参謀本部人事局人事課帝国陸軍の中枢を担う参謀本部。閑静な帝都の一等地に建つ歴史的な建造物は、積み上げてきた歴史にふさわしい威厳を放っている。そして、小さいながらも、参謀本部には人事局が設置されていた。通常、士官人事は教育総監部の主管である。それにもかかわらず、参謀本部が人事局を有するのは独自の人事制度を意味する。つまり、陸軍大学の卒業者に限っては参謀本部が排他的な人事権を有しているのだ。言い換えれば、高級軍人の人事は全て参謀本部が直轄してきた。「レルゲン中佐、昇進おめでとう。」陸軍士官・魔導士官は、ここで昇進を告げられるようになれれば軍の主要ポストへの道が開かれる。そのため、常に陸軍大学卒業生に対してはやっかみと妬みが渦巻く。そのように特権的とすら評された陸大卒の中でも、選ばれた者だけが、人事局人事課長によって昇進が祝って貰える。レルゲン陸軍中佐は、その中でも出世の筆頭組だ。彼は順調に陸軍のエリートコースを驀進している。陸大卒時点で大尉であった彼は、陸軍駐在武官として連合王国勤務を経験。現状分析に卓越した能力を発揮し、陸軍大学の人事課長として抜擢される。新任に対する選抜と教育の手腕を参謀本部より高く評価されていた。「ありがとうございます。大佐殿。」「貴様にもそろそろ、参謀本部付きの辞令が出るだろう。いい機会だ。眼を通して置きたまえ。」そして、彼は参謀本部の身内と認識されている。軍の中枢と極めて近い位置に存在していると表現しても良い。それゆえ応接室で、軍事機密の塊をそれとなく渡されるレルゲン中佐の表情は平然としたものだ。でかでかと、極秘と押された書類の束は、部外持ち出し厳禁の機密書類を意味している。参謀本部の人事局で渡されるということは、広く参謀本部で議論されているものだろう。つまり、参謀本部での一般論を集約中であり、貴様も読んで意見を出せ、ということか。それが許されるということは、いよいよ参謀本部への移動も間近ということでもある。そう解釈したレルゲン中佐だが、渡された論文に眼を通すにつれて、怪訝な表情を浮かべる。論文をめくるにつれて、その表情は怪訝なものからどんどん変化していく。最後には、突然強かに頭を殴られたように唖然としたものとなっていた。「『今次大戦の形態と戦局予想』?」これは何だろうか?今次大戦とは?いや、ここにそもそも書かれている戦争の形態はありえるのか?そのような疑問の響きが込められた呟きに、人事課の大佐は疑問を肯定するように頷く。彼は、疑問を、反論をとにかく何かを叫ぼうとするレンゲル中佐を眼で制して淡々と事実だけを口にする。「戦務参謀次長殿肝煎りの代物だ。軍内には異論も多い。」「だが、無視し得ない、と?」異論が多い上にできの悪いものを、わざわざ機密扱いにはしないだろう。まして、そろそろ参謀本部入りするであろうから、わざわざ見ておけと言われるはずもない。そのように無価値なものであれば、黙殺される。しかし、黙殺されるどころか異論を複数招くにも関わらず価値があると見なされたとすればどうか。少なくとも、戦務参謀次長殿肝煎りの代物というだけのことがあるのだ。「その通りだ。戦略レベルの予見では、戦務・情報・外局・作戦の各局が同意を示した。」そして、まさしくその通りだと肯定された。・・・ありえるのか、とレルゲン中佐は頭を抱えざるを得ない。戦争の戦略論は常に喧々諤々の議論を伴ってきた。その帰結は概ね多様な可能性を示唆しており、一長一短あるものだ。極論を言えば、一致するということはほとんどありえない。その百家争鳴的な議論を集約し、最適と思われる戦略を描くのが本来の参謀本部のあり方だ。陸大で、戦略論を議論する時、教官が常に積極的な議論を促すのもそれが理由である。