〜〜〜〜〜〜 桜田邸・客間 〜〜〜〜〜〜
差し向かいに座り、翠星石が淹れてくれた紅茶を啜りながら、ちらりと相手の顔を窺ってみる。
柏葉巴さん。
三つばかり年下になる勘定だから、この際呼び捨てか、思い切ってちゃん付けでもいいかもしれない。柏葉ちゃん、だと違和感があるから、巴ちゃん、か。
雛苺の契約者でジュン君の幼馴染の同級生。優等生で学級委員(委員長って話もある)、薔薇乙女さん達に負けず劣らずジュン君のことを気に懸けている。
僕が彼女について知っていることは、つづめてしまえばその程度である。
改めて確認すると冷汗三斗の気分だが、実はのりさん、いやいやジュン君本人についても、僕が持っている知識は似たりよったりでしかない。
精々漫画で印象的だったイベントをいくつかうろ覚え程度に知っているだけ。例のブッ飛んだ金銭感覚に限らず、僕がジュン君やのりさんの周囲の様々な事柄を理解できていないのは初日から大して変わっていない。
曲がりなりにも影武者というか偽者を演じていられるのは、偏に翠星石をはじめとする薔薇乙女さんお三方のチェックと御指導御鞭撻あってのことである。もっとも、彼女等の意向がなければわざわざ演技などせず、正直に赤の他人ですと白状していただろう。
──この子も薔薇乙女さん達と同じ経験をして来てるんなら楽なんだがなぁ。
蒼星石の推測が当たっていないことも一応有り得る。森宮アツシ君(に憑依したジュン君)と日向なにがしさん(に憑依した柏葉巴さん)が、石原姉妹等の感知しないところで二週間ほど前に会っていて、さっきの挨拶はそのことに言い及んだだけ、という可能性がないとは言い切れない。
ただ、それはあくまで理屈の上の話。さっき玄関で彼女が見せた笑顔は、そういう細かい事情を知っている人の表情ではなかった。
彼女は何も知らない、と考えていいだろう。キラキーさんの異様に手の込んだ罠のことも、僕の居た世界でジュン君と薔薇乙女さん達が過ごした何年間だかの時間のことも、彼女の与り知らない出来事なのだ。
だとすれば、どうしたものか。いや、我等がボスはどうするつもりなのか。
洗い浚いぶちまけて、協力を仰いでみるのか。あるいはのりさんと同じく、彼女に対してもジュン君役を演じてみるべきなのか。いや当然翠星石は後者で行くつもりなんだろうが、上手く行くのかコレ。
なんせ、巴ちゃん相手では薔薇乙女さん達の助け舟がろくすっぽ期待できないのである。
彼女とジュン君は幼馴染である上に中学の同級生。それなんてエロゲ、と言いたくなる関係であるがまあそれは置く。
二人が親しく接していた時間は、翠星石がジュン君と暮らした期間と重複していない。ちなみに金糸雀は翠星石がジュン君の家に転がり込んでからの付き合いで、蒼星石に至っては巴ちゃんと一面識もないはずだから、どちらもかなり疎遠な立場である。
翠星石にしても、ジュン君と巴ちゃんとが揃っている場に居合わせたことは殆ど無いに等しい。
特に彼が巴ちゃんと図書館に通うようになってからは、家の中では薔薇乙女さん達、外では巴ちゃん、とそれぞれ棲み分けのようなものが成立していたのである。
これは厄介極まりない。要するに彼女が昔話(というか彼女にとっては直近の過去の話)を始めたら、僕は想像とはぐらかしで対処するしかないということだ。
ティーカップを置き、ちらりと巴ちゃんの顔を見る。彼女はゆっくりと左右に目を遣っていたが、僕の視線に気付いてこちらを見詰め返してきた。
若干上目遣いになっているのが可愛い。しかし、その目は寂しげだった。
理由は大体判っている。客間に集った面子を見て、雛苺が居ないことを再確認してしまったのだろう。雛苺がどうなってしまったのかはのりさんから聞いて知っているはずだし、彼女的には雛苺と別れてからほんの僅かの時間しか経過していないのだから。
