幻想郷に流れ着き、千雨が閻魔様にその進退を問われた末の千雨の答え。
長谷川千雨は幻想郷より麻帆良を選び、麻帆良に帰ることにした。
もちろんすぐに帰るというわけには行かなかった。
長谷川千雨一人では麻帆良まで行けっこない。向こうの世界とこちらの世界を行き来するのは紫さんですら簡単には無理らしい。
あの八雲紫を説得するのはわたしじゃ無理だし、そのための方針と、そのために必要な措置を閻魔さまに白黒はっきりつけられた。
そしてわたしは元の世界に帰るため、なぜか巫女の修行を積むことになったのだ。
さて、それが決まって守矢神社で修行を積み始めた、その数日後。
魔理沙さんに宴会に誘われて、少しだけ交流も増えて、それでもときどきもとの世界のことを思い出して夜は布団で涙する。
千雨はそんな生活を続けていた。
この世界は明るさに満ちているようで、その実は暗く、そして恐ろしい一面を持っている。
千雨とは違う“本来の外来人”のことを鑑みても十分に想像がつく話だ。外に依存して作られた幻想郷、隔離された新世界。
もう幾度目になったのか、あの時森近さんからもらった本を行灯のほのかな明かりの元で読み返しながら考える。
火元のいらないその行灯。香霖堂で貰ったものだ。
修行はおそらく一年ほどといわれていたが、それでもやはり寂しさは消えなかった。
この時期にずっと優しくしてくれた早苗さんにはいくら感謝してもし足りない。
すでにそのとき、千雨の身は小学生だったのだ。
親元を簡単に離れられるほどに幼くないし、そして逆にこの世界にずっといようと思えるほどに成熟してもいなかった。
魔法に神に妖精に、憧れもあったし魅力的だとは思うが、自分のことながら千雨はそういうことに全てを捧げられるほどの魅力は見出せない。
すたれた身の上、このわたし、長谷川千雨はいまさら魔法使いを目指そうとは思わなかった。
ネットやプログラムという趣味を最近はじめたのだが、そちらにはまり始めていたし、元の世界に未練もある。
つまり千雨は“帰還”を望んだ。魔法よりも親や知り合いのほうが大切だったためだ。
ちなみに長谷川千雨は、単純に幻想郷でいうところの“外の世界”の人間ではないらしい。
千雨にはまったく区別がつかないが、別の世界の人類として、閻魔の四季さまに説教をされて、神さまだという少女に名を頂き、そしてこちらの世界に隙間の大賢者に送り戻されることになっている。
よくわからないからほうっているが、森近さんがいっていた外の世界からの迷い人とはべつの扱いだということだ。
いや、あっているといえばあっているのだったか。いまだよくわからないままである。
だから千雨は早苗さんと同じ世界から来たわけではないし“神隠しの主犯である彼女”にさらわれたわけでもない。
そんなことを考えながら本をぱらぱらとめくっていると、背後から突然声をかけられた。
「いやですわ。わたしはたまたま原因になるだけであって主犯などではありません」
一発で誰かがわかった。独り言を盗まれたのだろう。
後ろを振り返れば、予想通りに空に浮かんだ裂け目から体を半分除かせる八雲紫と、予想に無かった二人の女性が立っていた。
少し驚き、一応の礼儀として軽く会釈をした。
いつの間にか部屋に入り込んでいた人物への対応としてはずいぶんと紳士的だと自賛する。
「紫さん。宴会でもなければ、わたしとは修行が終わるまで会わないんじゃなかったんですか?」
「そのつもりだったのですが、そうもいかなくなったのです。あなたは少し業が深い。それに会わないといったわけではありません。会うようなめぐり合わせは“普通は”もう起こらない、といったのです。あのお方にいわれたでしょう? あなたは自分の価値をしらなすぎる。関わりのない世界から幻想郷に生きたままたどり着けた貴女をもはや普通とは言いません」
「珍しいってことですよね。生きたままというか、わたしは一回死んでて生まれ変わったって話ですけど」
「死ぬことと生きることは背反しません。意識の問題です。人は死ぬときに自我をなくすわけではないのです。人から自我の境界が失われるのは死んだ後。でなくば、閻魔の職はこの世から消えることでしょう」
ため息を吐いた。一般庶民に向かって、閻魔の職もなにもないだろう。
いや、四季さまの偉大さはわざわざとかれずとも骨身にしみて知っている身としてはなんとも言いがたいものがあるのだが。
基本的にこの人との話はよくわからない。
「よくわかりません。それで、あの、そちらは?」
正直に心情を吐露して、ニコニコと微笑む八雲紫に問いかけた。
「ええ、こちらはわたしの友人の西行寺幽々子とその従者の魂魄妖夢。あなたにお会いしたいというのでつれてきたのですわ」
この女性の案内を八雲紫が勤めたということか。人の手助けなど絶対にしないような人格だと思っていたから少しだけ驚いた。
しかも守矢神社の鳥居をくぐらず現れるとは常軌を逸している。許可は取っているのだろうか?