多角的な視点を、複数採用することで、議論の精緻さを向上させている。どれほど完璧に見える提言も、どこかに穴があるというのが陸大の常識。だからこそ、少しでも弱点を補うべく議論が奨励されてきた。「で、あるとすれば、この戦争は、世界戦争に発展する、と?」その伝統を誇る陸軍参謀本部で戦務・情報・外局・作戦の各局が戦略レベルで同意した?実質的には、この提言を戦略レベルで否定し得ない可能性を濃厚に有していることを認めるに等しい。異論が多い、というのは受け入れがたいという戸惑いに近いのだろう。実際、自分にしてもいきなり『世界戦争』と言われたところで釈然としない。「貴様は、『総力戦理論』という概念に聞き覚えは?」「いえ、寡聞にして。」そして、思考の渦に飲み込まれかけていた時に耳慣れない言葉が突然飛び込んでくる。『総力戦理論』?どこか、『世界戦争』『今次大戦』という概念と呼応していそうな概念であるように思われてならない。確かに、耳にしたことはないのだがどこかに引っかかる。少なくとも、見たことはあるはずだ。どこかで、同じ事を経験しているはずであるのだ。「鉄道部が機密保持指定で提出した論文だ。」そう言って差し出された論文の概要に急いで眼を走らせる。執筆者は鉄道部の若手参謀ら。覚えのない名前だが、機密保持を考慮すれば偽名もあり得るか。冊子に眼を通していくうちに、どうしても先ほどの衝撃と同じ匂いを嗅ぎつけてしまう。曰く、戦争遂行において国家は、国家の有する国力を総動員する必要に迫られる?反駁したい感情が咄嗟に沸き上がるものの、そこに述べられているのは事実に基づく推論だ。戦争の質が本質的に変質し、弾薬・燃料の消費量が増大。これは事実だ。東部方面軍の兵器消耗量・弾薬射耗はすでに開戦前の見通しを上回る。戦闘員の著しい犠牲者?ああ、確かにこれも正しい。すでに一部では補充の速度が限界だと聞いた。すでに、平時の兵員補充計画は破綻している。これらを前提として、戦争はそれまで予想されていなかった様相に至る、と?兵器・兵士は大量消費の戦闘に巻き込まれ、人的資源の莫大な消費と、国家経済そのものを破壊しかねない規模で資源を消費?この狂気の競争は、どちらかがその負担に耐えかねた時点で、勝敗が決するという予想は不可解ですらあるだろう。「最近、急激に出回っているが、どうやら戦務課が配っているらしいな。」「・・・率直に申し上げまして、随分と過激な予見であります。しかも、破滅的です。」どちらかが、完全に破綻するまで、人とモノを消費し続ける戦争形態が世界規模で繰り広げられるという予言に近い。事実であれば、帝国と共和国の戦争が拡大し、世界規模の世界大戦に至るという発想だ。そこには、人を数字として見なし、消耗品と見なす恐ろしい世界が口をあけているように思えてならない。一瞬、禍々しい死神が鎌をもってこちらを凝視しているような感覚に襲われる。背筋を冷たいものがよぎり、情けないことに全く未知の恐怖を覚えてしまう。「だが、上は真剣に検討している。憲兵隊は、すでに赤狩りの用意を始めたらしい。」『消耗戦にお互いが耐える上で、最も重要な留意点とは何か。それは、国内の騒擾分子による団結の弱体化と厭戦感情の高まりである。総力戦において、国家は持ちえる経済資源の動員を妨げようとする如何なる勢力とも妥協し得ない。』確かに、『総力戦理論』はこのように説いている。理屈としては、一貫しているようだがそもそも世界大戦という認識に基づく議論だ。憲兵隊が赤狩りを始めているということは、世界大戦が起こるという認識を持っているに等しい。受けた衝撃の大きさで頭が上手く回転しないが、お頭の良さに感謝するべきだろうか?