────ここはどこ? トリステイン、ゲルマニア、ガリア、アルビオン、ロマリア……それとも東方?
夜の街を駆け抜けながら、前後に左右に忙しなく視線を向ける。
白い石造りの街並み、隙なく舗装された街路、遠くに見える巨大な煙突……どれもまったく見たことのない景色だ。果たしてここはどこだ?
タバサはいたく混乱していた。
召喚のゲートに飲み込まれそうになったルイズ・フランソワーズを手助けしようとし、自分も飲み込まれた。そこまでは理解できている。
最初はどこかの大都市にでも転移したのかと思い、起伏のない胸をなでおろした。周囲にキュルケらは見当たらなかったが、ここが人の住む土地ならば探す手段も帰る手段もどうにでもなる。人里離れた秘境でないだけましというものだし、いざとなれば契約のラインを通じて自分の竜を呼べばいい。
そう、思っていたのに。
自分を呼び止めたあの女は。
麦穂のようにすらりと伸びた上背に、褐色の肌。そしてあの忌まわしい葉のような耳!
(エルフ…………ッ)
よりによって自分はエルフの領土に転移させられてしまったのだろうか。
エルフはハルケギニアの住人たちの天敵であり、恐怖の対象でもある。貴族をも凌駕する先住魔法をもって精霊の力を自在に行使する彼らは、始祖ブリミルの聖地を人間から奪った滅ぼすべき異端者だ。
そしてタバサにとっては、母を奪った憎き相手である。
エルフたちはハルケギニアの東方、サハラの砂漠地帯に住んでいるはずだ。ならここはサハラ……いや、とてもそうは思えない。
奇妙なこともいくつかある。
あのエルフの女は何故かしきりに自分を説得しようとしていたし、自分たちを取り囲み、取り押さえようとしていたのはどう見ても同じ人間だった。
分からない。エルフと人間は相容れない存在のはずだ。それがこうして同じ町で暮らしているなんて話は聞いたことがなかった。
────ここは、一体どこ?
どれだけ走ったか分からないが、そろそろ息が上がってきた。戦闘能力には自身があるが、体力は人並みもあるかどうかという程度なのだ。魔法に頼ってきたメイジの弱点でもある。
肩で息を整えながら、油断なくあたりに視線をめぐらせる。
追っ手の気配はしないが、あの時後ろから近づいてきていた女は気配を絶つ術を知っていた。気を抜くことはできない。
どこをどう走ったか覚えていないが、気づくと周囲は住宅地から離れた、薄暗い倉庫街のような場所になっていた。大きく息を吸い込むと風に乗って潮の香りが漂ってくる。港が近いのだろうか。
空には夜の帳が下りている。暗い群青の夜天には星が瞬き、月が一際明るく輝いている。
「…………え?」
今何かとてつもなく重大なものを見過ごしたような気がして、タバサが再び空に視線を巡らせようとしたが、ごとりと響いた低い音が肩を跳ね上げさせた。
重たいものを運ぶような音がすぐ傍の倉庫から聞こえ、扉が開き中から明かりが漏れ出そうとしている。
誰かが何かを運搬しようとしているのか、しかしもう既に陽も落ち込んだこんな時間に荷物を運ぼうというのは、如何わしい想像を働かせるに十分な要素だった。
倉庫の中から密やかな男たちの声が聞こえてくる。
隠れなければ、咄嗟にそう思ったタバサの身体はしかし、自らの意思とはまったく無関係に動いていた。
「ッ!?」
何者かに口をふさがれ、そのまま物陰に引きずり込まれてしまう。口を覆う手はすっぽりとタバサの頭を包んでしまいそうなほど大きく、腕はタバサの腰周りよりも太いだろう。
自分を捕らえたものの姿を見ようと身体をよじったタバサは愕然とした。
そこにいたのは、オーク鬼を思わせるかのような巨漢だったのだ。
人間じゃない。すぐに直感した。
力自慢の傭兵なんて目じゃないほどに盛り上がった岩のような筋肉に、いかつい熊のような顔立ち。形は人に見えなくもないが、大きく傷の走った鼻筋が明らかに人間のそれとは違う。動物のような鼻をしている。
しかし獣だとは思わなかった。
大男の目には、オーク鬼にはない知性の光が宿っていたからだ。
暴れても無駄だと悟り、タバサは抵抗をやめた。手に食らいついたとしても、この分厚そうな皮膚を噛み切れる自信はない。
すると男は「声を立てるな」と低く囁いた。異国の言葉のようだったが、何故か理解することが出来た。
「おい、今誰かいなかったか?」
「まさか、見られたか?」
倉庫から出てきた男たちの声がする。やはり真っ当な品を運んでいるわけではないらしい。
タバサを抑えていた大男も息を潜めるようにしてその様子を伺っており、どうやら彼らの仲間ではないらしいと見て取れた。
こちらの気配を感じたのか、男のうちの1人が近づいてくる。
見つかるか?