ええいクソ。一体どうすりゃいいんだよこの状態。
せめてリニューアルした残念人形どもが薔薇乙女さん達とスケール違いでなければ、ツートンに代役を務めさせて……いやいや。
アイツに雛苺(に関わらず何かの真似)をやらせるのは僕がジュン君を演じるよりも無理筋だろう。似てる似てないは別として、役者をやれるような器用さは到底持ち合わせてない。
相変わらず使えぬ奴等である。まあ、傍から見てりゃ僕もご同様なんだろうが。
何しろマエストロ様のボデーを預かりながら、行動は逐一他人様の指示に従っている身の上なのである。
──さて、ボス。今回はどうすりゃいいんだ、僕は。
詳細な指示とは行かずともヒントくらい寄越せよ、と翠星石を横目で窺ってみる。しかし当の本人は、どういうつもりか黙ったままお茶菓子を皿の上に並べており、こちらにはちらりとも顔を向けてこなかった。
おいおい、こんなときに限って僕に丸投げかよ。勘弁してくれ。
〜〜〜〜〜〜 第五話 夢はLove Me More 〜〜〜〜〜〜
壁の時計の秒針が一周する間、僕等の間には気まずい沈黙が流れていた。
お茶を注ぎ終わった翠星石は僕の隣に座を占めている。金糸雀と蒼星石もそれぞれテーブル周りに座っていた。
準備万端整った、というところである。しかし、話が一向に始まらない。
一応全員が着席したところで、推測が当たっていれば面識がないはずの蒼星石と巴ちゃんをお互いに紹介してはみた。ジュン君の役回りであろうと判断して独断でやらかした訳だが、これといって止めだても妙な顔もされなかったものの、それだけで会話は途切れてしまった。
なんなんですかこの空気。四人とも一言も発しないばかりか、お互い視線を交わすこともない。嫌に余所余所しいじゃねーですか皆さん。
元々巴ちゃんに対してはこういう距離感なのか? それともこの場は僕に任せたとでも言いたいのか。
以前のあれこれが皆目判らんだけに不安と焦燥感が募る。いっそのことジュン君のことを含め全部暴露してやろうか……などと不穏なことを考え始めたとき、漸く巴ちゃんが口を開いた。
「──ごめんね、こんな時間に……今日からテスト期間で、午後の部活もなかったから」
「あぁ……そっか、中間試験の時期だっけ」
「ごめんなさい、言ってなくて」
「え、いや、そんな謝らなくても」
「桜田君……勉強、とっても頑張ってたから、テストの話なんかしたら余計無理しちゃうんじゃないかって思って」
「……ありがと。凄く嬉しいよ。気、遣ってくれて」
「ぁ……ううん、そんなこと……」
巴ちゃんは慌てたように俯き、口元に片手を当ててふるふると首を振った。
頬が……つか耳まで赤くなっておる。うはぁ、何このギャルゲ的反応。
なんつーか……想われてるなジュン君。真紅に翠星石だけでも両手に花、加えてグラマーなお姉ちゃんまで居るのにもかかわらず、可愛い幼馴染かつ同級生までこの態度とは。
今更ながらまさにリア充、ハーレム一直線ではないか。爆発しやがれコンチクショウ。
まあ、毎度恒例の嫉妬は置いとくとしよう。虚しいだけだし。
ジュン君を目の前にした彼女が良い雰囲気になりつつあるところまことに申し訳ない……とジュン君のボデーを駆動している僕が言うのも妙なものだが、ともかくここは話を先に進めよう。せっかく向こうさんから口火を切ってくれたのだから。
相変わらずぎこちなく、約一週間nのフィールドに行っていたことだけを告げる。帰って来てから連絡を怠っていて済まなかったと思っている、と頭を下げると、私もすぐに来れなくて、と巴ちゃんはまた首を横に振った。
