<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

チラシの裏SS投稿掲示板


[広告]


No.24299の一覧
[0] いそしめ!信雄くん![ペーパーマウンテン](2013/10/05 23:53)
[1] プロローグ[ペーパーマウンテン](2013/09/22 08:54)
[2] 第1話「信意は走った」[ペーパーマウンテン](2013/09/22 08:54)
[3] 第2話「信意は言い訳をした」[ペーパーマウンテン](2013/09/22 08:55)
[4] 第3話「信意は織田姓を遠慮した」[ペーパーマウンテン](2013/09/26 21:03)
[5] 第4話「信意はピンチになった」[ペーパーマウンテン](2013/09/22 08:56)
[6] 第5話「信意は締め上げられた」[ペーパーマウンテン](2013/09/22 08:56)
[7] 第6話「信意は準備を命じた」[ペーパーマウンテン](2013/09/26 21:07)
[8] 第7話「信意は金欠になった」[ペーパーマウンテン](2013/09/22 08:57)
[9] 第8話「信意はそらとぼけた」[ペーパーマウンテン](2013/09/22 08:57)
[10] 第9話「信意は信孝と対面した」[ペーパーマウンテン](2013/10/05 23:52)
[11] 第10話「信意は織田信雄に改名した」[ペーパーマウンテン](2013/09/26 21:13)
[12] 第11話「信雄は検地を命じた」[ペーパーマウンテン](2013/09/22 08:58)
[13] 第12話「信雄はお引越しをした」[ペーパーマウンテン](2013/09/22 08:59)
[14] 第13話「信雄は耳掃除をしてもらった」[ペーパーマウンテン](2013/09/22 08:59)
[15] 第14話「信雄は子供が産まれた」[ペーパーマウンテン](2013/09/22 09:14)
[16] 第15話「信雄は子守りをした」[ペーパーマウンテン](2013/10/05 23:53)
[17] 第16話「信雄は呆気にとられた」[ペーパーマウンテン](2013/09/27 19:30)
[18] 第17話「信雄は腹をくくった」[ペーパーマウンテン](2013/10/10 19:40)
[19] 第18話「信雄は家康に泣きついた」[ペーパーマウンテン](2013/10/10 21:52)
[20] 第19話「信雄は方向音痴だった」[ペーパーマウンテン](2013/10/18 23:34)
[21] 没ネタ[ペーパーマウンテン](2010/12/04 14:15)
[22] 没ネタ・その2[ペーパーマウンテン](2011/03/27 16:09)
[23] 没ネタ・その3[ペーパーマウンテン](2013/04/14 12:48)
感想掲示板 全件表示 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[24299] プロローグ
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:151a2b73 前を表示する / 次を表示する
Date: 2013/09/22 08:54
天正10年(ユリウス暦1582年)6月2日。日本の首都で軍事クーデターが発生した。
毛利遠征加勢のため、丹波亀山城を発した老将明智(惟任)日向守光秀率いる1万3千の軍勢は突如として進路を変更。桂川を越え京へと向かった。
世に名高き『本能寺の変』である。
水色桔梗の旗指物に前の右大臣織田信長が「是非もなし」と呟いたかどうかはわからない。
紅蓮の業火に包まれた本能寺から、その遺骸は見つからなかったという。
妙覚寺に宿泊していた岐阜中将こと嫡子織田信忠も、京都所司代村井長門守貞勝一族や弟勝長らわずかな手勢とともに二条御所に篭ったが、すぐに父の後を追う。
水色桔梗から逃れることが出来たのは、織田源五長益(信長弟)や水野惣兵衛忠重(三河刈谷城主)、そして赤子を抱いた前田玄以らわずかな人々だけであった。

近畿管領職とでもいうべき地位にあった老人の真意は定かではないが、このクーデターにより織田政権は事実上崩壊した。
この時すでに織田家の家督は岐阜城主織田信忠が相続しており、実権は未だ父の手にあるとはいえ、この青年宰相こそが正統な後継者であった。
チェザーレ・ボルジアが「私が生死の境をさまよっているとき、まさか父(教皇アレクサンデル6世)も同じように死の床にあるのは予想外だった」と語ったように、政権のツートップが共に冥府へと旅立った。
いや、政権中枢の官僚集団や秘書官も同行しているのだから、ボルジア親子のそれよりも政権への衝撃はより大きかったといえるだろう。

