~~~~~~ 昨年末、某所 ~~~~~~
「そうか、出会ったんだね、邪夢君に」
「……うん。あんな奴が僕の名前を持ってるなんて心外もいいとこだけどな」
「あはは、それは……なんて言ったら良いか微妙だね。少なくとも悪い人じゃないよ」
「真紅……姉ちゃんも男見る目が無さ過ぎだ。いくら名前が同じだからってあんな奴のことが気になってるなんてさ」
「気になってるのは、名前が同じだからかな……?」
「どういう意味だよ」
「確かに、彼は名前は同じだけど、それ以上じゃない」
「そうだよ。見た目も能力も、趣味も、それから資質も……薔薇乙女の契約者としては全く相応しくない」
「うん。ただの、本当につまらない人間だ。君に似てるところは何処もないよ。四年半以上見てきた僕だってそう思う」
「だから、真紅は名前の一致だけで騙されてる。そうじゃないのか?」
「……ねえ、ジュン君。彼女は僕達が予想していたのとは違う方向に羽ばたこうとしてる。そうは思えないかな?」
「……昔のことは、思い出さないままってことか?」
「うん。人が人を好きになるのには、昔の記憶や繋がりが必須事項ではないと思うんだ。新しい出逢いがあっても不思議じゃない」
「理屈じゃそうだろうけど……僕は納得できない。なんで、あんな奴に」
「いや、理屈じゃないよ。人を好きになるのに理屈なんて要らないんだ。使い古された言葉だけどね」
~~~~~~ 現在 ~~~~~~
「ごめんなさい、待たせてしまったかしら」
「いや、今来たトコ」
「そう? それにしては……」
「い、良いじゃんどっちでもさ。森宮さんだって待ち合わせ時間前に来ちゃったんだし」
「ええ……」
ふっ、と少し大人びた笑顔になって、森宮さんはかじかみかけた僕の手を取った。両手を合わせて、と言われてそのとおりにすると、両手で僕の手を包むようにする。
おお、なんか……感動だ。ついでに暖かい。いや、ついでじゃいけないんだろうが。
漫画だったら両目から滝の如く涙が流れ落ちているところであるが、生憎と現実だった。僕の顔が締まりなくにやけただけの話だ。
早く来てくれたからよ、お礼にやっているだけよ、と森宮さんは断って、本来の待ち合わせ時間きっかりまで僕の手を暖めてくれた。まあ、数分間だけだけどね。
肩を並べて歩き出す。幸いなことに最近は寒さも大分遠のいて、がたがた震えながら歩くようなこともない。
昨日も話したはずなのに、話題なんて幾らでもあるもんだ。僕達は他愛ないお喋りを交わしながら、高校までの決して短くない道を歩く。ああ、このままずーっと何キロでもいいや、僕。疲れ果てるまで二人で歩いててもいい感じ。
~~~~~~ 第十二話 ナイフの代わりに ~~~~~~
しかし、現実は常に非情であった。
何という間の悪さ。駅前のスーパーの脇で、普通こんな時間帯に登校しているはずのないコンビと合流する破目になってしまった。
「珍しい取り合わせだね、邪夢君と森宮さんって」
「ですねぇ、なんだかアンバランスで面白いです」
「そうかしら?」
「くっ……言いたい事を……まぁこの時間に石原姉妹揃い踏みってのも何気に珍しいけどな」
「あはは、冬の間は花壇の水遣りがないからね。たまには揃ってゆっくり出ようって」
「ええ。という訳で美人同士のカップリングなのですぅ♪ ねー葵っ」
「ちょ、いきなり抱きつかないでって。苦しいよ美登里……」
「はいはい、勝手にやっててくださいまし。どうせ僕は場違いですよ」
確かに石原姉妹が美人なのは認める。片やロングの自称正統派、もう一方はボーイッシュなボブカットだが、一卵性双生児ってやつで顔自体の造作は同じである。要は基本が整ってるからどっちの恰好でも似合う訳だ。それがなってない僕などからすれば羨ましい限りである。
まぁそれはそれとして、僕と森宮さんの取り合わせがあまりにも不釣合いだったせいか、いつもからかいの言葉を投げ込んで来る石原(美登里)も、鋭い突っ込みを入れて来る石原(葵)もその辺に一切触れないのは助かった。二人でイチャイチャするのに忙しかっただけかもしれんが。
そんな風にだらだらと登校していると、脇からまた二人ほど見知った顔が……。どうしたって言うのかね、他ならぬ今日に限って。なんか呪われてるんじゃないのか。
「あーっ、先輩おはようですぅ!」
「あれ? 瑠美に双子に……例のメッセンジャーボーイ? 凄い取り合わせね」
「あら、真希ちゃんの知り合いなの? 奇遇かしら。カナもあの子には会ったことがあるわ」