実は数日前にのりさんと街で偶然顔を合わせ、その折にジュン君が帰還したことは聞いていたらしい。訪問が今日になってしまったのは、纏まった時間が取れなかったせいだという。
おやおや、と思いつつ、試験前だったら仕方ないさ、と月並な返事をしておく。
彼女のジュン君に対する想いはもう少しストレートで正直なものだと思っていたのだが、やはり(他の皆さんの如く)一筋縄では行かないのか。いや、考えていたほど彼女の中でジュン君の存在は大きくないのかもしれん。
どちらにしても、だ。
彼女がジュン君及び薔薇乙女さん達のような長旅を経験していないのはもう確実である。そしてジュン君への想いが強い動機でないとすれば、今日この家を訪れた理由についても容易に想像がつく。
彼女にとっては辛い話になるが、今後どう転ぶとしてもこれだけは正直に話さなきゃならんわなぁ……。
「雛苺のこと、なんだけど……」
「──知ってる」
「それも……姉ちゃんが?」
「うん……アリスゲームの中で、第七ドールに身体を奪われたんだ、って……」
「ごめん。取り戻せてないんだ。僕がもっとしっかりしてたら──」
「──そんなことない。……桜田君は、頑張ってくれたんでしょう?……それで充分だから……」
何この出来過ぎた良い子。中学二年だから僕より三つ歳下になる訳だが、この気遣いぶりは大人のそれだ。
但し、その表情には隠しきれない影が落ちている。静かな、なんというか如何にも日本人的な諦観の色だ。
全然充分じゃないだろ、柏葉巴さん。
本当は雛苺について、ジュン君の口から(のりさんには言わなかった)希望的な観測が齎されるのを期待してたんじゃないのか。今は遠くに居るけど近い内に戻って来るさ、みたいな。
今日立ち寄る気になったのも、あるかなしかの期待を抱いていたからに違いない。それが否定されて、非難をこっちに向けることも、嘘だと言って暴れだすこともできない性格のこの子は、事実を胸に落としこんで諦めてしまった。多分、これまでそうしてきたのと同じように。
ああ畜生。なんでジュン君の周りにはこうルックスばかりでなく心根も良い子が多いんだよ。リア充は……はい、やめやめ。もうやめ。
それにしても、桜田君と言われるとこう、その言葉が心の何処かにグサっと突き刺さる。
「巻かなかった世界」で体を張って頑張った人(森宮アツシ君に憑依してからは状況に流されるままだったみたいだが)は僕ではない。彼女の眼前に居るのは彼ではない。
なんとなく二重に間違われているというか、二重に騙しているようで実に良心が痛む。
言い訳はできなくもないが、認めざるをえない。蚊帳の外から内側の人々に向かって事実事実と煩く言ってた僕が、一旦蚊帳の中に入ったら今度は外の人々に対して事実を隠蔽している訳だ。
──いいのか、こんな素直な子を騙し続けて。
ちらりと翠星石を横目で見てみる。しかし、我等がボスはテーブルに視線を落としており、依然としてヒントを寄越してくれる気配はなかった。
何か言い間違ったらどうするつもりだ。それこそ、僕はジュン君じゃないんだぞ。
基本方針は変わらないから黙っている、といったところか。それとも話すべきか否かで内心迷ってるのか。まるきり思惑が読めん。
……本当に知らんぞ、どうなっても。
「雛苺だけじゃない。ここに居る三人以外はみんな、どうなっているのか全然判らないんだ」
「それものりさんが……真紅は帰って来てないし、金糸雀のマスターの人も入院したままだ、って」
「二人だけじゃない。第一ドールの水銀燈も行方不明だし、他に結菱さん……蒼星石の元マスターと、オディールさん。水銀燈のマスターはもっと前から入院してたけど、他のマスター達と同じ状態になってる」
「同じって……眠ったまま……?」