友人であると紹介されていたことからも、人間離れの代表格であると考えていた八雲紫にも人並みの交流があるらしい。
そんなわたしの思考をよんだのか、八雲紫は少しだけ怒ったような顔をした。
「失礼ですわね。わたしも大事な大事な友人の頼みなら、いくらでも手を貸しますわ」
その言葉に、ついと西行寺と呼ばれた女性が頭を下げる。
あまりに堂の入った仕草に一瞬見とれた。
類は友を呼ぶというべきか。八雲紫さんに負けず劣らずの風格だった。プレッシャーとしては閻魔さまの前に引き立てられたときを思い出すほどだ。
「お初にお目にかかります。長谷川さま。わたしは冥界に屋敷を構える西行寺家の当代、西行寺幽々子と申します」
袖で笑みを隠しながら、彼女が言った。
「本日は、ひとつあなたにお願いがあってやってきたのですわ」
ああ、なにやら厄介事か、と息を吐く。
それを読み取ったのか、西行寺さんは笑った。
「いえいえ、あなたに迷惑はかけません。今回はわたしの従者の失態ですもの」
「……魂魄妖夢と申します。このたびはご迷惑を……」
見ていてこちらの胸が痛むほどに、意気消沈した少女が頭を下げた。
そんな彼女の横で、ぱちりと手に持った扇を閉じる。
そうして西行寺さんは改めて、わたしに向かい、
「用件は、貴女が先日購入した“人魂灯”についてです」
そんな台詞を口にした。
『長谷川千雨 幻想郷滞在一ヶ月目、ある夜の出来事』
第3話
自己紹介をしようと思う。
俺の名前は長谷川千雨。
麻帆良男子中等部に所属している。
現在2年だが、あと数ヶ月で3年に進級することになるだろう。
麻帆良は生徒の自主性を重んじており、自由奔放というよりも生徒の自立化を重んじるテストケースとして動いている面もあるので、寮などの福利施設の充実さはかなりのものがあるのだが、俺は寮には入っていない。
といっても実家暮らしをしているわけでもなく、マンションの一室を借りている。
そして、まあそのほか交友関係だが、クラスのほうに友人は少ない。というよりほとんどいない。
喋る仲はいるけれど……というやつだ。
そのほか、別の意味で親密になりたがる同級生もいるにはいるが、そういうやからは低調にお断りしている。
また、そのほかにも麻帆良女子中等部に所属するの早乙女ハルナをはじめ交友関係はそれなりにあり、自分自身もまあちょっとばかり特殊な趣味も持っている男子中学生である。
ちなみに当の早乙女ハルナも中二だが、実際に同世代かは分からない。
なぜなら、俺は六年前以前の記憶がないからである。
気がついたときには、俺を挟んで、現在の養父である長谷川家の両親と、俺を現在の両親に引き合わせた女性がいた。
彼女は両親と何がしか交渉をし、そして、俺は長谷川家の養子に入ることになった。
そのとき、いまの養父母が泣きながら俺を抱きしめてくれたことを覚えている。
両親はとてもよくしてくれた。
養子の自分を、まるで実子のように扱ってくれた。
こうして麻帆良に来ることを許してくれた。一人暮らしを許可してくれた。
いつか恩を返さなくてはいけないだろう。
いまだにあいまいな、過去の記憶。
大きな湖と夜の月に照らされる小さな村。そこでとどろく大きな音。
走る大人に、叫ぶ子供。魔法に悪魔に妖精に、おまけに神様に閻魔様。空を悪魔が飛んでいて、地を這う魔物を討ち取って、そんなありきたりなファンタジー。
自分の自我はあいまいで、自分の思考はちりぢりで、まるでおとぎ話の夢の中。
そんな自分が今こうしてなんとかまともな人間として生きていけるのは今の両親や数少ない恩人達のおかげである。
◆◆◆
ガチャリと千雨が扉を開けて、マンションから外にでる。
外にでて空を見て風をあびれば、予想通りに空は晴れ。
先日までの雨が上がり、日本晴れといっていい快晴だった。
道路に残った水たまりが明るい太陽光を反射している。
休日ということもあり、昼もすぎてますます人が活発になっていた。
沈むということを知らない麻帆良の基質。子供が騒ぎ、大人が微笑み、皆が楽しそうに笑っていた。
小学生くらいのカップルがばしゃばしゃと水溜りを蹴って遊んでいる横を、千雨はほほえましく見ながら通り過ぎる。
子供が千雨に久しぶりと声をかけ、遊ぼうよと誘ってくれるその言葉に申し訳なさそうに断りの文句を口にしながら千雨が歩く。
意外なことに、無愛想な千雨は近所の子供には人気がある。いつも金平糖を携帯しているからという理由だけではないだろう。
子供は自分たちの価値をきちんと見てくれる年上を慕うものだ。
さて、そんな千雨は電車を使い、歩き続け、ある場所を目指していた。
麻帆良の裏山と呼ばれる森林帯に入り、奥を目指す。
風が強いが、千雨の周りを強風は避けて吹く。髪も乱さず、砂埃に悩むこともない。
数十分ほどかかり、ようやく川にたどり着く。
川には魚、空気には緑の匂い。
麻帆良に残る過去の空気、人工物から離れる自然の世界。人の手から離れた神の風景。
千雨はゆっくりと、まるで幻想のようなそこに立つ小さな社に目をやった。
ぽつん、と川べりに建つ小さな分社。
本殿の場所も、主神の名も分からないまま建っている、そんな神社の分神宿。
千雨自身も酔狂なものだと自覚しているが、これは千雨が建てたものだ。
人にはとても軽々しくは言えるものではないが、千雨は宗教にはまっている。
はまっているといっても、べつにどこぞの宗教家の傘下に入っているわけではない。
自分だけが信じる神を自分だけで奉っているのだ。
名も知らぬ、姿も分からぬ、そんな神を信仰している。
自室に神棚があるだけでも分かるように、この信仰は根強く、そのわりに神の名すらわからないほどに不明瞭。
社があるのにご神体は奉斎されておらず、その中身は空っぽだ。
鏡も剣も勾玉も、もちろんノートなんてのも置かれておらず、注連縄すら張られていない空の社。
だがそこは、長谷川千雨にとっての信仰すべき場所なのだ。