一難去ってまた一難か。今度は意外なコンビ……でもないのか。加納先輩は水島さん……じゃなくて先輩か、どっちにしても、知り合いだって言ってたし。
あれ? でも二人とも受験期間なのに、と思ったら、流石はエリート。二人とも早々に推薦で合格してしまっており、今日は自主登校なのだそうな。なんでまた今日に限って。
斯くして総勢六名の道行きとなった訳だが、最早当然のようにこれだけでは済まなかった。
最後に加わったのは──
「わーいっ! みんな、おっそろいなのー!」
「あら、珍しいこともあるものだわ」
「ほんとだ。いつも予鈴ぎりぎりに登校してるのに」
「えー、しっつれいしちゃうなの。早いことだってあるのよ」
なんだこの子は。結構なテンションと、それに見合いそうなエネルギーでぴょんぴょん飛び跳ねながら追いかけて来て……何故か僕の目の前で止まってじろじろ眺める。
森宮さんや加納先輩も結構小柄だが、この子は輪を掛けて小さい。初顔合わせだが、人懐っこい可愛い顔は僕を物怖じせず見上げて来る。
「お? おーおーおー、貴方がサクラダ・ジュンなのね?」
「あー、はいそーです。なんか全部カタカナだとウルトラシリーズの隊員みたいだよね」
「へ? よく判んないけど、よろしくなの。あ、わたしねぇ、一年三組の日向可梨。カリンって花梨みたいだから、ヒナって呼んでね」
「了解しました……」
いきなりタメ口で自己紹介して呼び名まで強制かよ。生意気とはもう思わんが、どこまでパワフルなんだ。
最早誰が情報をリークしたかは追及する気にもなれんが、一応ぐるりを見回すと、石原(美登里)がわざとらしくそっぽを向き、古典的にも口笛なぞ吹いてみせやがった。まあ、そんなことだろうとは思っていたけどな。石原姉妹の人脈は広そうだし、特に美登里があちこち顔が広いのは中学の頃から知ってるし。
だがよりによって目の前で口笛かよ。逆に嫌味ったらしくて頭に来るぞオイ。
とまあ、そんな風に謎の道連れ集団で賑やかに残り数百メートルを歩き、順々に別れ、教室の前に来たときは石原(葵)だけになっていた。
ちなみに、五組の前で森宮さんと別れた後、つい振り向いてしまったのは内緒だ。
彼女はまだこっちを見ていて、何故か少し不安そうに、だが微笑んでくれた。僕は前を行く石原に気取られないように素早く片手を上げ、慌てて自分の教室に急いだ。反応は見えなかったが、まあ悪くないさ。
席に着く前、石原は滅多に見せない糞真面目な顔になって僕を見た。
何やらこっちの顔が青くなりかねない、無闇に真剣な顔付きだ。そう、中学時代、僕が柿崎と組んで何か悪さをしたのを咎められたときみたいな……。
いや待て。今回は何もしてない。柿崎とは昨日確かに会ったが、アイツもまだ脚をギプスで固めてる状態で何もやってないはずだ。あああ、そうじゃなくて。
「──どした? なんかシリアスモードで」
「邪夢君、森宮さんの家とは随分方角が違うよね。反対じゃないけど」
「ああ、うーん、そうだな。それがどうかしたか?」
「いや、いいんだけどさ。明日からもずっと一緒に?」
何ですかこの遠回しな尋ね方は。
石原らしいと言えばらしいんだが、石原らしく大いに含むところがありそうな気がするぞ。正直言って、笑ってるときでも腹に一物抱えてそうなのに、こう真剣な顔をされると背中に何か野太刀でも背負っていそうなほど怖い。いや園芸部だから高枝切り鋏か、はたまた定番のチェーンソーか、いや鋸かもしれない。
いずれにせよ気弱かつ軟弱な僕としては、大いに気圧されつつ、しかし嘘もつけないので肯定するしかないのである。
石原は笑いを見せずに、そう、と頷いた。なんだよ、気になるじゃねーか。
「それは……お付き合いを始めた、って思って良いのかな」
「お、おう。ちょっと違うけど……まあ似たようなもん」
「……そうか」
石原は長い溜息をついて、漸く表情を緩めた。いや、いつものようなニヤニヤ笑いじゃないが、なんかすっきりしたような、実に爽やかな顔になってる。
なんだなんだ。どういう意味なんだよ。全然判らんぞ。
しかし僕の質問に石原は答えることもなく、始業のチャイムが鳴って自然に僕達はそれぞれの席に向かい、そのまま授業を受けることになった。
午前中の三時限、教室移動もあったりして僕達が顔を合わせる機会はなかった。いや、無理をすれば人気のない所に呼び出しとまでは行かなくとも、移動中に話を聞くことは出来たはずだが、なんとなく憚られてしまったと言うべきか。