「眠ってる、って言っていいのかな。意識だけ切り離されてるんだ。体がこの現実世界にあって、心は第七ドールの居場所に囚われたか、何処かを彷徨ってる……どっちにあるのか、僕にはまだ判らないけど」
「……そんなことに……」
無事なのが私達だけなんて、と巴ちゃんは目を伏せた。
悪いな。私達ってのにジュン君が入ってるんなら、そいつは大きな間違いだ。
目の前に居てペラペラ喋ってるヤツこそ一番厄介な状態なんだよ巴ちゃん。なんせ、中身が赤の他人になっちまってる。
一つ救いがあるとすれば、その赤の他人が一応事情を理解してるってことか。いやいや、そのつもりになってるだけで実は何一つ判っとらん、という余計に性質が悪いヤツなのかもしれんが。
どちらにしても、僕はこの子に対して悪意は抱いていないし、この特殊な立場を利用して悪事を企むつもりもない。迷惑は掛けてしまうかもしれないが、積極的に害を与えるつもりはないのだ。
但し、そういう方向に向いているのは、あまり褒められた理由があってのことじゃない。善意の塊だからとか、意気に感じ正義を愛する人だから、という意味では決してない。
何かしてあげられることがないかとか考えてはいても、一皮めくれば我が身大事。事勿れ主義で単に主体性なく状況に流されているだけ。
薔薇乙女さん達の生死を賭けた戦いにしても、巴ちゃんのことにしても、上っ面ではともかく根っこの部分で他人事として捉えているのだ。この奇怪な現状にしても、いずれ誰かが解決の切っ掛けを見つけてくれると根拠もなく期待しているから、ただ翠星石達の言いなりになって消極的に無駄な時間を過ごしている。
なんのことはない。のらりくらりとその場その場が凌げればいいという、要するに今現在二階で息を殺している(はずの)人形どもと大差ない生き方に堕ちているのが現在の僕であった。いや、昔から似たようなものではあるんだが。
これでいいのか、ともう一度思う。
いいはずはない。アホの人形どもに囲まれてだらけきり、一方では事態の解決を薔薇乙女さん達に頼りきっている。事件の当事者の一人としてはあるまじき態度であった。
天井を仰ぎ、もう一度巴ちゃんに視線を戻す。彼女は視線を上げてこちらの顔を見たところだった。
「──ありがと、柏葉」
「え……どうしたの」
「ちょ、何いきなり自己完結してやがるですか。肝心のトモエを置きてきぼりにしてんじゃねーですよ」
「うふふ、ちょっと話が飛び過ぎかしら。落ち着いて」
「あ、すまん唐突に」
「ううん、ちょっとびっくりしただけ……だけど」
巴ちゃんは首を振ってくれたが、大失態である。
えらくエキサイトしていた──というか、自分の中だけで煮詰まってしまっていたらしい。それまで口を挟まなかった二人から間髪なしに注意されるとは、余程頓珍漢な台詞だったに違いない。
情けない顔になっているのを自覚しつつ、改めて巴ちゃんに向き直り、一人で盛り上がってごめん、と頭を下げる。
傍から見たら情緒不安定もいいところだろう。演技やら何やら色々頭の中で処理することが多過ぎるせいだとは思うが、お恥ずかしい限りである。
「柏葉が切っ掛けをくれたお陰で、踏ん切りがついたんだ」
「踏ん切り……?」
「こっちに来てから、何もしてなかった。理由はいろいろ付けられるけど、要は楽な方に流れてたんだ」
「それは……」
巴ちゃんは続けて何かを言いかけたが、口を閉じてふるふると首を振ると、結局それ以上は何も言わずにまたじっと僕の顔を見詰めた。
視線を逸らさずにいることに苦労する。探るような視線だったり、呆気に取られた表情ならまだ楽だったろうが、彼女の目は純粋に僕──じゃねーよ。ジュン君の次の言葉を待っているようだった。
偽者でごめんな。ホントに。