破滅的な未来しか思いつかない。「ありえるのですか?この形態の戦争は、破滅的です。到底、どの国家も為し得るとは思えないのですが。」全ての列強が、自国の人的・経済的資源をどちらかが破綻するまで消費し尽くす。そんな形態の戦争は、考えずとも破滅的な結果に至るのが眼に見えている。常識で考えれば、お互いに利益がないばかりか損害だけが積み上がっていくのだ。おおよそ、国家戦略を主導するまともな為政者や軍人が惹き起こすとは思えない。国家の利益を追求するという観点からすれば、利益が見いだしえない破滅的な戦略なのだ。「わからん。貴様に言えることは、覚悟しておけ、という事だけだ。」だから、敢えて参謀本部付きの辞令が出る前に、見せたのだ。如実にそう物語る表情に、思わず背筋が伸びる。確かに、このような狂気の世界を議論するとあれば今一度心構えを冷静にし、現場を見ておくべきかもしれない。「はっ、失礼します。」退室し、参謀本部の静かな廊下に足音を響かせながらレルゲン中佐は全力で回転させる。総力戦・世界大戦、いずれも理論としてはいくらでも批判できそうだが、何故か現実味がある。否定しようとも、否定しがたい何かがあるのだ。だが、何故だ?何故、否定できない?何かが違和感として喉に引っ掛かっている。「・・・なんなのだ、この違和感は?」総力戦も世界大戦も、何か身近にあったはずなのだ。いや、そんなものが身近にあるはずもないのだが、なにか覚えがある。異質な感覚には覚えがあると言っていい。「どこかで、いや、何かを、忘れて?違う、なにか、引っ掛かる。」以前何かの論文で眼にした。いや、これは違う。総力戦・世界大戦なる言葉は初めて聞いた。では、類似する概念?その記憶は一切ないはずだ。一番類似したものは、確かSF小説でみた。だとすれば、なにか経験なものか?しかし、前線の経験は乏しい。中尉までは現場だが、連合王国駐在武官以来、後方勤務だ。だとすれば、連合王国で耳にした?「それこそ、ありえない。」連合王国の報告書は山ほど書いた。何れも、良く記憶しているがそのような概念があったとの記憶はない。・・・考え過ぎだろうか?いや、どこかで何かを見たはずなのだが。戦争の真っただ中だろうと、いや、戦時中だからこそ、参謀は必要になります。だから、参謀教育には湯水のごとき資金が投じられるわけです。こんにちは。こちらはデグレチャフ中尉。現在、学生生活の一環として参謀旅行中です。保養地として名高いマインネーンの温泉地で、伝統を保持し、帝国軍人としての誇りを涵養するべく参謀旅行を行っております。古代より帝国諸族が伝統的儀式を行った地域なので、軍の研修地としても有名ですが。ええ、もう毎日山を登って、ハイキングを楽しんだ後に、温泉と格式高いディナーでマナーの御勉強です。これもお国のためと思い、毎日を過ごしております。陸大選抜の学生で女性は自分一人と実にジェンダーフリーとは程遠いので実に快適です。逆説的ですが、一般の連中は安宿ですよ?ですが、私は例外。参謀旅行で使う旅館は男性用。なにしろ、修道院ですからね。なので、現地の軍関係施設を利用することになります。でも、考えてみてください。現地の軍関係施設に何故、女性用保養施設があるか、と。単純なんですけどね。皇族用なんです。皇帝陛下のご息女とかの。軍に入ることなんてほとんどありえないのですが、予算を取ったら造らなきゃいけません。これが官僚主義。うん、まあ、何も言わないでほしい。でも、明言されていないので、女性士官は使えるという実に逆差別仕様。ああ、平等じゃないことが本当に心苦しいのですが、国費を無駄遣いさせないためにも、ここを活用する次第であります。