ここで天下の謀反人となった老人の立場を考えてみる。
織田帝国の中枢部をつぶすことには成功した。
残されたのは4つの方面軍と帝国の同盟者、そして京を抑えた謀反人である自分。
織田家を簒奪する立場である光秀としては、否が応でもその5大勢力との戦いは避けられない。

4つの方面軍とはすなわち

・備中高松城において毛利一族とにらみ合う羽柴筑前守秀吉(中国地方、山陽・山陰地方担当)
・越中魚津城を囲み、信濃海津城主の森武蔵守長可と共に越後に攻め入らんとする柴田修理亮勝家(北陸地方担当)
・関東管領として上野厩橋城で北条家と緊張関係にあった滝川左近将監一益(関東)
・織田三七信孝を総大将とし、丹羽長秀(近江佐和山城主)が副将として「鳥なき里の蝙蝠」を討伐するために堺で集結中であった四国遠征軍

そして同盟国の主であり、堺でわずかの家臣と共に遊覧中であった三河・遠江・駿河3国の太守徳川家康である。
この太守に対して明智光秀がいかなる対応を取ったのかはよくわかっていない。
突発的なことでこの一行への対応まで頭が回らなかったのか、手勢が少数であるためいつでも討ち取れると考えたのか。
ともかく家康一行は伊賀にルーツを持つ家臣服部半蔵正成の道案内と、懇意にしていた豪商茶屋四郎次郎清延の尽力により
甲賀から伊賀の険しい山道を越え(神君伊賀越え)三河岡崎へと帰還することに成功した。

話を戻そう。普通に考えれば謀叛人である老人-明智光秀にはしばらくの時間的猶予が存在するはずであった。
四国討伐軍を除く3つの方面軍は、前面の敵との戦いに専念せざるを得ない状況である。

もっとも京に近い位置にある四国方面軍は尾張や伊勢の兵が中心であり、畿内に基盤を持たない遠征軍はおのずと離散する。
-信長という絶対的なカリスマあっての織田家であることを、その中枢部にいた光秀は知りぬいていた。
そして比較的まとまった軍勢と領地を持つ羽柴や柴田が上洛しようとしても、本土近くにまで攻め込まれた上杉や毛利が見過ごすはずがない。
光秀は四国の長宗我部は無論のこと、上杉や毛利、はては関東北条氏にまで使者を出して織田家方面軍を挟撃することを提案した。
このうち毛利家に出した使者が羽柴の手勢に捕らえられ、秀吉が「光秀謀反」を知ったのは巷間よく知られたところであるが、当然ながら神ならぬ老人がそれを知るはずもない。

しかし老人は心中穏やかではなかったはずである。
いくら強弁したところで謀反人は謀反人。
旧織田家家臣団のいずれかが「仇討ち」を掲げて京へと上ってくるだろう。
大義名分なき権力者は、いずれ没落するのは歴史が証明している。

ならばどうすればよいのか?

未だ異様な興奮冷めやらぬ京の地にあり、かつての敵国たる上杉家や毛利家
そして旧織田家-縁戚の細川家や筒井家への書状をしたため続ける老人にとって、それは当然ともいえる選択であった。

-安土-

琵琶湖を見下ろす安土山に築かれたかつての独裁者の居城。
織田帝国の行政の中心であったそこには、広大な帝国領内から集められた莫大な資産-今となっては遺産である-が蓄えられている。

-安土の金で当座はしのぐことができるだろう

禁裏や寺社、京の有力な町衆に金子を巻くことにより当座の、地理的に最も早く敵対することになるであろう
四国討伐軍を打ち破るまでの世論の支持を集めようという考えは、光秀ならずともごく自然な発想であったといえる。
そして安土にまともな留守居役がいないことも、老人の皮算用を容易にした。
その占領は道に落ちた金を拾うようなもの。ばら撒いたところで自分の懐が痛むわけではない。
出し惜しんで戦に負けては元も子もない。