ただ、偽者は偽者なりに思うところはあるわけで。
「もう少し……いや、もう少しなんて言ってたらダメだよな。本気になって頑張らなきゃいけない。雛苺を取り戻すためにも」
「取り戻すって……そんな……どうやって」
「方法はまだ見えない。でもここに居る三人は帰って来れた。だから、他のみんなが帰って来る方法もある。雛苺だって……必ずあるんだ。ただ、今はそれが見えて来ないだけで──そうだろ?」
言いながら、左右の三人に目を遣る。
翠星石は僕の剣幕に驚いたように、蒼星石はいつもの──僕が唐突なことを言い出した時に石原がよくしていた表情でこちらを見上げている。金糸雀だけは何故か笑顔で、うんうんと頷いてくれた。
正面に向き直ると、巴ちゃんは少なからず狼狽した表情で盛んに瞬いていた。
やばい。
頭に血が上り過ぎていた。冷静に考えれば、今の一連の発言は僕自身の心境を乱暴な言葉で吐き出しただけである。ジュン君の立場としては妙な言葉もあったかもしれん。
まあ、ここまで来たらもう乗り掛かった船だ。今更ジュン君らしく演技する余裕なんぞない。
「だらだら自分のことだけ考えてる場合じゃない。アリスゲームのけりがつくまで、再登校の準備も見合わせる」
「学校に行くのは……諦めるの?」
「ごめん。今は時間が惜しいんだ。学校に行ってる暇なんてない。昼間から少しでも多く情報収集して、しっかりした計画を立てて、全力で臨まなくちゃ。何しろ相手は──」
「──違うと思う」
意外にも、巴ちゃんは視線を下に向けてふるふると首を振った。
出足を挫かれた形になって、僕の返答は一瞬遅れた。そうでなくとも下がりかけていたテンションは一気に直滑降である。
「違う、ってえっと、何が」
「……わからない、けど……一つのことで目の前がいっぱいになるのは、良くないと思う」
「いや、しかしこれはそうなる理由が」
「理由は……あるのはわかるけど、でもこのままじゃ、この間と同じだもの」
「nのフィールドに入る前、ってこと?」
「うん。あのときの桜田君、学校に行くって、そのことだけで一生懸命で……」
「……あぁ」
「私、あんなこと言っちゃったけど……前ばかり見てるっていうのは、そういう意味じゃなくて……」
うろ覚えの上にテンパってて忘れていた。
雛苺がキラキーさんに喰われた前後のジュン君は、やや薔薇乙女さん達から距離を置き始めていた。
契約者を名乗るオディールさんが雛苺を連れに来た時も、「お前が決めるんだ」と雛苺を突き放すような言い方をしてしまっている。雛苺がキラキーさんにあっさり喰われてしまったのは、その言葉に動揺してしまったからであった。
漫画では確か巴ちゃんがジュン君にじかにそのことを指摘していたような気がする。図書館だか何処か、二人きりになった場所で。実際に一字一句同じとは限らないが、似たような遣り取りはあったのだろう。
彼女にしてみれば、僕がいきなり捜索と奪還に全力を傾けると言い始めたのは、今度はあのときと反対側に突っ走って行くと宣言したように見えた訳だ。馬車馬体質は変わってない、元々それを止めろって言ったのに……ってことか。
幸か不幸か……いや、翠星石におんぶに抱っこの僕の立場からすれば怪我の功名とすべきか。
僕が唐突に言い出したことは、事情を知らない彼女から見るとまことに「ジュン君らしい」発言内容だった訳である。「らしさ」のポイントがマイナス面だったことはご愛嬌とすべきだろう。
たっぷり数十秒の間、また沈黙がたちこめた。
流れからすれば、プライドの高いジュン君的には本来図星を衝かれて絶句すべき場面であるから、沈黙は問題ない。が、こちらとしては何とも表現しづらい心境である。