神の礎として千雨の意思が使われたそれは、自然と最も密接に関わる麻帆良の山、その川のそばに立っている。
雨のさなかは、この社の周りにカエルが群がることを千雨はもちろん知っている。
そんなことを考えながら、千雨はもくもくと雨露を取り払い、社の周りを掃除した。
掃除が終わり、千雨は最後にもう一度礼をして踵を返す。
そして、誰かの声を聞いた気がして、千雨が振り向き、社の前に二人の女性を幻視する。
長い黒髪に赤い服。胸に鏡で頭にもみじの髪飾り。草鞋を履いた足を放り出して酒杯を傾けるそんな女性。
カエルの帽子に貴色のスカート。靴下に洋靴を履いた小さな少女。
そんな幻覚にさらにもう一度礼をして、千雨はその場を後にする。
まったく、知ってはいるけど、と千雨は改めて苦笑い。
いくら男子中学生の頭の中だけの神といっても、流石にこれは大概すぎる。
◆
アパートに着いたころにはすでに日が暮れていた。
マンションの入り口を抜けて部屋の前へ。
扉を開けると女物の靴がおいてあった。
すこし驚きながら、千雨が部屋の中に入ると、予想通りにベッドの上でグウグウとハルナが寝ていた。
横には漫画本が散らばっている。
合鍵を渡しているとはいえ、一人住まいの男の部屋でいきなり寝ているとはこいつはバカなのではなかろうか。
荷物を降ろしながらその尻を蹴っ飛ばした。
ムニャムニャとつぶやきながらハルナが起き上がる。
くつろぎすぎだ、この女。
「おー、お帰り千雨。どこ行ってたのよ、せっかく遊びに来たのに」
きょろきょろとあたりを見渡したのち、ハルナが寝ぼけ眼で千雨の姿に手を上げた。
「山の社。雨が降ったからな」
「携帯くらい持ってよー。こういうとき厄介だよねー。部屋電も携帯も持ってないなんてさー」
「その代わりに、合いかぎ渡してんだろうが。ベッドを勝手に使っといて文句を言うな」
ふくれるハルナに千雨が答える。
千雨は電話を持たない。理由など納得してもらえるものでもないので、千雨は話していないし、別段自分から誰かに連絡を取ることもないので不便ではない。
たまにこうして知り合いの人間が困るだけだ。
文句は言われなれている。
「今何時? あー、もうこんな時間か。ご飯食べたいなー」
あたりを見渡した末、ハルナがぬけぬけと口にした。
「図々しいやつだな。同室ののどかって子はどうするんだ」
「のどかに今日は泊まるっていっちゃったもん」
予定通りということらしい。
あきれながら、千雨が帰り道で買ってきた食材を袋ごと渡す。
「ったく。じゃあ材料費はおごってやるからお前が作れ」
「えー、もーしょうがないなあ。わたしはいまおなかすいてんのに。じゃあ軽くなんか作るね」
ぶつくさと言いながらもハルナがのろのろと立ち上がった。
千雨の要望どおり、料理を作る気なのだろう。手には千雨から手渡された袋が握られる。
不満を口にしながらもその口には楽しげな笑みがあった。
「二人分でいいよね。それとも作り置きとかいる?」
「んー、面倒じゃないなら明日の分も頼む」
「りょーかい。わたしも朝からご飯作るのは面倒だしね」
それに頷きハルナがキッチンに入っていく。
千雨はそれを見送ってパソコンの電源を入れた。
包丁の音と、かすかに漂う料理の香り。
千雨は料理がそれほど得意ではない。
包丁をはじめとした料理器具はこうしてわざわざ料理を作ってくれる彼女達のためにあるようなものなのだ。
そうしてハルナの鼻歌と、千雨が無言でたたくキーボードの音だけが部屋に流れる。
少しばかり時間が流れ、HPの更新などを済ませ、千雨がフウと一息ついたころ、どうやら料理が出来上がったらしく、ハルナが台所から現れる。
早乙女ハルナが顔を出し、エプロンを付けたまま部屋に入ってきた。
「料理できたよー。一緒に食べよ」
しゅるしゅるとエプロンをはずしながら、私服姿になったハルナが千雨の後ろから声をかける。
「ああ、わかった」
千雨が頷き、パソコンの前から離れた。ハルナがそれを覗けば、そこは千雨が運営するホームページの日記である。
この男、真顔でちうだニャーン、などと書き込んではいないだろうなとハルナはこっそり思ったが、それは口には出さなかった。
さて、そんなことを考えられているとも知らず、千雨がダイニングに入ってくると、そこには皿に盛られた料理がある。
彩り豊かな料理に感心しながら千雨が席に着いた。
二人そろって手をあわせ、頂きます、と。
千雨は神に祈りを捧げたりもせず、普通に料理に箸を伸ばす。
千雨が一口食べて、ふむ、と感心したように頷いた。
ハルナがその表情を見てにこりと笑う。
続いてハルナも箸をつけ、やはり満足のいく出来だったのか、ニマニマとしながら食事を続ける。
マナーはいいのだ。二人とも口に料理をほおばったまま喋ったりせず、無言のまま
それでいてその二人の間にまったく気まずい雰囲気は流れない。
まったく当たり前のように二人の日常に溶け込んだ、そんな夕食の風景だった。
◆
さて、この場でもう一度言っておくが、千雨とハルナはべつに付き合っているわけではない。
ただ、ひょんなことから仲良くなり、それから交流が繋がっているというだけである。
その出会いの経緯であるが、千雨はネットでホームページを運営している。
ネットアイドルちうの部屋。もうそろそろわかっていると思うが、ネットアイドルだ。
そしてアイドルというのは基本的に女でないとうけはよくない。
つまり女装して運営されている。というよりランキングトップという、軽い趣味やちょっとしたお遊びというには行き過ぎた位置である。
女顔だし、アップ前にキチンとチェックもかけているので当然ばれているようなこともない。喉と腰周り、ついでに肩に気をつけて、あとは修正をかければそれで十分。
地声も女と間違われるほどだし、ちょいと本気を出せばホームページに声だって上げられるだろう。ちなみに長谷川千雨が電話を嫌う理由の第一である。