これ以上状況がややこしくなるのはごめん被りたいが、体を拘束されていては逃げることも出来ない。
いや、もしもこの両者が友好関係にないのであれば、発見された隙をついて逃げられるかもしれない。そっと両足に力を溜め、息を殺して気配をうかがう。チャンスは一瞬、あるかないかだ。
いよいよ男がタバサたちが身を隠す物陰に近づいてくる。
不意に。
「ここにいろ」
そう言い残して後ろにいた大きな気配が動いた。大男はそのままのっそのっそと熊が歩くように重く物陰を歩み出る。その後姿には尻尾が生えていた。
大男が姿を現した途端、荷物を運んでいた男は一瞬うろたえた様子を見せ、しかし相手の顔を見止めると憮然とした表情を見せ始めた。
「あんた、鉱石通りの」
「忙しそうだな、ザムエルといったか」
「よく覚えてやがる。忙しそうだ思うなら手を煩わせないでくれないか。こっちは商売なんだ、邪魔しないでくれよ」
「たまたま通りかかっただけだ。安心しろ、俺は何も見ていない」
「ならいいけどな……」
それからまた何か一言二言と言葉を交わすと、男は踵を返した。どうやら彼らは何か違法な品を密輸しようとしており、大男がそれを見て見ぬふりをするということのようだった。天晶堂がどうとか聞こえたが、タバサには意味の分からない言葉だった。
去り際、男はちらりと後ろを振り返った。
「なあ、姐さんはどうしてる」
「息災だ。気になるのであれば顔を出したらどうだ」
「……ふん」
今度こそその場を離れると、男は仲間たちとともに荷物を運び出していき、倉庫街にはまた静けさが戻る。
逃げ出すべきだろうか。タバサは逡巡する。
あの大男が何をするつもりなのかとつい足を止めて様子を伺っていたが、今なら拘束もされていないし逃げることは出来る。
しかしこの土地勘の利かない場所で杖も武器もなく、また面倒なところに迷い込むかもしれないという懸念がタバサの足を鈍らせた。
結局タバサが逃げ出すよりも、大男が声をかけてくるほうが早かった。
「出て来い」
聞こえてきた低い声は決して大きくはなく、しかしタバサの腹の底まで震わせる。
タバサはまた幾分迷ってから、意を決して男のほうへと足を踏み出した。
「…………」
どんな脅しにも屈指はしない。まるでそんな意志を篭めたかのような鋭いまなざしで大男を睨みつける。
「…………」
互いに、無言で。
しかし大男の視線は、ただタバサの姿を確かめるような、事務的で酷くそっけないものだった。野獣のような姿と静かな目線がにわかには結び付けがたく、珍しくタバサは見つめられているだけにも関わらず少しばかりうろたえてしまった。
どちらも退かず歩み寄らず、にらみ合いか、あるいは見詰め合うだけの時間が静かに流れる。
どこか遠くで大きな歯車の回るような音がする。人々の声が、そして水音。
先に口を開いたのは大男だった。
「小柄で眼鏡をかけた、青い髪のヒュームの娘……お前のことか」
「ッ!?」
「身構えるな。危害は加えない」
そうと言われてはいと頷けるはずもない。タバサはこれまで何度となく探され追われ、そして理不尽としか言えぬ扱いを受けてきた。次第に痛みにも悲しみにも心が凍てつくほどに。
まして相手は亜人の大男だ。そんな人物が、見も知らぬ土地に迷い込んだ自分を探している、しかもここにはエルフまで生息している。
「…………何故?」
「知らん。探せと言われただけだ」
「誰に」
「私よ」
第3の声は、背後から聞こえてきた。
「……ッ!?」
いつの間に。
咄嗟に振り返ったタバサの後ろに立っていたのは、つい先ほど彼女を後ろから押さえ込もうとしていた人間の女だった。
油断した……!