この子、ジュン君の中身については疑いを持っていないらしい。
それは翠星石のプランからすれば好都合なのだが、バレてもいいやと一旦突っ走ってしまった僕からすると、ある意味振り上げた拳の下ろす場所がない状態でもあり、嘘を重ねている疚しさがまた膨らんでも来るのである。
話の流れで持っていくのではなく、何処かできっちり正面から、この七面倒臭い来し方を説明しないといけないのではないか。それが僕の責任のようなものなのでは──。
などと考え始めたとき、巴ちゃんが躊躇いがちに口を開いた。
「それに、少なくとも……私は……教室でまた、桜田君と会いたい……から」
頬が僅かに赤くなっている。恥ずかしがってるのか、勇気を奮って言ってみたのか。
おい、ジュン君。リア充とか言わんから、聞こえてるなら喜べ。
自分の大事な友達の奪還よりも、お前さんが学業に復帰することの方を望んでくれてる人がここにいる。
彼女にしてみれば、ジュン君が登校しようと家に居続けようと大して関係は変わらない。他人はともかく自分は彼に拒否されていないから、ここに来ればいつも会えるのだ。むしろこの場に囲っておいた方が二人だけの時間も作りやすい……いや、これは言い過ぎか。
それでも彼女が教室で会いたいと言うのは、不登校児に甘んじているジュン君は本来の姿ではないと思っているからだろう。
つまりは、そこまで深く慮っていてくれるという訳だ。クソッタレ。
良い子過ぎるだろ巴ちゃん。なんでこんな子がジュン君なりめぐさんなりと同列なんだよ。マスターさん達の共通項はそんなところにないことは判ってるが、些か納得しかねる──
「──そうですよッ、大体何ですか! アリスゲームを自分の学業をオロソカにするためのダシに持ち出しやがって、マスターの風上にも置けないヤローですぅ。こっちはいい迷惑ってモンです」
「うわ、黙ってていきなりそれかよ。いくらなんでも……」
「イクラもスジコもねーってんです! アリスゲームは翠星石達のゲーム、人間なんぞに恩着せがましいコト言われちゃ乙女の名が廃るってヤツですよッ! 真紅やチビ苺だって、言い訳のタネにされることなんて望んでませんから!」
待て。ちょっと待て。
ここまで放置しといて、今の今になって掌返しっつーか僕を詰るんかい。そりゃーないぜ、我がボスよ。
しかしこれで一つ理解した。今までヒントをくれなかった理由は不明のままだが、未だに翠星石の意図は変わっていない。あくまで僕をジュン君と言い張ったまま、この場を乗り切るつもりだ。
それはいいんだが。
──ってことは、だ。結局のとこ、この流れだと僕に中学校に登校しろってことだろ。いいのか。
ヒートアップしとった僕が言うのも何だが、興奮して何やら目的と手段が入れ替わっとらんか。
こんな調子で学校まで行ったら流石にバレるだろうよ。大体、バレるからって僕に外出さえも禁止してた、いや今現在も禁止しているのは何処の誰なのだ。別の意味で方針がブレブレである。
呆気に取られた僕の視線の先で、翠星石は顔と拳に力を込めたまま立ち上がる。その拳をぶんぶんと無闇に上下させつつ、金糸雀の方に向き直った。
「アンタもそう思いますよねっ、チビカナ」
「え、ええっと……そ、そうね、そうかしら」
「蒼星石はどうですか」
「……僕は、マスターの決定を優先する」
いきなり話を振られて当惑気味の金糸雀に対して、蒼星石は落ち着いたものである。伊達に長いこと双子をやってはいない。
勢いを殺がれてぽかんとしている翠星石に、自分達の意思をマスターに押し付けてはいけないから、と諭すように続ける。ただ、自分としてはジュン君に過大な負担を強いることは望まない、と。
金糸雀は慌てて、そのとおりかしら、とそそくさと意見を変えた。意外にアドリブに弱いのか、ゴリ押しに弱いのか。先輩の弱点発見である。