もちろん口には出しませんが、随分と心苦しいのですよ。ええ、もう罪悪感で胸が張り裂けそうなほどに。だから軍が無駄な箱モノを、と批判されないようにせめて私が活用しようと思います。だから、拷問の様な参謀旅行にも耐えようと思います。この旅行の制度設計は実に単純明快。思考が極端に鈍る極限状況下の耐久訓練。魔導師は、演算宝珠の補助式があるという理由で、重機関銃のダミーと完全装備。そう、完全装備で登山どころか、50キロ近い重機関銃をかついで登山とは。もちろん、ハイキングコースなどなく、山岳旅団の訓練エリアです。制度設計を行った人間は、絶対にサディストであると確信する次第。軽装が身上の山岳旅団が音を上げるようなコースを重装備で登坂?ああ、考えたくもない。児童虐待で告訴できないのか。使える権利は、なんでもつかってやるぞ、この野郎。まあ、疲れ果てている時でも、馬鹿な判断をしないですむようにという訓練です。疲れ果てた参謀が勢いで立案した作戦なんて、大抵ツジーン級の核地雷です。ええ、危険極まりない。だから、予防しようという意図はわからないでもない。だから、そういう事を予防しようという発想は十分に理解可能でしょう。ただ、個人的にはそもそも参謀が疲労困憊しないようにしてほしいのですが。「ヴィクトール、あそこの丘陵に敵が防御火点を構築したとする。貴様は大隊を速やかに前進させねばならない。」だが、参謀教育というものは徹底している。疲れ果てた士官らに対して、容赦なく戦闘指揮を想定しての質疑が繰りだされるのだ。「攻略法方法を提言せよ。」火点が丘陵の上に存在?こんな峻厳なところにあったら、突破も迂回もできそうにないではないか。すごすごと引き下がるか、重砲兵隊を使って遠距離から潰してもらうほかにない。あるいは、魔導師を吶喊させるか、だろう。「突破は困難です。速やかな進軍のためには迂回を提言します。」だが、ヴィクトール中尉はどうやら疲れた頭で突破が無理と判断するに留まるらしい。教本通りの迂回戦術を採用してしまう。まあ、確かに見た限り突破できそうにはないのだが。とはいえ、同じくらい迂回できるとも思えない。遮蔽物は乏しく、相手は上を占位しているのだ。速やかな前進以前に、鴨撃ちにされるのがオチだろう。「なら、自分でやって見せたまえ。」「はっ?」「この峻厳な地形で、迂回できるというならばやって見せろ!この大馬鹿ものが!地形を読めと言っているだろう!」当然、教官の怒声も強まろうというもの。ここで地形を把握せず、無謀な作戦を立てることほど忌むべきこともないらしい。だが、人の失敗という蜜の味を楽しめるほどの余裕もない。「デグレチャフ、貴様ならどうする?」畜生、あとで何か奢りたまえヴィクトール中尉。君が答えていれば、どやされるのはだれもいなかった。そういう思いで、彼を睨みつけたいところだが、まごまごしているとありがたい雷が落ちてくる。ヴィクトールは役に立たないにしても、良い避雷針であるのだ。避雷針は使えるようにするべきであって、折ってしまうべきでもない。今は、素直にこの場をしのぐことを優先しよう。「重砲の支援はあるのでありましょうか?」まず、基本の確認だ。こんな山岳地帯に歩兵大隊が歩兵砲を持ちこむことは考えにくい。だが、師団直轄砲兵でもいれば支援は期待できるだろう。或いは軍団管轄砲兵でも構わないが、ともかく援護があるかないかの確認は重要だ。どうせ、援護のない場合を考えさせたいのだろうが。まず手札を確認する姿勢を見せないと、『何故、重砲兵の支援を考慮しない!』とどやされるに決まっている。わかっているが、理不尽なことだ。「ないものとする!」「第一案、大幅に後退し、別の稜線沿いに迂回機動を取ります。」