ネットアイドルとして活動するため、日常からメンテに気を使っているだけあって、千雨は道を歩いていて素で女性に間違われるレベルであることも相まって、初対面で男性だと気づいてもらえる確立は2分もない。
常識的に考えて、特に意識もせず道を歩いていて女性に間違われるというのは尋常なものではないが、長谷川千雨にはそれがある。
伊達に本気で同級生に告白を受けた経験を持っていないのだ。
とまあ、どうでもいい話はこれくらいにするが、早い話、ハルナはこのことを十二分に知っている。
お互いに気も合うし、その“ひょんなこと”というのが千雨の秘中の秘であるちうに関してなので、千雨としても強く出れないままにハルナのわがままというか自由奔放さに付き合っている。
まあ実際に居心地は悪くないのだ。
べつに千雨はリアルでちうのことを話せる人間がほしいとは思っていなかったが、それでもまあ相手がこいつなことに文句はない。
しかし、当然だが千雨は男でハルナは女。ここは学校区画からは離れているが、それでも知り合いの目がないというわけではない。
当然千雨はこの日常がいろいろといやな噂や、おかしな邪推を招くだろうことも知っている。
自分は男だからどうでもいいが、ハルナに迷惑がかかるのはやはりよくない。
玄関先で待たせるのもなんだし、適当に二人で外出して噂を立てられるのも困るだろうと、いろいろと対応はしているが、それでもやはり話は漏れる。
食事も終わり、皿を洗っているハルナを見ながら無言のまま千雨が考える。
同級生の報道部員が自分とハルナを邪推していたように、一部の人間にはハルナの名前は知られている。
もっとも件の同級生は、たまたま自分を張っていたために知ったようなところもあり、そこまで広まっているわけでもない。
まだ千雨やハルナのクラスメイトレベルには知られていないのが救いである。
とある事情から仲良くなった同級生。
仲のよい、同年代の異性である。
そりゃ知られれば邪推の一つもされるだろうというものだ。
「なあ、お前ってクラスのほうで何か問題起こったりしてないか?」
言うかどうか少し迷ったが、一応聞いてみることにした。
ハルナが突然の問いに首をかしげる。ハルナからすればネギがきてから騒がしくはなったが、それでも問題というようなものは起こっていない。
「なんで? べつにそんなことないけど……どうかしたの?」
「いや、お前とあってるところを知り合いに見られてな。なんかいろいろと言われたからさ。付き合ってるのかって。おまえのことも知ってたみたいだし、ここって女子中等部からは離れてるからな。なんか問題あったら相談のるよ」
「相談もなにも千雨が原因なんだから無理なんじゃない?」
ハルナがあっさりと答えた。
千雨の頬が引きつる。
「テメエ、人の好意を……」
「じょーだんよ。それに、気を使ってくれるのは嬉しいけどさ、そもそも、原因は千雨のほうじゃん。あんまりそんな甘いことばっかり言われてもね」
ハルナが呆れたように言った。
「付き合わないほうがお前のためだって言っただけだよ」
「その台詞もどうなのよ。結局それって保留みたいなもんじゃん。嫌いだっていわれたほうがわかりやすいっての」
まったく、そういうところで引くのは優しさではないってのに、このバカめ。
ハルナが肩をすくめてため息を一つ。
知ってはいたが、こういう状況で男が女相手に行っていい台詞ではないだろう。。
そんなハルナに対して、千雨が考え込んだように少し黙る。
普通だったら言わないだろう。誰が相手でも千雨がそんな“誤解を招きそう”な言葉を口にすることはないだろう。
だがいまの相手はハルナだった。だから千雨はちょっと逡巡した末、彼女に対する罪悪感をこめて口を開く。
だから、少しの沈黙を経て、唇を尖らせて俯くハルナに千雨が顔を向けた。
「俺、お前のことはホントに好きだよ」
いままでの問答はなんだったのかとばかりに、あまりに平然と千雨が言った。
一度決めるまでの逡巡は長くとも、一度決めれば千雨は絶対に迷いはない。
自分の価値観を状況で浮動させたりはしない“地に固定された”その思考。
それゆえ、彼にとって言うまでの躊躇いと、言い始めてからの迷いは別種のものだ。
千雨にとって好意を明らかにすることと、男女の付き合いをすることは完全に別の事柄である。
だが、そんな特異な思考回路を持つのは千雨だけ。当然それはハルナにとってはかなり予想外なことらしい。
ゴトリ、とハルナの手からコップが落ちて、じゅうたんの上を転がった。
ヒクヒクと頬を引きつらせながらハルナがそれを拾い上げる。飲み終わっていたのが救いだ。
ハルナが頭の中で、この男がどれほど厄介なのかを再認識した。
のどかをからかってばかりはいられない。
はっ、わたしもずいぶん青春をしてるじゃないか。
ネギに惚れたというのどかをからかってはみたが、自分だってこの様だ。
これでほんのわずかにも幻滅できないというのだから、草津の湯でもとはよく言ったものである。
素直にネギに惚れておけばよかった。
なにより、これで先ほどの言葉を許してもいいかな、などと思ってしまうのだから、大概だ。
くっそう、赤くなるな早乙女ハルナ、赤くなったら私の負けだ、と自己暗示。
ごほんと咳をして冷静さを装うハルナに千雨が首をかしげる。
さすがに同様の理由は想像がつくが、なぜそこまででかい反応をするのかがわかっていない。
千雨への天罰は、いつか彼の奉る神が下してくれるだろう。
「なんでそんなに驚いてるんだ?」
「…………なんつーか、千雨はあれだよね。ヒモになるタイプだよね、絶対」
唇を尖らせてハルナが言う。
「なんでそうなんだよ……。つーか、いいだろこっちのほうが。変にこじれるよりはさ」
「甲斐性なしだって言ってんのよ。口ばっかり上手いんだから」
「あのなあ……」
「あっ、そうだ。食器洗っちゃうね」
この問答を続けているとやばそうだと感じ取って、食器を持ち上げながらハルナが言った。
大丈夫大丈夫、まだ赤くなってはいない。逃げ切れたようだ。