ただ、先に冷静になっていた僕としては、如何にもコイツらしいなぁと思うだけであった。
一見良い事言ってるようだが、どっちつかずというか玉虫色の言い分なのだ。ついでに深読みすれば、ジュン君に負担が掛からん範囲なら僕がどうなろうと大して気にならんとも取れなくもない。
蒼星石がその程度の含みを持たせるのは今に始まったことじゃない。こっちにしてみれば慣れっこでもある。
本来真面目で堅物、のはずなのだが、僕と出会った中学一年──約五年前だが、その頃からコイツはこの手の罠を仕掛けるのが得意だった。僕やら柿崎が何度となくそれに引っ掛かっているのは言うまでもない。
生まれ変わったことになって(実際は違うらしいが、その時点での蒼星石はそう思っていた訳だ)はっちゃけたくなったのか。あるいは漫画でも見え隠れしていた素の黒い部分が顔を覗かせたのか。
案外原因は宿主というか憑依先の石原葵の性格の方にあって、取り憑いた(失礼)蒼星石の方が逆に影響を受けているのかもしれん。その辺は多分本人にも判らないだろう。
いずれにしても、蒼星石の台詞は翠星石の熱を冷ますには充分だったらしい。
文字どおり振り上げた拳の持って行き場がなくなってしまったらしく、半端な高さで止めたままこちらに顔を向ける。やっちまった、と言ってるような、些か情けない表情だった。
どうしましょうという顔にも見えるが、どっちにしても僕としては無表情に見つめ返すほかない。
──ごめんなさい、こういうときどういう顔をしていいかわからないの。
感情に任せて突っ走ってグダグダか。翠星石らしいのかは知らんが、実に僕の知る石原美登里らしい姿ではあった。
しかしだな、暗に僕に解決策を求めてるんなら大きな間違いだぞ翠星石。妙なところで、それも僕が口を出しにくい方向に暴走しおって。
まあ、登校に向けて努力する(ポーズをする)のは悪いことばかりではない。僕にとっては。
ジュン君の登校準備には図書館への行き来が含まれていた。つまり、実際に登校に漕ぎ着けるかどうかは別として、自動的に外出禁止令が解かれる訳である。当然大きなリスクを伴う行為ではあるが、行動を束縛されなくなるのは歓迎すべきだろう。
そうだなぁ。時間があればドール専門店に足を運んでみたり、中古PCを扱ってる店を覗いたりしてもいいかもしれん。ネットで買えるものが全てではないのである。特に、先程人形どもが要求した種類のブツについては。
知り合いに出会うというのも、平日昼間を選んで外出する分には大して確率は高くないはずだ。運悪くくじを引き当ててしまったときの対処は、その場で大汗をかいて考えるしかないが。
ただひとつ問題があるとすれば、それは先程一旦盛り上がってしまった僕の良心を、更に固く蓋をして仕舞い込まざるを得なくなってしまったことである。その場の流れとはいえ酷い話だ。
胃薬の在り処を聞いておくか、睡眠薬をネット通販で入手しておいた方がいいかもしれん。単独で外出するときはともかく、巴ちゃんと二人で居る間は緊張と罪悪感の途切れる暇がなさそうだ。
僕の内心の葛藤はともかく、翠星石のスタンドプレーでだいぶ締まりのなくなったその場の雰囲気は、のりさんが帰宅するまで続いた。
金糸雀と翠星石は取って付けたように世間話を始め、蒼星石が時折そこに口を挟む。些かぎこちないものの、いつもの光景ではあった。
巴ちゃんが微妙な空気をどう受け取ったのか、心理学なんぞ齧ったこともない僕には皆目判らない。取り敢えず、翠星石の淹れてくれるお茶を飲みながら適当に反応を返しているところは、満更居心地も悪くなさそうには見えた。