ならば、無理に犠牲を出すのを回避するに限る。幸い、稜線次第では時間もさほど全体では変わらない。なにより、無謀な攻撃を仕掛ける必要はないだろう。良い射界を確保している拠点を相手に突撃を命令するなど、無謀か蛮勇も良いところだ。そんなのが参謀になれるかと言えば、なってほしくはないとしか言えないのだが。いずれにせよ、肉弾で火力を超越できるかどうかは、弾丸より多い兵隊でもいない限り無理にきまっている。「時間的余裕がない場合。」「・・・魔導師と歩兵の散兵戦術を採用します。魔導師で火点を潰し、歩兵を援護に回します。」航空魔導師による拠点攻略は鉄板だ。ある程度の犠牲は覚悟せざるを得ないが、歩兵単独で突破するよりは遥かにまし。なにより、自分が航空魔導師なのだ。貴様が指揮すると仮定して、という質問ならば歩兵大隊に魔導師が随伴していてもなんら不合理ではない。まあ、ややずるい解答かもしれないが。「よろしい。では、歩兵のみで攻略せねばならないと仮定しよう。」当然のように教官はハードルを上げてくる。しかし、陣地を歩兵だけで『攻略』せよとは問題が変わっているのではないだろうか。大隊の進軍が目的のはずなのだが。いつの間にか、歩兵大隊で攻略するようにと命じられる始末。・・・嵌められたのだろうか?「はっ?歩兵のみで『攻略』、でありますか。」「そうだ。少し時間をやろう。野営したくなければ、答えは早めに出すように。」無茶を口になさる方だ。陣地を歩兵で攻略できるならば、そもそも陣地戦などで頭を悩ませる必要はないというのに。こんな状況で攻略戦をやれというのか。工兵も、魔導もなしで?いっそ、肉弾三勇士でもやれというのか。いや、考えるまでもないことだ。「教官殿。考えるに、攻略は、不可能であります。」一瞬、学友たちの表情が変わる。考え込んでいた彼らの多くが、不可能という言葉に衝撃を受けているかのようだ。いや、実際そうなのだろう。なにしろ、露骨に教官の心情を悪化させかねない言葉だ。自分の席次が下がるかもしれない発言。実にいやな気分になる。どうせならば、席次を争っているウーガ大尉殿あたりが指名されてくれればよかったのだが。全くついていないと頭を抱えたい。両手は重機関銃で埋まっているので絶対にできないが。某日帝のように銃剣突撃に定評があり、阻止火力が貧弱ならばまだ期待もできよう。だが、共和国軍の防御陣地へ銃剣突撃をしかけたところでハチの巣だ。夜間大隊襲撃を考慮しないでもないが、山岳地帯で大隊規模の夜襲は全滅の恐れすらある。そこまでしても、成功の公算は乏しい以上、答えは不可能ということになる。「何?どういうことか。」「参謀の職責とは、何か。其れを考えれば、小官は不可能であると具申いたします。」だから、責任を回避するための言葉をきちんと用意しておく。人間は失敗から学ぶ生き物なのだ。以前、図書室で准将殿相手に失敗した経験を繰り返すつもりはない。前回は幸いにも私的な場と見なされたがゆえに追及されずに済んだが今は、公的な場。失敗は高くつくだろうが、そもそも失敗は未然に防止策を用意してある。無理だというのを自分の敢闘精神の欠如ではなく、職責に起因させてしまうのだ。「その職務とは、実行可能な最善の方策を追求することにあります。」つまり、参謀的に考えれば、そんなことは不可能。やれないのだ、ということにしてしまう。もちろん、参謀の仕事は勝つための作戦立案である。だが、名目だけならいくらでも口実にできる義務があるのだ。「ただ、徒に兵員の犠牲を積み上げることは最も忌むべきであります。」兵隊の命より勝利を重視するに決まっているだろうと、怒鳴られたらもうどうしようもない。だが、少なくとも敢闘精神の欠如という批判を回避するための方策はばっちりだ。