけで頭を悩ませていた訳だ。
僕が行動をした結果、いずれ僕の意識と入れ替わる形で元に戻ったジュン君がどう思うか、どう折り合いを付けてその後を過ごさねばならんか、といった部分はろくすっぽ頭になかった。身体を鍛えておくだの何だのについては一応気にしていたのに。
改めて考えれば、他人様の前で僕がやったことは全てジュン君の行動としてカウントされてしまう。
そのとき不審がられたり迷惑を掛けるといったことは勿論、なにがしか印象に残る行為があれば、彼のしたこととして記憶されるという形になる。大袈裟に言えば戸外に出るだけでも慎重にならざるを得ない。
翠星石がそこまで考えていたかは判らんが、蒼星石は見越していたから当面の外出禁止に反対しなかったのだろう。対して、僕の関心は──冷静になったといっても、結局目先のことに終始していることに変わりはなかった訳だ。ちぇっ。
「……やっぱ、色々足りないよなぁ。僕ぁ」
「視点が違っているだけさ。僕には逆に、君がどんな思いでいるかが判らなかった」
蒼星石は苦笑して、みんな同じ考えなんて有り得ないのに、と自嘲気味に呟いた。
よせやい。そんな顔は見たくないぞ。中学の時からの僕の悪友は、そんな寂しそうな顔をする奴じゃなかった。
視線を前に向けて黙っていると、蒼星石も前に向き直る気配があった。湿っぽさのない口調で続ける。
「君は不幸にも巻き添えになった外部の人だ。当然現状を迷惑がっているだけだろうと考えていた」
「概ね当たってる」
「あはは……でもそれだけじゃないよね」
「そりゃあ悪いばかりとは言えん。ハーレム状態っつーか、美人さん達に囲まれて上膳据膳だからな。怪奇残念人形ズに囲まれた一人暮らしと比べたら天と地の差ってやつだぜ」
「いや、そういうことじゃなくて……君は確かにジュン君に配慮していなかったかもしれない。でも、目の前に居る僕達のことは考えてくれている。それを、さっき初めて理解できたような気がしたのさ」
「こちとらド近眼だからな。いつも目の前のことだけで手一杯だし、一番可愛いのはテメーでございますよ、どーせ」
「卑下しなくていいよ。近視眼的だったのは僕の方だ」
「どの辺だよ。僕なんかよりゃずっと先まで考えてるじゃねーか」
「自分とマスターしか見えていなかったのさ。君の意思も、柏葉さんの想いも考えず、ただ漫然とマスターにとって良かれと思う方法を最適解だと信じ込んでいただけのことだよ。それどころか、みんな同じ解に至っているとさえ思っていたんだ」
「まあ、前もって意見交換しなかったことは褒められんな。そこはみんな同じだが」
「確認しなかったのは、君達を手駒のような感覚で考えていたからだと思う。言い付ければそのとおりに動いてくれるって。酷い思い上がりさ」
卑下してんのはどっちなんだか。湿っぽさがなくなった分、さっきより自分を突き放してぶっ叩いてるようにさえ聞こえるぜ。
自分とマスターしか、とは言うが、蒼星石にとっちゃ自分と契約してるジュン君は絶対に近い存在のはずだ。
よく知らない水銀燈のことを引き合いに出すまでもない。金糸雀が毎日主のいないマンションと意識のないみっちゃん氏の入院先を往復しているのと同じようなもので、万事そっちが優先で当然である。
しかも、彼はただのマスターじゃない。マエストロさんであり、この厄介な状況を含めた一切合切の鍵を握っているのも確実だ。彼のために僕なり巴ちゃんなりを動かそうとしたところで罰は当たるまい。
そもそも、双子の庭師の能力ってやつは人間を操るのにぴったりなのだ。片方が大事な記憶を刈り取り、もう片方が要らんことを思い出させる。
よりによってジュン君の身体に宿ってしまった僕としては、その剣呑な技を駆使して強制的に操られなかっただけでも御の字と言わねばなるまい。
いやまあ、仮に操作されていたとしてもこっちは気付けないんだろうが、それを言い始めたらキリがない。
「ともかく、蒼星石の見方は参考になった。ありがとな」
「ごめん。もっと早くに伝えておけば良かったよ」
「こっちこそお粗末様で──ってそれはもういいや。この話は止めようぜ。二人でコソコソ反省会しても始まらん」