石原の態度に謎が多いことよりも、態度そのものがいやに真剣だったことの方が気に懸かってしまったんだろうな。いつもはそういう顔をするヤツじゃないし、森宮さんと僕の仲なんて、石原にしてみれば最高に面白がれるネタのはずなんだが。
ちなみに皆様方、僕は朴念仁ではあるが、自己卑下は得意じゃない。石原が僕のことが好きで云々、みたいなことを何故欠片ほども考えなかったかと言えば、答えは簡単。
石原には意中の相手が既に居るという、実にありきたりな話なのである。
確か五つ上の大学生で、由比だか湯井とか言ってたな。ちらっと見た分には、背は高いけどちょっと腺病質っぽいって言うか、イケメンというにはちょっと弱々しい感じの、でもまあ美形。
確か良いとこの坊ちゃんで、しかしそれに溺れることもなく、弱々しそうな外見に関わらず学生の癖に起業してたりと結構なパワーと才能の持ち主だそうである。僕のような凡俗から見ると凄いとしか言いようがない。どうしてこういう人ばかり周りに多いのかね。
まぁそれは置いておくとして。石原とは小さな頃からの知り合いで、かなり趣味も合うらしく、中学時代、女子の癖に技術科が好きだったりしたのはその人のせいだとか何とか。まあ、相手は未だに石原のことを妹みたいにしか可愛がってくれてないらしいが。
閑話休題。
兎も角、昼飯の時間になって漸く僕は朝の件を尋ねてみる気になった。腹にメシが入って余裕が出来たから、というのは否定しない。人間腹一杯になってなんぼである。
ところが満ち足りた(質は兎も角、量だけは)腹をさすりつつ石原を探しても、ヤツの姿は教室の中には見当たらない。冬でなければ花壇とかその辺りに出張している訳だが、流石に今の時期はそういうこともない。
やはり飯を食う前に呼び出すか、一緒に飯を食って居れば良かったのか。後悔してももう遅いんだが。
致し方なく、僕は図書館に足を向けた。他に立ち回りそうな先といえばそれくらいしか思いつかない。
図書館といえば森宮さんのテリトリーでもある。十中八九彼女は居るはずだ。石原が捉まらなければ、森宮さんの隣で本でも読んでればいい。
彼女の聖域に踏み込むようでなんとなく気が引けるが──いや。それは気にしない方が良いはずだ。付き合ってる彼女とイチャイチャ、とは行かなくとも並んで本を読むことくらい、当然なのだ。そのはずだ。
何やら自分にもよく分からん言い訳をして、僕は図書館に向かった。
要するに本音を言えば森宮さんの隣に居たいなぁ、という気持ちが湧いて来た訳である。石原の件はどうでもいい、という訳ではないが、優先順位は低かったと言わざるを得ない。
而して、その結果はといえば──
「あれ、邪夢君」
「……よう、やっぱしここだったか」
「言いながらキョロキョロしてるってことは、森宮さんでも探してるのかな?」
「あ、いやそのそれは」
「彼女なら部室だと思うよ。さっきいろいろ借り出して行ったから」
僕のメシも結構な早弁だと思うのだが、森宮さんはそれを上回るらしい。むう。あまり早食いするのは、あのお姉さんに悪いのではないかと思うんだが。
ただ、僕の場合購買まで行ってパンを買ってるか、学食まで出向いて並んでる時間があるから、その場で弁当箱取り出して準備終了な人物と比較すると何分も無駄にしてるのは間違いない。ちなみに今日は新メニューの白身魚フライタルタルソースサンド等であった。結構期待していたらタルタルソースの量が少なくて泣けた。
それはそれとして、珍しいことがあったものである。図書館なんて自分のもの、みたいに中央にデンと構えて本を積み上げてた彼女が部室に引っ込んで読書するとは。
行くんでしょ? と石原が尋ねてきたが、僕は首を振った。
あの森宮さんが図書館を離れてわざわざ借り出したのである。これは余程の事と見た。
何か一人で読みたいものがあったか、一人で居たい事情があるに違いない。それも、不特定の誰かに見られたくないだけでなく、僕や石原のように訳知り顔で覗き込んで来る連中の目から逃れたかったのだろう。図書館の主が何を読んでいても一々気にするような奴はそう居るまい。
そんなことを言ってやると、石原はイマイチ冴えない顔つきで顎に手を遣った。
「ふーむ、なるほどねぇ……」
「なんだよ」
「いや、妙に理屈っぽいな、って。邪夢君らしからぬというか」
「まあ、ね。実は探してたのは森宮さんじゃない」
「彼女以外に図書館に居着いてる人なんて思い当たるフシがないけどなぁ」
