ダングルフの涸れ谷。
グスタベルグの荒野の北西、ダングルフ火山の麓の渓谷であることはメルの言ったとおりであるが、地域柄そこは大陸でも有数の温泉地帯であり、アリの巣のように入り組んだ迷路のような谷間には所々で温泉や間欠泉が湧いている。
荒野に比べ水場は多いもののどれも硫黄を多く含んでおり、生態系はまさに涸れている。この辺で暮らしていると言えばトカゲか、巨大なヒル、そしてワーム。ウサギの巣もたまに。陸ガニも見かけるがこの辺は外から迷い込んできたのではないだろうか。
年中通して硫黄の匂いと蒸気が満たしている渓谷はお世辞にも見通しがいいとは言えず、いや、そんなことより重要なのは……。
「クソあちぃ……」
「本当に、何でこんなに蒸すのよ……」
「ボクは匂いのほうが気になるよ、服がくさくなりそうだ」
こんな湿度の高いところに厚手の服で来たら死ねる、ってことだ。
臭いはひどいわ服は湿気と汗でえらいこっちゃになるわで早くも俺たちのモチベーションはだだ下がりである。これがもう少し涼しい土地ならともかくグスタベルグ地方は割と南方だ。陽射しもあいまって、メルなんか蒸し団子になってしまわないか心配だ。
っていうか南方の出のミスラが暑がるのはいかがなものか。
「あたしはサンドリアで暮らしてたのよ、こんな暑さ、ずっと無縁だったわ」
「そうなのか? そりゃ珍しいな」
「母様はカザムの出身だけどね……もう、あまり話しかけないで。ただでさえ蒸し暑くて集中しにくいのに、獣の気配が分からなくなるわ」
「悪いな。大人しくしてるよ」
グスタベルグでジジと出会った俺たちは、一度バストゥークに引き返してそれから改めてダングルフの涸れ谷に出発した。涸れ谷自体はそう離れているわけではないが、中を抜けて臥竜の滝の滝壺に向かおうとすればそれなりに時間がかかる。野営をする準備くらいは必要というわけだ。
俺自身も色々揃えてもらった。肩紐タイプのかばんは見た目より多くのものが入るが、流石にベッドは入らない。冒険者御用達の品で、中にはたたんだ毛布や火打石、食料に水袋などが入っている。
そして武器と防具なのだが……これはトカゲ狩りをしていたときの格好のままだ。
自分で言い出したことだ。メルはバスに戻った時点で装備を整えようとしてくれたのだが、出来ればもう少し体の調子を確認したいからといって断ったのだ。嘘ではない。まだ俺の体がどれほどのポテンシャルを持っているのか、俺自身がいまひとつ把握し切れていない。ただもうひとつの理由は、いい加減メルに世話になりっぱなしなのも気が咎めるからだ。メルだってそう潤沢な資産を持つわけではないだろう。
なんて正直に言うとメルには逆効果な気がするので黙っている。そのうちトカゲやミミズでこっそり稼いで自分で買おうと密かに決めていた。
さて涸れ谷に入ってどれほど時間がたったか、今のところはモンスターに遭遇することもなく順調に奥に進んでいる。
ジジが狩人だったおかげだ。メルをナビゲーターに先頭を進むジジは、持ち前の鋭敏な感覚を活かしてレーダー役を担っている。ポイントポイントでジジの警告があるものだから、曲がり角でモンスターと運命的な出会いを果たすこともない。
最もこの辺にはそれほど危険な生き物は潜んでいないはずだが。厄介なのはトカゲくらいだが、あれもこちらから手を出さない限りは大人しいものだ。優秀なレンジャーのおかげでうっかり進路を遮ったりと妙な刺激を与えてしまうようなこともなく済んでいる。
けどこれはエリアを問わずどこもそうだったのだが、ゲームじゃ忙しなくマップ中うろついていたゴブリンの姿が見られない。というより獣人自体を最初に襲われたクゥダフ以来見かけていない。
気になってメルに聞いてみたのだが、どうも街道付近やらで獣人を見かけることはそんなにそんなにないらしい。水晶大戦からこちら、向こうもアルタナの民を警戒しているし、こちらから獣人拠点に近寄らない限り人の目に付くところに出没するのはごく稀だ。ただ最近はまた獣人たちが勢力を盛り返してきていて、狙って旅人や商隊を襲うことがあるとも言うが。
