――生徒会戦挙、副会長戦当日。それまで志布志の家に隠遁していたボクは、開始時刻ギリギリになってようやく会場へと姿を現した。即座に場の空気が張り詰めたように緊張する。特に善吉くんと阿久根。その二人はボクを視認した瞬間に飛び掛ってきていた。一週間前の襲撃と同様に、ここでボクをリタイアさせるつもりなのだろう。もちろんそれを予想していたボクはすでに臨戦態勢に入っている。隣の志布志も過負荷(マイナス)を発動させようとして――
「皆様、静粛にお願い致します」
それはボク達の間に割って入った選挙管理副委員長の長者原によって遮られた。ふぅ……時間ギリギリに来てよかったよ。善吉くん達も渋々といった様子で元の場所へと戻っていく。そのまま長者原の一声で副会長戦の種目選択に入った。
「現生徒会側からは月見月さま、新生徒会側からは志布志さまでよろしいですね?」
「もちろん、生徒会の一員として全力を尽くしますよ」
白々しいボクの言葉に善吉くん達の表情が苦虫を噛み潰したように歪んだ。しかし、すでにボクの出馬を止めさせる理由は無い。黒神めだかも口出しするつもりはないようで、口を閉ざして静観している。そして、志布志はカードの並んでいる机の前に向かった。
「それでは挑戦者の志布志さま。副会長戦のカードを選択してください」
「じゃあ『戌』のカードで。月見月先輩っぽいしな」
球磨川さんの忠犬にして番犬にして狂犬。確かにこのカードこそがボクの試合形式に相応しい。長者原は両手を大きく広げて宣言する。
「志布志さまの選ばれた『戌』のカード。副会長戦の試合形式は『狂犬落とし』に決定致しました!」
――負の副会長戦の幕が上がる。
今回の舞台は建設中の骨組みだけの新校舎。その吹きっ晒しの鉄骨の最上段にボクと志布志は立っていた。数十メートルの高さにまで組まれた鉄骨の上だけがボク達の行動範囲。高所の上に不安定な足場だけど、お互いその程度に恐怖する性質は持ち合わせていない。一応、落ちても大丈夫なようにセーフティネットが張られているしね。
「早く始めようぜ」
「わかってるよ。ボクだって早く球磨川さんに勝利を報告したいしね。まだ生き返ってないけど」
今回の試合のルールは単純明快。相手を地面に突き落とした方の勝ちである。ちなみに、セーフティーネットは地面の一部と見なすのでそこにも落ちれば負け。割と安全性の高い試合形式と言えるだろう。ま、敵味方がグルな以上、どんなルールでも関係ないんだけどね。さっきまで長者原に善吉くん達が抗議してたけど、結局ボクの出馬を止めることはできなかったのだ。
「じゃあ、さっそく負けさせてもらうよ」
そう言ってボクは躊躇無く建設途中の屋上から身を投げた。勝ち誇った笑みを浮かべながら、ボクは感じる無重力に身を委ねる。ちらりと横目で観客の様子を窺うと、諦めたかのように目を閉じた黒神めだかの姿が見えた。マイナス十三組の勝利を確信したボクだったが、すぐにその表情が驚愕に歪んだ。無重力状態が突如消え去り、ボクの身体がベクトルでも変えられたかのように再び屋上へと飛ばされたのだ。
「な、何が起こったんだ……!?」
空中で体勢を立て直して元の鉄骨の上へと着地したボクは呆然と呟いた。志布志の方も何が起こったのか分からないといった様子である。しかし、その疑問はすぐに解消された。
「おいおい、副会長がそんな情けない試合しちゃダメだろ」
「日之影先輩……!?」
想定外の事態に思わず自分の唇を噛み締める。さっきのは日之影前生徒会長の異常性(アブノーマル)――『知られざる英雄(ミスターアンノウン)』の効果だったのだ。自身の姿どころか気配さえも消すという恐るべき異常性(アブノーマル)。それで誰にも認識されずに、落下中のボクを上空まで投げ返せたのか……。
「……日之影先輩。いくら前生徒会長といえど、この戦挙への横槍は許されませんよ。明らかにルール違反です」
「そうだぜ、日之影先輩。負けが確定して自棄になってんだろーけど、この試合は一対一のはずだぜ?」
「ルール違反?一体誰がそれを判定するんだよ」
「何を言って……」
長者原の方を見たボクは日之影先輩の自信の根拠を悟った。長者原だけでなく、観戦している誰一人として日之影先輩に視線を向けていない。いや、向けていないというより、この場に起こっている異常に誰一人気付いていない。これはまさか……
「認識できないんだよ、全員な」
「そんな馬鹿な……!いくら日之影先輩の異常性(アブノーマル)が強力とはいえ、あくまでも本質は『強さ』!これだけ注目されている中で、ボクが騒いでいるのに誰も不自然に思っていないなんて……。日之影先輩にそこまでの隠密性はなかったはず!」
そもそも、その場の一人に見えたら他の全員も認識できるようになるはずじゃ……。まさか、『その場』の範囲が著しく縮小している?日之影先輩は堂々とした様子でボク達を見据える。その威圧感は学園最強の名にあまりにも相応しい。
「覚悟を決めたんだよ」
「覚悟、ですか……?」