「そうだね……」
巴ちゃんは目と鼻の先に居る。未だ一応我がボスであるところの翠星石も居る。全て終わった後ならともかく、未だ今後の方針は変更も協議も可能だ。
ちなみに、巴ちゃんに事実を伝えるならなるべく早く──できればこの場で打ち明け、彼女も含めて協議をした方がいい。
だが残念なことに、僕も蒼星石も相手の気分を理解はしていたが、肝心の自分達の表明したどちらの案にも自信が持てなかった。
蒼星石と同列の人物はあと二人いる。その二人の案を聞くために協議するのだから、この場で先に巴ちゃんに事実を伝えてしまう訳には行かない。あくまで彼女を巻き込まない方が良いという案が有効かもしれないからだ。
何やら本末転倒というか、大いにモヤモヤするのだが、腹案に自信がないときというのはこんなもんである。
「取り敢えず、今は命名式に参加するとしようぜ。謀議はその後にするしかなさそうだ」
「了解」
どっこいしょ、と如何にも大儀そうに腰を上げる。翠星石によれば、これもジュン君らしい仕種であるらしい。
何人と何体かがこちらに頭を巡らす。ガキの癖にじじ臭いですぅ、と小さなキンキン声がして、遠慮のない笑いが起きた。むむ、巴ちゃんまで笑っとるではないか。後できつく仕置くから覚悟しておれ、お貞よ。
憮然とした僕の顔が面白かったのか、蒼星石はにやりと笑って椅子を降りる。僕は腕を組んでやれやれといった体を作り、蒼星石と並んで黄色い喧騒の輪に加わった。
品評会、もとい命名式は粗方終わっていた。蒼星石と話していた時間がそれなりに長かったということだろう。
のりさんは少しばかり優柔不断というか、優し過ぎて自分の意見が通せないことが多いし、巴ちゃんはあまり口数が多い方ではない。だから専ら金糸雀と翠星石の二人の案が採用されているものと思っていたが、実際にはそれほど極端に偏ってはいなかった。
意外というか、むしろ当然の成り行きというか、唯一名付け残っていたのはお貞であった。散々ああでもないこうでもないと文句を付け、折角考えてもらった名前に納得しなかったらしい。
人形のくせに生意気もいいところであるが、それを許してしまう皆さんも優しいというか何と言うか。ちょっと外見が良いからといって甘やかすのはどうかと、元々の姿と振舞いを熟知している僕は思うのであるが。
名前候補は数種あったのだが、どれを挙げても本人形が駄々を捏ねるので取り敢えず二つに絞った、とのりさんは少々困り顔で教えてくれた。なんだ、それなら。
「後は多数決で決めればいいんじゃないか」
「でもぅ、人数が……」
「ああ……確かに」
元々四人、そこに僕と蒼星石を入れて六人。大方二つに絞ったというのも二人ずつに意見が割れたのだろう、と予想していたらそのとおりだった。
困ったことに、並べて書かれた名前を見た僕と蒼星石の意見も分かれた。
可愛い花をつける草の名前と元気そうな名前で、僕としては平生のお貞の立居振舞からして後者が良いと思うのだが、蒼星石は双子の姉のイミテーションという部分がどうしても先に立つのか、植物の名である前者を推した。
蒼星石に先に言わせて同調すれば良かった、と思ったが後の祭り。相手が僕でなくジュン君なら蒼星石の方で同意したのではないか、などと勘繰るのは野暮というもの。ともかくこれで多数決は失敗した訳である。
暫しの沈黙の後、本人に決めさせてはどうか、と困った表情のまま案を出してくれたのはのりさんだった。
やや遠慮がちな提案ではあったが、巴ちゃん以外の全員が顔を見合わせ、誰からとはなしに窓の方に目を遣って頷きあったのは、言外に含ませた意味に気付いたからである。
窓から見える青く澄んでいたはずの秋の空は既に闇に包まれていた。お誂え向きに月まで出ている。夕食を食べた後にまだ騒いでいたのだから致し方ない。
夕食をご馳走することが前提だったとはいえ、これだけ長い時間巴ちゃんを拘束しただけでも褒められた話ではなかった。
しかも普段であればともかく、テスト前という話である。真面目な彼女が普段ならどう過ごす予定だったか、のりさんのみならず僕等全員見当がついた。なにせ、つい先日まで現役の高校生だった身なのだから。