「いや、居着いてなくても、目の前に探し人が居るから結果オーライなんだけどさ」
「なんだ、僕のことか……森宮さん以外にも目を付けてる人でもいるのかと思ったよ」
石原は随分人聞きのよろしくない台詞をさらりと述べて苦笑した。この辺のさり気ない心理的圧迫はお手の物である。こっちとしては丸五年になろうかという付き合いを経てもまだ慣れなくて困っている訳だが。
それで何? と訊いて来る石原の顔は、もういつもの屈託のない表情に戻っている。僕はやや安堵した。まあ、午前の三時限の間真剣かつ陰鬱な表情を崩さないほど深刻な案件じゃないことだけは判った、程度だが。
勧められるまま、小さなテーブルの石原の斜向かいに椅子を引いて来て腰を下ろし、ちょっと聞きたい事があったからさ、と切り出してみる。
「今朝のことなんだけど」
「ああ、森宮さんと付き合い始めたって話? 聞いちゃいけない雰囲気とは思えなかったけど」
「あんまし積極的に確認取られるようなことじゃないと思うんだが……まぁそっちはどうでもいいんだ」
「他に何かあった? ああ、大分大人数で登校したってことかな……」
「いや、それでもない」
判ってて話をはぐらかしてるようには見えんが、どうにも聞き難い按配になってきた。
こういうときは、素直に直球で問い質すしかなかろう。
「森宮さんのことを僕に訊いて来たとき、お前妙に真剣だっただろ。一体どうしてなのか、気になった」
「……そう」
「お前とツラ突き合わせて喋った事は今更何遍って勘定できないほどあるけど、あんな顔を見たのは随分久し振りだった。僕の記憶が信用に足るものかどうか知ったこっちゃないが、あんな顔したときの石原葵は、ムチャクチャ怒ってるか、不安でたまんないか、どっちかなんだ」
「そうかな。自分じゃよく判らないよ」
「顔つきのこととなんか判んなくてもいいんだ。どうしてお前、僕が森宮さんと登校したことをそんなに不安に思ったりし──」
ぽん、と僕の肩に手が置かれる。はっとして振り向くと、にっこり笑う、ちょっと凄みを帯びた美人の顔がそこにあった。
水島先輩。こんなに近くで見るのは、病院で話を聞いたとき以来だ。あのときの寂しそうな、切ないような表情は今は見えない。その代わり、何とも言い難い威圧感が加わっていた。
「あまり女の子を問い詰めるものじゃないわ。それと場所柄ってものも弁えなさい」
「……すいません」
「素直なのね。でも謝るなら私じゃなくて葵に、よ」
「いえ、良いんです。僕が曖昧な態度だったから、邪夢──桜田君が焦っただけですから」
「そう? 私には大分詰め寄ってたように見えたけど」
「そんなことは……」
「……いいや、実際焦ってたし、勝手に意気込んでました。石原、すまん。ちょっと頭に血が上ってた」
「あ……ううん、僕こそごめん」
先輩は軽く頷き、仲直りするのよ、となんだか斜め上っぽい一言を言い置いて立ち去って行ったが、残された僕達は何やら微妙な空気になってしまった。
図書館内だからってことで、水島先輩は見かねて口を出してきたんだろうし、確かにちょっと意味もなくエスカレートしていたのは事実だ。しかしこれじゃ肝心の話が訊くに訊けない。恨むぜ先輩……。
結局無言の数分間の後、気まずい沈黙が流れるのに嫌気が差した僕から別の話を持ち出してその場は終わってしまった。石原も特にさっきみたいな態度を取るでもなく話題に応じて、予鈴が鳴る頃にはいつもの調子になっていた。
有耶無耶になってしまったが、まぁいいかと思わなくもない。石原のあんな顔はあまり見たくないのも事実だし。
いろいろあった一日だが、これでおしまいだろう、と思っていた。そのときは。
それがごくあっさりと覆されるのは、暫く経ってからであった。
午後の三時限が眠いのは、誰のせいなんだか。特に四、五時限の眠さといったらない。
そんな風に半ばうつらうつらしていたせいか、僕はいつそれが机の中に入れられていたのか全く判らなかった。五時限目は移動教室だったから、案外そのときかもしれん。兎も角、六時限目に至り僕の眠気は完全に吹っ飛んでしまった。
それは、割に地味なデザインの、しかし一見して女子の持ち物と思しき封筒だった。
表には「桜田潤様」とだけ書かれており、裏には〆だけ記されている。見覚えがあるようなないような、微妙な丸っこい文字だった。