話を途中で中断された千雨がやれやれとハルナの背中を見送った。
ため息を吐いて呆れ果てていようとも、その二人の間に困惑や悲しみのようなものはない。
だってこの問答は二人の間で何度か行われてきたものだ。
自分の自我に不安定さを感じている千雨は、一度それで失敗してから、人と明確な先生をして付き合うことを避けている。
白黒をはっきりつけることを心がけるわりに、白黒はっきりつけること自体を嫌っている。
そしてそれを当然ながら早乙女ハルナは知っている。
そんなハルナの後姿を見ながら千雨は思った。
自分にこいつと付き合う気はない。
そして、これはこいつの所為ではなく自分の所為だ。
好きだと思っているからこそ、迷惑はかけたくない。
自分の奥底にある神を信じる心と同じ種類のその感情。そして自分の過去の記憶が、それが素直にハルナと愛をささやく行為を押しとめる。
千雨の奥底にくすぶり続ける小さな違和感。
たとえば、千雨はネットアイドルで女装を世界中に披露してしまっているわけだが、これはなんというか千雨自身でも説明しにくいが必然である。
べつに強要などではなく、自分の中でなぜか“自分が女であること”をどこかで認識し続けなければいけない、というなんともよくわからない強迫観念にとらわれているためだ。
ハルナ相手の件についてもそれと同様。
千雨は記憶にすら残っていないが、理由が明確でないからこそ、千雨はその衝動に逆らいにくい。
過剰反応がすぎると自分でも思うのだが、それでもそれを改められない千雨の欠点。
そもそも、自分はこの麻帆良の中では常識があるほうだ。
そんな自分がネットアイドルなどをやっているのは、絶対に理由があったはずなのだ。
過去にそんな決心をしたのか、誰かに忠告として言われたのか。
でなければ、自分がこの様なことを始め、さらにはこうしてやり続けているはずがない。
なにかがあった。
なにかがあったはずなのだ。
そう、たしかとても尊いあるお方に、それを言われたはずだ。
【良い■■か、長谷■■雨。お前はこれから――――】
荒い記憶。
ノイズの走るその風景。
頭に浮かぶその残滓を破れた網で掬い取る。
わずかなそれをこぼさぬように慎重に。一言が砂金のように重要で、一文が万の意味を持つほどに尊い賢者の言葉を記憶の底からすくい出す。
誰かの神託。
名前もわからぬ神の声。
顔もわからぬ賢者の言葉。
そんなお方の声が千雨の頭に響いている。
だが、それはいつものように、カタチになる前に消えてしまった。
千雨が舌打ち。
声があった、言葉があった。だが、思い出せはしなかった。
まあいい。どのみちこの様な与太話をしても、変態性癖の言い訳ととられるだけである。
いったい誰が信じるというのだろうか。
久しぶりにハルナとの関係に踏み込むなんてまねをした所為でどうやら随分と“揺れて”しまったようだ。
自分もまだまだ腹をくくれているとは言いがたい。
長谷川千雨はべつに同性愛者というわけじゃない。普通に女性がすきだし、ハルナはかわいいやつだと思う。
付き合うのも本来はまったく問題ない。キスも出来るし抱き合える。
だが実際に付き合ってしまえば、そこには必ず違和感と、そしていつか必ず分かれることになる確信が生まれることを、すでに自分は知っている。
絶対にハルナを傷つけることになることを、すでに自分は知っている。
だからこそ、あいつから好きだといわれてなお、自分はアイツを突き放すことも受け入れることも出来ずに“白黒をはっきりさせない”ままに流されている。
とまあ、いろいろといったが、まとめてしまえば、そのようなよくわからない考えが人格の根底に巣くっている千雨は、どうしても女性と付き合うことに白黒をはっきりつけにくい。
お互いがお互いを気遣って、踏みこめないままに出来たこの関係。
どうに打破する機会が見えないこの状況。
そしてそれを千雨もハルナも、そしてもちろん、彼らを見守る神さまも知っている。
◆
ダイニングから聞こえていた水道の音が止まる。
ボーとしている千雨の元へ、洗いものが終わったのかハルナがチョコチョコと寄ってきた。
そのまま千雨が背を預けていたベッドにぼふんと音を立てて腰をおろす。
そのままベッドに背を向ける千雨にのしかかった。
「なに読んでるの?」
本を読んでいる千雨の肩越しからハルナが顔を覗かせる。
小さな笑み混じりの吐息が耳元を通り、長い黒髪が千雨の首筋をくすぐった。
「ただの小説だよ。というかハルナ、胸が思いっきり当たってるぞ」
「わざとだしね。どう? 興奮する?」
首に手を回された。
そのまま胸が押し付けられる。
耳元の吐息がこそばゆい。
「そんなノリで言われて興奮するはずねえだろ」
「あはは、じゃあ今度はムードたっぷりに迫ってあげるよ」
ニヤニヤと笑いながらハルナが言う。
余裕があるのか?
いやむしろ逆だと千雨は断じる。
どちらかといえば、いまのハルナは緊張気味だ。
この過剰なまでのアプローチは誤魔化しが入っているのだろう。
だからたとえば、その証拠に――――
「うひゃあっ!?」
千雨が回した腕に手を添えて、そのままそのむき出しの二の腕を撫でてみると、慌てたハルナがビクリと震えて手を離した。
こちらが申し訳なるくらいにヘタレだった。
千雨が呆れる。いつになったらこりるのだ、こいつは。
「お前な。もうちょっと自重しろよ。お前はジョークのつもりでも、そういうこと続けてるといつか襲われてるぞ」
ため息混じりにベッドの上で照れたように笑うハルナに向き直った。
早乙女ハルナは、べたべたする関係を好むわりに、べたべたすることを受け入れるのをいやにためらう。
「大丈夫だって、アンタへたれじゃん」
動揺から持ち直したハルナが言った。
「うるさいな。俺以外だったらってことだよ」
「あはは、平気平気。こんなこと千雨以外にする気ないって!」
なぜか笑顔で断言された。
なんだこれは。愛の告白か?
