電子掲示板サイト3ちゃんねる 戦国時代版より
231:ななしの戦国武将 2010/2/3(水)11:11:51 ********
織田信雄「助けにきてくれるかな?」
徳川家康「いいとも!」
こんなのりじゃね?
232:ななしの官兵衛 2010/2/3(水)11:12:12 ********
黒田「どうしてこんなことになってしまったんだ」
233:森乱丸きゅん親衛隊 2010/2/3(水)11:13:01 ********
>231
三介様「たすけて!たぬえもーん」
家康様「もうしょうがないなーのぶかつくんは」(大山ボイス)
>232
どう考えても貴方のせいです
235:三河武士だけどもう限界かもしれない 2010/2/3(水)11:17:58 ********
>231、>233
徳川文庫の往復書簡とか見ても実際そんな感じだからなw
三介様、ありゃ間違いなく土下座してるぞ
>232
如水翁ってさ、有岡とか播州攻略とか「こんなはずじゃなかった」っていうの多いよな
240:ななしの落武者 2010/2/3(水)11:18:02 ********
>232
森長可「なんでだろうな」
245:ななしの薩摩隼人 2010/2/3(水)11:18:10 ********
>231
三介様なら言いかねないから困るwww
だってあの人「萌」の概念知ってたとしか思えないし。
まじめな話、三介様の次は自分という意識は家康も持ってたはずだから断る理由がない。
>235
やっぱり「軍師」のイメージが強すぎるから失敗が目立つんじゃないか?
挑戦しなければ失敗もない。
この失敗で秀吉の信任を決定的に失ったわけでもないし。
>240
お前というやつはwww
256:おれの息子がこんなにヤンデレなわけがない 2010/2/3(水)11:20:10 ********
>245
三歳様なら?
270:ななしの戦国武将 2010/2/3(水)11:21:19 ********
>256
とりあえず妻を監視させて部屋に爆薬を仕掛ける
271:ななしのザビエルヘアー 2010/2/3(水)11:22:09 ********
>256
とりあえず植木職人を斬る
275:おれこの合戦で手柄を立てたら結婚するんだぎゃー 2010/2/3(水)11:24:29 ********
>271
おい関係ねえだろwww
276:第32次内ケ島埋蔵金捜索隊 2010/2/3(水)11:25:29 ********
>271
植木職人かわいそすぎるw
277:茶々は俺の嫁 2010/2/3(水)11:25:32 ********
>270
それいつものことじゃね?
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いそしめ!信雄くん!(信雄は家康に泣きついた)
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- 尾張清洲にて -
やあやあ佐久間盛政君!久しぶりだね。元気にしていたかい?
うん?すこし痩せたんじゃないか?
しっかり食べてるか?
それはともかく、まあね。
わかるだろ?うん?
わかんないかーそうかー
じゃあ言ってあげようか?
君のおかげで、晴れて僕も天下の謀反人の仲間入りだよ!
あっはっはっは!
……とりあえず一発殴らせろやぁ
*
2月14日 ・森長可による犬山城攻撃失敗
15日 ・池田勝入斎、美濃諸侯に動員を発令
稲葉一族「羽柴様の命にのみ従う」とこれを拒否
氏家、佐藤ら西美濃諸侯もこれに同調
*
同日 美濃曽根城にて ある親子の会話
「だ~れがお前の言うことなんか聞くかバーカ♪あーっひゃっひゃっひゃ!」
「父上……」
「池田の阿呆にな、味噌汁で顔を洗って出直してこいと伝えろ」
「そんなこと言えるわけないでしょうが!」
「あっひゃっひゃっひゃ!愉快じゃ!愉快じゃ!」
*
2月17日 ・徳川家康、三河・遠江・駿河3国に動員を発令。
2月18日 ・徳川家の使者である酒井忠重が尾張清洲を訪問。
中川重政、滝川三郎兵衛と会談する。
・この頃、織田信雄の使者が旧織田諸侯を訪問し仲介交渉を求めるも拒否される。
2月20日 ・丹羽長秀『局外中立』を宣言。
・金森法印、飛騨遠征を中止。
2月21日 ・織田信雄、伊勢長島にて「秀吉打倒」を宣言。
・志摩の九鬼水軍、織田信雄から離反。
南伊勢沿岸を襲撃(-3月上旬まで)
・伊勢亀山の関入道、反信雄を掲げ決起。
旧信孝派らの合流を呼びかけ、東海道を閉鎖。
2月23日 ・織田信雄が酒井重忠と会談。徳川家への同盟を打診
2月24日 ・信雄、尾張清州へ入城。
将兵を始め城下の有力商人や寺社関係者を大手門前に集め演説する。
世に言う『清州演説』
*
- 清州大手門前 織田信雄の演説 -
諸君!よくぞこの苦しい時に集まってくれた!この三介信雄、感謝に堪えない!