ごくりと唾を飲み、カッターナイフを取り出して殊更丁寧に、爆弾処理班並みの慎重さで封を切る。念のためちらちらと前の方を窺ってみるが、残り少ない授業時間で教科書の残りを消化するために大飛ばしで授業をやってる社会科教師はこっちを見るでもなく、あちこちで突っ伏している沈没船も無視して自分の航路を突っ走ることに精一杯らしかった。
薄い便箋をつまみ出し、きちんと畳まれたそれをゆっくり広げてみる。そこには、いやに簡単な文面だけがあった。
『放課後誰も居なくなったら、二年二組の教室に来て』
差出人の名前も何もない、ただそれだけの内容だった。
なんだこりゃ。何処の時空からの誘いなのだ。
石原でないことは間違いない。字が違うし、手紙を寄越すなんて芸当をするまでもなく、僕の肩を叩いて告げれば済むことである。
森宮さんではない。これも字が違う。用件がありそうだとは思うが、そも、二人きりで話したいことなら登校中に幾らでも話せるはずだ。
待てよ、二組。二組と言えば……。あれ? 二組?
二組には、少なくとも僕が呼び出しを食らうような覚えのある女子の知り合いはいない。例えば石原(美登里)は一組、森宮さんは五組で、ここは三組である。
他にも石原姉妹の友人など数人ばかり知り合いは居るが、その程度であり、全員二組ではない。サイカチの嫉妬がいかに的外れか判ろうというものである。いやまぁそれはいいんだけど。
一体誰なのか、何の目的なのか、と考えている内に授業は終わってしまった。
さて、どうしたもんかね。
無視する手もあるが、何やらスルーしてはいけない雰囲気もある。ってゆーかだな、僕は結局渡したことも渡されたこともない訳だが、これはあれだ。どっかの少し可笑しな嗜好の女子が僕宛てに出したラブレターとか、何かの罰ゲームで書かされたラブレターもどきって可能性が高い。僕はそう判断した。
前者なら丁重にお断り申し上げるだけだし、後者であれば人気がないのを確認して話を聞いてやるだに吝かでない。もしドッキリとか僕に対する悪戯の類なら、甘んじて受けようではないか。今更一つ二つからかいのネタが増えたところで大して変わらん。いや、ネタキャラとしては踏んで何ぼの地雷だろう。
まあ、最後の可能性は低いと思う。からかいを実行するなら、僕がホイホイ引っ掛るような誰か結構可愛い子の名前でやるはずだ。例えば水島先輩なら百パーセント釣られる自信がある。いや、森宮さんが一番なのは間違いないが、そこはそのあの。ともあれ無記名にしておくメリットが少な過ぎる。
ここは取り敢えず、最悪ドッキリであることも想定した上で地雷原に足を踏み入れようではないか。もちろん色艶のある内容だった場合の返事は決まっているが。
しかしまぁ、「誰も居なくなったら」というのは曖昧かつ微妙な時間設定ではある。
それまでどう過ごしたものか、と考え、僕は図書館に向かった。帰宅部の僕が最も無難に時間を潰せる場所である。人も多いし、適当に雑誌でも読んでいれば一時間程度は間が持つ。
呼び出しの想定内容を考えると、図書館に居るであろう森宮さんと顔を合わせるのも何か気が退けるのだが……いや、いやいや。返事は決まっているのだから、何もやましい所はない。
断るならば行かなければ良いではないか、という気もするが、用件がそっち方面とは限らない以上、踏み込んでみる必要はあるだろう。
と、何やらゴチャゴチャと言い訳を考えてみたが、いざ図書館に入ってみると森宮さんの姿は見当たらなかった。
どうやら一人で読みたい本は昼休みだけでは読破できなかったらしい。部室に行ったのか、あるいは家に持ち帰ったのか判らないが、あまり興味はないが話のネタにはなりそうな科学雑誌を読みながらちらちらと探してみても、彼女が現れる気配はなかった。
拍子抜けしたような、安心したような、それでいて残念な気分を抱えたまま、僕は科学雑誌を眺めた。いつにも増して内容は頭に入らず、ほとんど義務的に文字を追うだけになってしまったが、時間だけは潰せたらしい。腰を上げて書架に戻したときには、図書館の中の人数は大分減っていた。
さて行くか、と気合を入れ、二年二組の教室に向かう。時刻は五時を回り、一頃に比べればだいぶ日の長くなってきたこの時期とはいえ既に陽の光はオレンジ色よりも赤に近くなっている。
予想どおり、教室棟には僕以外に誰ひとり居なかった。あちこちから部活をやってる連中の声やら楽器の音は聞こえては来るがまばらで、全て遠い。三学期も半ばどころか三分の二以上終わってしまった時期だから、当たり前と言えば当たり前である。
ドアの前で深呼吸一つ、か。どっかで見たことのあるような場面だ。なんだったっけ?