兵隊を慈しめというのは、士官学校で繰り返し、繰り返し、それこそ何故かさらに繰り返し指導された。思い起こしても不思議なことに、何故か一番私が強調して言明されていた気がする。部下を選べないのだから育てろ、ということを理解できていないと思われたのなら残念だ。ともかく、名目は完璧。大義は十分。堂々と胸を張って今回は言ってのけられる。「以上により、本案件に対する解答は、攻略を回避すべきであるということになります。」こちらを睨みつけてくる教官殿の眼差しは、こちらの真意を見抜こうというそれだ。嘘偽りを口にしているつもりは、全くございません。そう言わばかりににらみ返すのは、ビジネスマンなら誰でもやれる。あとは、軍人の様な眼力の強い連中に負けない胆力があればよい。要するに、慣れが5割だ。後は、内心の自由を信じる心が5割である。「結構。記録しておこう。よし、行軍を再開!」っ、やっぱり記録されるのか。やはりサラリーマン的な思考では、軍人思考には好まれないらしい。ああ、どうしたものか。上手く誤魔化したと思いたいが、記録されるということはあまりいいことでもない気がする。参謀本部第一会議室。「西方方面の情勢は悪化しつつあります。」示された地図で西方軍は、だいぶ防衛線を押し込まれている。辛うじて、共和国軍主力の侵入に抵抗はしているものの前線は限界に近い。前線の部隊はほぼ満身創痍。緊急で首都の戦力をかき集めて増派したため一時的には持ち直していたが所詮限定された数だった。緩やかではあるが、戦線全域が圧されていた。事実、一部の後方拠点と見なされている地域が既に敵魔導師の航続圏内に入っている。「ですが、大陸軍主力の集結は完了しました。」だが、次の報告でようやく安堵の息が広がる。懸念されていた鉄道による大規模輸送であるが、致命的な事態を招く前に辛うじて間に合った。当初の予定を大幅に超過したとはいえ、まだ戦線は持ちこたえている。西方軍からの悲鳴に近い援軍要請にも何とか応じることができたと言えよう。今ならば、まだ戦線は立て直せるのだ。「・・・なんとか、間に合いましたな。」予定ではもう2週間は早く現地に展開可能であった。間にあったとはいえども、本当にぎりぎりでだ。大陸軍という主力の国内機動に手間取っているようでは、戦略的な選択肢に制限がかかりすぎる。中央の予備も少なすぎて、即応という点においては大いに課題がある。「やはり、即応性が課題か。」そのためには、大陸軍がより軽快に動けるようにしなくてはならない。鉄道ダイヤの調整も重要だろう。遊兵化するのは避けたいが、中央が随時動かせる部隊も必要かもしれない。片方の戦線に戦力を集中し、勝利をもぎ取るという帝国軍の伝統的な戦略は速度が命だ。「或いは、二正面作戦を想定するしかない。」一方、近年急激に主張されているのが重点配置の見直し論だ。曰く、片方で勝利を収めている間にもう片方が破綻するリスクが近年あまりにも高すぎる、と。取り繕って誤魔化し誤魔化し運用するのも限界がある。ここは、そもそもの前提を切り替えて二正面作戦を覚悟するのも一つだ。方面軍を中心に、いくつかの指揮官は戦略の転換を要求している。各地の方面軍は防衛を主任務とし、攻勢には大陸軍を充てるという発想ではもう無理だと彼らは感じているのだ。「本気ですか?二正面作戦を回避することこそ、基本戦略であるハズです。」だが、当然のことながら戦力の分散投入は軍事戦略上忌むべきであるという原則はいつの時代も鉄則に近い。『全力で片方の敵を倒し、しかる後にもう片方の敵に当たるべし。』所謂内線戦略は金科玉条として参謀本部に根を張っている。局所優勢を確立し、絶対の勝利をもぎ取るまでの間方面軍が頑強に時間を稼ぐ。