思い出してほしい!24年前、すべてはここから始まった。
当時織田家は今川の侵攻により存亡の危機にあった。
その時、わが父である織田上総介信長はどうしたか。
戦ったのだ!
勘違いをしてもらっては困る!
戦ったから偉大なのではない。
わが父は、そして諸君の祖父であり父でありまたは君たち自身は戦い、そして勝利したのだ!
この勝利がすべての始まりであった。
織田信長の天下布武はまさに清州から始まったのだ。
そして私は帰ってきた!
諸君に問おう!
天下布武とは何だ?
応仁よりはや100年以上、戦のない日は絶えてなかった。
目の前の合戦にあけくれ、誰もが今日のこと、今を生きることしか考えられなかったはずだ。
そう、ちょうど今の我々のように。
私は思うのだ。
天下布武とは、明日のことを考えながら今日を生きることではないかと。
天下布武とは織田家の覇道を正当化する題目ではない。
まして力強きものが弱きものを押しのけ、全てを押し通すことが許されることでもない。
天下を武をもって布する。
それは確かに強者にしかできないことであろう。
しかしそれでも私は諸君に問いたい!
諸君は私よりもよく知っているはずだ!
織田信長の生きてきた49年の生涯を、そしてその死を!
諸君は織田信長から何を感じた?
希望に打ち震え、恐怖におののき、一瞬の安心の後には不安に陥り、どうしようもなく憎しみ、世の理不尽に怒り、ただひたすら笑い、そして絶望しながら
それでも明日を信じることができたはずだ!
私はあえて言おう!
天下布武とは、明日を考えることだ!そして明日に向かって今日を懸命に生きることだと!
下を向くな!上をみろ!
ここだ!今ここに、諸君の前にいるこの私を見るんだ!
どうだ、世間知らずの若造がふんぞり返って諸君を見下ろしている。
それでよいのか!
諸君は私以上に知っているはずだ!織田信長を!
織田信長の天下布武とはいったい何であったのかを!
その答えは諸君一人一人違うものかもしれない。
諸君ら一人一人が顔も性格も違うように、答えが違ってもよい。
その選択はすべて諸君自身がすべきものなのだ。
そして私の選択を、今ここに諸君らの前で宣言しよう!
再び父信長の理想を成就するために、そして三介信雄の天下布武成就のために
清州よ!私は帰ってきた!
*
同日 ・伊賀で国人一揆発生。津川義冬が鎮圧
・森長可、再度犬山攻めを行うも、織田信張がこれを撃退
・北畠具親、北伊勢攻略を目指す蒲生氏からの協力要請を拒否
2月26日 ・羽柴秀吉の使者である浅野長政、後瀬山城を訪問
越前敦賀城主蜂屋頼隆らと丹羽長秀を説くも、長秀はこれを拒否
・木造長正(織田信雄派)による亀山城攻め(-28日)
蒲生賦秀の後詰と合戦(市ケ丘の戦い)に及ぶも痛み分け
2月28日 ・羽柴秀長、後瀬山を訪問するも門前払いをうける
3月 1日 ・徳川家康、浜松城出陣
・羽柴秀吉、安土城にて旧織田諸侯を前に信雄追討を正式に宣言
・羽柴秀長が後瀬山を再度訪問するも(以下略)
*
- 3月4日 三河刈谷城 -
清州同盟とは対等な軍事同盟などではない。
永禄4年(1561)の時点ですら、尾張一国の大部分を支配していた織田家と、三河岡崎を中心とした西三河の領主である松平家(徳川)という厳然たる格差があった。
その後も徳川家は織田家の合戦に家臣の如く使役され、信康事件においては内政干渉も受け入れざるを得なかった。
これのどこが対等といえるのか?
しかしそれでも徳川が織田との同盟のもとで飛躍したのもまた事実なのだ。
織田家の圧倒的な軍事力を背景に、徳川家はそれまでの松平一族や国人領主の乱立する中世的な統治体系を一変させた。
三河一向一揆により反対勢力を粛清できたのも織田家の支持あってのこと。
対外遠征軍は確かに重い負担ではあったが、その編成過程において国人領主を組み入れることにつながった。
この点は同じ信長の同盟者であった浅井氏とは対照的である。
そして武田家との合戦や信康事件という危機を経て、当主である徳川家康は独裁的な権力体制を確立。
本能寺の変により分裂した織田政権を尻目に甲州と信濃を獲得し、関東北条氏と同盟を組むなど、その国力はかつてとは比べ物にならない。
このやっかいな元同盟相手を出迎えるため、織田信雄は三河刈谷城に赴いていた。
「やあやあ家康殿!ご無沙汰いたしておりました!ささ!どうぞ上座へ!