まあいいか。あまり入ったことのない教室だが、呼び出されたんだから構うまい。僕は無造作に引き戸を開け、オレンジ色に染まる教室の中に足を踏み入れた。
「遅かったですね。大分待ちましたよ」
「お前かよ……」
「そうですよ。びっくりしましたか?」
「びっくりさせたくなかったら、今度から封筒とは言わんが、せめて便箋くらいには差出人の名前をちゃんと書いといてくれ」
やや弱い逆光の中、窓を背にして立っていたのは、石原美登里だった。いつものように屈託ない笑いを浮かべて、こっちを真っ直ぐに見ている。
おい。なんか……これ、既視感があるぞ。それも実生活でなく、別の何処かで。
夕日の教室、長い髪の美少女、二人きり。
取り敢えず、相手は石原美登里である。中学時代からの友人であり、それ以上でもそれ以下でもない。落ち着け僕。
入り口を閉め、真ん中辺りまで歩いて行って、なんの用向きだ、と尋ねると、美登里は白い顔にふっと謎のような微笑を浮かべた。
「用があることは確かなんですけど、その前にちょっと訊きたいことがあるのです」
「んん? 答えられる範囲でしか答えないが、それでよければ」
「よく『やらなくて後悔するよりも、やって後悔するほうがいい』って言いますよね。邪夢はどう思います?」
「よく言うかどうか知らんが、言葉通りの意味じゃねーのか?」
「じゃあ、たとえ話ですけど、現状維持じゃジリ貧になることが解ってるけど、どうすれば良い方向に向かえるか解らないとき。邪夢ならどうします?」
「なんだそりゃ……」
美登里が一歩近付いた。
待て。ちょっと待て。思い出したぞ。声質が似てるから、まるで今見てきたように思い出しちまうじゃねーか。
このシチュエーション、この展開、この台詞回し。まるで恋愛漫画のような出だしで、その続きは……。
「取り敢えず何でもいいから切っ掛けを作ろうって思うんじゃないですか? どうせ今のままじゃ、何も変わらないのですから」
「まあ、そういうこともあるかもしれん」
「やっぱりそう思いますよね」
手を後ろで組んで、美登里は上体を少し斜めに傾ける。
おい止せ。そこまで似せる必要はない。
ていうか、なんだこれは。やっぱり手の込んだ、しかも知り合いを使ったドッキリなのか。確かに僕は極め付けのパンピーだが、あんなに振り切れた知り合い連中は周りに居ないぞ。
いやいや、そうじゃなくてだな。まさかこの場面から先まで、あれをトレースする訳じゃ──
「他のみんなは頑固者で、前に決めたことをずーっと守って行こうとしてるんです。でも近くで見てたら、そうも言ってられません。だってただ見守ってるだけじゃ、どんどん良くない方に向かって行きそうなんですから。……だったらもう、独断で強硬にコトを進めちゃってもいいですよね?」
「ごめん、ちょっと何言ってるのか理解できない」
「何も変化しないあの子達に、私はもう飽き飽きしてるのです。だから……」
更に一歩近付いて来る。おい。そっから先は冗談にならんぞ。
僕がただ棒立ちに突っ立っていると、石原は後ろに回していた手をすっと前に出し──
「貴方に全てを話して、真紅の覚醒を促すのです」