ただし注意しなければいけないのがゴブリンだ。
ゴブリンもやはり獣人なのだが、他の獣人たちと違い固有の勢力を持たず、人間獣人を問わず広く商いをする商魂たくましい一族だ。
だがそれがゆえに『街道でゴブリンと出会ってしまい剣でもって撃退したら実はそいつは商人で、あとでゴブリン自身と取引先の人間にまで文句を言われた』なんてトラブルも時たま起こるらしい。
逆にそうやって言葉巧みに冒険者をだまし、罠にかけて身包みをはいでいく盗賊ゴブリンもいるものだから性質が悪い。遭遇即敵対がほとんどのパターンのほかの獣人ではありえない話だ。
獣人たちの中では、荒野で出会ったら最も気をつけない相手なのである。いろんな意味で。
「待って」
と、先頭を歩いていたジジが手で俺たちを制する。何か見つけたらしい。
ジジは荷物をその場に下ろすと、弓を片手に腰を下ろして這うように地面の様子を観察しはじめた。目を凝らし、指で触れ、鼻を利かせる様はまさしくレンジャーのそれだ。けどぴくぴく動いてる尻尾が超気になる。つかんだら張り倒されるだろうなあ。
「戦いの跡がある」
姿勢を低くしたまま、呟くようにジジが言った。
言われて地面を見てみると確かに血のようなしみが見える。
「いつごろの?」
「そんなに古いものじゃないわ。多分……半日も経ってない」
邪魔をしないように静かに問いかけるメルに、ジジはいっそう地面に顔を近づけて足跡を"読む"。
「足跡がいくつも……1つは人間だ、ヒューム。あたしたちと同じほうから来て……立ち止まった。相手は何かしら、足跡は3つ、ううん4つ。待ち伏せされたようね」
「それから?」
「戦った……でも引き返した跡も進んだ跡もない。倒れてもいないから、きっと手傷を負わされて魔法で逃げたんだと思うわ」
つぶさに語られる不穏な出来事に、思わず手が剣の柄に伸びる。鞘がないのでむき出しでベルトに括り付けてあるが、今はかえって取り外しやすいのがありがたく感じる。
いつ何がきてもいいように絶えず前後に気を配る。心の中では出来れば来るなと思いながら。
ん?
今何か、朽木に刺さっていたような。
「2人とも」
そっと声をかけてそちらを指差す。岩壁から突き出すようにして生えた朽木に刺さっていたのは、一本の矢だった。ジジがそれを引き抜いて検分する。
矢羽は縮れいかにも粗末に見えるが、鏃は意外にもきれいなものだ。ただシャフトの部分が極端に短い。おそらく弓ではなくクロスボウで使うボルトではないだろうか。
矢をためつすがめつ見ていたジジの言葉がその考えを裏付ける。
「アルタナの民のじゃないわね……やっぱりゴブリンだわ」
ついさっき連中について考えていた矢先にこれだ。それもジジの読みを信じる限り一番たちの悪いゴブリンの盗賊団の線が濃厚な始末。
出会ってしまえば戦闘は避けられないだろう。少なくともこの辺りにはもう気配がしないそうなのが幸いだが……。
「撃退は考えないほうがよさそうだね。向こうの方が多いし、戦士が1人じゃ支えきれないだろう」
メルの言葉に同意する。
遭遇してもどうにかやり過ごすなり逃げるなりを模索するべきだろう。今の構成じゃ危険が目に見えているというか、俺もゴブリン相手にどこまでやれるかまだなんともいえない。
関係ないが、個人的にフィックとかリーダヴォクスとか、あの辺の話を知ってるとどうもゴブリンって相手にしにくいんだよなあ。あと別の意味でプロフブリクス。あいつは無意味に哀れすぎる。
まあ背景を知ってしまうと戦いにくい相手というのは何もゴブリンに限った話ではないのだが。サハギンとか特にそうだ。
『修道士ジョゼの巡歴』は冒険者なら一読の価値アリ……なのだが、こっちのトリビューンでは連載していなかった。まあ、水晶大戦のことを考えると仕方がないのかもしれない。ヴァナ・ディールに暮らす人々があれを忌憚なく読めるようになるにはもう少し時間が必要だろう。