「……まあ、どっちにしろ自重はしろよな」
すぐに赤くなるくせに、ハルナはこういう時は素のままだ。
こいつは人に対する機微に異常に敏感なわりに、自分の心情を隠すのが下手すぎる。
自分で気づいていないとしたら、今後こいつはクラスメイトに天然などという呼称を使う資格はなくなるだろう。
ハルナは本気と冗談の区別がつきにくい。
随分と先ほどの言葉で思考をかき回されているようだし、千雨から手を離したハルナは今度は千雨にちょっかいをかけようとはしなかった。
そうして千雨の背中から離れて、誤魔化し交じりに漫画かゲームか雑談か、さてどうするかと視線をめぐらせているハルナの姿。
「なあハルナ」
その姿に、今度は千雨から声をかけた。
「ん、なに?」
「うん、あのさ」
なんとなく考えを纏めるために直球で千雨が言った。
「お前ってまだ本気で俺に惚れてるのか?」
千雨がハルナに好意を持っているのは本当だ。おそらくハルナも。
付き合えば破綻することがわかっているから、こうしてなあなあな関係を続けているが、それであまり負担はかけたくない。
なるべくならこいつもそこらへんを消化していて欲しかった。
しかし、千雨の言葉にハルナはいきなり真っ赤になった。
直前の雰囲気から軽く流してくれるかと思っていた千雨のほうが、その反応にむしろ驚く。
なぜこいつは要らないところでは、こんなにも純なのだ。うぶすぎるだろ。
「っ!?? ……っと、えっ!? な、なん、な、なに!? なによ、いきなり!」
予想外に難儀なやつだ。
ちょっとメンタル弱すぎないか?
軽口の応酬にでもなるかと思っていたのに、なんなんだろうこの展開。
「いや、お前もベタなリアクションするなあ」
「そ、そういうの普通、面と向かって聞く?」
それはいつものハルナ自身に言うべき言葉である。
「なに照れてんだよ。いつもお前がやってることだろ。もちろん愛してるぜ、とか言われるくらいの返しを想像してたんだけど」
「うっさい! んなことリアルで言えるわけないっしょ!」
ベッドの上からバシバシと枕で頭をたたかれた。
「わかったわかった。悪かったって! 聞かないほうがよかったか?」
うなっているハルナをなだめるように千雨が手を上げる。
「そういう問題じゃなくてさあ。もうちょっとこうなんていうのかな。……あのね、なんかそういうのはっきりと……ったく、男ってのはそういうのすぐ口にするんだから……」
ぶつぶつとつぶやく声は小さすぎてほとんどが千雨の耳には届かなかった。
しかしハルナが不機嫌になっているようなまずい気配を感じ取って千雨が手を上げた。
「いや、俺もお前のこと好きだし、付き合えないのも俺の性根が原因だしな。変にごちゃごちゃするより、こうして仲良くしときたいって言っときたかったんだよ。お前なんか変に溜め込みそうだし」
それを聞いたハルナが千雨をぶっ叩くために持ち上げていた枕を下ろす。
許したからではない。呆れ果てたためだ。
「仲良くしておきたい、かあ。またそれ?」
「沈むなよ。さっきからなんでそんなにへこんでんだ、お前は」
「ふつー沈むでしょ。どーすりゃいいのよ、わたしは」
平然と無神経なことを言う千雨を睨みつける。
まったく千雨は本当に女心の機微というやつがわかっていない。
先日のようにまた今度恋愛本でも読ませてやろう。千雨はジョークだと思っているようだが、ハルナ的には結構マジだったのだ。
こいつには一度自分の駄目さを自覚させておく必要がある。
「あのねー、千雨。あんたホントにもうちょっとどうにかしないといつか刺されるよ、絶対」
「……いや、真顔で怖いこというなよ」
本気で言っているのがわかるだけに普通に怖かった。
「まー。べつにわたしを袖にし続ける千雨が悪いってだけの話だしさ。ったくわたしみたいな気がきく子のなにが不満なんだか……」
「いや、なんでそうなるんだ? お前に不満なんてなにもないよ」
「……あのねえ」
そういうところだけ即答するから、こいつはいつか刺されるなどと評されるのだ。
「お前が悪いわけじゃない。お前はまあ普通じゃないし、駄目なやつだけど、たとえば……そうだな、相手がお前のところの那波って子だろうと俺の“これ”は変わらないものだし」
適当に思いついた2-Aで一番顔とスタイルが有名な千鶴の名前を出して千雨が肩をすくめた。
ハルナが一発ぶん殴ってでもやろうかと思って手を上げて、何とか抑える。
どうせこのバカは懲りないだろうし、いまそんな問答をしても泥沼になるだけだと考えながら、その手を力なく下げてため息をもらすだけ。
どうした、と首を傾げる千雨に「じゃあやっぱり千雨が悪いんじゃん」とハルナが愚痴る。
道理すぎるので千雨は頬をかいて誤魔化すだけだ。
「しかもここで那波さんの名前を出すところとかが改めて最低だよね。……那波さんってやっぱりそっちでも人気あんの?」
「ある。めちゃめちゃ有名だな。難攻不落を通り越していまじゃ声をかけるやつもいないぞ。雪広財閥のお嬢さまとどっこいどっこいじゃないか? つーかお前のクラスって、どいつもこいつもレベル高けえし有名人は多いしで、そこそこ気の効いたやつは大体知ってるよ。ハルナの噂はそれほどきかないけどな」
「うぐ……で、でも、わたしだって胸の大きさではあの二人にも負けてないし!」
千雨の即答に悔しそうな顔をしたハルナがなぜか胸を張っていた。
形のよい胸が突き出される。ゆったりとしたブラウスを押し上げている胸は自慢するだけあってかなりのボリュームだ。
「いや、べつに胸の大きさの話をしてるわけじゃないだろ……。それにお前だって十二分に可愛いと思うぞ。性格も俺に合ってるし、俺は那波やら雪広のお嬢さまよりお前のほうが好きだよ」