列強に囲まれた帝国の伝統と地政学上の必要性が産み出した戦略だ。そもそも二正面作戦を全力で戦い抜ける国力があればそれほど苦労はしない。「情勢が許さないとしたらどうだね?最悪に備えておくべきだと思うのだが。」だが、方面軍がある程度の規模を持つとはいえ共和国軍の前に崩壊寸前になったのも事実。大陸軍が間に合わなければ、西方工業地帯が失陥するところだったという事実は大きい。内線戦略は片方が耐えきれるという前提が無ければいけないのだ。故に、当面は防衛戦力の増強こそが急務だとする方面軍らの主張もあながち間違いではない。「・・・現状での大規模な軍管区再編は、困難。なにか、妙案が?」しかし、平時ですら軍管区の再編は大仕事だ。敵と戦争をやっているさなかに司令部の再編などというのは無理難題にも限度がある。サッカーの試合中にフォワードとディフェンダーを総入れ替えするようなものだ。大混乱で済めば良い方だろう。「即応軍の創設を提言したい。戦域機動の改善によって、必要な時に、必要なところへ展開できる部隊が必要なのだ。」そこに提案されるのは、かねてから主張されている即応軍の創設だ。戦域機動によってある程度の即応性を担保した軍規模の集団が欲しいという声は常々出ていた。特に、ゼートゥーア参謀本部戦務参謀次長を中心とした戦務参謀らは近頃強硬に主張している。実際の運用を担う作戦も戦務の意見に同意を示し、即応性の向上が必要だとの認識を露わにしてきた。「そのための大陸軍では?」「でかすぎて、展開が遅い。だからこうして西方軍が苦労しているのではないか。」従来では、大陸軍がその任を補うと考えられていた。だが、すでにでかすぎてその任に堪えないと見なされている。西方軍が英雄的な奮戦を行わなければ、今頃西方工業地帯は失陥し講和会議の条文作成をしていたかもしれない。「まったくだ。軍功をばら撒き過ぎて、すでに西方軍分の叙勲分が埋まるなど尋常ではない。」「加えて陸大の軍功推薦枠、割り当てられる中央のポスト減少。この不満は大きい。」実際、西方軍が今期の枠を全て使い果たすという異常な事態になっていた。予算の関係から恩給や褒賞枠には限界があり、他の方面軍が割を喰らっている。一部の将官人事はすでにいびつな形になりつつある。同期どころか、下の期に抜かれる士官が続出しているのだ。各方面軍が輩出している陸大の推薦枠等では東部軍が泣く泣く一部を西方軍に割いている。「その影響を過小評価していただきたくないものだ。」「さよう。特に、割を喰っている東部軍の不満は凄まじい。」軍の人事上あまり望ましい事態ではない。なにしろ、西方・北方の両軍がひたすら戦功を稼いでいる時に放置されているのだ。東部全域を防衛とする重点配置方面で良い思いをしてきた連中が、突然の待遇悪化に不満を覚えても仕方ない。「東部方面軍は協商連合とも共和国とも無縁だ。東方の抑えとして存在しているとはいえ無駄飯ぐらいの評判は良いものではない。」「実戦経験の不足も問題だ。ある程度バランスを取る必要がある。」彼らの心情も問題だが、なにより問題なのは実戦経験が偏るという事。西方軍の将兵だけを戦争に使うわけではないのだ。何れは、東部軍の兵士も戦場に立つことも想定しなければならない。まさか、戦闘が始まるまで傍観させておくというのも無為な話である。かといって、激戦中の西方よりベテランを大量に引き抜き東部軍の教育に充てることも論外。「つまり、東部軍を中心に、ある程度柔軟な部隊を形成したい、と?」そうなると、一番現実的な案は即応部隊として東部軍から部隊を抽出することだ。最激戦区に投入されることになるだろうが、少なくとも軍功は稼げるし経験も積める。