この女が気配を絶つ術に長けていることは知っていたのに、目の前の大男に気を取られ後ろを警戒していなかった。
まさかしつこく自分を追ってきており、この大男の仲間だったとは露ほどにも考えなかった。
じりと足を擦らせ、身構える。はっきり言って、無手でこの状況を切り抜けられるとは思っていなかった。同時に、ただで好きにされるつもりも無かった。
「よしよし、ちゃんと捕まえてくれたわね、レオン」
「良いものか、事情を説明しろ」
「するわよ、先にその子の事情を聞いた後でね」
そんなタバサの内心を知ってか知らずか、2人はタバサの頭越しにのんきな会話を始めている。
獲物を前にして余裕の態度?
だが自分を挟む2人からは、こちらに対する害意は……少なくとも表面上は感じない。
女のほうが、タバサに顔を向けた。
両手を腰にあて、やれやれといった表情。なぜかそれが妙に似合っている。
「そんなに怖がらなくていいわ。別に貴女を取って食おうってわけじゃない」
「…………」
「信用できないって顔ね」
できるはずがなかった。
今まで、信じられるものなど何一つとしてなかった。ただ1人の親友と、母親以外は。
「貴女、さっきの大立ち回り、やりたくてやったわけじゃないでしょう? ちょっと見ていたけど、貴女はひどく何かに怯えていた。違う?」
違う……ことはない。
確かにタバサは怯えていた。見知らぬ土地、見知らぬ人々、そしてエルフに。ここ何年も感じなかった気持ちだ。
「私は何があったのか聞きたいだけ。で、もしよければ助けてあげたい。私たちはね、冒険者なの。頼りになるわよ?」
また、聞きなれない単語が出てきた。
そしてその言葉の意味が分からないタバサには、なぜこの女が、見知らぬ自分を助けたいなどと言っているのかも理解できなかった。
理解できない以上、警戒を解くわけにはいかない。
そんなタバサの様子に何を思ったのか、女は突然その場に腰を下ろした。
なんのつもりか。
訝るタバサを尻目に、女はレオンと呼ばれた大男に目線で合図を送る。大男は、何か諦めたような表情で、やはりその場に腰を下ろした。
「立ち話もなんだものね、座って聞かせてもらうわ。あ、貴女はそのままでいいわよ、何も言いたくなければこのまま立ち去ってくれても構わない」
自分たちは危害を加えるつもりはない、その意思表示のつもりだろうか。飄々とした様子で女は言った。
ひとまず構えを解く。
だが彼女たちを信用できたわけではない。この得体の知れない場所で、得体の知れない人間に助けを求めてもいいものか、判断がつかない。
この場を離れよう。
そう思い、きびすを返そうとしたタバサに、女が声をかけてきた。
「いいのね? 貴女は今、助けを必要としてるわけじゃない、それか他に頼れる相手がいる。そう判断して平気なのね?」
足が止まる。
助けは……必要だ。そして頼れる相手もいない。
脳裏に親友と、この事態の原因になった相手の顔が思い浮かぶが、その2人もいまや行方知れずだ。
この異郷で、自分はただ1人。
魔法を使うことすら出来ずに放り出されている。
「助けを求めるのは、恥ではない」
タバサの様子に何を思ったのか、大男が静かな声で言った。
ゆっくり、振り返った。
この2人が信用できたわけではない。だが、今自分が置かれている状況を正しく認識することも必要だ。
まずは、情報が。
「……なら、教えて。ここは、一体どこ?」
「よしよし、お姉さん素直な子は好きよ。でもそれに答える前に、まずは名乗らせて。私はユーディット、こっちのでかいのはレオンよ」
「レオンハート、だ」
意気込んで質問したというのに返ってきた返事がこれで、タバサはすっかり肩透かしを食らった形だ。
ユーディットと名乗った女、そしてレオンハートと名乗った男の視線がこちらに集まる。