「……それがいいかしら。今ここでってのも何だから、明日の朝までに考えといて貰うってことでどうかしら」
「そうだね。賛成するよ」
「良い案じゃないですか。のりにしては冴えてますよ」
「ありがとぅ、冴えてるなんて……いつもボケてるって言われてるからお姉ちゃん嬉しいわー」
「いつもって……そうだったの翠星石? ちょっと酷いかしら」
「そ、そりゃちょっとは思ったりすることもありますけど、そんな常日頃から口に出してる訳じゃないですからね?」
「翠星石ちゃあん……」
「ははは……」
「ま、まあいいや。本人形に異論がなけりゃ、それで行こうぜ」
「いいのかな、さっきはどっちも嫌だって言ってたけど……」
「うー」
巴ちゃんに心配そうな視線を向けられ、当のお貞は当然のように不満顔を返す。そりゃ、気に食わん名前二つの内から一つを選べと言われたら嫌な顔もしたくはなるだろう。
だが、このままコイツの我儘を聞いていたのではいつまで経っても終わらない。気に入ったかどうかは別として提示された名前を受け容れた他の連中との兼ね合いというものもある。
お貞が何か抗議を始める前に、じゃあこの場はお開きにしよう、と宣言して僕は腰を上げた。他の皆さんも大体のところを察してくれたのだろう、輪を解いてそれぞれ立ち上がる。
いつもながら薄情なもので、人形どももお気に入りの人にまとわりついてめいめい席を立つ。口を尖らせているお貞をその場に残して命名式は解散と相成った。
悪く思うなよお貞。巴ちゃんを送り出して今後の協議を終えた後はお前の我儘を聞いてやるから。
与えられた名前がどうしても嫌だと言い張るなら、秋の夜長をお前の名前探しに付き合ってやってもいい。他の連中のことも考えたら、ゴネ得みたいであまり宜しくはないけどな。
巴ちゃんにまとわりつく人形どもにまた今度にしろと言い含め、門のところまで送るよと言って僕は先に玄関を出た。
初秋の候とはいえ、日が落ちれば風は冷たい。もっともほんの暫く前までは春未だ遠い季節に身を置いていた訳だが、現金なものでこの過しやすい季節にリズムが合ってしまっている。
靴を履く彼女を扉の外で待ちながら、そういえば家の外に出ること自体初めてだな、と気付く。
拙かったかもしれん。蒼星石の意見を聞いて安心してしまったのか、つい僕自身のような調子で見送りを申し出てしまった。
皆さん妙な顔をしなかったのだから、ジュン君としても酷くおかしな行動には見えなかったのだろう……と思いたい。
ほう、と息を吐いてみる。まだまだ白く見える時期ではなかった。
空に視線を転じると、月は煌々と輝いていた。夜道を歩くのにもさほど不自由のなさそうな按配だが、生憎と街の中は街灯やら車のライトその他諸々の光の方が強い。結構なことであるが、風情のない話でもある。
その人工的な光が、慣れ親しんだ街のそれよりもずっと強い気がするのは気のせいではない。
世界が違う、だけじゃない。単純に地理的にも、ここは僕の生まれた街とはずっと離れた首都圏の一角だった。
あの街は、この玄関から見てどの方向にあるんだろう。確か北がこっちだから……とやっていると、ドアの開く音がして地面が明るくなった。
人形どもとのりさんの賑やかな挨拶が聞こえ、ドアの閉まる音と共にその音と光が止む。これまであまり意識したことはなかったが、まるでテレビの場面が変わった時のような見事な変化だ。
これも防音の効果ってことか。懐かしの我が家などとはえらい違いである、などと当たり前のことを考えていると、巴ちゃんは怪訝そうな顔でこちらを見た。
「──どうしたの」
「……ああ、ごめん。いろいろ考えてた」
「そう……」
視線を外して斜め下を見る。薄暗い中でも憂いの表情が見て取れた。
どうしたんだ、とこっちが言ってやりたい姿だった。先程まで見せていた、陽気とは言えないまでもほんのりとした明るさが、その小柄な体から消えている。
まさかこの短い問答が原因で消沈した訳ではあるまい。人形と遊んだのが気晴らしになっていたんだろうな、と容易に見当がつく。