なんにしろこのまま立ち止まっているわけにも行かず、俺たちは警戒を強めながら歩を進めていく。
ゴブリンとの遭遇の可能性に緊張しながら歩いているうち、いつの間にか暑さを忘れていることに気づいた。いや、そうじゃない。徐々に日が翳り始めているのだ。不快指数こそ下がらないまでも、照りつける日光の分だけ真昼間よりもいくらか涼しくなってきていた。
ゆっくりと日が傾き始めた頃、俺たちはこの日の目的地に到着した。
それはまるで岩壁の中をそのままくりぬき、削りだしていったかのような明らかに人の手で創られた古い建物だ。10年ほど前に発見され、古グスタベルグ文明の遺産として同文明の存在の証明にもなったものだ。
もともと1日で涸れ谷を抜けるのは難しいと踏んでいたため、地図を頼りにここを目指していたというわけである。
建物とはいっても実際はただ反対側に通じているトンネルなのだが、比較的高所に作られたそこは涸れ谷の蒸気も届かず、岩の中なので気温は低い。水気を気にすることもなく、前も後ろも見通しがいいので警戒もしやすいなどなど、一泊の宿には丁度いい塩梅である。
早速俺たちは、日が落ちきる前にと野営の準備を始める。
まるでキャンプに来たみたいだ。
薪を集めながら、俺は年甲斐もなく出会ったばかりの2人と過ごす夜に胸を高鳴らせていた。
ぱちぱちと焚き火のはぜる音を聞きながら、揺れる炎に体を温める。
昼間はあんなに蒸し暑いと思っていても夜になるとだいぶ気温が落ちてくるものだ。俺はほう、と息を吐いてカップに温まったお茶を啜った。
「ふうん、確かになかなか美味しいわね」
「だろ。バストゥークじゃ多分一番だろうぜ」
夕飯は蒸気の羊亭で買い込んだソーセージだ。女将さんに頼み込んで焼く前のものをパンと一緒に包んでもらったのだ。日数がかかるわけではないので、まずそうな保存食よりその場で調理して食べられるものを選ぶことにした。焚き火で焙って、一緒につけてもらった調味料をまぶしてパンと一緒に食う。絶品だ。
もぐもぐと口いっぱいにほお張っているジジはいかにも幸せそうで、ついついそれを眺めてしまう。考えてみると出会って以来初めて見る仏頂面以外の表情だ。それを引き出したのがこのソーセージなのは、彼女が割と単純なのか、蒸気の羊亭のヒルダさんが偉大なのか。
「なによ、またじろじろ見て」
と思っていたら、俺の視線に気づいてまたいつもの無愛想な顔に戻ってしまった。
「怒るなって。美味そうに食うんだなと思っただけだよ」
「ふん。不味そうに食べたら作った人にも、頂いている命にも失礼だもの。あんたには分からないかもしれないけどね」
「そんなことないぞ? 俺の国には食前に料理人と食事に感謝の意を表す言葉があるしな」
ミスラの生活観や考え方に深く根付くアニミズムやシャーマニズムは、日本人の思想にある神道系の考え方とは通ずるものがある。土地を大切にする習慣や、精霊信仰は決して日本人と相容れないものではないだろう。
『いただきます』と『ごちそうさま』はヴァナ・ディールになかった言葉だ。ジジにそれを教えてやると、「ヒュームにも命へ感謝することを知っている人がいるのね」としきりに感心していた。
「リックの国か。ボクももっと聞いてみたいな」
なにやらもごもごとした声に隣を見ると、メルが。
メルが頑張って、ソーセージパンにかぶりついていた。
「……ぶふっ」
「んぐ、んむ……何で笑ったの、今」
ヒュームだけじゃなくてガルカもよく利用する蒸気の羊亭の料理は、メルの小さな口には大きすぎる。なのに目いっぱいに口をあけてかぶりついている姿は、あんまりに必死で可愛らしい。
しかもすぐ口の中が一杯になってしまって、頬まで膨らませている姿はほとんど小動物だ。男の彼にそんなことを言ったらぶっとばされそうだが。ヘキサストライクで。
「な、なんでもない。ホントに」
「リック……」
いかん、このままだとメルが敵に回る。