のりさんは柔らかな笑顔で、ただいま、と客間の僕達に帰宅の挨拶をすると、手早く着替えを済ませて台所に向かった。翠星石もそちらに立って行き、即席かつグダグダな雰囲気のお茶会は自然に解散状態になった。
金糸雀と蒼星石も自分の用事とやらでそれぞれ席を立ち、小さな座卓の周りには僕と巴ちゃんだけが残った。
ううむ。早くも二人きりか。
いきなりの試練である。学校の話とか出されたら忽ちボロが出るぞ。っつーか、やっぱ肝心な所で丸投げじゃねーかよボス。なんて杜撰なやり方だ。
何とも居づらい、と思っていると、巴ちゃんが口を開いた。
「そういえば……他の子は?」
「他の子って」
真紅も雛苺も、そして水銀燈も未だに消息が掴めないのだ、と再度説明を試みると、違うと巴ちゃんはふるふると首を振った。
「のりさんが言ってたの。ローゼンメイデンのそっくりさんがいる、って」
「あぁ……うん。いる」
「ごめんね。気を使ってくれたんでしょう、みんな……」
「いやいや、そんなことないから」
息を殺しているのは人形どもの勝手、というか専ら連中自身の都合である。そもそも来訪者が巴ちゃんだということも知らなかったのだから。
確かに、見せて良いものかと思わんでもない。
特にツートンは連中の中でもオリジナルの雛苺に結構よく似ている方だ。口調については言うまでもなく、そっくりというかまんまパクリである。
キラキーさんに該当するものがいないのは良いとしても、アホ連中に遠慮無く絡まれた巴ちゃんが雛苺のことを思って切ない気持ちになってしまっても不思議はない。
ただまぁ……のりさんが話してしまったんなら、後はこちらでどうこうというよりは巴ちゃんの問題だよな。
どっこいせ、と腰を上げ、こちらを見上げた巴ちゃんに何気ない素振りで言ってみる。
「見てみる? 一丁前にべらべら喋ったり飯喰ったりするところだけはローゼンメイデンしてるけど」
「いいの?」
「悪いわけないさ。とも──柏葉がいいなら」
「うん……会ってみたい。みんな楽しい良い子みたいだから」
「そっか。じゃあ、晩飯の支度ができるまで」
「ありがとう……」
巴ちゃんは素直な微笑を浮かべている。さきほど玄関で見せた表情とはまた違った、随分無邪気に見える笑顔だった。
なるほど。こりゃ、あれだ。
ジュン君がどうだかまだ判らんが、少なくとも巴ちゃんとみっちゃん氏には共通項がある。どちらも人形が好きで、多分子供と遊ぶのも大好きなのだ。
良かったな人形ども。丁寧かつ優しく接してくれる人がまた一人増えそうだぞ。
外見が残念でなくなったせいも多分にあるだろうが、のりさんといい、薔薇乙女さん達といい、こっちでは人形どもを大事に扱ってくれる人が多い。あっちでは森宮さんくらいだったが──
──そういや、今日は晩飯を食った後でアイツ等に名前を付けてやる手筈になっていたっけか。
巴ちゃんも夕食を食べて行くのだから、その場でみんなで考えるのも良いかも知れん。
彼女の帰宅時間がますます遅くなるのが気の毒ではあるが、人形どもはこの子に一緒に考えて貰えれば喜ぶだろう。どんな名前が飛び出て来るにしても、間違っても僕が適当に付けた仇名より酷いってことはあるまい。
勝手なことを考えつつ、階段を上り始めてふと気付く。間近に着いて来ていたはずの巴ちゃんの足音が聞こえない。
半ばほどで振り返って見ると、巴ちゃんはまだ一段目に片足を踏み出したままこちらを見上げていた。目が合うと、何度か瞬いて視線を斜め下に逸らす。
その頬が染まっているのが見て取れた。差し詰めジュン君の後ろ姿に見蕩れてたってところか。
そそくさとまた前を向き、階段を上る。こっちの顔を見られるのが怖かった。
どうも嫌な予感がする。秋も半ばだというのに背中を嫌な汗が流れる感覚があった。