平然と千雨が答える。
当然のことながら、そんな言葉を平然と口にする千雨の前で、ハルナが胸を突き出したまま固まった。
千雨はそんなハルナを見ながら、困った顔をするだけだ。
目の前にはベッドの上で胸を突き出す女がいて、自分はベッドの横から寄りかかったままそれを見上げている。
ブラジャーに整えられた形のよい胸は、同年代でかなうものはそうそういまい。
さっさと引っ込めるのかと思ったが、なぜかハルナはその動きを止めたままだ。
千雨はなにしているのかと呆れているが、元凶は自分自身である。
千雨は少し考えると、雰囲気を払拭するために、なんとなくその胸に手を伸ばした。
そのまままったく躊躇することなく千雨はそれを掴み、わしづかみしたまま手を動かす。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
フム、と千雨は頷いた。
やはりでかい。
非常識なまでにスタイルのいい雪広のお嬢さまや那波千鶴が例外なだけでこいつの胸は十分に大きかった。
たしかは87cmだったはずだが、千雨が手を動かしながら口を開いた。
「…………ちょっと大きくなったな、お前」
すぐさまリアクションが返ってくるかとも思ったが、なぜかハルナは止まっただ。
しかたなしに揉み続けていると、理性を取り戻したのかハルナがようやく動く。
正気を取り戻したのか、バッ、とその豊かな胸を掻き抱いた。
頬が火がついたように赤くなっている。
「ふわっ!!? ほえっ!? えっ! ちょ、ちょっとマジ!? へっ!? え、えっ!!? なに!? い、いきなり過ぎない!?」
カア、と恥ずかしがって、ハルナが身をよじる。
いやまあ自分も悪かったが、いつものお前もう少しお姉さんぶったキャラだっただろうに。
いつも鬱陶しいくらい押し付けてくるくせに、なぜやられると照れるのだこいつは。
どうして欲しいのかを明確にしろ。
「いや、軽いジョークのつもりだったんだけど、お前突っ込んでくれないし」
「なんでわたしの所為みたいになってんの!?」
ハルナが赤くなったまま叫ぶ。
意外にヘタレだ。知ってたけど。
ポリポリと千雨が頬をかく。
なにやらマジで失敗したらしい。いや、むしろ当然か。こいつはあいつとは別なのだ。つい以前の癖が出た。
ここまで大きく反応されると逆にいろいろと困ってしまう。
とまあその普段の偉ぶった姿からは想像もできない可愛らしい姿だったが、それより先には進まない。
千雨は余りそっち方面の興味を持たないようにしている。
もちろんないわけではないのだが、本当にそうなったときに感じる違和感を千雨はすでにしっている。
まるで自分の本当の性別が女でもあるかのような、あの違和感。
「いやいや、悪かったよ、機嫌治せって。ちょっと目の前に突き出されるから、なんとなくな」
「な、なんとなくってねえ……」
「いや、ホントに、いまさっきのにやましい気持ちはなかったよ」
千雨が平然と言った。
だが、それにむしろハルナは顔をしかめた。だってそれじゃあ自分に”本気”で興味がないといわれているようなものだ。
「や、やましい気持ちはなかったって。……ち、千雨ねえ、それをマジで言っちゃうからあんたってやつはいつもいつも……」
「おい、悪かったって。………………いや、泣くなよ」
困ったように千雨が言った。
「な、泣いてなんかいないし!」
「……いや、泣いてるだろ」
「うっさい! スルーしなさいよ、ここは!」
ぐしぐしと目元をこすりながらハルナが怒鳴る。
これはまずった。まさか本当に胸をもまれたのが原因というわけではないだろう。
知らぬ間に変なトラウマを抱え込んでいたらしい。
なにやらおかしな回路にスイッチが入ったようだ。
ハルナが感情の高ぶりを涙というかたちで発散していた。
「悪かったって。そんなにいやだったか?」
「そんなのじゃないよ。でもさ、わたしは“前”のときからずっと本気だったのにさ……それなのに、そんな興味がないみたいに言われたらさ……」
自覚もないのだろう。ほとんど聞こえないような声でハルナがぶつぶつとつぶやく。
その目元には涙が浮かんでいた。
「……ホント、いくらわたしでもちょっとは泣きたくもなるっての……」
なんとも困った顔をして千雨が黙っていると、突然ハルナがぶんぶんと頭を振る。
「あーもー、ゴメン! わたしも割り切ったつもりだったのに! 忘れて、千雨、ホント! ほら、わたしも変にこじれるより仲良くしてたほうがいいしさ! …………それと泊まるって言ったけど、やっぱわたし今日は帰る!」
バレバレの虚勢を張られた。
意外に深くハルナの傷をえぐってしまったようだ。
千雨はどうしたものかと考える。
もともと以前より、この学園に違和感は覚えていた。
不自然な出来事に、不自然な施設に、不自然な人間。そんなものに不審を感じ、だがそれを表に出さずに生きてきた。
だから自分のおかしさも、それの一旦なのだろうかと千雨は自分を無理やり納得させてきた。
性欲が薄いのとは少し違う。そこは健全だったのだ。だがそれと同時に、まるで自分の性別が間違っているかのような、小さな違和感が消えなかった。
自分の趣味が原因かと疑っても、やはりそのしこりは消えなくて、違和感だけはそのままだった。
だから、千雨はハルナに対する感情も、その一種として考えてきた。
だがやっぱり秋の空にたとえられる思春期少女の乙女心相手に、そんな風に捉えていれば、いつかはこうなる。
つまりこれは千雨の責任。
だから当然、自分みたいなのを慕ってくれている女の子を泣かせてよい理由にはならないだろう。