東部軍が軍全体に貢献しているという形にもなり、反目も多少はましになるだろう。「なるほど、意見としては悪くない。」それゆえ、参謀本部内部でもある程度の部隊を抽出する事には合意できる。戦争体験というわけではないが、実戦の雰囲気から部隊を遠ざけるよりは有益だろう。西方軍の負担も軽減できる上に、えてして予算を争う両者の融和にもつながる。「そこでだ、戦略機動の実験を兼ねて、師団規模で試してみたい。」だが、各論には賛成でも規模となるとやはり合意は容易でない。ゼートゥーア准将らのグループは戦域機動実験に対して強い関心を持ってはいるものの、モノは有限だ。鉄道部と合同で、師団規模の実験を要請していたがさすがに戦時中には贅沢に過ぎた。即応軍構想と合わせて息を吹き返した案ではあるものの、反対も根強い。「反対だ。東部にある戦略予備は2個師団だけなのだぞ?」「規模が大きすぎる。東方の守りまで薄くなどできない話だ。」大陸軍の編成時に、西方の守りが薄くなったという教訓がある。西方軍の苦戦も原因の一端は戦力抽出と見なされている。其れを考えれば、主戦場から遠いとはいえ東部軍より部隊を抽出しすぎるのは危険だった。なにしろ、戦略予備として東部軍が固定要員の他に持っているのは一個軍のみ。最低水準の戦略予備からさらに部隊を抽出する事には異論がでる。「東部方面と北方方面から抽出すればどうか。」「それは、北方が片付いてからの話だ。」北方で協商連合を処理し終えればいくばくか余裕も出るだろう。だが、現実問題として大陸軍主力が敵主力を粉砕したとはいえ制圧には時間がかかる。ここで北方軍から部隊を抽出するのは本末転倒だ。なにより、部隊を引き抜かれた北方軍司令部は激怒することだろう。「では、一つ実験的な要素を試したい。魔導師の大隊を実験的に中央の即応司令部管轄下に置くのはどうか。」そこで、一つの提案を次善の策ではあるが現実的には本命として戦務は持ち込む。ゼートゥーア准将が中心となった構想で、『即応魔導大隊構想』がすでに参謀本部には提出されている。「例の『即応魔導大隊構想』か。私としては賛成だが。」事前に根回しをしてある作戦は支持を表明する。現実に、作戦は魔導部隊によって局地的な優勢を確保することに心を砕いているところだ。前線で柔軟に運用できる魔導大隊は歓迎するところだろう。「魔導大隊をわざわざ引き抜くと?」「東部方面軍からならば、余力はある。何より、魔導大隊ならば、航空輸送も可能だ。展開力は高い。」一部からは、東部軍の戦力低下を懸念する声が上がるものの、展開力の高さという要素で反論される。魔導大隊は、36名編成。陸軍で言えば中隊より輸送が容易なのだ。36人の兵士が45日の規定分物資を必要とするとしても、兵站への負担は極めて限定的。必要とあれば、一日で大隊は西から東への展開を完了する事が可能とされる。「・・・では、実験的に魔導大隊の設置を認めよう。参謀本部直轄部隊、という扱いでだ。」元々、さほど反対意見が出るような要素の乏しい提案だ。「即応軍司令部の設置は見送るが、魔導大隊の結果次第だ。」さすがにこれ幸いと設立を希望した即応軍司令部は認められないものの、実験的な要素が許されている。即応魔導大隊の設置は、おそらく将来的には即応軍司令部の形成にも至るに違いない。「では、次の案件に移ろう。」どうやら、約束は守れそうだ。そう安堵し、ゼートゥーア准将は密かに肩を下ろす。そして、気分を切り替えると次の案件へと集中し始めた。あとがき本作は常識人が大好きです。もちろん、戦闘妖精も嫌いじゃありませんが。取りあえず、大隊長ルート確定帝国軍⇒総力戦フラグ構築中追伸ZAPしてます。ZAP2017/1/29 句読点微修正