自分の周囲を人形で埋め尽くしていないと満足できなかったり、逆に失うもののない状態まで閉じ籠ったりしていなくても、彼女もまた寂しさを抱えたローゼンメイデンのマスターの一人ではあるのだ。あの場でツートンを見て涙を流したり悄気たりしなかっただけ、まだ前向きな方なのかもしれない。
本日何度目かの、気詰りな沈黙が舞い降りて来そうな気配が流れた。
巴ちゃんは棒立ちでやや斜め下を向いた姿勢のまま固まっている。何か言いたいけれども言えないのか、それとも内心で寂しさが落ち着くのを待っているだけなのか。
どっちにしろ、こちらから行動を起こさなければ、彼女は自分自身に苛立ったりせず、納得の行くまでこのままじっと佇んでいられるのだろう。今日見た限りでは、彼女はそういう人物だった。
他動的じゃないんだが、あまり自分の意見を主張しない。自分のことを軽く考えているというのともまた少し違う。
──ああ、そうか。
なんとなく、妙なところで僕は納得してしまった。
実は、彼女はちょっとだけ──いや、ジュン君だのめぐさんだのといった他の契約者の人々同様、かなり面倒臭い人物なのかも知れぬ。
決して受け身でいるばかりではないのだが、積極的に行動に出ることに恐怖を覚えているのだろう。
頭が良過ぎて、先が幾つも見えてしまうのかもしれない。自分の言動が原因で何かを壊してしまう可能性まで見えてしまい、それを恐れている。
だから口数も少なくなる。頼まれごとを断れなかったり、一見単に従順にも見える行動も多くなってしまう。いつも静かに微笑む程度で、素の自分を出せるのは気を許せる僅かな相手の前だけ。
生来の愚鈍さ故に役どころが絡むと先のことが見えず、何をしたらいいのか判らなくなっている現在の僕とは対極というか、なんというか。
まぁこちらの話は置くとして、今の彼女は何か切っ掛けが欲しいのだ。自分の中で踏ん切りが付けば話し出すだろう。
ただ、その前にこちらから言葉を掛けてしまうと、自分の都合など簡単に放棄してしまう。言いたかったことを無造作に心の中に仕舞い込んで、ちょっと黙っていただけだからと誤魔化してしまうはずだ。
ちぇっ。
周囲の都合に自分を上手く合わせられる、自制が利き過ぎるほど利いた良い子なのは間違いない。間違いないが、こんなタイプは初めてだぞ。少なくとも、僕のつるんでた(現在進行形でつるんでる奴もその中に当然入る)我の強い連中とは正反対に近い子である。
若干似てる部分のある人物もいたが、それは……。まあ、止めとこう。
暫く待っていると、巴ちゃんは顔を上げてこちらを振り返った。
「桜田君」
「……ん」
「思ったの」
「うん」
「変わったね、桜田君……他の人になっちゃったみたい」
ありゃあ、と間抜けな台詞が出そうになって、慌てて飲み込む。
やはりバレていたのか、という思いの衝撃度は意外なほど小さなものだった。むしろ、気抜けしたような感情の方が大きい。ここまで何やら色々と考えていたのが馬鹿らしいとさえ思った。
まあ、そりゃそうだろう。
口調や立居振舞を似せているといっても、所詮は学芸会の寸劇レベル。もうひとつ言えば、元々意識して似せなければたちどころに他人だと判るほど懸け離れているのである。
バレない方がおかしいのだ。いくら外見が変わっていなくても、中身は元々の彼のことをろくすっぽ知りもしない赤の他人様なのだから。
そして、違和感あるいは疑念を抱いているのは巴ちゃんだけではないだろう。高々数時間一緒に過ごしただけの彼女が気付くのだから、接触時間を短くしているとはいえ、何日も同居しているのりさんが違和感を持たないはずはない。
躊躇いがちな彼女の次の台詞も、それを肯定するものだった。
「のりさんが言ってた。
桜田君、帰って来てからすごく優しくなったって。雛苺や真紅が居なくなって変わったのもあるかもしれないけど、のりさんにいつも気を遣ってるみたいで、桜田君らしくないって……。
翠星石や金糸雀も落ち着いて、大人になったみたいだけど、それよりずっと……二人と比べると桜田君だけ、本当に変わっちゃったみたい……って。
……私も、そう思ったの。今日。
最初は私の知ってる桜田君で間違いないって思ってたのに、少しずつ……」
そうか。薄々バレてたのか、のりさんには。