「これまで俺は誰に知られることなく、認められることもなく、学園のために戦ってきた。賞賛されるためにやっていることじゃないし、人知れず学園の平和を守っていることに誇りを持っていた。だから、生まれて初めてだぜ――認識されないためだけに、自分の異常性(アブノーマル)を使用するなんてな」
その表情からはわずかな悲哀が感じ取れた。そのまま日之影先輩は志布志の方へと細い鉄骨の上を歩き出す。
「とりあえず志布志。お前さえ突き落とせば結果は生徒会の勝利になる。誰が落としたかは忘れちまうんだからな」
「させない!」
日乃影先輩の眼前へと跳び出したボクは渾身のハイキックを繰り出した。自分から飛び降りたとしても、先ほどと同様に止められてしまうからだ。しかし、その全力の一撃は、日乃影先輩に片手で軽く受け止められた。パシッという軽い音を立てて左手で掴まれるボクの脚。まるで校舎に蹴りを入れたかのような感覚。そのあまりの強度に絶望感がボクを襲う。
「勘違いするなよ、月見月。また勝手に飛び降りられちゃたまらんからな。まずはお前を先に相手するつもりだったんだぜ」
日乃影先輩はボクの脚を掴んだままブンと振り回し、洗面所にタオルでも投げ捨てるかのようにこの身体を投げ飛ばした。人体を投げたとは思えないほどの速さでボクは近くの鉄柱へと勢いよく叩きつけられる。背中を強打され、肺からすべての空気が吐き出された。そして、遅れて全身に走る痺れ。
「ぐっ……」
「しばらくそこでおとなしくしてろ」
そう言って日之影先輩は志布志に顔を向け、しっかりと見据える。志布志は不機嫌そうな表情でその様子を眺めていた。
「一対一なら勝てるつもりかよ。ずいぶんと忘れっぽいんだな。この間、あたしの過負荷(マイナス)に血達磨にされたのを忘れたのかよ?」
その通りだ。日乃影先輩の異常な強度をもってしても、志布志の過負荷(マイナス)の前には無意味。強さも堅さも重さも、志布志には通用しないのだ。近付いただけで全身の傷を開かれる。ゆっくりと歩いていく日之影先輩に向けて志布志は手をかかげた。そして、ボクも人知れず精神を集中する。
「ま、分かり合うのはおいおいってことで。今はただ敵として処理させてもらうぜ」
日乃影先輩から滲み出る幸運を奪い取るイメージ。身体の自由を奪ったくらいで無力化したつもりだなんて甘すぎるよ。その余裕ぶった表情を凍りつかせてやる。志布志から感じる負のオーラが高まるタイミングに合わせて、ボクも一気に過負荷(マイナス)を発動する。
「――致死武器(スカーデッド)」
「――壊運(クラックラック)」
しかし、ボク達の攻撃は不発に終わる。日乃影先輩は雲散霧消したかのようにボク達の前から姿を消していたのだ。同時に放たれたボクら二人の過負荷(マイナス)は一切の効果を起こすことは無かった。周囲に志布志以外の気配は感じられない。一瞬の内に消えた日乃影先輩を首を回して探すも、全く見つけられない。
「消えた……だと?」
「『知られざる英雄(ミスターアンノウン)』――当事者であるボク達にまで存在を隠蔽できるのか……!」
驚愕を浮かべる志布志と苦々しい表情を浮かべるボク。ボクと志布志の過負荷(マイナス)は精密に発動することが出来るが、代わりに対象を正確に認識していなければならないのだ。江迎さんのように周囲一帯を物理的にとはいかない。
周囲に目を配りながら、とにかく気配を探る。いくら完璧な隠蔽性といっても、さすがに攻撃を受ける瞬間には敵意を漏らさずにはいられないはず。ボクの肉体はそういった予兆を自動的に感じ取れる。ようやく手足の痺れの取れたボクは立ち上がって敏感に周囲の危険を察知しようとしていた。
「いくら姿を消そうと、あたしに近付けばその瞬間に『致死武器(スカーデッド)』の餌食だ」
志布志はモードを変更して自動(オート)にしたのだろう。一定範囲内に近付く者すべての傷を開くつもりだ。これなら日乃影先輩でも近付けない。実際には消えるのではなく、認識できなくなるだけでその場には存在しているのだから。だけど、ボクの方も志布志に近付けないわけだから、自分の身は自分で守らないと。
「さて、日乃影先輩はどこに消えたのか……」
わざと鉄骨から飛び降りてみるか……?そうなれば、日乃影先輩もボクの負けを防ぐために姿を現さざるを得ないだろう。だけど、空中で無防備な姿を晒すのも躊躇われる。捕まって動けないように拘束されたら厄介だし。そのとき、新しい気配を感じたボクは咄嗟に校庭を見下ろすように視線を動かした。
「あれは……?」
いつの間にか鉄骨で組まれた校舎から降りていた日之影先輩は校庭に移動していた。距離は数十メートルは離れている。目を凝らすと、どうやら日乃影先輩は振りかぶったような体勢をしていた。その疑問はすぐに氷解する。これから起こる事態を予感したボクは慌てて振り向き、志布志に大声で叫んだ。
「志布志、避けろ!」
「え?……があああああっ!」
志布志の身体に何かが着弾した。砲弾を打ち込まれたかのようにその身体が吹き飛ばされる。人形のように空中に投げ出された志布志だったが、かろうじて別の鉄骨に引っ掛かって落下は免れたようだ。何かの弾むような音にボクが目を向けると、そこには野球のボールが鉄骨の上で跳ねている。
――野球のボールを投げ当てたのか!