いやいやなにをおっしゃいますやら!父上の同盟者を前にどうして私がそこへ座れましょう!
ささ!どうぞどうぞ!どうぞどうぞ!」
(わしの息子もアレだが、信雄様も大概だのう)
接待役を命じられている水野忠重は、兄信元のつくりあげた清須同盟が変質した歴史的瞬間に立ち会っていながら
あまりにも卑屈な主君の態度にばかり注意をとられていた。
*
- 同日 岐阜大垣城 -
「親父殿は本当になあ」
大垣城に用意された一室で、池尻城主の池田照政(輝政)はひたすら頭を抱えていた。
自らの父親の無神経さは今に始まったことではないが、義兄の犬山攻めだけは庇い様がない。
それも一度ではなく、二度、その上負けているのだ。
これ以上の恥さらしはない。
さすがに見かねた池田勝入斎の再三の呼び出しにようやく応じて出頭したのはいいものの
3度目をやる気満々だというのだから手に負えない。
応対をした老臣の伊木忠次によると、どうやら本人は援軍要請のつもりで来たらしい。
「しかしいくらなんでも殿も」
「わからんぞ清兵衛(忠次)。親父殿も相当頭にきてるからな」
何をするかわからないから困るのだ。
稲葉の爺さんはあんな人だから予想は出来たが、氏家や佐藤までそっぽを向かれるとは想像すらしていなかった。
考えてみれば信長様の美濃攻め以来、美濃衆は織田宗家の直轄兵力として各地を転戦し、ほとんど転封もなく所領を安堵されている。
信長、信忠、そして信孝と織田一族を国主と仰ぎ、織田家としての誇りは金崋山よりも高い。
それなのに親父殿は美濃国人衆の扱いを、摂津のそれと同じようにしようとした。
それがそもそもの間違いなのに、親父殿は決してそれを認めようとしない。
自分の親の悪口を言うようだが、照政は我が親父殿の器量では美濃は大きすぎたとしか思えない。
それを認めることができず、ひたすら同じやり方で通そうとするから余計に反発を受け、それが意地になりという悪循環。
おまけに有力な与党といえば娘婿である兼山の森一族しかいないのだから悲劇的である。
喜劇といっていいかもしれない。
「親父殿も気の毒なことだなぁ」
「何を他人事のように!お父上のことですぞ」
忠次が諫めるが、照政はまるで気にした様子もなく言う。
「どうせ人は一人で生まれて一人で死んでいくものさ」
「また若はそのような屁理屈を…」
*
森長可は興奮していた。
もしも女であるなら間違いなく濡れていただろう。
自分の生涯でこれほどまでに精神が高揚したことがあったであろうか?
鼓動は早くなり、汗が止まらず、寝ても覚めてもそのことばかり。
「この気持ち!まさしく愛だ!」
「いや、だからお前が何を言っているのかさっぱり理解できないのだが」
珍しく常識的なことを言った池田勝入斎であったが、相手が悪すぎた。
「だから兵がほしい!もう一度、織田信張と戦わせてほしいのだ!」
「この阿呆が」という言葉を勝入斎は何とかのみこんだ。
このような阿呆でも自分にとっては美濃国内における大切な与力であると思い直したからである。
しかしこの阿呆のおかげで自分の株は下がりっぱなしなのだが。
稲葉の因業爺といい氏家の頑固爺といい、どいつもこいつも勝手なことばかり……
織田の頃はどうだの、昔はこうだったのと屁理屈ばかり述べおって。
今の美濃国主はこの池田勝入なのだ。
ほかならぬ秀吉自身がそう命じたのにもかかわらず、稲葉にしろ氏家にしろ自分を差し置いて秀吉の顔色ばかりを伺っている。
まったくどいつもこいつも、わしが美濃国主では不満だというのか。
よかろう、ならば実力でそれを認めさせよう。
そのためにはこの目の前の阿呆をなんとしても飼いならさなければならない。
勝入斎は自分自身に言い聞かせるように何度もそう思いながら、長可を辛抱強く説得しようとしていた。
「汚名を返上したいのはわかるがな、今は秀吉殿を待つべきだ。これ以上の勝手な行動は」
「そのようなことではない!」
鎧をガチャガチャさせながら、長可は勝入斎の前の床を叩いた。
「汚名などどうでもよいのだ!むしろこの敗戦こそ俺の誇り!」
「……お前とうとう頭がおかしくなったのか?」
「違う!」
長可はもどかしかった。
ああ、なぜ義父殿はこの気持ちをわかってくれないのか!