ここはさっさと話をそらさせてもらうとしよう。
「いやあ、にしてもさっきのジジはすごかったな」
「今度はなによ。お世辞言っても何も出ないわよ」
「お世辞じゃないって。あんなほんのちょっとの痕跡からいろんなことを読み取れるんだ、尊敬するって」
これは本当に素直な感想だ。あの場に残っていた争いの跡、とジジは言うけれど、俺なんて言われてみてもどれが何の跡だかさっぱり分からなかった。
それをああもすらすらと当時の状況を推測してみせたのには全く舌を巻いた。
だがそのおかげで俺たちは危険を知ることが出来るし、警戒できる。彼女ら狩人や、あるいはシーフのような存在は危険な地での冒険には欠かせないだろう。
手放しに褒めると、ジジはとたんに仏頂面になってしまったが、やっぱりこれは照れているのだろう。あんまり褒められることに慣れていないのかもしれない。
「あれくらい狩人なら誰だって出来るわ……」
そんなことはないと思うのだが……アレが初歩レベルなら狩人の道というのはなかなかに厳しそうだ。そういえば俺のキャラは狩人の習得はしていたはずなのだが、弓の記憶はあってもジジのようにトレーサーの真似事が出来るような知識や記憶はない。これも謎だ。
ウィンダスに行けば習得できるだろうか。覚えていて損はなさそうだが。
「そういえばジジはサンドリア出身って言ってたな。サンドリア出身のミスラって珍しいんじゃないか?」
「ああ、それはちょっと思ったね。ボクも前にサンドリアにいたことがあるけど、やっぱりあそこはエルヴァーンの国だから」
「昔からよく言われてたわ。あの国じゃミスラはよそ者だもの、街にいるよりも母様と森で狩りをしている時間のほうが長かったわ」
「狩りはお袋さんに?」
「ええ、母様は凄腕の狩人よ。さっきの足跡だったらきっとヒュームが男か女かも分かるし、その人の体格まで言い当ててたでしょうね」
なるほど、確かにあの森なら狩りの練習にはもってこいか。
胸を張って話す姿は本当に誇らしげで、ジジがいかに母親を尊敬しているのかがありありとうかがい知れた。
なんでもジジの母親はクリスタル戦争当時、王蛇傭兵団の部隊長として幾つもの戦線を潜り抜けたバリバリの元軍人だったとか。
「って王蛇傭兵団っつったらペリィ・ヴァシャイ族長の元部下ってことじゃねえか!」
「あたしはよく知らないけれど、母様はいつもその人の部下だったことを誇りに思っていたわ」
「そりゃそうだろうな」
王蛇傭兵団といえばクリスタル戦争の折、闇の王の宣戦布告に対して対応の遅れていたウィンダスの窮状を憂いて義憤から立ち上がったミスラたちの傭兵部隊のひとつだ……というよりも元来の臆病な性格が災いして手をこまねいていたタルタルたちに痺れを切らしたといったほうが正しいか。もともとウィンダスはタルタルの国であったが、当時既に多くのミスラが入植しており、既に他人事ではなくなっていたのだろう。まあこの入植に関しても色々面白い逸話があるのだがそれは置いておくとして。
参戦していた数ある傭兵団が統廃合され4つの軍団からなるミスラ傭兵団(傭兵と言っても実質的にはウィンダスの主戦力に近い常備軍だ)として再編された今現在においても、王蛇傭兵団はその軍団の1つとして名を残している。方や団長を務めていたペリィ・ヴァシャイは、大戦の最中さる事情によって視力を失い一線こそ退いたものの、大戦を経て名実共にウィンダスの一員として認められたミスラたちの族長として彼女らの指導者の座を務めているとなればその勇名は推して知るべしである。
そんなペリィ団長の下で部隊をまかされていたとなれば、さぞ腕の立つ勇士だったことだろう。
ところが大戦終結後、なにを思ったかジジの母親は、ウィンダスの支援に派遣されていたサンドリアの王立騎士団が帰国する際それにくっついて大陸を渡ってきてしまったのだという。
どんな動機があったかは知らないが、なんともバイタリティに溢れている御仁だ。
「じゃあやっぱり冒険者になったのもお母さんの影響なのかい?」