「中学時代のこと、阿久根に聞いたぜ。確かに志布志の『致死武器(スカーデッド)』は強力な過負荷(マイナス)だが、その効果は人体に限定されるんだってな」
「……情報を知られてたのか」
鉄骨の上を跳ぶようにして志布志の元へ駆け寄りながら、ボクは歯噛みした。まさか中学時代の攻略法をそのまま使ってくるなんて……!志布志に限らず、過負荷(マイナス)のみんなには弱点を補うなんて発想は無いのだ。だからこそ、ボクが志布志の欠点を埋める方法を考えておくべきだったのに……。それがマイナス十三組のリーダー代理のボクの仕事だった。なのに、この一週間ボクは自分の身を守ることばかりで……。
「まだ終わってないぜ!」
無防備で倒れている志布志に向かって次弾が放たれた。志布志の近くに辿り着いたボクは、その豪速球に靴の踵を合わせて蹴り弾く。その衝撃でボクの身体は細い鉄骨の上でわずかにぐらついた。さすがは強度を極めた日乃影先輩の投球だ。その球速は160km/hを悠に超えており、球の向きをそらすのでさえ大変な集中を要する。投じられるのが砲丸ではなく野球ボールというのは手加減のつもりだろうか。確かに、砲丸投げの球が直撃していたら、間違いなく志布志の身体は砲撃を受けたかのように破裂していただろうけど。とはいえ、野球ボールだろうと危険なのは変わりない。
「はあっ!」
その後も次々と間断無く打ち込まれる砲弾をボクは弾いていく。荒い息を吐きながら、ぐったりとした様子で膝を着いている志布志にこれらを避ける術は無い。
「くっ……そっちか!」
しかも、姿を消して投球地点を変えてくるため、反応するのに時間がかかってしまうのだ。自分に向かってくるならともかく、他人を四方から狙われるとなると守るのも難しい。直撃こそ無いものの、すでに志布志の身体には数回ほど狙撃されてしまっている。
「志布志、『致死武器(スカーデッド)』を止めてくれ!」
「ごほっ……わ、わかった」
近付く者を無差別に襲う志布志の過負荷(マイナス)を止めさせる。ある程度の距離を開けていたらとても志布志を守りきれない。ボクは血を吐いている志布志を鉄骨の横へと移動させると、その上に覆いかぶさった。志布志は内臓を痛めたのか、苦悶の表情を浮かべて口元から血を垂れ流している。弱った志布志を鉄骨から叩き落とすため、再び豪速球が迫ってきた。直撃すれば簡単に骨を砕かれるだろう。――しかし、その砲撃はあらぬ方向へと飛んでいってしまった。
「間に合ったみたいだね――『壊運(クラックラック)』。投擲・射撃攻撃は今のボクには届かないよ」
そのまま、志布志を抱き寄せるようにして密着する。続々と放たれるすべての球はボク達を避けていくように飛んでいく。その後も散発的に放たれた剛球は、ボクと志布志の身体にかすることすらない。今のボクの幸運の前には、たとえ機関銃の集中砲火に遭ったとしても無傷で生き残れるだろう。ほっと一息ついた瞬間、ボクの視界に殴りかかってくる日乃影先輩の姿が映った。
「なっ……!?」
「志布志に『致死武器(スカーデッド)』を解除させたのは失敗だったな!」
失策を悟ったボクの頭の中が一瞬真っ白になった。しまった……!これが狙いだったのか!慌てて志布志を背後に隠し、ボクは盾になるように日乃影先輩の前に立ちふさがる。しかし、その間に日乃影先輩の拳はボクの目の前にまで迫っていた。その圧倒的な破壊力を察知して思わず頬が引きつる。まるで大型トラックが眼前に迫ってくるかのような絶望感を必死に心の中から追いやった。
――背後に志布志がいる以上、後退することはできない。盾になってでも止める!