どうやら答えなければ先に進まなさそうだ。
諦めて、タバサは名乗った。
本名ではないその名を。
「タバサ」
「それがあなたの名前ね? よろしく、タバサ」
「…………」
「ああ、そうね、ここがどこかだったわね。どう答えればいいかしら、ここは港区の倉庫街。もっと広く言えば、バストゥークの街の中よ」
それはタバサの望んでいた答えではなかったが、心のどこかで予想していた答えだった。
まったく聞いたことのない土地の名前。だが一縷の望みをかけ、重ねてたずねた。
「ここはどこの国になる? トリステイン、ゲルマニア、ロマリア……?」
ガリアは、候補から外した。ガリアの国内にバストゥークという場所も、エルフや亜人が共存している場所もない。
ユーディットはタバサの言葉に怪訝そうな顔をした。
今のいずれの国も知らないという、そういう顔だ。
「ここはバストゥーク国の首府よ? 待って、逆に聞いてもいいかしら、貴女いったいどこからどうやってここに来たの?」
自分と彼女たちの間で、大きく何かがずれていることをタバサは確信した。
バストゥークなどという国は、タバサの知る限りハルケギニアの西方一帯にはどこにも存在していない。
それはつまり、大陸の東方か……あるいはもっと遠いどこかに、自分は転移してしまったということになる。
絶望が、腹の底に重く圧し掛かった。
タバサたちハルケギニアのメイジには、遠方に瞬間移動する術はない。
使い魔召喚の儀式は、限られた条件下で執行される特別な魔法なのだ。しかもそれで人間が転移するなど、前代未聞である。
互いの存在を知らない土地で、どうやって元居た場所に帰るのか。自分が呼び出した風竜がここに来れるという保証も、これでなくなった。
「わたし……私、は……」
わずかに、目の前が揺らいだような感覚に襲われ、気づくとタバサはユーディットの腕に抱えられていた。
どうやら立ちくらみを起こし、倒れそうになったところを抱きとめられたらしい。
「ちょっと、大丈夫?」
「……私、は……トリステインから、魔法の事故で……」
「うん、あとでゆっくり聞くからね。貴女いま疲れてるのよ、少し落ち着ける場所に移動しましょう」
疲れている……確かにそうかもしれない。
だってそう、見上げた星空に浮かぶ月が、ひとつしかないだなんて。
先ほど感じた違和感の正体を知るに至り、タバサは、ゆっくりと目を閉じた。
次に目が覚めたとき、タバサはユーディットの部屋のベッドに寝かされていた。
レオンハートの姿はない。
暖炉の前で湯を沸かしていたユーディットは、タバサが起きたことに気づくと、ベッドのそばにやってきた。
その後ろでは、羽根の生えた白い小動物が忙しなく飛び回っていたが、あまり気にしないことにした。
タバサは気づくと、差し出された紅茶を飲みながら、しゃべれるだけの自分のことをしゃべっていた。
自分はトリステインという国にある魔法学院から召喚魔法の失敗でやってきてしまったこと、その国はハルケギニアと呼ばれる地に存在すること。
そして一緒に飛ばされた友人がいるはずだが、どこにいるか皆目見当もつかないこと。
ひとしきりタバサの話を聞いたあと、ユーディットはなぜか自信たっぷりに自分の胸をひとつ叩いた。
「任せてタバサ。さっきも言ったけれど、私たちは冒険者よ。あなたのお友達も、あなたが自分のいた国に帰る術も、必ず見つけてあげるわ」
それがなんなのか、何かの身分らしいが、やはりその意味は分からない。
だがなぜかこのとき、タバサには彼女たちを頼ってもいいのではないか、そんな気持ちが芽生え始めていた。
冒険者、その言葉の響きが、タバサにはどうしてか頼もしく聞こえたのだ。
タバサが、自分がどれほど幸運な出会いに恵まれたのか、それを理解するのは、もう少し時間が経ってからのことである。