まあ、所詮一人っ子の僕には判らん距離感だったのかも知れん。
憎まれ口も叩くし無意識に甘えもする、そんな引籠りの弟を僕は演じられていなかった。優しいのりさんはそれに気付いていたが、僕等や翠星石達の前では口に出せなかったのだろう。多分、怖くて。
のりさんからは数日前に話を聞いていたのだ、と巴ちゃんはまた視線をずらした。目を見て話をするのが苦手なのか、それともジュン君の顔を見ると判断が鈍るからだろうか。
「今日来たのは……今日まで来れなかったのは、怖かったんだと思う。変わっちゃった桜田君を……自分の目で見るのが」
「……そっか」
「……桜田君、なの?」
そうであるとも言えるし、そうでないとも言える。……なーんて言えたら、恰好いいんだけどね。
残念ながら僕には洒落た言葉も、店長氏改め巻かなかったジュン君のような最低限の恰好付けも無理なようだ。いざとなると、これまでの努力が水の泡ですと零す翠星石の顔やら、やっぱりそうだったのねと哀しげに歪むのりさんの顔、そして目の前に居る巴ちゃんの落胆した表情なんかが頭の中で渦を巻く。
しかし、ここまで来て白を切り通すだけの才覚や突っ張りの強さも、情けないが僕にはなかった。それどころか、現金なもので向こうから問い掛けてくれたことに安堵すらしている。
ただ、次の一言は口にするのにちょっとばかし躊躇いがないでもなかった。
「僕は、桜田ジュン君じゃない」
言ってみると、違和感が残るなどと呑気なことを考えている場合じゃない空気になったのが判った。
薄明かりの中でも、巴ちゃんが身体を強張らせるのが見える。声にならない悲鳴ってのが本当にあるなら、彼女は叫んでいたのかもしれない。
ごめんな、翠星石。巴ちゃんも。蒼星石が言ったとおりってやつだ。
僕がもうちょい芸達者か、もう少し皆さんのことに詳しければ、欺きとおせたかもしれない。あるいは、比類なき鉄面皮だったなら。
残念なことに、既に繰り言でしかないけれども。
いずれ翠星石本人に言わねばならん謝罪は置いておくことにしよう。何も言えないで居る巴ちゃんに、ある程度は説明をしなければこの場が保たない。
「ジュン君がnのフィールドに入ってからの経緯はえらくこんがらがってる。行って帰って来た、じゃないんだ」
「どんなことが……?」
「なんつーかいろいろあるんだけど……手短に言うと、この身体はジュン君本人のもので、中に入ってる魂だけが別物ってことになる」
「誰がそんなことを……桜田君、の魂は……?」
「今んとこ、僕達には判らない。ただ、やらかしてくれたのは前後の経緯から見て雪華綺晶で間違いないだろうな。ふざけた話だけど、あちらさんにはあちらさんの事情ってやつがあるんだろう」
「どうして……なんで」
「ごめん、それも判らない。漸くこれから手を着けるところなんだ。これまでは……まぁ僕は置いとくとして、翠星石達みんなこの状況に慣れるのに精一杯だったから」
マスターが囚われの身で桜田家に居候中の金糸雀はともかく、双子の庭師の方は現状に馴染むのに手一杯だったとは言い切れないのだが、一応そう言っておく。
少なくとも三人ともサボタージュ活動をしていた訳ではない。むしろ、めいめいに解決を模索していた。その初動がここまで遅れまくっているのは(今ひとつお互いに協力して何かをしようという姿勢が見受けられないのも原因だが)、状況を把握しきれていないせいであることは間違いない。
皮肉なことに、今晩以降少しは活動が活発になるだろう。
巴ちゃんの訪問というイベント(というか巴ちゃんというファクターそのもの)は、のりさんに対してのそれとは全く別の形で、薔薇乙女さん達にも刺激を与えたはずだ。
僕達の失態があったからとはいえ、少なくとも蒼星石が自分の考えを整理する切っ掛けにはなったのである。翠星石も──まあ、自分の突っ走ってしまった部分を振り返るだけの余裕があればという仮定の上の話になるが、巴ちゃんとの問答の中で思うところはあっただろう。
金糸雀については判らない。どうも彼女は表に出さずに、本当に独りで何か行動を起こそうとしているような気がする。だが、彼女にしても流れが変わりかけていることは気付いたに違いない。