長可は十数年における戦場経験においてこれまで『死』というものを経験したことがなかった。
それらはすべて自分を過ぎ去るものであり、あくまで自分が相手に与えるものであった。
自分が父のように戦場で死ぬなど思いもしなかったのだ。
それがどうだ!
あの死にかけの老人はこの俺に二度も死の恐怖を味あわせてくれたのだ!
これほど嬉しいことがあるか!
これほど楽しいことがあるか!
なんと喜ばしいことなのか!
俺は生きている!
ああ、なんと素晴らしいのだ!
もう一度あの歓喜を!
もう一度あの生の感覚を!
そして今度こそあの老人の首を!
あの老人を畳の上で死なせてたまるものか!
あれを殺すのはこの俺だ!俺以外の誰にも許さん!
「だから兵を貸してくれ」
「だからお前は何を言っているんだ!」
*
尾張にしても伊勢にしても、織田家にとっては慣れ親しんだ領地である。
いわばホームグラウンド、そして相手はかつての同僚。
お互いに手の内は知り尽くしている。
つまり条件だけを考えるなら賎ヶ岳の合戦と似ているといってよい。
織田信雄家には(先の演説の効果もあってか)将兵の士気や、領土における防衛戦というアドバンテージは確かに存在する。
一部離反した諸侯を除けば「あれだけ信雄様が協力していた」のにも関わらず、今回の秀吉の仕打ちに誰もが激高していた。
もっともこれは信雄への忠誠というよりも、親羽柴派の言動を繰り返していた信雄への家中の欝憤や反動という面が強かったのだが。
そして一般的に守るよりも攻める方が主導権を持つものであるが、その主導権を攻め手が「予期せぬ奇襲」で手放している。
「しかし勝てません」
あれだけの演説をしておきながら平然とそう言い切る信雄に同席していた徳川家臣は不信感を通り越して不機嫌となるが
ただ一人だけ「ほう」と呟いた家康だけが興味深そうな視線を向けた。
筋肉質の相撲取りのような体型である家康は、何度も面会している秀吉とはまるで異なるものを漂わせている。
誠実そうな雰囲気というものは秀吉には逆立ちしても醸し出せないものだ。
同じ苦労人とはいえ地下人からのたたき上げである秀吉と、三河松平の嫡男である家康とではおのずと苦労の質が異なる。
なるほど、仰々しいまでに福々しい耳やぎょろりとした目でさえ、不思議と愛嬌があるとはいえなくもない。
とはいえ松平の歴代当主に見られた、キレると何をするかわからない怖さもある。
(役者としては二枚どころか十枚以上も上手だしなあ)
元々こちらとしても騙すつもりはない。正直に腹を打ち明けて協力を求めると考えれば気が楽だ。
断られたらどうするのかという不安がないわけではなかったが
それでも信雄は事前交渉や書簡のやり取りで家康が断らないだろうという予感があった。
「勝てぬ戦にお付き合いしてほしいと、そうおっしゃるわけですな」
「有体にいえばそう言うことです」
困った時の癖なのか、人差し指で何度もぽりぽりと頬を掻く家康。
主君に代わり石川数正が問うた。
「何故勝てぬとおっしゃられるので」
「数が足りません」
それ以外の条件がほとんど同じであるなら、最終的には数の多い方が勝つのが道理である。
たとえ地理的な制約や将兵の士気に差があろうともだ。
「しかしご安心ください」
信雄はそう言うやいなや、拳で胸を大きく叩く。
大きな身振り手振りに、はっきりと断定した物言い。
まるで詐欺師である。
「私に秘策があります」
「・・・それで勝てるのですか?」
「勝てません、ですがこれで負けません」
そして訝しげな視線を向ける徳川家中を前に「ま、お任せ下さい」と自信満々に胸を叩いた信雄は
げふぉがほはっほほ!
咽せた。
*
- 3月8日 尾張清州城(徳川軍本営) -
「数正よ」
「はい」
「……帰りたいな」
「駄目です」
「駄目か」
「駄目です」
*
- 3月9日 美濃岐阜城(羽柴軍本営) -
「官兵衛よ」
「はい」
「帰りたいな」
「私もです」
「駄目に決まっているでしょうが!」と浅野長政の怒声が響いた。
こうして「日本史に残る無気力試合」と揶揄されることになる犬山・小牧山合戦が幕を開ける。