「なあハルナ」
「なによ! わたしはもう帰るからね!」
グスグスと涙をぬぐっていたハルナがベッドの上で半身を起こした。
「いや、帰ることはないだろう?」
「…………このアホは。だからほらね、わたしもテンパっちゃったし、このパルさんが恥ずかしいところ見せちゃったわけだからさ――――」
帰ろうと体を上げるハルナに、千雨がゆっくりと手を伸ばす。
あまりに自然なその動きに、ハルナは反応できなかった。
ひょいと、ベッドについていたハルナの手が払われて、バランスを崩したその体が千雨によって引き寄せられる。
胸元ではなく首に回し、その手は後頭部を抱え上げ、ぎゅうとハルナが千雨の胸元に抱えられた。
「悪かったよ。ほら、仲直りしようぜ」
ぎゅう、と抱きしめて、ぽんぽんと頭をたたく。
ポン! 面白いように腕の中の早乙女ハルナが茹で上がる。
それと同時に千雨の耳はハルナがヒュウ、と音をたてて呼吸を止めたことを聞き取った。
恥ずかしがったらしいハルナがジタバタともがくが、千雨は手を緩めない。
ハア、こいつはホントに、どこまで純情なんだ、とため息一つ。
距離をとるか近づくか。ハルナは随分と両極端な女のようだ。
そしていま、自分が選択する道はこれ以上ないほどに決まりきっている。
ここは皮肉抜きで、きちんとハルナをなだめよう。
「泣くな泣くな。意固地になってもお互い得しないだろ。落ち着けよ。そうやって泣かれると結構きついんだ。ほらっ、俺ってホントはお前のこと大好きだしさ」
「~~~~!!? だ、だからアンタはそういうところが最低だって言ってんのっ!」
「わかったわかった。悪かったよ。ほらほら、落ち着けって。お前って意外によく泣くなあ。経験豊富っぽく振舞って、そこまで見事に自爆するとこなんざ、一周回って愛おしいよ」
「~~! ~~!?」
「よしよし、だから暴れるなって」
腕の中でその体温を感じながら、千雨はあやすように指先で髪を梳く。
長い黒髪を乱さないよう、梳くようにそして優しく撫でている。
観念したのか、声にならない声を漏らしたハルナが暴れるのを止めた。
顔を隠すように顔を千雨に押し付ける。
とんでもなく面倒くさくて、同時にそれがとても可愛い女の子。まったく、いつもそうしていればいいものを。
本当に、この耳年増の同人少女は、本番となると純情すぎる。
無言のまま時間が流れ、どうやら落ち着いたらしいハルナからも口を開く気配はなく、千雨は小さく苦笑する。
その声を聞いたハルナが抱きしめられたまま、恥ずかしがってもぞもぞ動く。
だけど二人は当然のごとく離れたりはしなかった。
抱き合ったままお互いの体温を感じてる。
そんな情景。神棚に座る神さまだけが見るその光景。
興味がないわけじゃない。無関心なはずがない。千雨の躊躇は心の問題。魂の問題だ。
そう、結局のところ、千雨が言い訳を述べているだけで、ハルナを泣かしている原因は、根底の部分でビビッて口で誤魔化し、あいまいに逃げ続けているこのバカモノが原因なのだ。
その神様は知っている。千雨のもつ違和感は不和であって禁忌でなく、その戸惑いは逃げであって信念ではない。
白黒をはっきりさせるという千雨の基盤と、どうにも真剣さを交えられないハルナの基質。
好意を示すことと、その関係について完全に白黒つけて考える千雨によって生まれたこの現状。
まったく千雨も不甲斐ない。百年遡るまでもなく側室だろうと同性愛だろう今でもある。日本でだって500年遡れば同性愛どころか小姓をつけないほうが性的におかしいと考えられるそんな時代だ。千年遡った過去にいた神々にいまの常識を当てはめようとすれば目を回すことになるだろう。
たとえ記憶がなかろうが、千雨の魂はそれを知っているはずなのに、まったくこの“娘”の頭は固すぎる。
神棚で杯を傾ける神様が苦笑した。
彼女はこの状況をたいして悪いものと思っていない。
だって関わっているのが千雨である。
いまこうして少女を泣かせ、過去にもこんな風に少女を泣かせ、それでもまだまだ未熟なようだが、それでも千雨がそのまま責任も取らずに逃げるということはありえない。
この男はわれわれ守矢の神の肝いりだ。
だから、あの抱き合う娘にだって、こうして悲しませて終わるということはあるまいさ。
そうして杯を傾けて神棚に立つ洩矢の分神はもう一度朗らかに笑みを浮かべた。
まったくすまないな。早乙女ハルナ。
長谷川千雨が迷惑をかけているようだ。だが、その子は最後の決断は間違わん。
千雨の不徳の詫びはいつかわたしのほうからもしてやろう。だから、いまはその子と仲良くしてやっとくれ。
ああ、そうだ。
それでは誤解を招かないよう、最後にもう一度だけ言っておこう。
というわけで、千雨はべつにハルナと付き合っているわけじゃない。
ほら、女同士だって仲がよければ抱き合うくらいするだろう?
仲直り代わりに抱き合ったまま一緒に寝たりもするだろう?
千雨とハルナは仲良しなのだ。
まだまだ恋人同士とは行かないけれど、日の沈んだ部屋の中、ベッドの上で抱きしめ合ったままで夜を迎えるくらいには。
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ラブコメハーレムはMが作るが、ガチハーレムはSが作る。
自分のことになると意外に純情なハルナの話。
女関係に適当で、そのうえ自重せず、さらに女装趣味があって、しかも宗教家という最低すぎる主人公であるTS千雨さんは結構普通に駄目な子なのでこんなことしておいて次回は新しい女の子が出ます。でもさすがにハルナもでます。