「はあっ!」
「おらぁああああっ!」
刹那のうちに迎撃する覚悟を決めたボクは裂帛の気合と共に蹴りを放った。日乃影先輩の拳とボクの脚が交錯する。
「え?」
呆然としたボクの口から無意識に声が漏れる。ボクの蹴りは日乃影先輩の顔面にしっかりと命中していた。だけど、問題はそこじゃない。日乃影先輩の拳が――志布志の身体を捉えていた。
「ごぼっ……!」
日乃影先輩の拳をまともに受けた志布志の身体は為す術もなく殴り飛ばされた。校舎を越えて建設用の巨大クレーンの鉄柱に衝突する。人体の壊れたような鈍い音が響いた。完全に意識を失った志布志の身体は、糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちる。幸いクレーンに引っかかって落下だけは避けられたようだけど、その胸部は陥没しており、口からは大量の血が零れている。
「そ、そんな……。何でボクは……」
その血溜まりを呆然と眺めながら呟いた。先ほどの交錯。ボクの意志とは反対に、自分の身体は日乃影先輩の拳を避けてしまっていたのだ。背後の志布志のことを無視して……。幼い頃から身体に染み込ませていた危機回避の反射が、自分の身を守ることを優先した。ボクの肉体は他人の盾になることを拒否したのだ。
「これは過負荷(マイナス)の連中の弱点だな。お前達は自分のことしか考えてない。月見月、お前が他人から幸運を奪うばかりで他人を幸運にすることはできないように。志布志が他人の傷を開くばかりで、他人の傷を塞ぐことはできないように」
その言葉をボクは絶望的な気分で聞いていた。志布志はボクを信頼して周囲に展開していた『致死武器(スカーデッド)』を解除したのに……。志布志は日乃影先輩よりも近くにいたボクを傷付けないために、無差別に周囲に過負荷(マイナス)を展開しなかったんだ。それなのにボクは……。
「お前達は他人を守るには脆弱すぎるんだよ」
絶望的な宣告にボクは頭を殴られたような衝撃を受けた。球磨川さんを守ることだけがボクの存在理由。投げかけられたそれはボクのすべてを否定する言葉だった。悔しさで強く握り締めた拳から血が垂れ落ちる。自分の不甲斐なさと無力感に唇を噛み締める。ボクの心はだんだんと重く冷えていき、絶望と虚無感が心を満たしていく。
「……何て不吉な雰囲気を漂わせやがる。ミスったな……これがマイナス成長ってやつかよ」
日乃影先輩の頬がわずかに引き攣り、その足が無意識のうちに一歩後ずさったのが見えた。なるほど、確かに今のボクは不吉を具現化したような存在だろう。負の具現とも言える球磨川さんに近付けたような気がして、ボクはわずかに口元を歪めた。幽鬼のように不気味な雰囲気を纏ったボクは、日乃影先輩へと目を向ける。球磨川さんに負けてくるって約束したんだ。その信頼だけは絶対に裏切らない。
――たとえボク自身の幸運を捨てたとしても
「日乃影先輩、この試合絶対に負けさせてもらいます。――ボク達は、負けることに関しては誰にも負けない」
「物は言いようだな。だが、戦闘力で劣るお前では俺の手を抜けて地面に落ちることはできないぜ。お前を動けなくした後でゆっくりと、志布志を地面に連れて行ってやるよ」
「――『壊運(クラックラック)』」
過負荷(マイナス)を発動する直前、日乃影先輩の姿が消失するのを感じた。だけど、標的はあなたじゃない。鈍い金属音が響き、ガクリと足場である鉄骨が揺れ動いた。
「何だっ……!?」
「この試合に負けられるのなら、ボクは幸運じゃなくていい」
「お、お前……自分の幸運を奪って……!?」
驚愕の声を上げる日乃影先輩。この間にも校舎を形作る鉄骨を繋ぐネジ類は次々と外れ続けている。すぐにボク達は崩れ落ちる鉄骨の上から投げ出された。無重力状態で地面へと落下していくボクと日乃影先輩。その崩れ落ちる鉄骨群の中で、ボクは両手を広げて不吉に笑った。
「しっかりとボクを守ってくださいね。それが強い奴の醍醐味なんでしょう?」