「どうかしら……自分ではあんまり似てないと思っているけれど。あたしは逆にウィンダスにいきたいと思ってるのよ」
メルの問いに首をひねりながら答えるジジには、どうやら冒険者としての明確なビジョンがあるようだ。
「母様の話してたペリィ族長に挨拶するの。そしたらまたお金をためて、今度はカザムに行く」
確かペリィ族長はカザムの出だったか。ジジの母親ももともとはカザムに住んでいたようなことをチラッと聞いた覚えもある。
しかしジジの見据える先はもっともっと南だった。
「そしていつか、南のオルジリア大陸へ渡るわ」
「なるほどなぁ、ガ・ナボ大王国か……」
オルジリア大陸は、ついぞ実装されなかった南方の大陸で、そこにはミスラの本国があるとかなんとか。正式名称が発表される前はミスラン大国とか適当な呼ばれ方をされていたガ・ナボ大王国である。
つまり彼女の冒険は、自分の……いや、
「ミスラのルーツを巡る旅か……なかなかカッコいいじゃねえか」
「別に、そんなにたいしたことじゃない。それよりあんた、ずいぶんと物知りなのね。おかげで、その……助かったけれど」
帽子で顔半分隠しながら、ジジはぼそぼそとつぶやいた。
「実を言うと、本当に参ってたのよ。セルビナで有り金が尽きちゃって、けどそうしたらセルビナの町長がグィンハム・アイアンハートの石碑を写し取ってきたら報酬をくれるって言ってくれて」
言いながらポーチから取り出したのは乾かないように油紙に包まれた粘土だ。
なるほど、まあ明らかにアイアンハート翁に興味なさそうな冒険者が石碑を巡るとなればやはりセルビナのクエスト『ある冒険者の足跡』か。
ゲームでもやはりセルビナの町長が依頼するこのクエストは、コンプリートすれば割といい金額のギルに加えてあるダンジョンの地図がもらえるのだが、1回写してはセルビナに戻らなければならないことや今回の北グスタベルグのように一部到達が難しいポイントがあること、それに2つの大陸全土にわたり全17箇所に及ぶ石碑を巡る煩わしさが加わり低レベルでのクリアはなかなか面倒なつくりになっている。
ただアイアンハート親娘のエピソードを知った上で挑戦するとまた違った趣があり、俺自身もそうだったが高レベルになってからコンプリートしにいった冒険者も少なくないのではないだろうか。
町長からの依頼を受けてバルクルム、コンシュタット、グスタベルグと南下してきたのはいいものの、北グスタベルグの石碑を発見することが出来ず、俺たちと出会ったときは既に3日以上荒野をさ迷った後だったらしい。
「誰かに聞かなかったのかよ」
「何人かには聞いたけれど、今思うと若い冒険者ばかりだった。あんたみたいに学のあるやつはいなかったわ。おかげで身動きが取れなかったもの」
依頼を投げ出すような冒険者にはなりたくないしね、とちょっとばかり俺には耳の痛いことを言ってジジは笑う。
「だからさ、感謝してるの。リックも、メルも」
ありがとうね。
焚き火のはぜる音に隠れるようにして言ったジジの声は、吹き抜ける風に乗って確かに俺たちの耳に届いていた。
涸れ谷の夜は暗い。
人が住まわず、文明の灯火のない街の外はどこもそうだが、ここは特にほとんど人も通らない局地だ。トンネルの入り口に立って外を眺めても、月明かりにぼんやりと渓谷の影が浮かぶばかり。
夜の暗さを知ったのは、始めてこの世界に来たその晩だ。真っ暗で、目がなれてやっと手元が見えるほどの闇の中に一人投げ出されたその孤独を、まだ覚えている。俺の知っている夜とは何もかも違った。眠らない街の明かりがたとえ部屋の中にいても感じられた夜とは何もかも。ただ星と月だけが照らす闇の中で、俺はまるで世界が死んでしまったような錯覚を抱いた。
けど、気づいた。
荒野の夜は暗く静かで。しかし決して死んでなどいない。
吹きぬける風の音、遠くで水の動く音、寝静まった動物たちの吐息、夜を舞うものたちの羽ばたき……そして自分の鼓動。