「要は勝てばいいのだ」

老いたりとはいえ、金柑頭の-物事に対する怜悧な考え方は健在であった。

しかし6月5日の未明、明智左馬助率いる安土接収部隊は、その地で信じられないものを目にすることになる。
左馬助の急使から知らせを受けた光秀は、普段の怜悧な物腰からは想像できないほど取り乱し、何度も使者に尋ね返したという。

「……ば、馬鹿な、そんなわけがあろうはずが、左馬助ともあろうものが!な、何かの間違いにちがいない」

蒼白になった顔を両手で抑える光秀に、使者は同じ報告を繰り返した。


「安土には北畠宰相以下4000余りの軍勢が立て籠っております。日向守様、ご指示を」


- 6月2日 伊勢松ヶ島城 -

松ヶ島城は天正8年(1580)に築かれたばかりの比較的新しい城である。
それまでの伊勢における織田家の支配拠点であった田丸城が失火により消失。
伊勢湾に面した伊勢神宮の参道古道にも通じる交通の要所である松ヶ島に新たに城を築いたのが今より2年前のことである。

そんな新しい城内の本殿に通じる廊下を、初老の男性が二人の若者を引き連れて歩いていた。
柔和な表情ながら油断なく周囲に視線を配らせる老人に、城勤めの若侍らは自然と道を譲り、畏敬の念のこもった視線を向けた。

尾張星崎城主の岡田長戸守重善。

小豆坂の戦い(1554)における「小豆坂の7本槍」の最後の生き残りであり、先代信秀時代から仕える織田家の生き字引ともいえる存在である。
小豆坂の戦い当時、長門守はすでに38歳。
後に名を成すこととなる「賤ヶ岳の七本槍」が20代前半であることを考えると、その勇猛さはおのずと想像がつく。
『不詳の息子』の家老兼お目付け役としたことからも、主君信長からの評価がうかがい知れるというものである。

「いったい何事でしょうか、あの馬鹿殿は」
「兄上。仮にも御城内ですぞ。聊か言葉を慎まれたほうが」
「馬鹿を馬鹿といって何が悪い。実際あれはそうではないか」

不満げな表情をあらわにしながら長門守の後をゆくのは、その息子である重孝と善同(よしあつ)。
主君への不満と不平を公然と口にする兄重孝に対して、善同はそれを諫めるような言葉を口にしたが
同じくその表情からは主に対する忠誠を見出すことは難しい。
ともに筋骨隆々、如何にも戦場をかけるにふさわしい雰囲気を漂わせてる。
若さゆえか自らの能力と武勇を頼むところの多い彼らには、主家筋とはいえお世辞にも有能とは言いがたい主君に仕えるということ自体が気に入らないらしい。
その不遜な態度に眉をひそめた長門守が嗜めようとすると、ちょうど廊下の角を曲がってきた人物と視線が合った。

「これは長門守様」
「玄蕃允殿」

若いながら妙に落ち着いた雰囲気を漂わせる津川玄蕃允義冬は、長門守の姿を見ると軽いながらも丁寧な会釈を返した。
旧尾張守護家の斯波家出身である義冬は、その血筋ゆえ織田家に召抱えられたが、文武共に優れた器量の持ち主であり信長をいたく喜ばせた。
そして妻が北畠家出身ということもあり、頼りない義兄を支えるために岡田長門守と同じく家老として送り込まれた人物である。
岡田長門守と同じく主君信長からの高い評価がうかがえるが、それは同時にこの城の主の器量に対する不安の裏返しでもあった。

「火急の呼び出しについて、玄蕃允殿は何かご存知か」

残念ながらと、津川も困惑気味に答える。
岡田長門守家が織田家譜代の家臣とすれば、津川家は親族衆。
身内の悪口をその前で言うほど重孝と善同も馬鹿ではなく、その口を閉じた。

「四国遠征軍への追加派兵を命じられたのでしょうか。それとも伊賀で何か動きが?」
「まさか何の用事もなく、我らを呼び出されたわけではなかろうがの」
「おお、長門守様!玄蕃允様も!」

突如差し挟まれたそのやけに明るい声に、長門守は顔をしかめた。
重孝と善同は無論のこと、玄蕃允でさえ共通した感情をその顔に浮かべた。

嫌悪感である。

もっとも小走りで駆け寄ってくる小男は、それを知ってか知らずか仰々しいまでに明るい声色で応えたのだが。

「御本所様が広間でお待ちでございます。ささ、こちらへ」
「勘兵衛、貴様このわしに指示する気か」
「いえいえ、決してそのようなつもりは毛頭ございませぬ。御気を悪くなされたのなら謝りますゆえ」