この後、翠星石とは今後のことをじっくり打ち合わせねばならんが、できればその場で薔薇乙女さん達全員が腹を割って話し合えればいいと思う。たとえ、僕等全員の行動が全てキラキーさんに筒抜けであったとしても。
翻って僕はといえば──巴ちゃんの言葉と蒼星石の話で、漫然と燻らせていたものが漸くはっきりしてきたような気がする。
僕自身の日常を取り戻すという欲求は、どうも最初漠然と考えていたほど強くはない。
自分で言うのも何だが、これはちょっと妙な話だ。自分の身体が一体何処でどうなっているのか見当もつかない上、意識がいきなり放り込まれた先が物語の(それも散々嫌っていた話の)主人公ときたものである。こんな状態から一刻も早く元に戻りたいと考えるのが当然だ。
まあそうならない理由はなんとなく判ってる。それもあって、僕はどうすべきかの判断を先送りにし、翠星石に全てお任せ状態で過ごして来たのかもしれない。
但し、自分の決定が他人に影響するのを無闇に怖がっていたことの原因までそこに転嫁するのは止めておこう。それは僕のチキンハート故のことであって、別の何かに託けるべきじゃない。
巴ちゃんは佇んだまま、ぽつりぽつりと幾つか質問を投げてきた。中には判らないと答えるしかないものもあり、その度にテンションが落ちて行くのが見て取れたが、彼女は泣き喚くことも拒否することもせずに受け止めた。
意地の悪い見方をすれば、彼女にしてみれば予想していた中の一つ(但し、多分最悪の)だったのかもしれない。もっとも、そうだとしても少なくとも初見ではジュン君だと思ってしまった訳であり、落胆したことに変わりはあるまい。
そんなことを考えつつ、判っていることについては説明が煩雑にならない程度に返答した。答えた質問の中にも彼女が理解できなかったものはあるのだろうが、その辺は致し方ない。所詮は僕なのである。
別れ際に、彼女は大きな月を見上げて言った。
「桜田君、元気にしてるのかな。それとも、また前みたいに……」
「それはないと思う」
「……判らない、って言わないんだ」
「ああ、まあそりゃねえ。もう充分過ぎるくらい引き籠ったはずだから、ジュン君は」
「そう……?」
「うん。何やってるかまでは知らないけど」
「じゃあ、もし戻ったら……」
「会えるよ。この家だけじなく、学校で」
「……うん」
最後に消え入りそうな声になったのは、自信がなくなったからじゃないだろう。空を見上げた横顔が少し赤いように見えたのも、見間違いじゃあるまい。
先程(多分その時点では僕をジュン君本人だと思っていて)つい口にしてしまった言葉。それに言わずもがなの想いを乗せてしまったことに恥ずかしさを感じているのだ。
僕も相当な鈍感ではあるが、先程階段を上るとき彼女に見蕩れられていたことに照れてしまうようなら鈍さを通り越して阿呆だろう。
彼女の目の前に居るのは僕だったが、彼女が見ているのは僕ではなかった。要するに、そういうことなのである。
やっぱり良い子だな、この子は。間違いなくジュン君に惚れているのに、その気持ちをどうにか抑え込もうとしている。
──翠星石、こいつはアリスゲームとはまた別の、大変な難関になりそうだぜ。
まあ、本人もそれは判っているはずだ。ライヴァルいっぱいで結構な話ではある。
角を曲がって行く小さな背中を見送って、玄関をくぐる。
何気なく送り出そうとしたことが予期しない大事に繋がってしまったが、時間は大して過ぎていなかった。多分、別れるまで二十分と話していなかっただろう。
逆に言えば、大した内容を伝えられた訳ではないということになる。明日以降、元気を奮ってまたおいで頂けることを願うばかりだ。
大分冷えていたらしい。ぶるっと一震えして居間の前を通り過ぎると、中からチャンネル争いをしているらしい人形どもの元気な声が響いてきた。名前未定のままのお貞の声もある。
姿や名前が変わっても、ホントやっとることは変わらんな、と思いつつも、なんとなく安堵してしまう僕なのであった。これから部屋で開かねばならん会議の内容を考えれば、到底安堵などしている場合ではないのだが。