たとえそこに文明の灯りがなかろうと世界は生きている。決して沈黙はしない。
気づいたら、少し孤独感が薄れた。
んにゃ、これは逆だな。孤独を感じていないから、それに気づく余裕が出来ただけだ。俺は俺が思っていたよりさびしがりのようだから。
俺に見張りを任せてトンネルの中で寝ている2人の仲間の存在が、酷く暖かい。世界だどうのとか言ってみても結局誰かと一緒にいないと寂しいのは事実なのだ。
ジジに仲間だなんて言ったら怒られそうな気もするけれど。
だが冒険者の出会いは一期一会だ。その時々の巡りあいに感謝しながら、共に囲んだ炎の揺らめきを仲間たちとの思い出にする……なんて言うには駆け出しすぎでかっこつけすぎだな。封印しておこう。
「低レベルで一緒にクエストこなしてフレ登録……なんか懐かしいな、こういうの」
「ふれとうろく、ってなんだい?」
突然聞こえた声に、俺は肩を跳ね上げさせて振り向いた。
「メ、メルか。起こしちまったか?」
「ううん、そろそろ交代かなと思ったら君が外にいるのが見えたからね。どうしたんだい?」
キャンプを張っているのはトンネルに入ってすぐのところで、俺はそこから一歩外に出て明かりのない夜景を眺めていた。
まあ、やんごとなき事情で外に出て戻ってくるところだったというのが正しい。
「なんでもない。お月様に挨拶してただけだ」
「詩人だねえ。でも体を冷やさない程度にね」
なんていいながらもメルは俺の隣に並んで同じように空を見上げている。
何を言うでもなく。
何をするでもなく。
2人でぼうっと月を眺めた。紫の月を。
やにわに吹いた風がメルの被っているフードを揺らし、それが契機だったように小さな彼はぽつりと口を開いた。
「リックはさ」
「ん?」
「何でも知ってるよね」
「いきなりなんだよ……別にちょっと勉強すれば分かることだろ?」
まあその熱意を勉強に向けろとか仕事に向けろとかは散々言われてきたことだが。
「そうかな? そうかもしれないね……けど不思議だ、じゃあリックはどこでそれを勉強したの?」
「え……あ、そりゃあ……」
「君はどうしてグスタベルグにいたのかも、帰る道さえも分からない。なのにバストゥークのことも、ウィンダスのことにも詳しい。はじめて入ったはずのお店のお勧めメニューまで知ってるくらいに」
しまった。
それはあの蒸気の羊亭でメニューも見ずにソーセージを頼んだことではなく。
自分のこの世界での立場も忘れて、何を得意げにぺらぺらと知識をひけらかしていたのか。行きも帰りも分からない男が身の丈に合わない知識を持っていたら、不審に思って当然だ。
何を言えばいい、なんて答えればいい?
メルの目を見ることが出来ない。疑惑を孕んだ視線で見られることが怖い。
「…………ぁ」
口を開いても意味のない喘ぎがこぼれるばかり。
腹の底に重いものがたまっていく。
罪悪感か、あるいは。
「…………ふふ」
だがメルはその沈黙をどう受け取ったのか、不意にくすくすと笑い出した。
「物知りなリック。けど君は嘘で誤魔化すってことを知らないらしい。これは1つ発見かな」
「あ、いや、その……」
「いいんだよ、今のはボクが悪かった。君から話してくれるまで聞かないって決めてたのにね」
「その……悪い。けどメルを騙したりするつもりはないんだ、本当に」
「分かってる。ボクはそんなこと疑ったりしてないよ。ただ君はひょっとして、」
さぁっと涼やかな風が吹き抜けて。
言葉尻は夜闇の中に紛れ込んでしまった。
風でまくれそうになったフードをおさえるように顔を俯かせながら、メルは俺と夜空に背を向けた。
「さ、戻ろう。明日も歩くし、もう寝たほうがいい」
「ん、ああ……」
彼が何を言おうとしていたのかを聞くでもなく、俺は小さな背中について焚き火の傍に戻った。能天気に寝息を立てているジジの姿に、少しだけ心が軽くなる。
メルの顔は、終始見えずじまいだった。
このとき彼が言いかけた言葉の続きを聞くのは、これからだいぶ経ってからのことだった。