立て板に水とばかりにすらすらと言葉を連ねるこの若者。名前を土方勘兵衛といい、主君の覚えめでたい近臣の一人である。
口八丁手八丁を絵にかいたような人物で、度胸と才知が言葉の端々にも感じられる若者は、最近城内において、その政治的な地位を高めつつある。
そのため彼を快く思わない人間は多く、長門守自身もこの若者の、言葉や態度とは裏腹のなんともいえない陰湿さが肌に合わなかった。
本人も自身のそれは自覚しているのか、このように仰々しいまでに明るく振舞うのだが、それがまた不評を被る原因にもつながっていた。

「ささ、とにかくこちらへ」
「勘兵衛。一体この急な呼び出しについて何か知っておるのか」
「いえ、それは……」

これもまた彼には珍しく困惑ともなんともつかぬ奇妙な色を浮かべながら、勘兵衛は語尾を濁した。

「御本所様におかれましては、今朝方しばらく…その……なんともうしますか……」

懐から布を取り出して額の汗をぬぐう勘兵衛。
件の広間のほうからは「津川!岡田!」と焦った声で自分たちの名前を呼ぶ主君の叫び声が聞こえてくる。
そういえば主君の癇癪に慣れているはずの勘兵衛の表情には、どことなく疲労の色が見える。
いったい何があったというのか?

「とにかくこちらへ、御本所様がお待ちしておりますゆえ」
「そのようだな」

そして主君に面会した4人は、おそらく初めて、このいけ好かない宮廷政治家に同情した。


- これよりおよそ半日前 -


「いつものように寝て起きたら、そこは戦国時代だった」

な、何を言っているのか わからねーと思うが 

おれも 何がなんだか さっぱりわからねえ

頭がどうにかなりそうだ!

催眠術だとか、手の込んだ寝起きドッキリだとか、そんなチャチなもんじゃあ 断じてねぇ

もっと恐ろしいものの片鱗を、人生の不条理を味わっているぜ……

朝起きたら時代劇の世界という状況、これで頭が混乱しないほうがおかしいだろう。
わめき散らしていると、騒ぎを聞きつけてやってきた妙に愛想のいい男を周囲を質問攻めにして状況を確認。
どうにかこうにか聞き出したところ、とりあえず「俺」はこの城の城主らしいということがわかった。
鏡を持ってこさせると、そこには瓜実顔の神経質そうな男の顔が。
うーん、どこかで見たことあるような………どこだ?いや、誰だ?

そんな疑問を棚上げして(問題の先送りは彼の十八番である)俺はさっそく殿様気分を満喫していた。
そんなことしている場合かお前はと言われそうだが、そんな常識的な心配を勢いよく放り投げる。
俺がひとたび出歩けばモーセのように人が割れ、小姓たちがカルガモの子供のように付いてくる。
神戸電子専門学校のCMみたいだ。
今時どんな高級クラブに言ってもこんな接待はしてもらえないぞ。

うーん、いいな殿様。

といっても、いつまでも殿様気分に浸りながら現実逃避していても仕方ない。
とりあえずは、今の「俺」がいったい何者なのかを確認しなくてはならない。
あの愛想のいいおっさんは妙に疲れた顔をしてそそくさと逃げて行ったから、とりあえずひょこひょこ付いてくる侍従の一人に尋ねてみた。
出来るだけ自然な感じで。さりげなく、それでいて城主の威厳を保ちながら。

「えー、ごふん。えー、今年は、せいれ……ではなく、元号は何だったかね?」

突然「今何年?」と聞かれて違和感を覚えないほうがむしろ変だろう。
小姓達は顔を見合わせて(何言ってんだこいつ)と目と口で会話している。
アイコンタクトの意味ねーじゃねえか。おい俺は殿様だぞ。せめて上司の陰口は陰でやれ影で。

「天正10年でございますが」

天正?えーと、確か、陰謀大好きな最後の室町将軍が追放されたのが、天正元年だから、1573だから

天正2年-1574
天正3年-1575
天正4年-1576
(中略)
天正9年-1581

だから、天正10年は1582年だよな。ふーん……

……あれ?

本能寺の変があった年?キンカン頭がぷっつんして本能寺で信長をいてこました日本史の大事件。

これはなかなかおもろい時代?
うまいこと立ち回れば大名も夢じゃない?
一国一城の主か、悪くないね。むしろいいね。
「殿、お止めください」「よいではないか、よいではないか」「あ~れ~」
うはは、夢が広がってきた!

知らず顔をだらしなく緩ませていた俺を、それはもう胡散臭そうに見つめる小姓達。
「馬鹿だと思っていたが、ここまでとは」「しッ聞こえるぞ!」というヒソヒソ話。
はい聞こえてますが、聞こえていないふり。部下の悪口でいちいち切れてたら、それこそ鼎の軽重が問われるからな。
別に怖いから言い返さないわけじゃないんだからね!

それにしても「俺」って評判よくないみたいだね(本人の前で堂々と馬鹿って言うくらいだし)
まぁ心底嫌われてるわけじゃないみたいだけど。
ほら、あれ。志村○んの馬鹿殿っぽい愛される馬鹿?

「で、今日は何月何日だ?」
「は、はぁ。6月2日で「なあああんだとおおおおおお!!!!!!」

小姓たちがひっくり返った。おお、見事な受身。褒めてつかわす…

……とか言ってる場合じゃねえ!

今日じゃん!今日じゃん!うおおお!!何たることだぁ!!
これで「信長にチクッて、褒めてもらおう作戦」は駄目になった!

ちくしょー!!

こうなりゃサル、ハゲネズミだっけ?まぁいいや。
ともかく「秀吉に味方して関が原で東軍に乗り換え大作戦」に変更だ!

ん?そうなると問題なのはここがどこかだな。

畿内だったらやべえよな。すぐに旗幟を鮮明にしたら水色桔梗の旗指物に囲まれてフルボッコだし。
もし畿内、それこそ河内・摂津・和泉…近江や若狭、それに大和もやばいな。
ここは大作家のご先祖に習って日和見するか。腹痛いとかいって。

そうして俺が高度にしてアグレッシブにしてフレキシブルな処世術ソロバンを弾いていると
先ほどの小姓達(だからさ、ひそひそ話はもっと小さい声でやれ)の会話の中に聞き捨てならない単語が聞こえてきた。

「御本所様はどうされたのだ?」
「まぁ三介殿だからのう」
「これでは名門北畠もお先真っ暗じゃ」

……ちょっとまて

「……あのさ、御本所さまって俺のこと?」
「…はい」

……………だからちょっと待て

「もしかしてここ伊勢の松ヶ島城?」
「……勿論です」

小姓達の表情が胡散臭いを通り越して不審人物を尋問するそれへと変化していたが、今はそれどころではない。
先ほどから俺の脳内では赤いサイレンがけたたましい音を響かせながら点滅を続けている。

「あのさ、まさか俺の親父って」
「先の右府さまですが………」

先の右府、つまり前の右大臣だよね。
この時代にそう呼ばれるのはただ一人なわけで。

第六天魔王-織田信長

その息子で、三介で、おまけに北畠姓。
そしてここは伊勢の松ヶ島城

よっし、おちつこう

しかし頭の中では、次々と嫌な単語が噴き出してきていた。

織田 北畠 伊賀侵攻 三家老惨殺 小牧長久手 単独講和 改易 能だけがとりえ

ゲームや小説なら無能の代名詞のように扱われる織田信長の息子 。

ばらばらのピースをかけ集めると一つの……これだけは、こいつだけは絶対嫌であるが、今の俺はこいつであるという結論にたどりついた。


「よりにもよって、信雄かあああああああああ!!!」

「ご、御本所様がご乱心じゃー!!!」


時に天正10年(1582)6月2日。
彼-「北畠信意」(きたばたけ・のぶおき)が、本能寺と二条御所襲撃は6月2日早朝であることに気がつくのには、もうしばらくの時間が必要であった。


いそしめ!信雄くん!


始まる…かもしれない。


「せめて信孝にしてくれえええええ!!!!!!!!」


前を表示する / 次を表示する
感想掲示板 全件表示 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
0.023882150650024